2022年12月26日月曜日

コロナワクチンは危険ですか?

【質問】40代男性
どれだけ考えても分かりませんので真也さんに単刀直入に聞きます。創造主が何と答えているか教えてもらえると助かります。

コロナウイルスは存在しますか?また、コロナワクチンは陰謀論で言われている様な危険なものですか?

自分は3回接種済ですが、報道とネットの情報がかけ離れていて不安です。

【回答】ご質問ありがとうございます。お気持ちお察しします。

まず、誤解している人が多いようですが、創造主は僕が質問すれば何でもすぐ答えを教えてくれる存在ではありません。覚醒後数カ月はかなり直接的に教えてくれていましたが、これ以上直接的に教えると人生が魂を成長させるためのRPGとして成立しなくなってしまうので(成長は自発的でないと自由意志と経験機会を与えた意味がなくなるので)、その後は常に人や情報や出来事との出会いを通じて僕に自ら覚らせるようにしてくれています。そしてそれはきっと僕だけでなくあなたや他の誰に対しても、創造主はその人の魂にとって必要な時に必要なだけ、導く形で間接的に教えてくれているのだと思います。

コロナウイルスとそのワクチンのことで不安になるお気持ちはわかりますが、既にワクチンを打ってしまったのなら不可逆なのですから今更それを心配しても仕方がありません。

人生は愛と勇気を試すためのRPGなのですから、創造主はあらゆる手段を通じて我々を脅して不安にさせたり怒らせたりしてきますが、決してそれに屈してはいけないのです。

どんな出会い・出来事も魂の成長にとってベストなものが創造主の愛に与えらえているのであり、僕らはそれを愛で解釈してその真意を知り感謝しなくてはいけません。僕は創造主の愛を心から信じて感謝しているので、何事からも本質を見抜けますし、何があっても不安になったりはしません。

エゴ(我欲・保身・虚栄)に埋没し、臆病・怠惰に陥っている姿は愛と勇気を試すためのRPGにおける主人公の姿と反するものであり、常識や権力者・権威者の言うことにただ従っていれば安全でラクだと考えるNPCになってしまってはいけないこと。そして主人公はあなたなのであり、自分と創造主の関係は誰にとっても一対一であり、他人の言う事やる事は一切言い訳には使えないということ。創造主はそういうことを我々に経験的に教えてくれているのだと僕は思います。

人生は誰にとってもわからないことだらけであり、生きるということは何かを信じるということなのです。そして「何を信じるか」の選択主体者があなたなのであり、その結果責任を負うのもあなた自身なのです。疑り深く「何も信じてない」という人は、自分の勝手な常識を信じていることにさえ無自覚なだけです。そして「信じることの意義」に書いた通り、神は存在が証明不可能だからこそ信心には価値があるのです。

僕らは医学研究者ではなく自分で詳しく検証できるわけでもありませんし、ウイルスやワクチンについては考えてわかるようなものでもありませんし、医学研究者でもよくわかっていない段階で確実なことはわかりようがないです。だから僕は情報を自分の経験に根差した哲学と信心に従って判断するのみです。

またそういうことは創造主に聞いたところで直接的には答えてくれません。前述のように僕にとって必要な情報は必要な時に必要な分だけ人や情報や出来事との出会いを通じて導かれ自ら覚らされるのです。

僕はコロナワクチンについてネガティヴな情報とばかり出会いますし、この人生におけるコロナやコロナワクチンの役割も僕なりに理解しているので、僕はまだワクチンを打ってませんし、打つつもりもないですし、打つという選択を迫られる状況にもなっていません。打つべきか打たないべきか、導かれている方向は明らかです。

僕は一度死んでいますし、自分の運命(寿命と使命)を受け入れていますので、基本的にいつ死んでも構わないと思っています。ですからワクチンが死期を早める可能性があったとしても別に気にしません。ワクチンが精子や性欲を弱体化させるとしても、僕は特に子供を作りたいと思ってはいませんのでを個人的にはどうでもいいです。ので、例え既にワクチンを打っていたとしても特に不安になる要素はありません。ただワクチンによりかえって免疫が下がって病気にかかりやすくなって長く医者や薬の助けが必要となって、わずかな富さえ奪われ続けるような人生になる可能性があるとしたら、それは嫌なので拒否します。

だいたい僕がコロナワクチンについて何かを「創造主からこう聞きました」などと言ったところで僕には科学的証明ができるわけではありませんから、あなたにとって僕の言う事はネットでの伝聞情報であることには変わりがなく、「信じるか信じないかはあなた次第」という都市伝説の如きものにしかなり得えません。そして何を信じるにせよ信じないにせよその結果責任を負うのがあなた自身であることにも変わりはありません。

情報を判断する核になるのは自分の経験に根差した哲学と信心です。そして主体者として自分が信じたことによるいかなる結果も受け入れるという覚悟がなくては、今後も不安に怯え続け情報に振り回されるだけになるでしょう。そして自己利益を期待して何かの伝聞情報を信じ、その結果が悪ければ「騙された・裏切られた」と被害者意識に陥るだけになるでしょう。あなた自身が変わらない限り、伝聞情報によってあなたの不安が解消されることはありえないのです。真理(覚り・心の平安)というものは情報に対して疑り深くなるだけ(懐疑主義)では決して得られないのです。

人間の寿命は最初から決まってますから、臆病になる必要などないのです。どっちみち人間はいつか死にますし、何が死因になろうといつ死ぬかはだいたい既に決まっているのです。そして死の苦痛は幻であり、魂は永遠です。あなたがそういう僕からの伝聞情報を信じないとしても、あなたがコロナワクチン以外の原因で死ぬ確率の方がずっと高いことだけは間違いありません。そして事故や病気で死ぬ確率を全部足したら僕らはとっくに死んでいますし、確率で考えるなら生まれてすらいません。というかこの世界自体が生じていません。自分と世界が存在し、今を「生かされている」ってことにどうか信頼と感謝の念を持って下さい。

そして自分の使命が何かを考えてそれに命がけになり、エゴ(我欲と保身)を乗り越えるために少しずつでも信心を持って六波羅蜜を行じ続ければ、死に対する不安も乗り越えられるでしょう。恐れというのはすべからくエゴ由来なのですから、エゴを乗り越える日々を送っていれば不安は解消されていきます。実際僕はまったく不安にはなりません。

