【質問】40代前半・男性 妻・娘あり
初めまして。いつもTwitterやnoteを拝見させていただいております。喜捨出来る程の余力も無いのに図々しい質問で恐縮なのですが、今自分が感じている事が目覚めに近い物なのか、単なる逃避なのか、それとも精神的な病気なのか教えていただければ幸いです。
唐突に漠然とした質問ですみません。質問をしてみたものの、どこから説明をしたら良いのか悩んでいるくらいです。貴重な時間を割いて頂く状況でありながら、真也様に質問をする事で自身への理解を深めるような状況である事をお許しください。(阿呆だと感じたら、放置していただければ察します)
端的に申しますと、現状、成り行きで自営業(建設業・現場管理メイン)を営む事になったものの、思うように稼げず、税金も払えず、差押え通知がきている状況です。つまりは社会的に底の方です。
自身、お金を稼ぐ事にフォーカスすれば、稼ぐ事は難しくないはずと感じてます。ただ、不思議とそれを望んでないのです。何を根拠に?という話になってしまうのですが、気づいたら相手の望む事が分かるようになってました。
ただ、それ以上に望む事に対する本質も見えてしまうというか。目先の解決を提案するのは簡単なのですが、根本からとなると相手が嫌だと思う事をつつかなければならないという事が多くて。相手が変わりたいと望むのであれば、本腰を入れてと思うのですが、だいたいが目先の解決を目的としてる事が多く、結局は問題を先送りしているような感じがじてしまい、ただただ愚痴を聞いて終わる状況です。
お金だけを考えれば、その場限りの解決で相手に喜んでもらえばいいと思うのですが、勝手に深掘りしてしまって。。自分のエゴの押し付けなんだろうなと思っているのですが、中々難しくて。。
で、真也様の「自分はRPGの主人公」というのも良く分かっています(分かってるつもりでしたらすみません)。というのも、世界は自分の受け止め方(解釈)でどうとでもなるよなという感覚になりまして、なんといいますか、物事の善し悪しを判断しているのは自分自身で、現れる物事にはそもそも善悪が無く、ただ事実のみといいますか。全ての物事・縁が自分にとって意味があるように思えて。
おそらく、今の私の置かれた状況を10人がみれば大多数は不幸だとか、酷いとか思うのが一般的だと思う(実際にしこたま言われます)のですが、私自身は乗り越えるべき壁というか、更なる成長の糧で悪いものでは無いように感じてます。
ただ、ここに至るまでを省みると、自分の意思で決めてきたという思いがある反面、今までの意思決定の場面の一つ一つが用意されているというか、導かれているというか。決して他責にするつもりは無く、自身で選んだはずなのに、選ばされているというか。。。自分の世界のようで、自分では無いというか。。。ただ、不思議と悪い心地はしないので、ありのままを受け入れているというのが正直なところです。
そんな状況ではありますが、不思議と幸か不幸かで言えば、結構幸せです。ただ、まずは子供の為に生活は安定させたいと思っています。しかし自身に欲とか執着があまり無いので、どうしたものかと。。。勝手に、自分の器が出来れば物事もついてくるのかなと思っている(今は試されてる時)のですが、いかがでしょう?
