【質問】20代・男性 ペンネーム:ラガー
お久しぶりです。
この世界に意味はあるのでしょうか?幸せや快感、悲しい気持ちも全て脳内の情報が変わるだけで僕が死んでも何も変わらないし、この世界が無くなっても何も変わらない。まさにこの世界って虚なんだと思うんですけど。生きる意味ってあるのでしょうか?僕が死ぬと悲しむ友達、家族がいて80億人の中の100人程度の脳内の情報が変わるだけ。仏教の勉強をしていても全ては虚であると書いてありますし、辛いことがあったわけでは無いですが生きる意味を見失っています。友達と飲みに行って楽しいと思うし、運動をして気分が良くなるのも全ては本能で脳内のホルモンの変化に過ぎなくて、やはり人に価値なんてないと思ってしまいます。でも本能には抗えず、死のうと思えずに苦しいです。
【回答】
先日の「継父との関係」に引き続き、ご質問ありがとうございます。
「この世界(人生)に意味はあるか?」 それは本当に究極の問いですね。そしてそのように考えてしまうお気持ちはとてもよくわかります。僕は小学校2年生ぐらいからずっとそのようなことを考えて、虚無感に浸っているような青春時代を過ごしました。だから僕はあなたに偉そうに説教がしたいわけではなくて、その苦しみがわかるからこそ、そしてその苦しみを乗り越えたからこそ、魂の兄弟であるあなたを一刻も早くその苦しみから救いに導きたいのです。
あなたは「辛いことがあったわけでは無いですが」と書いていますが、「世界(人生)に意味などない」などと考えている時点でそれは鬱状態であり不幸なのです。真理というのは自他共に幸せにするものであり、今のあなたはかつての僕と同じように真理から大きく外れていて誰も幸せにしない不幸な考え方(無明)をしているということです。
あなたに初めて彼女が出来た時とか幸せな時に「人生・世界に意味はない」などと考たりはしていなかったでしょう?「筋トレ(モチベ維持)について」の話と同じで、僕らは今できることをただ感謝し愛しながらやるべきであって、その意味を考えてしまうのは目的化であり害悪なのです。
あなたは不幸な考え方をしているがゆえに自己効力感が感じられず「何も面白くない・意味がない」と心がグレて虚無感に浸ってしまっているのでしょう(僕はそうでした)。だからあなたはきっと本気でこの人生・世界の意味を知りたいのではなく、要するに愚痴なんだと思います(僕もそうでした)。ただそういう不幸というのも人生に必要な経験であり、プロセスなんですね。
しかしながら大概の人は「傷つきたくない」と自己防衛するプライドのために、自分が不幸である=間違っているとは認められないものなのです。それは「同じ過ちを繰り返してしまう」に書いた通りです。それでも己の不幸=間違いを認められない限り、人は成長できずに同じレベルの不幸に苦しみ続けることになるのです。だからまず己の不幸=間違いを認めて、どうか謙虚かつ素直な気持ちで「真理=幸せな考え方」を受け入れて下さいね。あなたが信じようと信じまいと、僕の言葉は創造主の代弁なのです。偉いのは僕ではなく教えをくれる創造主であり、全ての存在は彼の分身なのですから、全てが尊いのです。
それで「この世界(人生)に意味はあるか?」ということですが、もちろんあります。世界(人生)というのは「概念=意味=創造主(思念体)」によって創造されているのであり、意味(意義・理由)のないものというのは存在し得ないのです。そして創造主というのは愛そのもののような存在であり、すべてはその愛によって創造されているのです。
じゃあなぜ創造主は、人生・世界を創造した意味(意義・理由)を我々に教えてくれないのでしょうか?それは創造主が我々という経験主体者(主人公)一人ひとりに対して、全ての「存在意義(価値)」を経験を通じて実感を伴いながら覚らせ、更にそれを自分で創造していく自由を与えてくれているからです。そしてそれこそが創造主の愛の形なのです。もし我々が創造主から限定された意義(答え)を先に教えられていれば、人生という物語を通じて自らの意思で経験して意義(答え)付けし、創造していくという喜びが失われ、我々は自由ではなくなってしまうのです。わかりますか?あなたには自分に関わるすべてに対してその意義づけ(解釈)をして、それによって人生を創造していく自由を与えられているのです。人生(時間・世界)はあなたが自他の「存在意義」を覚り、自らそれを創造して表現するためのマテリアルとして与えられているってことです。
