【質問】性別・年齢不詳
はじめまして。
真也さんは創造主(絶対神?ゴッドオブゴッド?)の声を聞いているとおっしゃっていましたが、それであればなぜ色んな宗教を同時に信仰されているのでしょうか?
また真也さんは創造主とどのようにしてチャネリングされているのでしょうか?
そして真也さんはご自分の宗教「創造主教」のようなものを作るご予定はあるのでしょうか?また政治家になったりはしないのですか?
【回答】
ご質問ありがとうございます。
あははははは・・・・。とても面白いご質問ですね。
僕らは創造主の創りし壮大な神話の舞台に立っている役者のようなものです。そして創造主というのはその舞台における監督であり劇作家みたいなものですね。
その神話の舞台において役者である我々が困難な場面に直面した時に「監督様、助けて下さい!」「劇作家様、もっと幸せなシナリオにして下さい!」などと劇中でお願いしたらどうなるでしょうか?きっと興ざめでしかないでしょう。そしてもしそれによって監督や劇作家が本当に役者を直接助けてしまったら、舞台そのもの全てに存在意義がなくなってしまうでしょう。
この人生というRPGは神話なのですから、役者である僕らはこの劇中においては監督や劇作家ではなく彼に創造された劇中の神を信じ・学び・祈り・救いを求めなければ神話(芸術)にはならず、全てに存在意義がなくなってしまいます。
それがおわかりいただければ、僕が(創造主とコンタクトを取りながらも)既存の諸宗教を信じて学んでいる理由がおわかりいただけるかと思います。新たに「創造主教」のようなものを作る気が全くないことも。
この人生という物語を与えてくれた創造主(監督・劇作家)に対して僕らができることは、役者として物語を楽しみ・感謝しながら、与えられた配役(使命)を全うすることだけです。
あらゆる宗教は創造主が我々にヒントを与えて真理に導くために存在しているのであり、答えそのものではありません。一つの宗教を答えそのもののように考えて妄信しては道を誤るのが必然なのです。
僕の使命はすべての宗教に通じる真理の探究であり、それによって世界中の魂を救い、物語を完遂させることです。新たな宗教を作って乱立する宗教の一つとなって「教祖様」などと崇められながら偉そうに説法して信者をお金儲けと権威誇示のために利用することではありません。
そしてこの使命はきっと他人事ではなく、あなたにとっても同じなのです。もしあなたが脇役NPCではなく主人公として生きるのであれば。
多くの人が誤解していますが、創造主というのは本当に存在の全てであって、創造主ではないものというのは存在していないのです。創造主の視点からすれば「自」と「他」という概念すらがなく、我々も・動物も・自然も・非生命の物質も・時空も、その中のあらゆる事象も、概念次元とそこにいる神仏たちも、森羅万象の全てが創造主自身なのです。人間が創造したと思われているものも、全て創造主が人間を通じて創造したものです。人間は創造主が経験をし、想像=創造を広げ、人生という経験機会をより豊かにするため存在しているとも言えます。創造主を愛すると言うことは、全ての存在と和解し、愛するということです。自分も他人も動物も自然も非生命も出来事も「人生という物語全体を」愛するということです。存在・事象の全てが創造主の偉大なる創造であり、彼の存在意義なのですから。そして彼の創造のすべてはあなた個人を楽しませるために与えてくれたものなのですから。
個性というのは欠点や過ちと不可分です。欠点があるからこそお互いに必要性が生じ、過ちがあるから許し合うことができ、愛し合うことができるのです。創造主は何も欠けたものがないので、必要性自体が生じません。だからこそ創造主は我々にただ与えるだけの偉大なる贈与者なのであり、僕らは感謝する以外に創造主のために直接的にできることはなく、もしその感謝を形にするのであれば、個性ある(欠点や過ち)存在として生まれた神々や人々(全ては創造主の分身)に奉仕して、その個性(欠点や過ち)を許し合い・助け合い・愛し合うことのみです。
