2023年5月31日水曜日

テーラワーダ仏教について

【質問】30代・男性
瞑想を学びたいところ、テーラワーダ仏教に出会いました。初期仏教やテーラワーダ仏教、禅のような、ゲームを止める方面のアプローチ(四諦、ヴィパッサナー瞑想、欲を離れた安楽な幸福、苦からの自由、得た智慧や慈悲喜捨で実社会の自他を幸せにする)はどう思いますか?ゲームを愛する話をよく聞くので気になりました。個人的にはゲームを「止める」と「愛する」のバランスを取ってます。

テーラワーダは途中までは全然問題無いんですが、最終的には、苦楽の自我ゲームを愛するのではなく完全に止めてしまって、「輪廻から解脱しよう」というテーマが、私にはどうするべきか答えを出せずに居ます。創造主が「ゲーム好き」であれば「解脱が最高」である思想と対立するかも。

創造主は涅槃や解脱はしないのでしょうか?永遠に苦楽のゲームを作って愛するのでしょうか?誰も居なくて孤独、という感情も全知全能であれば、作らない訳には行かないのでしょうか?

正義=悪(悪が必要だから)的な正義に否定的な話を聞きました。(”正義”の危険性は伝わりましたけど)しかし光は闇があって初めて存在出来るし、愛や成長や価値の物語も、苦しみや負の面があって初めて価値として存在出来るなら、愛や成長の物語=悪や苦しみという事にもなって、であれば解脱するのも一興と言う事になりませんか?正義との違いはどうでしょう?

【回答】6月9日更新
ご質問ありがとうございます。

まず、僕は人生そのもの、世界そのものをRPGだと表現しています。それは永遠のものであり、死んだり解脱(クリア)したからといって止められるものではありません。クリアしたとしてもまだまだその先があるのです。

それはとてもありがたいことで、5億年スイッチの世界のように思念・概念しかなく存在だけし続ける世界というのは地獄でしかありません。仏教ではそれを無間地獄(むげんじごく)と言います。

それに対しあなたはエゴ(欲求充足)を楽しむことを「ゲームを愛すること」だと考え、エゴ(欲求充足)をなくすことを「ゲームをやめること」だと考えていらっしゃるようで、それを僕の考えと同じだと思われているのでしたら、僕の伝えたいことをかなり誤解されているように感じます。

そしてもし初期仏教などの考えを「エゴ(欲求充足)を完全になくすこと=解脱」を目指すことのように思われているのでしたら、それも少し誤解しているように感じます。(あなたがというより教えている側が)

僕も初期仏教は勉強したのですが、確かにあまりにも禁欲主義的過ぎてついていけませんでした。僕は法華経を仏教における信仰のメインとしており(仏教以外も同時に信仰しています)、そこで説かれているように、初期仏教の教えというのは間違っているのではなく大乗の教えに導く(一切衆生を成仏に導く)ための仮の教えであったというのを信じています。

エゴというのはこの人生というRPGの基本課題であり、それがなくなったらゲームが成立しません。ゲームのバイオハザードで、ゾンビを倒していかないとクリアできませんが、ゾンビを全部倒して一切出て来なくなったらゲームが成立しません。それと同じことです。

エゴは乗り越えるべき課題であって、それが魂の成長につながるのです。もしエゴを完全になくしてしまったら完全にワンネス(自分=他人)になって成長課題がなくなり人生の意味が消失してしまいます。ですから、それは決してできないように人生はプログラムされているのです。だからこそ我々は全力でワンネス(創造主意識)に向けてゲーム(成長)を続けることができるのです。

エゴを乗り越える(覚りを目指す)ということは、ゲーム(人生)をやめることではありません。覚りは人生の課題であり、ゲームの一部なのですから、ゲーム(人生・世界)を愛することと、エゴを乗り越える(覚りを目指す)ということは少しも矛盾しないのです。そしてゲーム(人生)をトータルに愛するということが大事なのです。

解脱というのは航海における北極星のようなもので、進むベクトルを定めるために目印にすべきものであり、肉体を持ったまま今生で解脱を達成するということは、この次元において本当に北極星を目指してロケットを開発するぐらい無理があります。

初期仏教などで目指している無我の境地はあくまでも仮経験であって、この肉体がある限りは本当の解脱は達成できないようになっているのです。解脱・涅槃はRPGのエンドロールのようなもので、本当に達成してしまったらゲームが終了してしまいます。我々は生きている間には決して解脱を達成できないからこそ、我々は全力で解脱を目指す成長のゲームを楽しませてもらえるのです。

エゴは乗り越えるべき課題であり、「欲望は悪いものですか?」に書いた通り、我々に必要悪なものであって悪そのものではないのです。愛を経験するためには、その対極にあるエゴも我々は経験した上で、それを乗り越えて成長していかなければならないのです。

我々人間はエゴ(欲望)なく生きることはできません。食欲も睡眠欲も完全になくなったら生きていけませんし、欲望とは広義では「何かを望むこと」であって、解脱を目指すというのも一つの欲望と言えなくはないのです。

ですから欲求を満たすということ自体は別に悪いことではありませんし、それを楽しみ愛することは決して神仏の意に反したものではなく、本来仏教は欲望を否定するものではないのです。

なくすべきは欲望ではなく執着の方であり、この世の物質や権利・権力・権威や名声などに捉われず、自分の欲求より他人の欲求を少しだけ優先して満たしてあげることが大事なのです。そこに愛があるのですから。

人間というのは人を幸せにする(愛する)ことでしか幸せになれないように作られています。もし人間に欲望がない(何も望まない)のであれば、人間は他人を幸せにはできませんし、幸せにもなれません。それでは愛が生じ得ませんからね。

ペットの猫だって、ご飯を欲しがってくれて美味しく食べてくれて懐いてくれるから愛し合えるのであり、食欲がゼロの猫では愛は生じ得ません。人間も同じで、何も望まない人は他者を必要としませんから、愛は生じ得ないのです。

だから人の欲求を満たして相手に喜んでもらうことで自分が幸せを感じ、人に欲求を満たしてもらったら心から喜んで相手を幸せにすれば良いのです。それが愛なのですから。

仏教ではよく「人は1mほどの長い箸を持っていて、天国ではお互いにその長い箸で食べ物を食べさせあってみんなが幸せで、地獄ではお互いその長い箸で自分の口に入れようとして食べれずみんなが飢えて不幸になっている」というような例えが使われるのですが、我々の世界はまさにそのようになっているのです。

この世のすべての存在はフラクタルに作られており、六道輪廻は我々の心の中にもあるのです。それは心のコンパスのようなもので、その針がどの世界を向いているかで、自分がその後どの道を進むのかが決まるのです。


>創造主は涅槃や解脱はしないのでしょうか?永遠に苦楽のゲームを作って愛するのでしょうか?誰も居なくて孤独、という感情も全知全能であれば、作らない訳には行かないのでしょうか?

創造主についてここで説明しても読んでいただける文量に収まりようがないので誤解されるであろうことを承知で簡潔に説明しますが、創造主は全知全能であり、それがとてつもなく退屈だからこそこの世界を創り、創造主としての記憶をわざと失い人間として経験を積んでいるのです。そしていわば創造主としての意識を取り戻すこと(ワンネスに目覚める事)が解脱なのです。

しかし冒頭に書いた通り、我々は生きている間に課題であるエゴを完全になくすことはできません。分離意識の核はエゴ(自己保存本能)であり、愛によってそれを乗り越えるところに愛・物語・存在意義が生じるのであり、それが完全になくなって完全にワンネス(創造主)に戻ったら、他人が存在しなくなって愛・物語・存在意義などすべてが生じなくなってしまいます。だから生きている間に完全な解脱(創造主意識の回復・ワンネスの達成)はできないようになっていて、だからこそ我々は全力で解脱を目指して成長を続けることができるのです。

バラバラになった磁石のような我々が愛(引力)によってエゴ(反発力)を乗り越え、個性を保ちながらまた数珠つなぎに一つになることを目指すのがこの人生というRPG(ラブストーリー)のシナリオの核なのです。そしてそれは流れる砂絵の如く永遠に繰り返されるのです。(冒頭でゲームを止めることはできないと書いたのはそういう意味です)

「誰もいなくて孤独」という感情も、創造主が分け御霊としてこの世界を経験する事で生み出された感情であり、本当は創造主以外の存在というのは存在していないのです。それを創造主は元々孤独だなどとは感じていませんでしたが、分け御霊という存在・経験のおかげでそれを感じられるようになったのです。創造主はあらゆる感情を経験するために分け御霊としてこの世に生まれてきているのであり、それが我々という存在なのです。

>正義=悪(悪が必要だから)的な正義に否定的な話を聞きました。(”正義”の危険性は伝わりましたけど)しかし光は闇があって初めて存在出来るし、愛や成長や価値の物語も、苦しみや負の面があって初めて価値として存在出来るなら、愛や成長の物語=悪や苦しみという事にもなって、であれば解脱するのも一興と言う事になりませんか、正義との違いはどうでしょう。

やはり僕の伝えたいことの主旨が全く伝わってないみたいですが、あなたの言う通り基本的に全ては陰陽二元的に作られており、愛を経験的に知るためには、愛ではないもの(エゴ・正義=悪)も経験する必要があるのです。成長を知るためには怠惰・堕落を、価値(愛)を知るためには価値のないもの(物質主義)を経験する必要があり、本当に価値があるのは「経験を通して知ること」なのです。

「愛」を始め、どんなに素晴らしい概念も経験なしには言葉に過ぎません。真理に価値があるのではなく、経験が真理を価値ならしめるのです。いきなり答えを教えられるクイズ番組には何の価値もありません。我々はネガティブな経験も含めて、人生という経験の物語をトータルに愛し、それを与えてくれている創造主に感謝すべきなのです。

本当は「創造主=存在のすべて」自体が愛一元であり愛そのものなのですが、愛の価値を知るためには愛ではない存在を仮想的に作り出して経験する必要があったのです。そして僕らはこのすべてが二元的に存在する世界を愛一元にしていくところに経験(物語)があり、物語が生まれ、価値が生じるのです。

正義とはエゴであり、愛とは対極にある概念です。自分が正義であると思うためには悪という概念を必要とし、必然的に悪を批判し攻撃しなくてはなりません。しかし人間は自分を正しいと正当化する本能があり、相手にも相手の正義があるので、必ず正義は衝突を生みます。だから我々は常に正義より愛を優先させなければならないのです。そしてそれがワンネス(愛一元)への道なのです。

もし答え(真理・愛・幸せ)を目指さず、何でも価値を相対化して「答えなどなくていい・幸せにならなくていい・成長努力をせず怠惰に陥ってもいい・欲望に溺れ堕落してもいい・保身に走り臆病になってその不安を伝染してもいい・正義心(エゴ)で誰かを悪者にして叩いてもいい」などという感じで何でもありのニヒリズムに陥るなら、人生というクイズ番組・RPGが面白くなるはずがないのです。あくまで答え(真理・愛・幸せ)を目指すところに意味(存在意義・成長・価値)が生じるのです。


というわけで、あなたがテーラワーダ仏教・瞑想などを通じて無我の境地を経験されることはとても素晴らしいことだと思いますが、自分や他人のエゴを否定するのではなく、執着を捨てて出会った人を無条件で愛し、自分の欲求より相手の欲求を少しだけ優先できるような、愛のある優しい人になって下さい。そして人生という与えられた経験の機会をトータルに愛して下さい。僕もそうあるように日々努力しています。

2023年5月30日火曜日

戦争も創造主からの試練ですか?

【質問】性別・年代不詳
こんにちは。私は、今日本は戦争に向かおうとしてると思ってます。もし仮に日本を巻き込む戦争が起きるとしたら、それも創造主から与えられた試練なのでしょうか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。できれば質問は新質問箱の方にお願いします。shinya.msa@gmail.com

今日本が戦争に向かおうとしていると思われているそうですが、具体的に日本がどの国とどういう理由で戦争になるとお考えなのでしょうか?

この世界は仮想現実世界であり、創造主の創りし芸術作品なのです。当然彼の作品の中において、彼が意図していない出来事など起きるはずがありません。

我々はそれを残酷・理不尽・無意味だなどと不平不満を言いたくなりますが、それはこの世界も我々自身も彼の創造物であり、ここが仮想現実なのだということを本当の意味で理解していないからです。

もし我々がドラゴンクエストのようなRPGの世界にいて、それを現実だと錯覚していたら、いつモンスターに襲われて殺されるかと怯えながら暮らし、いつか世界が魔王に支配されてしまうと恐れ、そんな世界に自分を産み落としたクリエイターに文句を言いたくなるでしょう。それと同じ事です。

魂は永遠であり、死は幻で、死の苦痛も幻です。その観点から言えば死を恐れたりクリエイターを恨んだりするのは本来ナンセンスなことなのです。RPGのごとくクリアできるまで何回でもコンティニューできるのですから、主人公である我々は死を恐れず、結果(見返り・交換条件)を期待せず、主人公としての使命を果たすこと以外考えてはいけないのです。

我々は元々一つの存在ですから、戦争というのは本当に愚かなことで、もちろん忌み避けるべきものです。しかしこの世界(RPG)は我々の「愛と勇気」を試す為のものであり、戦時ほどそれが究極に試される機会というのは他になく、我々がいかに忌み嫌おうと、戦争が起きる時には起きるのです。ですからもし仮に戦争が起きたら「愛と勇気」が試されているのだと思って下さい。クリエイターがシナリオ上それが必要だと本気で判断していたら、僕らにはそれを避けることはできません。

ただ創造主はこの世界(RPG)をその主人公次第に作っています。つまり主人公であるあなた次第で戦争を避けられる可能性があるということです。どうすればよいと思いますか?