私は大丈夫なのでしょうか?自分としては大丈夫なつもりですが、客観的な意見をいただければ幸いです。。
※無理にとは言いません。お返事が無ければ、それなりに受け止めますのでくれぐれもご無理なさらずでお願いいたします。
以上、長文を読んでいただきありがとうございました。真也様の益々の悟りを心から祈ります。願わくば、全ての人に幸せが届きますように。
【回答】
ご質問ありがとうございます。とても大変な状況にあるようですね。僕も鬱のまま成り行きで個人経営をやっていたので、お気持ち心よりお察しします。
noteや質問箱を読んでいただけていることは大変嬉しいことです。ただあなたの質問内容から察するに、きっと僕の伝えようとしていることは全然あなたに伝わっていないと思います。まぁそれはあなただけでなくほとんどの人がそうなのですから仕方のないことなのですが。本当の意味で世界を救う主人公に目覚めさせる(菩提心を起こさせる)ということは如来にとってさえも困難なことで、僕にそれができないのは当たり前のことなのでしょう。
>今自分が感じている事が目覚めに近い物なのか、単なる逃避なのか、それとも精神的な病気なのか教えていただければ幸いです。
きっとそのどれもが正解なのではないかと思います。夜明け前が一番暗いように、目覚め前が一番苦しいのです。そしてあなたの今のお考えは逃避(ネガティブな自己正当化)でもあり、それは病気(霊障)でもあるのだと思います。
それでも今回あなたが素直に人を教えを請い、頼ることができたのは(覚りにとって)とても幸いなことです。あなたが本当に素直かつ真剣に人の話を聞く気があるのであれば、ですが。
もしあなたが誰かにただ話を聞いてもらいたい・ただ同情してもらいたい・ただ現在の自分の考え方を肯定して欲しいだけなのであれば、この場は適切ではありません。僕には相手を全く傷つけないように解決策を提示したり、目覚めに導いたりということはできないのです。
心が弱っている時には厳し過ぎるかも知れませんが、100%の愛であなたの幸せを願ってのことですので、どうか悪く受け取って怒ったり落ち込んだりしないで下さいね。
自分が眠っていることを自覚できるのは目覚めた後であるのと同じように、わかってないことを自覚できるのはわかった後ですから、わかってるつもりでわかっていない人にわかってもらうことはとても困難です。人間はみんな課題を乗り越えるより自分が傷つかないことを優先するように初期設定されていますからね。それでも人を目覚めさせるのが僕の使命ですから、それを放棄するわけにはいかないのです。
>喜捨出来る程の余力も無いのに図々しい質問で恐縮なのですが
質問にお答えする前にお断りしておきたいのですが、そういうことを言うのはまるで僕がお金を貰えるか否かで質問に答えるかどうかを決めたり、回答後に金銭を要求でもしているかのような印象を与えるのでやめていただきたいです。そういうことは一切していません。
僕はあなたであり、あなたは僕なのですから、質問・悩み相談は全く遠慮する必要はありません。僕の活動は対価を得るためにやっているのではありませんし、質問には無償で100%回答させていただいています。(質問ではない、質問を装った的外れで悪意のある批判や誹謗中傷は別ですが)
あなたはただご自分が慎み深い謙虚な人間だと見せたかったのかも知れません。実際あなたはいわゆる「良い人」なのでしょう。しかし自分が悩みを相談するのに「図々しい質問で恐縮」などと言うのは、あなたが逆の立場で自分に悩みを相談してくれる人に「図々しい」と思う人間だと表明しているのと同じであり、その遠慮は冷酷さであると同時に卑屈さでもあって、決して美徳ではないのです。僕は世界を救うためだけに生きているので、悩み相談は有難いとしか思いません。
あなたの人生がうまくいかない理由もきっとそこ(遠慮・卑屈さ=冷酷さ)にあるのではないかと思います。今の世の中、お金(を稼ぐ能力)がないことで卑屈になるのは仕方のないことなのでしょうが、「人様に迷惑だけはかけるな」というのは呪いであり、それは初期設定で与えられている乗り越えるべき課題なのです。そのあたりの話は「人の価値とは?」に書いているので、よくよく読み返していただけると幸いです。