あなたはプレイヤー(主人公・経験主体者)としてこの人生という「全てが自分(の解釈・意義付け)次第」という素晴らしいRPG(芸術のマテリアル)が与えらえれているにも拘らず、ネガティブな解釈によって「全ては無意味である」と勝手に結論付け、その創造主からの素敵なプレゼントを無価値であるかのように言い貶し、自分の人生を自ら台無しにしているのです。あなたは人生を無意味なクソゲーのように貶めていますが(それも意義付けです)、クソゲーにしているのはあなた自身だということです。もちろん、そういう経験もあなたの人生に必要なプロセスだから与えられているのでしょうけども。
>仏教の勉強をしていても全ては虚であると書いてありますし、
これについては「般若心経の究極解説」を読んでみて下さい。「虚」というのは意味がなく虚しいという意味ではありません。多くの人もそのように誤解していますが、それこそが人間に与えられた無明だと思います。
仏教の真髄というのは菩提心(衆生を救う存在としての決意)に目覚めさせることであり、己という存在の真の価値に目覚めさせること(天上天下唯我独尊)なのです。自分の価値がわからない人間に他人の価値も世界の価値もわかるわけがありません。あなたは全知全能ゆえに何も経験できない創造主本体に代わって経験機会を与えられている偉大な存在なのであり、あなたという存在にもその経験にも途方もない価値があるのです。「虚」というのは今生(物質世界)が仮象のものであり、「実」である我々の魂は永遠の存在なのだから、 何も恐れずただ菩提心を起こして悟り(真理)を進めましょうということなのです。
全知全能である創造主は、敢えて意義(答え)を一つに限定しないという原理によって、豊かに世界の創造を続けているのです。我々に無明を与え、敢えて愚かに創った上で経験を与え、想像力という創造主本体にはない素晴らしい力を与えているのです。全知全能のままでは何も経験できず、想像=創造は広げようがないのです。
例えばコップというものはペン立てにしたり灰皿にしたり色んなことに使えますが「飲み物を飲むため」という一義的な存在理由があります。同じように人生・世界にも一義的な存在意義(答え)というものはちゃんとあるのです。しかし今のあなたがそれを知ったところで、ただ単に答えが限定されて自由がなくなるだけで、恐らく幸せにはならないでしょう。だから僕は既に人生・世界が創造された理由・経緯をきちんと思い出しているのですが、それを語るのはまだ先になると思います。
我々に人生・世界を与えている創造主の思いを代弁するために、こんな例え話をしましょう。あるガラス職人さんが訪れた子供たちにガラス細工の体験を無償でさせてあげていました。そのガラス職人さんは特にテーマも決めず、子供たちに何を作るか・何に使うか(それが何であるかの意義付け)も自由にしてくれました。そして子供たちは楽しそうにそれぞれ思い思いのデザインでグラスを作ったり、花瓶を作ったり、オブジェを作ったりしました。子供たちは帰った後もその作品を大事にして、思い思いの使い方で愛しました。ガラス職人さんはとても幸せでした。
ガラス職人さんにとって子供たちがどんな作品を作るか・どんな使い方(意義付け)をするかは重要ではないのです。子供たちにただただ喜んで欲しくてその機会を提供しただけで、感謝されることが目的でもないのです。
ところがこのガラス職人さんがせっかく与えてくれた経験機会の価値がわからず、感謝せず、「芸術の才能がない自分にはうまく作れるわけがないし、何の影響力もなくて面白くない。無意味なことをさせないで欲しい」と反発し、テキトー・投げやりに作品を作って素材を台無しにした挙句「こんなもの要らない!」と投げ捨ててしまう子供がいました。さて、ガラス職人さんはどんな気持ちになったでしょうか?
あなたは創造主からせっかく与えられた世界・人生という経験機会(芸術の素材)が気に入らず、無意味だと嘆き、人生という作品を自分でつまらないものにしておいて、勝手に運命を呪っているのです。それが悪いカルマとなって鏡のように自分に跳ね返ってきて鬱状態になるのは当たり前ではありませんか?