まずは主人公として目覚めることです。それなくして話は始まりません。脇役NPCに戦争を止めることなどできるはずがないからです。詳しくは「宇宙の仕組み」をご覧下さい。

また相手国や自国の政治家などを批判したところで戦争は止められません。戦争を止める唯一の方法は、日々愛により祈り、愛を実践することによって、みんなを主人公として目覚めさせ、ワンネス(私=あなた)に目覚めさせる連鎖を起こすことです。もし戦争しようとしている相手も自分自身なのだとわかったら、戦争などバカバカしいことだということに気づかないわけがないのです。

僕らが通常愛だと考えているものは、男女愛や家族愛などですが、それは「自分達だけが幸せならそれでいい」というエゴに近いものであり、本物の愛とは対極にあるものです。本物の愛とは、出会った人を無条件で自分自身と同じように慈しむことなのです。それが連鎖したら、人々がワンネスに目覚めるのはシナリオ上当たり前のことです。

戦争は悪魔の仕業です。しかしその悪魔は戦争を決断できる権力者の中にだけいるのではありません。すべての存在はフラクタルに作られていて、悪魔もフラクタルに僕らの心の中にいるのです。

権力というのは、民衆の自信を失わせることによって依存させます。自信を失わせるのは簡単で、子供の頃から競争させ、勝った者を優遇します。そして他者と比較されるのを当然と思わせ、他者評価に依存させます。他者評価に依存する限り、誰も自信など持てないからです。そして個人ではどうすることもできないような問題を焚きつけて、常に争わさせ、まるで自分たちが解決できるかのように見せかけることによって権力を正当化します。それが権力の本質なんです。

これもこのRPGにおける初期設定であって、権力側の多くは別にこれを意図してやっているわけではありません。自信を失わせて主人公としての目覚めを妨げ、分離意識を強めてワンネス(ゲームクリア)を妨げるのは無自覚な悪役NPCの役割なのです。

多くの人は自分の正義を振りかざして誰かを批判し「我々は正しい!間違っている悪い奴らはどうなっても構わない。奴らが間違っているってことを思い知らせてやれ!正義執行!」という感じに考えています。「誰でも自信満々になれる方法」に書きましたが、それは自信(愛)がないからであり、自分を正義として誰かを悪者にすることで自尊心を保とうとしているのです。正義に能力は要りませんからね。

しかしその「自分を正義として誰かを批判する精神」こそが愛とは対極にある悪魔であり、それがフラクタル連鎖して戦争が起きるのです。ですから相手国や自国の政治家を責めたところで戦争はなくなりません。

そして戦争で本当に得をするのは、国を治める政治家などではなく、この世界の超国家的な支配階級です。彼らは戦争をしている双方にお金を貸しつけて武器を売りつけます。どっちが勝とうと儲かるのですから、戦争さえ起こせればその勝敗などどっちでも良いのです。そしてそういう連中が世界中に工作員を送り込んで戦争を焚きつけているわけです。

ヘルマン・ゲーリングの言う通り、戦争を起こすのは実は簡単で、自分たちは相手(悪者)から攻撃されていると不安に陥れ、平和主義者を愛国心がないと非難するだけで良いのです。

人の行動の動機は愛とエゴしかありません。でも愛で戦争は起こせません。よってエゴによって戦争を起こすしかないのですが、エゴには主に我欲と保身とがあり、生活が十分満たされている現在において、我欲によって何の咎もない相手を攻めて土地や財産を奪い取る戦争などというのでは民衆が支持するわけがありません。ですから戦争支持を得るためには相手を悪魔化(デモナイズ)し、攻めてこられるのではないかと不安を煽り保身を脅かす以外にないのです。

つまりあなたが「戦争になるのでは」と戦争が起きる前から不安に陥っているのは、彼らの手口に乗せられ、戦争に加担しているも同然ってことです。不安の連鎖が戦争を生むのですからね。

この世(ゲームの内側)で臆病は罪とされず保身のために生きることが肯定されていますが、あの世(ゲームの外側)では臆病こそが最大の罪なのです。それはエゴの産物であり、「愛と勇気」を試すゲームにおいて最大の障害だからです。巨悪というのは常にエゴ(我欲と保身=臆病・不安)の連鎖によってなされるものであり、みんながイメージするような純粋な悪はみんなに嫌われて巨悪とは成り得ないのです。だから誰か悪い人を見つけて悪魔のように言い貶すのではなく、自分の中にいるエゴという悪魔に気づき、「愛と勇気」でそれを乗り越えることが大事なのです。

己を世界の脇役と考えて、己の力を過小評価しないで下さいね。連鎖反応というのは常に指数関数で進むものであり、新聞紙を50回折るだけで月に到達するように、最初はほとんどわからない程度の変化であっても、果てには我々の感覚とはかけ離れたスピードで進んでいくものなのです。そしてその起点となるのが主人公たるあなたの使命なのです。

どうか臆病・不安に陥ることでエゴ(我欲と保身)を連鎖させないで、もっと堂々と構えていて下さい。そしてこのRPGの主人公として正義(何が正しいか)より愛を常に優先して下さい。その「愛と勇気」が連鎖するだけで世界は救われるのです。

2023年5月19日金曜日

日本航空123便墜落事故の真相

【質問】40代・男性
日本航空123便墜落事故の真相について教えて下さい。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

覚りとも人生相談とも関係のない内容なのでどうしようかと思ったのですが、これについては僕も一時興味を持って調べていたことがありますので、僕なりにお答えさせていただこうと思います。

ただこれは創造主から何かを教えられているわけではないですし(直接的に教わるのはもっと本質的なことだけです)自分で実際に現場に行ってみたり関係者から裏を取ったりした情報は一つもなく、これから述べることはあくまで僕個人が伝聞情報を元に推測したものに過ぎないことを予めご了承下さい。そして推測に過ぎない事でご遺族の方や事故関係者の方を傷つける可能性があることを予めお断りしておきます。申し訳ございません。

僕らにはこの数十年も前の事故の詳細を実際に確認しながら専門家以上に調べるということはできませんし、一般人が実際に調べたところできっと核心には触れられないでしょう。ただ僕は無責任に荒唐無稽な陰謀論を唱えようとしているのではなく、まして推測だけで誰かを悪者にしようとしているのではなく、あくまでも確かな情報を元にして、自分なりに点と点を線で結んでみたのです。

僕は「何事も偶然は存在せず、起きるべくして起きたこと(必然)」だと考えています。因果の見えない人間に対して創造主が全てを偶然起きたことだと思わせているだけなのです。

偶然は存在しないのですから、僕らは「なぜ・どのようにしてそれが起きたのか?(事実確認)」よりも「自分という主人公の物語の伏線上、その事件がどういう意味を持つのか?(創造主は自分に何を覚らせようとしているのか?)」を深く考察する必要があるのです。世界は全て主人公次第に作られていて、自分の解釈が自分の世界を作っているのですからね。

ご存じの通り、この件については多くの人間により様々な考察がなされていますが、どれも問題点・矛盾点があって核心には至っていません。し、トンデモな説も多いです。基本的には他の様々な事件に関する陰謀論と同じで、真に迫ったような考察をする人もいれば、テキトーかつ面白半分に推察する人もいます。

また陰謀論をバカにして無理のある体制側の主張を擁護するような人もいます。そしてどうやら誤った情報を意図的にたくさん流して情報を相対化し、攪乱させて事件の核心から世間の目を逸らそうとしている人たちもいるようです。(この記事を公開した途端に事故調査委員会の報告をバイブルみたいに絶対化した人たちから様々な批判・誹謗中傷が山ほど来ました。中には工作員を自称する人さえいました)

この事故に関して確実に言えることは、体制側は明らかに真実を隠蔽しようとしているという事であり、それは逆に言えば体制側に真相を知っている人がいるということです。真相が体制側に都合が悪くなければ無理に隠蔽する動機がないですからね。

事故調査委員会の発表には矛盾点が多く、意図的に何かを隠しているのは明らかです。事故原因が修理ミスによる圧力隔壁の破損とするのは無理があり過ぎるのはみんなわかりきっていることなのですが、事故調査委員会はそれで無理やり押し切って事故の幕引きを図ろうとしました。そうして事故の詳細が明らかにされないまま調査は打ち切られ、資料も廃棄されました。事故調査委員会は体制側・隠蔽側の組織だったと見てまず間違いないでしょう。

さて、この事件の直接的な原因であり、責任逃れのために隠蔽しようとした人物は悪魔のような人でしょうか?いえ、違います。世界の真理はワンネスであり、我々はそれぞれ違う肉体・違う個性を持って違う環境に生まれただけで、みんな本当は同源の魂であり、いわば同一人物が違う役割を演じているだけです。つまりあなたもその人として生まれていたら全く同じことしているだろうということです。

純粋な悪というのはみんなが嫌がるので連鎖しません。もし悪魔のような人は多くの人から嫌われるでしょうから、出世して権力を握るようなことはできないでしょう。ヤクザですら出世するような人というのは(敵や獲物に対して容赦ないだけで)仲間思いである部分ではちゃんと筋が通っていて魅力のある好人物なのです。もちろんそこは陰謀により世界を支配しているグローバリストたちもきっと同じでしょう。本当に悪い人というのは悪いことをするにしても単独犯にならざるを得ず、巨悪とは成り得ないのです。

巨悪を生むのは常にエゴ(我欲と保身・自分勝手な都合)の連鎖であり、エゴはみんな醜いということがわかっていますから、大抵は正義を盾にしてそのエゴを隠しつつ、陰ではみんながその状況において自分に一番都合の良いように物事を運ぼうとしているのです。この日航機123便墜落事故の隠蔽工作もきっとそのようにして行われたはずです。そうでなければ関係者が誰かしら反発して事実をリークしていたでしょう。「悪魔のような人物が絶大な権力(強制力)によってこのような隠蔽工作を成し得た」と考えるのは浅はかです。基本的に関係者に慕われない人間・利益にならない人間が大勢を支配できるほどの権力を手にする事はありえません。

この事件で隠蔽工作に関わっていた人たちは、政治家や官僚やJALの重役や事故調査委員など、みんな相当に苦労して出世してきた(しようとしていた)人たちであり、権力に逆らってまでそれをフイにするはずがないのです。保身(将来への不安)というエゴの連鎖により一致団結して事故を隠蔽したのは(その良し悪しの問題は別として)ごく自然なことだと言えます。

この事故の裁判は既に和解に至っていますが、裁判における和解というのは取引であって、和解が成立したからといってどちらかの主張が正しいと事実認定されたわけではありません。裁判が終わらなければ補償を受けられないのですから、長引かせたくないと考える遺族の心情は自然なものであり、「虚偽を受け入れた」と批判されるべきものではありません。

陰謀についてできるだけ核心に迫った推理をするには「結局誰がどのような利益を得たのか?」を調べることが一番の手掛かりになるかと思います。首謀者の利益にならない陰謀というのはまずあり得ないからです。

まず、事故調査委員会からはボーイング社の修理ミスが事故の直接原因であるという発表がありましたが、もしそれが事実であるなら、当然JALはボーイング社を大々的に非難し、その後の発注を控えるはずです。しかし実際はJAL側からそのような非難はなく、むしろ事故後の方が発注が増え、今現在に至るまで日航機の殆どがボーイング社の独占状態です。この事実から見てボーイング社が事故の責任を被る見返りに、JALから継続的な大量発注の約束を取り付けたと考える方が自然でしょう。

JALはその後2010年に経営破綻状態に陥りましたが、日本政府による大量の公的資金投入と債権放棄を経て経営再建し、再上場を果たしました。この政府による大規模な救済措置は、JALが国にとって非常に重要な半官半民のような大企業だからとも考えられますが、日本には全日空を始め航空会社が他にもあり、そこに会社ごと買い取らせるなどの方法もあったはずで、それをまともに検討さえせずに大量の公的資金を投入することで無理に延命させたことは、事故の責任をJALが負ったことへの見返りであり、また口封じのためでもあったという疑いを僕は持っています。もし会社の存続(保身)のために隠蔽工作に直に関わった人間が経営破綻により解雇されたり退職金が支払われないような事態になれば、ヤケクソで諸々暴露されかねませんからね。

