2022年8月28日日曜日

この世界は人間農場?

【質問】
真也さんはヴォイニッチ手稿についてご存知ですか?こちらのブログで言っているような上位世界やプラグが抜けた感覚はありますか?(二十代前半男性)
「人間電池コードのつながる先」
https://ameblo.jp/nadarra0835/entry-12751560910.html
https://ameblo.jp/nadarra0835/entry-12751518042.html

【回答】
ヴォイニッチ手稿の存在は知っています。プラグが抜けた感じとかはないです。

大変失礼ですが、基本的に僕の質問箱は「悩み相談室」であって、暇つぶしではないのです。とりあえず「〇〇についてどう思いますか?」と聞くのなら、「質問者さんがどう思うのか」「どこがどうわからないのか」がわからないと、こちらも何を切り口にどう語っていいかがわかりません。言い方が悪くて大変申し訳ないですが、なぜいきなり僕がそのスピ系妄想ブログを読まされて一方的に感想を求められるのか意味がわかりません。

何度も書いてますが、この人生というRPGは愛と勇気を試すためのものであり、ありとあらゆる存在があなたを脅し不安にさせ、また怒らせてきます。そうでなくては愛と勇気は試せないからです。

主人公(メシア)の仕事は、人を安心させること・勇気づけることです。(他人事みたいに思わないで下さい。この世界はログインしている人が全員主人公です)

件のブロガーのように不安を煽る人はマトリックスのエージェント・スミスのような脇役・悪役を無自覚にやらされているのであって、それに影響されて不安に陥っていることはもうその一員になってしまっているも同然なのです。ヴォイニッチ手稿の内容は誰も全く解読できていないのに、勝手な妄想で「この世界は人間農場である証拠」みたいに不安を伝染するのですから。

人生、辛い事が多いからって不平不満ばかり言って恨みで返して、この世界を牢獄・罰ゲームみたいに解釈するから、実際あなたの世界は本当にそうなってしまっているのでしょう。あなたの世界はあなたの解釈が作っているのです。

実は新約聖書にも人間に対して「収穫の時が来た」などという表現よく出てきます。それって「人間農場」そのものですよね?神はいったい我々を育てて何を収穫しようとしているのでしょうか?それはエネルギーではありません。自分でエネルギーを生むことなど造作もない全知全能の神が、人間を電池にしてエネルギーを得るなんて非効率で意味のないことをするわけがないのです。

全知全能の創造主は当然全ての真理を知っています。真理に価値があるのなら全ての真理を知っている創造主にとってこの世界を創る意味はありません。経験を伴わない真理は単なる言葉であり何の存在価値もないのです。愛も経験しなければ概念に過ぎないのです。

真理・愛に至るまでの様々な経験(失敗・紆余曲折・試行錯誤・成長)こそがドラマ・芸術であり、存在価値があり、創造主に存在意義を与えているのです。つまり創造主は我々の経験を自らの存在意義として収穫しようとしているのです。

あなたがクリエイターなら、自分を愛するようにプログラムしたAIから愛されて嬉しいでしょうか?それは愛と呼ぶことすらできないでしょう。全知全能の創造主が強制的にやらせたら人間に感情や自由意志を与えた意味はありません。そしてデフォルトで「愛さない」というネガティブな選択をするように作られているからこそ、愛には価値が生じるのです。愛だけでなく、人間はデフォルトでネガティブな感情を選択してしまうように作られているからこそ、それを乗り越えてポジティブな感情を選択することに価値があるのです。

体は感情の楽器です。腹は立ったりムカついたり、胸はつかえたり締め付けられたりして人間は出来事に対して感情を音のように波動で感じます。当然放っておけばネガティブな出来事があればネガティブな波動(感情)を生じます。感情は受動的なものです。放っておけばどんどんネガティブな方向に感情が流され、どんどんネガティブな出来事を引き寄せる悪循環にハマってしまいます。そのような感情に流される「出来事の奴隷」になってはいけないのです。

だからこそ我々は普段から自分なりにネガティブな事が起きても自分の成長の為に与えられた試練なのだとポジティブに解釈して乗り越えるように、能動的に自分を日々作り上げていく必要があるのです。自分という楽器を調整し、どんな時も美しい旋律を奏でられるようにいつも調律しておくことです。何が起きてもいつでも心からの笑顔でいられるように考え方の方を修正していくことが、成長するということなのです。