>阿呆だと感じたら、放置していただければ察します。
これもですね、あなたは自分に助けを求めてくる人が阿呆だと感じたら放置するのもやむを得ないと思っているのでしょうか?人間関係はすべて鏡なのだと知って下さい。確かにあなたは阿呆だと思いますが、僕も阿呆です。人間は成長を楽しむためにあえてどこか阿保につくられているのですから当然です。それを理由に悩みを相談してくれる人を放置するのなら誰も救えません。ゆえに主人公の僕がそれを放置するわけありません。あなたも早く主人公として目覚め、課題を乗り越え、同じ課題に立ち向かう人たちの救い・導く存在となって下さいね。
>客観的な意見をいただければ幸いです。
人生はRPGで、あなたがその主人公なのであり、あなたにとってあなた以外の人は(僕も含めて)全員NPCなのです。だから本当は客観など存在しないのです。世界は主人公であるあなた次第に作られていて、幸せかどうかを決めるのはあなた自身であり、他人からどう思われるか(他者評価・比較)は一切関係ありません。
客観よりも大切なことは、人生というRPGをプレイヤー目線からクリエイター目線で見てみることです。人生という映画を俳優目線から監督目線で見てみることです。すべてを与えし創造主の視点で自分の人生を見ることができるようになれば、きっとすべてがわかるようになります。今回はそのヒント・導きになれば幸いです。
>社会的に底の方
あなたが相談している相手は乞食ですよ?あなたは謙遜のつもりなのかも知れませんが、それは経済力によって序列をつける考えを無自覚に常識として受け入れ、僕を含め現在経済的に貧しい人みんなを貶めているのと同然なのです。やはり卑屈さと冷酷さというのはイコールのものであり、あなた自身が「(お金を稼ぐ能力によって)人に序列をつける考え方」によって自分自身も他人も貶めて苦しめていることに気づいて下さい。このあたりの話も「人の価値とは?」に書きました。
日本人の多くは自己否定的なことを言う己の卑屈さを謙遜・謙虚だと思い込んでいます。しかしそれは他人から言われて傷つきたくないことを予め先回りして自分で言っているだけです。その証拠に、その謙遜に乗じて「本当にそうですね」と言われればより深く傷つくでしょう。もし僕に「あなたは本当に社会の底辺ですね」と言われたらどう感じますか?
本物の謙虚さというのは、自分の努力で得たものでさえも「お陰様」と考えてみんなと分かち合い奉仕する姿勢であり、それに対して他人から「本当にそうですね」と言われても傷つくわけがないのです。努力できる才能や環境も創造主からの贈り物だと知って下さいね。
結局、自分を貶めることは、同じような境遇にある他人を貶めているのと同じなのです。だから存在の全てである創造主=総合意思から疎まれ、その分身である周囲の人からも疎まれ、不幸に導かれるのです。それは創造主の嫌がらせではなく、自分の愛のなさに気づいて自発的に成長して欲しいからです。
そしてあなたは喜捨(親切)というのは余力でやるもので、自分は余裕がないから人に無償で親切にできないのだと思っておられるようですが、それは逆だと思います。人に無償で親切にしていないから余裕のない人生に導かれているのです。(僕があなたに僕への喜捨を強要していると誤解しないで下さいね。もしあなたが喜捨したいと思ったらもっと身近な本当に困っている人を助けて下さい)
一代で成功したユダヤのお金持ち達も、貧しい時から寄付に積極的で、しかも一度は破産を経験している人が多いそうです。そういう経験を乗り越えているからこそ一代で成功できているのでしょう。失敗せずに成功などできませんし「余裕がないから人を助けない」という考え方があなたを本当の幸せから遠ざけているのだと思います。
人生は修行であり、その修行の心得は釈迦がきちんと「六波羅蜜」という形で教えてくれています。その最初にあるのが「布施」であり、それを金を寄付することとイコールであるかのように曲解し、それができないことで卑屈になってはいけません。人に親切にしたり、笑顔で接するだけでも布施なのです。そう考えられず「余裕がないから人に親切にできないし、自分が悩んでいてもそれを誰かに相談するのは図々しくて恐縮だ」などと考えるところがもう既に拝金主義に無自覚に陥っているということなのです。