ワクチンについては販売している製薬者側も(打つことを強制している政府側・支配者側も)みんなきっとよくわからないまま打たせているのでしょう。彼らはシナリオ通りに動かされているNPCに過ぎませんから。※陰謀論についてはこちらの「この世の生まれの格差について」をご覧下さい。

(シナリオ通り)霊障を通じて人々を操り世界を牛耳ろうとしている悪魔たちは、常に人間をエゴ(我欲と保身)に埋没させ臆病にさせ不安に陥れることで醜く争い奪い合い・責め合愛・蹴落とし合うようにしているのであり、僕らはそのカルマ(課題)を乗り越えて、無償で助け合う社会を作っていかなければならないのです。人生というRPGのシナリオ・基本設定はそのようにできているのです。

今の社会は利益(エゴ)至上主義ですから、医療も当然「どうやったらより多く利益があげられるか」が人命より大事になるのは当然です。ワクチンも当然そういう価値観の中で作られているものです。だから僕らは社会の価値観から変えて行かなければなりません。それにはまず主人公である自分の価値観から変えて行かなければならないのです。そしてそれは必ず連鎖していつか世界は必ず救われるのです。

真理は愛であり、他人に押し付けるようなものではなく、ガンジーの非暴力不服従運動のように、自ら実践すればそれは必ず連鎖するのです。あなたが目の前の二人を救えたなら、それが50連鎖するだけで1000兆人という途方もない数の人が救われるのです。連鎖反応というのはそのように指数関数的に広がるものであり、一度始まったら火をつけたスチールウールのように誰にも途中で止めるようなことはできないのです。支配者がどんな権力を駆使してそれを止めようとしたところで無駄なのです。


資本主義経済の本質は椅子取りゲームであり、便利さを提供する能力の高い人間にどんどん合法的・合理的に富が集中し、我々は便利さに踊らされている間にどんどん貧しくなり、どんどん残り少なくなっていく椅子を醜く争い合うようになっているのです。社会が10倍便利になろうと10倍豊かになるわけでも仕事量が10分の1に減るわけでもなく、10倍幸せになるわけでもありません。むしろ逆であり、階級支配・奴隷支配がより強化され、それが正当化されるのみです。自由競争・適者生存という価値観が変わらない限り、世界が救われることはありません。

支配者たちは椅子を戻すのではなく人を減らすことでこのゲームをまだ継続させようとしています。コロナワクチンも当然その施策(人口削減計画)の一環です。ただそれはこのRPGのシナリオ通りであり、打たせている側のNPCたちもシナリオ通りに動かされていることには(あなたと同様に)無自覚です。本当にまったく悪意なく人々を救おうという正義心でワクチンを開発したり販売したり勧めたりしたいる人達もいっぱいいるでしょう。RPGなんですから、基本的に主人公であるあなた以外はNPCであり、みんな自分の意思でやっているつもりで、設定通りに思考・行動させらされているだけなのです。だから誰かを責めたところで意味はありません。この世界に主人公の救いの対象でない人はいないのです。

バイオハザードでゾンビが出てくるのは主人公が悪いからではありません。ウイルスを開発したアンブレラ社やゲーム自体を開発したカプコンを責めてもゲームが進みません。自分に与えられている課題が何かを考え、楽しみながらそれを一つ一つクリアしていくのみです。

あなた自身が主人公として目覚めないなら彼らと同じNPCのままです。他のNPCと同じように資本主義を絶対だと思って、エゴのために生きるのが当然という価値観・常識の社会の中で、その支配体制を支える一員となってしまっていては、このゲームのクリアは望めません。

僕は3年ほど前にNPCをやめました。そしてこの社会の価値観を変え、この狂ったマネーゲームをソフトランディングさせ、みんなが愛によって無償で助け合う世界を実現する主人公として立ち上がりました。

NPCというのは、自分で選んでいる気分だけ味合わせてもらいつつ、設定通りに動かされているだけのAIに過ぎないのです。あなたは主人公として愛と勇気を発揮して世界を救う冒険に出るのか、それとも常識に従ってエゴに埋没し・損得勘定で生き・コロナやワクチンなど色んなものに怯えて情報に振り回されながら支配され続け、富を奪われ続ける脇役NPC人生を今後も続けるのか、まさに「今」その選択を迫られているのです。

2022年12月25日日曜日

人間関係で仕事を辞めたい

【質問】年齢・性別不明
匿名ですみません。今日、人間関係のことで完全に心が折れてしまい、退職を考えました。「誰でも自信満々になる方法」は拝見して、実践していましたが、もう逃げ出したくなってしまいました。

とはいえ、転職を何回も繰り返していると経歴に傷がついて仕事に就けないと思うと、がんじがらめになって、もうどうするべきかもわからなくなってしまいました。

会社で立派に働いて、親孝行をして家庭を作るという理想像とはかけ離れた現状で、みじめでとてもつらいです。

【回答】
ご質問どうもありがとうございます。

ええと、匿名は全然良いのですが、年齢や性別がわからないと具体的に状況をイメージして対策を考えるのが難しくなってしまいます。精神的に余裕がない時でしょうから無理もないことなのですが、ご質問内容も長文になってかまいませんから、もう少し具体的に書いていただけると助かります。

さてご質問の内容についてですが、僕もそのような経験をしているので、お気持ちは非常によくわかります。僕のダメリーマン時代は酷かったですよ。瞬間記憶が苦手で(特に興味のない事は)仕事が覚えられず、ありえないミスを連発し、契約社員たちからもバカにされまくり(なんであいつの方が正社員で給料が高いのかとスケープゴートのようにされ)、ナルコレプシーのため大事な会議でもすぐ寝落ちし、鬱が悪化してエゴに埋没して周囲が全く見えず、うまくコミュニケーションを取れませんでした。それで職場の人間関係も仕事もうまくいくわけがなく、ひどいいじめに遭い、それでも自分が悪いとしか思えないので心の中でさえいじめに反抗する事もできず、自分ばかりを責めていました。すっかり自信を喪失し、こんなホワイトな職場で何のスキルも身につかず人間関係うまくいかないようなら他所に行っても絶対に無理だと思って転職を諦めていましたし、大企業での安定した職を捨てる勇気がなく、また就職を喜んでくれた親をがっかりさせたくなく、会社にしがみ付いている社畜奴隷で、長年付き合っていた彼女も呆れて僕を見放し、いつも死ぬことばかり考えていました。

