【質問】
鬱の良いところってありますか?
【回答】
乗り越えて初めてわかることですが、鬱は真の幸せ・真の覚りに必要な成長過程(経験)であり、大人の「はしか」みたいなものです。今の僕は鬱(無明の闇)を与えられた経験にとても感謝しています。
鬱(無明=愚かさ・迷いによる不幸)を経験せずに幸せ(覚り・真理の素晴らしさ)を感じられるわけがないのです。僕は鬱を経験したお陰で今とても幸せになれています。今どんな不幸を経験しようと「鬱だった頃に比べれば全然幸せ」という感じになりますしね。
この世界のすべては二元的に存在していて、両方を経験した上で相対的に見なければその価値がわからないのです。真理は人を幸せにするものであり、鬱は真理を覚るために・真に幸せになるために必要な過程です。
覚りに向けた修行を「お坊さんが山に籠ってやる苦行」みたいにイメージして、自分には縁のない他人事だと思わないで下さい。あなたは魂の修行(成長)のために生まれてきたのであり、今までの苦しみはすべてあなたの成長のために必要な経験だったのです。ただあなたが自覚してないだけで、あなたは真理の覚りを求めて生きてきたのです。
人生はあなたが主人公のRPGであり、あなたのためだけに用意されたシナリオがあります。決して他人と比べて不平不満を言わないで下さい。他人はNPCのような存在であり、あなたと創造主の関係は一対一です。自分に与えられているものは当然他人にも与えられていると考えて、与えられていないものばかりを見て創造主を恨んではいけません。当たり前が当たり前でないことに気づいて一つ一つ感謝することで創造主に愛され、必ず導かれるようになります。他人より与えられないと感謝できない人の感謝に価値などないのです。
自分に都合の良いものは誰でも愛せます。成長するということは、自分にとって都合の悪いものも「自分の魂の修行のためにベストなものが与えられている」と信じて愛し、与えられた課題(カルマ)に立ち向かい続けることです。
何十年と苦しみ続けたので、鬱の苦しみはよくわかります。霊障に翻弄されて悪い事ばかり考えて自尊心が地に落ちて自己嫌悪の塊になり、まともな思考ができなくなるんです。でもいつまでも立ち止まって鬱にどっぷり浸からず、ただひたすら真理(覚り・幸せ)を目指し、誰が何と言おうと自分の納得のいく道を進んで下さい。他者評価依存で他人に振り回され、世間という幻の常識に捉われてやりたいことをやらず、自らの魂が納得していない常識に合わせて自分を無理やり押さえつけようとし続け、自尊心が下げ続けることが鬱の根源的な原因の一つです。
真理(真の覚り・真の幸せ)は概念に過ぎず、経験を伴わなければ価値がありません。あなたがさんざん苦しんできた真理に至る過程(経験)が真理を価値ならしめるのです。経験がなければ真理は概念に過ぎないのです。全てを知っている全知全能の創造主にとって、経験を伴わない真理に価値はないのです。真に価値があるのはあなたの経験だということです。
繰り返しますが、真の幸せを知るのに不幸の経験は必要不可欠です。鬱も経験せずに真に幸せになれるなどということは有り得ません。一過性の快楽を追求する日々の連続に幸せがあると考える愚かさが、人間を真の幸せ・真の覚りから遠ざけるのです。
鬱で心の針が下げ止まりになる苦しい経験がなければ、感情豊かに心の針を自在に振れるような日々の幸せはわかりません。覚りを「感情をなくすこと」のように勘違いしないで下さいね。喜びと同じように悲しみにも価値があり、ネガティブな感情も存在するからこそポジティブな感情は素晴らしいのです。そして考え方によってその感情はコントロールすることが可能なのです。トランプから嫌いなカードを除いたらゲームになりません。ジョーカーがいなければババ抜きはできません。苦しみや悲しみを嫌って無理に排除しようとするのではなく、人生を物語のように監督目線で見てトータルに愛することです。
とにかく悲しみや苦しみから逃げ回ろうとしないで、しっかりと受け止めて下さい。カルマというのは逃げる事で追試や補講のように追いかけてきていつか追い詰められます。鬱というものをネガティブに捉えず、自分が成長するために与えられた課題(カルマ)なのだと思って、覚悟を決めて正面から向き合うことが大事です。カルマはドラクエのモンスターやバイオハザードのゾンビと同じで、クリエーターがプレーヤーを楽しませるために作った幻なのだとわかれば怖くも何ともないものです。そしてカルマに立ち向かうことでしか魂はレベルアップしていかないのです。
「悪いカルマの解消法」こちらをご参照下さい。
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