2025年7月29日火曜日

逃げ癖への対処法

【質問】アラフォー:男性 無職 ペンネーム:日月

しんやさん、お久しぶりです。
アヤワスカのセッションやその後のメッセージを通じて、希死念慮がなくなり、「まだやり残したことがある」と気づけました。サンパウロではご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。アヤワスカや様々な体験を通じて救われ、心から感謝しています。

2年前の相談をきっかけに、苦手だった母と向き合い、関係を改善できました。現在も親子で話し合いを続け、問題を解決中です。最近は母と一緒に食事や映画を楽しみ、心から幸せを感じています。被害者意識や義務感、罪悪感が減り、母の喜ぶ姿を見て純粋に幸せを感じられるようになりました。しんやさんとの出会いがなければ、この変化はなかったです。

私はADHD、双極性障害I型、コミュニケーション障害、人間関係リセット症候群、軽度の閉所恐怖症、高所恐怖症、パニック障害、左右識別困難を抱えています。現在、薬は服用していませんが、しんやさんのおかげで病気と向き合い、症状が軽減していると感じています。

質問です。

1.やりたいことができない課題

やりたいことは小説執筆、写経、筋トレ、瞑想、断食、絵を描くことです。
一方で、創作に不要な読書、ネットサーフィン、ジャンクポルノ、ジャンクフード、酒、タバコをやめたいです。
特に小説執筆は幼い頃からの夢ですが、最近はスラスラ書けず、書いては消すを繰り返しています。執筆意欲も高くありません。書きたい理由は、自分を理解し向き合うこと、言語化能力を高めてコミュニケーションを改善すること、そして本や映画、漫画、絵画に救われた恩を返すことです。
◦執筆意欲を高め、没頭するにはどうすればいいですか?
◦自分と向き合うのが怖く、意図と異なる解釈をされる不安もあります。どうすれば克服できますか?
◦しんやさんのように難しい内容を言語化する能力を身につけるにはどうすればいいですか?
◦おすすめの書籍や文章術の参考があれば教えてください(現在、好きな小説の読み直しや文章技術の本を読んでいます)。

2.計画通りに行動できない課題

コツコツ努力することが苦手で、試験や論文は一夜漬けで対応し、いつもギリギリでした。教授には「もっと面白いものを期待していた」と言われ、後悔しました。夏休みの宿題も計画は立てるものの、生活リズムが崩れて中だるみし、クオリティが低下します。
◦計画通りに行動し、納得のいく作品を作るにはどうすればいいですか?

3.自制心と周囲の影響への対処

過剰な睡眠、飲酒や自慰行為に走りがちで、周囲の影響を受けやすいです。食の嗜好や飲酒量も周囲に流されます。現在、友人に現状を説明し、飲み会や連絡を断っていますが、断りきれず長電話になることもあります。
◦自制心を高め、過剰な欲望を抑える方法はありますか?
◦周囲に流されないためにはどうすればいいですか?

4.文章のわかりやすさ

質問文をよりわかりやすくするにはどうすればいいですか?気になった点があれば教えてください。

5.カルマについて

しんやさんから見て、私のカルマはどのようなものだと思いますか?
喫緊の悩みではないので、お時間のあるときにお答えいただければ幸いです。いつも言いづらいことを指摘していただきありがとうございます。厳しめのご意見いただけたら嬉しいです。

長くなりましたが、アヤワスカや仏縁、しんやさんとの出会いに心から感謝します。

大変な状況の中で、僕のところを選んでブラジルまでアヤワスカを受けに来てくれて本当にありがとうございました。良い方向に導けているみたいで、導き手としてとても嬉しく思います。そして天より与えられた重いカルマを乗り越えようという覚悟を持ったあなたを心より尊敬し、また誇りに思います。

さて、ご質問の回答です。

【回答】
>1.やりたいことができない課題


酒・タバコはともかく、その他の悪癖は僕にもあり、そういうのは程度の差こそあれ誰にでもあるものだと思いますので、それを自分や誰かを責めたり嫌ったりする理由にしないで下さいね。自分への許しと愛が全ての根幹です。自分を許し愛せないのに、他者は許し愛せません。自分と他人の愛し方はとても大切なことなので、読んでみて下さいね。

そして同じ過ちを繰り返してしまうもぜひご参照下さい。あなたの文章から、とても良い方向に進んでいるのは感じられるのですが、それでもまだあなたは自分を許し愛せる段階まで来ていないのだと思います。あなたは嫌いな経営者のために一生懸命仕事をしたいと思いますか?あなたの肉体も霊魂もあなたからの愛を感じられないから、全力で仕事をせず、ますます自分自身を嫌いになるような行動を繰り返すのでしょう。それが「ポジティブな意欲がわかず、逃避してしまう」ことの根本的な原因かと思います。それは僕も長年経験しているのでよくよくわかります。

自分を他人と比較することなく、大きなカルマを乗り越えようとしている自分をもっと心から褒めて尊敬し、欠点や過ちを許し愛して下さい。それは出会った人ひとり一人を心から許し愛することで可能になっていきます。出会う人はみんな自分の鏡であり、拡大鏡です。嫌いな人であればあるほど、許し愛せるようになっていくことで、その拡大率で自分をより許し愛せるようになっていきます。だから嫌な人にあったらチャンスです。その人を許し愛せるようになっていくことで(克服することで)、人生というRPGの経験値は一気に高まり、レベルアップして、物語がどんどん前に進んで行きます。それこそが魂の成長なのです。苦手な人を許すのが難しいも読んでみて下さいね。

さて、今あなたはそれらのやりたいことがすべてできる環境にありますよね?それなのにできないのは、きっとそれらが本当にやりたいことではないからか、まだ本当にやりたいところまで気持ちが高まっていない段階にあるからなのでしょう。

あなたが創作の邪魔になると思っているそれらの悪癖は純粋に逃避なのであって、やりたくないことをやろうとしているから逃げたくなるのだと思います。いつも言っていることですが、与えられているものに感謝の気持ちがなければ、それをはぎ取ら続け失い続けることでその価値に気づかされるような悲しい人生になってしまうことでしょう。まずあなたにやりたいことがあって、それがやれる環境にあることに心から感謝の気持ちを持ってみて下さいね。そうすれば恩返ししたいと意欲が湧くようになりますから。

聖書の「ヨブ記」のように、どんな試練を与えられても被害者意識に陥らず、自分個人へ成長を期待されているがゆえに与えられた贈り物だと感謝して受け取り、乗り越えて行くことが大事です。そうすればその試練はきっとあなたにとって宝物となります。どんな試練があろうと、人生という経験機会が与えられていること自体が、とても尊く有難いことなのだと気づいて下さいね。