しかしこの事件で本当に利益を得たのは明らかにアメリカ(の支配層である国際銀行家・グローバリストたち)でしょう。この事故の翌月にプラザ合意が成立しました。それはわずか20分という短い時間でした。それは事前に各国が合意済みで(参加国はどこもグローバリストの傀儡政権なので当然事前に合意しています)、締結は形式だけのものだったからでしょう。その後は国家の為替介入によりすさまじい勢いで円高ドル安が進み、日本のアメリカに対する貿易黒字が大幅に縮小しました。

あなたは日本の国家予算がいくらか知っていますか?約100兆円?それは表向きの予算であり、日本が大幅な赤字国・債務超過国であるかのように見せかけるためのものであり、それが増税のエクスキューズとなっているわけです。

日本の本当の国家予算である特別会計の歳出総額は、令和3年度予算で493.7兆円に達しており、会計間相互の重複計上額等を除いた「純計額」は245.3兆円となっています。特別会計は今や公然のものなのですが、その闇を暴いた石井紘基議員は殺害されています。実行犯は暴力団ですが、CIAの差し金だと思われます。

この記事を書いた途端に、僕の記事をただの愚かな陰謀論だと決めつけてバカにして否定したい人たちから「もっと経済を勉強しろ」というようにツイッター上で説教されましたが、彼らは中央銀行である日銀が特殊株式法人で国有ではなく、その株主の45%が民間人で非公表であるということさえ知りませんでした。日銀の株式は市場で公開されているわけではないので一般人は買えません。では45%の株主がどんな人間でどれだけの影響力でしょうか?国民にはわかりません。もちろん建前上は配当が低く経営に口を出せないことになっていますが、それが本当なら民間人が日銀の株式を持つ理由も非公開にする理由もありません。そんな組織が日本円を発行しているのです。そんなことはもちろん学校でも教えられずニュースにもならないので、ほとんどの人が知らないのです。お金というものを単なる「物々交換に変わる便利なモノ」程度にしか認識しておらず、金融経済が歴史的にどんな不正の元に行われているものなのか全く理解せずに、こういった話を聞いても荒唐無稽な陰謀論としか考えません。

日本政府の裏帳簿である特別会計の内訳はいまだに明らかではありませんが、日本国民に内密で米国債を大量に買わされていることは様々な資料からまず間違いないと思われます。(国益のために使われているのなら国民に隠す必要がありません。国益に反することをやっているのは自明です)そして日本はその米国債を米国が乱発したドルの価値を維持するために塩漬けにしなければならず、運用する事すら許されていません。基金として米国債を運用しようとした中川昭一元財務金融相は変死していますが、それもCIAの差し金だと思われます。

急激な円高ドル安は日本が買わされた大量の米国債の目減りを意味します。米国が債務返済前の時期に合わせてドル安工作を実行し、ドルは円に対してそれまでの3分の1にまで価値が下がったのですから、その為替差益の前には国債の僅かな利子などないに等しいものとなったでしょう。米国の貿易赤字の是正というのはプラザ合意の表向きの理由でしかなかったわけです。

プラザ合意以降の急激な円高ドル安により日本はバブルに突入しましたが、バブル崩壊後の日本は更にアメリカの経済的な属国となっていきました。それは撒き餌漁のようなもので、撒き餌に踊らされて食いついた日本企業はバブル崩壊後に次々に米国ファンドのものとなってしまいました。基本的に市場というものは支配者によってコントロールされているものであり、市場はバブルに踊らされ、恐慌により釣り上げられる、という歴史を繰り返しているのです。

このプラザ合意に日本が同意することが「日航123便墜落事故の事故原因隠蔽への加担と、事故責任をアメリカ企業であるボーイング社が肩代わりすることへの見返り」だったとすれば、話の筋は非常に通ります。なぜなら結果的に見れば莫大な利益を得たのはアメリカ側であり、それはアメリカ(というよりアメリカを利用して世界を支配しているグローバリスト)の描いたシナリオ通りで、その実行犯がCIAだったであろうことは歴史的に見ても容易に想像がつくからです。

この事件で莫大な利益を得たのはボーイング社やJALの社員でもなければ、日本の政治家や事故調査委員会でもありません。彼らに事故そのものを首謀する動機などありようはずがないのです。520名もの犠牲・莫大な損害賠償・社会的信用失墜と減益のリスクを冒してまで事故を起こすなんてことはありえないのです。

もちろんこの事件の隠蔽に関わった大物政治家は失脚せずに済みましたし、またアメリカ側の「飴と鞭」により何らかのキックバックは貰っているでしょうから、それはそれなりに得をしたとも言えなくはないですが、膨大なリスクに対してあまりにリターンが少なすぎ、それを自ら望んで事件を首謀したとは考えられません。その政治家が己のエゴ(我欲と保身)ゆえにCIAに見事にハメられたと考える方が自然です。

通貨発行権を政府に取り戻そうとしてケネディが暗殺され、それ以降の大統領がグローバリストに決して逆らわなくなったように、日本の政治家もロッキード事件&日航機墜落事故によりグローバリストの力を思い知らされ、より従順な手先となってしまいました。

話を事故原因に戻します。事故原因には様々な説が唱えられていますが、事故調査委員会の発表した「ボーイング社の修理ミスによる圧力隔壁の破損」という事故原因は絶対にありえません。圧力隔壁が最も頑丈に作られている垂直尾翼を内側から吹き飛ばすほど大破した場合、間違いなく急減圧が起きるはずですが、生存者(非番の客室乗務員だった落合由美さん)の証言からそれは起きていないことがわかりますし、ボイスレコーダーの記録を聞いてみても、パイロットや客室乗務員はマスクをせずに会話していることから明らかです。急減圧の状況でそれはありえないことです。機内温度の急激な下降も起きていません。エベレストの山頂並みの高度の外気(気温・空気圧・酸素濃度)に、訓練を受けておらず何の装備もない普段着の一般人がいきなり晒されたら意識を保つ事すら困難なはずです。よって圧力隔壁の破損は起きていなかったと考えて間違いないでしょう。

トイレが仕切りになって急減圧が起きなかったという指摘もありましたが、圧力隔壁が大破してもトイレのお陰で急減圧が起きないぐらいなら、圧力隔壁は内部の圧力を調整するという機能を果たせません。エンジンからの吸気が圧力隔壁の破損による急減圧を防いだという説や、空気が抜けたのが機体後部だったから破滅的な急減圧は起きなかったとする説は、空気力学を無視したトンデモ論です。

多くの人は機内の約1気圧と機外の約0.3気圧という圧力差がどれほどすさまじいものなのかを全く理解していません。当事故の状況はいわば終わりかけのスプレー缶に穴を空けられたようなものであり、その勢いで機体に溶接された部品が吹き飛ぶぐらいなら、機体は空中分解しているでしょう。実際に英国欧州航空706便墜落事故では機体が空中分解しています。胴体は垂直尾翼より遥かに脆いんですから当然です。

機体の残骸を集めている残している人の動画のリンクを張って事故調査委員会の説を支持している人もいましたが、圧力隔壁があれだけそっくり綺麗に現場に残っていたという時点で、圧力隔壁の大破が垂直尾翼を吹き飛ばしたという説はありえないと教えてくれているようなものです。

そういうことをまるっと無視して「ボーイング社の修理ミスによる圧力隔壁の破損」という体制側の主張を鵜呑みにし、それ以外の説を陰謀論だと否定するのは、どんな荒唐無稽な陰謀論より荒唐無稽だと思います。少なくとも科学ではありません。

写真でも、明らかに尾翼は損傷を受けていますが、これを「圧力隔壁の損傷が原因で尾翼が吹き飛んだ」とするのはあまりに無理があります。一番頑丈に作られているはずの尾翼が内的要因によりこれほどの損傷を受けていれば、英国欧州航空706便墜落事故と同じように空中分解しているはずで、急減圧すら起きずに飛び続けるなんてことはありえません。そもそも運輸省自体が、尾翼に11tもの異常な外圧が加わったことを認めているのですから、内的要因説はあり得ないのです。

そして外的要因だったとしても乱気流のような自然現象により破壊されることもあり得ません(事件当日の天候は極めて良好でした)。ですから自然現象ではない(人工的な)何か外的な力が加わったこと以外には考えようがないのです。「圧力隔壁の損傷が原因」とする説はこんなに無理があるのに、事故調査委員会はそのように内的要因説で無理やり結論付けて異論を一切認めようとしないのは、その外的要因を隠蔽したいからと考えて間違いないでしょう。

この事故機のフライトレコーダーは、事故後何年も経過してから事故調査委員会からではなく何者かによってリークされたもので、意図的に消されている箇所や改ざんされた形跡のある個所があります。そこにはきっと事故調査委員会が世間に知られては困る内容が含まれていたであろうということは容易に推察できます。もし疑いが晴れるような内容であれば事故直後に全てを公開しているはずで、そうしなかったのは逆に事故の責任が明らかになってしまう内容が含まれていたからとしか考えらえれません。

フライトレコーダーは離陸直後からしばらくの記録がなく、意図的に消されたことが推察されます。これにより離陸後にパイロットが異変を察知していたのか否かがわかりません。ただ内的要因で機体に異変があったのなら(圧力隔壁が原因ならスプレー缶の底にヒビが入るようなものですから事前に何らかの前兆があるはずです)、すぐさま無線で帰港の依頼をしているはずですし、もしそうした事実があるなら事故調査委員会のシナリオ通りに内的要因説を裏付けることになりますから、事故調査委員会側が意図的にそれを消去する動機がありません。内的要因なら政府に責任などあるわけがないですからね。意図的に消去したのはそこに「外的要因説」を裏付ける証拠があったからであり、それが政府の責任を決定づけるものだったからでしょう。

フライトレコーダーは爆発音と共に機体がコントロールを失う直前に、客室乗務員がパイロットに対し「トイレに行きたいという客がいらっしゃるんですが」と言うところから始まっています。そこでパイロットたちは気を付けるように客室乗務員に念を押しています。これは離陸直後のことではなく、高度は安定状態にあったはずで、天候も極めて良好で乱気流に巻き込まれたりしていないはずですが、そのような緊張状態にあったのは、パイロットが何らかの外的な危険を察知していたからではないでしょうか?そしてそれは体制側にとって知られてはならない内容だったからこそ意図的に消去されたのでしょう。

もし機体の異変がパイロットにとって全く晴天の霹靂状態だったのであれば、パイロットが異変発生直後にその深刻さが全くわからない状況の中で即座に「スコーク77(緊急事態宣言)」を出したのは不自然です。油圧系統が全て失われたことなど、異変の深刻さに気づいたのはその後ですからね。

繰り返しますが「外的要因」に日本政府側の責任(落ち度)がなければ事故調査委員会が隠蔽する動機自体がありませんから、その「外的要因」が日本政府側の過失によるものだったと考えるのが自然でしょう。

恐らくは自衛隊の追尾ミサイルが民間機である日航機123便を誤射してしまったのだと思われます。乗客によって機内から何らかの飛行物体が撮影されていますし、その真偽はさておいても、状況的に見て自衛隊の何らかの兵器が民間機である日航機123便に衝突してしまったこと以外に、日本政府側が隠蔽する動機はまず考えられません。もし追尾ミサイルが実機だったのであれば爆発しているでしょうから、デモ中に試験機が誤射してしまったと考えるのが自然でしょう。

実際にどの兵器だったかは僕は専門家ではないのでわかりませんし、どの兵器であったかは僕にとって意味するところが変わりません。「〇〇というミサイルがその時の123便の高度7500メートルに達するはずがない」とか「〇〇というミサイル発射できる駆逐艦が当日相模湾沖にはなかった(つまりアリバイがある)」とか、隠蔽側に有利な情報も色々目にしましたが、軍事活動は機密情報だらけなのに、一般公開されている情報だけを根拠にしていては話になりません。

追尾ミサイルなのであれば、一番温度の高いエンジンに命中しているはずだというご指摘もありましたが、飛行機もミサイルもお互い音速に近い速度で移動するものなのに、必ず目印にしているエンジンに命中するとは限らないでしょう。釣りだって魚の口以外にルアーがひっかかることはよくありますが、それと同じです。

さて、事故の直後、アメリカ軍のヘリが現場にいち早く到着し、救助活動を願い出たにも関わらず、アメリカ軍は帰還命令を出しました。これはこのヘリのパイロットが直々に証言していますから、信頼できる情報かと思います(生存者である落合由美さんも、墜落後すぐにヘリが来ていたが帰って行ったと証言しています)。つまりアメリカ側は事故直後の時点で日本政府の証拠隠滅に加担することを了承していたということになります。

これは普通に考えておかしなことです。日本は戦後も実質的に(少なくとも軍事的には)アメリカの属国状態にあり、米軍の命令に対して日本側が迅速に従うことはあっても、その逆はありえない関係だからです。

事故が起きた相模湾上空というのは空の混雑地帯であり、そこで追尾ミサイルのデモを行うということは非常に事故のリスクが高く、それなのに敢えてその場所を選ぶのおかしなことです。しかもわざわざ多くの人が帰省で航空機を利用するお盆の時期に。

これについては恐らくアメリカ側からの何らかの裏工作があったのでしょう。全く憶測の域を出ませんが、日本は自国開発の追尾ミサイルを販売しようとしていて、民間機には絶対に当たらないという自信があり、米国側は「それならば」と挑発的にお盆の時期に相模湾上空でのデモをするようにけしかけ、日本側がそれに応じてしまったのかも知れません。

そこでCIAが何らかの細工を施し、民間機を追撃させたのでしょう。それを自国の失態だと思った大物政治家は軍拡への自国民からの批判を恐れ、また己の保身のためにも隠蔽工作に踏み切ったのではないでしょうか?