毎回言ってますが、自分に都合の良いものは赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも自分の成長のために与えられたものだと愛せるように成長していくことなのです。

実際、支配者層が金という手段で人々からエネルギーを吸い上げる世界のピラミッド化・人類奴隷化が究極まで進んでいるのは事実ですが、それはこの人生というRPGの設定なのです。世界を救うRPGはディストピアから始まらなければ成立しません。人類奴隷化計画が完成一歩前まで進むことは、大逆転劇(アセンション)前に必要なフラグなのです。あなたが目の前の人を救いそれが連鎖することで世界は救われるようにこのRPGは作られているのです。

「人間農場」結構じゃないですか?人生を与えられたことに感謝し、創造主に存在意義を与えて喜ばせるため、最後の一瞬まで人生経験・成長の物語を楽しみましょう。それが我々自身の存在価値を高めるのです。我々は創造主の一部なのですから当然です。

2022年8月27日土曜日

人生は自分で決めてきたの?

【質問】
数年前から喋る事が出来なくなってしまいました。喋れないというよりも喋ろうとすると舌に力が入って上手く言葉を発する事が出来ません。仕事も出来なくなり、一時は生きているのが凄く辛くて波動もかなり下がっていました。(今はこの出来事のお陰で目覚められたので感謝しています) 

これは自分で引き寄せてしまったのか?カルマなのか?自分でブループリントに書いてきたのか?…と頭の中をグルグルしています。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

僕も一時的ではありますが究極にストレスが溜まった時に声が出せなくなりました。きっと思ったことが言えず、心が納得していないことに無理やり自分を従わせなきゃいけない環境に長くいることで魂が抑圧されてストレスが限界に来ていたのでしょう。僕も結局鬱で仕事も止めました。ので、お気持ちお察しします。そして今は目覚められたとのことで、それに貢献できたのであればとても嬉しいです。

>自分で引き寄せてしまったのか?カルマなのか?自分でブループリントに書いてきたのか?
はい。全部正解です(笑)

(アバターである今生の)自分が引き寄せることも含めて、(高位自己である)自分が青写真を描いて来たのであり、それはカルマ(今生で克服すべき課題・シナリオ)でもあるのです。

創造主は存在意義もなく生じた思念体であり、唯一の存在のために究極に孤独で、全知全能のため究極に退屈です。そこで創造主の作り出した存在意義は愛なのです。愛は経験を伴わなければ概念に過ぎず存在意義がありません。

創造主は愛を経験するために敢えて自分が創造主であることを忘れ、自分が作ったRPGをアバター(主人公)に入り込んで、それぞれの見地からそのシナリオ・経験を楽しんでいるのです。

一度クリエイター目線であなたの人生を見てみて下さい。あなたが小説のシナリオを描くとして、最初から最後までただ幸せなだけのシナリオを描くでしょうか?そんなの少しも面白くないですし、そもそも不幸を経験せずに幸せを経験することはできません。だからあなたは自分という主人公に困難な課題(カルマ)を与え、それを乗り越え続ける成長の物語にするはずです。そして実際にそうなっているということです。

人生というRPGは成長の物語ですから、愚かで何もわからず最弱のレベル1の状態から始まるのは当たり前です。最初から賢く強く答えが全部わかっていたら答えを見つける喜びも成長する喜びもありません。最初から視聴者全員が正解を全部知っているクイズ番組には存在意義がありません。解答者がいきなり答えを出したら何も面白くありません。みんなが自分なりの答えに至るまでのたくさんの失敗・紆余曲折・試行錯誤の経験にこそ価値があるのです。

人生はネットゲームの如くログインしている時点で主人公なのであり、そのプレイヤーであるハイヤーセルフは創造主の分け御霊なのです。与えられたものに不平不満ばかり言い、様々な困難を恨みで返すような主人公がクリエイターやプレイヤーに愛されるわけがありません。プレイしたいと思われるわけがありません。脇役として下位次元の存在に任せて自動運転状態にされてしまいます。でもそこからの逆転劇だからこそ人生は面白いのです。僕の人生はまさにそうなっています。不幸が大きければ大きいほど乗り越えた時に感じられる幸せは大きいのです。カルマが重ければ重いほど、それは乗り越えれば大きな財産となるのです。それは「悪いカルマの解消法」に書いた通りです。

