2024年9月12日木曜日

同じ過ちを繰り返してしまう

【質問】20代後半・男性(アヤワスカチャレンジャー)
謙虚さを忘れず、傲慢さを無くすにはどうしたら良いでしょうか?

私は謙虚さを忘れて傲慢になって後悔し、また謙虚さを忘れることを人生で繰り返してしまっています。人に対して、出来事に対して何らかの対立や不満が出てきては、後で「なんであんなことをしてしまった / 言ってしまったんだろう?」となってしまいます。

日頃を思い返すと自分にも他人にも「こうあるべき」という考えが強くて、あるべきでないとイライラしてしまったり、他にも生かされていることへの感謝を忘れていたり、与えられていることの価値を忘れていることも原因と考えています。

真也さんは怒らない修行を続けているとのことで、謙虚さを忘れないための心構えをぜひお聞きしたいです。


【回答】
ご質問ありがとうございます。実に、実に良い質問だと思います(感動してます)。あなたのことがよりいっそう愛おしく感じました。本当に、今すぐ抱きしめたいぐらいに。普通、人というのは己の欠点や過ちがわかっていても自分では認められないものなのです。


それなのにそこを自分で認めるというのはとても勇気の要ることだと思います。そしてまた僕を信頼して質問して下さったのですから、僕にとってもすごくありがたいことであり、心して回答させていただきたいと思います。

それにしてもつくづく人の悩みというのは共通だなと思いました。あなたのその素晴らしい気づき(=目覚め・覚り・成長)は、とても多くの人の素晴らしい気づきにつながると思います。

本来的に言って、自分の欠点に気づいた時(=目覚めた時・覚った時)というのは、もう既にその欠点を克服しているということなのです。欠点というのは本来的に、気づけば直るものだからです。それゆえ己の欠点への気づき=目覚め・覚り・成長なのです。

それなのに人はなぜわかっていながら同じ過ちを繰り返してしまうのでしょうか?それはほぼ人類に共通した課題かと思います。決してあなただけではなくほぼほぼみんな同じですから、決して自分だけのように考えて自分を責めて落ち込んだりしないで下さいね。

成長とは本来的に喜びなのであり、人生はその「覚り=目覚め・気づき・成長」の喜び(感動)を経験的に知るために存在するものであって、愚かさ(無明)というのはそのために創造主からの100%の愛によって人間に与えられているものなんですね。人間が終生「覚り=目覚め・気づき・成長」を楽しめるように、生きている限り尽きることなく与えられ続けるのです。とてもありがたいことに(ちょっと皮肉w)。

ただし「覚り=目覚め・気づき・成長」というのは、言い換えればある点において過去の自分が愚かだったと認めることであり。そこには痛みを伴うのです(成長痛)。その痛みを痛快に感じられるようになれば、人間はどんどん成長していってどんどん幸せになれるものなのですが、世の多くの人がその成長痛を拒否し、成長できないままでいるのです。その痛みを乗り越えて成長するところに人生の喜びがあり、そのために生まれて来たのにも関わらず、です。

なぜそのようになってしまうかというと、まず、みんな幼い頃から知らず知らずのうちに他者評価へ依存させられていて、自分で自分を評価できない=愛せないようになっています。いつも他人と自分を比べてばかりいて、必然的に劣等感に苛まれ、それでも何とか自尊心を保とうと、能力とその実績(富や名声やモテなど)を伸ばして他人に示そうとしてしまい、それができないと(できないのが普通です)「自分は正しい(独善)・相手は間違っている(劣っている)」ということで他人に対して優位を示すことで自尊心を保とうとしてしまうのです。正しさに能力は要りませんからね。

その点は周囲のみんなも同じなので、それが当たり前(常識)になってしまっていて、みんな「自尊心を保つために自分より間違っている人間を責めて蹴落とそうとすることで自ら地獄に落ちる『蜘蛛の糸』のカンダタになっている」という自覚さえがないのです。まるで「間違った人間は不幸になって当然だ・自業自得だ」「もし地獄で裁きを受けるのだとしたらあいつの方が先だ」と言わばんばかりのその無慈悲さを。

これは既に誰でも自信満々になれる方法などに詳しく書いていることですが、「自分は正しい」というのをプライドの根拠とすると、人は必然的に誰かの非を常に見つけて責めることで己のプライドを守らなくてはならなくなってしまうのです。それが「みんなが他人の傲慢さを嫌いながら、自らの傲慢さ(独善性)を改められない理由」であり、人間関係が上手くいかない理由の根源なのです。