あなたがお金が稼げないことで自らを貶めて卑屈になり、余裕がないから人を助けられないと冷酷になるのなら、あなたの奥さんと娘さんも同じように卑屈で冷酷にならざるを得ないでしょうし、同じようにお金が稼げない人たちを貶めて卑屈かつ冷酷にしていることになります。あなたの考え方が自分だけでなく周囲の人も不幸に導いていることに気づいて下さいね。
あなたが卑屈かつ冷酷になるのは、あなたが(家族のことも含め)エゴのために生き、その自覚すらがないからでしょう。もし世のため人のために生きているのなら、貧しくとも堂々と生きられるでしょうし、困った時に堂々と人を頼れるはずです。
人は困らなければ、他者を必要としません。他者を必要としなければ、愛は生まれようがありません。今は資本主義に価値観まで犯され切っているので助け合うのにお金を介するのが当たり前になっていますが、本来人は無償で助け合い愛し合うべきで、自分や誰かが「困る(欠点や過ちがある)=他者の助けを必要とする」ということは素晴らしいことであり、卑屈になる必要はないのです。それが愛のマテリアルなのですから。
人はただ己の困難に立ち向かって卑屈にならずに堂々と生き、身近にいる困っている人を助け、素直に人を頼るだけで、あなたと同じように困難に立ち向かっている人を救うことになるのです。だからあなたがどれだけ困った状況にあっても、もっと堂々としていて下さい。ふてぶてしいほどに。
僕は質問箱で収入を得てはいませんが、僕に助けられたと感謝してくれている人がたくさんいて、僕も幸せにしてもらっています。僕に質問・悩み相談をするということは、僕に人を助ける機会を与えてくれているということであり、それ自体が人助けなのです。
そして僕は無償の援助によって生きています。普段から無償で人を助けているので、僕は心から感謝しつつみんなに助けられながら堂々と幸せに生きています。
>「私は大丈夫なのでしょうか?」
本来的に言うと「大丈夫ですか?」というのは相手の安否を尋ねる言葉であり、自分の安否を「大丈夫ですか?」と他人に尋ねるのは、なんだか夢の中で出会った人に「これは夢ですか?」と聞くのと同じ感じがします。それを判断するのはあなた自身であり、その結果責任を負うのもあなた自身なのですからね。質問していただけるのは有難いのですが、どうもあなたの尋ね方からは主体性(主人公)を放棄しているような印象を受けてしまいます。
僕が何かについて「大丈夫ですか?」と聞かれれば、大抵は「大丈夫です」と答えます。なぜなら安心させることがメシアの役割ですし、実際この世に大丈夫じゃないことなど何一つないからです。すべてが創造主の意思通りであり、彼の創造した世界の内側で、その意思に反したことなど起こり得ないのです。
ただその「大丈夫」というのは「自分が何をしても・しなくても幸せになれる」という意味ではありません。なぜなら人生は愛と勇気が試すものであり、そうして魂の成長を促すためのものなのですから、「自分が何をしても・しなくても幸せになれる」ようにしてしまっては、みんな安易にエゴに埋没するようになり、我欲・保身・怠惰に陥って成長できないからです。
魂の成長とはそのエゴ(我欲・保身・怠惰)を乗り越えるところにあるのです。我々は魂の成長のために生まれてきたのに、エゴに埋没しては何の成長もなく、物語として面白くならないので、創造主は常に我々の愛と勇気を試し、エゴに埋没する人を不安に陥れ不幸に導くことで、我々が自発的に自分の課題に気づいてそれを乗り越えようとすることで成長させるようにしているのです。
だから「自殺・安楽死するとどうなるか?」に書いた通り、例え絶望するような事態に陥っても、絶対に自殺だけは選択肢として考えないで下さい。与えられた自分の役を放棄せずに最後まで全うする覚悟・最後に運命通り死ぬまで成長し続ける覚悟があれば、絶対に大丈夫なのです。逆に自殺という退路を確保しながら生きようとすると、その退路へと追い込まれる悲惨な人生となってしまいます。それは僕自身の人生がかつてそのようだったからものすごくよくわかります。
