2023年7月31日月曜日

どうしたらモテますか?

【質問】20代・男性
どうしたらモテますか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。(女性が恋愛対象である男性向けの回答ですが、多くは女性やLGBTの方々にも通じることですし、皆さんに楽しんでいただける内容かと思います)

モテたいのは人間としてとても自然なことです。特に性欲が強く播種本能に振り回されがちな若い男性なら猶更です。人間はそのように初期設定されているのですから、あなたが悪いわけではありません。ただ初期設定というのは成長のための課題が含まれているものなのです。

モテても本命と結ばれなければ意味がありませんし、日本では重婚禁止ですから一人としか結婚できません。本命の人と結ばれて良好な関係性を維持するにはモテることが逆に邪魔になることも多々あることでしょう。なのになぜ人はそんなにもモテたくなるのでしょうか?

僕も若い頃というか、目覚めるまでは普通に「モテたい」と思ってました。今だからわかりますが、かつての僕は自分に全く自信がなく、他人から評価されることで自分が価値ある存在だと思おうとして、自分を偽って無理やり別な誰かになろうとする努力ばかりして、人から好かれる(褒められる・モテる)ことを主目的に人に気遣いし、謙虚さを装うただの卑屈な人間で、常に他者からの評価を求めていたのです。自分に価値がないと思っていたために、価値のない自分から評価されても全く嬉しくなれず、他人から評価されないと自分を評価できなかったんですね。つまり「モテたい」っていうのは他者評価依存ということなのでしょう。

自分で自分に価値がないと思っているような人間が、モテようとしたからってモテるわけがありません。そして他者評価に依存する限り、本当に自信がつくようにはなりません。他人の言うことに振り回され、自分を評価しない人・自分より優れた人がいる度に傷つき自信を失うようになりますからね。そして自信はモテの最大要素であり、自信がない人がモテるわけがありませんから、現状自分に自信がなくてモテてない人がモテることで自信をつけようとしても、モテるようにならないことはほぼ確実なのです。

本当に素でモテる人は自分に自信があって、ただ自分らしくあるだけでありのままを愛され、過剰にモテることはかえって邪魔にもなるので、わざわざ苦しい思いをしてまで不特定多数の好みに合わせて自分を偽るようことはしないでしょう。

もちろんアイドルなど人気商売の人の場合は、より多数の好みに合わせて演じるのが仕事なので、特にメディアの前では当然そうしていると思いますが。

努力によって外見や能力・実績を高めることに成功することで自信が高まり、また知名度が高まることによって多くの女性に知られ、それにより多くの女性に好かれるということはあるでしょう。しかしその分自分を評価しない人や否定・批判・侮辱してくる人にも数多く出会って、他者評価依存で傷つきやすい人はより傷つくことになります。そしてそのようにしてモテたとしてもそれはあくまでも一過性のものであって、早々に失われてしまうこともありますし、加齢とともにいずれは失われることが確実です。それに怯えながらモテてもいつもどこか不安で、本当の意味で自信満々で幸せにはなれないでしょう。

もしあなたの「モテたい」が単に「たくさんの女性と肉体関係を持ちたい」ってだけなのなら、女性にも性欲はあるわけですから、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」で、相手の容姿や性格や年齢や職業など一切お構いなしで次々とアタックすれば、数撃つうちにその方向でスキルが身に付き、肉体関係を持ち易い相手にも鼻が利くようになり、どんなにモテない人でもそれなりにはありつけることでしょう(清潔感にさえ気を付けていれば)。※もし緊張して女性と話せないようなら、街で知らない女性に道を聞きまくることから始めてみて下さい。

ただそれは単に「性的に奔放な肉食系女子」「押しに弱く受け身な非モテ女子」「男に依存したいメンヘラ女子」(総じて霊障が原因・基本的に相手は誰でも良い)などを見つけて「自分から喰われに行ってる」ってだけでしょう。まぁそれはそれで一つの奉仕であり社会貢献かもしれませんが(皮肉)、本当に「モテている」わけではありません。

また他者評価依存の人は当然傷つきやすいですから「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」を実行する中で、多くの女性からひどい拒否のされ方をしながら自尊心を保つのは難しい気がします。ある意味でそれも修行だと言えるかも知れませんが、そのあたりの自分の感覚を麻痺させてゲーム感覚で楽しめないのならお勧めしません。

妊娠等のリスクがあって男性より結婚適齢期の短い女性に対して「割り切った関係を結ぶ」「あと腐れなく別れる」というのは難しいことが多く、素でモテない人が女性にガツガツしようとしたら、大して好きでもない相手に本気を装って相手側を本気にさせるような「女を騙す」アプローチをすることになるでしょうし、そんな人に騙される女性は元々心を病みやすい人(霊障に犯されやすい人)だったりすることが多く、必然的にトラブルをたくさん抱えるようになるでしょう。そしてそういうことをする人間が結婚を機にすべて清算してうまくやっていけるとは思えず、将来的な破綻が目に見えている感じがします。

そのように女性にガツガツしたり、自分がモテることを執拗にアピールする男性というのは大体「思春期にモテなかったことによる心の傷」があるから、その傷を必死で埋めようとしているのでしょう。そういう人の必死なモテアピール・自慢話を真に受けて本当にその人がモテているのだと勘違いし、羨んで悔しがって落ち込み「あわよくば自分も」などと考えてやり口を学ぼうとするのは愚かなことなのです。アピールというのは基本的に「このように見られたい」という思いがあるのに実態がその通りではないからするものであり、実態通りなら誰が見てもすぐわかるのでアピールする必要はないのです。ネイマールも本当に痛い時はゴロゴロしません。

そうして「抱いた女の数が男の甲斐性」といった感じで女性を「自分が自信をつけて価値を感じるための踏み台」にするような男性は、既に自分に惚れた女性に対してはすぐに用済みになり、またモテるために嘘で塗り固めた自分を愛されてもまったく充実感がなく、「釣った魚には餌をやらない」といった感じになって関係性がすぐに破綻し、ひたすら「他にもっと素敵な女性がいるのでは?」と新たな女性を追い求めるようになるでしょう。キリがないことは最初からわかりきったことであり、そのうち加齢などで女性から求められにくくなったり、結婚や仕事の関係等で社会的に「手あたり次第」というのは難しくなったりして、まだまだ「モテたい」と思いながら鬱屈した寂しい中年・老年時代を過ごすことになるのは自明です。

もし幸せになりたいのなら、女性にモテることなんかより、結ばれた女性を運命の人だと信じ、創造主に感謝しながら、全力で愛することの方が遥かに大事だと思います。モテたいなどと思ってキリなく女性を求めていては幸せになどなりようがないです。あなたが相手を世界一だと信じて愛し抜くことで本当にあなたにとっての世界一にして下さい。世界一の女性から愛されるあなたは世界一の幸せ者になることでしょう。(それはモテることなんかよりずっと難しいでしょうけども、そういう修行なのだと思って下さい)

恋愛に限った話ではなく「全ての出会いは天から与えられた自分にとってベストな出会いである」と信じず、常に「他にもっと素敵な人がいるのでは?」と考えることは、目の前の人を全力で愛さないことにつながり、人からも愛されず不幸になるのが自明なのです。

ただモテないことに対して本当に強いコンプレックスがあるのにそれを自分の中でごまかし、ポジティブなエネルギーに変換できずに鬱屈しながら怠惰に青春を空費し「あの時もっとやっておけば」と歳をとってから後悔するぐらいなら、若い時は人目も憚らず女性に思う存分ガツガツする方が「積極性」「人生経験」「女性の一面を知る」と言う意味では良いことかと思います。(僕も大学時代は結構やってました)それが仕事で活かされるってこともあるでしょうしね。

何事もそうですが、答えに価値があるのではなく、経験が答えを価値ならしめるのです。自分なりに間違いを犯しながら納得して前に進むことが大事なのであり、最初から伝聞情報で答えだけを求めて心から納得していないことを無理やり自分に押し付けては、経験する(生きる)意欲が損なわれて怠惰になり、残念な人生になるだけです。

多くの男性がモテようとしてカッコつけをやっちまってますが、「カッコをつける」というのは「自分」という存在に対して文字通りカギカッコをつけて無理やり任意の型にハメてしまうことです。


英語で「カッコ」のジェスチャーは”Air Quotes”で、それを自分につけるとしたら「”いわゆる自分”」みたいになって、自分がアピールしているのが本当の自分ではないような、すごく皮肉な感じになりますね。

そうして本当の自分ではない自分を演じることで、例え女性から愛されたとしても、それは自分ではない誰かを愛されているのであり、本当の自分が愛されているわけではないのですから、きっと心の充足は得られないでしょう。そしていつかそこに気づかれて破綻するのは時間の問題です。

人が幸せになるには「自分が自分らしくあること」が不可欠であり、モテたいという動機で自分ではない別な誰かになろうと努力すること自体が苦しく不幸なことなのです。「本当の自分を知られたら幻滅され嫌われるだろう」なんて思って他人を演じながら愛されても辛いだけです。


女性の男性に対する好みというのは、男性の女性に対するそれより遥かに人それぞれ
であり、その個性を尊重せず十把一絡げに見て、不特定多数からモテたいなどと思い「こういうタイプがモテる」と勝手なプロトタイプを自分の中に作り、自分をそこに合わせようとすれば、必然的に無理が生じて自分を見失い、自信などつきようがありません=モテるようになるわけありません。

今時は「外見が良くなればモテる」と思い込んで、必死で美顔・エステ・コスメなどに精を出しているような男性も増えているようですが、それでモテてない人がモテるようになるとは到底思えません。外見の好みは本当に人それぞれですし、女性もそれなりに人生経験を重ねれば純粋に外見だけで男性を選ぶ人は少なくなり、外見重視を公言するようなごく一部の女性でさえも成長と共に男性の外見に滲み出たものを無意識に見るようになります。

世の女性だけでなく自分の深層心理だってそういう「カッコつけ」をして中身のない自分自身をダサいと思うでしょうし、それでは自分自身を嫌いになって余計に自信を失うと思います。

そして脳というのは右脳的直観でやったことを左脳的論理で後付けで理由をこしらえるようにできているものであり、例え女性が「外見に惹かれた」と理由付けしていたとしても、それが先か後かは本人でさえわからないのです。実際、歴代彼氏のルックスが全然違うタイプだという女性は多いです。要するに女性は「直観で好きになった人をカッコいいと思い込む」ものなのに、不特定多数の女性の外見的な好みに自分を合わせようとするのは本当に無駄な努力かと思います。

女性の言う「カッコいい」「こういう人がタイプ」などという他者評価に振り回されるのは愚かなことです。そんなものは人それぞれですし、お世辞の可能性も大いにあり、本当に「カッコいい」「タイプだ」と思う男性に対しても「付き合いたいな」「まぁ寝てもいいかな」「見た目は良いけど寝たいとか付き合いたいとかまでは思わないな・遊ばれそうでイヤだからパスだな」など、どこまで思うかは人それぞれです。