そしてそのように「自分は正しい」ということを根拠に自分のプライドを守ろうとすると、「自分は間違っている」ということを認めたらプライドの根拠が崩壊してしまいますから、必然的に自分の欠点や過ちに気づいても、意地でも認められない=成長できないことになってしまうのです。

人間のプライドというのは2種類あります。
①成長するまで傷つかないよう自分を守る卵の殻のようなプライド(エゴ)と、
②その殻を突き破って成長する支えになる背骨のようなプライド(愛)です。
多くの人は前者のプライドばかりで殻に閉じこもっているんですね。そうやって自分が傷つかないよう自分を守ろうとすることに必死で、過去の自分の考え(意見)に過ぎないものをまるで自分自身であるかのように思い込み、それをプライドの根拠としてしまって(意見のプライド化)、自分を守る卵の殻のような牙城を意見(正しさ・独善)によって構築してしまい、いつまでもそれを打ち破ることができず、成長できないのです。

人間の成長というのは「愛」が原動力でなくてはありえないものなのです。あなたは自分のことを愛さず否定してくるような経営者のために一生懸命働きたいと思うでしょうか?思いませんよね?人間というのは霊的意思の集合体であり、それらは自分たちを嫌い否定するような愛のないエゴにまみれた主(主人格・あなた)のために、一致団結して一生懸命働こう・成長しようとはせず、逆に「隙あらば」と事あるごとに反発してくるのです。

わかりますか?あなたがいくら「自分のこういう所が嫌いで直したい」と己の自己嫌悪・自己否定(エゴ)を原動力に成長しようと思っても、自分の中の霊的意思たちがそれを阻んでしまうのです。多くの人はそのようにしてネガティブな霊(霊障)を自ら創り出し、同じ波動で外からも呼び集めているということです。霊障というのは自分自身のシャドウですから、自分自身と同じように「否定されたくない・傷つきたくない」という意思を持っていて、あなたが否定し攻撃すればするほど反発して猛威を奮うのです。そしてそれが「わかっているのに同じ過ちを繰り返してしまう」のメカニズムなのです。

そうして主人格によってネガティブな霊的意思たち(霊障)をコントロールできなくなって、後から「なんであんなことをしてしまったんだろう?」になるんですね。主人格であるあなたがいくら「謙虚になろう」と思っても、それは自分自身に対して愛がなく、傲慢かつ独善的に否定して無理やり抑圧しているのであり、自分の中にある霊障たちが「否定されたくない・消されたくない」と反発し、その存在を主張するかのように傲慢かつ独善的に暴れてしまうんです。

その目先の解決方法としては浄霊があるわけですが(真剣に続けてますか?)、霊障を創り出しているのが自分自身なのでは根本的な解決にはなり得ません。霊障というのは自分が人生で味わった苦しみ(被害者意識・成長拒否による不幸)を宿主にも味あわせることで強制的に同情を引こうとするものなので、解決するには自分がその不幸の原因を覚り成長することであり、霊障をも許し愛することで霊障に自ら覚らせ、一緒に成仏することです。

つまり自分の中にある「傲慢で否定的な態度で他人を否定してしまう」という霊的意思たちをまるで他人のように敵対視して嫌悪し否定するのではなく(それが霊障を人格化させます)、まず自分自身で「自分にはそういう部分もある」ということで一旦丸ごと受け止め・受け入れ・許し・愛することが大事だということです。

欠点や過ちというのは誰にでもあるものです。それがなければ人生は成長の物語にはなりません。ですからまずは自分の欠点や過ちを自分のものとして受け止め、「成長して行ける存在としての自分」を愛することです。それはつまり「許し難き(自分と他人)を許し、愛し難き(自分と他人)を愛せるように成長努力を終生続けていく自分」を愛するということであり、自尊心の根拠を能力や実績ではなく愛(努力して魂的に成長していける自分)に置くことです。

「成長していける存在としての自分」に価値を置いて自分で愛せていれば、欠点や過ちを素直に認めて改めることで、自分の価値を上げることができます。逆に「自分の正しさ(意見)」に価値を置いて自尊心の根拠にしていれば、己の欠点や過ちを認められず、間違いを指摘されると傷ついて猛反発して意地になって改めようとせず、また他人の欠点や過ちを責めることで猛反発され、人間関係がうまく行かなくなって不幸になるのが当然なのです。

