【質問】
自由意志は存在するのでしょうか?それとも全てが予め決まっているのでしょうか?
最近の話で自由意志は存在せず、元からある肉体に外部の環境が情報として伝わり、ただ反応しているだけ。つまり全部あるべくしてあるだけなんて話もあるそうです。そうなると、この先も今までも、関数が多すぎて予測ができないだけで決まった人生を歩くのかなぁ、と半ば諦めのような気持ちになってしまいます。どうお考えでしょうか?
【回答】旧質問箱からの転載・12月5日更新
ご質問ありがとうございます。「自由意志は実在するのか?」についてはよく質問をいただくので、いずれnoteで詳しく解説しようと思っています。
結論から言うと、自由意志はあります。でもそれは幻の如きもので、一般的に多くの人がイメージしているものとは違います。
そもそも僕らの認識している世界自体が仮想現実であり、あなたの自由意志だけでなく、あなた自身(自我・分離意識)も、あなたの認識できる森羅万象も、全てが幻の如きものなのです。
しかし幻というものは存在しないという意味ではなく、幻という仮象の形で確かに存在しているのです。電源を落としたらデータだけ残して全てが消えてしまうゲームのように。
本当は存在しないものが、魂の成長(覚り)のために、幻としてこの世界に現されているのです。般若心経の教えているところもまさにここなのですが、それを本当の意味で理解している人は恐らく今の世の中(我々の世界線)にはほぼいないと思います。
まぁそれ以前に読者の方の多くは「自由意志が存在しない?あるに決まってるじゃないか。何を言っているんだ?」って感じでしょうから、最初に「受動意思仮説」について説明しなければいけませんね。
こちらの動画がわりと簡潔でわかりやすいかと思います。
受動意思仮説を簡潔に説明すると、僕らが自分の意思で何かを選択する前に、脳は既に命令を発しているという実験事実から「人間は何かを選択しているのではなく、脳がやらせたことを自分の意思でやったというように後付けで理由を考えているのであり、意識は受動的なもので、エピソード経験者として存在しているだけである(つまり人間に自由意志はない)」とした理論です。
この理論は複数の研究者による数多くの科学的な実験結果に基づいているため(しかも例外が全くないため)とても説得力があります。被験者に選択肢を与えた時、脳波を検出すれば、本人が自分の意思で選択する前にどちらを選択するかを知る事さえ可能なのです。そしてこの研究によると、人の意思は自分の脳が無意識にやろうとすることをギリギリで止めれる可能性があるっていう程度だそうです。それでは自由意志はほぼ存在しないことになります。
しかしそれでは犯罪などが起きても誰にも責任を負わせることができなくなります。まぁ僕の持論は「罪と恥の存在意義」に書いた通り常に「誰も何も悪くない」なので、僕的にはそれが正しいのですが(笑)いきなりそうなってしまっては現代の法治国家が成り立たなくなってしまいますし、実際この受動意思仮説は誰も科学的にきちんと否定証明(ないし肯定証明)できた人はいません(それゆえの「仮説」です)し、この理論は少なくともまだ体制側には認められていません。
が、今回僕はその証明を論理的にやります(笑)まぁ真実がわかってしまうと、この受動意思仮説、半分は正しく半分は間違っているという感じなんですけどね。
まず、既に「宇宙の仕組み」において概ねご説明させていただいていることなのですが、時間とは過去から未来に向かって一方的に流れているものだというのは思い込みに過ぎない(間違いである)ということを、人類はもういい加減に知らなければいけません。
もし人間が感覚的に認識している通り時間が一方向に流れるようなものなのであれば、我々が現在を認識しようとする間に時間が過ぎてしまい、我々は常に現在よりも一瞬だけ過去に生きることになってしまいます。それでは「現在」何かを選択することができません。
こんな簡単なことにも気づけないように我々の意識はわざと愚かに初期設定されているのです。仏教用語ではこのような愚かさを「無明」と言います。すべては二元的(陰陽的)に存在していて、光(智慧・真理・完全性)を価値ならしめているのは無明(闇・愚かさ・不完全性)の存在なのです。