でも今では良い経験をさせてもらったなと、創造主にも出会ったすべての人にも感謝しかありません。お陰で他人の気持ちがよくわかるようになりましたし、この社会で何が問題でどう解決すべきかもよくわかるようになりましたから。あの時死なずにいてくれた自分も褒めてあげたいです。

人生で起きることはすべて魂の成長の為に必要なことで必然ですから、あなたが悪いのではありません。どうかご自分を責めないで下さいね。そして創造主と与えられた運命を呪わないで下さい。周囲の人達もあなたが主人公のRPGにおいてプログラムされた通りに役割をこなしているNPCであり、あなた自身でもあるので、恨んだりしないで下さい。

鬱状態の時は誰でもエゴに埋没してしまって周囲が見えなくなり、まるでその問題で悩んでいるのが世界で自分だけであるかのように感じられてしまいますが、職場の人間関係で悩んでいるのは決してあなただけではなく、むしろ普通のことであり、あなたの職場の他の人達だって同じように悩んでいるはずです。人間関係というのは一人でできているわけではありませんから当然です。周囲の人も同じように嫌な気持ちで悩んでいることでしょう。

とりあえず今はまだ親孝行なんて考えないで下さいね。親孝行ができないなんてことで悩んで鬱になっていずれ自殺してしまうようになったら何にもなりません。親孝行など直接的には僕もまだ何もできてないですし、まだ心配しなくて大丈夫です。子供の頃可愛いかったっていうだけで親孝行の責任は果たしてますし、親がそう思えないのなら子供など作るべきではなく、それは親の側の問題なので気にしないで下さい。そんなことよりあなたが幸せになってくれることが一番の親孝行であり、あなたが親なら子供に対してそう思うはずです。だからあなたが幸せになれば良いのです。そして苦難を伴わず不幸を経験せずに本当の幸せを感じることはできないのですから、今の苦難はそのための伏線だと信じて下さい。

あなたはかつての僕と同じできっととても不器用な人なのでしょう。不器用っていうのはとても素晴らしい資質であり、得意でも好きでもないことでそこそこうまくやれてしまうと、自分に合っていない仕事を定年まで続けるハメになってしまいます。

あなたがもし本当に自分の適職・使命だと思っている仕事で、純粋に人間関係の問題で辞めたいのなら耐え忍ぶべきだと思いますが、もしそうでないなら職歴なんて気にせずにさっさと辞めてどんどん色んな職業を経験してみれば良いと僕は思いますよ。それは簡単に適職・天職に導かれてしまった人間の人生より面白いと思います。ただ自信を失い続けるような時間が続くだけなら、例えお金が稼げても大事な人生がマイナスになってしまいます。

職歴とか生涯収入なんてつまらないことにこだわらなくて良いのですよ。簡単に辞めないという我慢強さを最重要視するような企業はブラックな状況を押し付けられる奴隷を求めている企業ですから、就職しても幸せになれるわけがありません。本当に良い条件でやりがいのある仕事をしている企業なら社員はそんなに辞めませんから、前職を短期間で辞めたことなどそれほど気にしないでしょう。だから気にしなくて全然大丈夫です。もしあなたが人間関係のことを相談できるような人が周りに全くいないほど殺伐とした職場なら、さっさとやめた方が良いです。

あなたにはあなたという主人公だけに用意されたシナリオがあるのです。社会的な成功(他者評価)や生涯収入やどのぐらい親孝行できているかなどを他人と比べず、まずは仕事のストレスによって憂さ晴らしをするかのようなお金の使い方をしたり、見栄でお金を使うのをやめて下さい。生活保護でも十二分に暮らせるぐらいに生活をミニマムにして下さい。断捨離して物も徹底的に減らし、ラピュタのパズーのように40秒で冒険に旅立てるぐらいに身軽になって下さい。できれば鬱で休職してでも借金してでも長期の旅に出て、今の人間関係から一度離れてみて今までとは全く違う人たちと交流してみて下さい。

さて、あなたは「誰でも自信満々になれる方法」を読んで実践して下さったそうですが、恐らく実践した「つもり」で全くできていないと思います。もし出会った人をいつも心からの笑顔で承認し、感謝し、尊敬し、許し、愛するっていうことを実践して人間関係がうまくいかないのだとしたら、かつての僕と同じでよっぽど仕事が向いてないか、よっぽど深いカルマを背負っているかのどちらかです。

悪いカルマの解消法」を読んでみて下さいね。あなたのその重いカルマを解消すべく、自発的に信心を起こし、日々浄霊(霊的浄化)を心掛けて下さい。鬱状態の時には難しいことですが、心身と環境を綺麗に保ち、無料で浄霊してくれる宗教に通ってみて下さい。寄付や奉仕を強制してくるような宗教だったらそれは詐欺なので一目散に逃げて下さい。

鏡の法則」にあるように、カルマというのはどこでどう絡まっているか人間にはわからないものです。あなたは何か解決しないまま目を向けないようにしている問題はありませんか?出会った人で困っている人を助けたりしていますか?職場以外でも出会った人をいつも例外なく笑顔で承認し、人生の共演者として無条件で尊敬し、感謝し、許し、愛せていますか?謝るべき人に謝り、愛を伝えるべき人に会いを伝えられていますか?

今は視野がものすごく狭くなっていると思うので、一度鬱病ということで長期で休んでも良いですし、鬱病で退職ということで三カ月ぐらい生活保護で暮らしても良いですから、一旦落ち着いて自分の人生を振り返ってみた方が良いのではないかと僕は思います。

それと鬱の時はなかなか長文を読むのはキツいでしょうけども、少しづつでいいので他の記事も読んでみて下さい。きっと救いに繋がるはずです。

僕の言う事は陸上で世界記録を作るのとは違い、一切才能は要らず、覚悟さえあれば誰にでもできることです。最初から完璧にできない・結果がすぐ出ないから諦める、というのでは何もできません。それは「自分には世界記録は出せないから走らない」と言っているようなものです。

今はまだ精神的に引きこもっている状況でしょうから、まずはそこから出てたくさん歩くこと・歩くのを楽しんで好きになることから始めなくてはいけません。ベクトルをポジティブな方にさえ向けていれば、あとは自然に導かれるのです。それを「自分にはできない」とネガティブな方に向けていたらいつまでも与えられた課題を乗り越えることができなくなってしまいます。