カルマがとても重く、現在大きな不幸に直面している人に「それも幸せになるために必要な過程なのです」「すべては創造主の愛によって与えられたものです」「すべては自分次第にできています」などと言うのはとても心苦しいのですが、それは思いっきり事実なので創造主の代弁者(預言者)としてそう伝えないわけにはいかないのです。

実際に会っていない・直接知らない人はNPCのようなものです。あなたが主役のゲーム上でNPCに起きることは設定であり、仮想であり、「そういう物語の設定なのだ」と思って下さい。そして実際に出会った人の幸せに貢献することに全力を尽くして下さい。乗り越えた不幸の大きさの分だけ出会った人に優しくなれる素敵な人でいて下さい。それは必ず指数関数的に連鎖していつか世界が救われますから。この世界が不幸なディストピアなのはRPGなのですから当たり前であり、あなたが幸せにするためにわざと不幸多く作られているのです。

プログラムされたこのRPG世界に偶然は一切なく、あなたに起きたこともすべて必然であり、設定であり、必要な過程なのです。自分自身も他人も一切責める必要はありませんし、後悔する必要もありません。すべてベストなことが起きているのです。自分の欠点や過去の失敗などつらい体験も全部成長の為に必要だから起きたことだと自分を許し、他人も許し、運命に感謝し、お互い前を向いて生きて行きましょう。

どこまでが仮想現実?

 【質問】
仮想現実は、この地球だけなのでしょうか?
それとも死後の世界や、他の星に生まれた所も全て仮想現実なのでしょうか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。

仮想現実が何かという定義にもよりますが、「存在」の本当の姿は全て思念体である創造主のみであり、そこは僕らが目を閉じた時に垣間見れるような、思念・概念しか存在しない世界です。僕らはその創造主の思念・意識を分離された分け御霊です。それが人間というアバターを与えられて仮想現実を経験させてもらっているのであり、我々分け御霊の分離意識(自分というものが存在し、他の存在とは違うものだという意識)・自意識自体が仮想のものですから、その僕らが経験しうる全ては(僕の定義上)他の銀河でもあの世でも丸ごと仮想現実ということになります。

我々の分離意識がなくなれば我々は創造主そのもの(完全なワンネス)に戻ってしまいます。その創造主の思念・概念のみの世界こそが本物の現実と言えるでしょうが、全ての存在が完全に一つに戻ることはありえないことなので、本当の現実がどういう世界かを考えることにあまり意味はありません。創造主は唯一の存在で全知全能であることが究極に退屈で孤独で存在意義がないからこそ我々(分離意識)とこの物質世界を創ったのであり、また完全なワンネスに戻るようなことをわざわざすることはありえないのです。

分離意識はそれぞれ個性を与えられ、欠点があり過ちを犯す存在だからこそ、それを補い合うことで愛は生まれます。創造主の思念しかない状態では愛は生じ得ません。元々の姿は創造主の魂であり光そのもののような存在です。それは完全な智慧の光です。それは細かく砕かれ、磁石のように極性と波動を持ち、お互い引かれたり反発したりします。その引力こそが愛であり、それは反発力があることにより存在意義が生まれているのです。だから通常人は反発するのがデフォルトなのです。

分離された我々にはちょうど一つの小麦粉の塊を製麺してから粉をまぶして簡単には一つにならないようにする感じで無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い・霊障・不完全性)が与えられています。簡単に一つに戻ったら分離した意味がなくなるのです。

我々が砕かれた磁石のように個性を保ちながら数珠つなぎにまた一つ(ワンネス)に戻っていく過程が物語であり芸術であり我々の存在意義なのです。完全なワンネスには戻れませんし戻る意味もありません。与えられた自分と他人の個性を尊重し、許し合い補い合い愛し合うことが我々の存在意義です。そしてそれは流れる砂絵の如く永遠に繰り返されるのです。