絶望は成長(覚り)にとって必要な過程であり、本当の希望は絶望のほんの少し先にあるものなのです。そしてさとり(覚り・悟り)とはまさに「主人公としての自分の役(使命)を生き切る」「魂を成長させる」覚悟から始まるものなのです。そしてさとりとは「差取り」であり、みんなを主人公として目覚めさせることにあるのです。
>自身、お金を稼ぐ事にフォーカスすれば、稼ぐ事は難しくないはずと感じてます。ただ、不思議とそれを望んでないのです。
「エゴ・執着が弱い」というあなたその素養は素晴らしいものだと思います。それは覚りにとって最も大事な素養かも知れません。
あなたはきっと僕と同じでお金儲けには向いてないのでしょう。お金への執着の少なさは欠点ではなく才能なのです。あなたはエゴのために一生懸命になれないのですから、お金(利潤追求)という価値観から離れて、もっと思いっきり全力で人に奉仕しつつ、地道に真理を追求するような生き方のほうが向いているのではないかと思います。
エゴが弱いのにエゴのために生きようとすれば、いつも「何か申し訳ない」という感じの卑屈な性格になってしまうのは必然です。そして主人公であるあなたがそのようであれば、それはあなたの家族や周囲の人間にどんどん伝染するのです。
それでこれは僕からの個人的な一案に過ぎない話ですが、今の職能を生かして海外ボランティアで現地の人に貢献してみてはいかがでしょうか?貧しさによって自尊心が下げられるような日本の環境では、娘さんや奥さんにも良くない感じがしますし。
まぁそうでなくても、最低限の収入で人に全力で奉仕して幸せになれる手段を考えた方が良いと思います。きっとそれがあなたの成功・幸せのカギになることでしょう。実際に僕はそうして幸せにやってますし。
ただもしあなたが「お金に執着してお金稼ぎにフォーカスさえできれば簡単に稼げるはず」と本気でお考えなのでしたら、それはとても甘いというか、本質が見えていないと思います。今のあなたは単にお金を稼げないのを己の金銭欲のなさのせいだと考え、怠惰で臆病な自分のプライドを守り、傷つかないことを優先して自己正当化しているだけでしょう。
お金を稼いでいる人たちというのは基本的に人を喜ばせること・世の中の役に立つことをやっているから稼げているのであり、あなたの考えるように単にお金にがめついような人間・人を不幸にすることでお金を稼いでいる人間は、例え一時的にはお金を稼げていたとしてもカルマを積んで後々落とし穴にハマり、幸せになることはまずあり得ないと思います。それは真理に反していますからね。
>目先の解決を提案するのは簡単なのですが、根本からとなると相手が嫌だと思う事をつつかなければならないという事が多くて。
>相手が変わりたいと望むのであれば、本腰を入れてと思うのですが、だいたいが目先の解決を目的としてる事が多く、結局は問題を先送りしているような感じがじてしまい、ただただ愚痴を聞いて終わる状況です。
人間関係は完全な鏡であり、周囲の人もあなたに対して同じ感情を持っているのではないでしょうか?実際あなたに対して僕も全く同じような印象を持っていますし。創造主は常に出会う人を鏡として自分の問題に気づかせようとしてくるのです。だからそれを他人事と考えてはいけません。
あなたの周囲の人もあなたから本腰を入れて問題を解決するという姿勢が感じられず、自分を守ることに執心しているように見え、本音を言えばきっとあなたを傷つけたり嫌がられたりするだけになるのが目に見えているから、本音が言えていないのではないかと思います。「類は友を呼ぶ」で、きっとあなたの周囲にはあなたと同じように相手に遠慮して本音で語り合えない人ばかりなのでしょう。しかしそれは相手を傷つけて嫌がられることで自分が傷つくことを恐れているだけなのです。
それはまさにあなたの分析通り「ただ問題を先送りにしているだけ」ですし、それでいてあなたが「家族のために生活だけは安定させたい」というのは、まさに本腰を入れて変わろうとせずに目先の解決を目的としているということではないでしょうか?