あなたの問題の根源はきっと自尊心・自信の低さだと思うので、まずボランティアでもして無償で人に尽くしてみて下さい。仕事をすぐに辞められないのなら空いた時間だけでもいいので。そうしてまず人に存在を喜ばれる経験を積んで下さい。ただそれは人に評価され感謝されることが本質ではなく、あなたが「自分は絶対に悪い人間ではない」という確信を持てる経験を積むことが本質です。

鬱の時というのは、自己嫌悪の高速回路が脳にできてしまう感じで、悪い思い出ばかりを中質して思い出して「ネガティブな自己統一化」をしてしまい、自分も人生もどんどん嫌いになってしまいます。そういう時に一つでも「いや、それでも自分は良い事もしてきた」と、その高速回路を断ち切り「ネガティブな自己統一化」を外せるようなエピソードを積み重ねていくことが大事です。エゴに埋没したままではそれはできません。

自己嫌悪の元になっているのは罪と恥の意識だと思うのですが、「罪と恥の存在意義」に書いた通り、罪や恥は幻であり、許し合い愛し合うためのマテリアルですから、出会った人の罪や恥をどんどん許し、自分自身を許せるようになって下さい。他人を責めたり見下したりしなくなれば、自分を責めたり蔑んだりもしなくなります。

何より「反省してはいけない」に書いた通り、自分を責めないで下さいね。自己イメージと行動のレベルは正比例しますので、自己イメージは絶対に下げてはいけません。あなたに起きた悪い事はすべて魂の成長に必要な試練であり、あなたが悪いのではなく、あなたを自分と同じ不幸に陥れて同情されようとしている霊障のせいですから、同じような状況にあるたくさんの人に同情しつつ日々浄霊して下さい。主人公である己の尊さに目覚め、出会う人の尊さ・創造主や神々の尊さに気づいて下さい。

あなたはまだ天職に巡り合えていないのだと思いますが、天職というのは「世界を救うメシア・菩薩(主人公)」として目覚める覚悟(菩提心)を持ち、その上で「では自分には何ができるのか?」という形で見えてくるものであり、将来を恐れて臆病になり「職歴に傷が・・・」などと保身ばかり考えて仕事を辞めれず奴隷的な状況に甘んじているようでは見えてきません。愛はエゴ(我欲と保身)とは真逆にある概念なのだと知って下さい。あなたが今までの人生で人を笑顔にした経験はどんなことですか?それがヒントになるはずです。

あなたが主人公なのですから、他人と比べて「お金にならないから価値がない」と己の存在や才能をつまらないもののように考えないで下さいね。「男はつらいよ」の寅さんと同じで、映画の中ではどれだけつまらない・しがない庶民役だろうと、あなたが主役なのであり、上位次元の存在達はあなたの人生を一秒も休むことなく心の中まで全部見ているのです。

世界はワンネスであり、あなたは僕自身であり、僕はあなた自身なのです。ですから魂の兄弟として尊敬し感謝し愛しています。そして名も知らぬあなたの幸せを心の底から祈っています。

2022年12月19日月曜日

なぜLGBTに救いが必要だと言うのか?

【質問】20代男性 ゲイ
なぜ性的マイノリティに救いが必要だと仰っていたのか疑問です。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

僕は救いが必要でない人間というのはいないと思います。人生というのは魂の成長の為に人それぞれ乗り越えるべき課題が山積しているものだからです。

そして僕は「より」困難を抱えている人ほど「より」救いが必要と考えています。決してLGBTに限定して発言してはいません。(本当は自分の困難を他人と比べること自体がナンセンスなのですが)

また僕がLGBTとは別の困難を抱えている人(障碍者・犯罪者など)を「より救いが必要」とまるでLGBTと同列のように発言しているのが気に入らなかったのかも知れませんが、僕は「より困難を抱えている」という意図で並列しただけで、それらが一緒であると言っているわけではありません。そして僕はその困難を「自業自得かどうか(先天的要因・環境的要因かどうか)」という点を基準に救うべきか救わないべきかを決めるべきではないと考えています。「こういう人間は救われるべきではない」などと考えてしまうと世界は決して救えないからです。

恐らく「(LGBTに)救いが必要」と言うことが差別に当たるのではないかというご指摘だと思いますが、そのような意図はありません。だから僕はあなたが誤解しているのだと思いますが、あなたがこの回答を読んでも「誤解ではない」とおっしゃるのなら否定する術はありません。自分の人生は自分の解釈が作っているのであり、そのように解釈する人はそういう人生を歩むのみです。

異性愛者が多数派の社会的においてLGBTが大きな困難を抱えている=より救いが必要なのは事実であり、それを言及しただけで差別だというのなら解決のしようがありません。

僕は「救いが必要な人は、アヤワスカの儀式を受けに来て下さい」と言ったのですが、あなたが「自分は救いなど必要としていない(=完璧に幸せである)」というのなら、僕の発言など無視しているのではないでしょうか?

ツイッターはその特性上、真意を伝えるのはとても難しいですね。限られた文字数で意図を正確に伝えるというのはとても難しく、誤解する人が出てくることは必然である点、どうぞご了承ください。

アヤワスカの儀式は、明らかにLGBTの方々の割合が多く、儀式中心に生活をしている僕の友人は必然的にLGBTの方々が多いです。今僕が主に通っている儀式の主催者の一人もゲイであり、もし僕が差別するような人間だったらファミリーに迎え入れて毎週のように儀式に無料で参加させてくれるわけがありません。

誰でも自信満々になれる方法」に書いた通り、僕の主張は出会った人を例外なく尊敬し、感謝し、許し、愛することであり、常に正義より愛を優先することです。

もちろん簡単なことではありません。でもできないからといって最初から諦めるのは「自分は世界記録は作れないから走らない」と言って家に引きこもるようなものです。まずは日々外に出て歩くところから始めなければいけません。「ベクトルをポジティブな方に向けるか(ネガティブな方に向けるか)」がとても大事なのです。他人とスタート地点(才能・境遇)が違うからといって(人より困難を抱えているからといって)己の存在や世の中を憂いていては幸せにはなりようがないのです。

※ご質問は「年齢・年代、性別」だけでなく、できれば「なぜそれを疑問に思ったのか(質問者さん自体はどう考えているのか)」も書いて下さい。そうでないとこちらはそれを想像しながら書かなくてはならず、的外れになる可能性もあるので。

そしてできればご質問はnoteや質問箱はほんの少しでも事前に読んでからにしていただけると幸いです。質問風の批判は甘んじて受けますが、質問風の誹謗中傷(意図的に曲解していて最初からこちらを理解する気がない)ならご遠慮願います。

2022年12月4日日曜日

自由意志は存在するか?

