2023年7月23日日曜日

悟りとは何か?

【質問】20代前半・男性
真也さんこんにちは、田中と申します。

ブログやnoteを読ませていただきましたが、結局悟りとはなんですか?また、巷でよく言われる目覚めとの違いを教えて下さい。

非二元やらスピリチュアルで様々なことが言われているので、結局悟りが何のことかわからなくなってしまいました。回答のほどよろしくお願い致します。


【回答】
 ご質問ありがとうございます。そしてnoteや質問箱を読んでいただきありがとうございます。僕は20代どころか40代になるまで「悟りとは何か?」なんて探究したことはなく、田中さんはとても知性の高い方だとお見受けします。

「悟りとは何か?」それは究極の問いですね。

「悟り」は「覚り」とも書きます。つまり悟りとは目覚め(気づき)と全く同じことです。もちろん何を悟り何に目覚めているかは人それぞれですし、巷でそれがどう言われてるのか僕は知りませんけども。

「悟りとは何か?」を言葉で説明するのは、眠っている人の夢の中で「目覚めとは何か?」を説明して目覚めさせるが如くであり、とても困難な上に実際あまり意味はないのかも知れませんが、全力で目覚めに導きますのできっと最後までついてきて下さいね。


僕が普段「さとり」を「悟り」ではなく敢えて「覚り」と書くのは、「悟り」という言葉に固定化されたネガティブなイメージがあるような感じがするからです。何か尋常じゃない厳しい修行が必要で、きっと大多数の人からすれば「他人事で自分には関係ない」ってイメージなのでしょう。

そして「自分は悟っている」みたいな感じの人に対しては「まだまだ全然煩悩まみれのくせに一人で勝手に(小乗的に)悟った気になっている」みたいな「偉そう」「気取った」「いけ好かない」「面白くない」「真面目腐った」「説教臭い」「辛気臭い」「抹香臭い」といったとにかくネガティブな感じがして、無視か否定かをせずにはいられなくなってしまうのでしょうね。

それは僕がこれまで覚ってきたこととはまるで真逆のイメージであり、僕自身そのような固定観念で他人からニヒルな目で見られて粗探しをされて、エゴに埋没して全く覚ろうとしない人たちの自己正当化のために小バカにされることを好まないので、「悟り」より「覚り」と書きたくなってしまうんです。

「さとり」は真理を目指す経験・成長の道であって、答えそのもの(ゴール)ではありません。そして「さとり」というのはこの世界にログインしている人全員が例外なく目指すべきものであり、無明の闇を照らす一筋の光の如きものです。それは人生という航海を明るく・楽しく・面白く・幸せへと導く灯台の明かりなのです。もしそれを目指さないというのなら人生は無明の闇の中を彷徨い、不幸へと導かれることになるだけです。

そして覚り+悟り=覚悟であり、「さとり」とは「覚悟」を持つことがスタートです。それはどんな覚悟でしょうか?それは衆生(世界)を救う主人公(メシア・菩薩)としての覚悟です。仏教ではそれを菩提心と言います。人生はRPG(ロールプレイングゲーム)なのですから、主人公として目覚めなければ自分はNPCでしかなく、ゲームが本当の意味でスタートしないのは当たり前です。

また「さとり」とは「差取り」でもあり、すべての存在は一つ(ワンネス・非二元)であるという真理に向かっていくことが「さとり」なのです。そのゴールが悟りの彼岸(真理への到達)ということになります。

より悟りが進んだ側からは相手がどれだけ悟っているかがよく見えますが、自分よりも悟りが進んでいる側がどれだけ悟っているかは決して見えません。大学生は小学生の勉強の進捗をすぐに見抜けますが、その逆はあり得ないのと同じです。相手がどれだけ悟っているかわからないのに、悟っている風に見える人から教えて貰えば自分も悟れるだろうという考えは安易なのです。悟りは説明すれば手渡しにできるようなものではなく、また説明されれば悟りが得られるのなら人生経験に意味はなくなります。

人生はRPGそのものであり、この仮想現実・ネットゲームにログインしている時点であなた(自分)が主人公です。そしてゲームにおける他人の進捗は意味がありません。覚りというのは他人と進捗スピードを競う競争ではなく、先に覚った方が偉いとかそういうものではないのです。RPGの価値は自分が主人公の成長の物語を楽しめるかどうかです。

あなたがオシッコを我慢している時に、僕が替わりにトイレに行っても意味がないように、他人である僕がどれだけ覚ろうと、主人公であるあなた(自分)が経験を通じて覚らなければ意味がないのです。

登山だって自分が苦労して頂上を目指して登るその経験に意味があるのであって、僕がいくら自分が上った山の頂上の様子を今登山中のあなたに語ってもあまり意味がありませんし、ましてヘリで頂上まで連れて行くのは迷惑でしかないでしょう。