この世界は仮想現実であり、それはリーダー&ライターである僕らの魂(光)がデータを読み込むことで生み出され、それを上書き更新(リライト)し続けているのです。
僕らは一つの客観的世界に生きているわけではなく、一人一人の主観的世界(認識世界)に生きていて、それが世界線によりインターネットゲームのようにつなげられることで重層し、各々がまるで一つの客観的世界にいるように錯覚しているのです。世界はメインサーバーのないP2Pネットワークのようなものなのです。
各認識主体者はデータを読み込んで自分の認識世界を作り出してからそれを上書きしているので、我々の認識する時間軸上でそれを見た場合、約0.5秒ほどのタイムラグが生じているのです。だから自分の意思で何かを決定するより一瞬未来に、既に自分の認識世界を「無意識(深層意識)」により作り出して、それを意思が過去に遡って自分の認識世界を上書きして再認識しているのです。その認識ポイントと上書き・再認識ポイントの隙間にある時間(刹那)を僕らは「現在」だと認識しているのです。(リードポイントがリライトポイントより一瞬だけ未来側にあるってことは大事なところです)
そしてその認識主体者の上書き結果は世界線を共有する他人の認識世界に(量子もつれのように)すぐさま連動するのです。
人間の認識・判断・行動には0.5秒ぐらいの時間はかかるんですから、この仕組みがなければプロ野球選手が時速160㎞(到達時間0.41秒)のボールを認識してから打つなんてことは到底不可能です。我々の時間軸上で見て脳の命令が本人の意思より前に発せられているからといって、自由意志がないと考えるのは、時間が一方向に流れるという思い込みから来る誤りなのです。
前野隆司教授の受動意思仮説の動画で使われている例でも、僕の理論なら矛盾なく説明できます。
僕らはみんな自分の仮想現実を作り出して(認識して)から、そこから約0.5秒前の自分の認識世界を上書きしているということです。そしてその自分の認識世界の上書き結果(事象の結実)が、世界線を共有している人たちの認識世界に瞬時に連動するということです。
そして事象が結実すると、それに合わせて未来だけでなく過去も辻褄を合わせるようにして変化します。現実そのもの(過去の記録も記憶も含めて)が変化するので、基本的に他人(自分の認識世界のNPCたち)は過去が変わったことは認識できません。
しかし世界線を共有する者同士(ログインプレーヤー同士・主人公同士)ではその変化前の過去の記憶が共有されることがあり、それがマンデラ効果と呼ばれるものなのです。
二重スリット実験の結果も、まさにこの仕組みによるもので、シュレーディンガーの猫の例で言うと、箱を開けた時点(自分の世界の上書き時点・事象の結実時点)で、最初から死んでいたか生きていたかのどちらかで矛盾なく現実が上書きされ、その結果が同じ世界線のログインプレーヤー同士の認識世界でそれぞれ共有されるというわけです。
そして時には世界線を共有する者同士が一気に別な世界線に移動させられることもあり(偉大な主人公の死などが原因)、そうなると大陸の位置が変わったり、アトランティスやムーやレムリアのようにその存在自体がその世界線上の現実にはなかったことのようになったりもします。しかしそれを認識できる認識主体者(主人公)はほぼいないのです。例え認識主体者である自分がそれを認識できていても、それを言ったら他人からは気違い扱いされるだけなので言えません。通常は記憶も記録も含めて現実そのものが全部上書きされ、まるで現実は最初からそうであったかのようになるのですからね。
さて、現代科学において世界はまるで確率に支配されているかのように目されていますが、確率というのはクリエイターがすべてを偶然に見せるために用意したマジックの仕掛けなのです。この仮想現実における確率というのはパチスロのようなもので、確定リーチがかかっている時はどうやっても大当たりが出ますが、そうでない時にはまず大当たりは出ません。因果・カルマの見えない糸により、確率にはコントロールが掛かっているのです。
しかし我々がパチスロの台を分解してみても中にはすべての図柄が等間隔で均等に描かれているルーレットがあるだけで、我々がそのルーレットを自分で回して自分で止めたとしても、確率通りの結果が出るだけでしょう。それと同じで、創造主が神々を通じて因果・カルマによってコントロールしていることを我々が科学的に証明することはできないのです。