個性(欠点や過ち)があるのは、遥か上位次元の神々であっても同じ事です。神々でさえも個性があり、欠点もあれば過ちも犯すのです。まして人間が作った宗教団体であれば言うにも及びません。完全無欠であれば存在意義を失うのです。
神々や宗教の個性(欠点や過ち)を理由に信心を持たないというのであれば、信心を持つことは不可能です。多くの人がそのようにして神々や宗教の欠点や過ちを理由に信心を持とうとしませんが、それは宗教について学ばない怠惰な自分の自己正当化であり言い訳なのです。
完全無欠の創造主が物語中に登場して強制的に創造主を信じさせては、誰もそれを「信じない」という選択肢を持ちようがありませんから、信心に意味・価値はなくなります。「信じる」という選択を価値ならしめるために、創造主は人間が神を信じないように、むしろ宗教など信じる人間は気違いだとすら思わせるようにこの舞台を設定しているのです。その初期設定通りに信心を持たないままであれば、人生の主人公にはなりえないのです。宗教の欠点や過ちが気に入らないのなら、自分が様々な宗教を原典から学んでその欠点や過ちを補えば良いのです。
創造主をいわゆる「善神」のように誤解し「この世には悪い存在・出来事がいっぱいあるから、創造主なんているわけがない」などと考える人が多いですが、善だけでは物語になりません。善も悪も含めて本当に全ての全てが彼の創造なのです。創造主などいないという考え方も創造主の創造であり、唯物主義・無神論というはクリフォトの樹により設計された人間の無明(愚かさ)なのです。それは成長課題であり、プレイヤー(主人公)である我々はまず自らが目覚め、みんなが目覚める連鎖を起こしていかなければならないのです。
>また政治家になったりはしないのですか?
僕は政治家になるつもりは全くありません。権力に近づくこと自体を考えていません。権力とか組織とかはそれ自体が腐敗の元であって大っ嫌いなので。「真理は組織化できない」というのは創造主直々に教えられた真理の一つです。
もし僕や誰か良い人が政治家になれば、あなたが努力しなくても世の中が勝手に良くなっていくとお考えなのならそれは怠惰であり、主体性(主人公)の放棄(NPC思考)です。
政治(権力)というのは強制力であり、真理ではないからこそ(愛ではなくエゴだからこそ)相手にそれを強制する力が要るのです。そして権力を手にした人間は正義を盾前にしながら必ずエゴのためにその権力を使うのです。金は権力の分譲券ですから、それを手にした人間がエゴのために使わないわけがないのです。
例えどれだけ世の中を良くしようと考えている人でも、その理想を政界において実現するためには権力を握らなければならず、権力を握るためには支持と金を集めなければならないと考えるでしょうし、そのためには支持者のエゴを満たさなければならず、己の欠点や過ちを隠し嘘をついてでも多くの人の支持を得なければのし上がれません。そうしているうちに権力に溺れ、のし上がったらのし上がったでその権力を全くエゴのために使わないということはありえず、どんな正義も権力を得ることを正当化するための建前に過ぎなくなってしまうのです。僕はそれを予めわかっているので、権力を求める(政治家になる)気はないのです。
もしあなたが本気で「政治を変えれば世の中が良くなる」とお考えなら、ぜひ好きな政治家の選挙の手伝いでもしてみて下さい。きっと如実に現実がわかりますから。政治が世の中(人心)を良くするのではなく、世の中(人心)が良くなれば政治は連動して自動的に良くなっていくのです。
真理というのは体験を通じて理解さえすれば自発的に従う以外の選択肢をなくすものであり、強制力など要らないのです。真理というのはそれは見つけた時点で勝利は確定しているようなもので、あとはそれを実践を通じて伝えていくのみなのです。
逆に何かを他人に強制すればたとえそれが真理であっても伝わらないものなので、あくまでも相手に自由に選択させなければならないのです。ガンジーの非暴力・不服従運動でも、もしそれが他人から強制されるようなものだったら成功はしなかったでしょう。
