2022年6月28日火曜日

善と悪とは?

【質問】
善と悪は、いろんな立場や状況によって変わると思いますが、善行を積もうなどと言われたときにどのような善を行えばよいでしょう。また、善や悪とはなんでしようか。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

創造主曰く「正義=悪」だそうです。それはつまり善=悪ということでもあるでしょうね。正義は必然的に批判対象として何かを悪者としなければなりません。この世界のすべては二元的(相対的)にできていて、善悪は陰陽であり表裏一体の存在です。あなたのおっしゃる通り何が善(正義)で何が悪かは立場によって異なるものであり、相手には相手の正義があって、それは必ず衝突するのです。そして正義の大義名分は建前であり、必ずその陰で誰かがエゴのために利用しているものなのです。アメリカの起こした戦争なんか見てるとわかりやすいですね。でもだからといってそれを何が善行かを考えない・善行を積まない・何もしない怠惰の言い訳として使ってはいけません。

もし世界中の人が正義より愛を優先するなら、それだけで世界から争いはなくなり、みんなが救われることになるでしょう。だからそれが僕の世界救済に向けた価値観改革の核なのです。

>善行を積もうなどと言われたときにどのような善を行えばよいでしょう。

他人に言われて仕方なく嫌々やるようでは意味がありません。心に愛があれば、それは誰に言われずとも自発的に発揮せずにはいられないものなのです。愛は誰でも心の中に持っていて、それは出せば減るものではなく、発揮すれば発揮するほど連鎖的に(指数関数的に)増えていくものなのです。

愛は自発的でなくては価値がありません。そして見返りを求めればただのエゴになってしまいます。日々無償で無条件にただただ与え続けて下さい。自分が好きな人・正しいと思う人・可哀そうだと思う人、見返りが期待できる人だけを助けるのではなく、関わる人みんなを愛してそれを発揮し続けて下さい。

全ての行動においてエゴ(我欲と保身)を動機とせず、その純粋で無条件な愛を動機として下さい。そして常に正義より愛を優先して下さい。それを世界に連鎖させることができれば、あなたが真の主人公・メシアです。善悪の二元的な世界を愛一元に変えていくことが僕らメシアの使命です。

友人がスピ詐欺にハマりそう

【質問】
友人が悪質な自称スピリチュアル系の人物にハマりかけてます。
手口が巧妙で、いきなり金を取ると警戒される為、最初は信用させる為に無料で徐々に警戒心を解いて、深く洗脳し信者に仕立て上げたところで何らかの理由をつけて金を取り始めるんです。最初は少額で、段々と額を大きくしていくようです。
どうすれば友人を助け出せるでしょうか?
シンヤさんはこういう知識や教訓を他者に分け与えるのにお金を取ったりするエセ詐欺極悪スピリチュアル系の人間達をどう思いますか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。※9月12日更新

スピリチュアル系の詐欺、本当に増えてますね。僕もネットは基本的に宗教やスピリチュアル系の調べものが多いため、ページにそういう系の詐欺の広告が多くて辟易しております。

最初から高額な料金を請求する詐欺はある意味わかりやすいので良いのですが(笑)、最近の詐欺は大抵最初は無料を謳っています。しかし凝ったサイトで広告料やセミナーや合宿等で経費がかかるのに「無料」で経費を一切回収しないというのはまずありえません。最初が無料ならその分回収しなければいけない経費が嵩んでいるのは自明です。「タダより高いものはなし」ということです。

基本的に、社会が人の存在(感情・愛)よりお金(権力の分譲券・強制力・能力の指標)を価値としていて、お金が生き延びるため・自尊心を保つための手段になっているのですから、悪いことをしてでもお金を稼ごうとする人がたくさんいるのは、とても残念ながら自然なことかと思います。(だから社会の価値観・システムを根本から変えて行かなければいけません)

ただしスピリチュアルはお金を目的とする時点で「スピリチュアルを悪用した詐欺」であり、宗教もお金目的の時点で「宗教を悪用した詐欺」なのです。必要最低限の経費を回収する以上にお金を集めようとする時点で詐欺であり偽物なのです。決して本物と偽物(詐欺)を一緒にしないことです。そして世の中は偽物だらけだからこそ本物には価値があるのです。

ちなみに僕の救済活動は最初から最後まで無料です。自発的な寄付は感謝して受け取りますが、こちらから対価を要求することはありませんし、寄付するしないで人を差別することはありません。僕は清貧を愛していますし、乞食で生活できていますから。まぁ信じる信じないは相手側の自由ですけども。

今はモノが売れない時代であり、人の悩みにつけこんで不安を煽っては自分たちが解決できるかのように偽ってお金をだまし取ろうとする人が増えているのは自然なことかと思います。お金を儲けるためなんですから、そりゃ彼らも一生懸命人の悩みにつけこみ、一見すると素晴らしいことを主張してその救済を謳っていることでしょう。そうじゃなきゃ誰も騙せませんからね。しかしどんな薬も一滴の毒を含めば毒なのです。

ポジティブな霊能力というのは神々が世界を救うためにその人を通じて発揮するものであり、エゴ(我欲・保身)とは対極にある力です。エゴにより発揮しようとする霊能力は「呪い」の如きもので、必ず人を不幸に導きます。霊能力が本物であれ偽物であれ、それをお金儲けに使う時点で完全にエゴであり、お金を払って霊能力を得て特別な人間になろうとしている側もエゴですから、双方がエゴで良い結果など待っているわけがありません。双方ともに負のカルマを積み上げることになり、遅かれ早かれいずれは破綻します。その人に本当に霊能力が与えられているのだとしたら、それをお金儲けのために使うのは多大な負のカルマを積み上げることになります。例え今生ではうまく人を騙して儲けて逃げ切れたとしても、魂は永遠ですから、いずれ清算する時がきます。どれだけ時間差があったとしても因果応報の法則は絶対ですから、神を信頼することです。

さて、なぜ人がスピリチュアル詐欺にハマるのかといえば、それは自尊心が病んでいて鬱状態だからです。今はみんな自尊心が下がるように社会的に洗脳されているので(広義で)鬱じゃない人はほぼいません。今の社会ではお金(を稼ぐ能力)が価値とされていて、人の存在が価値とされていませんから、みんな「お金を稼ぎ続け、能力を他人に認められ続けなければ、自分の存在が認められない・社会から排除される」と考えるようになって他者評価依存になります。そうなると自分より高い能力の人を知ったり、何かに失敗したり、自分の能力の衰えを感じたりする度に自信を失うことになります。能力を自身の根拠とすると自信を失い自尊心の病気になるのは必然なのです。精神疾患の多くは自尊心の病気(自己嫌悪)であり、その友人は自尊心が病んでいるのです。だから詐欺であろうと何だろうととにかく自分の存在を承認してくれて自尊心を高めてくれる人に依存するのです。

自尊心の高さと行動のレベルは正比例します。悪い行動をしてしまう人は、それが悪いと知らないから悪い行動をしてしまうのではなく、自尊心が低くなっているために悪い行動がやめられないのです。だから悪い行動を指摘して説教して止めさせようとしても、かえって相手の自尊心を下げ、ますます行動のレベルを下げることになります。そうなると余計に偽りでも自尊心を上げてくれる人に依存せざるを得なくなります。

人は自尊心が高くなれば、自然と悪い行動は取らなくなります。人間関係の基本は「どうやったら相手の自尊心が高くなるか」を考えて日々実践し続けることです。詳しくはnote記事「誰でも自信満々になれる方法」に書いています。あなたはその友人をいつも笑顔で存在を承認し、相手を否定せずに真剣に話を聞いているでしょうか?説教なんかしてもますます相手の自尊心を下げて意固地にさせて嫌われ、その友人はますます詐欺にのめり込むことになるだけでしょう。どうか常に正義より愛を優先させて下さい。

その友人は自尊心を病んでいるからスピリチュアルに頼らざるを得ないのでしょうが、それを説得などの直接的な方法では救えないと思います。基本的に人は自分で失敗して自分で納得して学ぶしかないからです。その友人の人生の主人公はその友人であり、他人が答えを教えるのはそのゲームコントローラーを奪うような行為です。だから説得によってやめさせようとしてもきっと嫌われるだけになることでしょう。悪い男に騙されて恋に落ちている女性に、その男の悪口を言ったところであなたが嫌われるだけなのと同じ事です。「何を信じて生きるか?」という問題は人生の選択の要であり、他人の意見によって決めては意味がないのです。

人生はわからないことだらけですから、人は何かを信じずに生きることができません。「何を信じるか」という選択が人生そのものとも言えます。何も信じてないと思っている人は、自分の常識を信じている自覚さえないだけなのです。

「何を信じるか」という判断を「何が正しいか(何が間違っているか)」というアプローチで考えると必ず失敗します。それは他の方への質問「信じる信じないの基準」に書いた通り、それを信じることによって自分も周囲も幸せになるかどうかでわかります。

あなた自身は何を信じて生きていますか?それを信じることによって幸せになっていますか?自分と関わる人を幸せにできてますか?あなたに関わる人はすべてあなたの鏡であり、あなた次第なのです。だから関わる人のカルマはすべてあなた自身のカルマでもあるのです。

あなたが何を信じているか(自身の価値観)によって、あなたが幸せそうにしていたら、あなたの周囲の人はあなたがどうしてそんなに幸せなのか気になって尋ねるようになり、周囲の人たちもそれを信じるようになるでしょう。

あなたが他人の自尊心を上げられる人なら、みんなから愛されて周囲の人も幸せになっているはずです。だからあなた自身が自分の価値観により幸せになり、周囲の人をどんどん幸せにできる人間になっていくほど、周囲の人が詐欺に遭うような問題は起きにくくなるでしょう。

その友人は「現在の常識の世界」に魅力がなくて息苦しく自分が無価値に感じられて不幸だからこそスピリチュアル詐欺にハマっているのでしょう。友人を無理やり常識の世界に戻そうとするのではなく、その友人の自尊心を上げてあげて、あなた自身が主人公としてもっと魅力ある幸せな人生観・世界観を持ってみんなと共有できるようにならなければならないのです。

人生というRPGはすべからく主人公であるあなた次第に作られています。相手を無理に変えようとしても絶対にうまくいきません。自分自身が変わることが大事です。

2022年6月22日水曜日

潜在意識の浄化方法

【質問】
いつも真也さんの文章を読ませてもらっており、とても感謝しております。ありがとうございます。

○潜在意識の浄化の仕方が知りたいです。
巷で色んな見解があり、何が本当かわからないです。

○夢や目標は持った方が良いでしょうか?


【回答】

潜在意識の浄化というのは、エゴから愛に目覚める事なのです。まず人生の主人公として、衆生を救う菩薩・メシアとして目覚めることです。それなしに潜在意識を浄化しようとしたところで、目的がエゴですから、効果は知れています。むしろ器が育ってないのに劇的に良い事を引き寄せてしまったら、それは莫大な借金のようにカルマを悪化させます。

夢や希望もそうです。世界=自分であり、衆生を救う=出会った人みんなを救うという意識がなければ、夢や希望もエゴに過ぎないもので、仮にそれが現実になっても幸せになることはあり得ません。

どうか方法論に囚われないで下さい。目的が愛でなくエゴではダメなのです。

仏教では六波羅蜜や十波羅蜜などというありがたい教えがありますが、それはそれを行じるほどにエゴから少しずつ離れて愛に目覚めるためのものなのです。それこそが潜在意識の浄化なのです。

心を誰に見られても良いようにしてみて下さい。創造主は存在の全てであり、あなた自身でもありますから、すべてを見ています。自分と他人を責めるのを同時に止めて許し、和解して下さい。我慢は心では許していないので和解ではありません。

お金儲けのためのスピリチュアルに騙されないで下さい。彼らもお金を儲けるためですから必死に良い事を言いますが、目的がダメなものはダメなのです。

>夢や目標は持った方が良いでしょうか?
逆に夢や目標がない方が良いというのはありえないでしょう。人生というのは成長を楽しむためのRPGであり、夢や目標がなければ事象に振り回されるだけになってしまいます。

自分を主人公(メシア・菩薩)とする「世界(衆生・あなたの仏国土の住民)を救う」RPGなのですから、目覚めさえすれば、夢や目標は自ずと明らかにります。主人公の夢や目標が「世界を救うこと」であるのは自明で、人による違いは「どのように」世界を救うか(ロールプレイングのロール)です。自分に与えられた特質と、己のカルマ(課題・シナリオ)が経験から見えてくれば、それがおのずから見えてくるでしょう。


2022年6月21日火曜日

信じる信じないの基準

【質問】
私は、キリスト教を信仰してます。あなたが信じるかどうかの基準は、正しいかどうかではなく幸せになれるかどうかということですか?真理は愛だとすれば幸せになれることを信じればそれは真理になるということでしょうか?


【回答】
>あなたが信じるかどうかの基準は、正しいかどうかではなく幸せになれるかどうかということですか?
はい、基本的にはそうですね。

キリストは「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」と言ったそうですが、それが真理かと思います。つまりその教えが正しいか間違っているかではなく、それを信じることによって自分も周囲もみんなが幸せになるかどうかで、その教えが良いか悪いかがわかるということです。

創造主曰く「正義=悪」とのことです。正義は必ず攻撃対象としての悪を必要とします。しかし相手には相手の正義があって必ず争いが生まれるのです。そして正義は必ずエゴの隠れ蓑になっていて、誰かが必ず自己利益に誘導しているものなのです。正義を押し通せば争いはなくなりません。愛が天使であり、正義は悪魔なのです。世界中のみんなが正義よりも愛を優先させれば争いはなくなり、それだけで世界は救われるのです。

僕は色んな宗教を同時に学んでいて、イエス・キリストのことも心から信じています。ただキリスト教という正義を隠れ蓑にしたエゴの連鎖がどれだけ悲しい歴史を積み上げてきたかはご存知の通りです。もちろんキリスト教は歴史上ずっと信者数が多いからそれが目立つだけであって、他の宗教もそこは同様です。この世界のあらゆる存在には個性があり、それは欠点や過ちと不可分です。どんな宗教・どんな神様にも個性があるのですから、欠点と過ちはつきものなのです。だから一つの宗教だけを学んでいては必ずどこかで道を誤るようにできているのです。だから色んな宗教を学んで共通する真理を探すことが大事なんだと思います。そしてみんなの個性を許し、尊重し、愛するように心がけています。もちろんとても難しいですけどね。

何が正しく何が間違っているか?(何が正義で何が悪か?)というアプローチでは必ず対立を生み争いを生みます。何をどう考えどう実践するのが愛か?どうすればみんなが幸せになれるか?それを考えることが真理(ワンネス)への道だと思います。常に正義より愛を優先すれば対立は生まれないのです。そして世界中の人が正義より愛を優先したら世界が救われるのは自明です。

いつでも本物の笑顔が僕らのコンパスです。船が北極星を目印に航海するように、本物の笑顔を目印にしてみんなが幸せになるように進めばいいのです。ベクトルさえあっていれば道を誤ることはなく、どれだけ時間がかかってもいつかは目的地に辿り着けるということです。

「信じることの意義」にも書きましたが、我々はわからないからこそ何かを信じることができ、逆に何かを信じずに生きることはできません。「自分は何も信じていない」という人は自分の勝手な常識を信じていることを意識もしていないだけです。「何を信じているか」がその人そのものなのです。

全知全能の創造主は真理を全て知っていて、何かを信じるということができません。我々はわざと無明の闇を与えられ、真理がわからず迷い・苦しみますが、そうして人生経験を積んで真理に辿り着くからこそ真理には価値が生じるのであり、真理は存在するだけでは概念に過ぎず、何の価値もないのです。だから真に価値があるのは真理そのものよりもそこに至るまでの我々の経験・物語であり、だからこそ全知全能の創造主はわざわざ大変な苦労をして無知で愚かな人間とその人生・世界を創ったのです。概念は経験を伴わなければただの言葉に過ぎませんから。

>真理は愛だとすれば幸せになれることを信じればそれは真理になるということでしょうか?

自分もみんなも幸せになる考え方が真理に通じているのであり、実際に誰も幸せになっていない考え方を真理だと信じること(思い込むこと)によって真理にできるわけではないです。真理は人間界が存在する前から存在していて、あなたや誰かが信じる信じないに関係なく無条件に真理として存在しているのです。

人生は魂成長のためのプログラムであり、真理を覚れば覚るほど幸せに導かれるように世界は創られているのです。そうでなければ誰も自発的に真理を覚ろう・成長しようとはしないでしょう。幸せは覚りと正比例で連動しているのです。

僕は真理に近づくのを感じるほどに僕も周囲もどんどん幸せになっているのを実感しているので、真理とはみんなを幸せにするもの=愛だと確信しています。

自殺をきっかけに目覚める人がいるのはなぜ?

【質問】年齢・性別不詳
私の知り合いにも自殺未遂をして一回死んで戻って生き返った人がいますが、その人はその日を境に他人の感情が読めるという特殊能力と霊が見えるようになったそうです。悟りも得られたと言いました。その方は自殺をしたい人を止める人になりました。自殺をきっかけに向こうの世界で悟りやら特殊能力が得られるという現象が起きる人がいるのはナゼですか?



【回答】
人にはそれぞれ役割・使命があり、人生には因縁・シナリオがあるようです。僕もあなたのその知り合いも最初からそういう役割・使命であり、そういう因縁・シナリオだったということでしょう。

基本的に自殺とはエゴに埋没して生きた結果の逃避行為であり、自分であれば殺しても良いと考える事自体が究極のエゴです。そしてそれは大きな過ちであり、絶対にやってはいけないことです。

でも創造主からその大きな過ちを許されて救われた僕は「一度捨てた命を救われたのだから、残りの人生はエゴのためではなく自分を救ってくれた創造主のため、世の為人の為に生きようと決心したのです。つまりある意味で自我を超越したのです。

だから人に偉そうに説教したいからとか、有名になりたいとかお金持ちになりたいとか自分の宗教に勧誘したいとかそういうエゴの動機で今の活動はしていません。純粋にかつての自分と同じように苦しんでいる人を救いたいのです。

時間は循環するものであり、過去が未来に影響を及ぼしているだけではなく、現在・未来の思念・行動が過去に影響を及ぼしてその原因になっていることもあるわけです。創造主は僕が未来にそのようにエゴを捨ててみんなのために生きる志を持つ人間だとわかっていたからこそ、僕に許しと救いを与えてくれたのでしょう。そしてメシアとしての使命を果たすのに必要な覚りや能力をどんどん与えてくれているのでしょう。

盲人の目を開かせたキリストが言った「私が救ったのではない、あなたの信仰があなたを救ったのだ」という言葉はそういう意味です。その人が救われたのは信仰心を持つ前であり、救ったら信仰を持つ人間だからこそキリストを通じて創造主から救われたのです。

自殺すれば覚りが与えられるとか特殊能力が身につくというわけではありません。そこを絶対に勘違いしないで下さい。普通は自殺すればただ死んでしまうか、運よく未遂で終わっても何の能力も得られず、むしろ障害が残る可能性の方が高いと思います。特に苦しいことから逃れたいというエゴの自死は最悪です。クリエイターから主人公として与えられたPRGなのに、勝手に主人公をゲーム機ごと壊すのことですから、クリエイターからすればそれ以上に悲しいことはなく、殺人以上の罪なのです。

ただ僕やあなたの知人のシナリオ上、自殺がトリガーになったことが共通していたというだけで、自殺すれば覚りが開けるように短絡的に考えるのは、昔話「はなさかじいさん」の老夫婦の犬が「ここ掘れわんわん」で小判を見つけたのを、「この犬に探し物をさせれば自分も金持ちになれる」と考えて、犬を横取りした隣の意地悪じいさんのような発想かと思います。

自殺についてはこちらの記事「自殺・安楽死するとどうなるか?」に詳しいです。

創造主は絶望の淵から希望を与えて、人を救うことで自分が救われるように・自らの意志で覚りに向かうように導いてくれているのです。だから人生は素敵なのです。

ネットゲームにログインしている人が全員主人公であるがごとく、本当は人生を与えられた一人一人が主人公でありメシアなのです。あなたが主人公なのだってことを絶対に忘れないで下さい。他のログインプレイヤーと覚りの進捗を競い合うのではなく(神通力やその他の能力の高低で優劣を感じるのではなく)ただただ物語を愛して、ゲームクリア(世界救済)に向かって下さい。みんなの魂を救う連鎖を起こして下さい。

あなたももし信仰心を持ち、覚りに向かう菩提心を起こし、すべての人を救うメシア(主人公)を志すのであれば、きっと成長段階に応じた覚りや能力が与えれれることでしょう。主人公として目覚めなければ、自分が生き延びるためのつまらない能力しか与えられず、人を救う能力が成長していかないのは当然のことです。

そして既に与えられたものの価値に気付き、自分の魂の成長のために常にベストなものが与えられていると信じて愛で解釈して、どうか感謝に生きて下さいね。感謝=幸せであり、感謝の心がすべての存在の源たる創造主に存在意義を与えているのですから。

2022年6月20日月曜日

霊感は何のためにありますか?