そして読書にしても、あなたが純粋に読みたい本を読めばよいのであって、創作に役立つかどうかなんて考えながら他者の評価を気にして見栄を張って強迫観念で読んでも楽しいわけないですよ。だから僕から本のおすすめなどはしません。好きな本を読んで行けば、数珠つなぎ的にもっと読みたい本が必ず出てくるはずです。そしてそこにこそあなたの個性が表れるのであって、それこそがあなたという存在を意義(価値)ならしめているのだと思います。

とにかく純粋に今大好きなこと・それをしている自分を好きになれることに時間を使うことが大事です。それができることに感謝の気持ちを感じながら。逆に他者評価に依存し、他人から評価されなければ自分を好きになれない・価値がないなどと考えて脅迫観念を持ちながら嫌々やっているようでは何をするにも意欲など湧きようがないと思います。

>◦しんやさんのように難しい内容を言語化する能力を身につけるにはどうすればいいですか?

僕は「文章術」なんてものは意識したことがありませんので、当然それを得ようとか高めようとか考えたこともありません。一生懸命伝えようと努力しているだけです。もし僕にあなたが言ってくれているような能力があるのだとしたら、それを得ようとして与えられたものではなく、人を救いたいという純粋な思いに応じて天から与えられているものだと思います。もしあなたもそういう思いを高めて行くことができたら、きっとあなたにも与えられるものではないかと思います。能力も、創作意欲もです。

ただ僕にとって違和感があるのは、よく僕の能力を「文章力」「言語化能力」という風に(小手先の「述」のように)捉えられてしまうことです。しかし自分が正しく深く理解できていないことは、他人に対して正しくわかりやすく言語化することはできません。「理解力・論理的思考能力」が「言語化能力」に先立ってあるのであって、それらは不可分のものなのです。そこが見えずに「言語化能力」と切り離して捉えてしまう人というのは、本質が理解できていないのだと思います。

そして僕は僕に与えられた経験を通して説明しているのであって、違う経験をしているあなたが何かを言語化すれば当然別な形になるでしょう。だからこそ(あなただけの)経験・存在に価値があるのです。それと同時に、多くの人は本質的に同じような経験をしているからこそ、共感・同情し合ってわかり合うことができるのです。

大事なのは「文章力」「言語化能力」ではなく、他者に対する「慈愛」であり、「共感能力(同情能力)」の方です。それが養われれば「文章力」「言語化能力」などは自動的についてくるものであり、逆にそれが養われていないのに文章(術?)がうまくなったところで誰も感動させることはできないでしょう。だから「文章力」「言語化能力」ではなく、他者に対する「慈愛」「共感能力(同情能力)」の方を養ってみて下さいね。それはコミュ障を克服したいに書いた通り、お年寄りインタビューをしてみることが一番の近道じゃないかと思います。

魂が若く分離意識(自分と他人は違う存在であるという意識)が強過ぎるプロセスにある人というのは、他人に慈愛をもってその気持ちを慮ることができていないのです。特にADHDの人というのはその傾向が強く、他人の気持ちに対してまるで壁が存在しているかのように相手の立場に立って考える事ができず、エゴに埋没し、人間関係がうまく行かずに孤独と自己嫌悪に陥ってしまうものなのですが(以前の僕は完全にそうでした)、それはADHDの人が極端なだけで人間は基本的にそのようにできているのですから、落ち込む必要はありませんからね。他人と比較することなく、ただそれを自分個人に与えられた課題として乗り越えて行けば良いのです。成長の物語のシナリオ・プロセス・速度も、キャラクターの個性・特性も、人それぞれなのですから。

>2.計画通りに行動できない課題
それはまさに僕も同じですよ(笑)やらなきゃいけないことでもやりたい気持ちがないと本当にギリギリになるまでできません。

ただこれも基本は1.と同じで、やはり自分で自分を心から愛せていないから、自分の肉体や霊魂が逆らってしまっているのだと思います(僕も自分を愛せているつもりで、まだまだのレベルにあるのでしょう)。

やりたくないけどやるべきことは、やってしまってスッキリしている自分の快感を先に想像しながら、最初のハードルを5分だけとか思いっきり下げてやることが大事かと思います。何事も最初が一番エネルギーがいるのであって、最初の一歩と最後の一歩ではエネルギーが指数関数的に異なるのです。慣性の法則はどこにでも働くものであり、一度勢いに乗ればどんどんスピードが上がって止めるのが難しいぐらいになります。それが習慣化してやるのが当たり前になっている頃には、やりたくなかったこともやりたいことになっていたりします。

>3.自制心と周囲の影響への対処
とても正直ですね。ただそれもやはり逃避ゆえの悪癖であり、基本的には1.への回答と同じになります。

逃げは最も安易な選択であり、RPGというのは基本的に愛と勇気を試し成長を促すベクトルで創られていますから、逃げれば逃げるほどかえって遠回りになり苦しくなってしまいます。そしてその先は全て行き止まりになっているのです。最初から「逃げ道などない」と腹を括れば腹が据わります。

ただ心は天邪鬼に出来ていますから「絶対に逃げてはいけない」と自分を追い詰めると、逆に逃げてしまいやすくなります。だから時には逃げることで逆に遠回りしてしまう自分も許し愛することです。人生はRPGと同じで、時には逃げも必要なものではありますが、例え逃げる時でも気持ちを「いつか乗り越えよう」というベクトルに向け続けていなければ、いつまでも人生というゲーム(ストーリー)が進まないのです。

そして同調圧力に屈してしまいやすいのは、やはり自分も他人もありのままに愛せていないというところが大きいと思います。同調しないと嫌われる⇒自分が無価値に思える・自己嫌悪に陥るという不安があるのでしょう。

自己嫌悪の強い人というのは、価値のない自分から褒められても嬉しくなれないために、自尊心を上げるための手段として他者評価を必要としますが、基本的に他者はこちらを表面的にしか知らないんですから、その評価なんていうのはいい加減かつ気まぐれなものです。そんなものに左右されていたらいつまでたっても自分を評価できず好きにはなれません。他者評価は関係なく、誰も見ていなくても無償で利他的な行動をして、自分で自分を褒められるように・揺るぎなく自分を好きになれるようになって下さいね。