もちろん日本側も一応「万が一」ということは考えていたはずです。そうでなければ意思決定にものすごく時間がかかる平和ボケした日本の政府が、これほど迅速に「生存者を見殺しにしてでも隠蔽する」という非情な判断を下すことなどできるはずがありません。

そしてアメリカ側はその隠蔽工作への加担依頼が日本政府から来るのを当然前もってわかっていたために即座に忖度し、前線の兵による救助活動を中止させるという非情な判断を迅速に下したのでしょう。この事故がアメリカ側にとって全く想定外のことだったのであれば、日本側の隠蔽工作にアメリカがこれほど素早く忖度するわけがないのです。そして事故後ボーイング社に責任を取らせることの見返りに、外交交渉において日本側の大幅な譲歩を引き出したのでしょう。つまり完全にハメられたということです。

ボーイング社は世界を相手に商売をしているわけで、日本の一社から契約独占の確約をとれたとしても、世界的な信頼失墜が容易に想像できる「事故責任の肩代わり」を進んでするわけがないので、きっとCIAの圧力があってのことでしょう。修理ミスを犯した社員がその後どう処罰されたかの情報も目にしません。

この事故により当然日本の兵器は信頼を失い、益々米国依存の体制に偏ることとなったわけで、それも米国にとってどれだけの利益になったかということです。

陰謀説は本当にバカバカしい話が多く、「日本がアメリカに秘密で独自に核開発しようとしていた」「ソ連と結託していた」などという説がありますが、それは日米の関係性上ありえない話です。また「核を隠すべく運搬するために日航機を使っていた」「自衛隊が放射性物質や軍事用の危険物質を運搬しようとしていた」という説も目にしましたが、自衛隊は巨大な輸送機を何台も持っているわけで、内密にやりたいことなのにわざわざ民間機を使って運搬するということは考えにくいです。事故現場で放射性物質や軍事用の危険物質が見つかったという話も、僕が調べた限りでは確証がありません(もしあったらさすがに今の時代は大騒ぎになるでしょう)。

何かの開発技術者など誰か特定の人物の殺人が目的だったという陰謀論もあるようですが、それも考えにくいです。それを目的とするにはあまりに大がかりで二次的な被害が大き過ぎ、失敗したり陰謀が露見したりするリスクも高く、その割に得られる利益も確実とはいえません。殺害が目的ならもっと楽で確実な方法があるでしょう。

日本政府は戦後CIAの手下のようになっており、それは決して単なる陰謀論ではなく、岸信介を始め戦後日本の体制を作った人たちがCIAの工作員だったことはCIA自体が50年後に公開した資料から明らかになっています。

アメリカと日本は完全に主従の関係にあり、日本がアメリカの意向に逆らって独自に軍事開発などできる体制ではないのです。そして戦後岸信介の孫である安倍晋三しか長期政権を実現できなかったという時点で、CIAの影響がどのぐらい大きいかがわかるはずです。日本政府の大まかな方針を決めているのはアメリカであり、意思決定は些末な問題に関するもののみで、はっきり言えば国会など茶番なのです(寝る政治家がいても責められません)。

しかしそういうアメリカ隷属の体制を作った岸信介たち(CIA工作員たち)を批判しても意味がありません。戦犯としてまさに殺されようとしている時に、命と出世を保証されたら、CIAの手先として国を裏切るというのは無理もないことだからです。「自分は絶対にそんなことはしない、国を裏切るぐらいなら潔く死を選ぶ」と言える人が日本にどのぐらいいるでしょうか?

グローバリストもCIAも人の子であり、それが無辜の市民を数百・数千人レベルで犠牲にするような大がかりな陰謀を成し遂げようとする時は、911やイラク戦争の様に、一国から石油利権を奪うぐらいの大きな利益が確実に見込めなければやらないのです。そしてこの事件により日本は一国の石油利権に相当するほど大きな利益が奪われたということです。

123便を自衛隊機が2機追尾していたという証言は多いようですが、スコーク77を出した時点ですぐ自衛隊機が追尾するのは当たり前でしょう。ただそれを政府側が認めようとしないのは、自衛隊機が追尾していたことを認めると、墜落位置を発見できなかったからすぐ救助活動ができなかったという言い訳が立たなくなり、生存者を見殺しにして証拠隠滅を図ったという疑いが確実となるため、認めるわけにはいかなかったのでしょう。フライトレコーダーの後半の無音部分は、主に追尾していた戦闘機との交信なのではないかと僕は思っています。

市街地に落ちて二次被害を出さないためには最終手段としてミサイル追撃だってあり得ます。ただこれは住宅地に落ちて被害を拡大させないためだという建前であったのならば、必要悪だったと理解する以外にありません。

少なくとも暗闇の中で煌々と燃える事故現場を自衛隊が発見できなかったというのは考えにくいです。実際現場近くに住んでいる人たちはすぐに事故現場が特定でき、実際に現場に行ってみたという人の証言もあります。真偽は不明ですが、大文字焼きと同じでかなり遠くからでも視認できたはずです。

垂直尾翼は相模湾の比較的浅い場所で見つかっており、その垂直尾翼には追尾ミサイル試験機のオレンジ色の塗料がついていたために、日本政府は回収できるのに敢えて回収しなかったという話もあります。これも真偽は不明ですが、あえて回収しなかった理由としてはそれが一番自然でしょう。

そして航空機の燃料というのはあのように機長の遺体を歯型しか残らないぐらいに焼失させてしまうほど高温にはなりようがなく、証拠隠滅のために火器が使用された疑いは濃いと思います。現場はそのような臭いが充満していたという証言もありますし。

生存者は墜落位置から少し離れた谷底に滑り落ちた後部座席からのみ見つかっており、それは証拠隠滅に当たった部隊が暗闇の中では発見できなかったからと考えるのが自然でしょう。日本政府側が意図的に証拠隠滅を図り、生存者は出て欲しくなかったのだと思われます。明らかに生存していると思われる男の子の写真もありましたが、闇に葬られました。

隠蔽部隊が回収しようとしていたのは、放射性物質や危険物質ではなく(もしそうなら相当な経験のある人材と相当な重装備が必要になるでしょうし、そのようなほぼ自殺行為の命令にエリート部隊の人間たちがみんな素直に従うとは思えません)自衛隊の試作機が事故の原因だったという証拠、フライトレコーダーと追尾ミサイルの試験機に塗られるオレンジ色の塗料がついた機体部分だったのではないかと僕は思います。

アメリカ(グローバリスト)側が首謀者なのですから、当然日本側からの隠蔽工作の依頼をされることは予見していたために、素早く依頼に応じることができ、ボーイング社の整備不良ということで責任も被り、その見返りとして日本はアメリカに対して交渉上大幅な譲歩せざるを得なくなったというのが真相だと考えるのが僕は一番辻褄が合うと思います。逆にこの筋書きが見えると、この事故が偶発的なものだったと考える方が難しいでしょう。

もし仮に事故が偶発的なものだったとしても、少なくともこの件で最大の利益を得たのは間違いなくアメリカ側(グローバリスト側)であり、これだけ大掛かりな事故を首謀するだけの莫大なメリットがあったということだけは間違いありません。

アメリカ(グローバリスト)側にとって唯一誤算だったのは、ミサイルをエンジンに命中させて相模湾上に撃ち落とすはずが、垂直尾翼だけを破壊したために陸地に落ちてしまって証拠隠滅が事前の想定以上に困難となったことだけでしょう。まぁそれは日本政府側のデメリットであって、アメリカ(グローバリスト)側にとっては二次被害で巻き込まれることがなかったのでむしろメリットしかなかったのでしょうが。

しかしグローバリストたちを民間人である僕らが批判したところで彼らは痛くもかゆくもありません。我々民間人には立証はできませんし、仮にしたところで闇に葬られるだけでしょう。また日本の政治家や事故調査委員会を批判したところで意味がありません。出世・保身のために命がけになるのは今の世の中では普通のことですから。

お金さえ儲かれば良い・我が身さえ助かれば良いという考えで、米国にお金を出して守ってもらおうとする我々一人ひとりのエゴ・臆病・怠惰が、この今の属国的状況の根本的原因なのです。己を棚に上げて政治家や誰かを批判しても何にもなりません。

「安全のために自由を手放した者は、その両方を失う」ベンジャミン・フランクリン

みんな悪いことがあれば誰かを悪者にして責めて責任を取らせ罰を与えれば問題が解決すると考えますが、みんな責められたくない・責任を取らされたくない・罰を受けたくないから事実を隠蔽しようとするのであり、責めようとすればするほど問題の対策というのは解決から遠のき、結局形は変わっても同じような問題が起き続けるのです。物事というのは基本的にすべてその人なりに「やむにやまれぬ事情」というものがあって起きることなのです。

だから僕は常に正義より愛を優先させ、許すことが大事だと常々伝えているです。それはいきなり凶悪な犯罪者を一切裁かず釈放すべきだと体制側に対して言っているのではなく、「出会った人の罪(欠点や過ち)を例外なく許して自他の自尊心を高める連鎖を自分から起こし、巨悪が生まれない世界を目指して行きましょう」ってことをあなた(読者様)個人に対して言っているのです。

例えば、僕はSNSにおいて「AT車のブレーキとアクセルを踏み間違えることは、現在の車の構造上容易に起こり得る事態であり、車の構造的欠陥である。自動車メーカーにとって技術的にそれを防ぐことは容易なはずなのに、それをしないで同種の事故が頻発するのは自動車メーカーの怠慢である」という感じで告発したことがあったのですが、自動車メーカーの駐在員の方から「我々もその件に関しては非常に遺憾に(加害者・被害者双方に申し訳なく)思っています。しかし自動車メーカー側が積極的にそういった対策をすると、全ての事故の責任が自動車メーカー側にあるということになって、商売にはならなくなるのです」といった弁明をされました。ちなみに彼はとても爽やかな好人物でしたし、奥さんと三人の子供を養わなきゃならない人であり、また出世コースに乗っているような方でもありました。会社の意向に逆らうことなどできるわけがないのです。

資本主義における企業というのは利益を追求するためのものであり、企業に勤める以上はその利益・上層部の意向に逆らうことはできないのが当たり前です。そして我々が学ぶべきことは「(世間の人の多くは)問題があった時に責任者を見つけて追及して責任を取らせれば問題が解決するかのように考えて責め立てますが、それが責任逃れ・隠蔽工作の動機となり、かえって問題の解決を遅らせる」ということです。

前述したように巨悪というのは常に誰にでもフラクタルにあるエゴ(我欲と保身)という悪魔の連鎖によってなされるものであり、この事件は己の保身を乗り越えて自分の組織の不正を暴けるのか?それができない人たちを許せるのか?そういうことが問われているのです。この世界に偶然は存在せず、全ての事象が創造主からのあなた個人に宛てたメッセージなのです。

欲望は悪いものですか?に書いた通り、エゴはなくせばよいというものではなく、またなくせるものではありません。それは成長課題であり、乗り越えるべきものであって、なくなったら乗り越えて成長することはできません。。主人公である自分からエゴを乗り越え、真理(愛)の実践によりそれを連鎖させ、世界をワンネスに目覚めさせていく以外にこの課題の解決法はないのです。世界は愛と勇気を試すためのRPGであり、主人公は自分なのですから。

2023年5月14日日曜日

私は大丈夫なのでしょうか?

