2023年7月9日日曜日

「引き寄せの法則」の真実

 【質問】20代後半・男性
引き寄せの法則について教えて下さい。


【回答】
ご質問ありがとうございます。

スピ界隈の人は本当に大好きですね「引き寄せの法則」(笑)でも僕はそれを聞く度にとても残念な気持ちになるのです。決して「引き寄せの法則」自体を否定しているのではありません。「引き寄せの法則」は確実にあります。でもそれは決してエゴのために意図的に利用するべきものではないのです。

あなたが引き寄せたい願望はどんなものでしょうか?恐らくお金持ちになりたいとか、社会的に成功して周囲から評価されたいとか、異性からモテまくりたいとか、何にせよそれはエゴ(我欲・保身・虚栄など)でしょう。

欲望は悪いものですか?に書いた通り、エゴの存在自体が悪いわけではなく、僕はそれをなくすべきだと言っているわけではありません。エゴというのは成長課題なのであり、それを乗り越えて愛を発揮するところに魂の成長があるということが言いたいのです。

「引き寄せの法則」を使ってエゴによる願望を思い込みの強さだけで引き寄せようとすることは、その魂の成長のベクトルと逆行するものであり、うまくいかないか、うまく行ったとしても器に合わない幸運を手にすることでカルマを積んでそれが借金のようになり、後々大きな利子付きで返済を請求されるかのどちらかです。

究極の真理はワンネスであり、すべての存在は一つ(創造主)なのですから、エゴによって「自分」という個体にだけ都合の良い現実を無理やり引き寄せようとすれば、ゴムを引っ張るのと同じで大きな反動が起きるのは当然です。もしあなたが「引き寄せの法則」を使ってうまく行っていないのなら、それは守られているのであり、むしろ感謝すべきかと思います。

「引き寄せの法則」を教えることでお金を稼ぐ人は多いですが、それは僕に言わせれば「情報商材詐欺」と何ら変わらず、確実にカルマを積んでいると思います。「思考は現実化する」で有名なナポレオン・ヒルからして著書で有名人にこそなりましたが、結局は全然お金持ちにも幸せにもなっていないですからね。エゴの願望を引き寄せたいからといってそういう人達にお金を払って教えて貰うのは醜く愚かなことなのだと知って下さい。エゴを目的に行動すると、自分より能力・権力を持った人間のエゴの餌食になるのは必然のことなのです。

人間というのは成長を楽しむためにわざと愚かに作られていて、我々はいつも原因と結果を短絡的に結び付けることによって法則性を見つけ、それを使って自己利益を期待し、成功したと思ったら例外を無視してその法則をこの世の本質であるかのように思い込みます。「引き寄せの法則」もまさにそういった類のものであり、それを利用しようとする人は思考が短絡的で本質というものが見えていないのです。なのでこれからその多くの人が見えていないこの世の本質について語ります。

僕がいつも言っていることですが、自分に都合の良いものなら赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも魂の成長のために与えられた課題だと信じて感謝しながら乗り越えていくことです。


どうか何かを望む前に、まず既に与えられているものの価値に気づいて下さい。存在し、経験し、愛せるということの価値に。何かを望むということは、基本的に現状に対して不平不満を言っているのと同じことなのです。あなただって自分が与えたものに感謝せず不平不満ばかり言う人にもっと良いものを与えたいとは思わないでしょう。それは創造主も同じなのです。何かを望む前にまず既に与えられているものの価値に気づけず心から感謝できない人は、願望が叶うどころか逆に与えられていたものをはぎ取られ続け、失うことで価値に気づかされるような悲しい人生になってしまうことでしょう。

全知全能の創造主は全ての必要性を自分で満たせるので必要性自体が存在せず、我々に一切見返りを求めずにただ与えるだけの偉大なる贈与者なのです。我々が彼のために直接できることはなく与えられたものに感謝するのみで、もしその感謝を形にするのなら、創造主の分身である人間みんなを無条件で愛し無償で奉仕することです。創造主と同じように見返りを一切求めず人に無償で奉仕できるようになったら、すべての存在の根源である創造主から愛されないわけがありません。