人間関係は完全に鏡であり、自分の外見に捉われている男性というのは、自分が女性を外見のみで見ているからこそ、自分も外見のみで見られているに違いないという勝手な思い込みをしているのです。そして外見を理由に女性から傷つけられる体験を思春期から多く引き寄せてその思い込みを強化し、同時に知らず知らず外見に関することで多くの女性を傷つけ、魂の成長を怠ってカルマを積み、そうしてすべての存在の根源である創造主からの愛を受け取れずに、必然的に女性からもモテなくなるのです。

大抵全くモテない人というのは、モテない理由をそのようにして外見のコンプレックスに求めて「自分はダメだ」とネガティブな思い込みを強めて屈折し、本当は大して外見など悪くないのに「どうせ自分なんて」と自尊心が下がって、知らず知らず女性を不快にさせるような思考や行動が習慣化し、身なりや体型に無頓着になって実際に外見まで悪くなって益々モテなくなるという悪循環にハマっているのですね。そのようにして健全な恋愛をハナから諦めてアイドルやアニメなどに救いを求めるようなオタクというのは量産されるのでしょう。(外見のせいにするぐらいなら整形した方がマシだと思いますが、本質的な問題が整形で解決することはきっとないでしょう)

いかに外見が悪くてもお金持ち(ハイステータス)になればモテるかも知れませんが、モテているのはお金(ステータス)であってその人本人ではありません。お金(ステータス)がなくなれば人が離れていくのは自明であり、「紀州のドンファン」のようにお金だけ残して早く死んで欲しいと望まれるだけでしょう。それが幸せであるはずがありません。金(ステータス)に寄ってくるような女が本当に自分を愛するわけもなく、友人からも家族からも嫌われて孤独で、最後は愛犬を溺愛して犬に遺産を残そうとし、結局遺産目当てで愛人に殺されたことは哀れでしかありません。お金持ち(ハイステータス)になってモテようと思っている人は彼の人生を見てよくよく考えて欲しいです。

そもそも不特定多数の好みに合わせてモテようとすること自体が、創造主が自分に与えし尊い個性に対する価値の否定であり、それではすべての存在の根源である創造主から愛を受け取りにくくなります。そうすれば女性から愛されにくくなるのも当然です。

そうやって「モテる人に価値があり、モテない人には価値がない」などと人の価値に序列をつける考え方をしているから、ちょっと女性から評価されなかったっていうだけで「自分には価値がない」などと落ち込んで自信を失ってしまうのでしょう。まず人の価値とは?を読んで、天から与えられた価値に気づいて下さいね。

もし「モテれば必ず幸せ」「モテなければ必ず不幸せ」というように、幸せというものを何か条件付けして考えているのなら、その考え方こそが不幸の元凶であって、そこから改めるべきかと思います。

何よりモテようとすることの最大のデメリットは本物の愛を遠ざけてしまうことです。もし本物の愛が「あなただけを生涯愛し抜きます」という無言のメッセージだとしたら、モテたい人というのは「不特定多数から愛されたいです(あなたに愛されても満足しません。例えあなたに愛されなくても他がいるので大丈夫です)」という無言のメッセージを発しているワケですからね。それで例えモテたとしても安っぽくて軽い女性しか寄って来なくなり、お互いすぐに飽きることは自明です。

不特定多数の女性から性的にモテる必要などないのに、現状モテていない人が無理にモテようとすることは、余計にモテなくなる上に本物の愛も遠ざけるという悲惨な状況に自分を追いやることになるのです。

例えどれだけモテようと本命の人から愛されなければ意味がないのに、それでもモテようとしてしまうのは、女性の選択肢が多いことを「自分に価値がある証拠である=幸せである」と勘違いしているからです。常に自分が選べる立場に身を置いて、フラれても「他がいるから大丈夫」と安心し、傷つくリスクを下げたいのでしょう。

だから「モテたい人」というのは自分が愛する前に相手側から愛されようとするのですね。それは要するに自信がなく臆病であるがゆえに安全を確保したがっているワケで、それ故に本物の愛を自ら遠ざけているのです。人生は愛と勇気を試す為のRPGですから、臆病者が本当にモテるなんてことは有り得ません。

これは夢(職業)についても同じで、本命の夢が叶わなかった時のことを恐れて選択肢を増やす為の努力に時間と労力を費やす臆病者が、退路を絶って夢に殉じている勇者に勝てるワケがありません。選択肢の確保に奔走する臆病さが本物の夢も愛も遠ざけるのです。退路を確保すれば必ず退路へと追い込まれるのです。これはいざという時に死んで逃げれば良いという選択肢を常に確保している臆病者が、いつか必ず自殺して逃げるという退路へと導かれるのと同じです。だから人生というのは必ず退路を断つ必要があるのです。どっちみち人はいつか死にますし、魂は永遠です。人生はRPGなのですから、死も何も恐れず、退路を断ってただ前に突き進んで下さい。

ベンジャミン・フランクリンが「安全を得る為に自由を手放した者は、その両方を失う」と言った通り、モテ(安全)のために心の自由(自分らしくあること)を手放した人は、余計モテなくなる上に心の自由も失うのです。それは早めに気づかないと、後から本当の自分を取り戻すには時間が足りなくなるのです。

冒頭に書いた通り、モテの最大要因は自信です。でもみんなどうやったら自信を身に着けられるか知らないのです。そこを僕は誰でも自信満々になれる方法において既にnoteで公開しています。それは「誰でもモテるようになる方法」とイコールなワケです。いやー、そんな素晴らしい方法を無料でみんなに教えてくれる僕は何て天使なんでしょう?(笑)この内容を真実だと信じて全て実行する人がモテない理由がありません。

大事なのは「モテよう」などという結果(見返り)は一切求めず、「自分が自分らしくあること」を最優先し、自分の個性も他人の個性も「ありのままに愛すること」であり「出会ったら無条件で常に自分から愛すること」です。ここでの愛というのは愛欲(エゴ)ではなく万人に向けた慈愛ですので誤解のありませんように。


そして結局は「本当にやりたいことを通して人に貢献して生きること」ということに尽きます。それなくしてモテようと愛されようと本当に幸せになることは有り得ません。やりたいことで人に貢献できていたらそれだけで楽しく幸せなのであり、女性から性的にモテる必要などないのです。

それでも、ありのままに自分と他人を愛し、人に貢献して楽しく幸せに生きている人は、すべての存在の根源である創造主から愛されるので、その分身たる女性たちが放っておくわけがないのです。例えどんなにブサイクであろうとも。

逆に仮にルックスが良かったとしても、仕事も趣味も全然楽しくなくて嫌々生きて嫌な人間になって人間関係がうまく行かず不幸で鬱になって人生を恨みで返しているような人は創造主の愛を受け取れず、モテるわけがありません(実体験済)。モテたいのにモテないならモテようとせず、モテなくても楽しく幸せに生きればモテるのです(実体験済)。モテは幸せの副産物のようなものであり、「引き寄せの法則」と同じように、目的化しない方がうまく行くのです。

鬱抜けのためにも、他者評価に依存せず、結果(見返り)を一切期待せず、自分のエゴより出会った人のエゴを満たしてあげることを優先し(無償奉仕し)、自分も他人も責めたり蔑んだりするのをやめて無条件で愛し、自分で自分のことを「この人大好きだなぁ」と思えるようなエピソードを日々重ねていって下さい。そうすれば自分を大好きになって幸せになります。そしてそんな人は必ず周囲に愛され、女性から全くモテないなんてことがあるわけがないのです。

不特定多数の女性の好み通りの人物を演じてオシャレして、社会的評価の高い職業に就いて仕事がデキてお金持ちになって良い暮らしをしていれば、モテて自信満々に生きれて幸せになれるなどと考えるのは幻想に過ぎないことを僕は実体験として知っています。

そういうのは一見真実であるかのように見えても、実際は人の「モテたい願望」を利用してお金を儲けたい人達の流布するデタラメであり、「こういう人がモテる・モテない」というクソみたいな分析やランキング(伝聞情報・他者評価)などに振り回されてはいけません。それはヤクザの夜店のクジの景品みたいなもので、どれを選ぼうとそこには初めから当たりなどないのです。「モテ幻想」で社会の奴隷にならないで下さい。


自信は幸せとイコールであり、自信とモテはイコールで、誰でも自信満々になれる方法をみんなが実行したら、みんなが自信満々で幸せでモテモテになるワケで、そうなったら世界が幸福で平和になり救われることになります。つまり誰でも自信満々になれる方法とは「世界を救う方法」でもあるということです。ですから必ず読んで実行して下さい。

それでは、あなたが自信満々で幸せでモテモテになることを心から祈っています。独身の中年のクセに上から目線で偉そうにと不快に思われるかも知れませんが、これは創造主から直々に教わった真理であり、揚げ足を取って何とか否定してやろうと躍起にならず、信じて頂けると幸いです。この教えは創造主の愛そのものなのですから。

2023年7月29日土曜日

神通力(超能力)について

 【質問】年齢・性別不詳
何か神通力は手に入りましたか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。

僕は神通力を求めて修行をしているわけではなく、また浄霊能力(本当は誰でも持っている能力)の向上以外は求めていませんし、手に入ってしまってもそれは公にしません。相手が誰かから浄霊を受けてくれてその効果を感じ、その人も他人を浄霊してあげるようになれば、それが連鎖してみんなが神々から幸せに導かれるので、僕は浄霊以上の能力を必要としないのです。

もし僕だけに特別な能力があっても、僕に多くの人が依存するようになるだけで魂が成長せず、それでは生まれてきた意味がないのです。みんなが自分自身に人を幸せに導く能力があること、そして自分自身が主人公(メシア)であることに目覚めさせ、それを連鎖させていかなければならないのです。

もし超能力のようなものを人に見せれば、きっと僕に与えられている覚りももっと簡単に人に信じて受け入れてもらえるのかも知れません。それ(ラク)をしたいって気持ちは正直あるんですけど、超能力は覚りの本質ではなく、むしろ覚りから人々を遠ざけてしまうものなのです。

権力と同じで、もし超能力を手に入れればそれをエゴ(金や名声や権力)のために使わないわけがないですからね。それは真理(愛・ワンネス)に反するものですから、己の器を超えて金や名声を得れば得るほどカルマを積むことになってしまいます。そうすればやがて力を失い不幸に導かれるでしょう。(そういったケースのカルマはまず自分自身ではなく家族から重大な悪影響が出るということを知っておいて下さい)

そして例えば仮に死人を生き返らせる能力を僕が手に入れたとします。キリストの時代に他言を禁じてさえ噂が一気に広まってみんながその恩恵を求めてキリストの元を訪れたのですから、人口77億人で情報化の今の時代、もしそんな能力が僕にあるということが知れたら、世界中の人が僕を訪れ、僕はその対応だけに人生を費やすことになり、また人々は僕に超能力だけを求めて覚りなどどうでも良くなるでしょう。それでもし僕がうまく行き返らせられなかったり間に合わなかったりしたら遺族から恨まれるでしょう。死にそうな家族のいる人たちがこぞって僕の傍に住み、気持ち悪く我先にと取り入ろうとしてくるでしょう。そして世界中の人の死因が「死に際に真也に会えなかった事」みたいなデタラメな状況になってしまうでしょう。また医療・医薬もあまり意味がなくなり、医療・医薬業界の多くのが仕事を失って業界人から恨まれることにもなるでしょう。人口が更に爆発して支配者層から命も狙われ兼ねません。