誰でも自信満々になれる方法は僕に与えられた悟りの核ですから、何度も読んで実践してみて下さいね。あくまでも自分を愛し抜こうとしている人を嫌い切れる人などいないのですから、あなたの側が相手を愛し抜く覚悟さえ持てば、人から嫌われることを恐れ、顔色を窺ってビクビクする必要などないのです。だから大切なのは、自分の愛情から「出会うこと」以外の条件を外して無条件化していくことです。条件付きの愛というのはエゴであって愛ではないのです。自分も他人も無条件で愛せるようになったら、無条件で必ず幸せになります。

4.文章のわかりやすさ

あなたの質問は僕からすればとてもわかりやすいですよ。他の人にとってどうかはわかりませんが。

5.カルマについて

カルマというのは人生の課題であり、それこそが人生のテーマ・シナリオを構成しているものなのです。他人に自分のカルマが何であるかを尋ねるのは「私の人生のテーマは何ですか?」と他人に尋ねるのと同じであり、それは主人公であるあなたが自分で覚っていくべきものなのです。

ただカルマの良化法に書いた通り、僕らの魂は同源同一なので、抽象化して見れば人のカルマ(課題)というのは本質的に同じなのです。それは自分が一番目を背けたいところにあるのであって、みんな自分のカルマがわからないのではなく、わかりたくなくて目を逸らしてしまっているものなのです。そこは人間ならほぼ誰でもそうで、自分のカルマに正面から向き合えている人というのはそうそういるものではありません。だからカルマから逃げている自分を責める必要はありません。でも主人公たるあなたがいつまでもカルマと向き合わないのなら、最後まで脇役(被害者)の人生になってしまいます。

世界の本質はワンネスであり、自尊心と他尊心は同時にしか上がらないものだと知って下さいね。会ったこともない他人ではなく、出会いを大事にして、出会った一人ひとりを許し、人生の共演者として存在に感謝・尊敬し、愛せるようになって行って下さい。そうすれば自分自身もより深く愛せるようになります。自他共に愛せるようになれば、それは単なるナルシストとは違うのです。ナルシストは嫌われますが、自他共に愛せる人が嫌われるわけがありません。人に嫌われて幸せなんてことは有り得ません。しかし人に好かれようとして自分のエゴをごまかすのではなく、お互いのエゴを許して愛し、エゴのエネルギーを愛に昇華できるように日々実践を頑張ってみて下さい。そこはエゴとは何か?に書いた通りです。

それでは、あなたの幸せを心よりお祈り申し上げております。


2025年7月8日火曜日

LSD&MDMAでのバッドと後遺症

【質問】20代・男性 学生 ペンネーム:END
まず一度僕は、一年前くらいにLSDでバッドに入りました。その時のバッドが、その時3人いたんですけど、ループに入ると言うバッドで、そこから抜け出せず、自殺しようとしました。そのバッドの時には時間感覚も全くなく、本当に地獄のようなものでした。そして、そのことをずっと何だったのかを考えるようになって、シラフの時でもあれは何だったのかをずっと考えていました。そして、1カ月前にその地獄のようなバッドの夢を見ました。そこから、メンタルがおかしくなって、シラフでも入るのか、と、そして、真也さんのLSD後遺症の記事をたまたま目にして、自分は統合失調症ではないのか、と考えるようになって、そこから、起きてから頭の中で負の思考のループが止まりません。自分がやってることは結局ループしてるとか、ゲームの世界なのではないかとか、自分以外の人がキャラクターのような感覚になってしまったりとか、また、シラフで自分がおかしくなってあのバッドに入ってしまうのではないのかと、考えてしまいます。どうしたらいいでしょうか、真也さんに相談のDMをするのもなんか怖くてためらってましたが、もう限界です。僕を助けてください。よろしくお願いします。

 ■1回目のバッド(LSD)
三人でループしてた。
脳が麻痺して、現実にバグが起きている感じ。
仮想現実を受け入れなければいけなかったが、受け入れられなかった。
怖くて受け止めることができなくて自殺をしようとしてしまった。
なんか見てはいけないものを見てしまった感覚。
時間・環境・気温・気候・・・記憶が途切れ途切れでバラバラ。
電話も音楽も、何もかもが途絶え途切れで、私以外の意識が全く不安定に見えた。
三人ともみんな同じ感覚で笑った

■2回目のバッド(MDMA)
1回目のLSDの記憶がフラッシュバックした。
忘れてたループの記憶が、突然鮮明に蘇ってきて絶望した。
LSDでバッド入った時ループした記憶が殆ど消えていたけどそれを思い出した。
このバッドはシラフに戻ったら記憶が消されてる。
この日、意識だけでは1年ぐらい時間をループをしていた。
簡単に言ったら5億年ボタンみたいな感じ。
とにかくループをして、最後死を悟る。絶望。
身体は現実だったけど、意識は違う場所に閉じ込められていた。
今回も、同じように時間が狂った。
このループは結局おれもずっと終わりを探していて、何が終わりなのか、分からない。
精神と時の部屋みたいな感覚で、現実の10分が、意識では何時間も何日も続いてた。
それからは恐らく「死」が答えないんじゃないかと思ったけど、受け入れるのが怖くて、途中またループに戻って感じ。あ、同じ現象が起きたのが怖かった。
毎回誰かにいろはすの水を買ってるし、未来が分かる感覚もある。
今から誰が何を言うか、どのタイミングで動くかが先にわかる。
全てが繋がっている感覚。
バッドに入ってる時は確実に仮想世界にいると確信できる。
次の日になると、その記憶は消されている。
この世界は仮想現実。仮想世界じゃないわけがないと思う。
もう絶対に何があってもケミカルはいらない。一生。
で、これは結局なんなのか?

■3回目のバッド(LSD)
また来たってすぐわかった。

背筋がゾッとするあの感じ、あれが来た瞬間がスタートだった。
今日は、もう一人の自分の声がずっと頭に響いてた。
「抜けられそうで」「また始まったね」って。
完全にループの中に入った。
感覚としては点が3つあって、そして糸で引っ張られるような不気味な引力がある。
未来が見える感じも強くて、隣にいる奴が何を言うか、何をするか、全部わかってしまう。
それでも、だからこそ「これって録画された現実なんじゃね?」って思った。
「これからの本質」がもしこれなら、すげぇ悲しいって思った。
生きてるのが録画再生みたいだったら、一応落胆する。
それを受け入れられなかったんだと思う。

▶結論というか、今の感覚
3回も同じ悪い事があった。
薬が違っても、入る場所は一緒。
意識だけが取り残される場所、ループ、そして「終わらない問い」。
毎回「死」を考えるところまでは行くけど、結局実行の手前で立ち止まる。
終わりが分からないままループして、その記憶は次の日には薄くて。
でもどこかにちゃんと残っている。
もうやりたくないけど、全部忘れたくない。