我々がまた一つになるためには無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い・霊障・不完全性)を乗り越えることです。エゴが完全になくなったら分離意識がなくなり完全なワンネスになってしまいますから、それはありえません。エゴなくして愛は生じ得ないということです。だから完全にエゴがなくなることはありません。だからこそ我々は全力でエゴとは反対方向に向かうことができます。それが愛なのです。己のエゴを極力下げて他人のエゴを満たしてあげることです。その連鎖が我々を数珠つなぎにまた一つにするのであり、その過程に生まれる物語こそが、存在意義なく生まれた創造主に存在意義を与えられているのです。我々は創造主に存在意義を与えている偉大な存在なのです。

だから我々はこの世界に自分として生まれたことに感謝しながら、成長の物語・愛の物語を楽しむことです。感謝するほど、成長するほど、愛し合うほど、創造主により存在意義を与えてより愛されて、自分自身も出会ったみんなもより幸せになるのです。全ての存在は一つであり創造主なのに好き嫌いを言えば創造主の愛から離れることになります。それで人生がうまくいくわけがないのです。あなたが出会い認識し思考・想像できるすべてが(あなた自身も含めて)その正体は創造主なのであり、例外なく愛することです。

あなたが嫌だと思うものもあなたの成長のために与えられている課題であり、それを経験させてもらえていることに感謝しながら愛することです。全ては創造主の愛によりあなたにベストなものが与えられているのです。それを不平不満で返すと創造主の愛が受け取りにくくなるのです。創造主は僕ら自身でもあり、与えられたものに感謝できないような人間に、もっと与えたいとは思わないのです。今あるものに感謝できないなら、既に与えられたものまではぎ取られてその価値を思い知らされるような悲しい人生になってしまうでしょう。

いつも言っている事ですが、自分に都合の良いものは赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも愛せるように成長していくことなのです。

2022年8月25日木曜日

霊と憑依体質の存在意義

 【質問】10代女性
憑依体質で低級霊に憑かれやすい人はどうしたらいいのでしょうか?
また憑依体質とはなぜ存在するのですか?

この記事はnoteに移行しました。
https://note.com/shinyays/n/na570d764e0ab

2022年8月20日土曜日

片思いの存在意義

 【質問】
真也さん、いつもありがとうございます! note、ツイッター、質問箱を繰り返し読ませていただいてます。色々な気づきがあって、起こる現象を前向きに捉えられるようになりました! 

質問があるのですが、片思いはどのような意味があるのでしょうか?

【回答】※9月5日更新
ご質問ありがとうございます。

それを理解してもらうためには創造主がどういう存在なのか・感情とはどのような仕組みになっているのかをかなり深く理解してもらわないといけなくなるため、説明がとても大変な上に伝わるかどうか全くわからないのですが、いつも通り全力でトライしてみます。

創造主は存在の全てであり、全知全能で全てが思い通りになる存在です。それがどれほど退屈なことかを我々に想像することは難しいのですが、例えば何かのRPGにおいて主人公であるあなたが全知全能だったらどれほど退屈でしょうか?すべてのルール(設定・制約)やシナリオや登場人物などすべてが無意味になり、結局それらを一から自分で再構築しなければならなくなります(つまり自分がプレイヤーではなくクリエイターになります)。それを考えれば少しはイメージできることでしょう。

僕らは創造主の分け御霊であり創造主の一部なのですから、深く瞑想したり明晰夢を見ればそのような全知全能の魂の記憶を垣間見ることができたりします。また臨死体験で何でも思い通りになってすぐつまらなくなるという経験を話す人は結構多いです。何でも思い通りになることが楽しめるのは思い通りにならない経験を思い出せるうちだけです。我々の「思い」自体が、思い通りにならないこの世の経験を起点にして構成されているものであり、それがなければ思いは生まれないのです。

僕らは思い通りにならない人生を経験し、魂の成長を楽しむために生まれてきているのであり、そのためにわざと世界は制約だらけになっており、人間には能力に制限があって、欠点が多く必ず過ちを犯すようにできています。それが個性の基盤です。「宇宙の仕組み」の冒頭に書いた通り、自分で作ったRPGは全てを忘れた上でレベル1から始めなければ楽しめないのです。

唯一の存在である創造主にとって他の存在は存在しないので、そのままでは愛したり愛されたりはできません。そもそも欠点がなく過ちを犯さない存在なので、愛を必要ともしません。欠点や過ちは愛の必要条件なのです。創造主は自らの存在意義として愛という概念を生み出し、それを経験するためにこの世界を創ったのです。