【質問】40代前半・男性 妻・娘あり
初めまして。いつもTwitterやnoteを拝見させていただいております。喜捨出来る程の余力も無いのに図々しい質問で恐縮なのですが、今自分が感じている事が目覚めに近い物なのか、単なる逃避なのか、それとも精神的な病気なのか教えていただければ幸いです。

唐突に漠然とした質問ですみません。質問をしてみたものの、どこから説明をしたら良いのか悩んでいるくらいです。貴重な時間を割いて頂く状況でありながら、真也様に質問をする事で自身への理解を深めるような状況である事をお許しください。(阿呆だと感じたら、放置していただければ察します)

端的に申しますと、現状、成り行きで自営業(建設業・現場管理メイン)を営む事になったものの、思うように稼げず、税金も払えず、差押え通知がきている状況です。つまりは社会的に底の方です。

自身、お金を稼ぐ事にフォーカスすれば、稼ぐ事は難しくないはずと感じてます。ただ、不思議とそれを望んでないのです。何を根拠に?という話になってしまうのですが、気づいたら相手の望む事が分かるようになってました。

ただ、それ以上に望む事に対する本質も見えてしまうというか。目先の解決を提案するのは簡単なのですが、根本からとなると相手が嫌だと思う事をつつかなければならないという事が多くて。相手が変わりたいと望むのであれば、本腰を入れてと思うのですが、だいたいが目先の解決を目的としてる事が多く、結局は問題を先送りしているような感じがじてしまい、ただただ愚痴を聞いて終わる状況です。

お金だけを考えれば、その場限りの解決で相手に喜んでもらえばいいと思うのですが、勝手に深掘りしてしまって。。自分のエゴの押し付けなんだろうなと思っているのですが、中々難しくて。。

で、真也様の「自分はRPGの主人公」というのも良く分かっています(分かってるつもりでしたらすみません)。というのも、世界は自分の受け止め方(解釈)でどうとでもなるよなという感覚になりまして、なんといいますか、物事の善し悪しを判断しているのは自分自身で、現れる物事にはそもそも善悪が無く、ただ事実のみといいますか。全ての物事・縁が自分にとって意味があるように思えて。

おそらく、今の私の置かれた状況を10人がみれば大多数は不幸だとか、酷いとか思うのが一般的だと思う(実際にしこたま言われます)のですが、私自身は乗り越えるべき壁というか、更なる成長の糧で悪いものでは無いように感じてます。

ただ、ここに至るまでを省みると、自分の意思で決めてきたという思いがある反面、今までの意思決定の場面の一つ一つが用意されているというか、導かれているというか。決して他責にするつもりは無く、自身で選んだはずなのに、選ばされているというか。。。自分の世界のようで、自分では無いというか。。。ただ、不思議と悪い心地はしないので、ありのままを受け入れているというのが正直なところです。

そんな状況ではありますが、不思議と幸か不幸かで言えば、結構幸せです。ただ、まずは子供の為に生活は安定させたいと思っています。しかし自身に欲とか執着があまり無いので、どうしたものかと。。。勝手に、自分の器が出来れば物事もついてくるのかなと思っている(今は試されてる時)のですが、いかがでしょう?

私は大丈夫なのでしょうか?自分としては大丈夫なつもりですが、客観的な意見をいただければ幸いです。。

※無理にとは言いません。お返事が無ければ、それなりに受け止めますのでくれぐれもご無理なさらずでお願いいたします。

以上、長文を読んでいただきありがとうございました。真也様の益々の悟りを心から祈ります。願わくば、全ての人に幸せが届きますように。


【回答】
ご質問ありがとうございます。とても大変な状況にあるようですね。僕も鬱のまま成り行きで個人経営をやっていたので、お気持ち心よりお察しします。

noteや質問箱を読んでいただけていることは大変嬉しいことです。ただあなたの質問内容から察するに、きっと僕の伝えようとしていることは全然あなたに伝わっていないと思います。まぁそれはあなただけでなくほとんどの人がそうなのですから仕方のないことなのですが。本当の意味で世界を救う主人公に目覚めさせる(菩提心を起こさせる)ということは如来にとってさえも困難なことで、僕にそれができないのは当たり前のことなのでしょう。

>今自分が感じている事が目覚めに近い物なのか、単なる逃避なのか、それとも精神的な病気なのか教えていただければ幸いです。

きっとそのどれもが正解なのではないかと思います。夜明け前が一番暗いように、目覚め前が一番苦しいのです。そしてあなたの今のお考えは逃避(ネガティブな自己正当化)でもあり、それは病気(霊障)でもあるのだと思います。


それでも今回あなたが素直に人を教えを請い、頼ることができたのは(覚りにとって)とても幸いなことです。あなたが本当に素直かつ真剣に人の話を聞く気があるのであれば、ですが。

もしあなたが誰かにただ話を聞いてもらいたい・ただ同情してもらいたい・ただ現在の自分の考え方を肯定して欲しいだけなのであれば、この場は適切ではありません。僕には相手を全く傷つけないように解決策を提示したり、目覚めに導いたりということはできないのです。

心が弱っている時には厳し過ぎるかも知れませんが、100%の愛であなたの幸せを願ってのことですので、どうか悪く受け取って怒ったり落ち込んだりしないで下さいね。

自分が眠っていることを自覚できるのは目覚めた後であるのと同じように、わかってないことを自覚できるのはわかった後ですから、わかってるつもりでわかっていない人にわかってもらうことはとても困難です。人間はみんな課題を乗り越えるより自分が傷つかないことを優先するように初期設定されていますからね。それでも人を目覚めさせるのが僕の使命ですから、それを放棄するわけにはいかないのです。

>喜捨出来る程の余力も無いのに図々しい質問で恐縮なのですが

質問にお答えする前にお断りしておきたいのですが、そういうことを言うのはまるで僕がお金を貰えるか否かで質問に答えるかどうかを決めたり、回答後に金銭を要求でもしているかのような印象を与えるのでやめていただきたいです。そういうことは一切していません。

僕はあなたであり、あなたは僕なのですから、質問・悩み相談は全く遠慮する必要はありません。僕の活動は対価を得るためにやっているのではありませんし、質問には無償で100%回答させていただいています。(質問ではない、質問を装った的外れで悪意のある批判や誹謗中傷は別ですが)

あなたはただご自分が慎み深い謙虚な人間だと見せたかったのかも知れません。実際あなたはいわゆる「良い人」なのでしょう。しかし自分が悩みを相談するのに「図々しい質問で恐縮」などと言うのは、あなたが逆の立場で自分に悩みを相談してくれる人に「図々しい」と思う人間だと表明しているのと同じであり、その遠慮は冷酷さであると同時に卑屈さでもあって、決して美徳ではないのです。僕は世界を救うためだけに生きているので、悩み相談は有難いとしか思いません。

あなたの人生がうまくいかない理由もきっとそこ(遠慮・卑屈さ=冷酷さ)にあるのではないかと思います。今の世の中、お金(を稼ぐ能力)がないことで卑屈になるのは仕方のないことなのでしょうが、「人様に迷惑だけはかけるな」というのは呪いであり、それは初期設定で与えられている乗り越えるべき課題なのです。そのあたりの話は「人の価値とは?」に書いているので、よくよく読み返していただけると幸いです。

>阿呆だと感じたら、放置していただければ察します。

これもですね、あなたは自分に助けを求めてくる人が阿呆だと感じたら放置するのもやむを得ないと思っているのでしょうか?人間関係はすべて鏡なのだと知って下さい。確かにあなたは阿呆だと思いますが、僕も阿呆です。人間は成長を楽しむためにあえてどこか阿保につくられているのですから当然です。それを理由に悩みを相談してくれる人を放置するのなら誰も救えません。ゆえに主人公の僕がそれを放置するわけありません。あなたも早く主人公として目覚め、課題を乗り越え、同じ課題に立ち向かう人たちの救い・導く存在となって下さいね。

>客観的な意見をいただければ幸いです。

人生はRPGで、あなたがその主人公なのであり、あなたにとってあなた以外の人は(僕も含めて)全員NPCなのです。だから本当は客観など存在しないのです。世界は主人公であるあなた次第に作られていて、幸せかどうかを決めるのはあなた自身であり、他人からどう思われるか(他者評価・比較)は一切関係ありません。

客観よりも大切なことは、人生というRPGをプレイヤー目線からクリエイター目線で見てみることです。人生という映画を俳優目線から監督目線で見てみることです。すべてを与えし創造主の視点で自分の人生を見ることができるようになれば、きっとすべてがわかるようになります。今回はそのヒント・導きになれば幸いです。

>社会的に底の方

あなたが相談している相手は乞食ですよ?あなたは謙遜のつもりなのかも知れませんが、それは経済力によって序列をつける考えを無自覚に常識として受け入れ、僕を含め現在経済的に貧しい人みんなを貶めているのと同然なのです。やはり卑屈さと冷酷さというのはイコールのものであり、あなた自身が「(お金を稼ぐ能力によって)人に序列をつける考え方」によって自分自身も他人も貶めて苦しめていることに気づいて下さい。このあたりの話も「人の価値とは?」に書きました。

日本人の多くは自己否定的なことを言う己の卑屈さを謙遜・謙虚だと思い込んでいます。しかしそれは他人から言われて傷つきたくないことを予め先回りして自分で言っているだけです。その証拠に、その謙遜に乗じて「本当にそうですね」と言われればより深く傷つくでしょう。もし僕に「あなたは本当に社会の底辺ですね」と言われたらどう感じますか?

本物の謙虚さというのは、自分の努力で得たものでさえも「お陰様」と考えてみんなと分かち合い奉仕する姿勢であり、それに対して他人から「本当にそうですね」と言われても傷つくわけがないのです。努力できる才能や環境も創造主からの贈り物だと知って下さいね。

結局、自分を貶めることは、同じような境遇にある他人を貶めているのと同じなのです。だから存在の全てである創造主=総合意思から疎まれ、その分身である周囲の人からも疎まれ、不幸に導かれるのです。それは創造主の嫌がらせではなく、自分の愛のなさに気づいて自発的に成長して欲しいからです。

そしてあなたは喜捨(親切)というのは余力でやるもので、自分は余裕がないから人に無償で親切にできないのだと思っておられるようですが、それは逆だと思います。人に無償で親切にしていないから余裕のない人生に導かれているのです。(僕があなたに僕への喜捨を強要していると誤解しないで下さいね。もしあなたが喜捨したいと思ったらもっと身近な本当に困っている人を助けて下さい)

一代で成功したユダヤのお金持ち達も、貧しい時から寄付に積極的で、しかも一度は破産を経験している人が多いそうです。そういう経験を乗り越えているからこそ一代で成功できているのでしょう。失敗せずに成功などできませんし「余裕がないから人を助けない」という考え方があなたを本当の幸せから遠ざけているのだと思います。

人生は修行であり、その修行の心得は釈迦がきちんと「六波羅蜜」という形で教えてくれています。その最初にあるのが「布施」であり、それを金を寄付することとイコールであるかのように曲解し、それができないことで卑屈になってはいけません。人に親切にしたり、笑顔で接するだけでも布施なのです。そう考えられず「余裕がないから人に親切にできないし、自分が悩んでいてもそれを誰かに相談するのは図々しくて恐縮だ」などと考えるところがもう既に拝金主義に無自覚に陥っているということなのです。

あなたがお金が稼げないことで自らを貶めて卑屈になり、余裕がないから人を助けられないと冷酷になるのなら、あなたの奥さんと娘さんも同じように卑屈で冷酷にならざるを得ないでしょうし、同じようにお金が稼げない人たちを貶めて卑屈かつ冷酷にしていることになります。あなたの考え方が自分だけでなく周囲の人も不幸に導いていることに気づいて下さいね。

あなたが卑屈かつ冷酷になるのは、あなたが(家族のことも含め)エゴのために生き、その自覚すらがないからでしょう。もし世のため人のために生きているのなら、貧しくとも堂々と生きられるでしょうし、困った時に堂々と人を頼れるはずです。

人は困らなければ、他者を必要としません。他者を必要としなければ、愛は生まれようがありません。今は資本主義に価値観まで犯され切っているので助け合うのにお金を介するのが当たり前になっていますが、本来人は無償で助け合い愛し合うべきで、自分や誰かが「困る(欠点や過ちがある)=他者の助けを必要とする」ということは素晴らしいことであり、卑屈になる必要はないのです。それが愛のマテリアルなのですから。

人はただ己の困難に立ち向かって卑屈にならずに堂々と生き、身近にいる困っている人を助け、素直に人を頼るだけで、あなたと同じように困難に立ち向かっている人を救うことになるのです。だからあなたがどれだけ困った状況にあっても、もっと堂々としていて下さい。ふてぶてしいほどに。

僕は質問箱で収入を得てはいませんが、僕に助けられたと感謝してくれている人がたくさんいて、僕も幸せにしてもらっています。僕に質問・悩み相談をするということは、僕に人を助ける機会を与えてくれているということであり、それ自体が人助けなのです。

そして僕は無償の援助によって生きています。普段から無償で人を助けているので、僕は心から感謝しつつみんなに助けられながら堂々と幸せに生きています。

>「私は大丈夫なのでしょうか?」

本来的に言うと「大丈夫ですか?」というのは相手の安否を尋ねる言葉であり、自分の安否を「大丈夫ですか?」と他人に尋ねるのは、なんだか夢の中で出会った人に「これは夢ですか?」と聞くのと同じ感じがします。それを判断するのはあなた自身であり、その結果責任を負うのもあなた自身なのですからね。質問していただけるのは有難いのですが、どうもあなたの尋ね方からは主体性(主人公)を放棄しているような印象を受けてしまいます。