ただその確率というのは本当は人間の意思が(ある程度)変えることができます。認識主体者は確率のコントロール(因果・カルマの更新)に関わっているということです。それは二重スリット実験においてどちらのスリットを通るか被験者に念じさせた実験で結果に有意差が出ることからもわかります。
そのように意思(深層心理まで含めた思い込み)が強ければ、それだけ思っている通りの現実を引き寄せることが可能なのですが(スピ系の人が大好きな「引き寄せの法則」ですね)、この世は愛を経験させ学ばせるためのものなので、その真逆にあるエゴ(我欲と保身)のために自分にとってばかり都合の良い現実(自分の器に相応しくない幸運)を引き寄せようとする人は、例えそれによって一時的に成功しても、借金のようにカルマを積み上げることになってしまい、後に利子付きで返済を求められることになるでしょう。
大金を稼いでいる人を見て「なんでもう死ぬまで悠々自適な生活ができるのに働くのだろう」などと考えるようなエゴ(我欲と保身)が強い人に、大金を稼げるような才能は与えられないのです。それなのに思い込みの強さで大金など引き寄せたらまず不幸にしかなりません。宝くじの当選者などを見ていたらそれがわかることでしょう。創造主は人間をいったん調子に乗せておいてから突き落として学ばせるのがとても好きなようです。
創造主自身はそうして僕らが何を選択するかだけではなく、選択前に何を引き寄せるかまで最初から全部知っています(ラプラスの悪魔の正体は創造主ってことです。まぁそれを言うと全ての存在が本当は創造主自身なのですが)でも僕らが全ての事象の必然性を予め知っていたら魂が成長しないので、手塩をかけて全てを偶然だと思わせているのです。そして因果を更新(改善ないし改悪)させて魂の成長ゲームを楽しませているわけです。
パチスロの偶然性(ギャンブル性)がゼロだとしたら、全然楽しくないでしょう。知識や技術を向上させる要素がありませんし、結果が最初から見えていては運も全く関係なくなりますから、それではきっと誰もパチスロをやろうとはしないでしょう。この仮想現実世界も基本はゲームですから、そこは同じに創られているのです。
我々は人生というRPGをクリエイターからプレゼントされて自由に楽しませてもらっていますが、RPGの中で創造主が意図していない存在が出てきたり意図しない出来事が起きたりはしません。そもそも僕ら自身もクリエイターによってプログラムされたアバターの如き存在ですから、クリエイターが想定もしていないことを思考すること自体が不可能なのです。
「本当は結果が最初から決まっているのなら、生きる意味なんてないじゃないか!」と不満に思う気持ちも元NPCの僕にはよくわかりますが、それではなぜみんな結果(シナリオ)が最初からわかっているRPGを好んでやるのでしょうか?ドラゴンクエストなんて表題で出オチみたいなものじゃないですか?(笑)
ちなみにこの人生という物語の表題は「ラブストーリー」であり「愛は地球を救う」ですからね。それは普遍的な愛の物語であって、恋愛はその一部の構成要素に過ぎないので誤解のありませんように。「こういう人は愛せるけど、こういう人は愛せない」という条件付きの愛は愛ではなくエゴであり、それは愛とは真逆にあるものなのです。「欲とは悪いものですか?」に書いた通り、エゴをなくそうとするのではなく、あることを前提にそれを乗り越えることが大事です。自分のエゴ(我欲と保身)より他人のエゴを優先し、見返りを求めず満たしてあげる日々の中に覚りがあるのであり、そうすることで自分を愛せるようになって人からも愛されるようになります。それが連鎖すれば世界は必ず救われるのです。
せっかくクリエイターが我々を楽しませるために与えてくれているRPGを「自由がない」などと不満に思う事はナンセンスです。もし完全に自由なRPGが存在するなら、それはプレイヤーの想像力に全てを依存するものになりますから、プレイヤー自身が一からルールからシナリオから登場人物から何から何まで全てを自分で創り出さなくてはならなくなります。それではプレイヤー自身がクリエイターとなってしまい、楽しませてもらう側ではなく楽しませる側になってしまいます。