そして意識を無数に分離し、神々や人間などのアバターを創って自分が創造主であることを忘れ、欠点がたくさんあってたくさん過ちを犯す次元の低い存在として、そしてそれらを許し合い助け合い愛し合う存在として、それぞれの見地から愛・成長の物語を楽しんでいるのです。もちろんそれはあなた自身もあなたが出会う人々もあなたの知る神々も同じです。

どんな概念も経験が伴わなければそれは言葉に過ぎません。愛も経験が伴わなければただの言葉です。創造主は自らが生み出した愛という概念を自ら経験するために人間と世界を生み出したのです。あなたの人生=愛であり、世界はあなたが自分=愛を経験するためにあるってことです。

決して次元が低い=存在価値が低いということではなく、すべての存在がひとつなぎで等しく価値があるのだということは大事な点なので忘れないで下さい。神々に存在価値があるのはそれを尊敬し感謝し愛する人々がいるからであり、それは人間同士の関係においても同じだということです。

さて、インド神話にこんな話があります。宇宙の創造主であるブラフマーがサラスバティーを創り、そのあまりの美しさに妻に娶ろうとしたのですが、父親と結婚などしたくないサラスバティーは逃げ続けます。しかしブラフマーは自らの顔を四方に増やし、常にサラスバティーを見れるようにして地の果てまで追いかけます。そしてついにサラスバティーは観念してブラフマーの求婚を受け入れたのでした。

全知全能の創造主からすれば自分を愛するように人間を創ることなど造作もないことです。でもあなたがクリエイターだとして、自分を愛するようにAIをプログラムしてそのAIから愛されて嬉しいでしょうか?そもそもそれは愛と呼ぶことすらできないでしょう。

自由意志というのは愛(感情)を存在価値ならしめるために人間へ与えられたものであり、わざと他人(神々も含む)の思い通りにはならないように作られているのです。感情を他人が強制できてしまったら感情自体に存在意義がなくなってしまうのです。(だから誰かに愛されなくてもそれが初期設定であり起点なのですから凹む必要はないのです)

最初から神を信じるように人間を創ったら信心に存在意義はなく、信じないというネガティブな選択がデフォルト設定になっています。だから神は科学的に存在証明されないように周到に世界を作っています。宗教に間違いを犯させ、また宗教を利用した詐欺などを横行させて、神を信じる人間は気違いだとすら思わせます。そういう中で人間が自由意志により自発的に信心を起こすからこそ信心には存在価値が生まれ、神々は嬉しくなれるのです。

そして我々は先ほどのサラスバティーの例のように「愛さない」という選択がデフォルト設定に作られているからこそ愛には価値があるのです。尊敬や感謝などポジティブな感情というのは全てそのようになっています。やはり「尊敬しない」「感謝しない」というネガティブな選択がデフォルトなのです。

繰り返しますが他人が感情を強制できたら感情に存在意義はありません。だから感情というのは他人から強制されると必ず反発するようにできているのです。例えば「私を愛しなさい」「私を尊敬しなさい」「私に感謝しなさい」というように言われたら逆の感情が湧きますよね?もちろんそこまでダイレクトに感情を他人に強要するような愚かな人はなかなかいないでしょうが、みんな無意識かつ遠回しにやっているのです。我々は家族や恋人に愛情を当然の権利のように強要していたり、自慢話をして尊敬を強要していたり、「〇〇してあげたのに」などと恩着せがましく考えて感謝を強要していたりするように初期設定されているのです。人間は愛(尊敬・感謝)を求めて生きるようにプログラムされているのですから、これは宿命と言って良いでしょう。それは神々でさえそのように作られているのですから、愛(尊敬・感謝)を求める本能を否定することは誰にも不可能なのです。「無意識に感情を相手に強要してしまう」多くの人間関係の問題の根幹はここにあると言って良いでしょう。

じゃあどうすれば良いかというと「誰でも自信満々になれる方法」に書いた通り、愛(尊敬や感謝などのポジティブな感情)というものを絶対に相手には強要せず、一切見返りを求めずに無条件で自分から与え続けることです。そうすることで自然と人から自発的に愛され尊敬され感謝されるようになるのです。