【質問】
霊感ある人って何のために霊感があると考えますか?全員に霊感を与えず特定の人間だけが霊感を持つのは何故ですか?

霊感がある人が占いとかのお店をしてお金儲けに使うのはどう思いますか?



【回答】
ご質問ありがとうございます。

そもそも人間というアバターは霊の集合体であり、肉体は霊のパッケージングみたいなものです。自我を持った人間というアバターに、意志を持った無数の霊が出入りし、それを己の魂が統括しているような感じです。

だから単に現時点での感度の差だけで、霊感の全くない人というのは基本的にいないと思います。人間は肉体を持った霊なのです。

人間というアバターの松果体は上位次元との交信のアンテナのようなものであり、自我(無明の闇)がその交信をしにくくすることで、この修行の場である仮想現実世界を唯一のチャンネル・本当の現実と感じるようにできています。

そして自我(無明の闇)が濃い人ほど現実主義的でスピリチュアルなことを一切信じず、試そうともせずに否定し、意識を変容させる(チャンネルを切り替える)人間を悪者のように攻撃してきて相手を無理やりこの仮想現実世界のチャンネルに閉じ込めようと無意識にしてきます。ちょうどマトリックスのエージェント・スミスのようですね。

無明の闇が晴れるほどに上位次元との交信がしやすくなります。この仮想現実世界とは異なるチャンネルとの交信感度が強ければ霊感が強い、ということになります。そして交信する上位次元の存在の応援を受けられれば、その神通力を借りれるわけです。

でも魂のレベルによって、交信できるチャンネル・つながれる存在は異なります。そしてそれにより上位次元の存在が自分を通じて発揮する神通力も異なります。そして人それぞれ個性・役割・使命・シナリオがあるので、魂のレベルが上がっても人それぞれ発揮できる神通力は異なります。ドラクエで職業によって特性・覚える呪文が違う感じですね。最初から全員レベルMAXで同じ呪文が使えたら誰も成長しませんし、ゲームが面白くなるわけがありません。神通力は自分の役割と成長レベル次第なのです。

このRPGはあくまでもログインしているあなたが主役であり、勇者です。霊感が強く神通力を手に入れた人間が主役なのではありません。あなた以外は全員がNPCのようなもので、あなたの協力プレイヤーであったり仮想敵であったりするわけです。

主役であるあなた自身が修行を通じて感覚を研ぎ澄ませ覚りを進めていかなければいけません。自分が主役であるゲームの進捗を他のログインプレイヤーと比べる必要はないのです。ただただ楽しみながらレベルアップしてゲームクリアに向かっていけばいいのです。

でも修行の目的が神通力を手に入れる事になっていてはいけません。それはあくまでゲームクリア(世界救済)のための手段でなくてはならないのです。「お金を稼ぎたい」「他人から評価されて自尊心を高めたい」などといったエゴのために神通力を手に入れたり行使したりすれば、それはそれだけカルマを積むことになります。それは主役である勇者ではなく悪役のやることなのです。悪役が最終的に報われるRPGのシナリオはありません。破滅のフラグみたいなものです。

実際、神通力をエゴのために使う人間は最終的に必ずうまくいかなくなります。例えこの世では逃げきれてもあの世ではそうではありません。神通力を与えられた人間というのは巫女のような役割であり、本当はそれによって最低限に必要な以上の利益を得てはいけないのです。例え大きな利益を得てもそれをみんなと分かち合わなければ、自己利益を得た分だけカルマを積み、そのうち神通力を失ったり因果応報で様々なトラブルや災難に見舞われたりするのです。

神通力で人を救おうとするのは素晴らしい事ですが、それは覚りの本質ではなく、本質はあくまでも真理を実践によって伝えて人を幸せにする連鎖を起こすことです。自分のカルマと正面から戦ってゲームクリア(世界救済)を目指し、目的もわからずこの世界の問題と戦うことを最初から諦めているような臆病で怠惰な他のログインプレイヤーたちにゲームクリア(世界救済)に向けて戦う勇気を与える事です。

鯨肉を食べてしまいました

【質問】
鯨も霊感が強いですか?私は昔、鯨肉を食べてしまいました。


【回答】
海の生き物の霊感は、彼らと日常的に一緒に過ごしているわけじゃないので僕はわかなんないです(笑) まぁかなりざっくりと言って霊性と知能は比例します。だから人間や猿は霊長類なのです。

人間は菜食のみでも健康に生きれるのですが、敢えて動物の肉を食べるならば、霊の長として生態系全体のバランスを考えた上で、自分たちからできるだけ遠い種族で知能が低く、放っておくと増えすぎてしまうものを選んだ方が良いでしょう。具体的には魚介類や鶏などです。その意味では昆虫食も良いのですが、個人的には大の苦手です(笑)

現代の工場制畜産は効率的大量生産の為に大量の畜産動物をモノ以下に扱い、生命の尊厳を完全に奪っています。それは病気の蔓延や環境破壊などの形で自分たちに確実に返ってきています。地球は一つの生命体でありホメオスタシスがあるのですから当然です。現代の工場制畜産で生み出された肉を金さえ出せば手に入るモノのように考えて毎日食べるのと、生きる喜びを味わった動物たちを自然の恒常性の範囲で適度に捕獲したり養殖したりして動物と自然と神々への感謝・慰霊しながら食べるのとは訳が違うのです。

我々は肉食そのものに罪悪感を持つことよりも、今の経済システムの中で必然的に生じた悪魔的な工場制畜産を排することを考えるべきで、そのためにはまず自分の価値観から考え直さなければなりません。肉食への罪悪感から無理に菜食主義を徹底し、肉食主義を責めて自分の考えを他人に押し付けたり、それに対して「菜食主義は体に悪い、肉は健康に必要だ」などと科学的根拠のない話で菜食主義者に反発したりで、人間同士お互い責め合っているのは愛がなくバカバカしい話です。

鯨はあなたが殺したわけでもなく、虐待的に養殖されたものでもなく、むやみに乱獲されたものでもないでしょう。その肉の一部を昔食べたことがあるっていう程度で悪影響はまず考えられません。基本的に人から出されたものは神様がくれたものだと思って感謝と共にいただけば良いのです。好き嫌いを言って自分を喜ばせようとしている人をガッカリさせてはいけません。

釈迦は出家後死ぬまでほぼ托鉢(乞食)のみで生活し、自分で選択できる時は基本的に菜食主義だったようですが、人様から頂く時は肉でも何でも感謝して食べていたと聞きます。僕もそれにならっています。

罪悪感を行動の動機とすると必ず自分も他人も傷つけます。だから罪悪感ではなく慈愛を動機として人間にも動物にも自然にも神々にも慈愛を発揮することです。

肉食の是非そのものよりも、一方を悪者にして自分が正義の立場に立ち、自分自身や他人を嫌ったり傷つけることが愚かなのです。そういうことをすることで人や動物に宿る霊を怒らせ、許し・感謝・尊敬・愛の心なく、創造主の愛に自ら背を向け、霊障を溜めてカルマを悪化させてしまってはいけません。出会った存在・出来事を例外なく許し尊敬し感謝し愛することの方がずっと大事です。そして霊障をためないように心と体と生活の場を常に清く保つ努力をすることです。

カルマとは我々を罪に誘い出して罰する意地悪の為にあるのではなく、自ら過ちに気付き、自らの意志で成長を目指させるためにある課題なのです。創造主が直接強制しては人間に自由意志を与えた意味がありません。

「悪いカルマの解消法」

そしてあなたが克服すべき課題は、昔に食べた動物のことでいまだに気に病んでいるその罪悪感の強さと、報復を恐れるその臆病さです。

すべては創造主の愛によって与えられたものであり、罪悪感が存在しなければ許しに価値はありません。罪悪感が強い分だけ、そこを乗り越えて人を許し自分を許し運命に感謝することに価値があるのです。

「罪と恥の存在意義」

臆病さがなければ勇気に価値はありません。生まれた時から何一つ恐れない人間の勇気に価値などあるわけがありません。臆病さを乗り越えて愛のために勇気を発揮するからこそ勇気には価値があるのです。

人生は物語であり、あなたが主役です。役者として一番ダメな要素は臆病と怠惰です。そして与えらえれた役・シナリオに感謝せず監督に恨みで返していたら主役を降ろされて悪い配役・シナリオを掴むのは当然です。そしてそんな役者は共演者にも感謝がなく人の気持ちがわからずに人間関係で失敗を重ね、苦手な人を恐れたり嫌ったりして避けるでしょうから、どんどんシナリオが悪化するのは自明なのです。ですからやはり、出会った人や出来事に例外なく感謝し愛することの方がずっと大事なのです。

「誰でも自信満々になれる方法」

鬱の良い点はありますか?

【質問】
鬱の良いところってありますか?


【回答】
乗り越えて初めてわかることですが、鬱は真の幸せ・真の覚りに必要な成長過程(経験)であり、大人の「はしか」みたいなものです。今の僕は鬱(無明の闇)を与えられた経験にとても感謝しています。

鬱(無明=愚かさ・迷いによる不幸)を経験せずに幸せ(覚り・真理の素晴らしさ)を感じられるわけがないのです。僕は鬱を経験したお陰で今とても幸せになれています。今どんな不幸を経験しようと「鬱だった頃に比べれば全然幸せ」という感じになりますしね。

この世界のすべては二元的に存在していて、両方を経験した上で相対的に見なければその価値がわからないのです。真理は人を幸せにするものであり、鬱は真理を覚るために・真に幸せになるために必要な過程です。

覚りに向けた修行を「お坊さんが山に籠ってやる苦行」みたいにイメージして、自分には縁のない他人事だと思わないで下さい。あなたは魂の修行(成長)のために生まれてきたのであり、今までの苦しみはすべてあなたの成長のために必要な経験だったのです。ただあなたが自覚してないだけで、あなたは真理の覚りを求めて生きてきたのです。

人生はあなたが主人公のRPGであり、あなたのためだけに用意されたシナリオがあります。決して他人と比べて不平不満を言わないで下さい。他人はNPCのような存在であり、あなたと創造主の関係は一対一です。自分に与えられているものは当然他人にも与えられていると考えて、与えられていないものばかりを見て創造主を恨んではいけません。当たり前が当たり前でないことに気づいて一つ一つ感謝することで創造主に愛され、必ず導かれるようになります。他人より与えられないと感謝できない人の感謝に価値などないのです。

自分に都合の良いものは誰でも愛せます。成長するということは、自分にとって都合の悪いものも「自分の魂の修行のためにベストなものが与えられている」と信じて愛し、与えられた課題(カルマ)に立ち向かい続けることです。

何十年と苦しみ続けたので、鬱の苦しみはよくわかります。霊障に翻弄されて悪い事ばかり考えて自尊心が地に落ちて自己嫌悪の塊になり、まともな思考ができなくなるんです。でもつまでも立ち止まって鬱にどっぷり浸からず、ただひたすら真理(覚り・幸せ)を目指し、誰が何と言おうと自分の納得のいく道を進んで下さい。他者評価依存で他人に振り回され、世間という幻の常識に捉われてやりたいことをやらず、自らの魂が納得していない常識に合わせて自分を無理やり押さえつけようとし続け、自尊心が下げ続けることが鬱の根源的な原因の一つです。

真理(真の覚り・真の幸せ)は概念に過ぎず、経験を伴わなければ価値がありません。あなたがさんざん苦しんできた真理に至る過程(経験)が真理を価値ならしめるのです。経験がなければ真理は概念に過ぎないのです。全てを知っている全知全能の創造主にとって、経験を伴わない真理に価値はないのです。真に価値があるのはあなたの経験だということです。

繰り返しますが、真の幸せを知るのに不幸の経験は必要不可欠です。鬱も経験せずに真に幸せになれるなどということは有り得ません。一過性の快楽を追求する日々の連続に幸せがあると考える愚かさが、人間を真の幸せ・真の覚りから遠ざけるのです。

鬱で心の針が下げ止まりになる苦しい経験がなければ、感情豊かに心の針を自在に振れるような日々の幸せはわかりません。覚りを「感情をなくすこと」のように勘違いしないで下さいね。喜びと同じように悲しみにも価値があり、ネガティブな感情も存在するからこそポジティブな感情は素晴らしいのです。そして考え方によってその感情はコントロールすることが可能なのです。トランプから嫌いなカードを除いたらゲームになりません。ジョーカーがいなければババ抜きはできません。苦しみや悲しみを嫌って無理に排除しようとするのではなく、人生を物語のように監督目線で見てトータルに愛することです。

とにかく悲しみや苦しみから逃げ回ろうとしないで、しっかりと受け止めて下さい。カルマというのは逃げる事で追試や補講のように追いかけてきていつか追い詰められます。鬱というものをネガティブに捉えず、自分が成長するために与えられた課題(カルマ)なのだと思って、覚悟を決めて正面から向き合うことが大事です。カルマはドラクエのモンスターやバイオハザードのゾンビと同じで、クリエーターがプレーヤーを楽しませるために作った幻なのだとわかれば怖くも何ともないものです。そしてカルマに立ち向かうことでしか魂はレベルアップしていかないのです。

「悪いカルマの解消法」こちらをご参照下さい。

秘密を隠すのが辛い

【質問】
人にどうしても言いたく無い秘密があります。その秘密を隠しながら生活するのが罪悪感で辛いのでその人達との関係を切ろうと思うのですがこれは間違った考えでしょうか?


【回答】
ご質問ありがとうございます。

まず罪(罪悪感)が何のために存在するかを知って下さい。
「罪と恥の存在意義」

キリストは「この中で一度も罪を犯した事のない者だけが石を投げなさい」と言いました。みんな多かれ少なかれ罪を犯しながら生きているのです。そしてあなた一人だけの罪など存在しません。きっと同じ罪を犯している人はたくさんいるでしょう。

そしてどれだけ隠そうと我々の人生を映画の様に見ている創造主・宇宙意志には全部バレています。

心を解放して幸せになるには、まず自分と他人を責めるのを同時に止める事が大事です。

縁は全て創造主の贈り物であり、出会いにはちゃんと意味があるのです。出会った人(共演者)を避けるのは与えられたカルマ(配役・伏線)の放棄であり、やってはいけません。

あなたが出会った人を許す度にあなたは自分で自分を許せるようになるでしょう。罪はお互いに許し合うことでより深く愛し合えるよう人間にだけ与えられた贈り物です。

まず神に許しを乞うて下さい。神はあなたが悔い改め、同じ様に罪を犯した人を許すならきっとあなたを許すでしょう。より大きい罪を犯した人間ほど、神に許された時により多く神を愛するでしょう。それは聖書の言葉でもあります。そしてあなたがより大きい罪を犯した人間を許すなら、あなたは菩薩になるでしょう。出会ったらもう無条件で許すと先に決めておいて下さい。実際に出会ってない人を許す必要はありません。

あなたがどうしても神が信じられないとしても、一人で抱え込まず僕にDM下さい。プライバシーは厳守します。あなたがどんな罪を犯したのか知りませんが、僕は必ずあなたを許します。例え世間や法があなたを許さなくても、あなたの罪が許されるよう一緒に祈ります。

罪は幻です。全ての悪業はカルマであり、悪霊がシナリオ上やらせていることです。人の悪行は基本的に全部悪霊のせいにして良いので(笑)自分や他人を責めて恨んだり運命を呪って悪役に陥らず、日々霊的浄化に努め、どうか人を救うメシア・主人公として目覚めて下さい。大きな罪を犯した人や臆病な人がメシアとして目覚めるにはよりたくさんの勇気が要ります。だからこそ大きな罪を犯した人や臆病な人ほど目覚める勇気は尊いのです。

決して自分を責めて自己イメージを下げてはいけません。また自分より罪深い人間を探し出して責めてはいけません。自尊心と行動のレベルは正比例します。

「反省してはいけない」

悔い改めるって事は過去の自分や誰かを責める事ではなく、過ちから学んで成長し、より良い未来を掴むって事です。

みんなが例外なく未来の菩薩であることを信じて、自分も他人もどんどん許して下さいね。

別宇宙は存在すると思いますか?

【質問】
太陽の黒点の先に別宇宙は存在すると思いますか?


【回答】
「宇宙の仕組み」を読んでみて下さい。これが理解できればそのあたりのことはご理解いただけるかと思います。

その冒頭に書いた通り、人間は基本的にこの世界を思い切り楽しめるように敢えてその仕組みを理解できないように作られており、理解できないのが普通です。勿論全力でご説明させていただきますが、人類に理解できるように説明するのはとても困難です。まして文章のみでは。もし僕の説明が全然意味がわからないとしても、怒ったり落ち込んだりしないで下さいね。それは現段階の貴方には必要ないというだけの事ですから。

まず貴方は別宇宙というものがどこか物理的に遠く離れた場所にあると思っているようですが、それは誤りです。別宇宙は我々の宇宙と重ね合わせの状態で並行し偏在しているのです。

我々は自分を客観的世界の中に生きていると思うように作られていますが、実際はそれぞれ自分の心の世界(仏国土)に住んでいて、肉体というのは魂の入れ物であり、アバターのごときものです。本当は貴方の認識できるすべてが貴方自身なのです。

ただ我々が自分=世界=創造主であると完全に認識できてしまったら、自分が唯一の存在であるという創造主の究極の孤独に逆戻りしてしまいますから、創造主は自分の分身である分け御霊に、それぞれ自我(自分以外の存在は自分とは別のものであるという分離意識)と個性と物語上の役割(配役)を与え、この仮想現実世界に送り込んでいるのです。

ちょうどネットゲームのようにログインしているプレイヤーは全員が主人公であり、プレイヤー同士は同じゲームをしていて一つの世界にいるように感じていますが、それは重ね合わせの状態であり、実際は一人ひとり別な部屋でそれぞれ同種のゲーム機とモニターでゲームしているのです。

我々の時間・大きさ・距離はすべてこのゲーム内(次元内)でのみで通用する共通のルールです。僕らが好きな映画のDVDをいつでも好きな時間から見始めることができるように、DVDの外側(虚数時間軸)にいる上位次元の存在からすれば、いつでも僕らの世界の時間・場所に移動できるのです。

僕らの時間も物理的な存在は全てDVDのリーダー&ライターのように我々の魂の光(認識)によって生み出される仮想的なものであり、本当は存在しないのです。時間が存在しなければどこに行くのも時間ゼロですから、全てはくっついているのと同じであり、大きさや距離に意味はないのです。意味があるのは比率(形・デザイン)であり、どういう存在か(役割・存在意義)という事です。イラストレーターの画像が拡大縮小により劣化せず大きさがユーザーの任意であるのと同じイメージです。

別宇宙というのは我々の世界と重ね合わせ状態にあるのであり、時間や距離が離れて存在しているわけではありません。超弦理論では10の500乗というとんでもない数の宇宙が存在する可能性が理論上明らかにされていますが、それが重ね合わせの状態にあるのです。つまり認識者の数だけ宇宙があるのです。その数も全知全能たる創造主の任意であり、創造主がその気になれば無限に増やせます。みんなに共通した限界(ルール)を作らないと芸術・物語は成立しないのであえて限界を作っているだけです。トランプだってみんなが違うルールだったら一緒に遊べないでしょう。

僕らは共通したルールのもとにあるゲームだからこそ一緒に楽しめているのであり、別なルールでできている別なゲーム世界(別宇宙)には、我々の次元の肉体に紐づけられたままでは行けないように作られているのです。それができたらドラクエの主人公がいきなりFFの世界にワープするようなものです。そのように自分のゲームがクリアできてないうちに他所のゲームに行こうとすること自体がナンセンスであり、今のゲームをクリアしてもまだまだ他のゲームがあって、クリアしても楽しみは終わらないのだということさえ理解できれば、現段階でそれを実際に求めることに労力を割く必要はないのです。

「宇宙の仕組み」に書いた通り、太陽の黒点は中心核の膨大な熱と核融合反応を起こしている高圧ガス層との温度差があまりに大きいために気泡の如く生み出されているものであり、そこにはガス層で冷やされて相対的に冷えたガスの塊の中にダイレクトに突き抜けきれなかった電磁波がダマになって他のガス層の表面より多く発せられているのです。

別宇宙の出入り口は太陽の黒点ではなくブラックホールであり、それがDVDのスピンドルのように宇宙を重ね合わせているのです。その強大な重力・電磁波・熱にこの物理次元の肉体を持ったままの我々が耐えきれるわけもなく、実際物理的にそこに行って真実を科学的に確かめることはまず不可能でしょう。

宇宙人(別宇宙の存在)たちは遥か未来の存在であり、我々の物理次元の法則に従う・従わないを選択できる科学を持っているからこそ、時空を超えて我々の地球に顔を出し、他の恒星や地球の火山の中など過酷な状況も無視して住めるのでしょうね。

我々の生まれてきた最大の目的は愛すること・感謝することであり、魂を成長させる経験を積む事です。そしてそれが創造主に存在意義を与えているのです。それをはき違えて感情よりも科学的に真理を探ること(興味を満たすこと・便利さ)を追求してしまうと、どれだけ科学が進んでも不幸にしかなりません。グレイなどは僕らが間違った方向に行った場合の行く末であり(だから幸せそうなグレイなんていないのでしょう笑)、並行世界から時空を超えて我々のこの次元・この時代に時空を超えてやってきているのですが、その干渉も創造主のシナリオ通りであり、干渉には限度(因果律)が設けられているので、宇宙人による地球支配など恐れる必要は微塵もないのです。

多分理解されていないと思いますが、ただ貴方の覚りが進めば僕に教わらなくても全部理解できるでしょうし、逆に覚りが進んでいなければ僕がいくら懇切丁寧に説明しても理解することはないでしょう。どうか覚り(真理)を求め続ける覚悟(菩提心)を持って下さい。

最も影響を受けた人物

【質問】
しんやさんがもっとも影響を受けた人物は誰ですか?