電車の(乗客の)ドアは左右に作られ、前後には作られません。それは前後に(乗客の)ドアを作ってはいけないという法律があって会社がそれに従っているわけではなく、それが道理だと誰でもわかるからです。前後に(乗客の)ドアがあっては乗客が牽かれてしまうリスクが高くなりますからね。しかし人類という列車はそのようにして同胞である乗客を轢き殺しながら進んでいるのです。僕らはその愚かさに気づき、気づかせなくてはいけません。
僕に助言を与え導いてくれている創造主は、自らが「創造主である」と名乗っているわけではありません。この世界を創造した存在でなければ知り得ないことを教えてくれているから僕が便宜上その存在を「創造主」と呼んでいるだけです。それは名前ではありませんし、その存在の呼び方・解釈の仕方は「至高者」「ワンネス」「宇宙意識」「サムシング・グレート」など人によって様々であり、別に統一する必要はないと思います。そして彼は存在のすべてであって姿・形があるわけではなりません。きっと創造主は僕に対して僕よりも上位次元の存在(ハイヤーセルフ)を通じて語り掛けて導いてくれているのでしょう。
僕は別にチャネリングのような、何か特別な手法を通じて創造主とつながっているわけではありません。そもそもすべての存在が創造主自身なのですから、創造主と繋がっていない存在などありません。違いはその繋がりを感じられるかどうか、その導きに従えるかどうかです。
僕が他の多くの人より創造主との繋がりを感じられるようになったのは、きっと他の多くの人よりエゴから離れられたからだと思います(自殺未遂を機に、全財産と仕事を放棄し、奉仕のために生きる決意をしました)。そして人生の苦難に対し、自分や誰かや運命を呪うのを止め、成長課題として感謝するようになったからだと思います。全知全能の創造主は僕がそうなることを予め知っていたがゆえに、時機を見計らって僕を助け、悟りを与えて下さったのでしょう。
敢えて「手法」というならそれ(自殺未遂、全財産放棄、完全無償の奉仕、主人公・救世主としての目覚め)ですが、それをみんなに求めることはできませんし、そもそも僕は創造主とのチャネリングなどという「結果・見返り」を求めてそれをしたわけではなく、もしそういう「結果・見返り」を求めて真似したとしても多分うまくいかないと思います。
もし僕と同じ事をして「創造主と全然繋がれないし救われない」などと苦情を言われても困りますし、またそこまでやらなければ創造主とは繋がれないなどと誤解を受けても「自分はそこまでして覚りなど目指そうとは思わない」と言われるのが目に見えていますから、他人に僕と同じことをするように薦めることはしていないのです。特にイチかバチかみたいな感じで自殺を決行されることは絶対に避けたいですし。
だから僕にとっては「手法」的なことを教えることよりも、僕が創造主からいただいた貴重な覚りをどう人に連鎖させていくか、それの方が大事なのです。そして主人公として目覚めさせることはその根幹です。
質問箱には「真也さんから教わるより、創造主から直接教わりたい」「創造主は真也さんを通じて教えるより直接みんなに教えた方が簡単なのでは?」という感じの御意見ご要望や疑念の声も時々いただきます。そう考えてしまうお気持ちはよくよくわかるのですが、それでは僕が存在意義を失います。僕がみんなの代わりに大変な思いをしながら覚りをいただいて命がけでシェアしているのですから、あなたが全財産放棄とかそんな無茶なことまでしなくても創造主から僕を通じて覚りについて無償で教えてもらえるということに対し、できれば感謝の気持ちを持っていただけると幸いです。
何より「悟りとは何か?」に書いた通り、答えは結局自分が経験を通じて自分で出したものでなくては意味がありません。他人に聞いて済ませようとするのは怠惰であり成長の放棄なのです。僕らは魂の成長のために生まれてきているのですから、成長に反するベクトルはすべからく不幸に導かれるように世界は創られているのです。
それでは、お互いに成長を目指して人生を頑張りましょう。
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