システムっていうか、絶望感っていうか、
考えれば考えるほど背筋が凍るって言うか、ループだよね。ループに入るんだよね。
思考のループに入り込んでしまうと、現実世界から、切り離されるような。
恐らく、人間か、自分自身のシステムとしか考えられない。バッドの類じゃない。
あれが、この世の本質だとしたら、落胆する。
あの瞬間、思考に入ってしまう、瞬間、背筋が凍る瞬間、スタートしてしまう。
恐らく薬物やってる人はもしかしたら、みんな入ってるのかも。
で、記憶がみんななくなるのかも。
毎回吐いてる。
頭の中からもう1人の声が、ずっと聞こえる。それは何?
思考が現実化する。って、本当なんやと思った。
考える、妄想する→未来が見える→その通りになる


【回答】
ご質問と詳細なレポどうもありがとうございます。既に電話相談で回答済みなのですが、同じように苦しんでいる人はきっと多いと思うので、敢えて質問箱でも回答させていただきますね。

あなたと同じような体験はLSDを体験した人ならほとんどの人が経験していることかと思います。あなたのレポを読んでうなずいている人はかなり多いことでしょう。決してあなただけではないのだと知って下さい。もちろん僕もあなたが経験したような絶望的な恐怖や混乱も経験しています。それが未経験者の想像を絶するものであることもちゃんとわかっています。そして僕はその経験のひとつ一つの意味も今は全部理解できますし、その上でそれを乗り越え、何も恐れることなく悟りを進め、通常の日常生活を営んでいます。そういうことが可能なのだということをまず知って、勇気と希望の糧にしていただけると幸いです。

アヤワスカとLSDの違い
LSDの後遺症について
極度の人見知り(大麻・LSD)

を読んでいただいた上でもピンと来ていないようですから、改めてよりわかりやすくご説明差し上げたいと思います。

まず、あなたは「とても受け入れがたい」と書いていらっしゃいますが、LSDで経験することというのは夢幻ではなく、現実の一つの見方であり真実なのです。それで恐怖してしまうのは、信心が足りないからであり、愛と勇気が足りないからなのです。そして絶望してしまうのは、あなたがまだ若く、悟りが進んでいないからなのです。しかしそれもプロセスですから、受け入れて乗り越えて行く以外にないんです。

<この世界は仮想現実=あなたが主人公>
宇宙の仕組み(仮想現実と創造主)
を読んでみて下さいね。「この世界が仮想現実である」というのは紛れもない事実であり、それは現代科学でもほぼ証明済みのことであり、また般若心経など仏教で再三伝えられてきたこと(唯識)でもあるのです。それはもう受け入れる以外にありません。同意ボタン以外は存在しないと思って下さい。あなたが今まで信じて来た「誰の意思も介在せず自然発生した世界」というのは元々存在し得ないものなのです。それは進化論vs創造論の結論に書いた通りです。

「事象が認識(意識)によって結実する」というこの宇宙の仕組みは、この宇宙が丸ごと創造主の意識の中に存在しているからこそ成立するものなのです。そして僕ら個人個人の意識はその創造主の仮想的な分離なのです。そしてあなたの認識世界は、丸ごとあなたの意識の中にあるのです。本当の現実というのは一人一宇宙であり、一人ひとりがプレイヤー(主人公)の世界がネットゲームのように重なり合わせの状態にされているのです。あなたは人生というRPGのプレイヤー(主人公)であり、創造主の一人子だという事実は(他にもプレイヤーがいるかも知れないという理由によって)揺らぎません。他人に本当に意識があるのか、あなたには永遠に確認ができませんからね。あなたは全知全能の創造主に代わって人生を経験させて貰っている偉大な存在であり、創造主はあなたを通じて人生を経験しているのです。一人ひとりを主人公(経験主体者)として成立させるために、創造主はここまで壮大な仕組み(一人一宇宙の多重)を創っているのであって、創造主がここまでしてあなたにわざわざ実質的に選択の自由のない脇役NPCをやらせるわけがないのです。

だからあなたにとってあなた以外の人間はNPCの如きであり、あなたの「自分以外の人がキャラクターのような感覚になってしまったり」という感覚は現実の一つの見方として全く正しいのです。他人は全員あなたが主人公の物語に必要だからあなたに与えられているサブキャラクターなのです。

ただその感覚だけでは究極に孤独でしょう。だからこそ創造主は他のログインプレイヤー(主人公)と同等の存在だという感覚を強く与えてくれているのです。その「他人を自分と同等の存在として捉える=相手も相手の世界で主人公なのだと考えて尊重する」感覚を両立させることもとても大事なのです。そうでなければたちまち孤独に心を病んでしまうでしょう。

この現実世界というのは現象世界であり、それは概念次元にある概念(データ・情報)の具現化であって、それはゲームと全く同じ仕組みです。だからあなたがこの世界がゲーム世界だと感じたのも、現実の一つの見方として全く正しいのです。ゲームのデータディスクの情報が、プレイ中の時空を超越して存在しているように、概念次元におけるデータ・情報は時空を超えて存在しているのであり、意識が幻覚剤でその次元に飛んだ場合、この現象世界の未来や過去が見えたり、時間がループしたりという現象は普通に起きるのです。この人生というRPGのプログラムを開発者モードで読み取るようなものですからね。そのシステムが見える感じがするのも当前のことです。それが絶望的に感じられるのは、LSDというのがせっかく自分に与えられたプレイヤーとしての権利の放棄行為だからです。

<愛と勇気と信心>
どれだけ絶望を経験したとしても、どうか自殺だけは絶対にしないで下さいね。LSDというのは究極に愛と勇気と信心を試すために究極の恐怖が与えられるのであり、この人生という経験機会がいかにありがたいものなのかを逆説的に覚らせるためのものなのです。自殺はその試練に負けたことになります。そして魂というのは永遠のものであって、死んでも逃げることはできません。人生は魂成長のプログラムですから、逃げることで報われるようには決して創られていません。意識というのが時間を超越して存在することをあなたはもう経験的に知ったのですから、自殺によって逃げれるなどとは決して思わないで下さいね。

恐れれば恐れるほどLSDはその意識を拡大して更に恐ろしくなるだけです。臆病は主人公のあるべき姿に反し、魔を引き寄せるものです。あなたは創造主の一人息子であり主人公なんですから、どうかビクビク恐れないで勇気を持って、主人公らしくもっと堂々としていて下さい。