何事も自分以外(他人や環境など)のせいにしたら自分の成長はあり得ません。変わるなら自分からということです。人生というRPGは主人公たる自分次第に作られているのであり、出会う人を鏡として自分の課題(カルマ)を把握することが大事なのです。
あなたが相手の言うことを「愚痴」と認識して親身になって真剣に聞いていないのであれば、あなたの言うことも恐らくは同じように「愚痴」と認識されて親身になって真剣には聞かれていないことでしょう。
基本的にどんな悩み相談も「愚痴」だと解釈すれば愚痴に過ぎません。しかしもしそのような姿勢で人の話を真剣に聞かないなら、相手もこちらの話を真剣に聞くわけがなく、信頼関係など生まれようがありません。
人は好きじゃない・真剣に話を聞いてくれない・信頼できない人間のアドバイスは心が逆らってしまうように作られていますから、信頼関係がない人の言うことが正しければ正しいほど、相手をその正しさから遠ざけてしまうので、かえって害悪なのです。
あなたの仕事がうまく行ってない理由は、相手が根源的な解決を望んでいないからではなく、あなたが相手の話を聞いているつもりで(自分の鏡として)真剣に聞いていないために、本音で語り合える信頼関係が築けていないからでしょう。
信頼関係はすべての仕事の基本であり、特にあなたの自営業(建設業・現場管理メイン)という仕事の性質上、致命的だと思います。自分の話を真剣に聞いてくれない人・仕事がうまくいっていない人のアドバイスを相手が真剣に聞くわけがないのは道理ですからね。悪循環です。
落ち込む必要はないですからね。決して自尊心を下げないで下さい。自尊心を下げると「どうせ自分なんか」と更に思考と行動のレベルも下がることになり、ますます悪循環にはまってしまいますから。ただ相手の存在に感謝し、無条件でリスペクトし、真剣に話を聞き、欠点や過ちを許すことができるようになれば良いだけです。
この世界はRPGであり、クリエイターのメッセージというのは、人や出来事との出会いを通じてもたらされるものであり、この世界に偶然など存在しないのです。それなのに出会いを偶然と考え、油断して人の話を真剣に聞かず、他人事と考えて自分の問題と考えず、自分に起きた出来事を偶然と考えてその意味を真剣に考えないようでは、クリエイターからのメッセージ(導き)を受け取れませんから、ゲームは行き詰まるか事故るかしかなくなってしまいます。この世界のすべての存在・事象が、あなたに何か大切なことを気づかせ導くためのメッセージなのだと知って下さい。
>世界は自分の受け止め方(解釈)でどうとでもなるよなという感覚になりまして、なんといいますか、物事の善し悪しを判断しているのは自分自身で、現れる物事にはそもそも善悪が無く、ただ事実のみといいますか。全ての物事・縁が自分にとって意味があるように思えて。
それはある意味その通りではあるのですが、少し理解が浅いというかズレているような気がします。
確かにあなたの言う通り、あなたが認識できるすべての存在・事象があなたにとって意味があるものです。そして良し悪しを判断しているのはあなた自身であり、良い事しか経験したくないというのは肉体意識・顕在意識にあるエゴであって、ハイヤーセルフにはそんな良し悪しの判断はないのです。