あなたが出会う人はきっと許しがたい人、尊敬しがたい人、感謝しがたい人、愛しがたい人が多いことでしょう。でもそれはあなたの成長のために与えられた課題であり、それを一人ひとり克服するのが魂の成長なのです。あなたが出会う人の正体はすべて創造主の分身であることを忘れないで下さい。そしてあなた自身も本当は創造主の分身なのですから、自尊心を高く持つと同時に、出会った人を同じように尊敬して出会いに感謝して愛して下さい。

反省してはいけない」に書いた通り、「どうせ自分なんて」などと考えると行動のレベルが下がってますます自己嫌悪に陥るので、決して自分の自尊心も相手の自尊心も下げずに、どうやったら自分と相手の自尊心が上がるかを考えて実行・改善し続けて下さい。そうすれば必ず人から愛されますし、自分でも自分を好きになります。

片思いというのが過剰に苦しくなる理由は他者評価依存による自尊心の低さなのです。自分自身を愛せていないのに自分の好きな人に愛されることによって自分の自尊心を満たそうとしても決してうまくいかないのです。エゴによって自分に都合の良いものだけを愛そうとし、出会うすべての存在・出来事を許し愛せないなら、すべての存在の根幹たる創造主の愛を十分には受け取れないのです。

創造主曰く、この世界は自分で自分に都合の良い相手を探して選ぼうとするとうまくいかず、ただ無条件で人を愛した方が自然にベストな人から選ばれ結ばれるようにできているそうです。すべての縁は創造主が与えているものですから当然ですね。だから創造主(すべての存在)に愛されるような生き方をした方が素敵な縁に恵まれるのでしょう。このあたりは今独身で修行中の僕が言うと全く説得力がありませんけども。

恋がうまくいくかいかないかは最初から決まっていて、成就する時は(わざとダメにするようなことをしなければ)どうやっても成就しますし、成就しない時はどうやっても成就しないなのです。でも向こうから来ない場合はこちらから行かない限り確実に成就しません。だからウジウジ悩むよりとりあえず行くべきなのです。それはいきなり告白するという意味ではなく、コミュニケーションを取るという意味です。それだけでどうやったって好意は伝わりますから。

存在の全ては創造主であり、ひとつなぎ(ワンネス)なのです。なのに自らの愛情に条件をつけて身勝手に好き嫌いを言うから逆に他人から条件を付けられて愛から弾かれるのでしょう。創造主の愛は基本的に人を通じて与えれるものであり、自分に都合の良いものだけを愛そうとすると創造主の愛が十分に受け取れなくなるのです。

全ての存在の大元(デフォルト)は無限の可能性が無限にあるだけの、まるで芸術の素材だけが無限にあって芸術が存在しないような、とてつもなく退屈で無意味な世界です。可能性というのは結実点があって初めて意味を成すものであり、それを意味によってつなげたものが芸術なのです。

この世界は芸術を創るためのものだとも言えます。芸術が世界の存在意義を成しているのです。人生とは芸術そのものであり、全ての要素が無限では芸術には成り得ません。芸術とは人々に共通して与えられたルール(制約・可能性の制限)と可能性の結実によって作られるものなのです。これは素材を削って作る彫刻のような芸術を思い浮かべればわかるはずです。ただ素材(可能性)が無限にあるだけでは意味がないのです。

物質世界というのは人々に共通した制約(ルール)を与えて、可能性を結実・事象を具現化することで様々なドラマを生み出し、そこを起点に更に想像を広げさせて精神世界を豊かにするためにあるマテリアルなのです。

人々に共通ルールがなくてはドラマは生まれませんし、他者と何も伝達・共有することができません。トランプにしても共通のルールがあるから楽しめるのであって、一方がポーカーをやってもう一方がブラックジャックをやるというのでは成立しません。そして制約(ルール)がなく全知全能のままでは、思い(想像)を広げる起点すらがなく、存在意義のない無限のカオスになってしまいます。

だから前述の通り、元々の世界は思い通りになるのがデフォルトであり、そのままでは全ての存在に意義がなく退屈なだけなので、思い通りにならないように作られているのです。片思い(思い通りにならない経験)があることにより、両想い(願いが叶う経験)に価値が生まれているのです。この世界のすべては陰陽のように二元的に存在するものであり、両想いに価値があるなら片思いにも価値があるのです。片恋の痛みにはちゃんと意味があり、両想いになった相手をより大切にするようになるとか、人の悲しみや痛みに同情してより愛し合うことができるようになるとか、成長の為に与えらえているものなのです。そしてそれゆえに人生は芸術として成立しているのです。