もちろん僕も人間(プレイヤー)の一人であり、全知全能などであるわけがなく、あなたよりほんの少しだけゲームを先に進めているかも知れないというだけであって、まだまだ覚りの道(ゲーム)の途中です。欠点や過ちも数えきれないほどあります。

それでも僕がこれまで覚らされてきた真理を全部説明するとしたらものすごく長くなる上に、結局は同じレベルまで覚れている人にしか理解されることはないでしょう(だから全部書くのは億劫です。長くなり過ぎて殆ど誰も読みさえしないでしょうしね)。まぁあなたにとって僕はNPCなのですから、僕の覚り(ゲーム)の進捗はあまり気にしないで下さい。

僕らは「真理(答え)とは何か?」を「自分が」経験して覚るために生まれてきています。どんな真理(答え)も経験を伴わなければそれは概念に過ぎず何の価値もありません。全ての真理(答え)を知る全知全能の創造主にとって真理(答え)自体には何の価値もないのです。だからまず「経験(人生)が真理(答え)を価値ならしめる」ということを大前提として知っておいて下さい。「愛」という真理にしても、経験が伴わなければそれは言葉に過ぎません。創造主はそれを経験して知るために大変な苦労をして我々とこの世界を創り運営しているのです。

創造主は真理(答え)への道を無数に用意しています。そしてあなた(自分)という主人公だけにアレンジされた貴重で尊いシナリオを用意してくれているのです。それをNPCである他人のものと比べても意味がありません。その無数に用意されたシナリオの中から、あなたはより素敵なシナリオ(成長・学び・覚りの道)を選ぶ権利(自由意志)が与えられているのです。それなのに自分が主人公であることにさえ目覚めようとせず、常識とエゴに埋没しながら人生を終えるとしたらそれはとても残念なことです。

今のあなたはまだ真理(ワンネス=すべての存在は一つ)という答えだけを他人である僕から聞かされてもまず理解できないでしょうし、理解したところで受け入れられないでしょうし、受け入れられたところで「へー・・・」という感じで何の感慨もないでしょう。まだ主人公として目覚めていない・物語(経験)を進められていない段階のNPCにとって真理(答え)というのはそういうものであり、実践経験を伴わない「さとり」はただの言葉であって何の価値もないのです。

ネットは便利で僕も大好きですが、そこにはあなたにとって自身の経験を伴わない伝聞情報しかありません。そして経験もなしに伝聞情報を集めることは自分のネガティブな思い込みを強化し、経験・失敗を恐れて臆病・怠惰になってしまいがちです。

もちろん伝聞情報を参考にすること自体は必要悪であり、宗教や科学など知識を得ることは人生の楽しみであり大事なことではあるのですが、真理(答え)までネットで探し、既に悟っているっぽい人に質問すればそれがわかるかも知れないと考えているのならそれは「さとり」というものを根本から誤解していると思います。真理を誰かに聞いて全部わかるぐらいなら世界は最初から救われていて、それはゲームの電源を入れるなりエンドロールになるようなもので、プレイ要素がなく無意味です。

真理(答え)を伝聞情報で済まそうとするのは、自分が経験して知る覚悟・主人公として物語を紡ぐ覚悟を放棄した怠惰であり、成長の拒否なのです。それはテストで答えだけをカンニングして済まそうとするようなものであり、たとえ答えが合っていたとしてもそこに至るまでの自分で考えた過程が書かれていなければペケなのです。

「悟りとは何か?」という問いは人生という大学における共通の卒論テーマのようなもので、いくら他人の意見を参考にしても問題ないのですが、書いて提出するのはあくまでも主人公たる自分であり、教授・試験官は全知全能の創造主なのですから、他人の意見を丸写しにして提出したら即バレであり落第は確実です。

そして以前の僕のように「自分は覚りなど目指していないから関係ない」と、卒論(覚り)の存在すら否定したところで、ひたすら落第を繰り返し(輪廻転生)、課題(カルマ)を重くし続けていつまでも卒業できなくなるだけです。

人生というのは誰にとっても「目標さえわからないままいつの間にか始まっている航海」であり、与えられている羅針盤は生まれた環境における常識でしかありません。そしてその羅針盤(常識)は一面真理のように思えて必ず間違っているものなのです。常識(初期設定)が正しいのなら人生というRPGのゲーム性はゼロです。

初期設定(常識)を知ることはゲームの大前提ですが、物事をいつでも他人を基準にして考えるのが当然と考えて常識を妄信していては主人公になり得ず、NPCとして人生を送るしかなくなります。真理(答え)とは悪しき常識の海の中に隠されているからこそ見つける喜びがあるのです。もしも真理(答え)が常識(初期設定)で、みんなが経験・成長なしにそれをわかってしまうようなら、人生は真理(答え)を探す経験・成長の物語にはなりえず、生きる意味がありません。主人公である自分の存在理由がなくなりますからね。