「自分でも嫌なのに、他人に対して傲慢で否定的な態度を取るのを止められない」などというのは決してあなただけではなく、誰にでもある欠点・過ちであり、成長課題・過程なんです。もちろん僕自身もかつて限りなく犯して来た過ちであり、今でもたまにそんな失敗をしてしまうことがあります。もしあなたがそういう成長過程にある自分を許し愛せないないなら、あなたと同じような他人のことも同情して許し愛せず(そういう人をあなたが同じ波動で引き寄せて、鏡のようにして自分自身を見させられているのです)必然的に衝突ばかりになってしまうでしょう。許し=愛であり、許せないのに愛せるということは本来的にありえないのです。

自分に対して愛のなく無理やり押し付けるような謙虚さというのは、必然的に自分が他人から傲慢さを指摘されて傷つかないように先回りして自分を無理やり押し下げるだけの「卑屈さ」になってしまいます。そんなことをしても自分の自尊心を無理やり抑圧して苦しめることにしかならず、結局はその卑屈さに乗じてこちらを傷つけて来た相手に烈火の如く怒っていつまでも恨むような、謙虚とはまるで正反対の傲慢・独善と化してしまうのです。

しかし世の中の殆どの人は、自分に対しても他人に対しても愛がなく、イコールの関係で考えられないために、本物の謙虚さ(愛)を身に着けることができず、傲慢(独善)になるか・あるいは謙虚を装った卑屈(我慢)になるかしかなくなるのです。まるで双極性障害のように。

ドラクエのようなRPGなら、レベルの低い現在の自分がどれだけ弱く・何も持たず・何もわからなくても、追々成長し・必要なものは必要に応じて手に入り・全ての謎が解けることが最初からわかっていますから、劣等感に苛まれることなくゲームを楽しめます。そこは人生もRPGも同じなのだと心から腑に落ちれば、自分(プレイヤー・主人公)と他人(他プレイヤー)を一切比べることなく、自分に与えられたシナリオを全うしていくその過程を楽しむことができるようになると思います。

「成長して行ける存在としての自分」を愛するというのはとても大切なことで、それによって過去の欠点や過ちも、成長の喜びを経験するために必要な過程だったと愛せるようになるんですね。成長というのは決して今までの自分を否定することではないのです。そもそも欠点や過ちというのは成長を期待されて創造主から主人公であるあなたに与えられたオリジナルの成長課題(問題集・ドリル)であり、決して意地悪で与えられているのではなく、またあなたが悪いから罰として与えられているのではないのです。だからその欠点や過ち(課題)の存在を理由にして「自分はダメだ」などと考えたり、自分に与えられた課題の重さやその解決の進捗具合を他人と比べて劣等感や罪悪感に陥る必要はないのです。難しい課題はレベルの高い魂にこそ与えられるものなのですから。

人生は桃鉄みたいに「周囲の人間よりたくさんお金を稼いで先にゴールすれば勝ち」のようなシミュレーションゲームとは違います。あなたという主人公が起点となってこのディストピアな世界を覚りの連鎖によってひっくり返し、世界に光(愛・智慧)を取り戻すRPGなのです。

エヴェレット解釈の通り、世界は「一人一宇宙」であり、あなたの認識世界はあなたを主人公とするRPGなのです。そしてあなたのその認識世界はあなたの心の反映であり、完全にあなた次第にできているのです。

そしてあなたが出会う全ての人(NPC)・出来事が、あなたという主人公に何か大切なことに気づいて欲しいがためにクリエイターがあなたに与えているメッセージだと気づくことが大事です。もし「自分は正しい」ということで自分のプライドを守ろうとしていたら、何か問題が生じれば常に「悪いのは相手」「変わるべきは相手」と考えて腹を立て、成長を拒否してしまうようになります。