そして創造主の代理として人生という経験機会が与えられたことに、もっと誇りと感謝の気持ちを持って下さい。LSDで負の体験が与えられる理由は、この人生という経験機会が与えられていることへの感謝の気持ちがないからであり、それが存在しない次元を「仮経験」させられることで、この人生という経験機会のありがたみを覚らせられているのです。

自分が存在し、自分と同等の他人が存在し、人生とその舞台の世界が存在すること。それらは何一つ当たり前のことではなく、創造主の偉大なる創造なのです。孤独を感じさせないため、コミュニケーションを楽しませるために他人と同等の存在だと思わせて貰えているのに、それをもって殆どの人は自分を社会のつまらない脇役であるかのように錯覚して自らNPC人生を選択してしまっています。しかしそこから主人公として目覚めるからこそ、この人生というRPGは素晴らしく面白いのです。

<勇気=信心の大切さ>
勇気というものは、創造主から神仏を通して生かされ守られていることへの心からの「感謝と信頼」から生じるものであり、それこそが信心なのです。彼らは我々の心の奥底まで見ているのであり、建前や嘘や誤魔化しなどは一切通用しません。人間は敢えて無知に創られた存在であり、明日死ぬかも死んだあとどうなるかも何もわからない存在です。LSDの恐怖は極限の状況で信心を試されているのであり、心からの信心がなければその恐怖に屈してしまうのは当たり前のことです。僕はLSD後遺症の人たちから日々相談を受けていますが、皆一様に信心がありません。僕がLSDの恐怖に打ち勝てているのは、心からの信心(感謝と信頼)があり、「自分は絶対に守られている」「幸せ(成長)を経験させるために人生が与えられている」という確信があり、それゆえに揺るぎない勇気を得ていて、何も恐れないでいられるからなのです。

今の日本にいたら、宗教というのが気休めやインチキのようにしか思えず、宗教を信じていたら周囲から見下されバカにされたり、気持ち悪がられて疎んじられるような状況ですし、実際ヤバいカルト・邪教もふんだんに存在していますから、とても心からの信心などは持ちようがないと思いますが、そういう環境の中で持つ信心だからこそ、より価値があるのです。

まだとても信じられないと思いますが、神仏というのは概念次元に思いっきり実在しているのです。そもそも概念次元に存在していないものを現象世界にいる僕らは想像することさえ不可能なのであり、我々にとって想像上の存在も概念次元には確実に存在していて、この現象世界にも影響を与えているのです。そしてその影響は自分(主人公)がどれだけ強くその存在を信じるかに依存しているのです。

ウルトラマンファミリーだって、地球にやってきて怪獣と戦って地球を救わずに、平和なウルトラマンの母星にただずっとうじゃうじゃといるだけでは存在意義がないでしょう。かといって誰からも望まれていないのにやってきて、地球に到着する前の怪獣を人知れず倒しても、誰からも存在を認知されず、やはり存在意義が感じられないでしょう。

同じように完全に平和な概念次元(空)の世界にいる神仏たちも、魔物が暴れてたくさんの不幸をもたらしているこの次元へ人間たちから望まれてやってきて、魔物と戦い世を救うからこそ存在意義が生じるのです。だから自分のことを心から信じ愛していない人間の認識世界に望まれてもないのにやってきて、気づかない間に救ってくれたりはしないのです。もとい、神仏は本当は人間が気づかない間に我々に必要なすべてを与え、生かして守り救ってくれているのですが、それに気づいて感謝し尊敬し愛してくれる人間のためにより救いを発揮してくれるのです。あなたが神仏でもきっとそうするでしょう?

どうか心からの信心を持って下さい。あなたに必要なすべてを与えて生かして守り救ってくれている存在に感謝と信頼の念を持って下さい。僕はどんな神仏を通してあなたが生かされ守られているか知りません。ただあなたに縁がある神仏というのは、あなたが気づかず無視しているだけで、いつでもあなたを導いてくれているのです。だから家の宗教とか、家や学校や職場から近かったり通いやすい場所に施設がある宗教とか、本やメディアで何となく目にして何となくピンと来た宗教とか、そういう小さな縁を大事にしてみて下さい。神仏があなたを導きやすくなりますから。LSDの恐怖さえも、あなたを真の信心に導くための「逆縁」なのです。

ただ実際、世の中には悪しきカルトや邪教や宗教・スピを悪用した詐欺も多いですから、宗教を学ぶ理由に書いたように、これはヤバいと思った宗教からはなりふり構わず逃げて下さい。そして一つの宗教だけを妄信すると必ず道を誤りますから、色んな宗教を並行して学ぶようにしてみて下さい。

信心から遠ざける周囲のNPCたちに負けず、きっと日々信心を強くして行って下さい。そのためには心から思うだけでなく、それを日々形にしていくこと(神仏について学び、神仏とその分身たる人間みんなに奉仕すること)です。

信心の実践って色々な形がありますし、最初はなかなかどうしていいかわからないと思いますが、入り口としては宗教施設通いとマントラを唱えることをお勧めします。詳しくはマントラのすすめをご覧下さい。そして六波羅蜜(&新六波羅蜜)を行じてみて下さい。やる前に色々考えるより、実践から魂レベルで学ぶことが大切です。我々は情報を集めて理解するためではなく、実体験から感情を伴って魂レベルで学ぶために生まれてきているのですから。


<愛とエゴ>
LSD後遺症は、信心のなさ=勇気のなさを原因とし、またこの人生という貴重な経験機会が与えられているということへの感謝のなさを原因としています。LSD後遺症になる人というのは信心がなく、感謝がなく、厭世観により現実逃避や憂さ晴らし・退屈しのぎなどを動機としてLSDを使うから、創造主は逆説的に「別次元の恐怖・存在意義のない虚無感」を経験させることで、人生の価値に気づかせようとしているのでしょう。

なぜ人は世の中がイヤになり逃げたくなるんだと思いますか?それは自分自身を嫌っているからです。世の中は自分の認識が生み出しているものなのですから、自分を嫌いになれば、それをプロジェクターのようにして映し出される世界も嫌なものになるのです。

ではなぜ人は自分を嫌いになるのでしょうか?それはエゴとは何か?に書いた通り、エゴに埋没しているからなのです。世界というものはワンネスであり、本当は全てが一つなのです。それをエゴによって人生を損得勘定で捉え、自分という個体だけに都合の良いように考え行動すれば、深い部分で自分を嫌いになってしまうように人間はできているのです。だから実際に人間の脳というのは得をしても損をしてもダメージを受けるようになっています。

