【質問】
私は、キリスト教を信仰してます。あなたが信じるかどうかの基準は、正しいかどうかではなく幸せになれるかどうかということですか?真理は愛だとすれば、幸せになれることを信じれば、それは真理になるということでしょうか?
【回答】2025年1月2日更新
ご質問ありがとうございます。
>あなたが信じるかどうかの基準は、正しいかどうかではなく幸せになれるかどうかということですか?
はい、基本的にはそうですね。
何が正しく何が間違っているか?(何が正義で何が悪か?)というアプローチでは必ず対立・争いが生まれます。
何をどう考えどう実践するのが自分と相手とみんなに対する愛(思いやり)か?どうすればみんなが幸せになれるか?それを考えることが真理(ワンネス)への道だと思います。常に正義より愛(思いやり)を優先すれば対立は生まれないのです。そして世界中の人が正義より愛(思いやり)を優先したら世界が救われるのは自明です。
キリストは「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」と言ったそうですが、それが真理かと思います。つまりそれを信じ実践することによって実際に自分も周囲もみんなが幸せになるかどうかで、その考えが良いか悪いか(正しいか間違っているか)がわかるということです。全ての存在は一つ(ワンネス)なんですから、誰かが幸せになるために誰かが不幸になるような考えが真理なわけはないのです。
仏教には「八正道」という大事な教えがあるのですが、何が正しいかわからなければ実践しようがなく、無意味です。「正しい」という言葉を「みんなが幸せになる」という言葉に置き換えて考えれば、何が正しいかがわかるのです。
みんなが幸せになる真理を、誰かが真理だと認めなかろうと、それはどうでも良いことです。それが本当に真理なのであれば、自分が揺るぎなくその真理通りに実践できる人間にさえなれば、遅かれ早かれそれは他人にも受け入れられ、いつか世界の果てまで連鎖してみんなが幸せになるのです。それはガンジーの非暴力・不服従運動の成功を見てもわかることでしょう。
真理というのは実践さえすれば必ずみんなが幸せになるとわかるものなのですから、相手がそれを真理だと自ら悟りさえすれば自発的に従う以外の選択肢はなく、他人に押し付ける必要はないのです。逆に何かを他人に押し付けようとする時点で、それは真理から外れているのです。ガンジーの非暴力・不服従運動も、もしそれが政治力によって(心から納得していない人にまで)強制されるようなものであったら、それは成功していなかったはずです。
「エゴ(欲)とは何か?」に書きましたが、真理とは愛であり、エゴを乗り越えて愛を発揮するところに魂の成長があり、ワンネスへの道があるのです。
創造主曰く「正義(正しい・正しくないの判断)=エゴ」とのことです。正義は必ず攻撃対象としての悪を必要とします。しかし相手には相手の正義があって必ず争いが生まれるのです。そして正義は必ずエゴの隠れ蓑になっていて、誰かが必ず自己利益に誘導しているものなのです。アメリカが正義を語って戦争を煽り、他国を侵略して軍需産業で儲けつつ利権を奪っているのはその典型でしょう。正義を押し通せば争いはなくなりません。愛が天使であり、正義は悪魔なのです。世界中のみんなが正義よりも愛を優先させれば争いはなくなり、それだけで世界は救われるのです。
人生は魂成長のプログラムであり、真理を実践すればするほど成長し幸せになるように世界は創られているのです。もしそうでなければ誰も真理など求めず、成長しようとはしないでしょうから、人生は魂成長のプログラムとは成り得ないのです。創造主が世界をそのようにプログラムするわけがありません。
僕は色んな宗教を同時に学んでいて、イエス・キリストのことも心から信じています。ただどこかのキリスト教系の宗教団体を信じているわけではありません。キリスト教という正義を隠れ蓑にしたエゴの連鎖がどれだけ悲しい歴史を積み上げてきたかはご存知の通りです。もちろんキリスト教は歴史上長きに渡って信者数が多いからそれが目立つだけであって、他の宗教もそこは同様です。この世界のあらゆる存在には個性があり、それは欠点や過ちと不可分です。どんな宗教・どんな神様にも個性があり、そこに欠点と過ちはつきものなのです。だから一つの宗教だけを妄信し、自分で主体的に考えるのをやめれば、必ずどこかで道を誤るように世界はできているのです。だから色んな宗教を学んで共通する真理を探すことが大事なんだと思います。信仰というのは自分で考えることの放棄ではありません。だから僕はどんな神や宗教家の言う事でも心から納得できなければ従いません。
同時に僕は神様も人も出会ったみんなの個性を尊重し、愛するように心がけています。もちろんとても難しいですけどね。出会ってもない人は愛せません。逆に出会った人ひとりひとりを例外なく無条件で愛することができるようになっていけば、出会いさえすれば愛せるように成長しているわけですから、それは世界中の人を愛せるようになったことに等しいのです。
いつでも本物の笑顔が僕らのコンパスです。船が北極星を目印に航海するように、本物の笑顔を目印にしてみんなが幸せになるように進めばいいのです。ベクトルさえあっていれば道を誤ることはなく、どれだけ時間がかかってもいつかは目的地に辿り着けるということです。
「信じることの意義」にも書きましたが、我々はわからないからこそ何かを信じることができ、逆に何かを信じずに生きることはできません。「自分は何も信じていない」という人は自分の勝手な常識を信じていることを意識もしていないだけです。「何を信じるか」が「自分とはどんな存在か」を形作るのです。人生は己が何者かを知り表現するための芸術であり、「何を信じているか」がその人の存在そのものなのです。
全知全能の創造主は真理を全て知っていて、何かを信じるということができません。我々はわざと無明の闇を与えられ、真理がわからず迷い・苦しみますが、そうして人生経験を積んで真理に辿り着くからこそ真理には価値が生じるのであり、真理は存在するだけでは概念に過ぎず、何の価値もないのです。だから真に価値があるのは真理そのものよりもそこに至るまでの我々の経験・物語であり、だからこそ全知全能の創造主はわざわざ大変な苦労をして無知で愚かな人間とその人生・世界を創ったのです。概念は経験を伴わなければただの言葉に過ぎませんから。
>真理は愛だとすれば、幸せになれることを信じれば、それは真理になるということでしょうか?
その考えを元に実際に実践してみて誰も幸せにならないのに、その考えを真理だと信じること(思い込むこと)によって真理にできるわけではないです。真理というのはあなたや誰かが信じる信じないに関係なく無条件に真理として存在しているのです。それは人間が思い込みでねじまげられるようなものではありません。
僕は真理に近づくのを感じるほどに僕も周囲もどんどん幸せになっているのを実感しているので、真理とはみんなを幸せにするもの=愛だと確信しています。
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