そのようにゲームに何でも思い通りにできる全知全能の存在が出てきたら、その瞬間ゲームは成立しなくなるのです。全てが思い通りになるということはとてもつまらないことでなのです。「片思いの存在意義」に書いた通り、もし全てが思い通りになったら、「思い」そのものに存在意義・存在価値がなくなり、思う事自体をやめてしまうことでしょう。それを考えれば僕らが何のために生まれてきたかがわかるはずです。
クリエイターとしてRPGを創り出す想像力というのは、共通のルール(縛り)がある思い通りにならないこの現実世界を経験していなければ育まれようがありません。僕らは思い通りにならないこの世界で、新たな世界・物語を作り出すべく思い(心)を豊かにするために経験を積んでいるのです。
この人生というRPGはめちゃくちゃ自由度が高く、シナリオ(ルート)を自由に変更することができ、職業・役割・結婚相手だって自由に選択できます。もちろんそれはクリエイターにより「選ばされている」のですが、ゲームが楽しめさえすればそんなことは重要ではないはずです。選択(自由意志)は幻のような存在で、どのカードを選んでもマジシャンの意図した通りという手品の如きものですが、我々はまずは無償で楽しませようとしてくれているマジシャン(創造主)に感謝しなければいけません。
せっかく自分という主人公次第の素敵なシナリオが与えられているのに、シナリオが最初からあるのは気に入らないとクリエイターに文句を言い、自分で人生・世界をネガティブに解釈してそのシナリオをネガティブなものにしておいて、それで我が身の不幸を嘆くのは(それが人間の初期設定なのですが)とても愚かなことなのです。
「自殺・安楽死するとどうなるか?」に書きましたが、「存在の根源」は創造主の思念・概念しか存在しない世界です。無限の可能性が無限にあるだけで、始まりも終わりもなく永遠に自分の思念と概念しか存在しない究極に孤独な世界であり、まるで芸術の素材だけが無限にあって何も事象が結実せずに芸術が存在しないかのような、すべてがあるけどすべてが無意味・無価値で存在しないに等しいような、究極に退屈な世界です。そんな5億年ボタンみたいな世界に永遠にいるのと、このシナリオがあって始まりも終わりもある仮想現実RPGを永遠に繰り返すのと、どちらが良いと思いますか?
さて、自由意志という幻はなぜ人間に(だけ)与えられているのでしょうか?それも「片思いの存在意義」「この世の生まれの格差」等、今までの質問の回答で書いていますが、あなたがクリエイターだったとして、自分を信じ愛するAIを作って、そのAIから信じ愛されて嬉しいでしょうか?また自動的に成長するAIを作って、それが成長して楽しいでしょうか?
創造主は人間に自由意志を与え、敢えて間違った愚かでネガティブな選択をするように初期設定した上で様々な選択肢を与え、自由意志により自発的に成長して自発的にポジティブで正しい選択をするのを期待しているのです。最初から真理・正解がわかっていたら自由意志と選択肢を与える意味がなく、成長の物語にはなりません。愛も信心も、人間をそのように敢えて間違った選択をするよう愚かに初期設定して、失敗・試行錯誤を経験させ、自由意志により自発的に成長させるためのものなのです。
そのためにクリエイターは人間に自由意志を与えて自由に選択させながら、因果応報という大法則を作ってそれに従って世界を企画・運営し、因果応報(善因善果・悪因悪果)の経験の中で人間に自ら真理を覚らせ魂を成長させているのです。
そして善因善果・悪因悪果というのはあまりにダイレクト過ぎると正しい選択を強制しているに等しくなってしまうので、原因⇔結果の循環(因果)を簡単には見えないように複雑に絡ませた上で、そこにタイムラグを設け、また先ほどの説明のように確率によってすべてを偶然と思わせ、なおかつまるで悪い事をしている人(他人・NPC)が得をしているかのように見せかけた上で、あなたがどのような選択(上書き)をするかを見守っているのです。