キリストも、人々が自分に奇跡だけを求めて覚りを求めないことに憤り、最後は神通力を封印していました。神の声である聖書が予めちゃんと「こういう理由で間違っている」と教えてくれていることに敢えて逆らうのは愚かなことです。

ちなみに釈迦も弟子たちにみだりに神通力を使わないよう戒めていました。神通力は決して覚りの本質ではなく、神通力で悟りを開こうなどという考え自体がエゴなのです。

世の多くの人が神通力・超能力のようなものを求めるのは、みんな他者評価・他者比較により自信を失い、自分など価値のない存在だと思って心を病んでいるからでしょう。動機が「世の人を救いたい」という純粋な愛ではなく、それを手に入れることによって自分が救われたいとか、特別な人間になって他人に称賛されつつお金を稼いで他人を支配する力を手に入れたいという魂胆によるものであり、それはエゴ(分離意識)そのもので、愛とは真逆のベクトルなのです。

スピリチュアル詐欺というのは、そういう歪んだ心理を読んだ上で、誰彼構わず「あなたには霊的な才能があります」などとおだてて、まるで超能力が手に入るように見せかけてセミナーや霊感商法で多額の金を騙し取ろうとするのが常套手段です。そうして騙し取った大金で成功者を装い「私は正しいから神々に応援され成功している」といった感じでカモを更に引き寄せるのでしょう。それは情報商材詐欺と同じ手法であり、引っ掛かる方も己のエゴゆえに騙されているのであり、どっちもどっちなのです。そこに自分で気づくまで騙され続けるしかないのは残念なことです。

この世界のテーマは「愛は地球を救う」であり、「超能力は世界を救う」ではありません。あくまでも愛(真理)を実践により伝え、世界中に連鎖させていくことです。超能力はその役に立つどころか邪魔になるものなのです。

「救いの本質」というのは命を救うことではありません。人間はどっちみちいつか死にます。もちろんキリストが命を救った人達もとっくに死んでます。「救いの本質」は「魂の救済」であり、自分の認識世界に存在するすべての御霊・御魂をそれぞれに成長・幸福・成仏へと導くことです。

どうか自分が主人公(世界を救う存在)であることに目覚めて下さい。あなたは自分の脳というパーソナルコンピューターの中の、自分のためだけに用意されたゲームの中にいるのです。それがネットで他のプレイヤーと繋がっているからといって、自分を客観的世界の脇役と考えてはいけません。そう考えてしまうのはこのゲームの初期設定であり、それを乗り越える勇気を持たなければ本当の意味でゲームが始まらないのです。

僕らは全知全能である創造主の分身なのであり、本当は全知全能なのです。つまり思っただけで何でも実現できてしまう存在なのです。それではつまらないから創造主は我々の能力を大幅に制限し、様々な共通ルール・限界のある世界を楽しませているのです。思い通りにいかないこの世界で、願い・祈り・努力することにより思い通りになったという喜びを経験させたいのです。

そこで(ワンネス・みんなのために)願わず・祈らず・努力せず、魂を成長させず、超能力というチートだけを求めることは間違いなのです。逆に魂を成長させれば、能力はそのレベルに合わせて自動的に与えられるものであり、魂のレベルに合わない能力を手に入れればカルマを積み上げてかえって人生の難易度は上がってしまうのです。そしてワンネス・みんなの幸せのための願い・祈り・努力はいつか必ず実ることが設定上自明なのです。

最後に創造主の声を代弁します。
「偉くなろうとするな、(すべての存在が)尊いと知れ。特別になろうとするな、特別(主人公)であると知れ。そして日々愛を実践し連鎖させることを通じて特別ではなくなること(ワンネス)を目指せ」

2023年7月28日金曜日

アヤワスカ短期留学(修行)について

何年か前だったらアマゾンの僻地まで行かないと参加できなかったアヤワスカの儀式・民間医療が、最近ではサンパウロでも参加できるようになりました。

アヤワスカはアマゾンで伝統的なシャーマニズムの儀式・民間治療に用いられている植物の抽出混合液です。難治性の精神病・薬物依存症等に劇的な効果が得られるとして世界で注目されており、多くのドキュメンタリー番組や映画などの題材としても取り上げられています。

アヤワスカはペルーの国家文化遺産にも指定されていて、南米では公的に認められた伝統文化です。古代遺跡のミイラからもアヤワスカの成分が検出されて話題になりました。古代アンデス人が向精神薬を使用していたという確かな証拠がミイラの頭髪から発見されたということです。

世間ではアヤワスカが単なる「ドラッグ」だと誤解され偏見を持たれているのですが、アヤワスカはいわゆる麻薬ではありません。南米諸国では完全に合法のものです。

アヤワスカの主成分であるDMTは元々人間の体内でも分泌されている極めて自然のものであり、毒性も依存性も皆無です。DMTには麻薬のような快感をもたらす作用がないので依存性がないのです。ですから「アヤワスカ依存症」などという人は存在しません。

DMTは主に第三の目と言われる松果体において分泌され、脳液・血液・尿など体液中にも微量含まれています。またDMTは死の直前に肺で大量に作られることも確認されており、臨死体験とも深い関りがあると見られています。

DMTを含む植物は世界中に広く自生しており、その植物自体の栽培・所持・販売などを規制している国はありません。というか現実的に不可能かつ無意味です。

ただし日本を含む多くの国でDMTは指定薬物になっており、医療等の用途以外の目的での製造・輸入・販売・所持・使用等が禁止されています。ただどのぐらいの濃度まで抽出すれば違法になるのかなどの基準が明確ではないので、取締は現地の警察・司法の匙加減次第というところにならざるを得ない感じです。要するに体制側としては意識を変容させるものはすべからく禁止したいのに、DMTはあまりにも自然にありふれたものなので、厳密には取締りようがないのでしょう。

危険ドラッグの成分4物質を新たに指定薬物に指定 |報道発表資料|厚生労働省

しかしアヤワスカのような明らかに意識変性目的のDMT抽出物を自作・購入したり、海外から国内に持ち込んだりして、もし見つかれば逮捕されるでしょう。そしてもし逮捕されれば被雇用者であれば拘留中に解雇される可能性が高いでしょうし、特に今はアヤワスカ裁判中で世間の注目度が高く、ニュースになって有名になってしまえば世間体が悪く再就職も難しくなるでしょう。現段階では日本でアヤワスカやその疑似物を使用することは避けるべきだと思います。

確かにお酒と同じでアヤワスカも使い方を間違えれば危険なのは間違いありませんから、意識を変性させるものですから麻薬に準じた扱いがされてしまうのも無理はないでしょう。ただそれによりアヤワスカによる民間医療・儀式まで厳しく規制されてしまうことは非常に残念な限りです。

日本人でシャーマンを自称する人たちが金儲けのためにアヤワスカやその疑似物(アカシア茶など)その他の幻覚剤を販売したり、秘密裏に儀式を執り行ったりしていますが、それにより発狂したり自殺したりした人も出ていると聞きますし、やはり日本で儀式を行うのはおすすめしません。アヤワスカの儀式を執り行うには、知識と敬虔さが不可欠のものなのです。それらがない人達の元では決して儀式を受けないで下さい。

基本的にシャーマンというのは資格のある肩書ではなく、ブラジルで「私はシャーマンです」なんて言う人に僕は会ったことがありません。「あなたはシャーマンですか?」と聞かれれば、自負のある人は「そうです」と答えるでしょうけども、そういう仕事をしていれば相手はすぐシャーマンだとわかるわけで、わざわざ聞く機会もありません。わかりやすく言うと、例えば「良い人」というのは受け手側の印象であって本人の特質ではないでしょう。それを他人から言われるのは結構な事ですが、自分で「自分は良い人です」などと自称すれば、その時点で「何かを企んでいる・怪しい」と思われるでしょう。そこは「シャーマン」も同じだって事です。実際シャーマン自称者というのは金・エゴ(他人を意のままに操るなど)を目的としているのでしょうから、近寄らない方が無難です。純粋な思いでシャーマンをやっているような人が自称するわけないのです。(僕は絶対自称しません)

さて、日本の警察・官僚・政治家はアヤワスカを医療効果等の十分な検証もなく、偏見のみで、面倒を避けるために(それは酒・タバコ産業の既得権益を守るためでもあるでしょう)麻薬として一律で規制してしまっているのが現状です。

ブラジルにおいてアヤワスカは建前上「伝統的宗教儀式に用いる場合に限り」合法とされていますが、普通に路上で売られていたりしますし、ネットなどでも買うことができます。そのようにアヤワスカがほぼ野放しの状態になっていても、悪用・乱用されているという話はほとんど聞いたことがなく、少なくともアヤワスカによって社会混乱などは起きていません。日本でのアヤワスカ・シャーマニズムの現状を見ると、まだ日本で解禁されるには時期尚早だと思われます。

アヤワスカは実際に飲んでみれば神聖なものだとわかるものですし、強い吐き気も伴うものなので、遊び目的で使われるような心配はまずないのです。もしただの幻覚遊びが目的なら、LSDのように安価で簡単に入手できてしかもごく少量で効いて吐き気も伴わないもの(その上体内からも検出しにくくて使用罪での逮捕が困難)があるのですから、わざわざ吐き気などの苦しみを伴うアヤワスカを選択する理由などないのです。

アヤワスカのお茶はすこぶる不味く「特濃の腐ったコーヒー」といった感じのひどい味がし(臭いはそれほどキツくないのが救いですが)服飲するとほとんどの人は猛烈な吐き気を催します。この尋常ではない不味さと吐き気が通過儀礼のような感じで、LSDなどのように遊び目的で使われたり中毒にならないよう防護壁になってくれている気がします。スピリチュアル的には嘔吐により心身が浄化されると考えられています。

アヤワスカは服用後15分から30分程度で効果が現れ始めます。いわゆる変性意識状態となり、多くの場合はヴィジョンと呼ばれる極彩色ジオメトリーの幻想的な世界が見えます。

松果体は世界を認識するためのアンテナのようなものであり、DMTによって受信周波数が変わり、我々が共通して見ている現実世界のチャンネルから、それと並行して存在している上位次元の世界にチャンネルが切り替わってしまうのでしょう。

私は初体験した時「世界はこんなにも美しかったのか」と見とれてしまっていました。私個人の脳が持つ想像力でそんなに美しく複雑な世界が作り出せるわけがないので、間違いなく外からいただいているものだと思います。僕は数年前にカメラマンをしていたのですが、こんな美しい世界は写真には撮れないと思ってカメラへの興味をなくしてしまいました。写真でも絵でも3Dグラフィックでも厳密に表現することは不可能でしょう。