いきなり正解を教えられるクイズ番組など何も面白くありません。ハイヤーセルフは番組のプロデューサーのようなものです。当然、答えに至るまでに様々な苦難を与えてきます。そこであなたがプロデューサーの意向を無視し、解釈のみで何でも自分に都合よく番組(現実・人生)を作れるわけではありません。彼の与えてくれるヒント・導き(意図)を正確に読み取らなくてはならないのです。
「自分に与えられている課題が何なのか?」を考えることがとても大事で、それがわからないと、せっかく成長のために与えられている試練がただ我慢するだけ・どんどん辛くなっていくだけのものになってしまいます。
僕が「人生は解釈次第」というのは、思い込みが強ければ何でも思い通りになるというような意味ではなく、自分に与えられているすべてを愛と感謝でポジティブに解釈してそれを行動につなげている人はそういう人生になり、不平不満で解釈してエゴに埋没した怠惰な生き方をしている人はそういう人生になるということです。
多くの人が「引き寄せの法則」などといって、エゴで自分に都合の良い現実を思い込みの強さだけで引き寄せようとしていますが、それはうまくいかないか、うまく行くことでかえって分不相応なカルマを積んで後々盛大に落とし穴に落ちるかのどちらかになることでしょう。器に合わない幸運を引き寄せることは、その分のカルマを積んでいるに等しいものなのです。今のあなたの考え方で諸々うまくいかないのは、むしろ守られているのですから、感謝すべきかと思います。
>そんな状況ではありますが、不思議と幸か不幸かで言えば、結構幸せです。
あなたが今の状況を幸せだと思っていること(不平不満や恨みで返していないこと)は幸いなことです(だから僕に導かれたのでしょう)。
ただそれが、傷つきたくないために課題を正確に理解しようとせず「答えなんかわからなくても(成長できなくても)今のままでいいや」という自己正当化・成長拒否(逃避)につながってしまっているのが難点です。
あなたは自分をエゴ・執着が弱いと思っているようですが、そういう自己正当化・成長拒否(逃避)もエゴ・執着の産物なのです。(それは人間の基本設定で、あなただけではないので落ち込まないで下さいね)
幸せに導くために不幸が与えられているのですから、何事も「創造主が何を自分に気づかせ覚らせようとしているのか?」を愛で解釈して考えてみて下さい。
>ただ、まずは子供の為に生活は安定させたいと思っています。
その状況は本当に感謝すべきことだと思います。もしあなたに妻も子供もいなかったら、今の状況に甘んじたまま死ぬまで問題を先送りにし続けていたことでしょう。
あなたに家庭があるのは決して偶然やあなたの努力の結果ではなく、創造主からの贈り物なのであり、それはとてもありがたい事なのです。だから「自分は家庭があるせいで目先の金稼ぎに執着せざるを得ない」「好きなことを好きなようにできない」などというように考え、家族を「お荷物」のように思い、自分のエゴ(我欲・保身・臆病・怠惰・執着)の言い訳に使ったりはしないで下さいね。それは思うだけで家族に伝わり、家族の自尊心を下げてしまうのですから。日々家族に感謝・愛を伝えて下さい。
>勝手に、自分の器が出来れば物事もついてくるのかなと思っている(今は試されてる時)のですが、いかがでしょう?