それは自分を被害者として意識する「被害者意識」につながり、相手が悪いせい・変わらないせいで「自分は不機嫌=不幸である」と認識するようになります。それはクリエイター(設定側)に対して文句を言い、その設定のせいで「自分は不幸な存在である」と宣言しているようなものです(NPC思考)。クリエイターはその人が「どんな存在か?」に合わせてストーリーを展開しますから、それでは必然的に不幸な出来事ばかり訪れるようになってしまいます。スラムダンクのクリエイターである井上雄彦さんが「キャラクター設定さえきちんとしていれば、物語は勝手に生まれる」というようなことをおっしゃっていましたが、現実もそれと全く同じであり、だからこそ被害者意識(成長拒否)というのは自分を悲劇の主人公にしてしまう恐ろしいものなのです。

RPGにおいてクリエイターの使いであるNPCに文句を言うのは、ゲームの設定に文句を言うようなものでナンセンスなのです。そのように悪者探しをして批判し自分がその被害者になることは成長拒否であり、己を不幸にするだけです。あなたが認識できる世界のあらゆる存在があなたという主人公のために存在する「設定・課題」であり、全てはあなた次第なのです。あなたが変わればすべてが変わります。

バイオハザードでゾンビが出てくるのは主人公が悪いからではありません。それは成長を楽しませるための課題なのです。ゾンビやゾンビを製造するアンブレラ社やゲームそのものを作ったカプコンを責めてもゲームは進みません=成長しません。誰かを否定し憎むのではなく、ただただ自分の成長のみ考えて下さい。ただこのRPGの攻略法はゾンビに銃をぶっ放して攻撃することではなく、自分が覚りを実践すること(許し・愛すること)で、相手に自ら覚らせ成仏させることですから決してお間違えのないように。

まだまだ若いあなたはエゴ(分離意識・自己保存欲求)に捉われ、自分の中にある愛(思いやりの心)を育てられていないのだと思います。僕も若い時はそうでした。自分と他人を本来イコールの存在として認識し、自分も他人も許しありのままに愛せるようになって下さい。そのヒントは自分と他人の愛し方に書いています。ぜひ熟読して日々実践してみて下さいね。

本物の謙虚さというのは、プライドを押し殺して無理に自分を押し下げることではなく、愛(思いやり)に目覚め、自分が才能と努力で得たと思えるようなものでさえもお陰様と考えて、自分とイコールの存在であるみんなと無償で分かち合う姿勢のことなのです。

もし心から・魂レベルで腑に落ちていることなら、それを基軸として自動的に行動に反映されます。しかし例えば「謙虚になろう」などと思っても、「謙虚になる考え方」が心から・魂レベルで腑に落ちてなくて自分にも他人にも愛がないままなのなら、それは心(魂)から納得していないことを無理やり押しつけようとしているということ(傲慢)ですから、心(魂)が反発してうまくいかないのが当然なのです。

傲慢さというのは人間に与えられた分離意識(私と他は別の存在であるという意識)がもたらすものであり、もしあなたがそれを乗り越えてワンネスに目覚め、自分も他人も同じように愛せていたら、わざわざ「謙虚になろう」などと心がけなくても、傲慢になどなりようがないのです。

どうか「自分は正しい」「自分が間違っていると認めて傷つきたくない」という自己防衛本能に捉われず、僕を通じてあなたを幸せに導きたいという創造主の思いを信じて、その愛を素直に受け入れ、実践を通じてみんなと共有して下さることを切に願います。

最後に、創造主からの大事なメッセージ(福音)をあなたに贈ります。
1.偉くなろうとするな。(自他全ての存在が)尊いと知れ。
2.特別になろうとするな。特別(主人公)であると知れ。
3.日々愛(覚り)を実践し、特別ではなくなること(ワンネス)を目指せ。

このメッセージはさとり(=差取り・ワンネス)の真髄であり、謙虚を装った卑屈さとは違う「本物の謙虚さ(愛)」とはここにあるのです。とても大切なことなので一つ一つ解説したいところですが、あまり伝え過ぎても経験して覚ることに意味がなくなってしまい、RPGがつまらなくなりますから、自分の人生経験の中でその意味を覚って下さい。そもそも人生は経験しなければ覚れないようにできてますしね。

これは僕が自分で完璧にできて、あなたに偉そうに上から申しているわけではなく、あくまでも創造主からあなたへの伝言であって、もちろん僕自身も全然まだまだ成長過程で、問題があったときについつい「悪いのは相手だ」と考えて相手側を変えようとしてしまうレベルにあります。だからこれは僕も終生心がけ続けることになると思います。お互い頑張りましょうね。

それでは、あなたの幸せを心から祈っています。

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