【質問】
自由意志は存在するのでしょうか?それとも全てが予め決まっているのでしょうか?

最近の話で自由意志は存在せず、元からある肉体に外部の環境が情報として伝わり、ただ反応しているだけ。つまり全部あるべくしてあるだけなんて話もあるそうです。そうなると、この先も今までも、関数が多すぎて予測ができないだけで決まった人生を歩くのかなぁ、と半ば諦めのような気持ちになってしまいます。どうお考えでしょうか?

【回答】旧質問箱からの転載・12月5日更新
ご質問ありがとうございます。「自由意志は実在するのか?」についてはよく質問をいただくので、いずれnoteで詳しく解説しようと思っています。

結論から言うと、自由意志はあります。でもそれは幻の如きもので、一般的に多くの人がイメージしているものとは違います。

そもそも僕らの認識している世界自体が仮想現実であり、あなたの自由意志だけでなく、あなた自身(自我・分離意識)も、あなたの認識できる森羅万象も、全てが幻の如きものなのです。

しかし幻というものは存在しないという意味ではなく、幻という仮象の形で確かに存在しているのです。電源を落としたらデータだけ残して全てが消えてしまうゲームのように。

本当は存在しないものが、魂の成長(覚り)のために、幻としてこの世界に現されているのです。般若心経の教えているところもまさにここなのですが、それを本当の意味で理解している人は恐らく今の世の中(我々の世界線)にはほぼいないと思います。

まぁそれ以前に読者の方の多くは「自由意志が存在しない?あるに決まってるじゃないか。何を言っているんだ?」って感じでしょうから、最初に「受動意思仮説」について説明しなければいけませんね。

こちらの動画がわりと簡潔でわかりやすいかと思います。

受動意思仮説を簡潔に説明すると、僕らが自分の意思で何かを選択する前に、脳は既に命令を発しているという実験事実から「人間は何かを選択しているのではなく、脳がやらせたことを自分の意思でやったというように後付けで理由を考えているのであり、意識は受動的なもので、エピソード経験者として存在しているだけである(つまり人間に自由意志はない)」とした理論です。

この理論は複数の研究者による数多くの科学的な実験結果に基づいているため(しかも例外が全くないため)とても説得力があります。被験者に選択肢を与えた時、脳波を検出すれば、本人が自分の意思で選択する前にどちらを選択するかを知る事さえ可能なのです。そしてこの研究によると、人の意思は自分の脳が無意識にやろうとすることをギリギリで止めれる可能性があるっていう程度だそうです。それでは自由意志はほぼ存在しないことになります。

しかしそれでは犯罪などが起きても誰にも責任を負わせることができなくなります。まぁ僕の持論は「罪と恥の存在意義」に書いた通り常に「誰も何も悪くない」なので、僕的にはそれが正しいのですが(笑)いきなりそうなってしまっては現代の法治国家が成り立たなくなってしまいますし、実際この受動意思仮説は誰も科学的にきちんと否定証明(ないし肯定証明)できた人はいません(それゆえの「仮説」です)し、この理論は少なくともまだ体制側には認められていません。

が、今回僕はその証明を論理的にやります(笑)まぁ真実がわかってしまうと、この受動意思仮説、半分は正しく半分は間違っているという感じなんですけどね。

まず、既に「宇宙の仕組み」において概ねご説明させていただいていることなのですが、時間とは過去から未来に向かって一方的に流れているものだというのは思い込みに過ぎない(間違いである)ということを、人類はもういい加減に知らなければいけません。


もし人間が感覚的に認識している通り時間が一方向に流れるようなものなのであれば、我々が現在を認識しようとする間に時間が過ぎてしまい、我々は常に現在よりも一瞬だけ過去に生きることになってしまいます。それでは「現在」何かを選択することができません。

こんな簡単なことにも気づけないように我々の意識はわざと愚かに初期設定されているのです。仏教用語ではこのような愚かさを「無明」と言います。すべては二元的(陰陽的)に存在していて、光(智慧・真理・完全性)を価値ならしめているのは無明(闇・愚かさ・不完全性)の存在なのです。

この世界は仮想現実であり、それはリーダー&ライターである僕らの魂(光)がデータを読み込むことで生み出され、それを上書き更新(リライト)し続けているのです。

僕らは一つの客観的世界に生きているわけではなく、一人一人の主観的世界(認識世界)に生きていて、それが世界線によりインターネットゲームのようにつなげられることで重層し、各々がまるで一つの客観的世界にいるように錯覚しているのです。世界はメインサーバーのないP2Pネットワークのようなものなのです。

各認識主体者はデータを読み込んで自分の認識世界を作り出してからそれを上書きしているので、我々の認識する時間軸上でそれを見た場合、約0.5秒ほどのタイムラグが生じているのです。だから自分の意思で何かを決定するより一瞬未来に、既に自分の認識世界を「無意識(深層意識)」により作り出して、それを意思が過去に遡って自分の認識世界を上書きして再認識しているのです。その認識ポイントと上書き・再認識ポイントの隙間にある時間(刹那)を僕らは「現在」だと認識しているのです。(リードポイントがリライトポイントより一瞬だけ未来側にあるってことは大事なところです)

そしてその認識主体者の上書き結果は世界線を共有する他人の認識世界に(量子もつれのように)すぐさま連動するのです。

人間の認識・判断・行動には0.5秒ぐらいの時間はかかるんですから、この仕組みがなければプロ野球選手が時速160㎞(到達時間0.41秒)のボールを認識してから打つなんてことは到底不可能です。我々の時間軸上で見て脳の命令が本人の意思より前に発せられているからといって、自由意志がないと考えるのは、時間が一方向に流れるという思い込みから来る誤りなのです。

前野隆司教授の受動意思仮説の動画で使われている例でも、僕の理論なら矛盾なく説明できます。


僕らはみんな自分の仮想現実を作り出して(認識して)から、そこから約0.5秒前の自分の認識世界を上書きしているということです。そしてその自分の認識世界の上書き結果(事象の結実)が、世界線を共有している人たちの認識世界に瞬時に連動するということです。