【回答】
そりゃ両親でしょうね。僕に人生の基本設定を与えるために創造主が遣わした人たちですから。というか、育てくれた人以上の影響を他人から受けるっていうことはまずあり得ないことだと思います。

親とは徹底して考え方が合いませんでした。でも高校卒業までずっと一緒に暮らしたわけですし、遺伝子的な意味も含めて、多大な影響を受けているのは間違いないです。

あまりにも考え方が合わないために反抗期は特に逆らいまくりましたが、今はすごく申し訳なく思ってます。考え方が合わなくても愛せれば良かったんですけどね。いつも否定され考え方を押し付けられるようで一緒にいるのが耐えがたかったのです。目覚めてからは生み育てていただいたことに感謝しかありません。あの世で会えたら謝り倒します。

もちろん僕は両親以外からも色んな人から影響を受けています。出会った人から全く影響を受けないという事は基本的にないです。出会った人はみんな僕の人生という物語の共演者であり、僕という宇宙の一部ですからね。もちろん僕は彼らの宇宙の一部でもあります。いわゆる仏教の大千三千世界の宇宙観ですね。

多分誰か有名人の名前を挙げる事を期待してのご質問なのだと思いますが、釈迦とキリストぐらいしか思いつきません。本当はみんな全員同一人物みたいなものですしね。出会った人みんなから何がしかの影響を受けてますが、両親以上に影響を受けた事は一度もないです。

「人物」に限定しなければ、もちろん創造主が一番ですが。

どうすれば自分のカルマがわかりますか?

【質問】
自分のカルマはどうやったら自覚できますか?何がカルマにあたるのか分かりません。また、解消できた時はカルマが消える感覚があるのでしょうか?



【回答】
ご質問ありがとうございます。

森羅万象は因果により結びついており、それをあなたという主人公視点で見たものがあなたのカルマです。この世界には理由もなく独立して起きる出来事も存在もないのです。人間には理解できないだけで、森羅万象には因果(原因と結果)があり、偶然など何一つ存在しないのです。

あなたが経験した全ては、あなたが見聞きした歴史や神話やニュースも含めて、すべてあなたという主人公の物語の伏線なのです。だからそれらの事実確認や良し悪しの判断よりも、自分の人生という物語にとってどういう意味を持つ伏線なのかを考えることが大事です。つまり創造主があなたにその経験・知識を通じて何に気づかせ覚らせて成長を期待しているのかということです。

創造主が我々を楽しませるためにすべてを偶然と思わせているだけで、本当は偶然などというものは存在しません。あなたは偶然が存在すると思っているから(すべてが自分次第だとは信じたくないから)カルマ(伏線)がわからないのでしょう。あなたが出会った出来事・存在がすべて必然だと考えれば、あなたの人生・世界の伏線(カルマ)が見えてくるはずです。

我々の人生は魂を成長させる喜びのために創造主から与えられたものであり、我々はわざと愚かに真理が理解できないように作られています。そうでなくては成長を喜べるわけがありません。全知全能の創造主は当然真理のすべてを知っています。でもただ知っているだけでは真理は概念に過ぎず存在価値がありません。愚かな我々が真理に至ろうと成長するその経験があるからこそ真理には価値が生まれるのです。真理(結果)に価値があるのではなく、経験(過程)が真理(結果)を価値ならしめるのです。

何が自分のカルマ(課題)かを模索して解決していくことこそがこのRPGの核なのです。もしもし我々がカルマ(因果)のすべてを最初っから全部理解できていたら、人生というRPGのキャラクター・アバターである我々はただ単にクリエーターの筋書き通りに動かされるだけのAIのようになってしまい、ゲームとして成立しません。魂が成長するわけがありません。カルマというのは成長のために与えられた、我々がギリギリ乗り越えられる課題であり、ゲームにおける敵やトラップのように我々の行く手を阻む障害がカルマなのです。

目の前にある課題から目を反らすことなく、全力で乗り越えようとする中で、その点と点がつながって伏線が見えてくるのです。ドラクエで行く手を阻むモンスターを怖がり、与えられたカルマ(課題・ゲームの設定)を神の意地悪のように考えてこの世界に生まれたことを呪いながらスタート地点の町にいつまでも引きこもっていたら、ゲームの課題・伏線が見えるわけもなく物語が進むわけもありません。

厳しい言い方になりますが、あなたは自分のカルマ(課題・伏線・シナリオ・配役)から逃げているからカルマが自覚できないのであり、本当は自覚するのを自ら拒んでいるのです。自分の身に起きたすべての出来事・出会いが必然であり、自分の成長のために与えられた課題と考えれば、カルマは間違いなく見えてくるはずです。カルマは逃げるから恐ろしくなるのであり、立ち向かえば面白いゲームになるのです。しょせん仮想現実ですよ?何ものも恐れずただひたすらゲームクリア(真理)を目指してカルマと正面から立ち向かって下さい。(それが般若心経の主旨です)

本当はすべての存在は一つであり、他人というものは存在せず、あなたは人間関係の中で出会った人を鏡として自分のカルマを見ることができるのです。あなたの家族やパートナーや友人、仕事の同僚や顧客との問題は何ですか?そういうものを一つ一つ逃げずに見直していって下さい。あなたが出会った人のカルマはあなた自身のカルマでもあり、他人事と思って見放してはカルマが見えて来ず、物語が進まないのは当然です。出会った人と複雑に絡み合ったカルマを一つ一つひも解いていく先に今生の人生のゴールがあるのです。あなたの人生・世界におけるあなたの配役・使命の全うがあるのです。どんどん出会った人とのカルマ(課題)を解消して物語の伏線を回収していって下さい。カルマが解消できた時には解消できたとはっきりわかります。悪循環が断ち切れて、その分あなたもあなたと関わった人も成長を実感して幸せになるのですからね。

この世界はネットゲームのようなもので、ログインしている全員が世界を救う主人公です。あなたもみんなも自分など大した存在ではないと思い込み、世界を救うために生まれてきたということに目覚める勇気をなかなか持とうとはしません。しかしそれはこのゲームのアバター全員に与えられた共通設定・課題であり、その卑屈さ臆病さを乗り越えるところに勇気の価値があるのです。最初から自尊心満々で何も恐れない人の勇気に価値などありません。他人の言うことやることを一切言い訳にせず、ドラクエと同じように、まず世界を救うという目的(主人公・メシアであること)に目覚め、目の前の課題と全力で向かい合って下さい。まさにThink Globaly, Act localyです。

成長することなくレベル1でいきなり敵ボスを相手にしようと思っても辿り着けることさえなく死ぬだけであり、ネットで敵ボスたちの批判など繰り広げてもボスたちからは鼻で笑われるだけで何のダメージも与えられません。それどころかそのネガティブな言葉と思念により自分も他人も腐らせ、レベルアップもせず無力なまま世の中に絶望しながら脇役AIとして死を待つだけになるでしょう。だからやはりまず主人公として目覚め、目の前の課題から逃げずに立ち向かい、成長を続けることが大事です。その先に世界救出というゲームクリアが待っているのです。

人間関係を築くのが面倒臭い

【質問】
人間関係が無い方がしがらみが無く幸せを感じると思うのですが間違いでしょうか?妻や家族がいれば友人と深い関係を築くのは面倒臭いと思ってしまいます。


【回答】
ご質問ありがとうございます。

まず人生の基本として、心から納得できないことには従わないで下さい。あなたが幸せなのなら僕の言うことになど構わず、どうぞご自分の思う通りに生きれば良いと思います。

真理とは経験を伴わなければただの概念に過ぎません。真理(正解)に価値があるのではなく、そこに至る経験にこそ価値があり、それが真理を価値ならしめるのです。

だから実際に正しいか間違っているかではなく、現在の自分が心から正しいと信じているやり方でやってみて、失敗・過ちをたくさん犯しながら経験を通して実感しながら学ばなければ意味がありません。きっと遠回りになることかと思いますが、それがあなた本人にとってはベストな選択なのです。

ただ遠回りをしている間に人生が尽きてしまえば、自分の人生を「こう考えこう行動すれば不幸になる」というネガティブな教訓をアカシックレコードに記録することに人生を浪費することになってします。僕は誰の人生もそのように浪費して欲しくないので、必死で人を幸せに導くために真理を伝えているのです。まぁ当然ほとんど理解されないんですけど、経験を積む前に真理を全部理解できたら僕らが生まれてきた意味がありません。

あなたが今本当に幸せなのなら何の問題もないのですが、もしそうなら僕が人を幸せにするために書いている内容に反応はしないはずです。本当は僕の言うことが真理だと魂ではわかっているのに、天から与えられたエゴ(臆病と怠惰)によってどうしても心が反発してしまい、それを僕にぶつけないといられなかったのでしょう。

真理とは人を幸せにするものであり、あなたが幸せでないならどこか間違えているのです。

幸せでないのに幸せだとアピールする人は、人に見下されたくないから「自分は正しい」と主張しているだけでしょう。SNSなんかそのためにあるんじゃないかと思わせるほど、幸せアピールに溢れています。それはとても不幸なことだと思います。アピールとはサッカーのシミュレーションプレーのようなもので、必ず嘘を含み、むしろ実態は逆であることを自ら告白しているようなものなのです。

「人間」とは読んで字のごとく、関係性によって成り立っているものです。もちろん奥さん・家族との関係も大切な人間関係です。特に血縁者ではない奥さんは元他人で別れれば他人に戻る関係なのですから、思いっきり大切にしてあげて下さい。でも本当に大切なのは、出会った人みんなを大切にして家族のような関係を築くことだと思います。キリストも釈迦も出会いを大切にして、血縁関係とは敢えて少し距離を置く人でした。そうでなくては内に籠ることになって人間関係が広がっていきませんし成長できませんから当然ですね。

外での人間関係を煩わしく思って家庭に引きこもっていてはきっと職場でも良い仕事はできないと思いますし、収入が上がらないどころか使えない人材としていつか解雇されるかも知れません。そして深い仲の友人がいないようでは、必然的に外でのストレスを自分で抱え込むか家庭に持ち込んで自分も家族も暗くすることでしょう。子供はそういうあなたから人生を学ぶわけで、もし子供があなたの考え方を引き継いで育って将来不幸になったらあなたを恨むことになるかも知れません。そして外での人間関係から自分を成長させないあなたは、ひょっとしたら将来家族からも嫌われて、孤独な老後を迎えるかも知れません。

多くの人は「私にも嫌いな人がいるのだから、私を嫌う人がいてもしょうがない」と最初から諦め、自分を好きでいてくれる人だけを愛し、自分を嫌う人を嫌います。だから人の顔色ばかり窺うことになり、人生に主体性がなくなり、人に振り回されて疲れ果てて煩わしくなり、外での人間関係が嫌になってしまうのでしょう。

人生において自分を嫌いだった人が揺ぎ無く好きになってくれることほど楽しいことはないのですが、それを経験せずに人生を終えるのだとしたら悲しいことですね。

自分に都合の良いものは赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合のわるいものも自分の成長に必要なものだと愛せるようになることです。

人生は映画のようなものです。監督たる創造主が与えてくれた共演者を勝手に排除してしまうような残念な役者では今生も来世も良い役を与えてもらえるわけがありません。まして勝手に降板してしまうような役者では。役者として一番ダメな要素は臆病と怠惰です。人間関係を煩わしがったり恐れたりして引きこもっているようでは良い物語にはなりません。この映画は愛と勇気を試すためのものなのですから。

「誰でも自信満々になれる方法」

ぜひこれを読んで実践してみて下さい。そしてどうか人に嫌われることを恐れず愛し抜いて下さい。どれだけ嫌っても愛してくれる人を嫌い抜ける人などいませんから、人を恐れる必要など微塵もないのです。出会った人を例外なく愛し、幸せになって下さい。

心から感謝できない

【質問】
どうやったら出会った人や出来事に心から感謝、愛することができますか?

感謝をするとき、思考や上っ面でしかできてない自覚があります。生きてることや出会った人、自然、感じる心などあらゆる価値を客観的に見てみますが、「そうかもね」くらいの感情です。特に「出会った人をみんな人生という自分が主人公の物語の共演者として例外なくその存在に感謝する」ということが難しいです。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

「感謝の気持ちがなければ幸せにはなれないのはわかるけど、自分が幸せになってないと心からは感謝できない」僕が鬱の頃はまさにそのような矛盾に苦しんでいたので、お気持ちは痛いほどよくわかります。

ただ、すべてを創った創造主の視点で考えてみて下さいね。全知全能の彼に我々ができることは感謝することだけであり、僕らはそのために創られたようなものなのです。誰でも喜ぶようなもので、他人にはあまり与えらえていないようなものが自分に与えられないと感謝できないというなら、そのような感謝に価値はないのです。そもそも既に与えらえたものの価値がわからない人間にどれだけ与えても感謝などされないことは自明です。

自分に都合の良いものなら赤ん坊でも愛せます。創造主は人間に「常に自分の魂の成長にとってベストなものが与えれれている」ことに気づいて感謝して欲しいのです。そしてそのような感謝にこそ本当の価値があり、創造主から喜ばれるのです。でもそれを創造主自ら言うと意味がないので、自発的に感謝するように導いているのです。僕らが自分に感謝し愛するAIを作ってそのAIから感謝され愛されても何の価値も感じないでしょう。だから我々は自由意志が与えられ、通常は「感謝しない・愛さない」という選択肢を選ぶように作られているのです。だから努力してそこを乗り越えなければならないのです。

あなたは「客観的に見て」とおっしゃっていますが、それは単に自分と他人を比べて、自分に与えられているものは当然他人にも与えられている価値のないものだと考え、自分には与えられず誰か他人に与えらえているものをうらやんで不満に感じているのでしょう。

しかし人生というのは自分だけに与えられた自分を主人公とするRPGであり、他人というのはNPC(脇役のAI)のようなものなのです。例えどんな有名人や大人物であってもです。自分以外の人間は全員自動で動いているだけのAIでないことを誰もあなたに証明できませんし、あなたも自分がAIでないとを他人に証明はできません。他人がAIでないかどうかを確かめるのは、夢の中で会った人に「これは夢ですか?」と尋ねるが如しです。

この我々のいる仮想現実世界はネットゲームのようなもので、ログインしている全員が主人公です。でも他人のゲームの進捗は自分がゲームを楽しみにながらクリアを目指す上では何の関係もないのです。他人がどんなアイテムや能力を持っているかとか、一切関係ありません。自分の成長に合わせてベストなものがちゃんと与えられていることに気づいて下さい。ゲームの設定やシナリオに文句を言っていてもゲームは進みませんし、ゲームクリア(覚り・世界救済)を目指して冒険をしないなら、レベルアップしないのは当たり前です。何よりゲームをさせてもらえていることに感謝の気持ちがないなら、クリエイターの愛を受け取れなくて当然なのです。

我々が普段使っている「客観」というのは他人目線のことです。でも自分以外がNPCの世界で、そんなものは意味がありません。あなたにはあなたに向けて完璧にアレンジされたストーリーがあり、あなたの世界で主人公資格を与えられているのはあなただけなのです。誰もあなたにはなれないのです。他人と自分を比較することがいかにナンセンスかに気づいて下さい。

あなたは目覚める前の僕と同じで、人間の価値が何かに気づいていません。それは無理もない事です。今の世界は能力を価値とされ、それはお金をいくら稼げるかで判断されるからです。でもそういう基本設定があるからこそ、人の価値に気づくことは尊いのです。「人の価値とは?」必ず読んで下さい。

あなたは主人公ですから、創造主とは一対一の関係であり、あなたの世界にNPCが何億人いようと、あなたはその背中に隠れることはできません。他人の言うことやること・常識は一切言い訳には使えないのです。

本当の客観とは、創造主(クリエイター)視点で自分という主人公(俳優・アバター)とその物語を俯瞰して全体的に見ることです。あなたが自分の人生という物語の作家だったとしたら、どんな素敵な物語を作るでしょうか?最初から何の困難もなくずっと幸せなだけの物語を作りますか?そんな物語はつまらないですし、成長もしませんし、そもそも不幸を経験せずに幸せを感じることはできないでしょう。もし人生を本当に素敵な物語にするなら、ギリギリ乗り越えられる困難を与え続けてそれを乗り越えて成長し続ける物語にするはずです。そして実際あなたは記憶を消されているだけで、自分でそのようなシナリオを描いてこの仮想現実世界に生まれてきているのです。

クリエイターである本当のあなたは、自分が作った物語の主人公から「成長させるために与えた困難」を恨まれ、少しも成長しようとせず、望むものを与えられてないことに不平不満ばかり言われたら、その主人公にもっと良いものを与えたいと思うでしょうか?どれだけ与えてもどうせ当たり前だと思われるだけなのに。

もし主人公であるあなたがクリエイターから与えられたものに心から感謝できないようなら、既に与えられたものまではぎとられ続け、失うことで価値に気づかされるような悲しい人生になるでしょう。僕がまさにそうなりかけていたので、あなたにはそのような人生を送って欲しくないのです。

我々が当たり前だと思うことは何一つ当たり前ではないのです。「感謝」の対義語は「当前」です。「ありがたい」は「有り難い」ことに気づくことなのです。既に与えられているものの価値に気づき感謝することが我々の存在価値なのです。与えられた能力を自分のもののように考えて、それを磨くことによって他人の評価とそれに付随した金銭を得るためではありません。

当たり前と思わされていることを一つ一つ感謝できるようになることで、感謝したくなる⇒幸せになる⇒もっと感謝したくなるという好循環に入ることができます。

感謝=幸せです。この公式は創造主が作った絶対的なもので、誰にも揺るがすことはできません。僕らは感謝することで創造主に存在価値を与えるために存在しているのですから、心から感謝するほどに幸せにしてもらえるのは自然なことなのです。感謝しなければいけないからといって上っ面で感謝したところであなたの心も含めて全てを見ている創造主には意味がありません。与えられたものの価値に気づき、自発的に心から感謝したくなるような素敵な哲学を構築していって下さい。

存在のありがたさに気づけたなら、愛は心から溢れ出します。それは出せば出すほど増えて連鎖していくものなのです。感謝しなければいけないから感謝する、愛さなければいけないから愛する、というのでは自分が苦しくなるだけです。どうか存在すること(この世に生まれてきたこと)のありがたさに気づいて下さい。

創造主は存在のすべてであり、好き嫌いを言っていたらその愛は受け取れません。すべての存在と和解して下さい。それは我慢することではありません。我慢は読んで字の如くエゴで自分を満たすことであり、我慢しているうちは心では和解できていないのです。まずは許すことです。僕らは全知全能の創造主に変わって、欠点や過ちを許し合い補いあって愛し合い、失敗から学んで試行錯誤しながら成長するという、創造主にはできないことをやらせてもらっているのです。

