【質問】
過去にしてしまった失言や恥ずかしい行為、間違った選択に対しての羞恥や後悔が止まりません。色んな心の教えを学んだり、「大切なのは過去より未来」と自己暗示したりしてもあまり効果はなく、「今までダメだったからこれからもダメだ」と自暴自棄になります。これ以上恥ずかしい思いをしたくありません。他人の罪は許せそうですが、自分に対してどうしても許せないです。どう心を前向きに持っていったらいいですか。ウジウジしていて自分でも情けないです。
【回答】
僕も幼い頃からとても罪と恥を感じやすかったのでお気持ちはすっごくよくわかります。それが長年の鬱の主原因の一つでもありましたしね。
目覚めた今でさえも過去の罪や恥によるトラウマが突然フラッシュバックして叫びそうになる事がたまにあります。でもそうやって一つ一つ自分と他人を許して乗り越えることが成長なのです。
まず、罪と恥(罪悪感と羞恥心)が何のために存在しているのかを知って下さい。
僕が創造主からいただいている教えの中でも中核を成す大事な教えです。
この世界は仮想現実であり、聖書のアダムとイブの話は精神世界における実話なのです。そしてそういう基本設定の元に我々の人生というRPGはプログラムされているのです。人間は罪悪感と羞恥心ゆえに創造主に対して心を隠し、それによって我々は全ての存在たる創造主から仮想的に分離し、客体として・新たな主体者として成立させられているのです。
我々は罪と恥が辛く死後の裁きを恐れるため、全てを見ている創造主の存在すら否定して科学・唯物論・進化論を信じてしまうのです。
しかし本当は人間とは創造主自身であり、創造主が人間として経験を積んでいるのですから、罪や恥を理由に創造主を恐れて存在まで否定する必要などないのです。自分や他人の罪や恥を許さないという事は創造主の罪や恥を許さないという事です。
この人生というRPGにおいて、AIキャラである僕らはクリエイターに許されていない事は一切できませんし、思いつく事すらできないのです。全ては創造主に許されています。例え世間や法律が許されなくても、創造主には許して欲しいと願った瞬間に許されるのです。許していないのは人間の方です。
自意識というのは基本的にお互いを責め合うために存在しています。人間は多面的かつ不連続な存在であるにも関わらず、肉体を単位として過去の行動に責任を持たなくてはいけません。それゆえに何か悪いことがあったら誰かを責めて責任を取らせて心を整理しようとするのです。でもそういう基本設定があるからこそ許しには価値があるのです。
あなたはどんな時に罪や恥を感じますか?道徳的に悪い事をしてしまったり、排泄や性行為を人に見られてしまったりした時でしょう。そのように我々は誰でもやる可能性のある事でしか罪や恥を感じる事はできないのです。人間には例外なく個性があり、それは不完全性・欠点や過ちと不可分であり、罪と恥は誰にでもあるものです。それを許せないというのなら当然自分も他人も許せなくなります。
排泄や性行為を人に見られたら恥ずかしいですがみんなやる事です。勿論それは公衆の面前でするのは醜い事です。でもその羞恥心があるからこそ、愛し合っている人とお互いの恥を許し合う事は尊いのです。性器や性行為が本当に醜く恥ずかしいものなら、例外なくそこから生まれてきた我々は何なのだという話です。
創造主は我々を罪や恥へと誘います。失敗させ、ドジを踏ませ、調子に乗せておいて急に落としたりします。それは我々からするとひどく悪趣味にも思えますが、本来唯一の存在で全知全能で完全無欠であるがゆえに究極に孤独で退屈な創造主からすれば、人間としてその欠点や過ち、罪や恥を経験できる事は喜びなのです。
「こんな事をしたら罪深い、恥ずかしい」という思いが人間を自発的に美しくしてくれています。でも罪と恥の本当の存在意義は、お互いを許しあってより深く愛し合うためのものなのです。お互いに許しを乞い、許し合う事。それこそが本当の美であり人生という芸術なのです。
ですから人間は罪を犯さず・恥をかかずに生きる事はできないように基本設定されています。そりゃ罪や恥は痛みを伴いますから、できるなら誰でも罪は犯したくないですし恥もかきたくありません。でも人生というのはそれを避けては通れないのです。
全てはワンネスであり、自分=他人です。あなたは「他人の罪は許せそう」と書いていますが、そんなにも自分の罪や恥が許せない人が他人を許せる訳がありません。あなたは己の罪と恥に埋没して臆病になり、自分を許して心を開けないために、他人もあなたに対して安心できず構えてしまって己の罪と恥を晒して心を開けないのです。だからあなたは一人で殻に閉じこもり、自分の罪や恥がまるで自分だけにしかないものかのように思い悩んでいるのでしょう。
僕らは人生という物語の役者であり、臆病と怠惰が最大の罪です。物語の設定やシナリオや配役に文句を言って引き籠っているような役者では使い物にならないのです。この物語は愛と勇気がテーマだということを忘れないで下さい。
基本的に人間は臆病で怠惰に作られているからこそ、愛と勇気を発揮したら価値が生まれるのです。最初から何も恐れない人の勇気に価値はありません。あなたの臆病さも創造主の愛によって与えられているものだと知って下さい。愛と勇気を発揮して出会ったみんなを例外なく許して愛して下さい。
笑いの基本は恥の開示であり、人は恥を自ら開示されると自分が救われた気がして安心して笑うのです。笑われたら人を笑顔にした事を喜びつつ一緒に笑って下さい。バカにされたと思って怒ってはいけません。バカにされたら「違う!」と思っても「その通りです!よろしくお願いします!」って自分でも笑うのが一番簡単に爆笑を取れる方法なのです。
世の中臆病で恥をかく事を嫌い、人に愛のないツッコミばかり入れて他人をバカにした笑いを取ろうとする人ばかりですから、自ら笑われに行くだけで愛されるのです。日常会話は裁判ではありません。事実なんかより笑顔の方が大事です。そもそも人は思いたいようにしか思いませんから、他人が自分に対して抱く印象を本人が否定したところで意味がありませんし、かえって逆効果です。
傷つきやすくてキレやすくてツッコミ難い人というのは付き合いづらく愛され難いものです。欠点も過ちもない人間なんていませんし、欠点や過ちを必死で隠して気張っている人は付き合い難いのです。
だからと言って変に露悪的になったり、露骨に恥を晒して他人を共恥心で苦しめる必要はありません。それは醜い事です。ただ心の中で自分と他人の罪や恥を許し、いつでも晒せるようにしておけば良いのです。そうすれば自分も他人も肯定できて心穏やかに生きる事ができます。
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