僕らは人生という映画の主人公なのであり、俳優がやるべきことは目の前の物語を全力で楽しみ感謝しながら一生懸命に紡いでいくことです。なのに監督たる創造主に対して配役やシナリオに不平不満を言ったり、努力・善行に対して何かの見返りを要求すれば、監督(創造主)からの愛を受け取れないのは当然です。それでいざとなれば降板(自殺・安楽死)しようと考えながらテキトーに演じている役者に対して、監督(創造主)がより良い役柄やシナリオを与えるということはあり得ません。

僕らは主役を与えられた役者なのですから、物語の結末は監督(創造主)に任せて気にせず、ただ何事も楽しんで、配役(経験機会)を与えられていることに感謝しながら、一生懸命自分という役の使命を最後まで果たせば良いのです。それが創造主の愛を受け取る最善の方法です。それは聖典バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナが力説していることでもあります。


引き寄せの法則を意図的に使うということは、何かをするより先に結果を期待しているということであり、それは我々にすべてを与えし創造主に対して「これをするからあれをください」というように交換条件を出して見返り要求しているに等しく、それは醜く愚かなことなのです。

自分が全額を出して養っている子供から「お金を出すから○○して」などと言われたら腹が立つでしょう。我々はすべてを与えてくれている創造主に対して交換条件など決して出してはならず、ただ与えられたもの(自他の存在・経験機会)に心から感謝して、自分のなすべきことを愛して真心を込めて一生懸命やるべきなのです。

宇宙は因果という大法則で成り立っており、善因善果・悪因悪果です。しかし善行が必ず報われるという結果が予め確実にわかってしまうと、善行の動機が結果を期待したエゴになってしまい、醜くなってしまいます。

例えば貧しい人に寄付したら必ず倍になって返ってくると確実にわかっていたら、寄付行為が美しい無償の愛ではなく利益を求めた醜いエゴになってしまいます。善行というのは見返りを求めない(結果を期待しない)からこそ創造主から愛される美しい慈愛の発露となるのです。

そして悪因悪果があまりにダイレクトに反映されたら悪い事をする愚かな人は誰もいなくなるでしょう。それは創造主が人間に善行を強制しているに等しく、それでは魂が成長しません。そして「自発的かつ見返りを求めず善行を積む」ということに価値がなくなってしまいます。

だから創造主は善因善果・悪因悪果がダイレクトに反映されないよう、時間差を設けているのです。それゆえに我々が世の中を短期的・短絡的に見れば、善行をしても報われず仇で返されたりする人もいれば、悪いことをして社会的に成功して幸せになっている人もいるように感じられるのです。

しかしそれはこの魂成長のRPGプログラムにおいて必要不可欠な設定でありトラップなのです。それに見事にひっかかって、善行を積んでも無駄だと考えたり、欲深でお金にがめつく意地汚くなるのを恥とも感じず、何とか悪い事をしてでも・他人を犠牲にしてでも自己利益を得よう・願望を実現しようなどと考えることは、すべての存在である創造主の愛に反した考え方であり、それによって壮大なカルマを積み、今生か来世かあの世か、いずれにせよいつかは必ず清算させられるのです。

旧約聖書のヨブ記にはこんな話が語られています。善人であるヨブに突然すさまじい災いが次々に降りかかり、財産も家族も全て失いました。しかし最初は創造主を恨んだヨブも、最終的にはすべてを試練として感謝しながら受け取ったために、後にはそれまで以上に幸せになった、と。

結局、ネガティブな事が起きても成長課題・試練だと思って誰のことも恨まず感謝しながら乗り越え、見返りを一切期待せずに出会った人みんなに愛を与え善行を積む姿こそが美しいのであり、より創造主からの愛を受け取れるのです。

全知全能の創造主は当然僕らが何を求めているのかも全部知っています。その上でそれを与えない時は、その人が創造主の愛に適っていない生き方をしていて器が小さいために、幸運を与えても受け取り切れずにカルマを積んでしまうのを防ぐためなのです。だから我々は創造主に対してエゴで何かを求めたり期待したりせず、エゴを乗り越えて創造主の愛に適った生き方をしてその愛が受け取れるように自分の器を大きくしていくこと(魂を成長させること)が大事なのです。