僕が何かについて「大丈夫ですか?」と聞かれれば、大抵は「大丈夫です」と答えます。なぜなら安心させることがメシアの役割ですし、実際この世に大丈夫じゃないことなど何一つないからです。すべてが創造主の意思通りであり、彼の創造した世界の内側で、その意思に反したことなど起こり得ないのです。

ただその「大丈夫」というのは「自分が何をしても・しなくても幸せになれる」という意味ではありません。なぜなら人生は愛と勇気が試すものであり、そうして魂の成長を促すためのものなのですから、「自分が何をしても・しなくても幸せになれる」ようにしてしまっては、みんな安易にエゴに埋没するようになり、我欲・保身・怠惰に陥って成長できないからです。

魂の成長とはそのエゴ(我欲・保身・怠惰)を乗り越えるところにあるのです。我々は魂の成長のために生まれてきたのに、エゴに埋没しては何の成長もなく、物語として面白くならないので、創造主は常に我々の愛と勇気を試し、エゴに埋没する人を不安に陥れ不幸に導くことで、我々が自発的に自分の課題に気づいてそれを乗り越えようとすることで成長させるようにしているのです。

だから「自殺・安楽死するとどうなるか?」に書いた通り、例え絶望するような事態に陥っても、絶対に自殺だけは選択肢として考えないで下さい。与えられた自分の役を放棄せずに最後まで全うする覚悟・最後に運命通り死ぬまで成長し続ける覚悟があれば、絶対に大丈夫なのです。逆に自殺という退路を確保しながら生きようとすると、その退路へと追い込まれる悲惨な人生となってしまいます。それは僕自身の人生がかつてそのようだったからものすごくよくわかります。

絶望は成長(覚り)にとって必要な過程であり、本当の希望は絶望のほんの少し先にあるものなのです。そしてさとり(覚り・悟り)とはまさに「主人公としての自分の役(使命)を生き切る」「魂を成長させる」覚悟から始まるものなのです。そしてさとりとは「差取り」であり、みんなを主人公として目覚めさせることにあるのです。

>自身、お金を稼ぐ事にフォーカスすれば、稼ぐ事は難しくないはずと感じてます。ただ、不思議とそれを望んでないのです。

「エゴ・執着が弱い」というあなたその素養は素晴らしいものだと思います。それは覚りにとって最も大事な素養かも知れません。

あなたはきっと僕と同じでお金儲けには向いてないのでしょう。お金への執着の少なさは欠点ではなく才能なのです。あなたはエゴのために一生懸命になれないのですから、お金(利潤追求)という価値観から離れて、もっと思いっきり全力で人に奉仕しつつ、地道に真理を追求するような生き方のほうが向いているのではないかと思います。

エゴが弱いのにエゴのために生きようとすれば、いつも「何か申し訳ない」という感じの卑屈な性格になってしまうのは必然です。そして主人公であるあなたがそのようであれば、それはあなたの家族や周囲の人間にどんどん伝染するのです。

それでこれは僕からの個人的な一案に過ぎない話ですが、今の職能を生かして海外ボランティアで現地の人に貢献してみてはいかがでしょうか?貧しさによって自尊心が下げられるような日本の環境では、娘さんや奥さんにも良くない感じがしますし。

まぁそうでなくても、最低限の収入で人に全力で奉仕して幸せになれる手段を考えた方が良いと思います。きっとそれがあなたの成功・幸せのカギになることでしょう。実際に僕はそうして幸せにやってますし。

ただもしあなたが「お金に執着してお金稼ぎにフォーカスさえできれば簡単に稼げるはず」と本気でお考えなのでしたら、それはとても甘いというか、本質が見えていないと思います。今のあなたは単にお金を稼げないのを己の金銭欲のなさのせいだと考え、怠惰で臆病な自分のプライドを守り、傷つかないことを優先して自己正当化しているだけでしょう。

お金を稼いでいる人たちというのは基本的に人を喜ばせること・世の中の役に立つことをやっているから稼げているのであり、あなたの考えるように単にお金にがめついような人間・人を不幸にすることでお金を稼いでいる人間は、例え一時的にはお金を稼げていたとしてもカルマを積んで後々落とし穴にハマり、幸せになることはまずあり得ないと思います。それは真理に反していますからね。

>目先の解決を提案するのは簡単なのですが、根本からとなると相手が嫌だと思う事をつつかなければならないという事が多くて。
>相手が変わりたいと望むのであれば、本腰を入れてと思うのですが、だいたいが目先の解決を目的としてる事が多く、結局は問題を先送りしているような感じがじてしまい、ただただ愚痴を聞いて終わる状況です。

人間関係は完全な鏡であり、周囲の人もあなたに対して同じ感情を持っているのではないでしょうか?実際あなたに対して僕も全く同じような印象を持っていますし。創造主は常に出会う人を鏡として自分の問題に気づかせようとしてくるのです。だからそれを他人事と考えてはいけません。

あなたの周囲の人もあなたから本腰を入れて問題を解決するという姿勢が感じられず、自分を守ることに執心しているように見え、本音を言えばきっとあなたを傷つけたり嫌がられたりするだけになるのが目に見えているから、本音が言えていないのではないかと思います。「類は友を呼ぶ」で、きっとあなたの周囲にはあなたと同じように相手に遠慮して本音で語り合えない人ばかりなのでしょう。しかしそれは相手を傷つけて嫌がられることで自分が傷つくことを恐れているだけなのです。

それはまさにあなたの分析通り「ただ問題を先送りにしているだけ」ですし、それでいてあなたが「家族のために生活だけは安定させたい」というのは、まさに本腰を入れて変わろうとせずに目先の解決を目的としているということではないでしょうか?

何事も自分以外(他人や環境など)のせいにしたら自分の成長はあり得ません。変わるなら自分からということです。人生というRPGは主人公たる自分次第に作られているのであり、出会う人を鏡として自分の課題(カルマ)を把握することが大事なのです。

あなたが相手の言うことを「愚痴」と認識して親身になって真剣に聞いていないのであれば、あなたの言うことも恐らくは同じように「愚痴」と認識されて親身になって真剣には聞かれていないことでしょう。

基本的にどんな悩み相談も「愚痴」だと解釈すれば愚痴に過ぎません。しかしもしそのような姿勢で人の話を真剣に聞かないなら、相手もこちらの話を真剣に聞くわけがなく、信頼関係など生まれようがありません。

人は好きじゃない・真剣に話を聞いてくれない・信頼できない人間のアドバイスは心が逆らってしまうように作られていますから、信頼関係がない人の言うことが正しければ正しいほど、相手をその正しさから遠ざけてしまうので、かえって害悪なのです。

あなたの仕事がうまく行ってない理由は、相手が根源的な解決を望んでいないからではなく、あなたが相手の話を聞いているつもりで(自分の鏡として)真剣に聞いていないために、本音で語り合える信頼関係が築けていないからでしょう。

信頼関係はすべての仕事の基本であり、特にあなたの自営業(建設業・現場管理メイン)という仕事の性質上、致命的だと思います。自分の話を真剣に聞いてくれない人・仕事がうまくいっていない人のアドバイスを相手が真剣に聞くわけがないのは道理ですからね。悪循環です。

落ち込む必要はないですからね。決して自尊心を下げないで下さい。自尊心を下げると「どうせ自分なんか」と更に思考と行動のレベルも下がることになり、ますます悪循環にはまってしまいますから。ただ相手の存在に感謝し、無条件でリスペクトし、真剣に話を聞き、欠点や過ちを許すことができるようになれば良いだけです。

この世界はRPGであり、クリエイターのメッセージというのは、人や出来事との出会いを通じてもたらされるものであり、この世界に偶然など存在しないのです。それなのに出会いを偶然と考え、油断して人の話を真剣に聞かず、他人事と考えて自分の問題と考えず、自分に起きた出来事を偶然と考えてその意味を真剣に考えないようでは、クリエイターからのメッセージ(導き)を受け取れませんから、ゲームは行き詰まるか事故るかしかなくなってしまいます。この世界のすべての存在・事象が、あなたに何か大切なことを気づかせ導くためのメッセージなのだと知って下さい。


>世界は自分の受け止め方(解釈)でどうとでもなるよなという感覚になりまして、なんといいますか、物事の善し悪しを判断しているのは自分自身で、現れる物事にはそもそも善悪が無く、ただ事実のみといいますか。全ての物事・縁が自分にとって意味があるように思えて。

それはある意味その通りではあるのですが、少し理解が浅いというかズレているような気がします。

確かにあなたの言う通り、あなたが認識できるすべての存在・事象があなたにとって意味があるものです。そして良し悪しを判断しているのはあなた自身であり、良い事しか経験したくないというのは肉体意識・顕在意識にあるエゴであって、ハイヤーセルフにはそんな良し悪しの判断はないのです。

いきなり正解を教えられるクイズ番組など何も面白くありません。ハイヤーセルフは番組のプロデューサーのようなものです。当然、答えに至るまでに様々な苦難を与えてきます。そこであなたがプロデューサーの意向を無視し、解釈のみで何でも自分に都合よく番組(現実・人生)を作れるわけではありません。彼の与えてくれるヒント・導き(意図)を正確に読み取らなくてはならないのです。

「自分に与えられている課題が何なのか?」を考えることがとても大事で、それがわからないと、せっかく成長のために与えられている試練がただ我慢するだけ・どんどん辛くなっていくだけのものになってしまいます。

僕が「人生は解釈次第」というのは、思い込みが強ければ何でも思い通りになるというような意味ではなく、自分に与えられているすべてを愛と感謝でポジティブに解釈してそれを行動につなげている人はそういう人生になり、不平不満で解釈してエゴに埋没した怠惰な生き方をしている人はそういう人生になるということです。

多くの人が「引き寄せの法則」などといって、エゴで自分に都合の良い現実を思い込みの強さだけで引き寄せようとしていますが、それはうまくいかないか、うまく行くことでかえって分不相応なカルマを積んで後々盛大に落とし穴に落ちるかのどちらかになることでしょう。器に合わない幸運を引き寄せることは、その分のカルマを積んでいるに等しいものなのです。今のあなたの考え方で諸々うまくいかないのは、むしろ守られているのですから、感謝すべきかと思います。


>そんな状況ではありますが、不思議と幸か不幸かで言えば、結構幸せです。

あなたが今の状況を幸せだと思っていること(不平不満や恨みで返していないこと)は幸いなことです(だから僕に導かれたのでしょう)。

ただそれが、傷つきたくないために課題を正確に理解しようとせず「答えなんかわからなくても(成長できなくても)今のままでいいや」という自己正当化・成長拒否(逃避)につながってしまっているのが難点です。

あなたは自分をエゴ・執着が弱いと思っているようですが、そういう自己正当化・成長拒否(逃避)もエゴ・執着の産物なのです。(それは人間の基本設定で、あなただけではないので落ち込まないで下さいね)

幸せに導くために不幸が与えられているのですから、何事も「創造主が何を自分に気づかせ覚らせようとしているのか?」を愛で解釈して考えてみて下さい。


ただ、まずは子供の為に生活は安定させたいと思っています。

その状況は本当に感謝すべきことだと思います。もしあなたに妻も子供もいなかったら、今の状況に甘んじたまま死ぬまで問題を先送りにし続けていたことでしょう。

あなたに家庭があるのは決して偶然やあなたの努力の結果ではなく、創造主からの贈り物なのであり、それはとてもありがたい事なのです。だから「自分は家庭があるせいで目先の金稼ぎに執着せざるを得ない」「好きなことを好きなようにできない」などというように考え、家族を「お荷物」のように思い、自分のエゴ(我欲・保身・臆病・怠惰・執着)の言い訳に使ったりはしないで下さいね。それは思うだけで家族に伝わり、家族の自尊心を下げてしまうのですから。日々家族に感謝・愛を伝えて下さい。


勝手に、自分の器が出来れば物事もついてくるのかなと思っている(今は試されてる時)のですが、いかがでしょう?