いつも言っていることですが、与えられたものの価値に気づいて感謝できない人間に、より良いものを与えたいと思う人はいないでしょう。創造主もそこは同じであり、そういう原理でもってこの世界は創られているのです。与えられたものに感謝できない人間というのは、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値に気づかされるような悲惨な人生になるのが定めなのです。
わかりますか?あなたは与えられているものは「当たり前」と思い(当たり前は有難いの対義語です)、他人と比べて与えられていないものを嘆き、与えてくれている相手に対して不満点があれば恨みに思って感謝できていないから、その「当たり前」と思って意識さえしていなかった「生きる意欲」さえも剥ぎ取られ続けているのでしょう。
誰もが喜ぶものを与えられなければ感謝できない人の感謝に価値などないのです。どんな苦難も自分の成長の為に与えられていると感謝しながら受け取れる人の感謝にこそ価値があるのであり、その苦難を乗り越えて行く中で人は魂的に成長できるのです。
<カルマ的原因と解決法>
人生の一義的な存在理由は、魂の成長にあります。あなたが不幸なのは人生・世界に意味がないからではなく、あなたが魂の成長課題(カルマ)に立ち向かっていないから(己の心に愛を育てられていないから)であり、それゆえに成長課題(カルマ)がどんどん雪だるま式に膨れ上がり、ストーリーが前に進まず、人生が「嫌な仕事を我慢して駄賃を稼いで生きのびるだけのクソゲー」みたいになり、嫌なことばかりで自己効力感を失い、虚しくなって何も楽しめなくなっているのでしょう。愛で世界を救う主人公として目覚めずエゴを目的に生きる限り、この人生というRPGにおいては脇役NPCでしかなく、NPCの物語が面白くなるわけがないのです。
魂の成長(カルマの克服)こそが人生のテーマを構成するのであり、あなたのカルマ(人生のテーマ)が何であるかはあなたが自分で経験を通して悟るべきことです。他人である僕があなたのカルマ(人生のテーマ)が何であるかを決めるというのはナンセンスですし、そもそもあなたに直接お会いした事さえないので知りようがありません。
ただカルマというのは本質的に人によって大差はなく、本人が一番目を向けたくないところにあるものなのです。「カルマの良化法」はよくよく読んでおいて下さいね。そしてあなたのカルマは前回の質問「継父との関係」から察するに、継父との関係性が大きく関わっていることは容易に推察ができます。前回あれだけ言葉を尽くしても伝わっていない(カルマが良化していない)みたいですが、恐らくあなたは結局あの質問の後も継父との関係を改善させられていないのではないでしょうか?
厳しい言い方にならざるを得ないのですが、あなたの被害者意識は成長拒否であり、不幸に導かれるのが必然なのです。自分の幸せの責任を親に求めていいのは中学生までです。大人になるということは、自分の幸せについて全責任を負うことです。全ての原因が自分の考え方にあるのですから、自分が考え方を変えれば全てが変わるのです。
好きではない親の世話になるのが辛い・早く自立したいというお気持ちは僕も同じだったのでよくわかります。しかし社会に出てみて実際どうでした?仕事はつまらない。嫌なこと・我慢しなければいけないことが常にいっぱいある。競争社会の中で常に他人と比較され、責められたりバカにされたりして自尊心をズタボロにされる。酒を飲んだりスポーツをしたりしても虚しく、何のために生きているんだかわからない。
あなたの父親もきっと同じだったのではないかと思いやりを持つことはできませんか?そしてあなたの父親はそんな中でも、家族を支えるために必死で色んなことに耐えて頑張ってきたのに、連れ子は自分に懐かず尊敬せず感謝せず反発ばかりしてくる。それでも途中で投げ出すことなく、経済的に不自由なく社会人になるまで育て上げたのでしょう。あなたに同じ事ができますか?エゴに埋没して虚無感に陥って生きる気力さえ失くしているような今のあなたにそれができるとは到底思えません。別にそれはできなくても良いんですけど(僕もできないです)、社会の厳しさを知ったあなたは父親に対する恨みを捨て、父親の欠点や過ち(依怙贔屓や理不尽な折檻)を心の底で許し、心から感謝・尊敬の念を持って、それを素直に伝えてはいかがでしょうか?それこそが人に存在意義(価値)を与えるということです。もしあなたにそれができたらきっと大きなカルマが解消され、人生が音を立てるようにして変わっていくと思いますよ。