アヤワスカを飲んだ僕の個人的な感想ですが、ハイヤーセルフとより直につながりを感じられるようになり、今まで人生で疑問に感じていた事の答えが自分自身から次々に教えてもらえる感じがしました。

そこから更に自我が消失して宇宙意識と一体であると感じました。自我は幻で、本当は全ての存在はつながっていて一つなのだと実感しました。世界=自分=他人だと。個性(自我)も時間(空間)もすべての存在が大海の波の揺らぎのようなものだと。それに気づいた時、自分や他人や全ての存在が等しく素晴らしいものだと心から感謝の気持ちが湧いてきました。自分の人生(運命・シナリオ)や個性(役柄)の良し悪しを判断したり、自分や他人を責めたり不平不満を言うべきではないと。ありのままを受け入れようと。

この感覚はいくら言葉で説明しても、実際に経験してみないと絶対にわからないでしょう。森羅万象に対し慈愛と感謝の精神を自然に持てるようになる感じがしました。

これらはあくまで個人的感想ですけども、多くのアヤワスカ友達が共感してくれるところです。

アヤワスカは基本的に自分自身と向き合うためのものであり、犯してきた罪への罪悪感と自己正当化意識が強過ぎてそれを最初から拒否しているような人には向きません。かえって悪化するケースもあるのでおすすめしません。自分自身と向き合う覚悟は儀式に不可欠のものです。

アヤワスカについては青汁王子など多くの人が記事や動画にしているので、見てみて下さい。実際に経験した人のレポートはほぼ全てポジティブな内容だと思いますが、もちろん全部は見てないので僕はわかりません。ネガティブな体験をした人の体験談や、体験もしてないのにネガティブな噂や偏見を撒き散らしている人もきっといることでしょう。どちらを信じるかは本人次第ですが、ネガティブな情報を信じる人はアヤワスカの神様に呼ばれていないということですから、僕は無理には勧めません。

アヤワスカ服用中は自分の思いがすぐ目の前に象徴的に現れる感じになるので、恐れればそれもすぐ具現化します。だから恐れない勇気を持つことが大事です。この世界は自分の心を映し出したものであり、すべては自分の心が生んでいるのです。

アヤワスカは麻薬であるどころか逆に難治性の麻薬依存症や精神病の治療において高い効果を上げています。アヤワスカには心の病の元になっている心理的外傷を癒す効果があるようです。私の友人でも何人かアヤワスカで長年患っていた難治性の鬱病や薬物依存が寛解しました。

そしてあくまで私個人の見解になりますが、心の病というのはそもそも科学的なものではなく、悪霊による霊障・悪業(カルマ)であると思います。アヤワスカが精神病に対して効果があるのはその除霊効果によるものだと思います。ちなみに私は無料ボランティアで祈祷・除霊もしいて、病気やケガを治したりしています。

ただ特にご注意いただきたいのは、統合失調症はアヤワスカの禁忌症だということです。それは既に自我を霊障に奪われている状態のため、アヤワスカによって自我から離れると余計にそれを助長してしまうのでしょう。悪化する危険がとても高いので、残念ながら統合失調症の気がある方はお断りさせていただいています。

現代の薬物治療中心の精神医療は、患者を精神薬等で一時的に良くなったと錯覚させて脳を壊し、一生薬なしではいられなくさせて金を貢ぎ続ける奴隷にしているのではないかと私は疑いを持っています。もちろん重度の精神病患者に一時的な薬物治療は必要悪のものでしょうけども、それによって薬がないと社会生活が送れないかのように依存状態にさせるのは間違っていると思います。それについては質問箱の記事「精神病・精神医学について」にも書きました。

アヤワスカの効果は個人差が大きく、人によって体験することは様々違います。本人の気質に加え、儀式を行うシャーマンとの相性や力量によっても変わります。様々な要因によって現れる効果が異なるので、前もって「必ずこうなる」と予想する事はできません。

ですから誰でも最初から確実に高い効果を得られると保証することはできません。前述したように難治性の薬物依存や精神障害にも著しい効果が見られるケースが多いですが、あまり効かないケースもあります。特に長年患っている場合は効果が出るまでに時間がかかったり、好転反応が強く出ることもあります。ですからそういう場合(長期の薬物依存や精神障害)の人がアヤワスカによる改善を求めるのであれば、かなりの覚悟と忍耐が必要になります。僕の友人で薬物依存から寛解した人は、2週間毎日アヤワスカを飲むプログラムを耐え切りました。

アマゾンの伝統的な民間医療では
・アヤワスカ(Ayahuasca、Ayawaska)
・ハペー(Rapé)アマゾンの植物由来の嗅ぎタバコ。
・サナンガ(Sananga)アマゾンの植物由来の目薬。
・カンボ(Kambo)アマゾンのカエルの分泌物由来の塗り薬。
の4点がセットになっていることが多いです。長くなってしまうので当記事では個別の詳細な説明は割愛しますが、いずれもデトックス&除霊的な効果があり、様々な病気に良く効きますが、またいずれも苦しみを乗り越えなければならないものです(儀式参加者の義務ではなく完全な任意であり、勿論断ることもできます)。

アヤワスカで最も注意が必要なのは、DMTが体内で分解されるのを防ぐためのモノアミン酸化酵素阻害成分(MAO-B阻害薬)が他の化学物質と深刻な薬物相互作用を起こす危険です。ですからアヤワスカ服用の際は最低でも前後二日間は薬の服用を避けなければいけません。特に脳内物質に影響のある精神薬は厳禁で、お酒や麻薬などはもってのほかです。どうしても飲まなければいけない常用薬がある場合は事前にご相談下さい。厳禁されている薬の種類はさほど多くはありません。

アヤワスカによる死亡・重篤事故はこの薬物相互作用によるものが大半だと思われます。精神薬や麻薬の依存症治療目的で来たのに結局断ち切れずアヤワスカと併用してしまう人や、アヤワスカの効果を高めるつもりで故意に麻薬や精神薬と併用する人などがごく稀にいるのでしょう。あとは外国人の参加者に対して言葉の問題で事前の注意事項がよく伝わってなかったとか…。

このような事態を避けるためもあって、参加希望者には事前にシャーマンから薬の摂取禁止と様々な食事制限の指示(酒、肉、塩、砂糖、唐辛子などを数日間避けるなど)が出ます。※玄米とフルーツ程度にしておいた方が無難です。これは健康面における安全だけではなくスピリチュアル的な理由もあり、性行為等も数日間は禁止されます。

以上のようにアヤワスカは基本的な注意事項さえきちんと守っていれば大したリスクはないと思います。僕が600回以上、のべ1万人以上と儀式してきた中でも、アヤワスカで救急車を呼ばなきゃいけなくなるような事故を直接見聞きしたことは今のところ一度もありません。度数の高いお酒のほうがよっぽど死亡率が高くて危険だと思います。

ただ何事もそうですが、完全なノーリスクなどというものは存在しないということは肝に銘じておく必要があります。道を歩くのだって様々な危険があり、スポーツ・レジャー中や入浴中や就寝中に突然死する人もたくさんいます。お餅を食べるだけでも死ぬ人は日本だけで毎年数千人いるのです。参加は完全に自己責任であり、万が一のことがあっても基本的に何の補償も得られません。

サンパウロでのアヤワスカの参加料金の相場は一回R$120±30ぐらいです。今なら日本円で3000~5000円程度です。しかしこれは週末にみんなと受ける儀式の場合で、平日は通常個人向けにやってもらうことになり、料金はR$400ぐらいになります。今なら日本円で13500円前後です。

サンパウロは都会で便利ですし、基本的に日本にあるようなものはだいたい手に入ります。日本食のレストランや食材屋も充実していて、日本語の通じるホテルや病院もあるので、食事・体調のケアは安心です。気候も暑すぎず寒すぎずで快適です。前述した通り、意識覚醒状態では不安も拡張してしまうので、不安要素は少ないに越したことはありません。

アヤワスカと言うとペルーのサンフランシスコ村がメッカというイメージがありますが、かなりの僻地にあるのでそこに行くまでに時間もお金もかかりますし、気候は年中蒸し暑いです。そして街は不便かつ不衛生で、短い旅程で体調を崩したら大変な事になります。伝染病を媒介する蚊などの虫も多く、僻地なので医療なども充実してはいないでしょう。言葉も通じない外国で、しかも夜中のジャングルで儀式を受けるというのは不安にならない方がおかしいぐらいです。余程肝が据わっている人でない限り、初心者にはお勧めしません。

そしてペルーなどの会場周辺は儀式以外何もすることがなく、食事も日本人には合わなかったりします。何より儀式の料金自体も外国人旅行者向けだったりするので、みんなと受ける儀式でも日本円で一回1万円前後~数万円になり、セレブ向けの施設ではもっともっと高いそうです。どんなサービスを受けられるのか知りませんが、現地の物価を考えるとボッタクリ感は否めません。ペルー在住の日本人で儀式を行っている人もいるみたいですが、一週間で約60万円とのことで、そういう所で儀式を受けてカルマを積み合うのは、僕はお勧めしません。

イベントを主催するシャーマンによって儀式の方法・治療法・信仰している神々などは様々に個性があります。もし自分に合わないと感じたら無理に通う必要は全くありませんが、もし難治性の精神病治療などが目的であれば、一回目で自分に合わなくてもめげないで根気強く自分に合うシャーマンを見つけて欲しいです。

それと直接会ったことはありませんが、中には悪徳シャーマンもいるらしく何か事件もあったらしいと噂を聞いたりします。もしサンパウロに来ていただけるのなら僕が信頼できるシャーマンをご紹介できます。

サンパウロでは1週間~10日程度の旅程であれば僕が「アヤワスカ短期留学(修行)」ということでアテンドさせていただきます。言葉の通じない外国で知らない外国人と意識変性状態に入るのは不安もあるでしょうし、アヤワスカで経験したことを読み解いて解説できる経験豊富な僕が同行するのは(手前味噌になりますが)メリットが大きいと思います。

僕にアテンドを依頼される場合は、事前に確認すべきことが多いので、あらかじめWEBで面接させていただきます(お断りさせていただく場合もあります)。抱えている病気の症状にとってはかえって悪化させてしまう可能性がありますし、動機が不純だったりあまりに人間的に問題が多い方だとトラブルになる可能性が高く責任を負いきれないからです。

僕はアテンドは商売にするつもりはなく、片手間でしかも一人でやっているので、大人数には対応できません。ので、不特定多数の方に向けて応募をかけるつもりはなく、僕のnoteや質問箱を読んで共感・信頼していただける方からのアテンド依頼にのみ応じるつもりです。信念上「こちらはお金を払っているのだから〇〇してもらって当然」という考え方の人のためには死んでも働きません。