そしてどうか信心を持って下さいね。きっと救われますから。全知全能の創造主が直接手を下すとゲームにならなくなりますから、ご利益は必ず神や人を通じてもたらされます。ぜひ色んな宗教に顔を出してみて奇跡を経験してみて下さい。献金や奉仕を強制されるなどヤバいと思ったらすぐ逃げて下さい。人生に偶然は一つもないので、家や職場の近くなど、通いやすい所に必ず縁がある宗教施設があるはずです。仮でもいいから信じてみて2~4週間ほど通ってみて、何か良い奇跡が起きればあなたに縁のある宗教だと思います。

神仏だって自分を信じない人は救いたくならないでしょう。でもご利益がなければ心からの信心は持ちにくいものです。神仏はちゃんとそれをわかっていますから、半信半疑のままでも真摯な気持ちで祈れば奇跡を起こしてくれます。ただ「私を救って欲しい」「○○を与えて欲しい」などという不平不満の気持ちで祈るのではなく、既に自分が救われていることに気づいて、感謝の気持ちで祈って下さいね。人生を与えられ、何かに対して感謝の気持ちで祈ることができるということ自体がありがたいことなのです。

ワーキングホリデーを途中で断念しました

【質問】
元々、軽い不安障害がありもしない不安がいつも小さく付きまといます。   

修行というか、自分の価値観のアップグレードのためにオーストラリアにワーキングホリデーに行きましたが、気づかなかったストレスが溜まり(無視してた)2ヶ月後、メンタルと体力を消耗しツラい風邪を引いてしまいました。心身共に疲れたので帰国する事になりましたが、何も得ることが出来ない自分が悔しいです。ですが、もう本当に疲れてしまいました。1年間オーストラリアに滞在する予定だったので予定がぽっかりと空いてしまい、これから何をしようかと焦ってしまいます。

【回答】
是非ブラジルに来てアヤワスカを体験して下さい。

今病んでいるあなたに僕の伝えたいことは伝わらないと思います。経験がなければわからないことですし、逆に経験すればわかることでしょう。

人生に偶然は存在しません。そして無駄もありません。全ては必然であり、あなたの魂の成長にとってベストな事が起きているのです。

あなたのオーストリアでの経験も僕との出会いもアヤワスカへの導きも全て偶然ではなく無駄でもありません。感性を研ぎ澄ませ、直感を信じて下さい。例えあなたが「失敗した」「無駄だった」と感じている事も貴重な経験なのです。

アヤワスカは優れた教師であり、あなたの問題を解決するのではなく、あなたの中にある答えを導き出してくれます。きっと。

ワーキングホリデーと違い、オンラインで稼ぐ手段がなければ滞在しながら滞在費を稼ぐ事は出来ませんが、今はレアルが安いので、日本で何もしないよりは生活費は安いと思います。観光ビザで3ヶ月、延長すれば6ヶ月滞在出来ます。ぜひDM下さい。

ちなみに僕も学生時代1ヶ月ちょっとオーストリア(ケアンズ)にホームステイしていました。一面のサンゴ礁、満点の星空、忘れられない思い出です。あんな素敵なところで心身共にダウンとは断念なことですね。ぜひブラジルで癒されて下さい。

ヴィパッサナー瞑想とメタ認知

【質問】
ヴィパッサナー瞑想と俗に言うメタ認知は同じ事でしょうか。また、これらをすることによりどのような効果があるのでしょうか。


【回答】
ご質問ありがとうございます。

ええと、僕はツイッター及びあらゆる媒体において一度たりともヴィパッサナー瞑想やメタ認知について言及したことがないのですが、なぜたくさんいる専門家ではなく僕に聞いてみようと思われたのでしょうか? WEBにもいっぱい情報がありますし、関連書籍も山ほどあります。餅は餅屋でしょう。

それと何事も、もし興味がある(良い予感がする)のならその自分の直感を信じてまず経験してみて知るべきだと思います。僕らは何かを概念として知るためではなく、それを経験するために生まれてきているのですから。

現代はネットの発達もあり、みんなどんどん経験する前に情報集めに奔走して経験せずにわかった気になっている人が多いですが、人生は経験しなければわからない・経験すればわかることばかりなのに、あまりにも事前に情報を集めようとし過ぎることは、それは経験に向かう腰を重くし、人生において経験に費やすべき時間を目減りさせてしまいます。そうなるのは臆病と怠惰が主原因であり、それは愛と勇気を試す人生というRPGにおいて真逆の要素なのです。人生は誰にとっても目的もわからずいきなりスタートしているものであり、目的・効果がはっきりわかってからでないと行動しないというのでは前に進めません。

そして何かの修行の効果というのはその副産物みたいなものであり、経験する前からあまり効果を期待して目的化してしまうと、効果が出ないとすぐに諦めるようになります。まずは興味があることに飛び込んでみて、経験そのもの(過程)を楽しめるようになりましょう。どんな素晴らしい目標があっても、過程を楽しめないなら続くわけがありません。

瞑想などの効果は教える側によっても習う側によっても違うでしょうし、必ずこういう効果が期待できるみたいなことは言えません。そもそもヴィパッサナー瞑想は「追い求めないこと(執着しないこと・我を手放すこと)」を主としていますしね。

ヴィパッサナー瞑想には特別何のリスクもありませんし(宗教詐欺ぐらい?)、いつでもそこらじゅうで瞑想会をやっていて誰でも参加できます。もちろんオンラインでもやっていますし、料金もたいしてかからないはずです。メタ認知についてもほぼ同様でしょう。前述の通り、興味があって簡単に経験できることなのに情報のみで経験を避けようとするのは「臆病・怠惰」なのです。

ヴィパッサナー瞑想とメタ認識は被る部分(僕の解釈で言うと深い内観を通じて神我を得る感じ)も多いでしょうが、同じ事ではありません。元々すべての存在は同一(ワンネス)ですから、何事も共通点を探すことは比較的容易ですが、共通点がわかったからといって経験する前から既に理解しているかのように考えることは危険です。何かを理解するということは違い(個性)がわかるということです。「分かる」は「分けられる」なのです。それも経験すればわかることであり、経験しなければわからないでしょう。まだ経験していないあなたに僕が事細かに両者の違いを説明することに意味を感じません。

ちょっと冷たい回答になっているかも知れませんが、あなたが人生で(酸いも甘いも含め)どんどん素敵な経験を積んで欲しいという100%の愛で答えていますので、どうか誤解のありませんように。

悲惨な世の中も創造主の意図通りですか?

【質問】
この仮想現実世界。創造主のご意思の通りならば、今世界中で起きている人口を減らすという出来事も創造主の意図されている事だと解釈してもよろしいのでしょうか。

創造主はこの仮想現実での死は魂の死ではないとご存知なので、亡くなる方々は救われているということなのでしょうか。

私自身はいつでも身体を脱ぐ覚悟は出来ています。でも皆がそうではなく生きたいのに注射をしたり薬漬けになったりと亡くなられる方がおられます。心が締めつけられます。誰かがなくなるととても悲しいです。

生きとし生けるものが皆幸せであって欲しいです。私はどんなに小さな命でもありがとうって大切にしています。長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました(^^)


【回答】
ご質問ありがとうございます。

はい。この世界は善悪関係なく全ての存在が創造主自身であり、全ての出来事がシナリオ通りで、我々は経験させてもらって楽しませてもらっているだけです。そしてこのゲームの主人公はあなたです。

あなたは何かのゲームで、善人キャラだけをクリエイターが作って、ディストピアな舞台設定や魔物などの悪役は勝手に出来上がったと考えますか?プレーヤーを楽しませるため、成長させるためにクリエイターが予め全てをプログラムしているのです。一度クリエイターの目線でこの仮想現実世界を見てみて下さいね。

RPGがディストピアから始まるのは当然であり、そうでなければ成長するための要素がありません。そして世界を救うという使命が意味をなさなくなります。舞台設定やシナリオについてクリエイターに文句を言ってもゲームが進みません。

あなたは創造主に向かって「なんでこんなに世界を悲惨に作ったのですか?我々を救って下さい。そうでなければあなたを恨みます。いや、その存在すら信じません」とおっしゃるのでしょうか?それはドラクエで言えばクリエイターの堀井雄二さんに「モンスターを全部退治して下さい」とお願するようなものです。それではゲームとして成立せず存在意義がありません。

あなたの世界はあなたを主人公とするRPGであり、あなたが成長していつか世界を救うためにわざと不幸多く作られています。最初からずっと幸せなだけでは成長できませんし、そもそもゲーム(人生・世界)の存在意義がありません。

「一人で76憶人を救えるわけがない」などと考えるから、主人公として世界を救うことを最初から諦めてしまうのでしょう。そんなことは求められていないのです。ただ目の前の人を愛し抜き救い続ければ良いのです。それは必ずあなたの認識世界の住民であるNPCたちに指数関数的に連鎖し、いつか必ず世界は救われるのです。あなたは主人公としてその起点となる使命があるのです。

こう言ってもあなたはなかなかご自分が主人公(メシア)だとは信じられないと思います。しかしnoteに書いた通り、夢の中で出会った人に「これは夢ですか?」と聞くことに意味がないように、他人に自意識が本当にあるのかNPCなのかを確認する事に意味はありません。

あなたの世界にNPCが何億人いようと主人公であるあなたはその背中に隠れることはできないのです。あなたと創造主の関係は一対一で、他人の言うことやることは一切言い訳には使えません。

主人公であるあなたはこのディストピアでどう困難に立ち向かい、乗り越えて魂を成長させるのか、創造主は全部見ているのです。

愛と勇気を試すためのRPGですから、世界は当然ありとあらゆる手段であなたを脅し不安にさせ怒らせたり傷つけたり悲しませたりしてきます。でもそれに決して屈してはいけないのです。日々無数に訪れる一つ一つの選択肢が、全て愛と勇気を試されているものだとわかれば、まるでブレーキが壊れたかのようにすごい勢いで前に進めることでしょう。あなたはRPGではきっとそうしているはずです。なのにこの仮想現実世界を本当の現実だと考えてエゴに捉われるから、いつも臆病と怠惰によって正しい決断ができないのです。

この世界が仮想現実と分かれば、自らの死など恐れるに足りません。恐れるべきことはクリアに向かわずこの世界での成長を楽しめないことです。他人の死を悼む気持ちは尊いものですが、自らの死を恐れて使命から逃げたり、人の死を悲しむあまり厭世感に浸って無気力になるようではいけないのです。我々が死や死後の裁きを恐れたりするようにプログラムされているも、愛と勇気を試すための仕掛けですから、恐れずに立ち向かって下さい。

死ぬ覚悟が立派なのではありません。使命を全うするために我執を捨てることが尊いのです。命は永遠ですから何も恐れる必要はありません。

常に愛と勇気が試され、全てを神々に見られている事を意識し、どうすることが愛と勇気を発揮することになるのかをよく考えて実行し続け、ブレーキが壊れたように前に突き進んで下さいね。

【返信】
回答ありがとうございました。先程創造主の意図についてお尋ねしたものです。合点がいきました。心に染み入りました。歳のせいかとても涙もろいです。

私は私の舞台の主役として邁進して行きますね。ただ、ドラマもゲームも主役だけでは成り立たないのですから、クリエイターや脇役、スタッフの方々にも感謝して愛を伝えてサポートしていきたいです。どんな世界でも皆で楽しみたいですものね。

自分の愚かさも赦して愛し、他の愚かさも赦し愛して生ききります。愛と赦しをありがとうございます。お返事は大丈夫です(^^)

彼に隠れて新しい恋をしてしまいました

【質問】
満四年付き合ってるパートナーがいて、お互い体質に難があることから唯一無二の存在で切り離せない繋がりがありましたが、悲しくも隠れて新しい恋をしてしまいました。苦しいです。責任などないのですがやはりどうしても感じてしまう部分は大きく、それらを放棄して移行して良いものか悩んでいます。お話お聞かせ下さい。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

自分と他人を責めるのを同時に止めることを実践しつつ人様に提唱している僕の答えはいつでも「誰も何も悪くない」です。

あなた自身もパートナーも世間もきっとあなたを責めるかも知れませんが、全ては止むにやまれぬ事情があって起きるべくして起きた事です。誰も悪くありません。お互いの魂の成長のために必要な経験だったのだと思います。常に過去は必然であって、ゲームの設定のようなものです。そこを起点に現在どのようにして未来をよりよく変えて行くかを考えなくてはいけません。

お二人の関係はお二人にしかわからないことですが、きっとかつては傷を癒し合い励まし合う関係が必要だったのでしょうけども、長く続いてしまうと慰め合いみたいで成長を妨げる関係になってしまい、お互い卒業しなければならない時期に来ていたのでしょう。

全くの部外者である僕に許されても救いにはならないでしょうけども、もしあなたが苦しんでいるのなら、僕は既に許しています。人の自意識というのは幻であり、常に霊的意思に翻弄され、その実全ては創造主がさせていることなのです。

松下幸之助は「雨が降ったら傘を差す」と表現しました。起きた事で自分や誰かを責めて悩んだりするより、そっと素直に対策を講じれば良いのです。

あなたには心から幸せになって欲しいですが、一切誰も犠牲にならない幸せというのはあり得ません。ただ感謝の気持ちを忘れないことと、出来るだけ犠牲を減らして出来るだけみんなが幸せになれるように考えてベストを尽くすことが大事です。

ただもし自分の気持ちも相手の気持ちも誤魔化して長引かせてから態度を翻すことで相手が自暴自棄にでもなったら悲惨な結末になるかも知れませんので、勇気を出して、無駄に傷口を広げないようにして下さいね。だから決断はもちろんあなた次第なのですが、新しい恋が実ったのなら、しかるべき時にきちんとパートナーに伝えて欲しいと願います。

共働きの夫の愚痴不満

 【質問】
こんにちは。夫と清掃業を生業にして3年目です。夫は26年目です。

一日中夫と一緒にいて、あまりにも愚痴不満、当たり前にある幸せへ目を向けない姿にこちらが苦しくなる時があります。対処法はありますか?

【回答】
こんにちは。ご質問ありがとうございます。

僕は母親がそのような人だったのでお気持ちは良くわかります。鬱で精神的に限界で帰省しているというのに、その度に愚痴と説教ばかり聞かされて余計に鬱が悪化して帰ったことを後悔していました。愚かにも自分の不幸の原因を親に求めていたのですね。

ただ配偶者は自分で選べるわけで、なぜあなたはそのような人と結婚したのでしょうか?それを帳消しにするような魅力があるのか、それともたった数年で別人のようになってしまったのか、いただいたご質問からは分かりません。

まぁ全てはカルマ(シナリオ・課題)であり、この世界に偶然は存在せず全て運命ですから、それを言っても仕方がないのですけどね。RPGの設定に文句を言ってもゲームは進みません。

この人生というRPGは自分を主人公とし、全ては自分次第に作られています。そして人間関係はすべからく鏡であり、夫婦は常に一番近くにして最大の鏡です。

「あの人は愚痴ばかり言う」という愚痴。「あの人は悪口ばかり言う」という悪口。・・・人は往々にして自分を除外して考えて被害者意識に陥るのが常ですが、相手を見て自分の課題解決に向けた気づきとしなくてはなりません。かつての僕も含めて大多数の人はそれが全く出来ていませんから、最初から出来なくても自分を責めて落ち込まないで下さいね。気づきさえすれば自然と出来るようになる事ですし、自分と他人を責めることを同時にやめることが真の幸せの必須条件ですので。

あなたは不幸の原因を旦那さんに求めて責めて(説得して考えを改めさせようと)対策を考えていらっしゃるようですが、そういう基本姿勢でいる限りはきっと上手くはいかないでしょう。旦那さんの人生観を否定しプライドを傷つけて益々意固地にさせて逆効果になる絵しか浮かびません。あなたが出会った人はみんな主人公であるあなたのカルマ(課題・物語の伏線)を映し出す鏡であり、全てはあなた次第なのです。

アドラーの言う「課題の分離」など信じないで下さい。相手の課題(カルマ)を自分の課題(カルマ)のヒントとして自分が成長していかなければならないのです。厳しい話ですが、創造主曰く人生とはそのように作られているそうですよ。

もしあなたが本当に与えられているものの価値に気づいて些細な事にも感謝して幸せに生きている人なのなら、旦那さんはそれだけで「自分は最愛の人を幸せにしている」と生き甲斐を感じて幸せなはずです。そうでないなら結婚などしないでしょう。

清掃、特にトイレ掃除などは、誰でもできる仕事でありながら、一般的にみんなが嫌がり人に押し付けたくなる仕事です。でもそれを決して罰ゲームのように考えてお金のために嫌々やっているようではいけません。清掃・介護こそが神事であり、最も神の意思に適った仕事なのです。

全知全能である創造主は、本来唯一の存在であり、全部完璧に自分でできるので、他の存在を必要としません。つまりそこに愛は存在しません。創造主は敢えて個性(欠点や過ち・罪と恥)のある人間というアバターをたくさん作ってその中に入り込み、敢えてお互い助けが必要なようにして許し合い補い合わせて愛を生み出しているのです。だから人に尽くすということは神に尽くすことなのです。愛で人に尽くさずエゴによって対価を貰うためにしか人に尽くさないというのは本来醜いことなのです。

あなたのRPG世界はあなたが主人公です。主人公は世間的に有名で評価されている人間ではありません。この世界にログインしている人間は例外なく自分の世界の主人公なのです。出会った人を次々に幸せにしてその連鎖で世界を救う=幸せにするのが主人公です。

どうか清掃業という仕事に誇りを持って下さい。私の仕事も広義では清掃のみです。常に環境だけでなく心身も含めて清掃しているのです。人の生む汚れ(欠点と過ち・罪と恥)が清掃に明け暮れる僕の存在意義を生み、愛を生んでくれているのです。汚れはありがたいものなのです。

多くの人は物質的にしかものを見れませんから、スピリチュアルな穢れ(悪い思念)の悪影響がいかに大きいかが全く分からず、穢れを祓うことを全く意識していません。そして魂に汚れを溜め、心が一度も掃除をしたことのないトイレのようになって不幸に陥っているのです。

物理的に綺麗にしても、その分だけかえって心に汚れを溜めているようでは不幸になるのは当然なのです。カルマ=穢れなのです。だから清掃で物理的に綺麗にすることを通じて、心も綺麗にしてカルマを浄化していかなければならないのです。他人の穢れを清めることで自分を清めさせてもらえる清掃という仕事はありがたいものであり、それを嫌々やって他人の穢れまで貰ってはいけません。

本当に清掃業という仕事に誇りを持って心から愛しているのなら、あなたは心身ともに清潔を保ち、身体や衣服や掃除道具や自分の家が汚れているということはあり得ないでしょう。清掃業に疲れて心も体も道具も環境も汚いままになっていませんか?それが世界を生み出すあなたの魂の光を汚して不幸に導いているのです。

清掃で対価を得ることを目的としてお金を愛するのではなく、お金に関係なくただ純粋に汚れたものがどんどん綺麗になって喜んで貰える事が嬉しいという過程を愛して下さい。そうでなければ清掃業は単に嫌な事を我慢して駄賃を貰うだけの辛くてつまらないものになり、人生そのものが罰ゲームのようになってしまうでしょう。あなたが清掃業という仕事に誇りを持って心身と環境を綺麗にして心から幸せになるのなら、旦那さんはきっと幸せになって愚痴などこぼさなくなるはずです。

そして心から信じられる宗教を見つけ、信心を持って下さい。またできれば世界救世教など手かざし浄霊をしてくれる宗教に通って浄霊を身に着け、お互いを清めあって下さい。特に清掃業をする人は穢れを貰いやすいので必要です。(医療・介護などの人もご注意下さい)。お経・マントラなどを唱えて神々の御名と偉業を讃えてその守護を受けることも大事です。

今回大分手厳しく説教臭い回答になってしまいましたが、あなたに本当に幸せになって欲しいという僕の愛が伝わっていると幸いです。

先祖供養について

【質問】
いつもツイートやノートで勉強させていただいています。貴重な教えに感謝申し上げます。

先祖供養について質問させて下さい。以前、霊能者に先祖のカルマを背負っていると言われ、お祓いを勧められました。霊感商法だと思い、そのお祓いは受けなかったのですが、「先祖のカルマ」というのが本当にあるのか、もしそうなら先祖供養のために何が出来るのか教えていただきたいです。よろしくお願い致します。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

