2023年1月25日水曜日

実態が伴わない努力に効果はあるか?

【質問】22歳男性
真也さん、初めましてこんばんは。ノート、特に鬱の記事やその他ツイートを参考にさせて頂いている者です。

最近、ポジティブな思考や,感謝する事,自分に自信を持つ事などを始めました。そこで,疑問に思ったのが、とりあえず上に書いたような行動を取るのは実態が伴わなくても効果があるのでしょうか?

説明が難しいのですが、例えば、会話で面白くなくても、なんとなく自分も笑う事。頭の中の思考がネガティブだったら,ポジティブを埋め込む様にする事などです。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

いえ、実態が伴わなければ全く意味がないどころか逆効果だと思います。

「心から納得してないことに無理やり自分を従わせる」こと自体が不幸の元凶なのです。あなたはまだ考え方(解釈方法・世界観)がネガティブな段階にあり(それも覚りの一過程なのですが)、ポジティブな考え方に心から賛同できていないわけで、自分の本心とは違う行動をすれば苦しくなって続かなくなるのが必然です。逆に魂レベルで腑に落ちていることなら、無理をしなくても自然とその魂を主として行動に反映され、自分の認識世界全体に反映されるでしょう。

体というのは感情の楽器であり、あらゆる部分に管楽器のように管が通っていて、また打楽器のように膜が張っています。この次元において実際にその音が聞こえなくても、体は感情のバイブレーションを起こしているのです。腹がむかついたり、胸にこみ上げたり、色々です。我々はそのように感情のバイブレーションを発し、それを全身でありありと感じるように創られているのです。我々は感情(愛)を経験するために生まれてくるのですからね。

そして宇宙の仕組み」「音と水の存在意義に書いた通り、世界は超ひものバイブレーションでできていているのです。それは言葉(コード)であり、思念と感情の乗り物であり、音楽なのです。だから僕らの人生はオーケストラの如きものです。

そのオーケストラにおいて、僕らは人生をかけて体という楽器の扱いを上達させなければならないわけで、実態が伴っていないのに(演奏も調律も下手なままなのに)無意識に出してしまっている音(感情)の方を無理やり押さえつけて、胡麻化すこと(実態の伴わない努力)ばかりしていては、ムダどころかむしろストレスが溜まって逆効果になるということです。

感情は「感受性」という言葉がある通り「受動的」なものではあるのですが、「能動的」に楽器の取り扱い方(演奏・調律)を実践から学んで上達していかなければならないのです。

ネガティブな感情が生じてしまってから無理やり頭で抑え込むこと(我慢)ばかりやっていても、「感情音痴」は決して治らず、出てくるのは不協和音(負の感情)ばかりで、自分も周囲も常に不快にし、その抱えたストレスはいつか暴発して「やっぱり自分はダメだ」と諦めるようになるのが目に見えています。

実際に意識が高くなってないのに他者評価ばかり考えて意識の高さを演じ、それをアピールする「意識高い系」の人が必ず息切れするのはそういうことなのです。思考がネガティブなのにポジティブな感情を持とうとしても無理であり、そのように他人との比較・評価ばかり気にして実態が伴っていないのにアピールするような人は、自分は優れた人だと思いたいがためにいつも他人を見下したり責めたりマウントを取ろうとするようになって人から嫌われ、優れた人に会えば嫉妬して劣等感に苦しみ、実態が伴っていない自分を嫌悪して余計に自信を失うことになるのは必然です。情報商材詐欺師みたいなものは、こういう「意識高い系」をカモにしていますね。すごくもっともらしいことばかり言って、成功者・金持ちを装えば釣れるんですからチョロいもんです。

だから我々は常に「能動的」に感情を発する楽器の取り扱い(演奏・調律=考え方・愛し方)を学び実践して上達していく必要があるのです。どんな苦難があっても悪い音(感情)が出ず常に前向きでいられるぐらいに。