そして人間はみんな個性(欠点と過ち)のある存在であり、憧れの人であればあるほど実際に付き合ったら大なり小なりそのギャップに失望するものです。片恋で終われば相手が年老いて醜くなっていく姿も見ないで済むわけで、それは自分に都合の良いものしか愛せないような人にとってある意味では幸いなこととも言えます。

片思いをしていれば実際のその人を起点に様々な想像を広げることができます。それが人の精神世界を美しく豊かにしているのであり、憧れには価値があるのです。それは「相手を自分にとって都合よく理想化して勝手に憧れる気持ち」というただのエゴのようでも、実は価値があるものなのです。思いが叶うばかりが幸せなことではありません。失恋すればそれと引き換えに憧れ(豊かな精神世界)が手に入ると考えて下さい。現実のその人よりあなたのイメージの方が絶対に美しいのですから。

そして現実のパートナーを創造主が与えてくれたベストな運命の人だと信じ、ひたすら尽くして相手と自分の自尊心を同時に上げ、相手を世界で最高のパートナーにして下さい。そうすればきっとお互いに世界一幸せになります。決して身勝手に現実のパートナーと憧れの人(自分の勝手な想像の産物)を比べて不平不満を言いませんように。「恋敵 譲れば良かった 今の妻」というサラリーマン川柳みたいな人生になりませんように。相手の欠点や過ちはあなたがそれを許し補い愛するためにあり、あなたに存在意義を与えているのです。

何度も言いますが、全ての存在はワンネスなのであり、パートナーはまさに自分の鏡であり、その人に段々幻滅したりするのは自分の成長が足りないからです。人間は歳をとって醜くなるほどより純粋な愛情を必要とする生き物であり、決してSEXや結婚などをゴールだなどとは考えず、成長を続けなければならない(愛を与え続けなければならない)定めなのです。

因果は時空を超えたものであり、常に上書き更新が行われています。もしあなたの恋がずっと実っていないのだとしたら、過去や未来で現実のパートナーと勝手な憧れ像を比較して欠点や過ちを責めて不平不満ばかり募らせて不幸にするような人だからかも知れません。

もしそれを悲しい事だと思うのであれば、魂のトレーニングだと思って出会った人を(恋愛とは関係なく)無条件で例外なくひたすら愛する日々を重ねて下さい。すべての正体は創造主であり、好き嫌いを言っていると全ての存在から愛されなくなります。周囲の人から愛されないことで自尊心が下がっているのを全部恋人に補ってもらおうとしても無理があるのです。

愛情に条件をつけて自分に都合の良いものだけを愛そうとすると、自分も他人から条件付きでしか愛されなくなり、いつか都合が悪くなれば捨てられて孤独に陥るのです。自分に都合の良いものは赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも含めてすべてを愛せるように成長していくことなのです。

実るばかりが恋ではありませんし、片思い・失恋も価値がある経験なのですが、あなたは年齢を重ねてもただ単にエゴで己の想像をたくましくしてよく知りもしない異性に勝手な妄想で憧れ、拒絶され失望させられ孤独になるために生まれてきたのか、欠点も過ちもある現実の人間(他人=自分)を心から愛し抜いて幸せになるために生まれてきたのか、よくよく考えて、幸せな人生にして下さいませ。

2022年8月14日日曜日

自然災害の予言

【質問】
富士山は最近爆発の兆しがあると聞きましたが、それは本当ですか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。

まず僕は預言者(神の言葉を預けられている者)であって予言者(占い師・予想屋)ではありません。

災害の日時の予言なんてまったく意味がないのです。なぜなら人の寿命というのは生まれる前から決まっていて、せいぜい死因が何になるかの違いしかないからです。キリストも「あなたたちが何を心配しようとあなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ他の事まで思い悩むのか」というように言っていましたが、まさにその通りなのです。

もちろん災害対策というのは必要なものではありますが、災害以外の理由で明日死ぬかも知れないわけで、当たるか外れるかわからないたくさんの占い師や予想屋を頼って恐れおののき右往左往しながら対策を講じるなどいうのは馬鹿げた話です。