だから損得勘定で生きること自体が不幸なことなのです。しかし人間は得をした時に脳に快楽物質が分泌されて、自分が受けているダメージに気づけなくされているのです。それでこの資本主義の世の中で、みんな「エゴジャンキー」と化しているのです。そのエゴの連鎖による暴走が、まさに今世界を滅ぼそうとしています(人生はそういうディストピアからスタートするRPGですから、主人公のあなたが覆して世界を救って下さい)。

決してエゴの存在自体が悪いというわけではありません。エゴは愛のマテリアル(エネルギー弦)であり、エゴなしに愛は存在し得ません。エゴを愛に昇華していくことが大事なのです。エゴはなくそうと思って失くせるものでもなく、自分のエゴよりほんの少しだけ愛を優先することが、人生が続く限り続く人間に与えら続ける成長課題なのです。そしてそれだけがエゴの暴走を防ぎ、その愛の連鎖が世の中を救うのです。主人公である自分はその連鎖反応の核にならなくてはなりません。若い時は誰でもエゴに埋没してしまっているものですが(必要なプロセスなので)、早く愛に目覚めるほど人生は早く幸せになります。

ただ自分への愛も忘れてはいけませんからね。自己犠牲的になり過ぎるのは己への愛の不足です。鬱の人はだいたい「自分であればどれだけいじめても構わない」かのようにいじめますが、それもエゴであり、全ての存在である創造主からすれば、他人をいじめるのも自分をいじめるのも同じことなのです。

そして誰でも自信満々になれる方法に書いた通り、自尊心が低い人ほど、「自分が正しい=価値がある」と示そうとして、他人を責めたり見下したりしがちですが、そういう考え方だとLSDによる思考の混乱で何もかも信じられなくなった時に、自尊心が壊滅してしまいます。人の価値は正しさや能力や富や名声にあるのではなく、存在そのものにあるのだと知って下さい。心からそう思えなければ、LSDの混乱には打ち勝てません。創造主は「答えを一つに限定しない」という原理によってこの世界の創造を豊かに広げているのであって、どんな愚かな存在にも価値があるのだと知って下さい。


頭の中からもう1人の声が、ずっと聞こえる。それは何?
古くから一霊四魂と言われるように、人間は複数の人格からできていますし、普段人間の脳にはセーブがかかっているだけで
、内外の他の人格と交信することというのは普通にあるのです統合失調症患者などは、自己嫌悪ゆえに自我を統一できなくなっているためにそのような状態になるのです。それはありふれた現象であって、むしろまるで一つの人格であるかのように自意識が統合されている仕組みの方がすごいのです。憑依現象(霊障)についてを読んでみて下さいね。

そしてもしも決定未来論的に考えて、人間に自由意志など存在しないなどと思い込んでいるのであれば、自由意志の仕組みと存在意義を読んでみて下さい。答えは全部そこにかいてあります。

<カルマ的解決>
これもすごく大事なことなんですけど、長くなるのでカルマの良化法をご参照下さい。


それでは、あなたがLSDの恐怖と混乱に打ち勝ち、主人公として目覚め、そして心からの信心に目覚め、幸せに導かれることを心から祈っています。




2025年7月4日金曜日

宗教を学ぶ理由

【質問】20代前半男性 ペンネーム:そら

お久しぶりです。

真也さんにとって、宗教団体の人と関わったり、儀式に参加したりする理由って何ですか?

僕はオーストラリアに来てから色んな人と会ってそれぞれの出会いに理由があると信じていて、実際に学べたこともたくさんあります(新しい人との出会いや、その人の視点を知ることはシンプルに楽しいです)。オーストラリアに来てから出会う人で無宗教の人はほぼいなく、どの宗教かに関わらず僕はその人に目覚めてもらう役割にあると思っています。実際に宗教を盲信して、うまく愛を受け取れずに苦しんでいる人、自分を受け入れられずに自分も他人も傷つけてしまっている人など様々ですが、順風満帆な人とは深い縁にはなっていません。

僕は真也さんのノートの考え方で幸せになれたので、その考え方をあわよくばシェアしたい(相手に気づかせる形で)のですが、なかなかうまくいきません。相手には僕の信念はある程度定まっているんだけど、まだまだ色々な宗教から学べると思っているよって伝えています。

例えばキリスト教だと創造主(キリスト)を裁判官のように捉えていて、恐怖からくる愛だったり、敬虔なクリスチャンだと罪の意識が強過ぎて自分を愛せなかったりがあります。最近だとモルモン教(キリスト教から派生したもので死後はみんな天国に行けると説かれているけれど、そこには階層があってそこにいくには厳しいルールを守り、教会を拡大することに貢献しなければならない。結果構造自体はわかりやすいピラミッド型)を学んでいます。

そこでミッショナリーの人(若い世代で一定の期間積極的に宗教を広める役割を担う人)たちと何回か話すのですが、英語で色々考えて、相手がハッとするような質問をしたと思っても、いい質問ありがとう!これはこうこうかこういうことだよと、ロボットのようにモルモンの教えから抜粋してきて、説明してきます。この人たちとは日常での関わり合いがなく、僕が誘われた時に集まりに行ったり、形式的な話し合いの場に行くような感じで、少し特殊な関係性です。正直言って、それだけキリストを尊敬していて、キリストについて学んでいるのに、何故キリストのように生きないで、キリストと契約を結ぶ形になるのかよくわかりません。色々な宗教を学んでいく中で、様々な発見があってそれは楽しいのですが、たまに自分の考え方が伝わらな過ぎて、あれなんで学んでるんだっけ?とか、フリをしながら質問を続けることで自分で何してるかわからなくなります。真理を知った上で宗教を学ぶ理由はなんですか?また、メシアの三原則として相手に気づかせてあげるというのがあると思いますが、どこまで伝えていいのですか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。オーストラリアでとても貴重な経験をされているようですね。あなたの御質問は僕もいつか話したいと思っていたことで、とてもありがたいことです。

ただ、「宗教を学ぶ意味」の話以前に、あなたにはもの凄く云いづらい厳しいことを言わなければならなりません。それで回答がずっと遅くなってしまっていました。ごめんなさいね。もちろん僕はいつも100%の愛で回答しているのですが、今回はどう言葉を取り繕おうにもあなたを傷つけて反感を買うのは不可避な内容なので。

まずあなたにはお伝えしたいことは、「もっと本質を見抜く目を持って欲しい」ということです。そのために、とても難しいことなのですが、「己に都合の良く現実を捻じ曲げて解釈してしまっている自分のエゴを見つめる」ということを心がける必要があると思います。