ただ常識というものは間違いでありながら、誰しも一応は納得せざるを得ないような一面の真理であり、それはちょうど一面だけ揃ったルービックキューブのようなものです。

もしもそれが誰でも間違いであると気づけるようなものであれば常識には成り得ず、舞台設定として成り立ちません。他人(NPC)たちがみんなそれを真理であるかのように思い込んでいるからこそ、それを覆す主人公(自分)の物語の舞台設定が成り立つのです。

その「一面真理に見える間違った常識」の最たるものが、みんながエゴ(我欲・保身・虚栄)のため金のために生きているのだから自分もそう生きるのが当前だという考えです。これは本当の真理(愛・ワンネス)とは真逆にあるものですが、NPC達はみんなエゴのために生きることを常識として疑わず、故にみんな責め合い争い合い奪い合って、結局それでみんな鬱っぽくなって不幸な方向に進んでいます。そこであなたという主人公が真理(愛)が何であるかかを悟り、説明ではなく実践を通じて彼らを導かなければならないのです。それはこのRPGのシナリオ上の必然なのです。

愛・ワンネスが真理だと言われても、当然あなたも周囲の人もそれを信じられないのが初期設定です。僕らはこの物質・肉体次元にいる限り「自分と他の存在は別なものである」という分離意識から完全に離れることはできないのです。だからこそ僕らは人生を通じて愛・ワンネスを全力で目指し続け、その過程に経験・成長の物語を生み続けることができるのです。

僕らは一般的に男女愛のような「条件付きの愛」を愛だとイメージしていますが、「条件付きの愛」というのは本物の愛とは真逆にある概念「エゴ」なのです。本物の愛というのはすべての存在(ワンネス)に対する慈愛なのです。我々はこの物質次元・肉体次元にいる限りエゴから完全に離れることはできませんが欲は悪いものですか?に書いた通り、エゴがなくては愛は存在意義がないのです。愛とエゴは磁石のSN両極のようであり、コインの裏表のようなものなのです。愛が僕らをつなぐ引力であり、それが存在するためにはエゴ(我欲・保身・虚栄・分離意識)という反発力が必要悪のものなのです。エゴが愛を価値ならしめる物語を生んでいるということです。


愛とエゴだけでなく、この次元においてすべては陰陽二元的にしか存在しえないのです。なぜすべてが陰陽二元的に作られているかというと、この世界(人生)は存在意義(存在価値・存在理由)を生むために作られたものであって、一元の点では位置が確定できない=価値が確定できない=存在意義が確定できないからです。

すべての存在が陰陽二元的に存在するこの世界を愛一元(非二元)に変えていくことこそがワンネスに向かうということです。それは粉々に砕かれた磁石がまた数珠つなぎに一つになるようなものです。ただ単に完全な一つの塊(創造主意識)に戻ってしまっては我々に存在意義はありません。我々はお互いの個性を尊重し、個性を保ったまま愛により数珠つなぎに一つになっていく、その過程に物語があり存在価値があるのです。そしてそれは流れる砂絵のように永遠に繰り返されるのです。

人生という真理を探す(悟りを求める)真夜中の航海において、他人(NPC)たちはみんな他人を基準にして考えて自らこさえた常識に流されて漂流しています。それが舞台設定なのですから当然です。その無明(エゴ・愚かさ・迷い)の闇の中で、目印とすべき北極星こそが真理(愛・ワンネス)であり、羅針盤は幸福(心からの笑顔)なのです。

先にある究極の答えがワンネス(本当は出会う人みんなが自分自身である)だと見通し、常に自分から実践を通じて出会う人みんなに愛を伝え、お互いが心から笑顔になるように思考し行動するなら、決して大きく道を誤ることはないのです。

真理(ワンネス)は目指すこと自体に意味があるのであり、この物質・肉体次元においては絶対に完全には到達できないものです。だからといって覚りを最初から諦めるのは、船で北極星には辿り着けないから目指さないと言うようなものです。

自分も他人も幸せにならないようなネガティブな覚りは確実に間違いであり、それは大抵は心の傷が原因で、自らの臆病・怠惰の言い訳・自己正当化なのです。そして「自分は正しい」と思えばそれ以上の成長はなく、成長を放棄しているも同然で、不幸に導かれるのは当然です。人生というRPGは魂の成長のために存在しているのであり、成長に反して幸せになれるように設定されているのなら、誰も成長しようとはしないでしょう。