日本ーサンパウロ往復のエアチケット代(約20万円)を除き、約1週間の旅程の費用は、儀式代、同行費・宿泊費や交通費などの滞在費全て込み込みで20万円ぐらいが目安です。もしお金がなくて費用がネックなのであれば、もっと安く済ませる方法はあります。宿や食事を安いところにして、儀式も基本的に僕が自分の部屋で主催すれば、エアチケットを除くトータルの費用は10万円ぐらいに抑えられると思います。

アテンドで利益を上げるつもりはありませんが、こちらは修行中の身で手持ちはほぼなく、不測の事態により赤字を出すわけにはいきませんので、あらかじめ予想される滞在費の半分は米ドルにてお預かりさせていただき、そこから必要に応じてレアルに両替してお出しさせていただきます。今までも日本のカードがこちらで使えなかったり落っことしたりして大変なことになったことが何度かありましたので、どうぞご了承下さい。

アヤワスカの儀式は吐き気などがキツいので途中で逃げ出したくなるのが普通で、今までも儀式のドタキャンや逆に直前での予約というケースが多く、途中棄権の防止のためにも予めお預かりさせていただくことは不可避です。もちろん本人の意思を最大限尊重していますが、本人のためにも余程の事情がない限り基本的に週3回は参加していただきます。実際、終わった後はそれで本人から感謝されてますしね。ご希望の方には経験者の方にコンタクトをとっていただいて、直に経験・感想を共有していただきます。その方が安心できると思うので。とにかくあくまで「修行」というつもりで来ていただけると幸いです。キツいのが当たり前だと覚悟を持って来てもらいたいです。

またアヤワスカに過剰な期待をして「思った通りでない」などと苦情を言われても困ります。アヤワスカはその時その人に必要な導きを与えてくれるものであり、僕はその導きを手助けするのみで、「神は自らを助くる者を助く」という格言の通りで、結局すべては本人次第です。

基本的に全ては自己責任であり、僕はできる限りのことをさせていただく所存ですが、僕に旅行会社のようなサービスや事故等の結果責任・補償を求められても対応できません。

アヤワスカは南米の原住民たちが先祖代々大切にしてきた霊的で神聖な伝統文化です。今やネットでも簡単にアヤワスカ(及び類似物・DMT抽出物)が簡単に手に入る時代ですが、知識と経験があって信頼できるシャーマンがいない状況での使用は、医療効果が見込めないだけでなく、様々な意味でとても危険です。健康リスクとしても霊的リスクという意味でも。知識・経験のない人間同士で手を出すのは絶対に避けるべきでしょう。何より日本では法的リスクも高いので、現時点で日本での使用は(疑似物も含め)避けるべきだと思います。

また変性意識中に外出して何か問題を起こす人がいたり、他の薬物との相互作用を起こすなどして事件にでもなれば、ますますアヤワスカが世間で偏見を持たれてしまいます。それでもし南米でもアヤワスカが違法化の動きになれば、アヤワスカを伝えてくれたインディオたちからの恩を仇で返すことになってしまいます。それではマリファナの二の舞です。皆さんにアヤワスカという神聖かつ貴重な伝統文化に対してリスペクトを持っていただけたらなと願って止みません。悪用・乱用は絶対にして欲しくないですし、アヤワスカがLSDのようにサイケデリック系という感じで一括りに語られることには個人的にとても憤りを感じます。

アヤワスカはこの世界の真実の姿を見せてくれる、MATRIXのレッドピルのようなものではないかと私は思っています。あなたが一刻も早く真実に目覚め、この物質世界という魂の牢獄から出られることを祈っています。

※当記事はあくまでも僕が自身の体験を元にした個人的見解ですので、興味を持たれた方はぜひご自分でも調べてみて下さい。

2023年7月25日火曜日

なぜ「創造主教」を作らないのか?

【質問】性別・年齢不詳
はじめまして。

真也さんは創造主の声を聞いているとおっしゃっていましたが、それであればなぜ色んな宗教を同時に信仰されているのでしょうか?

また真也さんは創造主とどのようにしてチャネリングされているのでしょうか?

そして真也さんはご自分の宗教「創造主教」のようなものを作るご予定はあるのでしょうか?また政治家になったりはしないのですか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。

あははははは・・・・。とても面白いご質問ですね。

僕らは創造主の創りし壮大な神話の舞台に立っている役者のようなものです。創造主というのはその舞台における監督であり劇作家みたいなものですね。

舞台において役者である我々が困難な場面に直面した時に「監督様、助けて下さい!」「劇作家様、もっと幸せなシナリオにして下さい!」などと劇中でお願いしたら、監督・劇作家・観客はどう思うでしょうか?きっと興ざめでしかないでしょう。

この人生という物語は神話の舞台なのですから、役者である僕らはこの劇中においては劇作家ではなく彼の作った劇中の神を信じ、学び、祈らなければ物語になりません。

それがおわかりいただければ、僕が既存の諸宗教を信じて学んでいる理由も、新たに「創造主教」のようなものを作る気が全くないこともおわかりいただけるかと思います。

この物語の創造主(監督・劇作家)に対して僕らができることは、役者として物語を楽しみながら・物語を与えられたことに感謝しながら、配役(使命)を全うすることだけです。

あらゆる宗教は我々にヒントを与えて導くためのものであり、答えそのものではありません。一つの宗教を答えそのもののように考えて妄信しては道を誤るのが必然なのです。

僕の使命はすべての宗教に通じる真理の探究であり、それによって世界中の魂を救い、物語を完遂させることです。新たな宗教を作って乱立する宗教の一つとなって「教祖様」などと崇められながら偉そうに説法して信者をお金儲けと権威誇示のために利用することではありません。

そしてこの使命はきっと他人事ではなく、あなたにとっても同じなのです。もしあなたが脇役NPCではなく主人公として生きるのであれば。

創造主は全知全能・完全無欠の存在であり、個性というものがなく、「自」と「他」という概念すらがなく、全ての存在が本当は創造主自身なのです。それは我々もそうですし、神々や悪魔たちもそうですし、宇宙のすべて・森羅万象のすべてがそうです。それらはすべて「人生」という物語を生み出すための幻の如きものなのです。

個性というのは欠点や過ちと不可分です。欠点があるからこそお互いに必要性が生じ、過ちがあるから許し合うことができ、愛し合うことができるのです。

創造主は何も欠けたものがないので、必要性自体が生じません。だからこそ創造主は我々にただ与えるだけの偉大なる贈与者なのであり、僕らは感謝する以外に創造主のために直接的にできることはなく、もしその感謝を形にするのであれば、欠けるものがある存在として生まれた神々や人々に奉仕して、その欠けたものを埋めてあげることのみです。

個性(欠点や過ち)があるのは、遥か上位次元の神々であっても同じ事です。神々でさえも個性があり、欠点もあれば過ちも犯すのです。まして人間が作った宗教団体であれば言うにも及びません。完全無欠であれば存在意義を失うのです。

神々の欠点や過ち、宗教の欠点や過ちを理由に信心を持たないというのであれば、信心を持つことは不可能です。多くの人がそのようにして神々や宗教の欠点や過ちを理由に信心を持とうとしませんが、それは宗教について学ばない怠惰な自分の自己正当化なのです。

完全無欠の創造主が物語中に登場しては、誰もそれを「信じない」という選択肢を持ちようがありませんから、信心に意味・価値はなくなります。「信じる」ということを価値ならしめるために、創造主は人間が神を信じないように、むしろ宗教など信じる人間は気違いだとすら思わせるようにこの舞台を設定しているのです。その初期設定通りに信心を持たないままであれば、人生の主人公にはなりえないのです。宗教の欠点や過ちが気に入らないのなら、自分が様々な宗教を学んでその欠点や過ちを補えば良いのです。

僕は政治家になるつもりは全くありません。権力に近づくこと自体を考えていません。もし僕や誰か良い人が政治家になれば、あなたが努力しなくても世の中が勝手に良くなっていくとお考えなのならそれは怠惰であり、主体性(主人公)の放棄(NPC思考)です。

政治(権力)というのは強制力であり、真理ではないからこそ強制力が要るのです。そして権力を手にした人間は正義を盾前にしながら必ずエゴのためにその権力を使うのです。金は権力の分譲券ですから、それを手にした人間がそのほとんどをエゴのために使わないわけがないとわかるでしょう。

例えどれだけ世の中を良くしようと考えている人でも、その理想を政界において実現するためには権力を握らなければならず、権力を握るためには支持と金を集めなければならないと考えるでしょうし、そのためには支持者のエゴを満たさなければならず、己の欠点や過ちを隠し嘘をついてでも多くの人の支持を得なければのし上がれません。そうしているうちに権力に溺れ、のし上がったらのし上がったでその権力を全くエゴのために使わないということはありえず、正義は建前に過ぎなくなってしまうのです。僕はそれを予めわかっているので、権力を求める(政治家になる)気はないのです。

もしあなたが本気で「政治を変えれば世の中が良くなる」とお考えなら、ぜひ好きな政治家の選挙の手伝いでもしてみて下さい。きっと如実に現実がわかりますから。政治が世の中を良くするのではなく、世の中が良くなれば政治は連動して勝手に良くなっていくのです。

真理というのは体験を通じて理解さえすれば自発的に従う以外の選択肢をなくすものであり、強制力など要らないのです。真理というのはそれは見つけた時点で勝利は確定しているようなもので、あとはそれを実践を通じて伝えていくのみです。

逆に何かを他人に強制すればたとえそれが真理であっても伝わらないものなので、あくまでも相手に自由に選択させなければならないのです。ガンジーの非暴力・不服従運動でも、もしそれが他人から強制されるようなものだったら成功はしなかったでしょう。

電車の(乗客の)ドアは左右に作られ、前後には作られません。それは前後に(乗客の)ドアを作ってはいけないという法律があって会社がそれに従っているわけではなく、それが道理だと知っているからです。前後に(乗客の)ドアがあっては乗客が牽かれてしまうリスクが高くなりますからね。しかし人類という列車はそのようにして同胞である乗客を轢き殺しながら進んでいるのです。僕らはその愚かさに気づき気づかせなくてはいけません。

僕に助言を与え導いてくれている創造主は、自らが「創造主である」と名乗っているわけではありません。この世界を創造した存在でなければ知り得ないことを教えてくれているから僕が便宜上その存在を「創造主」と呼んでいるだけです。それは名前ではありませんし、その存在の呼び方・解釈の仕方は「至高者」「ワンネス」「宇宙意識」「サムシング・グレート」など人によって様々であり、別に統一する必要はないと思います。そして彼は存在のすべてであって姿・形があるわけではなりません。きっと創造主は僕に僕より上位次元の存在(ハイヤーセルフ)を通じて語り掛けて導いてくれているのでしょう。

僕は別にチャネリングのような、何か特別な手法を通じて創造主とつながっているわけではありません。そもそもすべての存在が創造主自身なのですから、創造主と繋がっていない存在などありません。違いはその繋がりを感じられるかどうか、その導きに従えるかどうかです。