そして事象が結実すると、それに合わせて未来だけでなく過去も辻褄を合わせるようにして変化します。現実そのもの(過去の記録も記憶も含めて)が変化するので、基本的に他人(自分の認識世界のNPCたち)は過去が変わったことは認識できません。

しかし世界線を共有する者同士(ログインプレーヤー同士・主人公同士)ではその変化前の過去の記憶が共有されることがあり、それがマンデラ効果と呼ばれるものなのです。

二重スリット実験の結果も、まさにこの仕組みによるもので、シュレーディンガーの猫の例で言うと、箱を開けた時点(自分の世界の上書き時点・事象の結実時点)で、最初から死んでいたか生きていたかのどちらかで矛盾なく現実が上書きされ、その結果が同じ世界線のログインプレーヤー同士の認識世界でそれぞれ共有されるというわけです。

そして時には世界線を共有する者同士が一気に別な世界線に移動させられることもあり(偉大な主人公の死などが原因)、そうなると大陸の位置が変わったり、アトランティスやムーやレムリアのようにその存在自体がその世界線上の現実にはなかったことのようになったりもします。しかしそれを認識できる認識主体者(主人公)はほぼいないのです。例え認識主体者である自分がそれを認識できていても、それを言ったら他人からは気違い扱いされるだけなので言えません。通常は記憶も記録も含めて現実そのものが全部上書きされ、まるで現実は最初からそうであったかのようになるのですからね。

さて、現代科学において世界はまるで確率に支配されているかのように目されていますが、確率というのはクリエイターがすべてを偶然に見せるために用意したマジックの仕掛けなのです。この仮想現実における確率というのはパチスロのようなもので、確定リーチがかかっている時はどうやっても大当たりが出ますが、そうでない時にはまず大当たりは出ません。因果・カルマの見えない糸により、確率にはコントロールが掛かっているのです。

しかし我々がパチスロの台を分解してみても中にはすべての図柄が等間隔で均等に描かれているルーレットがあるだけで、我々がそのルーレットを自分で回して自分で止めたとしても、確率通りの結果が出るだけでしょう。それと同じで、創造主が神々を通じて因果・カルマによってコントロールしていることを我々が科学的に証明することはできないのです。

ただその確率というのは本当は人間の意思が(ある程度)変えることができます。認識主体者は確率のコントロール(因果・カルマの更新)に関わっているということです。それは二重スリット実験においてどちらのスリットを通るか被験者に念じさせた実験で結果に有意差が出ることからもわかります。

そのように意思(深層心理まで含めた思い込み)が強ければ、それだけ思っている通りの現実を引き寄せることが可能なのですが(スピ系の人が大好きな「引き寄せの法則」ですね)、この世は愛を経験させ学ばせるためのものなので、その真逆にあるエゴ(我欲と保身)のために自分にとってばかり都合の良い現実(自分の器に相応しくない幸運)を引き寄せようとする人は、例えそれによって一時的に成功しても、借金のようにカルマを積み上げることになってしまい、後に利子付きで返済を求められることになるでしょう。

大金を稼いでいる人を見て「なんでもう死ぬまで悠々自適な生活ができるのに働くのだろう」などと考えるようなエゴ(我欲と保身)が強い人に、大金を稼げるような才能は与えられないのです。それなのに思い込みの強さで大金など引き寄せたらまず不幸にしかなりません。宝くじの当選者などを見ていたらそれがわかることでしょう。創造主は人間をいったん調子に乗せておいてから突き落として学ばせるのがとても好きなようです。

創造主自身はそうして僕らが何を選択するかだけではなく、選択前に何を引き寄せるかまで最初から全部知っています(ラプラスの悪魔の正体は創造主ってことです。まぁそれを言うと全ての存在が本当は創造主自身なのですが)でも僕らが全ての事象の必然性を予め知っていたら魂が成長しないので、手塩をかけて全てを偶然だと思わせているのです。そして因果を更新(改善ないし改悪)させて魂の成長ゲームを楽しませているわけです。

パチスロの偶然性(ギャンブル性)がゼロだとしたら、全然楽しくないでしょう。知識や技術を向上させる要素がありませんし、結果が最初から見えていては運も全く関係なくなりますから、それではきっと誰もパチスロをやろうとはしないでしょう。この仮想現実世界も基本はゲームですから、そこは同じに創られているのです。

我々は人生というRPGをクリエイターからプレゼントされて自由に楽しませてもらっていますが、RPGの中で創造主が意図していない存在が出てきたり意図しない出来事が起きたりはしません。そもそも僕ら自身もクリエイターによってプログラムされたアバターの如き存在ですから、クリエイターが想定もしていないことを思考すること自体が不可能なのです。

「本当は結果が最初から決まっているのなら、生きる意味なんてないじゃないか!」と不満に思う気持ちも元NPCの僕にはよくわかりますが、それではなぜみんな結果(シナリオ)が最初からわかっているRPGを好んでやるのでしょうか?ドラゴンクエストなんて表題で出オチみたいなものじゃないですか?(笑)

ちなみにこの人生という物語の表題は「ラブストーリー」であり「愛は地球を救う」ですからね。それは普遍的な愛の物語であって、恋愛はその一部の構成要素に過ぎないので誤解のありませんように。「こういう人は愛せるけど、こういう人は愛せない」という条件付きの愛は愛ではなくエゴであり、それは愛とは真逆にあるものなのです。「欲とは悪いものですか?」に書いた通り、エゴをなくそうとするのではなく、あることを前提にそれを乗り越えることが大事です。自分のエゴ(我欲と保身)より他人のエゴを優先し、見返りを求めず満たしてあげる日々の中に覚りがあるのであり、そうすることで自分を愛せるようになって人からも愛されるようになります。それが連鎖すれば世界は必ず救われるのです。

せっかくクリエイターが我々を楽しませるために与えてくれているRPGを「自由がない」などと不満に思う事はナンセンスです。もし完全に自由なRPGが存在するなら、それはプレイヤーの想像力に全てを依存するものになりますから、プレイヤー自身が一からルールからシナリオから登場人物から何から何まで全てを自分で創り出さなくてはならなくなります。それではプレイヤー自身がクリエイターとなってしまい、楽しませてもらう側ではなく楽しませる側になってしまいます。