僕は宗教を悪用した詐欺・カルトを「学ぶべき宗教」とは考えていません(反面教師として以外に)。そこをゆめゆめ勘違いしないで下さい。詐欺・カルト集団で宗教は学べません。だいたいそういうところは他の宗教を同時に信仰するということを認めるわけがありませんので、そこ以外で学ぶということができなくなります。あなたが学んだ通り、自由意志を放棄したAI(NPC)みたいにされて利用されるだけです。

はっきり言いますが、モルモン教というのはモロにカルト詐欺集団なのであり、それをキリスト教の一派などと考えるのはキリスト教に対する侮辱でしかありません。そしてキリストについても聖書についてもモルモン教で正しく学ぶことなどできるわけがありません。論外です。

<絶対に避けるべき宗教(カルト・詐欺)の特徴>
■考え方や行動を強制・強要される(寄付・奉仕・勧誘活動)
■信者を脅したり不安にさせて精神的に支配しようとする
■霊感商法をやっている(心霊現象などをトリックで見せる)
■囲い込みが強く、他の宗教を同時に信じる事を禁止される
■外部に悪い実情(犯罪など)がバレないよう口止めをしている
■集めたお金の大部分が何に使われているか一般信者に知らされていない
■聖典を勝手に都合よく捻じ曲げて解釈し、大手宗教の権威を悪用する
■天啓などと言って教祖や幹部が教義を都合よく変えている
もちろんモルモン教はこの基準でも真っ黒です。

何よりあなたがそのコミュニティーに入り込んで真理を説いて目を覚まさせようとするなどというのはあまりにも無謀だと思います。そして更に無謀に思われるのは、あなたがモルモン教徒の女性を彼女にして洗脳を解いて自分の考えに染めようなどと考えていることです。それはまるで渋谷の駅前でラッセンの絵とかを法外な値段で売るエウリアンのお姉さんのギャラリーに行って仕事を辞めさせて彼女にしようとするようなもので、あまりにも無謀過ぎます。

モルモン教徒は結婚するまで性行為はご法度であり、あなたがモルモン教徒の彼女とそういう関係になりたいとしたら、あなたがモルモン教徒になって彼女と結婚して一生モルモン教徒としてやっていく以外にありません。そしてたくさんの理不尽な規制を受けながら、一生搾取され続けることになるのです。あなたの未来の子供もです。それでいいのですか?あなたの魂は「他人からルールと考え方を強制されるロボット人間になること」を受け入れるのですか?恋は盲目と言いますが、あなたのソレは愛ではなく完全にエゴだと思います。一度自分をゆっくり見つめ直して、価値の優先順位をはっきりしましょうね。

ただでさえ僕がいつも「メシア救世三原則」と言っている通り、相手を変えようとしないのが大原則なのであって、まして相手がカルト組織の人間では変えられるわけがありません。それを変えられるなどと思うのは(厳しいですが)傲慢であり、それは「自分のエゴで都合よく現実を捻じ曲げて解釈している」ということなのです。

とにかくあなたは一刻も早くモルモン教から離れるべきです。普段僕はこんな押し付けるようなことは言いません。それでも言ってるんですから、相当なことなのだと認識して下さい。


>正直言って、それだけキリストを尊敬していて、キリストについて学んでいるのに、何故キリストのように生きないで、キリストと契約を結ぶ形になるのかよくわかりません。

「それを言っちゃあおしめぇよ」って感じです。それはエウリアンの女性に「ラッセンの絵がそんなに素晴らしいなら、なぜラッセンみたいな絵を描かないで、ラッセンと契約を結ぶ形になるのでしょうか?」って言っているようなもので、ナンセンスです。


英語がまだ上達しないうちに、積極的に会話に付き合ってくれる彼らの存在はあなたにとってとてもありがたいことなのはとてもよくわかります。でもあなたがそれに依存するのは得策ではありません。彼らは誰彼構わず勧誘していて、別にあなた個人に興味を持っているわけではありません。ただ単に一人でも多く勧誘しなきゃいけないから、まだ語学ができないあなたにも積極的に絡んでいるだけです。そういう人たちとばかり関わっていたら、コミュニケーションの感覚がおかしくなりますし、あなたに入信する気がないのなら関係性が続くわけもないのです。そんな人たちのために時間を浪費し、本物の人間関係を築く機会を目減りさせるのはひどく無駄なことだと思いませんか?


>たまに自分の考え方が伝わらな過ぎて、あれなんで学んでるんだっけ?とか、フリをしながら質問を続けることで自分で何してるかわからなくなります。

彼らにとってあなたは勧誘の獲物(カモ)なのであり、あなたを教化するつもりはあっても、あなたから何かを学ぼうとするつもりなどあるわけがありません。あなたが何かに気づかせよう・目覚めさせようなんてどんなに頭をひねったところで土台無理な話であり、相手側があなたを勧誘するのが無理だとわかったら捨てられるだけです。


>真理を知った上で宗教を学ぶ理由はなんですか?

そもそもにおいて信仰というのは純粋な愛によるべきものであって、理由を求めることは目的化・見返りを求めることにつながり、純粋な愛ではなくなってしまうと思います。一言でいえば理由は愛であり、あなたが純粋な気持ちで神仏を愛せないのであれば、他人に理由を聞いて無理に愛そうと思っても愛せるようにはならないと思います。

そして人を目覚めさせられる存在になるには、当然人より目覚めていなければなりません。あなたは何かあなたや僕がもう真理に到達しているかのような書き方をしているように見えてしまうのですが、僕らが生きている限り真の悟りというものは遥か先であり、だからこそ僕らは永遠に成長を目指すことができるのです。(悟りの完成とは、世界救済の完遂・地上天国の建設の完遂なのです)。

僕にしても「自分はまだまだだ」と心から思っているからこそ、謙虚な気持ちで様々な宗教を意欲的に学び、儀式などにも参加したりしているわけです。それが僕の「様々な宗教を学び続ける理由」の根源です。

創造主は我々が人間のままでは決して真の悟りには辿り着けないよう無限に悟りのステージを用意してくれているお陰で、我々は何度も輪廻転生を繰り返して人生を楽しませて貰えているのであり、それによって我々は真の悟りを求めて知識欲・経験欲を維持することができるのです。

あなたがもし「既に自分は真理を悟っている」と思っているのであれば、それは法華経における仮城宝処を本当のゴールだと勘違いしているということです。僕はまだまだ知りたいこと・経験したいことが尽きなくあります。まだまだ真の悟りからは遠いからこそ、まだまだ経験し学ぶ意欲を得る事ができるのです。もう既に究極の悟りに至ったと思ったらそれ以上の成長は楽しめません。