本当にそう思っているのでしたら、器を大きくすること(成長すること)に専念しなくてはなりませんね。現状に甘んじて問題を先送りにせず、本腰を入れて乗り越えて下さい。
>更なる成長の糧で悪いものでは無いように感じてます。
それも本当にその通りかと思います。ただ成長の糧は「なる」のではなく「する」のです。そして成長を実感した後から「あれが成長の糧になった」と言うべきなのです。
自己肯定というのは「困難・失敗にもめげずに乗り越えようとする自分」を肯定するべきなのであり、成長した後から過去の至らない自分を「必要な過程だった」と許し愛することが大事なのです。
「ただ現状に甘んじ、嫌な事・辛い事を我慢していれば、成長しなくても勝手に導かれるから大丈夫」というように考えていては、いつまでも本当の自己肯定(幸せ)には至りません。僕らは成長するために生まれてきているのですから、それに反する意思は必ず不幸に導かれる定めなのです。
決して今までの考え方に固執せず、過去の自分に捉われないで下さい。「あなた」=「あなたの今までの考え方や行動」ではないのです。スティーブ・ジョブズのように、間違いに気づいたら、さも最初から知っていたような顔で今正しいと思う考え方を選べば良いのです。そうして古い自分をどんどん更新していけば良いのです。
つまらないプライドに固執して今までの自分にしがみついていたら、傷つくことばかりで成長することはありません。それは創造主の意思に反していますから、雪だるま式に不運が襲ってくるようになります。でもそれを恐れる必要はありません。過去の考え方や行動に縛られず、常に考え方・行動のより良い選択をして成長し続ける覚悟を持てばいいだけですから。
「反省してはいけない」に書いた通り、決して落ち込んで自己イメージを下げないで下さいね。僕があなたを責めて説教していると勘違いしないで下さい。ただ過去の自分に縛られずに、よりよい未来を選択すれば良いというだけなのです。
そういう「過去に縛られずに今自分が一番正しいと思う選択が軽やかにできる素直で柔軟で変幻自在な自分」をこそ肯定してみて下さい。そうすればぐんぐん幸せに導かれるドラマティックな人生になりますから。
「誰でも自信満々になれる方法」これも必ず読んで実践してみて下さい。まず自分も相手ももっと心からリスペクトして、相手という存在に対し常に心からの感謝の笑顔で接し、話を真剣に聞くことが大事です。
そしてあなたの文章には信心に関する言葉が出てきていませんが、なんの宗教でも良いので信心を持つべきかと思います。霊障の問題もきっとあると思うので、真光や世界救出教などでお清め・浄霊を受けてみて下さい。基本無料ですから。ご利益を一度も経験しないようでは、信心も芽生えようがありませんので、疑いながらでも一度行ってみることをおすすめします。
>真也様の「自分はRPGの主人公」というのも良く分かっています(分かってるつもりでしたらすみません)
>真也様の益々の悟りを心から祈ります。
その祈りに悪気が全くなくご厚意であることはもちろんわかっていますし、僕のために祈っていただけることはとてもありがたいことで、心より感謝致しますが、僕からすると覚り(成長)というものをまるで他人事と考えているように聞こえてしまうのです。
ツイッターでも呟きましたが、あなたはオンラインゲームをする時に、他のログインプレイヤーに「あなたのゲームの益々の進捗を心から祈ります」などと言うのでしょうか?人生は覚り(成長・真理への到達)を目指すゲームであり、主人公はあなたなのです(あなたはまだわかっているつもりで全くわかっていません)。覚りは決して他人事ではないのです。我々は成長のために生まれてきています。成長とは覚りを進めることであって、お金を稼ぐ能力を伸ばすことではありません。誰かの覚り(成長)を祈るより、まずはあなたの覚り(成長)を進めて下さい。
また他のプレイヤーに対して「覚り(成長)の進捗を祈っている」ということを相手に直接伝えるのは「他人事」なだけでなく「上から目線」と受け取られかねません。もちろんあなたにそういうつもりが微塵もないことぐらいはわかっていますが、それは少なくとも相手より明らかにゲーム(覚り)が前に進んで、相手から教えを請われてからにすべきことで、自分が相談しようとしている相手に対してそれをするのは失礼に当たるかも知れないと考えられる感受性は持っていただきたいです。
今回、大分厳しかったかも知れませんが、くれぐれも悪く受け取って怒ったり落ち込んだりしないで下さいね。繰り返しますが、決して自尊心を下げないで下さいね。ただ主人公として、過去に縛られずに今一番良いと思える思考・行動の選択をして下さい。いきなり最初からうまく行くわけがありません。スポーツでも楽器の演奏などでもなんでもそうです。他人と進捗を比べず、楽しみながら続けることが大事だと思います。
それでは、あなたとあなたの周囲の皆さんの幸せを心から祈っています。お互い主人公として頑張りましょう。