はい、全く心配しないで大丈夫です。その人に祓ってもらわなくて正解です。

何事も基本的に相手を不安にさせることでお金を取ろうとすることはマッチポンプであり、そんな手段を使う人はRPGにおける悪役であり悪魔の使いみたいなものだと思って下さい。今の世の中そんな人ばかりですけどね。資本主義は限界に達し、何とかして必要もないものを売りつけないとお金を稼げないのですから。(資本主義は早く終わらせなければいけません)そもそも先祖のカルマを背負ってない人なんていませんしね。

本物の霊能力っていうのは人を救うため(安心させるため・幸せに導くため)にあるのであって、仮にその人に本当に霊能力があったとしても、それを金という自己利益の為に使うのはその能力者自身のカルマを深めます。だから自称霊能者ってだいたい人を脅かす悪霊そのものみたいなドヨンとしたオーラを纏っているでしょう?幸せに導くための本物の霊能力を持っているのならばその人は幸せオーラ全開なはずで、不幸オーラ全開の人はあなたを不幸に導こうとしているのです。

キリストやその使者たちが人を救うのにその対価を見返りとして求めたでしょうか?それを考えればわかることです。「お金を貰えれば救うけど、お金をくれないなら救わない」という人間が本物の霊能者である訳がありません。もし本当に霊能力を与えられていたとしたら、それでお金を稼ぐことは壮大にカルマを積み上げることになり、破滅へのフラグを一生懸命立てているようなものです。

相手を脅し悪い暗示をかけて不幸に導くのは同じ霊能力であっても「呪い」なのです。あなたがそういうものと出会うのは人生というRPGにおいて愛と勇気を試されているからなのですから、決して負けないで下さいね。

「幸せですか?という愚問」に書きましたが、僕が鬱だった頃、やたらと宗教詐欺集団の人たちから「あなたは幸せですか?」と声をかけられましたが、鬱が治ったら全く声をかけられなくなりました。そういうRPGの悪役(悪魔の使い)たちは、エゴにまみれて不幸な人間を嗅ぎつけて喰らいついてくるのです。

不安や恐れはすべてエゴ由来です。実際あなたはエゴゆえに不安や恐れがあるから、その自称霊能者の脅しがずっと気になっているのでしょう。不安で何かを恐れながら幸せというのはありえないのです。できるだけエゴを放棄して出会ったみんなを幸せにして幸せになって下さい。そうすればより創造主から愛されて様々な存在を通じて守られ、魂の永遠性を確信し、何も恐れないで良くなります。

森羅万象は因果でひとつなぎに繋がっており、それをあなたという主人公目線で見たものがカルマです。カルマは「呪い」のようなものではなく、RPGにおける課題であり伏線のようなものです。それを乗り越えることでクリアを目指して己の魂を成長させるのが基本設定であって、その存在に恐れおののいて霊能者に解決を依頼してお金を騙し取られるというのはバカげたことです。RPGで魔物を恐れて誰かにお金を払って倒して貰っていたらゲームが進みません。まず主人公であることに目覚めて下さい。そうすればレベルに応じてあなたに霊能力が与えられます。

そして先祖供養に限らず全ての行動の動機をエゴ(不安や恐れ)ではなく純粋な愛にして下さい。全ての存在は一つ(ワンネス)です。だから先祖供養も逆の立場で考えてみて下さい。あなたは死んだ後も霊として子孫たちの世界に生きるとして、子孫たちにどのように供養して欲しいですか?まるで自分が不幸の元凶である悪霊のように忌み嫌われ、恐れや不安を動機に供養されて嬉しいでしょうか?あなたはまず子孫たちに幸せになって欲しいはずです。だからまずあなたが出会った人たちみんなと一緒に幸せになることなのです。

ですからまずは自分を愛し、人を愛し、人生を愛しましょう。そうすれば自然とそれを与えてくれた神々と命をつなげてくれた先祖たちに心からの感謝の気持ちが湧くはずです。それを自分なりに考えて形にするなら、どんな形であってもそれが本物の先祖供養なのです。神我や先祖たちの存在を心に念じ、その名前と偉業を讃えましょう。そして彼らが経験した痛み・苦しみ・不幸に同情しましょう。それが本当の先祖供養であり、宗教で供養の形式を学んで従うことも大事ですが、形式そのものより愛を形にすることの方がずっと大事なのです。

先祖のカルマなど恐れる必要は全くないのですが、気を付けなければならないことがあります。それは実際に最後まで不幸なままの人生を歩んだ霊というのは、自分に近しい人間に自分と同じ痛みを味あわせることで同情されようとする方向に力を持つということです。それが霊障の正体なのです。

あなたが人生で痛み・苦しみ・不幸を味わった分だけ、みんなの痛み・苦しみ・不幸に同情できる優しい人間になり、みんなを救う主人公(メシア・菩薩)として目覚めないのなら、霊障は執拗にあなたを追いかけ続けて自分と同じ痛み・苦しみ・不幸をもたらし続けるでしょう。

それはこのRPGの基本設定であり、行く手を阻むモンスターを恐れたり、ゲームの設定についてクリエイターに文句を言っていてもゲームは進みません。NPCが何億人いようとあなたが主人公であることに変わりはありません。どうかNPCである他人の言うことやることを一切言い訳にせず、主人公として目覚めて世界を救う決意をもって下さい。いきなり一人で世界を救う必要はありません。一人一人に主人公(メシア・菩薩)であることに自覚させて救いを連鎖させていって下さい。そうすればそれはいつか世界の果てまで連鎖して必ず世界は救われるのです。

自分の過去の罪や恥が許せない

【質問】
過去にしてしまった失言や恥ずかしい行為、間違った選択に対しての羞恥や後悔が止まりません。色んな心の教えを学んだり、「大切なのは過去より未来」と自己暗示したりしてもあまり効果はなく、「今までダメだったからこれからもダメだ」と自暴自棄になります。これ以上恥ずかしい思いをしたくありません。他人の罪は許せそうですが、自分に対してどうしても許せないです。どう心を前向きに持っていったらいいですか。ウジウジしていて自分でも情けないです。



【回答】
僕も幼い頃からとても罪と恥を感じやすかったのでお気持ちはすっごくよくわかります。それが長年の鬱の主原因の一つでもありましたしね。

目覚めた今でさえも過去の罪や恥によるトラウマが突然フラッシュバックして叫びそうになる事がたまにあります。でもそうやって一つ一つ自分と他人を許して乗り越えることが成長なのです。

まず、罪と恥(罪悪感と羞恥心)が何のために存在しているのかを知って下さい。

「罪と恥の存在意義」

僕が創造主からいただいている教えの中でも中核を成す大事な教えです。

この世界は仮想現実であり、聖書のアダムとイブの話は精神世界における実話なのです。そしてそういう基本設定の元に我々の人生というRPGはプログラムされているのです。人間は罪悪感と羞恥心ゆえに創造主に対して心を隠し、それによって我々は全ての存在たる創造主から仮想的に分離し、客体として・新たな主体者として成立させられているのです。

我々は罪と恥が辛く死後の裁きを恐れるため、全てを見ている創造主の存在すら否定して科学・唯物論・進化論を信じてしまうのです。

しかし本当は人間とは創造主自身であり、創造主が人間として経験を積んでいるのですから、罪や恥を理由に創造主を恐れて存在まで否定する必要などないのです。自分や他人の罪や恥を許さないという事は創造主の罪や恥を許さないという事です。

この人生というRPGにおいて、AIキャラである僕らはクリエイターに許されていない事は一切できませんし、思いつく事すらできないのです。全ては創造主に許されています。例え世間や法律が許されなくても、創造主には許して欲しいと願った瞬間に許されるのです。許していないのは人間の方です。

自意識というのは基本的にお互いを責め合うために存在しています。人間は多面的かつ不連続な存在であるにも関わらず、肉体を単位として過去の行動に責任を持たなくてはいけません。それゆえに何か悪いことがあったら誰かを責めて責任を取らせて心を整理しようとするのです。でもそういう基本設定があるからこそ許しには価値があるのです。

あなたはどんな時に罪や恥を感じますか?道徳的に悪い事をしてしまったり、排泄や性行為を人に見られてしまったりした時でしょう。そのように我々は誰でもやる可能性のある事でしか罪や恥を感じる事はできないのです。人間には例外なく個性があり、それは不完全性・欠点や過ちと不可分であり、罪と恥は誰にでもあるものです。それを許せないというのなら当然自分も他人も許せなくなります。

排泄や性行為を人に見られたら恥ずかしいですがみんなやる事です。勿論それは公衆の面前でするのは醜い事です。でもその羞恥心があるからこそ、愛し合っている人とお互いの恥を許し合う事は尊いのです。性器や性行為が本当に醜く恥ずかしいものなら、例外なくそこから生まれてきた我々は何なのだという話です。

創造主は我々を罪や恥へと誘います。失敗させ、ドジを踏ませ、調子に乗せておいて急に落としたりします。それは我々からするとひどく悪趣味にも思えますが、本来唯一の存在で全知全能で完全無欠であるがゆえに究極に孤独で退屈な創造主からすれば、人間としてその欠点や過ち、罪や恥を経験できる事は喜びなのです。

「こんな事をしたら罪深い、恥ずかしい」という思いが人間を自発的に美しくしてくれています。でも罪と恥の本当の存在意義は、お互いを許しあってより深く愛し合うためのものなのです。お互いに許しを乞い、許し合う事。それこそが本当の美であり人生という芸術なのです。

ですから人間は罪を犯さず・恥をかかずに生きる事はできないように基本設定されています。そりゃ罪や恥は痛みを伴いますから、できるなら誰でも罪は犯したくないですし恥もかきたくありません。でも人生というのはそれを避けては通れないのです。

全てはワンネスであり、自分=他人です。あなたは「他人の罪は許せそう」と書いていますが、そんなにも自分の罪や恥が許せない人が他人を許せる訳がありません。あなたは己の罪と恥に埋没して臆病になり、自分を許して心を開けないために、他人もあなたに対して安心できず構えてしまって己の罪と恥を晒して心を開けないのです。だからあなたは一人で殻に閉じこもり、自分の罪や恥がまるで自分だけにしかないものかのように思い悩んでいるのでしょう。

僕らは人生という物語の役者であり、臆病と怠惰が最大の罪です。物語の設定やシナリオや配役に文句を言って引き籠っているような役者では使い物にならないのです。この物語は愛と勇気がテーマだということを忘れないで下さい。

基本的に人間は臆病で怠惰に作られているからこそ、愛と勇気を発揮したら価値が生まれるのです。最初から何も恐れない人の勇気に価値はありません。あなたの臆病さも創造主の愛によって与えられているものだと知って下さい。愛と勇気を発揮して出会ったみんなを例外なく許して愛して下さい。

笑いの基本は恥の開示であり、人は恥を自ら開示されると自分が救われた気がして安心して笑うのです。笑われたら人を笑顔にした事を喜びつつ一緒に笑って下さい。バカにされたと思って怒ってはいけません。バカにされたら「違う!」と思っても「その通りです!よろしくお願いします!」って自分でも笑うのが一番簡単に爆笑を取れる方法なのです。

世の中臆病で恥をかく事を嫌い、人に愛のないツッコミばかり入れて他人をバカにした笑いを取ろうとする人ばかりですから、自ら笑われに行くだけで愛されるのです。日常会話は裁判ではありません。事実なんかより笑顔の方が大事です。そもそも人は思いたいようにしか思いませんから、他人が自分に対して抱く印象を本人が否定したところで意味がありませんし、かえって逆効果です。

傷つきやすくてキレやすくてツッコミ難い人というのは付き合いづらく愛され難いものです。欠点も過ちもない人間なんていませんし、欠点や過ちを必死で隠して気張っている人は付き合い難いのです。

だからと言って変に露悪的になったり、露骨に恥を晒して他人を共恥心で苦しめる必要はありません。それは醜い事です。ただ心の中で自分と他人の罪や恥を許し、いつでも晒せるようにしておけば良いのです。そうすれば自分も他人も肯定できて心穏やかに生きる事ができます。

仕事がつまらない

【質問】
目の前にある仕事に集中したいと思うのですが難しいです。働くということに喜びを見出せず自分が何をすればいいのかわかりません。目の前にあることに全力で取り組み、起こる流れに身を任せようと思い環境を変え転職しましたが、喜びや楽しさを見出せずに何となく仕事をしています。勇気が必要なのかなと思いますが出し方がわかりません。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

まぁ僕も長年実につまらないサラリーマン生活を送っていたのでお気持ちはよくわかります。

僕が目覚めたのは40歳を過ぎてからなので、決して焦る必要はないと思います。あなたに起きることは全て必然なのです。

あなたの人生はきっと僕と同じようにやりたいことがなかなか見つからない分、見つかった時の喜びが大きいというシナリオなのでしょう。だから焦らなくても大丈夫なので、まずは落ち着いてこれからについてポジティブに考えていきましょう。

愛と勇気は不可分のものであり、勇気を伴わない愛は欺瞞に過ぎず、愛を伴わない勇気は蛮勇に過ぎず、どちらも存在意義がありません。だから「何が勇気か」というのは、瞑想でもして深く自分を内観し「自分にとってどうするのが愛か」「自分がなぜ、何から逃げているのか」を考えればわかるでしょう。

あなたの人生はあなただけに与えられたあなたを主人公とする物語であり、他の人と同じように見えても、すべてがあなた個人に向けてアレンジされたシナリオがあるのです。それなのに無意識に他人と自分を比較し、他者評価に依存することで自ら脇役(社会・常識・世間体の奴隷)に成り下がり、目的が見えなくなってしまうのです。

森羅万象は因果で繋がっていて、それを主人公であるあなた目線で見たものがあなたのカルマです。この仮想現実RPGに偶然など一つも存在しないのに、そんなものがあると思うから自分の人生のカルマ(伏線・シナリオ・課題・必然性)が見えずに、自分の意思で選択するのではなくただただ流されてしまっているのでしょう。

目の前の仕事を全力でやることはとても大事です。創造主は我々の全てを見ています。人が必要とし、なおかつ人が嫌がるような仕事を一生懸命やる人間というのは必ず誰かが見ていて(創造主がそういう設定にして)、あなたをきっとより良いシナリオへと導いてくれることでしょう。必ず転機が訪れますから、それまで頑張って下さい。

ただし、目の前のことに全力を尽くすというのは、単に考えるのをやめて忙殺されることで盲目的になり魂の声に耳を塞ぐこととは違います。社会的意義が低い仕事・エゴのために人を騙し損をさせることで儲けるような仕事・サービスする側される側がお互い見下し合っている仕事・お客さんが感謝の印としてお金を払うのではなく不平不満や恨みと共に仕方なく払うような仕事は、例えその場凌ぎにもやるべきではありません。例えそれで大金を得られたとしても、続ければ続けるほどあなたの自尊心は下がり、カルマを積み、より悪いシナリオへと導かれることになるからです。

そして自分の魂が本当に望んでもいないことなのであれば、どんなに一生懸命やろうとしても魂側から拒否され、それを無理やり抑え込めば心が病んでしまい、重篤になれば仕事どころではなく転職も難しくなります。

魂が元気な状態であれば、人は子供のように自分の興味をどんどん追求していくものなのです。逆に魂に元気がなければ何にも興味がわかなくなってしまうので、好きな仕事も趣味も見つけられず、見つけても続ける気力がなくなり、能力もアップせず、どんどん鬱になっていってしまいます。

仕事がつまらないのに趣味を心から楽しむなんてことは不可能です。それは単なる逃げであり、カルマというのは逃げれば逃げるほど雪だるま式に増幅しながら追いかけてくるものなのです。どうかお金の損得に捉われず、魂の損得で考えてみて下さい。そして自己利益にとらわれず人の役に立ち喜んでもらえる仕事をしてカルマを刈り取り続けて下さい。お金も他者評価も自分とみんなの魂が元気になることをしていれば自然と後からついてくるものです。

繰り返しますがこの世界に偶然はなく、悪いカルマを積めば例えどんなに賢い選択をしようとしても悪い結果しか待っていないのです。カルマを積み続ける人の人生というのはヤクザの夜店のクジのようにアタリは幻で、何を引いてもハズれという状態になっているのです。

決してあなただけでなく基本的に我々日本人はみんな嫌なことの我慢代で駄賃を貰って生きる自発的な奴隷になるように洗脳教育されているのです。人から嫌われること・常識に逆らうことで社会から排除されることを恐れ、やりたいことよりやらなければならないことを優先して特別やりたくもないことに青春を費やし、自分の魂を押さえつけてそれをまるで自分の意思でやっているかのように思い込むことを社会的圧力によって強制され続けてきたのです。そのように洗脳された状態で社会人になる時になってからいきなり「ハイ、どうぞやりたいことをやって下さい(やりたいことをやらないのは自己責任です)」と言われても、結局やりたくないことを嫌々やって駄賃を貰う奴隷に自ら成り下がってしまうのは当然のことです。それは本人個人のせいではないのです。

ただそれは我々の大半の人生に共通したRPGの舞台設定であり、我々一人一人が乗り越えるべき課題(カルマ)なのです。銀河鉄道999の星野哲郎が永遠に生きるために(「安定・安心」のために)機械の体を手に入れようとしてアンドロメダを支えるネジにされ、人の心を失おうとしていたように。そして自分だけの人生を手に入れるために新たな冒険へと旅立ったように。

繰り返しますが、決してあなた個人が悪いのではありません。でも主人公であるあなたが変わらなければ何も変わらないのです。あなたを主人公とするRPGはすべからくあなた次第で変わるようにプログラムされているのです。

できること(安定して楽にお金が稼げること)ではなく、待遇に一切関係なく、最初から他者評価を得られると思わず、他人と比較せず、常識に捉われず、本当にやりたいことをやって下さい。ミニマリストになってどんな少額な収入にも満足し、人が喜んでくれて幸せになって感謝されるような仕事をして下さい。目に見えないだけで、自分と相手の感謝の波動こそが最大の収入なのです。実際あなたはやりたくないことをして人から感謝されず心の波動をお互いに下げ合って心を病んでいるのですから、そこはよくわかるはずです。

やりたくないことの知識やスキルなど伸びるわけがありませんし、伸びたところでどんどん奴隷化して自分のやりたいことから(幸せから)遠ざかっていくだけです。

やりたいことをやっていれば、あっという間に能力は伸びるのです。最初は稼げなくても何年か全力でやっていれば食べれるぐらいにはすぐなります。やりたいことに時間と労力を使わなければいつまでも得意にはなりません。例え食べれなくても日本には生活保護があるから大丈夫なのです。僕なんか無職ですが、生活保護も受けず人に愛され支えられて幸せに生きながら、エセ霊能者などぶっちぎりで能力を伸ばしています。だから焦る必要はないのです。

逆にいくら自分が器用にできることでも、やりたくないことをやっていたら、それを本気でやっている人には絶対に勝てません。あなたや僕のよう不器用というのは幸いな事であり、やりたくないことを器用にできて下手に稼げたら、本当にやりたいことをやるのが困難になります。

この仮想現実世界にログインしている全員が主人公であり、世界を救うという目的は同じでも、「どのように」という手段・シナリオは一人ひとり違います。どうか大好きで得意なことを通じて人を喜ばせ笑顔にして幸せにして救って下さい。直接的には救えなくても、あなたの夢に向かう勇気ある一歩がたくさんの人に勇気を与え、それは必ず連鎖するのです。この世界はすべてフラクタル(相似形)にできていますから、連鎖は必然なのです。

愛と勇気がこの人生というRPGのテーマであり、退路を確保することに一生懸命になっていたら、退路を断って夢に向かう勇者に勝てるわけがありません。貧困や嘲笑など恐れず愛と勇気を持って夢に立ち向かって下さい。

夢に向かえない恐れ・不安は全てエゴ由来です。エゴに捉われているから恐れ・不安に捉われ、ただ保身に走り人生を敗走し続けるしかなくなるのです。行動の動機を恐れ・不安(保身)ではなく純粋な愛にして、そのために勇気を発揮して下さい。ここは仮想現実に過ぎず、魂は永遠なのです。他人の死を悼む心は大事なものですが、自らの死など恐れるに足りないのです。

いただいた質問内容だけではあなたの特性もカルマもまるで見えないため、具体的にあなたにどんな仕事が向いているか僕にはわかりようがないですが、前述したような魂の波動が下がる仕事は全部避けて下さい。