あなたは僕のnoteや質問箱をヒントに自分の経験を通じて悟りを進めて下さっていることと思いますが、僕がnoteや質問箱に書いている内容は、僕が既に悟らされていることの中でも1%にも満たないのです(エッセンスではありますが)。

そしてあなたは僕がそれぞれの宗教で教えを説いたり、洗脳されている人たちを目覚ませようとしたりしているなどと思っているのだとしたら、それは甚だ見当違いです。僕はひたすら学ばせていただいているだけです。そして僕はいわゆるカルト・宗教詐欺団体には近寄りません。僕が直接的に教えを説いているのはこの質問箱とnoteのみであり、日常において他人様に向かって直接的に「教えを説こう・目覚めさせよう」などということは全くしていないのです。

悟りというのは、知識として真理(正解)知るだけでは意味がなく、経験と実感を通じて(間違いと試行錯誤を繰り返して)悟ることに意味があるのです。創造主は全知全能ゆえにそのままでは何も経験できないので、無明である僕らを通じて経験をし、それによって想像=創造を豊かに広げているのです。

あなたはまだまだ若く、経験が足りず、真の悟りは程遠いのだ(みんなから学ばせていただこう)という謙虚な自覚を持たなくては成長しようがありません。そして「自分と考え方の違う他人を言葉で説得して自分と同じ考えに目覚めさせよう」などと考えるのは本来的に傲慢なことですし、もしやろうと思ってもきっとうまくはいかないでしょう。まず他人をどうこうしようとする前に、自分の覚りを前に進めることを考えて下さい。そして日々愛を実践するのみです。

人はみんな、経験したいことを経験するために生まれてきています。一人ひとりみんな自分がプレイヤー(主人公)なのです。人間は誰でも自分なりに失敗・過ちも犯して試行錯誤しながら納得しつつ前に進みたい生き物なのであり、頼んでもないのに横から答えなど教えられたくないのです。それを無理に教えようとするのは越権行為であり、相手がしたい経験(シナリオ)を妨害する行為なので、基本的にはやるべきでないのです。正解を教えることが正解ではないということです。創造主とその分身である相手を信じ、辛抱強く待ち、耐え忍ぶことも愛です。

僕らは情報(正解・真理)を集めるために生まれてきたのではありません。経験をするために生まれてきたのです。正解・真理に価値があるのではなく、それを求めて生きる我々の経験が正解・真理を価値ならしめるのです。

創造主は全知全能であり、全てを知っています。それゆえにそのままでは何も経験できず、何も想像できず、何も創造できないのです。だから創造主は我々人間として経験を積んでいるのであり、わざと愚かに生まれて想像性(=創造性)を発揮しているのです。知らない事を補う力が想像力なのであり、全知全能のままでは発揮しようがないのです。

そして「存在」というものは元々は真理しか存在せず、全ての答えが一つに限定された状態でした。それは究極に退屈で存在意義のない状態だったのです。創造主はそこで「愚かな者に智慧を求めさせ、創造性=創造性を発揮させるという原理」と「答えを一つに限定しないという原理」によって、つまり愚かな人間の想像を実現することによって、この世の想像=創造を豊かに広げ続けているのです。

どんな愚かな考えや行為(過ち・失敗)であっても、少なくともそれは創造主にとって創造の種になるのであり、正解(真理)よりも価値があるのです。もちろんそれは揺るがない真理というものが元々存在しているからこそですが。

創造主というのは意味そのものであって、その創造の全てには意味があり、意味のないものは存在し得ないのです。悪魔や、邪教・カルト・宗教&スピ詐欺などでさえも、ちゃんと存在意義があって、創造主より善悪を超えて創造されて存在しているのです。

そして全ての存在には個性があるのであり、それは欠点や過ちと不可分です。それは神仏や宗教であっても例外ではありません。完璧な宗教などがあれば、みんながそれを信じ、試練も何もなく、信心に意味も価値もなくなります。だから良い所を学び、悪い所は反面教師としなければなりません。

人間の存在意義というのは物語の中で生じるものであり、この世に善しか存在しなければ物語など生まれようがありません。だからこの世のあらゆる存在は陰陽二元的に創られているのです。

人間に存在意義を生じさせているものこそが宗教・神話(物語)であり、そこに登場する神仏たちキャラクターなのです。我々はそれらを謙虚に学び・讃え・奉仕し、彼らに救いを発動して貰ってそれらに存在意義を与えることで、我々も存在意義を得ることができるのです。そして自分とはどんな役割(キャラクター)なのか、人生(現在進行形の物語)の中で他者と関わる中で悟り、それを更新・具現化して行く中で、主人公として自らの存在意義を能動的に掴み取ることができるのです。それが僕が日々様々な宗教・神話を学び、神仏を讃え・奉仕し、儀式などにも参加する理由の核です。

ただそれだけが理由ではありませんので、一つに限定しようとしないで下さいね。こうやって信心の理由を考えてみても、やはり後付け感しかありません。僕はそういう理由ありきで信心を持っているわけではありませんからね。

もし一つの宗教を妄信し、または宗教・神話自体を嫌悪して学ばないなら、ただ無自覚に流されて生きるだけのNPCになってしまい、主人公にはなり得ません。日本人の多くは自分を無宗教だと考えていますが、それは常識教・唯物主義・資本主義教・悪魔教に無自覚なまま堕しているだけなのです。厳密な意味で無宗教を選択するということは不可能だということです。我々は人生というRPGの物語の中で生きているのですからね。人間にとって世界はわからないことだらけであり、何も信じないで生きるということはできないのです。自分の勝手な常識・思い込みを信じているということにも無自覚な人ばかりですが。

「自分は既に真理を悟っている」などと考え、宗教・神話について知る必要はないなどと考えることは、ナンセンス極まりないことなのです。世界・人生は物語(芸術)であり、どんな宗教・神話も、物語(芸術)としての尊さがあり、我々は尊重しながら学ぶべきなのです。それが己自身の存在・人生・世界に存在意義を与えるのですから。

それでは、あなたがカルト(邪教)・宗教&スピ詐欺から一刻も早く離れ、多くの宗教・神話を学び・讃え・奉仕し、他者との健全な関わり合いの中で日々愛を発揮し、人生を素敵な物語にして、己の存在意義を確たるものとし、存在として幸せになることを、自らも実践しつつ心から祈っています。


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創造主というのは存在のすべてであり、神仏(宗教・神話)も人間も森羅万象が創造主の偉大な創造物(物語・芸術)であり、創造主自身でもあるのです。神仏(宗教・神話)も人間も、自他全てに価値があるのであり、それを否定することは創造主を否定することになります。彼の創造した物語の中を思いっきり楽しませていただきましょう。

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