そのようにゲームに何でも思い通りにできる全知全能の存在が出てきたら、その瞬間ゲームは成立しなくなるのです。全てが思い通りになるということはとてもつまらないことでなのです。「片思いの存在意義」に書いた通り、もし全てが思い通りになったら、「思い」そのものに存在意義・存在価値がなくなり、思う事自体をやめてしまうことでしょう。それを考えれば僕らが何のために生まれてきたかがわかるはずです。

クリエイターとしてRPGを創り出す想像力というのは、共通のルール(縛り)がある思い通りにならないこの現実世界を経験していなければ育まれようがありません。僕らは思い通りにならないこの世界で、新たな世界・物語を作り出すべく思い(心)を豊かにするために経験を積んでいるのです。

この人生というRPGはめちゃくちゃ自由度が高く、シナリオ(ルート)を自由に変更することができ、職業・役割・結婚相手だって自由に選択できます。もちろんそれはクリエイターにより「選ばされている」のですが、ゲームが楽しめさえすればそんなことは重要ではないはずです。選択(自由意志)は幻のような存在で、どのカードを選んでもマジシャンの意図した通りという手品の如きものですが、我々はまずは無償で楽しませようとしてくれているマジシャン(創造主)に感謝しなければいけません。

せっかく自分という主人公次第の素敵なシナリオが与えられているのに、シナリオが最初からあるのは気に入らないとクリエイターに文句を言い、自分で人生・世界をネガティブに解釈してそのシナリオをネガティブなものにしておいて、それで我が身の不幸を嘆くのは(それが人間の初期設定なのですが)とても愚かなことなのです。

自殺・安楽死するとどうなるか?」に書きましたが、「存在の根源」は創造主の思念・概念しか存在しない世界です。無限の可能性が無限にあるだけで、始まりも終わりもなく永遠に自分の思念と概念しか存在しない究極に孤独な世界であり、まるで芸術の素材だけが無限にあって何も事象が結実せずに芸術が存在しないかのような、すべてがあるけどすべてが無意味・無価値で存在しないに等しいような、究極に退屈な世界です。そんな5億年ボタンみたいな世界に永遠にいるのと、このシナリオがあって始まりも終わりもある仮想現実RPGを永遠に繰り返すのと、どちらが良いと思いますか?

さて、自由意志という幻はなぜ人間に(だけ)与えられているのでしょうか?それも「片思いの存在意義」「この世の生まれの格差」等、今までの質問の回答で書いていますが、あなたがクリエイターだったとして、自分を信じ愛するAIを作って、そのAIから信じ愛されて嬉しいでしょうか?また自動的に成長するAIを作って、それが成長して楽しいでしょうか?

創造主は人間に自由意志を与え、敢えて間違った愚かでネガティブな選択をするように初期設定した上で様々な選択肢を与え、自由意志により自発的に成長して自発的にポジティブで正しい選択をするのを期待しているのです。最初から真理・正解がわかっていたら自由意志と選択肢を与える意味がなく、成長の物語にはなりません。愛も信心も、人間をそのように敢えて間違った選択をするよう愚かに初期設定して、失敗・試行錯誤を経験させ、自由意志により自発的に成長させるためのものなのです。

そのためにクリエイターは人間に自由意志を与えて自由に選択させながら、因果応報という大法則を作ってそれに従って世界を企画・運営し、因果応報(善因善果・悪因悪果)の経験の中で人間に自ら真理を覚らせ魂を成長させているのです。

そして善因善果・悪因悪果というのはあまりにダイレクト過ぎると正しい選択を強制しているに等しくなってしまうので、原因⇔結果の循環(因果)を簡単には見えないように複雑に絡ませた上で、そこにタイムラグを設け、また先ほどの説明のように確率によってすべてを偶然と思わせ、なおかつまるで悪い事をしている人(他人・NPC)が得をしているかのように見せかけた上で、あなたがどのような選択(上書き)をするかを見守っているのです。

だから他人(NPC)と自分を比較したり、他人の常識を基準にして自分がどうするかを考えたりするのは、夢の中で出会った人に「これは夢ですか?」と尋ねるのと同じぐらい愚かな事であり(それがNPC思考であり人間の初期設定なのですが)、信心を持って経験を積みながら、主人公として創造主と一対一で向き合うことが大事なのです。あなたの世界にNPCが何億人いようと、その背中に隠れることはできないのです。創造主はあなたの心の中まで一瞬たりとも休むことなくすべてを見通しているのですから。


常識とは何か?」に書いた通り、もし常識が全部正しいならあなたという主人公に生まれて来た意味はありません。世の中は勝手に良くなっていくでしょうからね。逆に自分が常識に合わせられない部分はどこかを考え、それを愛と勇気によって覆していくことが、あなたの使命に辿り着く一番の近道だと思います。主人公であることに目覚めた人の人生というのは、例外なく愛と勇気で世界を救う物語になっているのです。だからどうか主人公に目覚め、エゴ(我欲と保身)のためではなく、愛で世界を救うために生きて下さい。世界を救うという目標があって初めて「では自分にできることは何か?」と使命(本当にやりたいこと・やるべきこと)が見えてくるのです。エゴ(我欲と保身)を動機にやりたいことを見つけようとしても、結局やりたくもないことの我慢代で駄賃を稼ぐ奴隷NPCとなってしまう定めなのです。

人生というRPGは本当にすべてが自分次第に創られています。ただ認識(解釈)の選択が、行動の選択より一瞬未来側で自分自身と自分の世界を創っているということを人類は知らなければいけません。

人生・世界に対してネガティブな解釈をする人にはネガティブな人生・世界が創り出されます。逆にポジティブに解釈する人にはポジティブな人生・世界が創り出されます。我々は自分の認識・解釈により自分で作り出した世界の中を生きている(経験・上書きしている)のです。

我々は行動の選択により自分の人生を創っていると思い込んでいますが、それは初期設定通りの大きな誤解です。自分が無意識に思い込んでいる常識(認識・解釈)により、選択主体者である「自分自身」と「自分の世界」は既に作られ、その世界の中を経験しているのです。