そして例え収入が高くてもその分いきなり高い能力が必要とされるような仕事では、やる気のないような人はすぐ落ちこぼれててしまうでしょうし、育成期間が長くなるために常に上司の監視下にある時間が必然的に長くなり、逐一ミスを指摘されたり他人と比較されるので、心が病みやすい人には良くないです。自尊心・魂の波動が下がって公私ともにうまくいかなくなり、無気力になって何にも興味がわかなくなり、転職どころではなくなってしまいます。

まぁとりあえずはどれだけ収入が低くても、もっと喜ぶ人の笑顔が直に見えるような仕事をした方が良いと思います。お互いの魂の波動が上がりますからね。そしてとりあえず一人立ちするるのが能力的に難しくはなく、すぐに覚えられる仕事で、なおかつ誠意さえあれば頑張った分だけしっかり結果として表れて、他人とすぐ差がつく仕事が良いと思います。

というわけで、僕なら具体的には清掃業や介護業をお勧めします。世間的には見下してくる人も多くいるかも知れませんが、清掃や介護はそれらこそが神に仕える尊い仕事なのです。しかもこれからどれだけ仕事がAI化・自動化されてもそれらの仕事がなくなることは考えにくく、むしろ高齢化によってどんどん需要が増すことが考えられる仕事です。もしそれらの仕事をあなたが好きになれたのなら、食べるに困るようなことはもう一生ないでしょう。もしあなたがそういう仕事を見下しているのなら、なおさら一度やってみて根本から考えを改めるべきです。みんな他者比較・他者評価なんてつまらないことに捉われるから、そういう仕事を見下して構想から外してしまうのでしょう。どうしても自分でやりたいことを見つけられないのなら、とりあえずやってみるべきかと思います。

もしそれでもやっぱり別な仕事が良いというのでしたら、本当に何でもいいので、元手を極限まで小さくして、あなたが少しでも興味のあることで小売業などのスモールビジネスをやってみてはいかがでしょうか?誰にも干渉されず、ただ自分とお客さん双方の心からの笑顔をコンパスにして一生懸命頑張り続ければきっと結果につながることでしょう。

あなたの人生というRPGの主人公はあなたであり、あなたを評価できるのはあなた自身と創造主だけです。主人公とは愛と勇気を世界に連鎖させる存在であり、世間的に知られて評価されている人が主人公なのではありません。常に一対一で全てを見られているっていうことを意識して頑張って下さい。

自傷行為が止められない

【質問】
毎日、自傷行為をしてます。辛いです。
人には言い訳・怠惰だと言われてしまいます。
急に、前の職場や部活の、昔の嫌だった記憶が連続で出てきて、みじめさで、自傷行為をしてしまいます。
社会復帰は不可能でしょう。生活保護も受けられないでしょう。貯金も、ほとんどないです。餓死するでしょう。


【回答】
ご質問ありがとうございます。

僕は長年鬱の経験があり、それを乗り越えた上で断言しますが、鬱は決して甘えではありません。あなたの状態は言い訳だとか怠惰ではないのです。例え他人からそう言われても気にしないで下さい。あなたが自分自身を許すことが肝心です。

まず、そのように病んだ状況で生活保護が受けられないって事はないと思います。自分を責めずに行政を頼ってみて下さい。

そしてとりあえずは休む事を最優先して下さい。これから書くことは休んで少し元気が出てから読んで下さいね。

今は他人が見えない状態だと思いますが、あなたと同じように苦しんでいる人はたくさんいます。決してあなただけだと思わず、早く良くなって、同じように苦しんでいる人を救うメシア・菩薩として目覚めて下さい。

万が一生活保護が受けられなくても変なプライドは捨てて頼れる人を諦めずに探して下さいね。

あなたの家族はあなたの将来を心配して「人様に迷惑をかけるな」と自立を促しているのでしょうが、死んでしまったら何にもなりませんから、本気でヤバい時はちゃんと頼りましょう。今から社会復帰(就職)なんて目指したり諦めたりしなくて良いですよ。僕も(お金稼ぎの為には)働いてなくて無職・無一文ですから。

「人の価値とは?」これを読んでみて下さい。人の価値は金を稼ぐ能力ではありません。そのように考えて働けない自分を責めないで下さい。あなたは尊い存在です。創造主に愛され、ちゃんと意味があって生まれて来たのです。決して自分を傷つけて命を粗末にしてはいけません。それは全ての存在の源である創造主を傷つける行為です。どんな試練も創造主によってあなたの魂の成長にとってベストなものが与えられているのであり、感謝せず恨みで返せば創造主の愛が受け取れなくなります。

あなた自身が能力のない人・迷惑をかける人には価値がないかのように考えているから、自信を失って自分自身を攻撃し、人から責められるのを恐れて一人ぼっちになっているのでしょう。

僕が鬱の頃はまるで世界がみんな僕に対して閉じているように感じていました。でも鬱が治って気づいたことは、僕自身が世界を嫌って感謝の気持ちがなく、心を閉ざしてどんどん閉じこもっていたということです。

まず与えられたものに感謝し、無条件で出会った人を許して愛する努力をしてみて下さい。嫌な事ばかり・自分や他人の欠点や過ちばかり思い出して責める認識の歪みを自覚できていない今のあなたには難しい事でしょうが、だからこそそれができたら価値があるのです。そしてそれ以外に真に幸せになる道はありません。個性は欠点や過ちと不可分であり、それは補い合い許し合い愛し合うためのマテリアルです。それなのに欠点や過ちを理由に自分や他人を嫌うなら、自己嫌悪に陥って愛すべき人が一人も存在しなくなるのは当然です。

「誰でも自信満々になれる方法」

あなたの周囲の人も嫌な仕事を我慢して生きている人ばかりだから、あなたも嫌な仕事に耐えてないと責めたくなるのでしょう。その人たちは全員マトリックスのエージェント・スミスなので、主人公であるあなたは目覚めるまでは逃げまわらなければいけないかも知れませんが、目覚めたらきっと彼らのことも救う存在となるでしょう。あなたが出会う人は全員あなたの鏡であり、あなたがあくまでも愛し抜く覚悟さえ持てば、恐れる必要など一切ありません。

あなたの臆病さも天からの贈り物(課題・カルマ)です。臆病なほど勇気には価値があるのです。最初から何も恐れない人の勇気に価値はありません。

あなたの自尊心の低さもそうです。それを乗り越えて自分も他人も神々も尊敬出来るようになるから尊敬には価値があるのです。

と、「今溺れている人に水泳を教えるな」という創造主の教えに逆らって思いっきり説教してしまいましたが、病んでいるならまず休む事が大事です。遠慮は要りません。将来あなたはきっと人を救う菩薩になるのですから。抱えた困難が困難であればあるほど、乗り越えたらより多くの人に勇気を与えて救う事になるのです。

【再質問】
以前、昔イヤだった事を思い出して、自傷行為をしてしまうと書いた者です。
質問に答えて頂き、自傷行為をしなくなりました。ありがとうございました。
現実は、まだまだ厳しいですが、まだ生きているので、より良い考えを持つように心がけたい(←それが出来なくて憂鬱になってしまう時もあるのですが)と思います。

【再回答】
どうもありがとうございます。質問箱はなかなか反応がわかりにくいので、こうして伝わっていることを実感するととても嬉しくなります。

いきなり無理にポジティブになろうとしなくて良いですからね。それではかえって反動が強くなるのは当然です。嫌なことが思いついたらそっとそれを手放して別なことを考えるだけで良いのです。

「反省してはいけない」

目覚める直前の僕は、両手のポケットにカウンターを持って、ポジティブなことを考えたら右手、ネガティブなことを考えたら左手でカウントして、常にポジティブなことを考えるように、なんてやってました(笑)

とにかく自分と他人を責めるのを同時にやめて許し、過去は一旦すべて水に流すことです。無呼吸ダッシュの如くものの一か月も良い思念しか持たないようにすれば、体の水は入れ替わってすっかりポジティブに切り替わります。

「音と水の存在意義」

すべての物事には恒常性があり、慣性の法則が働きます。だから止まっているものが動き出すとき、新しい習慣を手に入れるときは、最初が一番きついのです。過去の状態に引き戻そうとする力が強く働きますからね。でも決してそれに負けないで下さい。

既に先に進んでいる人というのはものすごく遠いところにいるように感じられますが、実際はそれほど遠くにいるわけではありません。僕も目覚めてからたったの二年半であり、それまではあなたと同じように長年鬱で希死念慮が強く、反引きこもりでずっと社会から逃げていましたから。

慣性の法則で、一度スピードにさえ乗ってしまったらあとはもうラクチンなのです。全く停滞しているところから踏み出したあなたの勇気ある一歩の方がずっと大変で偉大なことなのです。その勇気が実った時、どれほど多くの人に勇気を与えることでしょうか?その連鎖がきっと世界を救うでしょう。どうか日々神の子としての自尊心を回復してメシアとして目覚めて同じように苦しんでいる人を救って下さいね。

引きこもりで社会に進出するのが怖い

【質問】
引きこもりです。社会に進出するのが怖いです。どうすればいいでしょうか。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

具体的なアドバイスを求めていらっしゃる場合は、もうちょっと詳しく状況を書いて下さいね。こういう感じでは本当に汎用的な回答しかできず、助けになりづらいですから。

現在、引きこもりは日本だけで100万人超だそうです。あなたはきっと鬱で他人が全く見えなくなっていると思いますが、引きこもりは決してあなただけの問題ではなく、社会病理・社会問題であり、あなた個人が悪いわけではありません。でもあなたが変わらない限り何も変わらないのです。

人生はRPGであり、社会問題とはゲームの基本設定で因果なのです。そして主人公であるあなた目線でみればそれがカルマなのです。あなたの人生はあなた個人のために完璧にアレンジされた物語であり、すべてはあなた次第であるようにデザインされています。ゲームの設定やシナリオに文句を言ってもゲームが進まないだけです。

この世界の存在は本当は全て創造主自身であり、ワンネスなのです。それでは究極に退屈で孤独で愛が生まれないので、創造主は敢えて我々を作ってそれぞれに自意識と個性とシナリオ上の役割を与えているのです。しかし我々はいわば同一人物であり、それを恐れるのは鏡に映った自分を恐れるが如くなのです。相手も本当は自分自身だと知れば人など恐れる必要は全くないのです。

恐れが我々を分ける自意識(エゴ)の中核を成すものであり、人を恐れることは自然なことです。それが愛と勇気を価値ならしめているのです。臆病な人の愛と勇気ほど価値があるのであり、最初から何も恐れない人がいたら、その勇気には価値がないでしょう。あなたの人一倍の臆病さ傷つきやすさも創造主の愛によって与えられたものであり、あなたが愛と勇気をもってその恐れに立ち向かうことを期待されているのです。僕自身も長年半ひきこもり状態でしたが、人一倍臆病な人間の勇気ある一歩がどれほどの人を勇気づけると思いますか?

しかしあなたはかつての僕と同じように全くそれに気づかず、与えられた課題から逃げ続けることでカルマを雪だるま式に膨れ上がらせているのでしょう。それは逃げれば逃げるほど落第に追い込まれるまで追試のように追いかけてきます。

カルマは立ち向かう勇気さえ持てば、恐れるに足りないものです。あなたは逃げ続けることでカルマをまるで歯が立たないように見えるほど膨れ上がらせているのでしょう。しかしそれは幻に過ぎないと知って下さい。

まずいきなり働いてお金を稼ごうなどと考えないで下さい。お金を稼ぐ仕事場は競争の場で戦場のようなものであり、今の傷つきやすいあなたがいきなり行ってもあなたが恐れている通りにズタボロにされる可能性が高いと思います。

最初はボランティアで、介護や清掃などの現場に行って無償で手伝って下さい。無償ならただ善意で一生懸命やりさえすれば評価され感謝されるでしょう。

そしてそこでお年寄りの話をいっぱい聞いて下さい。老人にほぼ例外なく人に話を聞いてもらえないという悩みを持っていますから、あなたが真剣に話を聞くだけで確実に愛されます。自分の話をする必要はありません。またどんなことを言われようと決して相手の話を否定してはいけません。ただひたすら一生懸命真剣に話を聞いて下さい。そしてお年寄りから愛されれば、あなたの心に大応援団ができてあなたは人間関係に自信が持てるようになるでしょう。多少人に嫌われたところで気にならなくなります。

鬱は霊障であり、エゴまみれ・不安まみれにして周囲を見えなくします。(不安・恐怖はエゴ由来です)そして人を無気力にし、他人に関心すら持たないようになってしまいます。だから人の話など聞けなくなってしまうのです。

あなたはお年寄りの話を聞くだけで生きた智慧が身について魅力的になり、人に寛容になって人から好かれるようになるでしょう。そうして「今まで人に愛されなかったのは、単に自分が人を心から排除して人の話を真剣に聞いていなかっただけ」ということにきっと気づかされるでしょう。あなたに対してみんなが心を閉ざし社会から排除されているように感じていたのは、あなた自身が心を閉ざし社会を排除していただけということに気づいて下さい。

「誰でも自信満々になれる方法」

長いですし、最初からは受け入れ難いかも知れませんが、どうか信じて一つ一つ実践し、本物の自信を身に着けて下さい。どれだけ嫌っても愛し抜いてくれる人を嫌い抜ける人などいません。あなたが無条件で人を愛し抜く覚悟さえ持てば、人から嫌われることを恐れる必要など微塵もないのです。どうか無条件で人を愛し自分を愛し人生を愛して下さい。

小さなことにイラついてしまう

【質問】
最近小さなことにイラついてしまうことが多いです。妬みや失敗、本当に些細なことです。

調子のいい時はイラつくこともなく、仰っているような「これも人生を楽しむ為の試練や経験」と捉えることが出来るのですが、調子の悪い時はその考えを押し殺すようにイライラしてきてしまいます。

抑える方法が分からずとても苦しいです。そしてその後はそれに反省し、辛く悲しくなります。他人にイライラしていることを悟られない様に抑えるのも苦しいです。考え方を変えなければいけないことは分かるのですが、非常に難しく感じます。どうしたら良いのでしょうか…?

【回答】
ご質問ありがとうございます。※9月7日更新

僕も鬱の頃は長年まさにそんな感じでしたよ。嫌な考えがどうしようもなく沸き起こってグルグル頭を巡って、どうやっても止められない感じでした。いつもイライラして、自己嫌悪で落ち込むことの繰り返しで(自分自身とその運命に対する苛立ちを他人に投影してイラついていたのですね)人を避けて孤独に陥っていました。そういう人は今とても多く、あなたが気づかないだけであなたの周囲にもたくさんいると思います。

しかしそれは本人が悪いのではなく、霊障の仕業なのです。鬱が治ったからこそそれがわかります。スピリチュアルなことを信じていない人にはとても信じられないことだと思いますが、本当に本当なのです。鬱=霊障です。

魂とは全て創造主の分け御霊であり、智慧の光そのもの如き善なる存在なのです。そのままではすぐ創造主と一つになってしまって簡単に成長ができないために、我々分け御霊達はこの世界に無明(愚かさ・迷い・エゴ)を与えられ、カルマ(課題・シナリオ)の中を生きているのです。

もともと一つの光だった我々の魂は無明の闇によって分けられ、個性・エゴを与えられ、簡単に一つに戻らないように同じ磁石のように反発するのです。簡単に一つになっては愛が生じず個性の存在意義がなくなるのでそのようにしているわけです。その反発力がエゴであり、それを乗り越えてまた一つになろうとする引力が愛なのです。エゴ同士は反発し合い、愛同士は引かれ合うのです。磁石の極と全く同じように、片側だけでは存在できません。基本的にこの世界の存在はすべてこのようにポジティブとネガティブの両極で二元的に作られています。そうでないと位置が確定できないので、価値(存在意義)も確定することができないのです。

無明(愚かさ・迷い・エゴ)というのは基本的に霊障(霊的思念の穢れ)によって構成されているもので、我々が考えるよりはずっとデジタルかつシンプルな存在であり、悪い思考・行動は全部霊障がもたらしているものなのです。あなたのイラつきもこれを原因としています。霊障はこの人生というRPG(愛と勇気の物語)において悪役を担ってくれているわけです。それはひとえにあなたに成長を願って与えられているものなので、決して恨まないで下さいね。

イラつきの直接的な原因は、お互いの個性(欠点や過ち)・エゴ同士が反発するからであり、基本的には自分が成長することなく、相手の側の個性を変えようとするために生じるものです。あなたの人生というあなたを主人公とするRPGはすべからくあなた次第に作られており、あなたが変われば(時間差はあっても)必ず相手も変わるのです。あなたの認識世界において他人はNPCのような存在であり、あなた自身を映し出した鏡であり、主人公の物語を盛り上げて成長を促すために、クリエイターのプログラムした通りに動かされているのです。(実はあなた自身も他の人にとってそうなのですけどね)

このあたりの話は他の方への質問「憑依体質の存在意義」に詳しく書きましたので、ぜひご一読いただけると幸いです。

あなたが「自分のせいだ」と思っていることでも、悪いことはすべて霊障がさせていることなのです。自我は幻の如きもので、人は霊の集合体であり、肉体は霊の入れ物のようなものなのです。そして人はすべて霊的意思によって動かされているのです。「人は常に無意識(霊的意思)によって動かされている」これは受動意思仮説における様々な実験でも明らかになっていることです。

これは当然と言えば当然の話で、もし意思が脳により作られるものなら、脳のない単細胞生物やウイルスがあれだけ意思をもって複雑な活動ができるわけがないのです。世界はすべて超弦でできており、それは波動を伝えるものであり、波動は霊的思念の乗り物であり、細胞はその塊なのです。血液細胞も腸内細菌もウイルスもみんな意思を持って宿主に影響を与えているのです。

人間は霊の集合体であり多面的な存在なのに、常に自意識によって「全部自分である」と自動的に自己統一化するので、自分の中に意識が多数あることを自覚できません。霊障のせいであっても「自分のせいだ」と自責の念にかられます。そして鬱になると悪いことだけを選択して思い出して「ダメな自分」で自己統一化しようとし、良い部分があっても全く見えなくなります。鬱になると何でも出来事を悪く解釈し、その「悪い」出来事を何度も何度も反芻して嫌な気持ちを追体験するような高速循環回路が頭の中にできあがってしまうんですね。そしてどんどん自己嫌悪・厭世観に陥ってしまう悪循環から抜け出せなくなるのです。しかしあなたが自己嫌悪に陥れられる時点で、自分の中の意識とは一つではないことに気づいて下さい。

我々は冷静に自分の良いところ・良い思い出を思い出し「ダメな自分の自己統一化」を一つ一つ外していく必要があります。もし自分の良いところ・良い思い出が一つも思い出なくなっているとしても、これから作れば良いだけです。宇宙の仕組みに書いた通り、時間は幻で因果(過去と未来)は常に更新されているものなのです。今あなたが変われば過去も未来も変わるのです。

単に悪いものを排除すれば良くなるという発想は短絡的過ぎます。善に価値を与えているのは悪なのです。この世界のすべては二元的(陰陽)で相対的にできているのです。腸内の悪玉菌を全部排除したら人はかえって病気になるのです。心も同じです。この世界は絶妙なバランスで成り立っているのです。悪は排除するのではなく、許すことなのです。許しは愛そのものであり、我々は許しを経験するために生まれてきたとも言えるのです。

悪い考えを「自分自身のせいだ」と考えて一度深い自己嫌悪に陥ると、自分が自分であることに耐えきれなくなり、自意識が乖離しはじめて無数の霊を魂でコントロールできなくなり、どんどん自我の主体者を霊障に明け渡してしまうことになります。そして鬱を通り越して統合失調症や多重人格症など様々な重い精神病を患うことになります。

だから悪い考えを無理に抑えたり排除したりしようとするのではなく、まず自分と他人を責めるのを同時にやめて「悪いことは全部霊障のせいだから仕方がない」と許して下さい。もし悪い考えが浮かんでイライラしたり、過去にした悪いことを思い出したりしたら、「これは私の魂ではなく霊障がさせていることなのだ」と客観的に見て許すのです。

そしてただただ霊的に清めることを考えて実行し続ければいいのです。過去の自分を自分で責めたり他人から責められたりしたら「ごめん、悪霊に憑りつかれてたから」ということで自分を自分で許せればいいのです。相手に許されるかどうかは重要ではありません。あなたが自分自身と相手を許せるかどうかが大事です。