例えば「心から感謝」できるようになるには、心から感謝できるように「考え方」を日々学んで実践し成長していかなければならないのであり、心から感謝できていないのに頭で無理やり感謝しようと思っても無理であり、むしろ逆効果なのです。

誰でも自信満々になれる方法」に書いた通り、自信というのもいきなり根拠もなく自信を持とうなんて思っても無理です。自信を持てるような考え方を魂レベルで手に入れなければならないということです。

そういうことを全く考えないまま大人になると感情に振り回されるか論理的に暗くなるかしかなくなり、感情のコントロールは絶望的に難しいことのように感じられてしまいますが、日々訓練すれば誰でもすぐできるようになることです。それができていないのは、今までそれを意識すらしてこなかったというだけなのです。意識して実践していないのではどれだけ才能が与えられていようとも上達しようがないのは当然です。

心の取り扱い方(演奏・調律)の最も基本は、すべての出会い(人・出来事)が創造主から自分の魂の成長にとって常にベストなものが与えられているということを信じて少しずつでも感謝できるようになることです。何事も「なぜそれと出会ったのか(どんな成長を期待されているのか・何に気づかせようとしているのか)」を「愛」で解釈することです。

誰でも喜ぶようなものが与えられないと感謝できないのでは、その感謝に価値はありません。どんな苦痛・苦難も成長のために愛によって与えられているものなのだと気づいて心から感謝できるような人の感謝に価値があるのです。いつも言っていることですが、自分に都合の良いものなら赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも、自分の成長のために与えられている課題だと感謝して受け取りそれを乗り越えられるようになることです。

創造主の感情も基本は我々と同じであり、与えられたものに感謝できない人間にもっと与えたいと思わないのは当然のことです。現時点で価値に気づかず感謝できない人間なのなら、更にどれだけ与えても感謝されないことは自明だからです。そして既に与えられたものまではぎとられ続け、失うことでその価値に気づかされるような悲しい人生になってしまいます。

人生という楽曲を自分で作りそれを体感できる機会を与えられているということは本当に素晴らしいことなのです。それを自らひどい曲にしておいて創造主に文句を言うのは筋違いであり、創造主の愛を受け取り難くなるのは当然です。

特に鬱の人はまず自分も他人も責めるのをやめ、許すということを意識すべきだと思います。鬱の本質は自分や他人を責めることであり、その解決の基本は自分も他人も許すことなのです。許すというのは我慢することとは違います。我慢というのは読んで字の如く、我(エゴ)で己の心を漫々にすることであり、「嫌だけど我慢してやっているのだ」という傲慢な一時凌ぎを続けてどんどん心の中に不平不満を蓄積していたら、いつか爆発することは自明なのです。自利を考えず相手を許し相手のためを心から思って耐え忍ぶ「忍耐」が必要なのであり、それが愛なのです。忍耐を伴わない許し=愛に何の価値もありません。


note記事「誰でも自信満々になれる方法」でも、僕は「心から笑顔になれるように考え方(哲学)の方を変えていかなければならない」というように書いているのですが、なぜか多くの人が「鬱などで落ち込んで笑えない時でも無理に作り笑いをすべき」というような誤った解釈をしてしまうので困っています。

出会った人は例外なく、自分が主演の映画にボランティアで友情出演してくれている役者さんたちなのですから、たとえどんな悪役だったとしても出会いに心から感謝し尊敬し愛するべきであり、それをきちんと態度(笑顔)で示すべきです。

そしてその悪役たちも最終的には「本当はいい人たちでした」というシナリオを成就していくのです。そのように感情(音)そのものではなく感情(音)を生じる思考と行動(楽器の演奏・調律)を学んで実践し上達させていくのです。

もしあなたがストラディバリのような何億円もする楽器を持っていたら、それはそれは傷つけないように大事に扱うでしょう。宝の持ち腐れにならないよう必死で演奏も覚えるでしょう。しかし我々はそれより遥かに価値のある体という楽器を与えられていながら、それを大事にしようとせずぞんざいに扱って平気で傷つけてしまいます。