「選択をする自分」自体を、選択する以前に自分で作っているのですから、選択肢がやってきてからより良い選択しようと思っても、どんな選択肢がやってくるのかも何を選択するかも既に決まっているので無駄なのです。普段から創造主の愛に適った思考・行動をしている人には何を選んでも良い結果につながる選択肢が与えられ、創造主の愛に反した思考・行動をしている人には何を選んでも悪い結果につながる選択肢が与えられるのです。

人それぞれ人生で後悔していること色々はあると思いますが、その行動の選択を悔んでも意味がありません。その行動を選択してしまったその考え方(認識・解釈)を改めるべきなのです。考え方(認識・解釈)が変わっていないなら、きっとまた同じ過ちを繰り返すことでしょう。大事なことは自分や他人の非を責めて改めさせることではなく、また傷つきたくないために今までの自分を守ろうとすることではなく、ただただ今までの考え方(認識・解釈)をより良いものに変えて行けばいいのです。そうすれば過ちや失敗を含めた過去のすべてを「自分にとって必要な過程だった」と愛せるようになります。

反省してはいけない」に書いたように、自己イメージと行動のレベルは正比例します。「わかっていても悪い行動がやめられない」という人は多いですが、自尊心の低さにより行動レベルが低い自分を日々作り上げているのですから、やはり選択肢がやってきた時点で良い選択をしようと思っても無駄なのです。

しかもやってくる選択肢自体が自分の認識・解釈の如何によって創造主からもたらされるのですから、ネガティブに解釈している人が何を選択してもネガティブな結果にしかならず、逆にポジティブな人は何を選択してもポジティブな結果になるのは当然なのです。つまり選択の自由というのは「行動の選択自由」ではなく「認識・解釈の選択自由」なのです。

例えば「自殺・安楽死したらどうなるか?」に書きましたが、夢が叶わなかった時の退路を考えているの夢は叶いません。リソースを退路の確保のために使い、常に夢が叶わなかった時のことをイメージして自分の人生・世界を作り出しているからです。それでは退路を断って己の夢に全てをかけている勇者に敵うわけがないのです。同様に「いざとなったら死ねばいい」などと自殺や安楽死を退路として考えている人間は、そのような結末に追いやられるような人生になるでしょう。

大切な事は、僕が「悪いカルマの解消法」などに再三書いているように、常に創造主からの愛によって自分にとってベストなものが与えられているのだと信じて愛で解釈し、存在一つ一つの価値に気づいて感謝することです。

僕らはみんな創造主の一部であり、創造主は僕らの統合意思のようなものなのです。あなたが創造主なら、与えたものの価値に気づいて感謝しない人間に、もっと良いものを与えようとは思わないでしょう。もっと良いものを与えても価値に気づかず感謝しないだろうことは確実ですからね。そうして他人と自分を比較してばかりで誰かを羨んで自分や他人を蔑み、与えられたものに不平不満ばかり言って我が身を呪うようでは、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことで与えられていたものの価値に気づかされるような悲しい人生になって、どんどん不幸に追い込まれることでしょう。「他人(NPC)と比較して」良いものが与えられなければ感謝できないという人の感謝に価値はないのです。

人生が映画なら、監督から与えられた役やシナリオに文句ばかり言って真剣に役をやらず、降板することを考えながらテキトーに演じている役者に、監督がより良い役やシナリオを与えてくれるわけがありません。「男はつらいよ」の寅さんと同じで、どれだけしがない庶民役に見えようとあなたが主役なのであり、常にカメラはオンになっている(心の中まで全部見られている)ということを忘れないで下さい。

エゴ(我欲と保身)にまみれて信心も感謝もない人間が自分の力で選択する事で幸せになろうとするのは創造主からすれば傲慢でしかなく、人生が思い通りにならない事に対する不平不満と恨みでいっぱいになる人生が与えられます。そしてハズレばかり引いてイライラして「何をしたってムダだ」と自暴自棄になったり、無気力で厭世観の強いネガティヴで嫌な人間になってしまうのです。大切なのは良い選択をする能力ではなく信心と感謝なのです。

我々は事故や病気などあらゆる死の可能性を集めればとっくに死んでいますし、そもそも生まれてもいません。我が身の不幸を嘆いたり、将来の苦痛や不幸に過度の不安や恐れを抱くのは「生かされている」っていうことへの信頼と感謝の欠如であり、不幸に導かれるのは当然のことです。

カルマ(因果)は人生というRPGの物語の伏線・シナリオであり、カルマに正面から立ち向かってシナリオを回収しようとせず「自由意志は幻なのだから、何をやってもクリエイターのプログラムした通りにしかならないのだろう。それならどんなに自暴自棄な選択をしようと関係ないはずだ」みたいに考える事はとても愚かな事であり、シナリオ(カルマ)をどんどん悪化させて人生という素敵な物語をつまらないものにしてしまいます。そして延々と輪廻の中でカルマ(追試と補講)を繰り返し、楽しいはずの夏休み(浄土)をどんどん目減りさせてしまうのです。

般若心経が教えてくれている通り、全ては幻だからこそ我々は何も恐れずただひたすらに真理(覚り・真の幸せ)を求めて突き進めば良いのです。

創造主は言いました。「結果(真理)に価値があるのではなく、過程(経験)が結果(真理)を価値ならしめるのだ」と。結果(真理)そのものに価値があるのなら、すべての結果(真理)を既に知っている全知全能の創造主が我々を創る意味はありません。どんな概念も経験を伴わなくては存在意義・存在価値がないのです。そしていきなり真理に至っては経験に意味がありません。それは番組冒頭で答えを教えられるクイズ番組のようなものです。どれだけ面白い体験(失敗と試行錯誤)をしてその結果(真理)に至ったのか、それまでどれだけの存在・出来事を許して愛したか、どれだけ想像力(心)を豊かにしたか、それが人生の価値なのです。

というわけで、普段から真理(覚り・真の幸せ)を追い求め、どんな人・どんな出来事との出会いも常に愛で解釈し、様々な感情を経験できる主役を与えられていることに感謝し、常に良い思念で自分を満たすようにしましょう。それが連鎖すれば必ず世界は救われ、みんなが幸せになります。

コミュ障を克服したい

【質問】30代前半・男性 ペンネーム:脳汁 真也さんこんにちは。最近Xやnote、質問箱を見させていただいてます。 真也さんの考えはとても素晴らしく自分に取り入れようとするのですが、なかなか理解力不足でうまくいかないです。私は昔からいわゆるコミュ障です。友達も少ないですし、職場の...