だから他人(NPC)と自分を比較したり、他人の常識を基準にして自分がどうするかを考えたりするのは、夢の中で出会った人に「これは夢ですか?」と尋ねるのと同じぐらい愚かな事であり(それがNPC思考であり人間の初期設定なのですが)、信心を持って経験を積みながら、主人公として創造主と一対一で向き合うことが大事なのです。あなたの世界にNPCが何億人いようと、その背中に隠れることはできないのです。創造主はあなたの心の中まで一瞬たりとも休むことなくすべてを見通しているのですから。
「
常識とは何か?」に書いた通り、もし常識が全部正しいならあなたという主人公に生まれて来た意味はありません。世の中は勝手に良くなっていくでしょうからね。逆に自分が常識に合わせられない部分はどこかを考え、それを愛と勇気によって覆していくことが、あなたの使命に辿り着く一番の近道だと思います。主人公であることに目覚めた人の人生というのは、例外なく愛と勇気で世界を救う物語になっているのです。だからどうか主人公に目覚め、エゴ(我欲と保身)のためではなく、愛で世界を救うために生きて下さい。世界を救うという目標があって初めて「では自分にできることは何か?」と使命(本当にやりたいこと・やるべきこと)が見えてくるのです。エゴ(我欲と保身)を動機にやりたいことを見つけようとしても、結局やりたくもないことの我慢代で駄賃を稼ぐ奴隷NPCとなってしまう定めなのです。
人生というRPGは本当にすべてが自分次第に創られています。ただ認識(解釈)の選択が、行動の選択より一瞬未来側で自分自身と自分の世界を創っているということを人類は知らなければいけません。
人生・世界に対してネガティブな解釈をする人にはネガティブな人生・世界が創り出されます。逆にポジティブに解釈する人にはポジティブな人生・世界が創り出されます。我々は自分の認識・解釈により自分で作り出した世界の中を生きている(経験・上書きしている)のです。
我々は行動の選択により自分の人生を創っていると思い込んでいますが、それは初期設定通りの大きな誤解です。自分が無意識に思い込んでいる常識(認識・解釈)により、選択主体者である「自分自身」と「自分の世界」は既に作られ、その世界の中を経験しているのです。
「選択をする自分」自体を、選択する以前に自分で作っているのですから、選択肢がやってきてからより良い選択しようと思っても、どんな選択肢がやってくるのかも何を選択するかも既に決まっているので無駄なのです。普段から創造主の愛に適った思考・行動をしている人には何を選んでも良い結果につながる選択肢が与えられ、創造主の愛に反した思考・行動をしている人には何を選んでも悪い結果につながる選択肢が与えられるのです。
人それぞれ人生で後悔していること色々はあると思いますが、その行動の選択を悔んでも意味がありません。その行動を選択してしまったその考え方(認識・解釈)を改めるべきなのです。考え方(認識・解釈)が変わっていないなら、きっとまた同じ過ちを繰り返すことでしょう。大事なことは自分や他人の非を責めて改めさせることではなく、また傷つきたくないために今までの自分を守ろうとすることではなく、ただただ今までの考え方(認識・解釈)をより良いものに変えて行けばいいのです。そうすれば過ちや失敗を含めた過去のすべてを「自分にとって必要な過程だった」と愛せるようになります。
「反省してはいけない」に書いたように、自己イメージと行動のレベルは正比例します。「わかっていても悪い行動がやめられない」という人は多いですが、自尊心の低さにより行動レベルが低い自分を日々作り上げているのですから、やはり選択肢がやってきた時点で良い選択をしようと思っても無駄なのです。
しかもやってくる選択肢自体が自分の認識・解釈の如何によって創造主からもたらされるのですから、ネガティブに解釈している人が何を選択してもネガティブな結果にしかならず、逆にポジティブな人は何を選択してもポジティブな結果になるのは当然なのです。つまり選択の自由というのは「行動の選択自由」ではなく「認識・解釈の選択自由」なのです。
例えば「自殺・安楽死したらどうなるか?」に書きましたが、夢が叶わなかった時の退路を考えているの夢は叶いません。リソースを退路の確保のために使い、常に夢が叶わなかった時のことをイメージして自分の人生・世界を作り出しているからです。それでは退路を断って己の夢に全てをかけている勇者に敵うわけがないのです。同様に「いざとなったら死ねばいい」などと自殺や安楽死を退路として考えている人間は、そのような結末に追いやられるような人生になるでしょう。