人生はオーケストラであり感情のハーモニーですから、自分の感情(音)も他人の感情(音)も宝物のように大事に扱って下さい。それは当然それを発する楽器(その人)を大事にすることです。楽器を大事にする心なく、取扱い方も学ばずに人生が良い音楽(芸術・物語)になるわけがありません。

嫌いな人・興味のない人・見下している人の感情ならどのように扱っても構わないかのような感じで大切に扱わなければ、相手からもこちらの感情をぞんざいに扱われてしまうのは当然です。

そして自分は自分ものだからと平気で自分を責めて見下してイジメて落ち込ませたりすれば自分の心が毒で満たされ、心の住民(出会った人)みんなが風の谷のナウシカの腐海の植物のように毒を出すようになります。そのようでは自分の心も他人の心もいつまでも取り扱いがうまくならず、人生というオーケストラがいつでも不快で悲惨になってしまうのです。

人を大切にするということの基本は、話を真剣に聞くということです。つまらないと感じる話ほどむしろ真剣に聞いて下さい。徳川家康の言う通り、人はつまらない話を真剣に聞いてくれる人に大事な話をするものであり、つまらない話をされたらそれはその人と本当に仲良くなるチャンスなのです。人間関係はすべからく鏡であり、あなたが他人の話を面白くないと感じているようなら、あなたの周囲の人もあなたに対してそのように感じていることでしょう。(現在のあなたにいつもそんな面白い話をしてくれるような友人がいますか?)

お笑い芸人には面白いことが毎日のように起きていると思いますか?彼らは解釈の仕方(考え方・切り口)が面白いから芸人をやれているのであり、面白いことがなければ面白いことが言えないような人なら芸人などできません。彼らも僕らと基本的に同じ日常感覚がなければ共感が生まれず笑いなど取れないのです。あなたも日常を面白く解釈できるように日々努力してみて下さい。見方を変えれば世の中は驚きと笑いに満ちているものです。

人生というRPGにおいてクリエイター(創造主)は常に人や出来事との出会いを通じて導いてくれているのであり、人の話を聞けない人というのは必ず行き詰まるか事故るかしかなくなるのです。

最終的に話を聞ける徳川家康が成功し、畏怖されることで周囲に本音を言ってもらえなくなった織田信長が裏切られ、偉くなって頑迷になり周囲の話を聞けなくなった豊臣秀吉が晩節を汚して死後に家も没落したのは歴史の必然です。

どうか自分も他人も、人間という感情の楽器を宝物のように大切にして、うまく扱えるようになって下さいね。もちろん楽器といういうものは最初からうまく演奏できないのが当然です。だから最初から完璧にできない自分を許しながら、少しずつ、考え方(哲学)から体という楽器の音(感情)の演奏・調律が上手になるように頑張って下さい。学校の鼓笛隊や合唱と同じでみんなと一緒に毎日やってれば必ず上達しますから。

演奏者も観客も主体者である自分であり、他人の進捗は関係ないので比較して劣等感に陥る必要はありません。他人と比較することはその時点で自分という楽器を大切にできていないのです。他人と比較してどこまで上手になるかが大事なのではなく、自分が上達を楽しめればそれで良いのです。いきなりハードルを上げず、超えられないハードルは置かないで下さい。

そして「覚り」というのを悲しみを感じなくなることのように勘違いしないで下さいね。「覚り」というのは楽器の取り扱い(演奏・調律)が上手くなることであり、喜びも悲しみもありありと全身で感じ取れるようになることなのです。そうして楽器の取り扱いがうまくなれば、どんな曲(出来事)でも感情のタクトを自在に振れるようになり、人生を素晴らしいオーケストラのように楽しめるようになるでしょう。実際僕はそのようにして人生を楽しんでいます。



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