本当にそう思っているのでしたら、器を大きくすること(成長すること)に専念しなくてはなりませんね。現状に甘んじて問題を先送りにせず、本腰を入れて乗り越えて下さい。

>更なる成長の糧で悪いものでは無いように感じてます。

それも本当にその通りかと思います。ただ成長の糧は「なる」のではなく「する」のです。そして成長を実感した後から「あれが成長の糧になった」と言うべきなのです。

自己肯定というのは「困難・失敗にもめげずに乗り越えようとする自分」を肯定するべきなのであり、成長した後から過去の至らない自分を「必要な過程だった」と許し愛することが大事なのです。

「ただ現状に甘んじ、嫌な事・辛い事を我慢していれば、成長しなくても勝手に導かれるから大丈夫」というように考えていては、いつまでも本当の自己肯定(幸せ)には至りません。僕らは成長するために生まれてきているのですから、それに反する意思は必ず不幸に導かれる定めなのです。

決して今までの考え方に固執せず、過去の自分に捉われないで下さい。「あなた」=「あなたの今までの考え方や行動」ではないのです。スティーブ・ジョブズのように、間違いに気づいたら、さも最初から知っていたような顔で今正しいと思う考え方を選べば良いのです。そうして古い自分をどんどん更新していけば良いのです。

つまらないプライドに固執して今までの自分にしがみついていたら、傷つくことばかりで成長することはありません。それは創造主の意思に反していますから、雪だるま式に不運が襲ってくるようになります。でもそれを恐れる必要はありません。過去の考え方や行動に縛られず、常に考え方・行動のより良い選択をして成長し続ける覚悟を持てばいいだけですから。

反省してはいけない」に書いた通り、決して落ち込んで自己イメージを下げないで下さいね。僕があなたを責めて説教していると勘違いしないで下さい。ただ過去の自分に縛られずに、よりよい未来を選択すれば良いというだけなのです。

そういう「過去に縛られずに今自分が一番正しいと思う選択が軽やかにできる素直で柔軟で変幻自在な自分」をこそ肯定してみて下さい。そうすればぐんぐん幸せに導かれるドラマティックな人生になりますから。

誰でも自信満々になれる方法」これも必ず読んで実践してみて下さい。まず自分も相手ももっと心からリスペクトして、相手という存在に対し常に心からの感謝の笑顔で接し、話を真剣に聞くことが大事です。

そしてあなたの文章には信心に関する言葉が出てきていませんが、なんの宗教でも良いので信心を持つべきかと思います。霊障の問題もきっとあると思うので、真光や世界救出教などでお清め・浄霊を受けてみて下さい。基本無料ですから。ご利益を一度も経験しないようでは、信心も芽生えようがありませんので、疑いながらでも一度行ってみることをおすすめします。

>真也様の「自分はRPGの主人公」というのも良く分かっています(分かってるつもりでしたらすみません)
>真也様の益々の悟りを心から祈ります。

その祈りに悪気が全くなくご厚意であることはもちろんわかっていますし、僕のために祈っていただけることはとてもありがたいことで、心より感謝致しますが、僕からすると覚り(成長)というものをまるで他人事と考えているように聞こえてしまうのです。

ツイッターでも呟きましたが、あなたはオンラインゲームをする時に、他のログインプレイヤーに「あなたのゲームの益々の進捗を心から祈ります」などと言うのでしょうか?人生は覚り(成長・真理への到達)を目指すゲームであり、主人公はあなたなのです(あなたはまだわかっているつもりで全くわかっていません)。覚りは決して他人事ではないのです。我々は成長のために生まれてきています。成長とは覚りを進めることであって、お金を稼ぐ能力を伸ばすことではありません。誰かの覚り(成長)を祈るより、まずはあなたの覚り(成長)を進めて下さい。

また他のプレイヤーに対して「覚り(成長)の進捗を祈っている」ということを相手に直接伝えるのは「他人事」なだけでなく「上から目線」と受け取られかねません。もちろんあなたにそういうつもりが微塵もないことぐらいはわかっていますが、それは少なくとも相手より明らかにゲーム(覚り)が前に進んで、相手から教えを請われてからにすべきことで、自分が相談しようとしている相手に対してそれをするのは失礼に当たるかも知れないと考えられる感受性は持っていただきたいです。


今回、大分厳しかったかも知れませんが、くれぐれも悪く受け取って怒ったり落ち込んだりしないで下さいね。繰り返しますが、決して自尊心を下げないで下さいね。ただ主人公として、過去に縛られずに今一番良いと思える思考・行動の選択をして下さい。いきなり最初からうまく行くわけがありません。スポーツでも楽器の演奏などでもなんでもそうです。他人と進捗を比べず、楽しみながら続けることが大事だと思います。

それでは、あなたとあなたの周囲の皆さんの幸せを心から祈っています。お互い主人公として頑張りましょう。

2023年5月13日土曜日

諸々、世界の仕組みについて

【質問】40代前半・男性
質問だらけで恐縮ですが、自殺も考える程に悩み、死ぬ前に後悔したくないので恥を忍んで色々と質問させてください。

1.時間の進み方について
物理的に針が進む時間と、体感的に感じる時間が明らかに違う時があります。時間とは本人の意識が感じるままに常に変化しているのでしょうか?もしそうなら同じ時間を生きていても、不老の人と早老の人の様に変化が異なるのでしょうか。

2.以前、世界線?の説明をしている時に、この世界線の偉大なる指導者が亡くなったから一部の者が違う世界線から、この世界線に導かれたと説明していましたが、その偉大なる者とは誰の事ですか?また、つまり並行世界は既に誕生しているのか、試験的段階なのか、または各自の視点が異なり主観的世界に映るこの世を並行世界と表現しているのか、教えてください。

3.我々はアヴァターラを通じて、この地球という仮想現実世界に繋がっていると思いますが、我々のこのアヴァターラを操作しているのはスピ界で言われる五次元の自分自身(ハイヤーセルフ)なのでしょうか?または創造者が用意した各アヴァターラに、分離した我々の意識がどの容器(肉体)に搭乗するか選択して乗り込み映画鑑賞のように予め決まった選択を、さも自分で選択している様に錯覚しているのでしょうか。

 また、我々の本体は何処からこの仮想現実に繋がっているのでしょうか。創造者の内部(統合意思)で個に分離した幻を見ながら繋がるのか、真っ暗な部屋や何処かの惑星から地球仮想現実ゲームに繋がっているのでしょうか。

4.統合意思=創造者が作り出した物から、私の深層意識が引き寄せたと言う説明ですが、それは毎晩夢の中で必要な人や出来事を、私が選択し明日の物語の準備をしているのか、高次元の自分が誕生(分離)前に予め計画した物語なのか、創造者が私の為に引き寄せているのか、波が粒になる様に瞬間毎に私が意識で具現化しているのか、どれが1番適切な解釈だと思われますか。

5.各自が主人公である事は分かるのですが、真也さんが仰る様に世界を救い愛で地球を救う事が全プレイヤーの使命なのでしょうか。それとも各自で使命を選び、人の数だけ使命も異なるのでしょうか。少なくとも私の視点から見る世界では絶望的な位、不正、不自然が蔓延り、創造主のサポートも足りなければ自身の愛のレベルも低すぎて、とても今世で世界を救えるなどとは思えない程の闇が跳梁跋扈しています。何故自分如きにこれ程難易度が高すぎる設定が施されたのか疑問で仕方がありません。たまに創造者が愛とは思えず、むしろ闇の応援ばかりしているのではと勘繰りたくもなります。勧悪懲善的な。

死への恐れや生命の執着は無くなってきましたが、この救われていない世界は来世に引き継がれるのでしょうか。今世で学んでいる事を忘却しなければ良いのですが、また1から学び始めるとなると終わりは来るのか頭が痛いです。

真也さんが主人公の並行世界では既に世界は救われているのでしょうか、それとも誰もが同じ、この仮想現実世界の惨状を認識しているのでしょうか。

6.創造者が無償の愛を体現する者ならば、何故覚りを開いたり愛を体現するという条件が(最終的に)求められるのでしょうか。愛を体現し覚りを開いた人間を(結果的に)可愛がるのは全てを創造出来る者の無償な愛としては、何か物足りなさを感じます。それとも無償の愛を持つのが創造主で当たり前として勝手に人間が決めつけているだけなのでしょうか。

7.真也さんが創造主と会話した時のエピソードや、どんな風に語りかけてくるのか、また自殺企図した時の話も含めてお伺いしたいです。私も先にエゴが死ぬか、私の肉体が死ぬかぐらい追い詰められているので、話して頂けるのならば、その時の体験をどうしても聞きたいです。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

まず、もし幸せになりたいのなら、自殺なんて考えるべきじゃないです。それは「自殺・安楽死したらどうなるか?」に書いた通り、退路を確保しようとする人間は、必ずその退路へと導かれる運命だからです。そして「悪いカルマの解消法」に書いた通り、カルマを解消するには、自分の役(使命)を最後まで全うするという覚悟が必要なのです。

絶望(鬱)は覚り(成長)に必要な過程であり、夜明け前が一番暗いのです。鬱の真っ最中にある時はとてもそれを信じられないでしょうが、僕は実際長年の鬱(絶望)を乗り越えて今があるので、どうか信じて欲しいと願います。

たくさん質問して下さるのはありがたいことなのですが、僕も同じ事の説明の繰り返しに少々疲れてきているので、事前に僕のnoteや質問箱をよく読んで下さいね。

特に「未来に絶望したくなる」はぜひ読んで下さい。もしこれで通じないのなら、僕があなたに文章で説明するのは無理です。正直に言ってあなたにはこの世に絶望したい(そうすれば主人公に目覚めない・成長努力をしない自分を正当化できる)という動機ありきで、僕の言うことを本気で理解しようとしておらず、意図的に誤解しているのに、それを自覚することも無意識に拒否しているように感じられます。

質問をすること自体は全く恥だと思わないで下さい。ただ「自殺も考えている」などと言って質問攻めにして回答を急かすやり方は少しだけ恥ずかしいと思っていただけると幸いです。今回急いで回答しましたが、僕から見るとあなたの質問内容はどれも興味本位というか、緊急を要するような内容ではないように感じられましたので。

あなたはご自分の悩みが「この世のシステムがわからないこと」のせいのように考えているようですが、この世のシステムがわかったからといってあなたの悩みがなくなるわけではないでしょう。大切なのは使命を果たすことであり、魂を成長させることです。プレイヤーとしてRPGを楽しむのにプログラミングを学ぶ必要はないのと同じことです。

そもそも覚りというのは魂の成長(実践)と共にもたらされるものであって、ネットで情報として手に入れられるようなものではないのです。僕が言うことはあくまで僕の解釈であり、あなたという主人公にとってあくまでも参考(ヒント)程度にしかなりません。

あなたは「誰でも自信満々になれる方法」を読んで実践していますか?それはこの世のシステムを知るよりずっと大切なことであり、幸せに直結している(あなたの悩みを解決し得る)ものです。

1.時間の進み方について
これは既に「宇宙の仕組み」でご説明している通りです。時間は意識(認識)が作り出しているものなので、当然人によって感じ方は違いますし、基本的に歳を取るほど時間が経つのは早く感じられるようになります。パラパラ漫画をめくるように・DVDを読み書きするように・映画のフィルムを回すように、時間というものは意識が仮想的に作り出しているものなのです。

2.世界線について
残念ながらあなたはまだ自分が主人公だということの本当の意味が理解できていません。周囲を見渡して何が普通で何が常識かを意識し、また会ったこともない他人の不幸や悪事によって世を嘆いたりと、いつも他人(NPC)を基準にして物事を考えるNPC思考から抜け出せていないのです。それでは主人公は務まらないのです。

僕らは言わば全員が同一人物のようなものです。分離意識・個性・無明(エゴ・迷い・愚かさ)が与えられることにより、それぞれが別な存在だと思い込まされることで愛と成長の物語を生み出しているだけなのです。

この世界というRPGは「主人公に目覚めた者」こそが歴史を作るというシナリオになっています。だからただ「偉大なる主人公」として目覚めれば良いだけの話なのに「その偉大な主人公とは具体的に誰のことですか?」のように聞くのは、あなたはまだ主人公として目覚める気がなく、自分ではない誰か別の主人公の脇役NPCとして生きようとしているからでしょう。

あなたが目覚めさえすれば、例えばキリストも釈迦もあなたの一部であり、あなたがキリストや釈迦の一部でもあるのです。もちろんキリストや釈迦はわかりやすい例として挙げただけであり、本当は全ての存在があなたと分かれて存在しているわけではないのです。

この人生というRPGは、あなたが憧れのヒーローを目指すなら、ゲームをクリアした後にはあなた自身がその憧れのヒーローと同一人物であったことに気づかされるという素敵なシナリオになっているのです。ドラクエⅢで勇者ロトの伝説を追いかけて行ったら自分自身が勇者ロトだったのだと気づくように。

ピラミッドの存在意義と仕組み」に書いた通り、僕らの主観的世界(4次元時空)が無数に重なり合って5次元宇宙を構成しています。オンラインゲームでログインしている全員が主人公のようなもので、それぞれの世界が重なりあっている(世界線を共有する者の世界が連動している)ということです。そしてRPGの如く、主人公の選択によりシナリオは変化します。それは言い換えれば、可能性の数だけ平行して存在している自分の認識世界を選択し続ける(一つに収束させ続ける)のが人生だということです。(前者も後者も無数の平行世界の重なり合いという意味では同じですが、軸が異なります)

3.アヴァターラ、ハイヤーセルフについて
ハイヤーセルフは高次元の存在であり、より全知全能の創造主に近い存在なので、人間(アヴァターラ)をダイレクトに操作できたら何の成長要素(ゲーム要素)もありません。