創造主はわざと人間を無明の闇(エゴ・愚かさ・分離意識)の中を彷徨うようにして・常識通りに生きれば不幸になるように初期設定して、本人が覚りを進めれば進めるほど幸せになるように人生・世界を初期設定しています。そうでなくては経験・成長・覚り・真理に存在意義がありません。

宇宙の仕組みに書いた通り、自分で作ったRPGは全てを忘れ、レベル1からスタートしなければ楽しめません。無明(エゴ・愚かさ・迷い)分離意識(自分と他の存在は別のものである)という幻が与えられているからこそ僕らは人生というRPGをプレイヤーとして楽しめるのであり、本当は自分こそがクリエイターでありすべての存在は一つ(ワンネス・創造主意識)という真理を完全に認識できてしまったら物語は成立しません。だから僕らはそこには絶対に至れないようにプロテクトがかかっているのであり、それゆえに僕らは愛によってワンネスを全力で目指すことができるのです。

覚りというのは無数に段階があって、スタートは人それぞれですし、今現在も人それぞれ違う段階にいます。それはロシアのマトリョーシカ人形のようなもので、自分は目覚めた・悟ったと思っても、それはまたより大きな覚りの内側であり構成要素なのです。(それでも真の覚りを目指すのだ!というのが般若心経の最後のマントラの本来の意味です)


でもたった一つ殻を破れただけで人はすぐ「自分は目覚めた・悟った」などと言います。それが喜びなのであればきっとベクトルは間違っていないのでしょうが、それは法華経の化城宝処のようなものであり、真の覚りがあまりにも遠いために途中で挫折しないように、神仏は我々が何かを覚って一回り大きくなる度に、まるでゴールにたどり着いたかのような喜びを与えてくれて、真の覚りへと導いてくれているのです。

何かの覚り(気づき)を得た時の喜びに浸ることも、その覚りをシェアして他人を導くことも良いことなのですが、自分が既に真の覚りを得たかのように慢心したり、他人に偉そうに語って自尊心を満たそうとしたり、覚りを金儲けなどの自己利益に利用しようとするのは覚りの道と逆行したものであり、自分だけでなく他人まで真の覚りから遠ざけ、それだけカルマを積むんで後から清算させられることになります。

例えばただこの世界が仮想現実であることに気づいただけで既に悟りを開いたかのように勘違いし、その存在理由などが全然わかってないまま真の悟りから遠ざかっている人や、引き寄せの法則のような法則性を理解したつもりになって、本質をまるで理解していないままエゴの願望を引き寄せようとしたり、またその法則を人に教える事でお金儲けをしようとする人がいますが、そういう人を覚者だと誤解して頼ってはいけません。ワンネスが真理なのですから、自分や誰か特定の人だけが得をして、誰かが犠牲になり損をして不幸になるような考え方が真理であるはずがないのです。

人間にとって世界はわからないことだらけですから、人間は何かを信じることと無縁ではいられません。何も信じていないという人は、自分が他人を基準にして築き上げた自分勝手な常識を信じているという自覚すらがないだけです。何を信じるのか?それを決める主体こそが「自分」という存在なのです。

真理というものは万能であり、覚りが開けて真理に近づいてくると、何についても本質が見えるようになります。だから覚りが開けるほど、お金というシステムが覚りとは相反するもの・克服すべき課題(初期設定)だということが見えてきます。

人間の行動の動機には2種類しかなく、愛とエゴだけなのです。人がお金を欲しがるエゴを原動力とすることが前提なのが資本主義であり、主人公はそこから愛を原動力とする社会をへ自分から実践を通じて実現していかなければならないのです。できるかどうかではなく、目指そうという覚悟が大事なのであり、その実現過程に成長の物語があるのです。

お金というのは権力(強制力)の分譲券であり、真理ではないことを他人に押し付けるためにあるものです。真理であれば自分がそれを実践する事で相手にそれを真理だと悟らせることさえできれば、相手は自発的に従う以外の選択肢をなくすような絶対的な理なのです。だから強制力が必要な時点でそれは真理ではなく、また真理であっても強制したらそれは真理ではなくなってしまうのです。お金は権力の分譲券なのですから、それを嫌な事を我慢してまで欲しがれば欲しがるほどお金は力を増し、権力者の権力を増してより嫌な事を他人から強制されるようになり、愛(真理)から遠ざかってしまうのが定めなのです。

というわけで「悟りとは何か?」
それをまだ若いあなたが全然わからないのは当然のことであり、それは自ら経験・成長して知るべきことなのだとわかっていただけたでしょうか?その「悟りとは何か?」を自ら経験して知る人生という物語は、その道程に必ず苦難(課題)を伴うのですが、おぼろげでも北極星(真理・ワンネス)の方角がわかり、進むべきベクトルさえ見えていれば、必ずその苦難(課題)を乗り越えて成長し、人生が素敵な物語になることは約束されたようなものなのです。

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