創造主はその愛を受け取るかどうかを僕らの自由にしてくれています。本物の愛というのはそのように相手を自由にするものなのです。それに対してお金というのは権力の分譲券であり、権力というのは強制力であって、自分のエゴを満たすために相手の自由を奪うものです。だからお金というのが愛と相反する概念であり、人を幸せにしていない人が器に合わない大金を求めれば愛を失うのが自明なのです。

そういう本質が見えてくれば、宝くじに当たった人の大半が当選前より不幸になるのも当然であるとわかるでしょう。宝くじなんてものは、例え当たらなくても買っている時点でカルマを積んでいるようなものです。それは人に奉仕して幸せにせずにラクして自己利益を得ようというエゴの表れなんですから。

日本の昔話は本当に子供の頃から我々に真理へ導く大事なヒントを与えてくれています。「はなさかじいさん」の話は知っていますか?これはきっと事実が元になっていると僕は思います。


成功者が手にした幸運だけを表面的に見て、自分もそれが欲しいと結果を期待して引き寄せの法則を使おうなんて考えるのは、この物語の意地悪おじいさんのように醜く思考が短絡的で愚かなことなのです。主人公のおじいさんとおばあさんは慈愛に満ちてみんな仲良く楽しく感謝しながら暮らしていたのが創造主の愛に適っていたから幸運を手にしたのであって、結果など何も期待せず毎日をただ幸せに暮らしていただけです。彼らが引き寄せの法則のようなものを必死に学んで願望を引き寄せようなどと考えるような人物だったら、隣の意地悪じいさんのように不幸になっていたことでしょう。

この物語の中で主人公のおじいさんとおばあさんも身の丈に合わない大金を手にしたためにカルマを積んでしまい、かわいがっていた犬を殺されてしまったわけですが、それでも犬を殺した意地悪じいさんを責めたり避けたりせずに許し、犬の痛み苦しみに同情して成仏を祈って丁寧に弔いました。そういう姿が慈愛に満ちていて美しく創造主の愛に適っていたから、更なる幸運を手に入れたのでしょう。

お金が手に入るか入らないか、偉い人に評価されるかどうかなどはまったく関係なく、主人公のおじいさんとおばあさんは幸せな「存在」だったのであり、意地悪じいさんは不幸な「存在」だったのです。この世の出来事は全てその人が「どういう存在なのか?」に応じて与えられるものなのです。

「引き寄せの法則」で言われているようなことは概ね正しいと思います。しかしそれはエゴの願望を引き寄せるという結果を目的としているものであり、僕に言わせればせっかくの善行をエゴ由来ということにしてしまうもので、創造主の愛に反する愚策だと思います。

というわけで、引き寄せの法則はあっても決してエゴのために意図して使うようなものではないということがよくよくお分かりいただけたでしょうか?結果(見返り)を求めない慈愛こそが創造主の御心に適っているのですから「引き寄せの法則」なんてかえって学ばない方が良いのです。それは結果(見返り)を求めることが大前提のもので、本質からズレて道を誤ることが最初からわかっているものですから。日々六波羅蜜を行じることによってエゴを乗り越え全ての存在への慈愛に目覚めていくことの方がどれほど大事かわかりません。


最後に。あなたは創造主の子で天使であり、この世界の主人公(メシア)なのです。他人を不幸にしてでもエゴ(我欲・保身・虚栄)を満たすことで幸せになりたいような人間では主人公には成り得ません。引き寄せの法則でエゴの願望を引き寄せようなんて考えず、自分自身の存在と出会うものすべての存在に心から感謝し、心からの笑顔をみんなに連鎖させて下さい。そしてはなさかじいさんが花を咲かせたように、笑顔の花を世界に遍く咲かせて下さい。というわけで・・・

「引き寄せるなら世界の平和と幸福を!」



0 件のコメント:

コメントを投稿

コミュ障を克服したい

【質問】30代前半・男性 ペンネーム:脳汁 真也さんこんにちは。最近Xやnote、質問箱を見させていただいてます。 真也さんの考えはとても素晴らしく自分に取り入れようとするのですが、なかなか理解力不足でうまくいかないです。私は昔からいわゆるコミュ障です。友達も少ないですし、職場の...