霊障によってエゴに埋没して不幸なまま亡くなった人の霊的思念の塊というのは、同じように霊障としてネガティブな思念体として憑りついて、同じ痛み・苦しみ・不幸を味合わせようとしてきます。そしてエゴに埋没して他人の気持ちがわからないようにして、周囲から嫌われて自己嫌悪・厭世観に陥るように仕向け、自我の主体者としての地位を自発的に明け渡させて乗っ取ろうとしてきます。主人格であるあなたは主人公としてそれを止めなければなりません。

だからあなたがエゴを手放し、他人の痛み・苦しみ・不幸に心から同情できる優しい人間になり、出会った人を例外なく尊敬し感謝し許し補い愛せる主人公・メシアとして目覚めたら、悪霊たちはお役御免で成仏して去っていきます。逆にいつまでも主人公・メシアとして目覚めないなら、これでもかというほど霊障があなたに不幸をもたらすことでしょう。

霊障(霊的な穢れ)というのはトイレと同じで毎日汚されるものであり、毎日心身と環境を清め続ける必要があるのです。どうすれば霊的に清められて悪いカルマを解消できるかは、こちらをご参照下さい。「悪いカルマの解消法」まずは信心を起こして日々霊的浄化・成長に努めることです。

悪いカルマの解消はとても大事なことです。冒頭に書いた通り、カルマ(人生のシナリオ・課題)は霊障によって作られていて、それを乗り越えることで我々は成長できるのです。

人生というRPGは愛と勇気を試すためのものであり、そのために世界はありとあらゆる手段であなたを怒らせ、そして怖がらせてきます。決してそれに屈してはいけないのです。愛と勇気を試すためのRPGにおいてエゴ(我欲と保身)による選択が最終的に正解だというシナリオはありえません。エゴは愛・勇気とは対極にあるものだからです。どんな選択・試練も愛と勇気を試されているのだとわかれば、ブレーキが壊れたかのようにひたすら前に進めるはずです。

人生は考え方次第

【質問】
人生は考え方次第なのでしょうか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。

はい、そうですね。人生はすべて自分の考え方(解釈)次第と言えます。解釈が世界を作っているのですから当然ですね。

自分の人生というのは自分だけに与えられた、自分を主人公とするRPGであり、そのすべては主人公次第にデザインされているのです。そうでなければプレイする(させる)意味がありません。しかしこのRPGはそのことには簡単に気づけないようにできているのです。簡単に気づけたら面白くならないからです。

このRPGの登場人物は主人公であるあなたも脇役NPCのみんなも一様に自分や他人の欠点・過ち、罪や恥を責め、自分も他人も世界も価値のないもののように考えています。あなたがそこを乗り越えてすべての存在の価値に気づき、感謝し、使命(恩返し)を果たしてみんなを幸せにするところに、このRPGの醍醐味はあるのです。

そしてこのRPGのストーリーは、基本的に「行動の選択」よりも普段どういう思考(考え方・解釈方法)をしているかに依存しています。つまり「解釈の選択」次第なのです。与えられたものの価値に気づき、すべては自分の魂の成長のためにベストなものが与えられたていると信じて感謝して受け取り、愛で返そうとしているかどうかということです。

自由意志は幻の如きものです。しかしこの仮想現実世界という幻は、まさに意志という幻の如きものによって全てが変わり得るように作られているものです。

こちらをご参考下さい。「自由意志を信じますか?」

もちろん人生は基本的に自分の思い通りにはならないようにできています。それは何でも思い通りになる上位次元に帰った時に、自分の世界を素晴らしいものにするためです。この人生の経験がなければ、上位次元の世界は何もないつまらない世界になってしまうのです。だからこの世界で何もかも思い通りにならないからといってグレて退廃的に生きてはいけません。この思い通りにならない世界でいかに思いを実現していくか、それが人生という芸術なのです。

自分の「思い」が実現しない最大要因は、その「思い」が基本的に単なる卑しきエゴ(我欲と保身)由来のものだからです。世界=自分であることに気づき、世界全体利益のために何かを思い、祈り、行動するのなら、それはいつかきっと実現するのです。

自分の「思い」が実現しないことを、自分の意思以外のあらゆるもののせいにしてはならないのです。全ては自分の意思次第です。あなたの意思が創造主の思い(全体利益・愛)に適っているものになり、その実現のために不断の努力を続けるのなら、その思いはきっと叶います。

神とつながる方法

【質問】
神様や守護霊、ハイヤーセルフとの繋がりを体感したり、対話できるようにはどうしたらいいでしょうか?能力は生まれる前に発現するか決めてきている、と話している方がいて決めてきていない人には無理なのかと考えています。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

僕が人生がRPGというのは、例えではなくそのものズバリです。あなたがあなた自身だと意識しているものはAIキャラであり、自我を与えられたアバターに過ぎないもので、本当はあなたを操作してプレイしている上位次元のプレイヤーがいるのです。それがハイヤーセルフ(=神我)です。

人生というRPGをあなたというアバター目線ではなくプレイヤー(神我)目線で見てみましょう。例えばドラゴンクエストで、世界を救おうとせず、町でずっとエゴ(我欲と保身)のために商売をやっているような脇役のキャラを「自分」としてプレイしたいと思いますか?そんな脇役はNPCとして下位次元の存在に任せて自動運転にしておけばいいのです。

その自動運転でプレイヤーの操作を受けられていないのが今のあなたであり、目覚める前の僕であり、世の中の大半の人間です。主人公だと目覚めていない、世界を救おうとしない、臆病で怠惰な脇役NPCだから、より上位の存在があなたを操作したがらないのです。

あなたは自分のレベルが低いから主人公になれないと思っているのでしょうが、世界を救う勇者になる気がないならレベルが上がるわけがありません。世界を救うという思いが実践を通じてクリエイターの意思とより通じ合っていくことで自分のレベルは上がっていくのです。ちょうどドラクエでレベルアップと共に強力な呪文を使えるようになるように。目覚める前のあなたの力があなたの本当の力ではないのです。

本来、主人公でない人間はいません。目覚めれば誰でも主人公なのです。主人公・勇者として目覚めて途中で何機失ってでもクリア(世界救済)を目指し続けるか、いつも周囲を気にして自分を他人と比較しながら「まぁみんな脇役なんだから自分も脇役でエエか」とエゴ(我欲と保身)にまみれて臆病・怠惰な脇役NPC人生を繰り返すか、選択はあなた次第であり、ここが人生最大の分かれ目です。クリエイターとあなたとの関係は一対一であり、あなたの世界であなた以外は全員脇役NPCであり、その言うことやること(常識)は一切言い訳に使えないのです。

創造主は超時空で辻褄を合わせられるので、あなたが何を選択しようと「最初からそう決まっていた」ということになります。主人公として目覚めれば最初から主人公だったことになりますし、主人公として目覚めなければ、最初から脇役だったということになります。

「最初から決まっているのだから何をしても同じだ」と諦めて退廃的な人生を送るのは愚かなことです。あなたの人生というRPGにはあなただけのためにアレンジされたシナリオがあり、すべては自分次第に作られているのです。

自尊心の低い今のあなたは「自分などそんなに大した存在ではない」と思っているのでしょう。それは現在あなたの認識世界にいるNPC全員がそうなのです。それはこのRPGに共通した設定(カルマ)であり、その臆病さ・怠惰さを乗り越えて自分こそが主人公であり偉大な神のアバターであることに気づき(神我に目覚め)それを世界のNPCたちにも連鎖させるところがこのRPG共通のシナリオなのです。みんなが主人公・メシアとして目覚めれば世界が救われるのは自明です。

最初から何も恐れない人の勇気に価値はありません。臆病さが勇気を価値ならしめるのです。そして勇気のない愛に価値はありません。勇気が愛を価値ならしめるのです。

最初っからレベル最大で装備も完璧に揃っていて謎解きが全部わかっていたらRPGを楽しめるわけありません。何の成長もありませんし、愛も勇気も試されませんし、素敵な物語になりようがありません。レベル1で何も持たず何もわからない所からスタートしているのは有難いことなのです。そもそもこのRPGの存在理由の発端は、全知全能で唯一の存在であるという創造主の究極の孤独と退屈にあるのです。

自分が主人公なのだから、NPCである他プレイヤーのゲーム進捗など気にする必要はありません。自分を他人と比較するのをやめ、自分をレベルアップさせ続けて自分のゲームを進めましょう。自分より能力の高そうな他人ばかりを見て「自分は能力が低いからダメだ・主人公であるわけがない」などと考えていたら、いつまでも目覚められず、神我の導きなど受けられないでしょう。

あなたが出会うどんな困難も、自分の成長に必要だから天より与えられたのだと感謝して受け取って下さい。人生を世界を救うためのメシア修行と思うことができれば、どんな困難が来ても「さぁ来い!」とポジティブに乗り越えて行けるようになります。

<神我・創造主と繋がる方法(例)>

◆世界を救う主人公として目覚める
これなしではゲームが始まりません。エゴをできるだけ手放し、執着をやめ、出会った人に無償で尽くして、次々に幸せにしていって、それぞれ主人公であることに目覚めさせ、それを世界の隅々まで連鎖させていって世界を救って下さい。あなたの認識世界がまるごとあなたなのです。人生が愛と勇気を試すためのRPGなのだということを意識し、選択時には必ず愛と勇気がより必要とされる方を選んで下さい。必ずそちらが正解です。我欲と保身(臆病・怠惰)ゆえの選択が最終的に正解であるという主人公のシナリオはありえません。その選択が人を脇役NPCにするのです。

◆信心に生きる
信じてもいない神と繋がろうとすること自体が愚かなことだと気づいて下さいね。神視点でも自分を見てみて下さい。一つの宗教にこだわらず色んな宗教を学んで、自分の好きな神・縁の深い神を探し、その神のために尽くしましょう。また各宗教に共通する真理を探ってみましょう。

◆瞑想
瞑想により自分が感じていることをただ素直に深く内観してみましょう。自分の感覚を客観的に見ているその意識は誰のものか?それが神我でありハイヤーセルフなのです。それこそが本当の自分自身だと気づくことが神我と通じ合うために必須な過程なのです。

◆断食
食欲という我執の大元から離れることというのは、神我と通じ合うのに大事なプロセスです。僕も最長1カ月ほどやりました。今思えばそこから神秘体験が多くなり、目覚めへと繋がったんだと思います。ただ断食には準備が必要なので、いきなり長期間の断食は行わないで下さい。予め菜食主義にして、腸内環境を草食動物のようにしておく必要があります。

◆無償奉仕
人に無償で尽くすことはとても大事です。出会う人はみんな創造主の分身であり、あなたに何か大事なメッセージを伝えるための使いなのです。創造主に尽くすことは、出会った人みんなに尽くすことなのです。創造主は全知全能ですから、直接創造主のために何かできることは感謝する事以外にないのです。あなたの救いを必要とするよう敢えて欠点や過ちのある姿であなたの前に現れてくれているのです。出会いに感謝して、誰一人ぞんざいに扱わないように努力してみて下さい。創造主は存在の全てであり、どこか遠くにいるわけではありません。全ての存在と和解できた時に、創造主と深く対話できるようになるのです。

総じて、エゴから離れ愛に近づくための修行です。仏教では六波羅蜜・十波羅蜜などを教えていますから、そちらも調べて参考にしてみて下さい。理屈ではなく、日々続けることで心の深い部分から浄化されて導かれ、無意識に良い思念・行動をとれるようになり、人生がどんどん改善されていきます。

エゴによって上位次元の存在とつながろうとすると悪い存在とコネクトしてしまうので、そういう黒魔術みたいなものは信じないようにして下さいね。エゴによる願いは例え一時的に叶って成功したとしても、壮大な負のカルマを積んで最終的には必ず悪い結果が待っています。

臆病、怠惰とは?

【質問】
真也さんの思う臆病、怠惰は何だと思いますか?


【回答】
ご質問ありがとうございます。

人間にとって最大の臆病・怠惰、それはやはり「世界を救う主人公として目覚めず、脇役NPCとしてエゴに埋没した人生に逃げること」ですね。

目覚めさえすれば、主人公でない人間なんていないんですけどね。みんなどうしてもそれを信じたくないみたいです。僕のnoteや質問箱をいつも見てくれて応援してくれている方々でさえも。「頑張って下さい。応援しています」と言われるのは嬉しい事ではありますけども、一番嬉しいのは「一緒に頑張りましょう」と言われることです。

小さい頃は誰でも世界を救うヒーローに憧れていたはずが、他者評価に依存し、このマトリックス内で次々に現れる「お前なんか大した存在ではない。大人しく社会の奴隷(脇役)になれ」というエージェント・スミスに簡単に屈して自尊心を失い、自分をつまらない社会の脇役のように考えます。

仏教は菩薩(覚り・真理)を目指す心、つまり菩提心を起こすのがスタート地点です。菩薩って何ですか?辞書で調べれば「仏の位の次にあり、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者」とあります。つまり世界を救うメシアとして修行するってことです。(仏教に携わる人たちでもこの菩薩=メシアっていうことをあまり理解していません)

人生というRPGの本当のスタートもそこ(菩提心・衆生救済への決意)にあるのであって、世界を救う覚悟を持たないならレベルアップ(覚り)もゲームクリア(彼岸・解脱)もあり得ないのです。

魔物を恐れ、自分の力を見限り、町に引きこもって我欲・保身のために金もうけに勤しみ、いつも不安で何かにおびえながら、他人や社会問題に対してネットで批判を書いて「自分も正義のために戦っているのだ」という気分だけを味わっていても、レベルアップはありえず意味がないのです。

それどころかそうやって自分が正義の立場に立つためにいつも誰かを批判し、争いばかりになってしまいます。実は世界中の争いというのはそういうエゴ同士の反発の連鎖上で起きているものなのです。(だから常に正義より愛を優先することが大切で、それが万能の解決策なのです)そしてそのネガティブな言葉・思念によってそれを発した自分が本人が汚れ、鬱状態になって霊障に侵されまくるようになります。

そしてどんどん嫌な人間になり、他人の幸せに嫉妬し、まるで社会は暗いから社会問題について真剣に悩んで暗くなるのが同然でそうならない人は能天気で現実逃避のバカであるかのような・幸せになってはいけないかようなプレッシャーをかけて引きずり下ろすという、悪霊そのものみたいな存在になってしまうのです。

繰り返しますが、この人生という世界救済RPGの本当のスタートは世界を救う主人公(メシア・菩薩)として目覚める覚悟(菩提心)を持つところにあります。あなたの世界にNPCである他人が何億人いようと、その言う事やる事(つまり常識)は一切言い訳には使えないのです。「他人が全員脇役だから自分も脇役でいいや」は通用しません。どうか脇役NPCとしてつまらない・エゴにまみれて愛のない人生を送らないで下さい。主人公に目覚めて下さい。創造主と一対一で向き合う勇気を持って下さい。

宗教を利用した詐欺師がいることを理由に神を信じる勇気を持たないことは愚かなことです。現代の日本人の人生の多くはカルマにより神を信じないように初期設定されているのです。しかしそういう状況があるからこそ信心には勇気が要るのです。その状況を乗り越えて信心を持つところにより価値が生じるということです。

この人生というRPGが愛と勇気を試すためのものであることを忘れないで下さい。選択肢があるなら、愛と勇気がより必要な方が必ず正解です。我欲と保身ゆえの選択が最終的に正解だという主人公のシナリオは一切あり得ません。

そして僕や誰かを嘲笑して、主人公から逃げている自分が救われた気にならないことです。嘲笑は常に負けのフラグなのです。嘲笑する側が最終的にヒーローになるシナリオを見たことがありますか?それは絶対にありえないのです。

お金の要らない社会を作る基盤

【質問】
shinyaさん、いつもありがとうございます。2点お伺いしたいことがございます。

1.お金は我欲や保身、悪魔の手下の象徴としてお話しされていますが、お金で人を助けられることも事実ではないでしょうか?私はshinyaさんみたいに利他の精神を持ちながら働けているわけではないですが、何か人を助けられることに使いたいです。shinyaさんが言っていたような、お金がなくても生きていける世界の下地(コミュニティ社会)を作っていきたいと思います。

2.「日本で、無償で自己利益を求めずに生活し続けるなんて無理」というのは甘えでしょうか。


【回答】
1.僕はお金に良い使い方がないなんて全く思っていませんよ。もしなかったら資本主義は既になくなっているでしょう。悪魔は悪魔の顔をして近づいては来ません。悪魔は天使より一見魅力的だからこそ人を誘い出して虜にすることができるのです。だから麻薬と同じなのです。

僕は全財産を乞食に配り、日々の糧を乞食で得ながら人に無償で奉仕しています。その生きるのにギリギリの日銭すら3割強は乞食や宗教団体に寄付しています。だからもちろんあなたの「お金で人を助けられる」ということも十分わかった上で活動をしているのです。僕が寄付でやりとりするお金は金額としては小さいですが、ワンネスに向けて人と人とが無償で助け合うという価値観を連鎖させようとしているのです。

お金に良い使い方があるからといって資本主義を存続させるべきとは思いません。現代のお金は完全に詐欺的な搾取システムの道具になっていて、人も社会もどんどん醜くしているからです。

ちなみにあなたは現代のお金がどのように作られているか、その歴史から理解されていますか?現代のお金が「物々交換の代替手段としての便利なもので、国家が発行して厳重に管理している」みたいにイメージしてはいないですよね?世界各国(日本含む)でお金を発行している中央銀行のほぼ全てが政府機関ではないことを知っていますか?それを統括するBISがどんな組織か知っていますか?

みんなお金がないと生きられない社会システムの中で、エゴ(我欲と保身)を利用され、麻薬の如くお金の依存症にされ、気づかない間にどんどん搾取され続けて奴隷化が進んでいます。そして僕らが資本主義の音楽に酔いしれている間にどんどん椅子が抜かれ、支配者層は椅子を戻すのではなく人を減らすことでこの椅子取りゲームを存続させようとしていますが、それは無理な話です。僕の思いとは関係なく限界は見えています。そしてそれはこれから起きる革命の序章となるのです。

僕はそれが血の流れる暴力革命にはなって欲しくはないので、事前に我が身をもって警告し、誰も不幸にならないようソフトランディングさせるべく代替手段・代替システムを提案しようとしているのです。ただ我々の価値観が変わらなければシステムだけを変えようとしても無理だとわかっているから、今の価値観革命の活動をしているのです。

僕はお金がなくても(権力がなくても)生きていけるコミュニティーを世界中に連鎖させようと考えていますし、既に動いています。でもこれは価値観から変えていかなければ決して成功しません。分離意識があるうちは無理です。その前にワンネスへの目覚めの連鎖を広げる必要があります。

2.僕は自分と他人を責めるのを同時にやめることを実践しながら提唱している人間で、あなたやどこの誰かがどんな考えを持とうと甘えだなんて糾弾するつもりは一切ありません。現時点での考え方が違うってだけで責められていると曲解しないで下さいね。

ガンジーの非暴力・不服従運動と同じで、もし自分の考えが真理に根差したものなのなら、自ら実践する背中を見せるだけでみんなが自発的にそれに従う連鎖が起きるでしょう。誰かに無理に強制したり賛同しない人を批判して責めたりしなきゃいけないようならそれは真理ではありませんし、必ず反発が生じてきっとうまく行きません。

あなたはまるで僕が完全に自分を犠牲にしているように誤解されている感じがします。ワンネスっていうのは完全な自己犠牲ではなく、自分と他人がイコールの存在であることに目覚めイコールに扱うということです。エゴからできるだけ離れ、出会いを大事にして、みんなで無条件・無償で助け合って、出会ったみんなが家族のようになっていき、それが世界に連鎖していくというイメージです。人を幸せにすることでしか人は幸せにはなれないのです。

僕は確かに仕事を無償でやっていて、全く見返りがなくても奉仕させて貰えたことで純粋に嬉しくなります。ただそれはこちらからは見返りを求めないというだけで、奉仕活動に対して自発的に寄付される分は感謝していただいています。そして先に無償で寄付してくれた人に「こちらかも何かお返ししたいです」と言って奉仕することもあります。そして基本は駅などで純粋に知らない人から乞食をしてます。

ですから完全な自己犠牲・利他とは違います。「対価を目的に働かない」という点を大事にしているのであって、純粋に自己利益なしに生きている訳ではありません。あなたがイメージしているような完全な自己犠牲では生きられるはずがありません。

僕は一度死に、今は純粋に人を救うために生きているので、その自分が生き延びるために寄付に頼ることを自分のエゴ(我欲と保身)だと思って自己嫌悪する気持ちは生じません。誇り高く幸せに生きています。「いつか必ずお金の要らない社会を実現してみせる!」と心に強く誓いながら。

ちなみに今の僕のやり方で日本で生き延びられるかどうかは試したことがないので知りませんが、日本でも「こちらから(原価以上の)お金は要求せず、お金がなくて困っている人の為には無料でも喜んで仕事をして、自発的に寄付したいという方からは喜んでいただく」という感じのやり方でも、生活ぐらいは成り立ちそうな気がします。それを自分が本当に好きで得意な仕事でやるのなら、善意が連鎖して関係するみんなが幸せになるのではないでしょうか? そしてそういう趣旨に賛同できる人同士でコミュニティーを作れば良いと思います。

少なくともお金(我欲と保身)のために組織・権力に依存し、好きでも得意でもない仕事を奴隷のように嫌々させられたり、お客さんからも上司からも「金が欲しいなら私をちゃんと満足させろ!」と偉そうに文句をつけられて嫌な気持ちにさせられながら働かされるよりはずっと良い気がします。

2022年6月19日日曜日

自分に興味がない相手に執着してしまう

【質問】
もっと愛すればよかったと後悔するのは嫌だからと、こちらに興味がない相手に対してもしつこく食い下がってずっと好きでいてしまいます。でも私からの愛を必要としていない人に、愛し足りないからと押し付けるのは愛じゃないと気付きました。これはただの執着で、手放せたなら愛でしょうか。

いつも気付きをありがとうございます。何度救われたかわかりません。そして何度教えていただいてもまだ間違ってしまいます。どうかお許しください。

【回答】
いつも読んでいただいてありがとうございます。

お気持ち、よくよくわかります。程度の差こそあれ、特に男性はみんな結構そういうものなのではないでしょうか?