先ほど説明した通り、分離意識・個性・無明(エゴ・迷い・愚かさ)が与えられている人間というアヴァターラを、僕らの意識は「自分」だと思っているのであり、ハイヤーセルフはそれを導くことが使命なのです。

当然僕らの物語はハイヤーセルフ(RPGのプログラマー)の導き通りには進みません。だからこそ困難があり、成長要素(ゲーム要素)があり、物語(芸術要素・存在意義)が生まれているのです。

僕の言う「目覚め」というのは、人間(アヴァターラ)の意識からハイヤーセルフの意識に目覚めることだとも言えます。それは人生というRPGをプレイヤー目線ではなくプログラマー目線・クリエイター目線で見ることだとも言えます。

僕らの魂は創造主の分け御霊であり、光そのもののような存在です。創造主という一つの光を分離するには圧倒的な闇=無明(エゴ・迷い・愚かさ・分離意識)で包みこむことが不可欠なのです。それがなくては存在意義(物語・芸術)が生じないのです。

夜空を見上げれば、一つの光を分離するのにどれだけ圧倒的な闇が必要かわかるはずです。僕らの魂は星を経由して(宇宙の闇を経由して)この仮想現実世界にログインしているのであり、その仕組みがなければ僕らの「自意識」は存在し得ないのです。

それは僕らの自意識が星を経由することで仮に成立・存在しているということであって、魂は物理的に「体」を成しているわけではないので「本体」は「どこ」にあるのか?などと考えても意味がありません。

元々「存在」=「創造主」であって、我々も含めてすべての存在が創造主の一部であり、その外側というのは存在しません。僕らが僕らに与えられた闇=無明(エゴ・迷い・愚かさ・分離意識)によって、「自分」は創造主や他の存在とは別な存在であると認識しているだけで、本当は全ての存在が一つ(ワンネス)なのです。

4.誰が人生のシナリオを描いているのか
RPGはクリエイターによりシナリオが最初から用意されていますが、その中でいかようにも自由に選択することが可能です。この仮想現実世界もRPGなのですからそこは同じなのです。

しかし本当は世界に創造主でないものなど存在せず、僕らも創造主の一部なのですから、当然創造主は僕らが何を選択するかも創造主(≒統合意思)は全部知っています。全知全能というのはそういう存在なのです。

創造主はわざと僕らが何を選択するのか知らないかのように自ら思い込んでそう振舞わないと人生と言う物語・芸術が成立しない(退屈である)から、そのように自ら思い込んで振舞っているだけなのです。

そのために創造主は我々のハイヤーセルフ(我々の上位次元の存在)を創り出し、それをフィルターのように通してそれぞれの主人公のシナリオを描いているのであり、僕らアヴァターラは無明(エゴ・迷い・愚かさ・分離意識)ゆえにそのシナリオがよく見えず、自意識とその自由意志(解釈)によりそのシナリオを自由に選択させてもらうことで人生という芸術・成長・愛の物語を体験させてもらっているわけです。

全知全能ゆえに完璧な最適解以外を出す理由を持たない創造主は、次元を降ろした存在に自意識・分離意識・個性(欠点や過ちを含む)を持たせ、その存在に更に下位次元の存在をフラクタルに作らせることによって、この豊かな芸術世界(お互いの不完全性を補い合うことで愛が生まれる、不完全に見えて完全な世界)を生んでいるのです。(だから僕らが仮想現実とAIを作るのはマニフェスト・デスティニーの一部です)

我々がこの世のシステム・真理・未来がわからないというのは素晴らしいことなのです。全部わかったら成長要素(ゲーム要素・芸術要素)がなくなり、それは無間地獄のようなもので本当につまらないのです。あなたが「システムを理解できないことが不幸の原因」だと考えるのは全くの誤りです。

そしてすべてが自分次第に作られているこの世界で「こんなひどいシナリオを作った奴は誰だ?」と不平不満を言う対象を探しているようでは、悪いシナリオに導かれるのは当然のことなのです。

5.自分が主人公であることについて
前述した通り、残念ながらあなたはこの点を全く理解していません。あなたはRPGの設定がわからなければ物語を進められず悩んで死ぬしかないかのように思い込んでいるみたいですが、それは大きな誤りです。

RPGの設定は物語を進めて行く(魂を成長させる)に従って理解していくものです。僕らは成長・体験するために生まれてきているのですから、システムを理解できないから行動しない、というように成長・体験を拒否すればどんどん不幸に導かれるのは当然です。それはRPGで全ての答えがわからないからプレイしたくないと言っているようなものですからね。

あなたは物語の主人公なのであり、俳優・プレイヤーとして一番ダメな要素は臆病・怠惰です。設定に文句を言っていたら物語は進みませんし、敵役の魔物を恐れて絶望して怠惰に陥り、降板(自殺)を考えているようでは話になりません。

世界は自分(の解釈)次第(でシナリオを選択できるよう)に作られているのであり、設定に対して不平不満や恨みで返して自分の使命を放棄するようではクリエイターからの愛が受け取れなくなるのも当然です。

もちろん設定(難易度)に文句を言いたくなる気持ちは僕も同じでよくわかるのですが、魂は永遠であって、何回でも再チャレンジ可能なのですから、生半可な難易度では成長の物語にならないのです。

何度も言っていますが、RPGは魔物に支配される一歩手前のディストピアから始まらなければ話にならないのです。そして愛=救いというのは指数関数的に広がるものであり、どれだけ圧倒的不利で絶望的に見えても、目の前の人を救うことに努めればいつか世界は必ず救われるのです。今のあなたは目の前の人を救うこともせず、勝手に絶望しているのでしょうが、それではあなたが主人公の物語は始まりもしません。

>死への恐れや生命の執着は無くなってきましたが
あなたのソレはただ単に生きることに対して嫌気が差しているだけであり、与えられているものの価値を理解できず、人生というRPGを「クソゲー」扱いして放り出したくなっているだけでしょう。世界を救うために死(エゴ)を超越し、執着を滅することが魂の成長なのです。

6.創造主の愛が物足りないのはなぜ?
あなたがそう解釈しているから実際そのようになっているだけで、創造主の愛は無条件かつ無限です。

我々は成長するために生まれてきているのですから、成長しなくても幸せになれるシステムでは誰も成長しようとしないでしょう。その成長のベクトルが覚りなのであり、創造主が覚りを開いた者だけを愛していると考えるのは大いなる誤解です。

成長するほど=覚りが開けるほど、より創造主の愛を知って感謝したくなる=幸せになるように創造主はこの世界=物語をプログラムし、自発的な成長を促しているのです。我々の自発的な成長と愛(感謝・尊敬・許し)こそが創造主にとっての存在価値なのですから、それは当然のことなのです。

「自分」という意識が存在する(プレイヤーとして物語が与えられている)時点で、創造主の無条件の愛を受け取っているのであり、そのありがたみがわからないから、あなたからは不平不満しか出て来ないのでしょう。

もちろんそれは人間の初期設定であって僕もかつてはそうだったのでした。しかしこの仮想現実が存在しない世界というのは、自分以外に何も存在しない世界・自分は完全無欠で愛も何も必要としない究極に孤独な世界・概念と思念が存在するだけで何も体験できない退屈な世界・何の成長要素(ゲーム要素・芸術要素)も存在しない世界であり、つまりは5億年スイッチを押したかのような無間地獄なのです。

もしその記憶が蘇れば「この世界と自分という存在が存在すること」のありがたみが身に染みてわかるのですが、多分今のあなたがそれをいきなり変性意識体験で知らされれば気が触れると思います。だから何とか文章で伝わる事を祈ります。

>今世で学んでいる事を忘却しなければ良いのですが、また1から学び始めるとなると終わりは来るのか頭が痛いです。

分離意識というのは死後忘却する事によって得られるものであり、それがなかったら全員を「自分」として認識するようになりますから、物語が生まれようがありません。こう言っては大変失礼なのですが、あなたはむしろ一旦全部忘れて一から学び直した方が良いような感じがします。あなた=僕であり、決してバカにしているわけではないですからね。また今死んで全部忘れるべきという意味でもありません。あなたがそれだけネガティブな解釈により現世でカルマを積み上げているということであり、それは現世でちゃんと解消できるようなポジティブな考え方・生き方を自発的に選択しなければならないということです。どうかネガティブに受け取らないで下さいね。

>真也さんが主人公の並行世界では既に世界は救われているのでしょうか、それとも誰もが同じ、この仮想現実世界の惨状を認識しているのでしょうか。

ですから、僕はこの仮想現実世界はRPGだと言っているのです。世界が既に救われていたらそれはエンドロールであり、成長要素(ゲーム要素)がなくなるでしょう。このRPG世界は主人公であるあなたが成長しなければ決して救われないようにできているのです。主人公の成長努力なしで勝手に救われるのであればゲームとして成立しませんし、あなたが生まれてきた意味がありません。

当然、現在の世の中に悲惨なことはたくさんありますが、僕の直接認識できる世界(周囲)は既に結構幸せです。

あなたが「自分は主人公である」ということの意味を理解しようとせず、僕というNPCを基準にして考えようとするのはナンセンスです。あなたと創造主の関係は一対一であり、他人の言う事やる事は一切言い訳には使えないのです。直接知りもしない人の不幸や悪事を言い訳にして勝手に世界に絶望し、臆病で怠惰な自分を正当化して主人公としての使命を放棄しないで下さい。

7.真也の体験エピソード
僕の体験してきたことは、あなたからのこれだけ多くの質問に対する回答の一つとして書ききれるようなものではありません。追々noteで記事にしようとは思っていますが、僕はあなたにとってNPCなんですから、それを基準にして考えようとしないで下さい。あくまで参考です。

創造主が直接的に教えてくれることは本当に本質的なことだけで、あとは経験から気づかせ自ら覚らせてくれるのです。そうでなければRPGは成立しませんし、答えを全部直接的に教えられたら経験・成長することができなくなり、生まれてきた意味がなくなってしまいます。この世界のすべての存在・事象が創造主からのメッセージなのです。もちろんそれはあなたにも与えられているものであり、あなたはそれをネガティブに解釈するから正しく導かれないのでしょう。どうかすべてが成長を願って愛で与えられていることに気づいて下さい。

創造主は例えば誰かに起きる何かの未来予知とか、何かの事件の真相や真犯人とか、そういう個別具体的なことを教えてくれるわけではありません。そういうのを教えられたら、僕の人生の使命は人の運命を占うことや人を裁くことになってしまいます。僕の使命は全ての魂を救うことです。

あなたは「死への恐れや生命の執着は無くなってきました」と言っていましたが、それでは僕のように全財産を放棄してホームレス乞食になり、将来聖職を得る見込みもゼロで、他人の幸せのために無償で尽くすことができますか?僕はそれを実行できる人間だからこそ、創造主直々に覚りを与えられているのです。

そうして自分を投げ出すようにして得た覚りを、エゴに執着しているNPCたちに無償でシェアしているのですが、それでもなかなか主人公として目覚める人はいませんし、そもそも僕の伝えていることの価値を理解して受け入れられる人がほとんどいません。

創造主と繋がっていない人などいないのに「創造主と繋がる方法を教えて下さい」とか言われたり、僕が人生を投げ出してまで得た覚りを無償で一生懸命伝えても全く価値が理解されずず「あなたから教わるより直接創造主から教わりたいです」みたいな頓珍漢な文句を言われたりするのも、いつかその人の覚りが開けるのを信じて耐え忍んで聞かなければいけません。主人公として目覚めるっていうのは幸せなことなのですが、同時にとても辛いことでもあるのです。

noteや質問箱で僕はいつも一生懸命説明していますが、結局のところ「覚り」というのは説明する事で手渡しにはできないものなのです。人生という覚りの登山をしているのは本人であり、本人が経験しながら成長して(覚りを開いて)いかなければ生まれてきた意味がないのです。いきなり答えを教えられるクイズ番組など面白いわけがなく、過ち・失敗・試行錯誤の経験が答えを価値ならしめるのです。

だから僕にできることは一人でも多くの人に覚りのヒントを与え、自ら覚りを実践する事で背中を見せ、困難に負けないように励まし、祈る事だけです。RPGのコントローラーを本人から奪うようにしては覚りは与えられないのです。

どうか主人公として、魂を成長させ、世界を救う使命を果たす勇気を持って下さい。臆病なことは恥ずかしいことではありません。そう作ったのは創造主ですから。最初から何も恐れない人の勇気に価値はありません。己の臆病さを乗り越える勇気を発揮して成長するところに価値があるのです。

コミュ障を克服したい

【質問】30代前半・男性 ペンネーム:脳汁 真也さんこんにちは。最近Xやnote、質問箱を見させていただいてます。 真也さんの考えはとても素晴らしく自分に取り入れようとするのですが、なかなか理解力不足でうまくいかないです。私は昔からいわゆるコミュ障です。友達も少ないですし、職場の...