僕は決して占いなどを否定しているわけではありません。ただ占いっていうのは本来人を幸せに導くためにあるべきもので、ネガティブな出来事を予想してそこに導かれるように暗示をかけるようなものは「呪い」であって占いではありません。もしその暗示通りに悪い出来事が起きたらその後は常にその人に惑わされるようになり、その人の思いつきのために振り回されることになるでしょう。そして開運グッズを買わされたりなど金儲けに利用されるようになるだけでしょう。

僕は天に対して災害の(具体的な日時や場所の)予言が与えられることを拒絶しています。なぜなら災害のようなネガティブな出来事の予言なんてしたら、僕自身は起きて欲しくないと願っているのに、実際にその願いが通じてそれが起きなかったら僕はオオカミ少年みたいに人々の信頼を失い、もっと大切な覚りの内容をみんなに伝えても誰からも信頼されないようになってしまいます。そうすると僕自身は災害など起きて欲しくないのに起きて欲しいような願いを深層心理で持つことになってしまいます。そしてそのような願いが実際にネガティブな出来事を具現化してしまうのです。この世界の全ては我々の認識・解釈により生じているのですから、僕はただ大災害など起きないように祈っています。

僕は神通力によってではなく、覚りの連鎖によって世界は救われると思っています。浄霊以上の過度な神通力は、かえって人々を覚りから遠ざけます。それは奇跡ばかり求められて結局は弟子全員に裏切られたキリストの事例を見ればわかりますし、釈迦もいたずらに神通力を使うなと弟子を窘めています。人々がみんな他人である覚者の神通力だけを他力本願的に求めるようになったら、当人の覚りに向けた魂の成長を妨げてしまいます。

それに例えば僕がキリストのように死者を生き返らせるような神通力を得てしまったら、今生きている70数億人がいつか必ず死ぬわけですから、大挙して人々が押し寄せてそればかりしなければいけなくなりますし、対応しきれなくて死んだ人全員が僕が見殺しにしたから死んだということになってしまいます。同様に僕が災害予言のような神通力を得てしまったら、僕が予言を伝えないことで被災した人は全員僕が見殺しにしたことが原因ということになってしまいます。そんなの僕個人で耐えきれるわけがありません。だから僕はそういう神通力を与えられることは拒絶していますし、例え与えられても人に言うことはありません。

僕の使命は奇跡によって一過性の命を救うことではなく、覚りによって永遠の魂を救うことです。何かに怯えながら「本当の幸せ」というのはありえません。覚りが開ければ魂の永遠性を実感するので死ぬのは怖くなくなります。僕らは真理(覚り)を求めて魂を成長させるために生まれてきているのですから、人々が自発的に自分の意思で覚りを求めて成長していくように人生はプログラムされているのです。

どうか自然災害などネガティブな出来事も神の愛により我々の魂の成長のため・愛と勇気を試すために与えられているのだと愛で解釈して下さい。全ては神から与えられたものであり、与えられたものに不平不満や恨みで返すとより悪いものが与えられ、既に与えられたものまではぎとられる人生になってしまいます。全てを愛で解釈して感謝の気持ちで受け取れば、より素晴らしいものが与えられることでしょう。

自然災害は我々がどれだけ祈ろうと遅かれ早かれいつか必ず起きるものです。もしそれが起きたなら、勇気をもって無償の愛によってみんなで助け合うことです。

覚りが開けてくれば死だけでなく老いや病や別れや失敗など何も恐れなくなります。恐れとは例外なくエゴ(我欲と保身)が根本原因なのです。

ですから最善の災害対策は、エゴに埋没して「いつ大災害が起きて巻き込まれるだろうか」とビクビクして他人に振り回されながら生きることではなく、覚りを求めて魂を成長させることであり、みんなで助け合い愛し合って最後まで悔いなく幸せに生きることです。

コミュ障を克服したい

【質問】30代前半・男性 ペンネーム:脳汁 真也さんこんにちは。最近Xやnote、質問箱を見させていただいてます。 真也さんの考えはとても素晴らしく自分に取り入れようとするのですが、なかなか理解力不足でうまくいかないです。私は昔からいわゆるコミュ障です。友達も少ないですし、職場の...