僕は出会う前から人を許すと決めていますので、出会って許して欲しいと言われた瞬間に既に許しています。まぁ僕はあくまでも代理の人間ですし、あなたから何一つ実害を受けていないのであなたを許す・許さないという立場にはありませんが、あなたが僕に許されることで心が救われるのであれば幸いです。

僕が書くことはあなたを責めて説教しているように思われるかも知れませんが、あなたの幸せを純粋に心から願っての事であり、誤解のないようにお願いします。あなたの人生はあなたを主人公とするRPGであり、あなたに起きたことはすべて必要だから起きている「設定・伏線」であり、そこを起点に未来をどうするか、このRPGはすべてあなた次第に作られているのです。だからあなたは何も悪くないのですが、結局自分が変わらなければ何も変わらないのです。

まず、他の方の質問への回答をぜひご参考下さい。「片思いの存在意義

もっと無償かつ無条件で自分と他人を愛して下さいね。欠点や過ち・罪や恥を許し、存在に感謝し、尊敬し、欠けたものがあるなら補って下さい。

愛というものは与えられる前に自分から無償で与えるのが基本であり、そこに関してあなたは間違ってはいないと思います。ただ自分に都合の良いものだけを偏執的に愛そうとするから相手から拒否される力が働くのでしょう。元々すべての存在は一つですからね。自分にとって外見や性格が愛らしい人とか能力が高い人とか自分に都合の良い人だけを愛そうとしていませんか?出会った人をみんな無条件で愛していたら、相手が鬱陶しく感じるほど一人に愛情を集中する余裕はないはずです。

自尊心が低い人間は愛され難く、そういう人間からの愛情(親切)は、本人は見返りを求めていないようでも相手からすると愛や尊敬や感謝などの感情を見返りとして強要されているように感じられ、受ければ受けるほど追い詰められていくような息苦しい気持ちにさせられるのです。自尊心の低い(自分を愛していない)人間は相手も価値が低いと感じますから、そういう人間の愛情というのは価値が低く、むしろ鬱陶しくさえ感じられるのです。野良犬や野良猫に「ホラ、このエサをやるから私に懐きなさい」と残飯を与える感じで人に愛情を与えてはいけません。それはあなたにとっては愛情でも、相手にとっては感情の強要であり、相手をバカにした行為なのです。

僕は経験上あなたの気持ちもあなたの周囲の人の気持ちもよくわかります。そしてあなたも冷静に相手の立場に立って考えればわかるはずです。鬱状態の時は他人が見えなくなりますから、相手の立場に立って考えるというのがひどく難しくなるのですが、瞑想や読経でもして冷静になって考え直し、日々できるだけ我執から離れる修行を積んで下さい。焦らなくても大丈夫です。しっかり自分を見つめて課題に気づくことさえできれば、ごく短期間で自然にわかるようになります。

とにかくもっと無条件で出会った人・出来事を愛することです。そうすれば人に愛され、自尊心も自然と上がっていきます。人間関係は完全に鏡ですから、自分で自分自身を価値が低いように見ていたら、相手からも価値が低いように扱われるのは当然です。自分の人生というRPGの主人公として、神の子としての自尊心を手に入れて下さい。また同じく神の子である他人を尊敬して下さい。

そして例え何があろうと、例えどれだけ相手から嫌われても、ひたすら愛し抜くことです。それは相手の気持ちを無視してストーカーのように執着することではありません。相手の気持ちを大事にし、お互いに心地よい距離感を保って下さい。決して相手から求められてもいない親切を無理強いしませんように。そっと手を貸す感じで相手から求められたことだけを自然・素朴に無償でしてあげればいいのです。そして先に相手の方から求められるような人間になって下さい。

「誰でも自信満々になれる方法」

多分この記事は既に読んでいただけていると思いますが、ご質問の内容から察するにまだまだ自分に都合よく解釈してしまっていて内容を深く理解されていないと思います。あなたの問題の根源は自尊心の欠如であり、他者評価依存に陥っていることだと思います。この記事の内容は心から信じて実践を続けることでしか理解できないものですから、ぜひ信じて実践を続けてみて下さい。

人と接する時、極度に緊張する

【質問】
人からよく見られたいという気持ちが幼少期よりとても強く、執拗に容姿にこだわったり、どうみられてるかが怖くて人と接する時にいつも緊張して頭が真っ白になったりします。どうすれば、このようなことは改善していきますでしょうか。

【回答】
まずこれを読んでいただきたいです。「誰でも自信満々になれる方法」これはもう人間関係の万能のソリューションです。

「人目なんか気にしないで下さい」と言いたい所ですが、気にしいの人に気にするなというのはアル中の人が酔っている時に酒を飲むなというようなもので意味がありませんね(笑)。

しかし同調圧力の強い現代の日本で育てられるとみんな他者評価依存になり、気にしいになるのは普通のことなのです。「こんなに気にしいで悩んでいるのは自分だけだ」と思って悩んでいるみたいですが、程度の差こそあれそこはみんな同じなのですよ。もちろん僕自身も覚醒前は思いっきりそうでした。だからよくわかります。

それはいわゆる社会病理であり、あなた個人ではなく社会全体が病んでいるのです。決して自分だけだと思って悩まないで下さい。そして早く乗り越えて、同じように悩んでいる人を救って、救いを連鎖させて世界を救って下さい。

気にしいは広義の精神疾患で、自尊心の病気なのです。なぜみんなそうなっているかというと、適者生存・不適合者排除の価値観の中で育てられ「人に嫌われたら社会から排除されて生きていけなくなる」という恐れにより、他者評価依存にさせられているからです。そうやって人に嫌われて傷つくのを過剰に恐れ、他者評価に振り回されてばかりいると、主体性を失って人生が自分のものではなくなります。

主体性を失った人間というのは権力に対して従順になり、感情を押し殺すことでその場凌ぎをすることに慣れ、自分の魂が何を求めているのかさえわからなくなり、自分を尊敬し愛することができなくなってしまうのです。そして嫌なことの我慢代で駄賃を稼ぐ奴隷に自分から自発的になってしまうのです。基本的に日本の教育はこういう自発的な奴隷を量産するためにあります。しかしそれは我々日本人に共通したRPGの基本設定であり乗り越えるべき課題なのです。

自尊心が下がると行動レベルも下がりますから、悪いとわかっていることがやめられず、余計に自分はダメな奴だと落ち込む悪循環に陥ります。

自尊心の低い人が一番恐れるのは、自分が好きな人から嫌われることです。だから自分を好きになってくれる人だけを好きになり、自分を嫌いそうな人を先回りして嫌ったり避けたりします。だから人の顔色をうかがわざるを得なくなり、人目ばかり気になるのです。

そして相手のちょっとした機嫌の悪さも自分のせいで嫌われているのではないかと過剰に恐れるようになります。だからいつも疑心暗鬼になり、予め相手の嫌なところ悪い所を探しまくっておいて、嫌われた時の保険として抱え、陰口を言って予防線を張っておくような嫌な人間になってしまいます。「喧嘩になったのは私が悪いからではなく、相手が悪いからだ」と。

こんなことをしていては当然人とうまくいかなくて自信が持てず、人間関係が恐れる必要のない家族や幼馴染だけといった感じでとても狭くなり、当然恋愛の機会も少なくなって性的にも自信を築けないでしょう。そのように自信がないままではプライベートでも職場でも人間関係がストレスばかりになって人生がうまくいかなくなります。

基本的に人を恐れる人間というのは、疑心暗鬼によって他人と深い関係が築けず、人を表面的にしか見られなくなっていて、自分や他人の外見やちょっとした立ち振る舞いが過剰に気になり、うまくいかないのを全部外見などのせいにしたりしがちです。

自分の外見を気にして心を開かず、相手のことも外見でしか判断しないのなら、当然誰からも心を開れなくなります。そういう認識の歪みが性格となって外見や立ち振る舞いにも表れて人から自然と避けられるのであって、純粋に外見が良くないから嫌われているわけではないのです。そしていくら自信があるような演技をしようとおしゃれをしようと整形をしようと、人を恐れていては人にモテないのです。

自尊心の低い人というのは、相手からも「この人は価値が低い」と感じ取られます。だから安く扱われてしまうのです。「毎日人への気遣いは疲れるけど、こんな価値の低い人には気遣う必要はないからラクをしよう。価値が低いんだからバカにして適当に扱っても大丈夫だ。気が弱い人間だからどうせこちらがどれだけこの人を傷つけてもこちらが傷つけられることはない。自分はダメな人間だが、この人よりは絶対マシな存在だ」という感じで、同じように自尊心が低くて人間関係にストレスを抱えている人たちのストレス解消と偽りの自尊心回復のためのスケープゴート(イジメの対象)にされてしまいます。

絶対に忘れないで下さい。あなた=世界であり、あなたの人生はあなたを主人公とするRPGだということを。あなたの認識世界の住民は全員がNPCのようなものであり、あなた自身でもあるのです。だから人間関係は完全な鏡なのです。人を恐れるのは鏡の中の自分を恐れるようなものでバカげたことなのです。他人を恐れることは本来世界に唯一の存在であるという究極に孤独な創造主が、独りぼっちを感じないように人間の自我に与えた基本設定であり、乗り越えるべき課題なのです。

「自分も嫌いな人がいるのだから、誰かが私を嫌うのは仕方がない」などと最初から諦めないで下さい。どれだけ嫌っても愛で返してくるような人間を嫌い抜ける人間などいません。あなたさえ出会った人を例外なく何があっても最後まで愛し抜く覚悟を持ちさえすれば、人を恐れる必要など何もないのです。

あなたさえ主人公として目覚めれば、みんなもあなたを価値のある人間として主人公のように扱うようになり、人間関係に自信が持てるようになります。あなたが主人公なのですから、世界は当然すべてがあなた次第にデザインされているのです。だから他人から変えようと思ってもダメです。変わるなら常に自分からです。

詳しくは「誰でも自信満々になれる方法」をご覧下さい。

ケタミンについて

【質問】
重度の精神病でアヤワスカ治療をした時、自分の薬物経験を質問されたのでシャーマンに話したら「ケタミンが一番精神に悪い」と言われました。ケタミンは鬱に効果的だという研究も見かけますがShinyaさんはどう思われますか?ケタミンをご存知なかったらすみません。

【回答】
ケタミンは経験がありません。が、やっている人とは何度かあったことがあり、良くないものであることは容易に想像がつきましたので、経験してみたいとも思いません。

そもそも僕はもう鬱を完全に克服していますし、その経験ゆえに基本的にアンチケミカルであり、化学的な精神薬の効果自体に懐疑的です。

アヤワスカは修行のために続けており、自分の鬱治療のためにやっているわけではありません。

最後まで行けなかった女性を思い出す

【質問】
いつも拝見させて頂いております。とても感謝しています。存在して頂き、ありがとうございます。今回ご質問させて頂きたいのは自分と過去に縁があった人の記憶とどう向き合うかについてです。

ストレートにお伝えすると、SEXする直前まで関係が進行したけど自分の勇気がなくて最後までいけなかった女性の事などを毎日の様に思い出してしまいます。今付き合っている彼女とSEXしている時にその過去の女性の顔を思い浮かべたりすることもあります。現実には今この瞬間しか無いと感じていても思考に囚われた時に原因を見ると、毎回女性関係の記憶で持って行かれているな〜という感覚です。

真也様のnoteにあった反省せずにすぐに切り替えるお話も読んだのですが、女性の過去の記憶だけは全然切り替えれず・・・。これはどう言う状態なのか知りたく質問させて頂きました

【回答】※9月3日更新
多分、程度の差こそあれ男性なら誰でもみんなそういう「あの時ヤっておけば良かった」という後悔はあると思います(天津木村調)。

もちろん僕もたくさんあります。夜中に女性を部屋まで連れ込んで二人きりなのに結局何もしなかったことなど多々ありますから。まぁあなたのようにそれを毎日思い出したりは全然しませんけども(笑) たまに何かをきっかけにしてふとした瞬間に思い出されることはあります。

女性側はそのように「最後まで行っておくんだった」と強い後悔と共に思い出すことはきっとあまりないでしょう。女性は基本的には将来に繋がらないその場限りの関係を求めていませんからね。逆に「ヤらなければ良かった」という後悔の方が圧倒的に多いのではないかと思います。

不思議ですよね。最後まで行けそうで行けなかった女性のことは思い出すのに、最後まで行ったけど交際には至らなかった女性のことは名前どころか顔を思い出すのも苦労するんですから。もしあなたが「勇気を出して告白していれば付き合えたかも知れないのに」ではなく、ただ単に「最後までヤっておくんだった」と後悔しているのなら、多分実際にヤっていたらその人を思い出すこともなかったでしょう。

SEXとは肉体的欲求と精神的欲求、つまり愛情欲求や承認欲求(自尊心欲求)を同時に満たすものであり、それは誰にとってもあまり変わらないと思います。

しかしあなたは今現在パートナーがいるのに、ヤり損ねた女性を思い出して仕方がなくなっているのは、恐らくSEXを承認欲求充足のための手段として考えているところが大きく、悪い言い方をすると女性を自尊心を満たすための踏み台として考えているからではないでしょうか?よりたくさんの女性に性的に受け入れられることが自尊心を高める手段となっているわけでしょう。それは他者評価依存なのです。

そういう「抱いた女の数が男の甲斐性」みたいな考え方だと、SEXがゲームのゴールになってしまい、今のパートナーは自尊心を満たすという目的ではすぐ用済みになって、SEXしても心が全然満たされることはないような気がします。そしてすぐにパートナーに飽きて、逃がした魚の大きさへの執着が止まらなくなり、パートナーへは「釣った魚には餌をやらない」的な感じになって関係がうまくいかなくなってしまうでしょう。

男性の播種本能と自尊心欲求をたくさんの女性とSEXすることで満たそうとし続けることはキリがありません。どんなに美人で魅力的な人気女優さんたちなんかでも結局みんなモテる旦那を捕まえてほぼ例外なく浮気されまくります。オードリー・ヘプバーンですらそうでしたから、どんな素敵な女性と一緒になっても男性が完全に満足することはないのです。

そして一般的には年齢と共にたくさんの女性と関係を持つことは、結婚や性的魅力の衰えや社会的な立場など色んな意味で難しくなります。無茶をすれば人生が崩壊するでしょう。男性はみんなそれがわかっているから、たくさんの女性と関係を持ちたい願望を内に秘めつつ、叶えられずに鬱屈してしまうのでしょう。そして「若い時にもっとヤっておけば良かった」と悔しい思いが止まらなくなってしまうのではないでしょうか?

しかし人生はRPGであり、すべての出来事はクリエイターによってプログラム済みなのです。あなたは最後まで行けなかった原因を勇気のなさのせいだと思っているようですが、最初からそういう縁(運命)がなかっただけです。縁があってお互い本気で性的に求め合っていたら、最後まで行けなかったなんてことはありえないのです。ヤり損ねた女性はヤクザの夜店のクジのように、単なる「釣り」であって最初から当たりなどなかったのだと思って下さい。実際それは事実ですから。SEXに限らずすべては縁なのです。そしてそういう後悔の経験も男の人生には必要な味です。どうか何事も「自分の魂の成長の為に常にベストなものが与えられている」と知って下さい。あなたの今のパートナーがあなたにとって絶対にベストなのです。

そしてSEXの時に別な女性のことを思い出すなんていうのは相手に対してとても失礼で悪いだけではなく、あなたはその胸中を相手に見せることはできないわけで、相手は本当のあなたを知らずに愛していることになり、全てを曝け出して心から愛し合っているわけではないのですから、それでSEXなんかしてもあなた自身が寂しく空しくなるでしょう。内心では飽きて見下しているような相手とSEXしても全然自尊心が満たされなくて苦しむことになります。そして知らず知らず相手をぞんざいに扱っているうちに相手からも愛されなくなってしまうかも知れません。

もしそのようになりそうな状態にあるのなら、根本的なところから考え方を改めて成長しなければ、幸せになるのは難しいと思います。

まず根本的な原因は自尊心の低さにあると思うので「誰でも自信満々になれる方法」で、もっと無条件に人を愛して下さい。そうすれば愛されて自尊心が高まり、SEXで自尊心を満たす必要はなくなりますから。SEXで自尊心を満たそうとし過ぎる根本的な原因は他者評価依存なのです。

因果(原因と結果)は循環するものであり、自分自身を尊敬できない人は、自分で自分を評価しても少しも嬉しくなれないために他者評価に依存し、結果として特に異性から評価されないことにひどく傷ついて自尊心が下がり、それを補うためにキリなく女性と体の関係を求め続け、それはいつか破綻するのです。

そのような因果(カルマ)を解消できるように、愛にしろ尊敬にしろ感謝にしろ、相手に対して求めて満たされようとするのではなく、ひたすら無償で与え続ける喜びに目覚めて下さい。もちろんこれは恋愛やSEXに限った話ではなく人間関係全般の話です。あなたは与えれば与えるほど相手が価値ある存在になり、どんどん愛おしくなり、あなた自身が満たされ、お互いに幸せになるのですから。目の前の人を全力で愛しましょう。

結局、「他にもっと良い人がいるのでは?」と考える人というのは、与えられた出会いを自分にとってベストなものと信じて出会いに感謝していないのであり、それは目の前の人を全力で愛さないことにつながりますから、不幸に招かれるのが当然なのです。相手を通じて己に与えられている課題(課題)を相手が解決すべき問題と考えて逃避しては成長するわけありませんしね。これも恋愛などに限った話ではありません。

出会いを自分にとっていつもベストなものが与えられていると信じて心から感謝し、どうすれば相手の自尊心が上げられるかを考えて日々実行し続けて下さい。基本は人の存在に無条件で心から感謝し、尊敬し、愛し、心からの笑顔で接することです。相手は天からあなたのために使わされた人生という物語の共演者なのですから。そして相手の話を丁寧に聞く事です。つまらない話ほど真剣に聞いて下さい。人はつまらない話を真剣に聞いてくれる人に大事な話をするものだからです。相手の話を良い悪い・正しい間違ってる・面白いつまらないなど、一切のジャッジをせず、経験とその気持ちを共有・共感することを目的化して下さい。

どうか今のパートナーを創造主があなたの成長にとってベストだから与えてくれた相手だと信じて、どんどん尽くして大切にしてあなたにとって世界最高の女性にして下さい。そうすれば相手は世界で最も幸せな女性になり、その人から愛されるあなたは世界で最も幸せな男性になります。

コミュ障を克服したい

【質問】30代前半・男性 ペンネーム:脳汁 真也さんこんにちは。最近Xやnote、質問箱を見させていただいてます。 真也さんの考えはとても素晴らしく自分に取り入れようとするのですが、なかなか理解力不足でうまくいかないです。私は昔からいわゆるコミュ障です。友達も少ないですし、職場の...