<鬱の本質的な原因と乗り越え方>
これもいつも言っている事ですが、世の中のすべての問題は究極「愛の不足」が原因であり、逆に言えばすべての問題の解決策は究極「愛」なのです。これは例外がありません。
愛の対極にあるのはエゴです。僕もあなたの年齢の頃は思いっきりエゴに埋没して生きてきました。今それが自分で認められるのはエゴを乗り越えられるようになったからであり、その当時は自分がエゴに埋没しているなどという自覚さえ全くなく、それゆえに苦しんでいました。あなたもまだ実年齢的にも魂的にも若く、エゴに埋没していて己の中にある愛(思いやり・慈愛)を全く育てられていないという自覚がないのでしょう。
世界の本質はワンネスであり、エゴというのは分離意識・自己保存欲なのです。エゴによって自分という個体にだけ都合のいいように考え行動すると、深い部分で自分を嫌いになってしまうのです。そして自分が嫌いなのに他者(他人・世界)を愛せるわけがなく、厭世観に陥り、すべてがイヤになって鬱状態になってしまうのですね。鬱というのはエゴへの埋没を原因としており、また結果ともしている悪循環構造なのです。ただただエゴのために生きるって虚しいでしょう?だからあなたは鬱状態になっているのだと思います。そしてそれも含めて何事も経験から実感を通して知るっていうことはとても大切なことであり、あなたがその機会を与えられているということ自体が途方もない価値(存在意義)なのです。それは「当たり前」なんかじゃないんですよ。
あなたは仏教を勉強しているそうですが、理屈を頭だけで理解しようとするのではなく、六波羅蜜(&新六波羅蜜)を本気で行じてみて下さい。そうして実践によって己の中にある愛(思いやり・慈愛)の心を育てていって下さいね。そうすれば必ず実感を通して大切な事に気づかされますから。世界が関係性の中で成り立っているということ、自分はそれを愛・融和・調和のベクトルに向かわせる使命がある主人公だということ、など。自分の存在意義も世界の存在意義も関係性の中にこそあるのですが、それは説明されて理解できることではないのです。
一日一善で良いので、一切見返りを求めず、他者の為に尽くしてみて下さい。利他的な行動というのはエゴとは真逆で、やればやるほど深い部分で自分を好きになるという目に見えない素晴らしい価値が即与えられるのです。
>僕が死ぬと悲しむ友達、家族がいて80億人の中の100人程度の脳内の情報が変わるだけ。
今は無理でもいつかは自分が主人公(経験主体者)の地位が与えられているということの価値に気づいて、世界を救うという使命を果たして下さいね。それは「生まれの格差について(陰謀論)」「未来に絶望したくなる」に書いた通りです。別に有名人になる必要はなく、自分が世界に救いが連鎖する核になれれば、誰が評価しなくとも創造主はすべてを見ていてすべてをきちんと評価してくれます。連鎖反応=指数関数にとって、80億なんて大した数ではないのです。逆に目の前の人も自分自身も救えない人間に影響力があってもロクなことになりません。だから今現在の自分に影響力がないことより、目の前の人も自分自身もまだ幸せにできていないことに問題意識を持って下さいね。もしあなたが目の前の人を愛によって救える存在になり、揺るがない連鎖反応の核になれさえすれば、世界は必ず救われるのです。世界に何十億人いようと、それはあなたの鏡のような存在なのですからね。己のエゴに埋没せず、スケールの大きい・愛に溢れた人間になって下さいね。
<創造主直伝 さとり4カ条>
1.偉くなろうとするな、(自他全てが)尊いと知れ。
2.特別になろうとするな、特別(主人公)であると知れ。
3.日々愛を実践し、特別ではなくなること(差取り・ワンネス)を目指せ。
4.幸せになろうとするな、幸せであると知れ。
それでは、あなたの覚り=幸せを心よりお祈り申し上げております。
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