僕が他の多くの人より創造主との繋がりを感じられるようになったのは、きっと他の多くの人よりエゴから離れられたからだと思います(自殺未遂を機に、全財産と仕事を放棄し、奉仕のために生きる決意をしました)。そして与えられた苦難に対し、自分や誰かを責めるのを同時に止め、感謝するようになったからだと思います。そして全知全能の創造主は僕が主人公(衆生・世界を救うメシア・菩薩)として目覚めることを最初から知っていたからだと思います。

敢えて「手法」というならそれですが、それ(自殺未遂、全財産放棄、完全無償の奉仕、主人公・救世主としての目覚め)を世のみんなに求めることはできませんし、創造主とのチャネリングなどという「結果・見返り」を求めてそれをするのは間違っていると思います。(ので、きっとうまくいかないと思います)

僕と同じ事をして「創造主と全然繋がれないし救われない」などと苦情を言われても困りますし、またそこまでやらなければ創造主とは繋がれないなどと誤解を受けても「自分はそこまでして覚りなど目指そうとは思わない」となるのが目に見えていますから、他人に僕と同じことをするように薦めることはしていないのです。特にイチかバチかみたいな感じで自殺を決行されることは絶対に避けたいですし。

だから僕にとっては「手法」的なことを教えることよりも、僕が創造主からいただいた貴重な覚りをどう人に連鎖させていくか、それの方が大事なのです。そして主人公として目覚めさせることはその根幹です。

質問箱には「真也さんから教わるより、創造主から直接教わりたい」という感じの御意見もよくいただき、そのお気持ちはよくわかるのですが、僕がみんなの代わりに大変な思いをしながら覚りをいただいているのですから、全財産放棄とかそんなことまでしなくても創造主から僕を通じて覚りについて教えてもらえるということに対し、できれば感謝の気持ちを持っていただけると幸いです。

何より「悟りとは何か?」に書いた通り、答えは結局自分が経験を通じて自分で出したものでなくては意味がありません。他人に聞いて済ませようとするのは怠惰であり成長の放棄なのです。僕らは魂の成長のために生まれてきているのですから、成長に反するベクトルはすべからく不幸に導かれるように世界は創られているのです。お互い成長を目指して頑張りましょう。

2023年7月23日日曜日

悟りとは何か?

【質問】20代前半・男性
真也さんこんにちは、田中と申します。

ブログやnoteを読ませていただきましたが、結局悟りとはなんですか?また、巷でよく言われる目覚めとの違いを教えて下さい。

非二元やらスピリチュアルで様々なことが言われているので、結局悟りが何のことかわからなくなってしまいました。回答のほどよろしくお願い致します。


【回答】
 ご質問ありがとうございます。そしてnoteや質問箱を読んでいただきありがとうございます。僕は20代どころか40代になるまで「悟りとは何か?」なんて探究したことはなく、田中さんはとても知性の高い方だとお見受けします。

「悟りとは何か?」それは究極の問いですね。

「悟り」は「覚り」とも書きます。つまり悟りとは目覚め(気づき)と全く同じことです。もちろん何を悟り何に目覚めているかは人それぞれですし、巷でそれがどう言われてるのか僕は知りませんけども。

「悟りとは何か?」を言葉で説明するのは、眠っている人の夢の中で「目覚めとは何か?」を説明して目覚めさせるが如くであり、とても困難な上に実際あまり意味はないのかも知れませんが、全力で目覚めに導きますのできっと最後までついてきて下さいね。


僕が普段「さとり」を「悟り」ではなく敢えて「覚り」と書くのは、「悟り」という言葉に固定化されたネガティブなイメージがあるような感じがするからです。何か尋常じゃない厳しい修行が必要で、きっと大多数の人からすれば「他人事で自分には関係ない」ってイメージなのでしょう。

そして「自分は悟っている」みたいな感じの人に対しては「まだまだ全然煩悩まみれのくせに一人で勝手に(小乗的に)悟った気になっている」みたいな「偉そう」「気取った」「いけ好かない」「面白くない」「真面目腐った」「説教臭い」「辛気臭い」「抹香臭い」といったとにかくネガティブな感じがして、無視か否定かをせずにはいられなくなってしまうのでしょうね。

それは僕がこれまで覚ってきたこととはまるで真逆のイメージであり、僕自身そのような固定観念で他人からニヒルな目で見られて粗探しをされて、エゴに埋没して全く覚ろうとしない人たちの自己正当化のために小バカにされることを好まないので、「悟り」より「覚り」と書きたくなってしまうんです。

「さとり」は真理を目指す経験・成長の道であって、答えそのもの(ゴール)ではありません。そして「さとり」というのはこの世界にログインしている人全員が例外なく目指すべきものであり、無明の闇を照らす一筋の光の如きものです。それは人生という航海を明るく・楽しく・面白く・幸せへと導く灯台の明かりなのです。もしそれを目指さないというのなら人生は無明の闇の中を彷徨い、不幸へと導かれることになるだけです。

そして覚り+悟り=覚悟であり、「さとり」とは「覚悟」を持つことがスタートです。それはどんな覚悟でしょうか?それは衆生(世界)を救う主人公(メシア・菩薩)としての覚悟です。仏教ではそれを菩提心と言います。人生はRPG(ロールプレイングゲーム)なのですから、主人公として目覚めなければ自分はNPCでしかなく、ゲームが本当の意味でスタートしないのは当たり前です。

また「さとり」とは「差取り」でもあり、すべての存在は一つ(ワンネス・非二元)であるという真理に向かっていくことが「さとり」なのです。そのゴールが悟りの彼岸(真理への到達)ということになります。

より悟りが進んだ側からは相手がどれだけ悟っているかがよく見えますが、自分よりも悟りが進んでいる側がどれだけ悟っているかは決して見えません。大学生は小学生の勉強の進捗をすぐに見抜けますが、その逆はあり得ないのと同じです。相手がどれだけ悟っているかわからないのに、悟っている風に見える人から教えて貰えば自分も悟れるだろうという考えは安易なのです。悟りは説明すれば手渡しにできるようなものではなく、また説明されれば悟りが得られるのなら人生経験に意味はなくなります。

人生はRPGそのものであり、この仮想現実・ネットゲームにログインしている時点であなた(自分)が主人公です。そしてゲームにおける他人の進捗は意味がありません。覚りというのは他人と進捗スピードを競う競争ではなく、先に覚った方が偉いとかそういうものではないのです。RPGの価値は自分が主人公の成長の物語を楽しめるかどうかです。

あなたがオシッコを我慢している時に、僕が替わりにトイレに行っても意味がないように、他人である僕がどれだけ覚ろうと、主人公であるあなた(自分)が経験を通じて覚らなければ意味がないのです。

登山だって自分が苦労して頂上を目指して登るその経験に意味があるのであって、僕がいくら自分が上った山の頂上の様子を今登山中のあなたに語ってもあまり意味がありませんし、ましてヘリで頂上まで連れて行くのは迷惑でしかないでしょう。

もちろん僕も人間(プレイヤー)の一人であり、全知全能などであるわけがなく、あなたよりほんの少しだけゲームを先に進めているかも知れないというだけであって、まだまだ覚りの道(ゲーム)の途中です。欠点や過ちも数えきれないほどあります。

それでも僕がこれまで覚らされてきた真理を全部説明するとしたらものすごく長くなる上に、結局は同じレベルまで覚れている人にしか理解されることはないでしょう(だから全部書くのは億劫です。長くなり過ぎて殆ど誰も読みさえしないでしょうしね)。まぁあなたにとって僕はNPCなのですから、僕の覚り(ゲーム)の進捗はあまり気にしないで下さい。

僕らは「真理(答え)とは何か?」を「自分が」経験して覚るために生まれてきています。どんな真理(答え)も経験を伴わなければそれは概念に過ぎず何の価値もありません。全ての真理(答え)を知る全知全能の創造主にとって真理(答え)自体には何の価値もないのです。だからまず「経験(人生)が真理(答え)を価値ならしめる」ということを大前提として知っておいて下さい。「愛」という真理にしても、経験が伴わなければそれは言葉に過ぎません。創造主はそれを経験して知るために大変な苦労をして我々とこの世界を創り運営しているのです。

創造主は真理(答え)への道を無数に用意しています。そしてあなた(自分)という主人公だけにアレンジされた貴重で尊いシナリオを用意してくれているのです。それをNPCである他人のものと比べても意味がありません。その無数に用意されたシナリオの中から、あなたはより素敵なシナリオ(成長・学び・覚りの道)を選ぶ権利(自由意志)が与えられているのです。それなのに自分が主人公であることにさえ目覚めようとせず、常識とエゴに埋没しながら人生を終えるとしたらそれはとても残念なことです。

今のあなたはまだ真理(ワンネス=すべての存在は一つ)という答えだけを他人である僕から聞かされてもまず理解できないでしょうし、理解したところで受け入れられないでしょうし、受け入れられたところで「へー・・・」という感じで何の感慨もないでしょう。まだ主人公として目覚めていない・物語(経験)を進められていない段階のNPCにとって真理(答え)というのはそういうものであり、実践経験を伴わない「さとり」はただの言葉であって何の価値もないのです。

ネットは便利で僕も大好きですが、そこにはあなたにとって自身の経験を伴わない伝聞情報しかありません。そして経験もなしに伝聞情報を集めることは自分のネガティブな思い込みを強化し、経験・失敗を恐れて臆病・怠惰になってしまいがちです。

もちろん伝聞情報を参考にすること自体は必要悪であり、宗教や科学など知識を得ることは人生の楽しみであり大事なことではあるのですが、真理(答え)までネットで探し、既に悟っているっぽい人に質問すればそれがわかるかも知れないと考えているのならそれは「さとり」というものを根本から誤解していると思います。真理を誰かに聞いて全部わかるぐらいなら世界は最初から救われていて、それはゲームの電源を入れるなりエンドロールになるようなもので、プレイ要素がなく無意味です。

真理(答え)を伝聞情報で済まそうとするのは、自分が経験して知る覚悟・主人公として物語を紡ぐ覚悟を放棄した怠惰であり、成長の拒否なのです。それはテストで答えだけをカンニングして済まそうとするようなものであり、たとえ答えが合っていたとしてもそこに至るまでの自分で考えた過程が書かれていなければペケなのです。

「悟りとは何か?」という問いは人生という大学における共通の卒論テーマのようなもので、いくら他人の意見を参考にしても問題ないのですが、書いて提出するのはあくまでも主人公たる自分であり、教授・試験官は全知全能の創造主なのですから、他人の意見を丸写しにして提出したら即バレであり落第は確実です。

そして以前の僕のように「自分は覚りなど目指していないから関係ない」と、卒論(覚り)の存在すら否定したところで、ひたすら落第を繰り返し(輪廻転生)、課題(カルマ)を重くし続けていつまでも卒業できなくなるだけです。

人生というのは誰にとっても「目標さえわからないままいつの間にか始まっている航海」であり、与えられている羅針盤は生まれた環境における常識でしかありません。そしてその羅針盤(常識)は一面真理のように思えて必ず間違っているものなのです。常識(初期設定)が正しいのなら人生というRPGのゲーム性はゼロです。