大切な事は、僕が「悪いカルマの解消法」などに再三書いているように、常に創造主からの愛によって自分にとってベストなものが与えられているのだと信じて愛で解釈し、存在一つ一つの価値に気づいて感謝することです。
僕らはみんな創造主の一部であり、創造主は僕らの統合意思のようなものなのです。あなたが創造主なら、与えたものの価値に気づいて感謝しない人間に、もっと良いものを与えようとは思わないでしょう。もっと良いものを与えても価値に気づかず感謝しないだろうことは確実ですからね。そうして他人と自分を比較してばかりで誰かを羨んで自分や他人を蔑み、与えられたものに不平不満ばかり言って我が身を呪うようでは、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことで与えられていたものの価値に気づかされるような悲しい人生になって、どんどん不幸に追い込まれることでしょう。「他人(NPC)と比較して」良いものが与えられなければ感謝できないという人の感謝に価値はないのです。
人生が映画なら、監督から与えられた役やシナリオに文句ばかり言って真剣に役をやらず、降板することを考えながらテキトーに演じている役者に、監督がより良い役やシナリオを与えてくれるわけがありません。「男はつらいよ」の寅さんと同じで、どれだけしがない庶民役に見えようとあなたが主役なのであり、常にカメラはオンになっている(心の中まで全部見られている)ということを忘れないで下さい。
エゴ(我欲と保身)にまみれて信心も感謝もない人間が自分の力で選択する事で幸せになろうとするのは創造主からすれば傲慢でしかなく、人生が思い通りにならない事に対する不平不満と恨みでいっぱいになる人生が与えられます。そしてハズレばかり引いてイライラして「何をしたってムダだ」と自暴自棄になったり、無気力で厭世観の強いネガティヴで嫌な人間になってしまうのです。大切なのは良い選択をする能力ではなく信心と感謝なのです。
我々は事故や病気などあらゆる死の可能性を集めればとっくに死んでいますし、そもそも生まれてもいません。我が身の不幸を嘆いたり、将来の苦痛や不幸に過度の不安や恐れを抱くのは「生かされている」っていうことへの信頼と感謝の欠如であり、不幸に導かれるのは当然のことです。
カルマ(因果)は人生というRPGの物語の伏線・シナリオであり、カルマに正面から立ち向かってシナリオを回収しようとせず「自由意志は幻なのだから、何をやってもクリエイターのプログラムした通りにしかならないのだろう。それならどんなに自暴自棄な選択をしようと関係ないはずだ」みたいに考える事はとても愚かな事であり、シナリオ(カルマ)をどんどん悪化させて人生という素敵な物語をつまらないものにしてしまいます。そして延々と輪廻の中でカルマ(追試と補講)を繰り返し、楽しいはずの夏休み(浄土)をどんどん目減りさせてしまうのです。
般若心経が教えてくれている通り、全ては幻だからこそ我々は何も恐れずただひたすらに真理(覚り・真の幸せ)を求めて突き進めば良いのです。
創造主は言いました。「結果(真理)に価値があるのではなく、過程(経験)が結果(真理)を価値ならしめるのだ」と。結果(真理)そのものに価値があるのなら、すべての結果(真理)を既に知っている全知全能の創造主が我々を創る意味はありません。どんな概念も経験を伴わなくては存在意義・存在価値がないのです。そしていきなり真理に至っては経験に意味がありません。それは番組冒頭で答えを教えられるクイズ番組のようなものです。どれだけ面白い体験(失敗と試行錯誤)をしてその結果(真理)に至ったのか、それまでどれだけの存在・出来事を許して愛したか、どれだけ想像力(心)を豊かにしたか、それが人生の価値なのです。
というわけで、普段から真理(覚り・真の幸せ)を追い求め、どんな人・どんな出来事との出会いも常に愛で解釈し、様々な感情を経験できる主役を与えられていることに感謝し、常に良い思念で自分を満たすようにしましょう。それが連鎖すれば必ず世界は救われ、みんなが幸せになります。