初期設定(常識)を知ることはゲームの大前提ですが、物事をいつでも他人を基準にして考えるのが当然と考えて常識を妄信していては主人公になり得ず、NPCとして人生を送るしかなくなります。真理(答え)とは悪しき常識の海の中に隠されているからこそ見つける喜びがあるのです。もしも真理(答え)が常識(初期設定)で、みんなが経験・成長なしにそれをわかってしまうようなら、人生は真理(答え)を探す経験・成長の物語にはなりえず、生きる意味がありません。主人公である自分の存在理由がなくなりますからね。

ただ常識というものは間違いでありながら、誰しも一応は納得せざるを得ないような一面の真理であり、それはちょうど一面だけ揃ったルービックキューブのようなものです。

もしもそれが誰でも間違いであると気づけるようなものであれば常識には成り得ず、舞台設定として成り立ちません。他人(NPC)たちがみんなそれを真理であるかのように思い込んでいるからこそ、それを覆す主人公(自分)の物語の舞台設定が成り立つのです。

その「一面真理に見える間違った常識」の最たるものが、みんながエゴ(我欲・保身・虚栄)のため金のために生きているのだから自分もそう生きるのが当前だという考えです。これは本当の真理(愛・ワンネス)とは真逆にあるものですが、NPC達はみんなエゴのために生きることを常識として疑わず、故にみんな責め合い争い合い奪い合って、結局それでみんな鬱っぽくなって不幸な方向に進んでいます。そこであなたという主人公が真理(愛)が何であるかかを悟り、説明ではなく実践を通じて彼らを導かなければならないのです。それはこのRPGのシナリオ上の必然なのです。

愛・ワンネスが真理だと言われても、当然あなたも周囲の人もそれを信じられないのが初期設定です。僕らはこの物質・肉体次元にいる限り「自分と他の存在は別なものである」という分離意識から完全に離れることはできないのです。だからこそ僕らは人生を通じて愛・ワンネスを全力で目指し続け、その過程に経験・成長の物語を生み続けることができるのです。

僕らは一般的に男女愛のような「条件付きの愛」を愛だとイメージしていますが、「条件付きの愛」というのは本物の愛とは真逆にある概念「エゴ」なのです。本物の愛というのはすべての存在(ワンネス)に対する慈愛なのです。我々はこの物質次元・肉体次元にいる限りエゴから完全に離れることはできませんが欲は悪いものですか?に書いた通り、エゴがなくては愛は存在意義がないのです。愛とエゴは磁石のSN両極のようであり、コインの裏表のようなものなのです。愛が僕らをつなぐ引力であり、それが存在するためにはエゴ(我欲・保身・虚栄・分離意識)という反発力が必要悪のものなのです。エゴが愛を価値ならしめる物語を生んでいるということです。


愛とエゴだけでなく、この次元においてすべては陰陽二元的にしか存在しえないのです。なぜすべてが陰陽二元的に作られているかというと、この世界(人生)は存在意義(存在価値・存在理由)を生むために作られたものであって、一元の点では位置が確定できない=価値が確定できない=存在意義が確定できないからです。

すべての存在が陰陽二元的に存在するこの世界を愛一元(非二元)に変えていくことこそがワンネスに向かうということです。それは粉々に砕かれた磁石がまた数珠つなぎに一つになるようなものです。ただ単に完全な一つの塊(創造主意識)に戻ってしまっては我々に存在意義はありません。我々はお互いの個性を尊重し、個性を保ったまま愛により数珠つなぎに一つになっていく、その過程に物語があり存在価値があるのです。そしてそれは流れる砂絵のように永遠に繰り返されるのです。

人生という真理を探す(悟りを求める)真夜中の航海において、他人(NPC)たちはみんな他人を基準にして考えて自らこさえた常識に流されて漂流しています。それが舞台設定なのですから当然です。その無明(エゴ・愚かさ・迷い)の闇の中で、目印とすべき北極星こそが真理(愛・ワンネス)であり、羅針盤は幸福(心からの笑顔)なのです。

先にある究極の答えがワンネス(本当は出会う人みんなが自分自身である)だと見通し、常に自分から実践を通じて出会う人みんなに愛を伝え、お互いが心から笑顔になるように思考し行動するなら、決して大きく道を誤ることはないのです。

真理(ワンネス)は目指すこと自体に意味があるのであり、この物質・肉体次元においては絶対に完全には到達できないものです。だからといって覚りを最初から諦めるのは、船で北極星には辿り着けないから目指さないと言うようなものです。

自分も他人も幸せにならないようなネガティブな覚りは確実に間違いであり、それは大抵は心の傷が原因で、自らの臆病・怠惰の言い訳・自己正当化なのです。そして「自分は正しい」と思えばそれ以上の成長はなく、成長を放棄しているも同然で、不幸に導かれるのは当然です。人生というRPGは魂の成長のために存在しているのであり、成長に反して幸せになれるように設定されているのなら、誰も成長しようとはしないでしょう。

創造主はわざと人間を無明の闇(エゴ・愚かさ・分離意識)の中を彷徨うようにして・常識通りに生きれば不幸になるように初期設定して、本人が覚りを進めれば進めるほど幸せになるように人生・世界を初期設定しています。そうでなくては経験・成長・覚り・真理に存在意義がありません。

宇宙の仕組みに書いた通り、自分で作ったRPGは全てを忘れ、レベル1からスタートしなければ楽しめません。無明(エゴ・愚かさ・迷い)分離意識(自分と他の存在は別のものである)という幻が与えられているからこそ僕らは人生というRPGをプレイヤーとして楽しめるのであり、本当は自分こそがクリエイターでありすべての存在は一つ(ワンネス・創造主意識)という真理を完全に認識できてしまったら物語は成立しません。だから僕らはそこには絶対に至れないようにプロテクトがかかっているのであり、それゆえに僕らは愛によってワンネスを全力で目指すことができるのです。

覚りというのは無数に段階があって、スタートは人それぞれですし、今現在も人それぞれ違う段階にいます。それはロシアのマトリョーシカ人形のようなもので、自分は目覚めた・悟ったと思っても、それはまたより大きな覚りの内側であり構成要素なのです。(それでも真の覚りを目指すのだ!というのが般若心経の最後のマントラの本来の意味です)


でもたった一つ殻を破れただけで人はすぐ「自分は目覚めた・悟った」などと言います。それが喜びなのであればきっとベクトルは間違っていないのでしょうが、それは法華経の化城宝処のようなものであり、真の覚りがあまりにも遠いために途中で挫折しないように、神仏は我々が何かを覚って一回り大きくなる度に、まるでゴールにたどり着いたかのような喜びを与えてくれて、真の覚りへと導いてくれているのです。

何かの覚り(気づき)を得た時の喜びに浸ることも、その覚りをシェアして他人を導くことも良いことなのですが、自分が既に真の覚りを得たかのように慢心したり、他人に偉そうに語って自尊心を満たそうとしたり、覚りを金儲けなどの自己利益に利用しようとするのは覚りの道と逆行したものであり、自分だけでなく他人まで真の覚りから遠ざけ、それだけカルマを積むんで後から清算させられることになります。

例えばただこの世界が仮想現実であることに気づいただけで既に悟りを開いたかのように勘違いし、その存在理由などが全然わかってないまま真の悟りから遠ざかっている人や、引き寄せの法則のような法則性を理解したつもりになって、本質をまるで理解していないままエゴの願望を引き寄せようとしたり、またその法則を人に教える事でお金儲けをしようとする人がいますが、そういう人を覚者だと誤解して頼ってはいけません。ワンネスが真理なのですから、自分や誰か特定の人だけが得をして、誰かが犠牲になり損をして不幸になるような考え方が真理であるはずがないのです。

人間にとって世界はわからないことだらけですから、人間は何かを信じることと無縁ではいられません。何も信じていないという人は、自分が他人を基準にして築き上げた自分勝手な常識を信じているという自覚すらがないだけです。何を信じるのか?それを決める主体こそが「自分」という存在なのです。

真理というものは万能であり、覚りが開けて真理に近づいてくると、何についても本質が見えるようになります。だから覚りが開けるほど、お金というシステムが覚りとは相反するもの・克服すべき課題(初期設定)だということが見えてきます。

人間の行動の動機には2種類しかなく、愛とエゴだけなのです。人がお金を欲しがるエゴを原動力とすることが前提なのが資本主義であり、主人公はそこから愛を原動力とする社会をへ自分から実践を通じて実現していかなければならないのです。できるかどうかではなく、目指そうという覚悟が大事なのであり、その実現過程に成長の物語があるのです。

お金というのは権力(強制力)の分譲券であり、真理ではないことを他人に押し付けるためにあるものです。真理であれば自分がそれを実践する事で相手にそれを真理だと悟らせることさえできれば、相手は自発的に従う以外の選択肢をなくすような絶対的な理なのです。だから強制力が必要な時点でそれは真理ではなく、また真理であっても強制したらそれは真理ではなくなってしまうのです。お金は権力の分譲券なのですから、それを嫌な事を我慢してまで欲しがれば欲しがるほどお金は力を増し、権力者の権力を増してより嫌な事を他人から強制されるようになり、愛(真理)から遠ざかってしまうのが定めなのです。

というわけで「悟りとは何か?」
それをまだ若いあなたが全然わからないのは当然のことであり、それは自ら経験・成長して知るべきことなのだとわかっていただけたでしょうか?その「悟りとは何か?」を自ら経験して知る人生という物語は、その道程に必ず苦難(課題)を伴うのですが、おぼろげでも北極星(真理・ワンネス)の方角がわかり、進むべきベクトルさえ見えていれば、必ずその苦難(課題)を乗り越えて成長し、人生が素敵な物語になることは約束されたようなものなのです。

2023年7月9日日曜日

「引き寄せの法則」の真実

 【質問】20代後半・男性
引き寄せの法則について教えて下さい。


【回答】
ご質問ありがとうございます。

スピ界隈の人は本当に大好きですね「引き寄せの法則」(笑)でも僕はそれを聞く度にとても残念な気持ちになるのです。決して「引き寄せの法則」自体を否定しているのではありません。「引き寄せの法則」は確実にあります。でもそれは決してエゴのために意図的に利用するべきものではないのです。

あなたが引き寄せたい願望はどんなものでしょうか?恐らくお金持ちになりたいとか、社会的に成功して周囲から評価されたいとか、異性からモテまくりたいとか、何にせよそれはエゴ(我欲・保身・虚栄など)でしょう。

欲望は悪いものですか?に書いた通り、エゴの存在自体が悪いわけではなく、僕はそれをなくすべきだと言っているわけではありません。エゴというのは成長課題なのであり、それを乗り越えて愛を発揮するところに魂の成長があるということが言いたいのです。

「引き寄せの法則」を使ってエゴによる願望を思い込みの強さだけで引き寄せようとすることは、その魂の成長のベクトルと逆行するものであり、うまくいかないか、うまく行ったとしても器に合わない幸運を手にすることでカルマを積んでそれが借金のようになり、後々大きな利子付きで返済を請求されるかのどちらかです。

究極の真理はワンネスであり、すべての存在は一つ(創造主)なのですから、エゴによって「自分」という個体にだけ都合の良い現実を無理やり引き寄せようとすれば、ゴムを引っ張るのと同じで大きな反動が起きるのは当然です。もしあなたが「引き寄せの法則」を使ってうまく行っていないのなら、それは守られているのであり、むしろ感謝すべきかと思います。

「引き寄せの法則」を教えることでお金を稼ぐ人は多いですが、それは僕に言わせれば「情報商材詐欺」と何ら変わらず、確実にカルマを積んでいると思います。「思考は現実化する」で有名なナポレオン・ヒルからして著書で有名人にこそなりましたが、結局は全然お金持ちにも幸せにもなっていないですからね。エゴの願望を引き寄せたいからといってそういう人達にお金を払って教えて貰うのは醜く愚かなことなのだと知って下さい。エゴを目的に行動すると、自分より能力・権力を持った人間のエゴの餌食になるのは必然のことなのです。

人間というのは成長を楽しむためにわざと愚かに作られていて、我々はいつも原因と結果を短絡的に結び付けることによって法則性を見つけ、それを使って自己利益を期待し、成功したと思ったら例外を無視してその法則をこの世の本質であるかのように思い込みます。「引き寄せの法則」もまさにそういった類のものであり、それを利用しようとする人は思考が短絡的で本質というものが見えていないのです。なのでこれからその多くの人が見えていないこの世の本質について語ります。

僕がいつも言っていることですが、自分に都合の良いものなら赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも魂の成長のために与えられた課題だと信じて感謝しながら乗り越えていくことです。


どうか何かを望む前に、まず既に与えられているものの価値に気づいて下さい。存在し、経験し、愛せるということの価値に。何かを望むということは、基本的に現状に対して不平不満を言っているのと同じことなのです。あなただって自分が与えたものに感謝せず不平不満ばかり言う人にもっと良いものを与えたいとは思わないでしょう。それは創造主も同じなのです。何かを望む前にまず既に与えられているものの価値に気づけず心から感謝できない人は、願望が叶うどころか逆に与えられていたものをはぎ取られ続け、失うことで価値に気づかされるような悲しい人生になってしまうことでしょう。

全知全能の創造主は全ての必要性を自分で満たせるので必要性自体が存在せず、我々に一切見返りを求めずにただ与えるだけの偉大なる贈与者なのです。我々が彼のために直接できることはなく与えられたものに感謝するのみで、もしその感謝を形にするのなら、創造主の分身である人間みんなを無条件で愛し無償で奉仕することです。創造主と同じように見返りを一切求めず人に無償で奉仕できるようになったら、すべての存在の根源である創造主から愛されないわけがありません。

僕らは人生という映画の主人公なのであり、俳優がやるべきことは目の前の物語を全力で楽しみ感謝しながら一生懸命に紡いでいくことです。なのに監督たる創造主に対して配役やシナリオに不平不満を言ったり、努力・善行に対して何かの見返りを要求すれば、監督(創造主)からの愛を受け取れないのは当然です。それでいざとなれば降板(自殺・安楽死)しようと考えながらテキトーに演じている役者に対して、監督(創造主)がより良い役柄やシナリオを与えるということはあり得ません。

僕らは主役を与えられた役者なのですから、物語の結末は監督(創造主)に任せて気にせず、ただ何事も楽しんで、配役(経験機会)を与えられていることに感謝しながら、一生懸命自分という役の使命を最後まで果たせば良いのです。それが創造主の愛を受け取る最善の方法です。それは聖典バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナが力説していることでもあります。


引き寄せの法則を意図的に使うということは、何かをするより先に結果を期待しているということであり、それは我々にすべてを与えし創造主に対して「これをするからあれをください」というように交換条件を出して見返り要求しているに等しく、それは醜く愚かなことなのです。

自分が全額を出して養っている子供から「お金を出すから○○して」などと言われたら腹が立つでしょう。我々はすべてを与えてくれている創造主に対して交換条件など決して出してはならず、ただ与えられたもの(自他の存在・経験機会)に心から感謝して、自分のなすべきことを愛して真心を込めて一生懸命やるべきなのです。

宇宙は因果という大法則で成り立っており、善因善果・悪因悪果です。しかし善行が必ず報われるという結果が予め確実にわかってしまうと、善行の動機が結果を期待したエゴになってしまい、醜くなってしまいます。

例えば貧しい人に寄付したら必ず倍になって返ってくると確実にわかっていたら、寄付行為が美しい無償の愛ではなく利益を求めた醜いエゴになってしまいます。善行というのは見返りを求めない(結果を期待しない)からこそ創造主から愛される美しい慈愛の発露となるのです。

そして悪因悪果があまりにダイレクトに反映されたら悪い事をする愚かな人は誰もいなくなるでしょう。それは創造主が人間に善行を強制しているに等しく、それでは魂が成長しません。そして「自発的かつ見返りを求めず善行を積む」ということに価値がなくなってしまいます。

だから創造主は善因善果・悪因悪果がダイレクトに反映されないよう、時間差を設けているのです。それゆえに我々が世の中を短期的・短絡的に見れば、善行をしても報われず仇で返されたりする人もいれば、悪いことをして社会的に成功して幸せになっている人もいるように感じられるのです。

しかしそれはこの魂成長のRPGプログラムにおいて必要不可欠な設定でありトラップなのです。それに見事にひっかかって、善行を積んでも無駄だと考えたり、欲深でお金にがめつく意地汚くなるのを恥とも感じず、何とか悪い事をしてでも・他人を犠牲にしてでも自己利益を得よう・願望を実現しようなどと考えることは、すべての存在である創造主の愛に反した考え方であり、それによって壮大なカルマを積み、今生か来世かあの世か、いずれにせよいつかは必ず清算させられるのです。

旧約聖書のヨブ記にはこんな話が語られています。善人であるヨブに突然すさまじい災いが次々に降りかかり、財産も家族も全て失いました。しかし最初は創造主を恨んだヨブも、最終的にはすべてを試練として感謝しながら受け取ったために、後にはそれまで以上に幸せになった、と。

結局、ネガティブな事が起きても成長課題・試練だと思って誰のことも恨まず感謝しながら乗り越え、見返りを一切期待せずに出会った人みんなに愛を与え善行を積む姿こそが美しいのであり、より創造主からの愛を受け取れるのです。

全知全能の創造主は当然僕らが何を求めているのかも全部知っています。その上でそれを与えない時は、その人が創造主の愛に適っていない生き方をしていて器が小さいために、幸運を与えても受け取り切れずにカルマを積んでしまうのを防ぐためなのです。だから我々は創造主に対してエゴで何かを求めたり期待したりせず、エゴを乗り越えて創造主の愛に適った生き方をしてその愛が受け取れるように自分の器を大きくしていくこと(魂を成長させること)が大事なのです。

創造主はその愛を受け取るかどうかを僕らの自由にしてくれています。本物の愛というのはそのように相手を自由にするものなのです。それに対してお金というのは権力の分譲券であり、権力というのは強制力であって、自分のエゴを満たすために相手の自由を奪うものです。だからお金というのが愛と相反する概念であり、人を幸せにしていない人が器に合わない大金を求めれば愛を失うのが自明なのです。

そういう本質が見えてくれば、宝くじに当たった人の大半が当選前より不幸になるのも当然であるとわかるでしょう。宝くじなんてものは、例え当たらなくても買っている時点でカルマを積んでいるようなものです。それは人に奉仕して幸せにせずにラクして自己利益を得ようというエゴの表れなんですから。

日本の昔話は本当に子供の頃から我々に真理へ導く大事なヒントを与えてくれています。「はなさかじいさん」の話は知っていますか?これはきっと事実が元になっていると僕は思います。


成功者が手にした幸運だけを表面的に見て、自分もそれが欲しいと結果を期待して引き寄せの法則を使おうなんて考えるのは、この物語の意地悪おじいさんのように醜く思考が短絡的で愚かなことなのです。主人公のおじいさんとおばあさんは慈愛に満ちてみんな仲良く楽しく感謝しながら暮らしていたのが創造主の愛に適っていたから幸運を手にしたのであって、結果など何も期待せず毎日をただ幸せに暮らしていただけです。彼らが引き寄せの法則のようなものを必死に学んで願望を引き寄せようなどと考えるような人物だったら、隣の意地悪じいさんのように不幸になっていたことでしょう。

この物語の中で主人公のおじいさんとおばあさんも身の丈に合わない大金を手にしたためにカルマを積んでしまい、かわいがっていた犬を殺されてしまったわけですが、それでも犬を殺した意地悪じいさんを責めたり避けたりせずに許し、犬の痛み苦しみに同情して成仏を祈って丁寧に弔いました。そういう姿が慈愛に満ちていて美しく創造主の愛に適っていたから、更なる幸運を手に入れたのでしょう。

お金が手に入るか入らないか、偉い人に評価されるかどうかなどはまったく関係なく、主人公のおじいさんとおばあさんは幸せな「存在」だったのであり、意地悪じいさんは不幸な「存在」だったのです。この世の出来事は全てその人が「どういう存在なのか?」に応じて与えられるものなのです。

「引き寄せの法則」で言われているようなことは概ね正しいと思います。しかしそれはエゴの願望を引き寄せるという結果を目的としているものであり、僕に言わせればせっかくの善行をエゴ由来ということにしてしまうもので、創造主の愛に反する愚策だと思います。

というわけで、引き寄せの法則はあっても決してエゴのために意図して使うようなものではないということがよくよくお分かりいただけたでしょうか?結果(見返り)を求めない慈愛こそが創造主の御心に適っているのですから「引き寄せの法則」なんてかえって学ばない方が良いのです。それは結果(見返り)を求めることが大前提のもので、本質からズレて道を誤ることが最初からわかっているものですから。日々六波羅蜜を行じることによってエゴを乗り越え全ての存在への慈愛に目覚めていくことの方がどれほど大事かわかりません。


最後に。あなたは創造主の子で天使であり、この世界の主人公(メシア)なのです。他人を不幸にしてでもエゴ(我欲・保身・虚栄)を満たすことで幸せになりたいような人間では主人公には成り得ません。引き寄せの法則でエゴの願望を引き寄せようなんて考えず、自分自身の存在と出会うものすべての存在に心から感謝し、心からの笑顔をみんなに連鎖させて下さい。そしてはなさかじいさんが花を咲かせたように、笑顔の花を世界に遍く咲かせて下さい。というわけで・・・

「引き寄せるなら世界の平和と幸福を!」



コミュ障を克服したい

【質問】30代前半・男性 ペンネーム:脳汁 真也さんこんにちは。最近Xやnote、質問箱を見させていただいてます。 真也さんの考えはとても素晴らしく自分に取り入れようとするのですが、なかなか理解力不足でうまくいかないです。私は昔からいわゆるコミュ障です。友達も少ないですし、職場の...