2024年8月26日月曜日

自分と他人の愛し方

【質問】年齢不詳・男性
こんばんは。いつもnote拝見させていただいてます。ありがとうございます🙇‍♂️
自分と他人の愛し方がわかりません。愛とはなんでしょうか??

【回答】2024年10月23日更新
noteを読んでいただいてありがとうございます。

え~と、「愛とは何か?」っていうことはnoteや質問箱において再三回答させていただいているのですが、やはりなかなか伝わらないようですね。人生は「愛とは何か?」の自己表現のためにあるようなものであり、それは自らが経験を通じて覚るべきことで、直接的に他人から教わるようなことではなく、言葉では伝わらないのがきっと普通なのでしょう。
エゴ(欲)とは何か?
罪と恥の存在意義

愛の条件を外すには?
もしこの3つを読んでいただいてもわからないということであれば、きっとあなたの魂はまだ若く「自分も他人も愛せない」という苦しみが必要な段階にあるということなのだと思います。人間(人生)というのはそのようにプログラムされているので、実は世の中というのは基本的にそういう人ばかりであり、決してあなただけではないですし、あなたが悪いわけではないので落ち込まないで下さいね。

愛(真理)というのはそのようにエゴという無明の闇(課題・愚かさ)に隠されていて見つけ難いものだからこそ、人生は経験する価値があるのです。もし愛(真理)が苦しみもなく簡単に見つかるものだったら、成長努力は必要なく、見つけた時の喜びもなく、人生に価値はなくなります。

しかしそれで話を終わらせては、わざわざ質問して下さったあなたに対して不親切過ぎる(愛がない)ので、過去記事と内容が被りながらも、あなたが自分も他人も愛せるように、よりわかりやすく深堀りしてご説明差し上げたいと思います。

まず、多くの人は「愛」という概念に対して「恋愛」や「家族愛」などに限定されたイメージを持っていて、「好き」の強意の意味合いでしか考えておらず、愛という言葉を「めっちゃ嫌い」の反対の「めっちゃ好き」ぐらいの意味で使っています。相手が自分にとって好ましい存在で、何の努力をしなくても好きな気持ちが勝手に心の底から湧き上がってきて、好きで好きでどうしようもなくなってしまうような情熱的な気持ちを愛だと思っているのですね。究極的に言うと陰陽二元のこの世界の陽だけを愛して陰を嫌い、世界全体が創造主より愛で与えられていることに気づかず感謝していない、という感じです。

しかしそのような「無意識に対象を自分に都合の良いように捉え、都合の良い存在だけ愛そうとする(それ以外は愛さず嫌っても平気)」という意識は愛ではなくエゴなのです。そんな「エゴの愛」は成長努力を必要としないものであり、赤ん坊でもどんな悪人でも持っています。その「エゴの愛」こそが人間というアバターに初期設定として与えられた無明(課題・愚かさ)の根幹なのであり、それがなければ人生は成長の物語には成り得えないのです。

エゴとは人間に根源的に与えられた分離意識・自己保存欲求であり、これがないと「他者」と関わることができず、人生という物語は成立しないのです。そのエゴを良いとか悪いとか考えるのもまた人間のエゴによる解釈であり、エゴというのは人間にとってなくそうと思ってもなくせるものではないのです。だからエゴを嫌えば自分も他人もみんな嫌うことになってしまいます。

しかし「エゴはなくせないし、みんながエゴのままに生きているのだから、自分もエゴのまま我利我利に生きてOK」というのでは成長はあり得ないのです。愛というのはエゴという成長課題を乗り越えなければ辿り着かないように創られているからです。

人間はエゴのまま自分だけに都合よく(我利だけで)生きようとすると、深い部分で自分を嫌いになってしまうようにできています。それが鬱の根本的な原因であり、鬱になると自尊心を病んでますますエゴに埋没し(その自覚もなく)、ますます自分を嫌いになって自尊心を病む悪循環にハマるのです。世界は本当は一つ(ワンネス)なのですから、自分という個体にだけ利益になるように思考・行動すれば、必ず自分を嫌いになって不幸になるように創られているのは当たり前の話なのです。だから人間の脳は得をしても損をしてもダメージを受けるようにできています。損得勘定で生きれば不幸は必然だということです。しかし脳は得をした時に快楽物質が出てそのダメージに気づけないように創られているのです。

今の資本主義の世の中では損得勘定で我利のために生きることが肯定(むしろ推奨)されていますから、必然的に我利ばかり求めて愛を失う「エゴジャンキー」だらけになっています。そしてみんな思春期に失われた自尊心を回復するために富や名声や権力や正義を得てそれをアピールすることに必死になり、それでも自尊心が満たされず深い部分で自分も人生も嫌いになって鬱になっているわけです。しかしこのディストピアな舞台設定がなければ人生は成長の物語として成立しないのです。

人間には「世界を好き嫌いで二分することによって、それをしている主体者である自分(個性・アイデンティティー)を認識しようとする本能」があり、無意識に対象を何でも好き嫌いで判断してしまうようにできています。そしてこの世界は自分という個体(アバター)にとって都合の悪いものに溢れているのですから、すべての存在をエゴによって「めっちゃ好き」という感じで愛そうと思っても無理があり、逆にどうしても愛せないものだらけの人生が嫌になってしまうのは当たり前のことです。そして人間というのは例外なく欠点があり過ちを犯す存在なのですから、そのような「エゴの愛」によっては自分も他人も愛せなくなるのは当然なのです。特に自分自身については他人からは見えないような欠点や過ちも全部自分で知っているわけですから、自分というのは最も愛するのが困難な存在だと言えるでしょう。

だから自分に都合の良いものだけを愛そうとすると、いつかは自分自身さえも自分にとって都合が悪い存在だと認識するようになり、自分を消し去りたい=死にたいなどと考えてしまうようになるのが必然なのです。どれだけ富や名声や権力を得ようと、自分を嫌いな人生というのは地獄であり、幸せなはずがないのです。


本当の愛というのは「慈愛」のことであり、思いやりの心なのです。それは欠点や過ちに対する「許し」がなくては存在し得ません。「許せないけど愛してる」「許してるけど愛せない」というのは本来的にあり得ないことなのです。愛せないというのは、心の底で許し(和解)が成立していないということであり、自分も他人も心の底では許せていないのに愛そうとするから無理が生じるのです。それは許せない感情を無理やり抑え込んで「我慢」しているだけであり、それよって一時しのぎはできても、許せない気持ちがどんどんマグマのように蓄積していって、いつかは爆発することが必然なのです。

だから誰かを許さず我慢して愛そうと努力するのは無駄な努力であり、不幸のフラグみたいなものです。すべての人間関係の問題の原因はここにあると言って過言ではありません。逆に自分も他人も許すことができれば、すべての問題は自ずと解決するのです。

「許し」というのは苦しみを伴うものであり、それを乗り越える努力が必要なのです。そしてそれこそが魂の成長をもたらすのです。簡単に許せる人を許しても成長には繋がりませんし何の価値もありません。人生にはいつも自分がギリギリ許せる人との出会いが用意されているのです。それをすぐ「許せない」と判断するのは成長努力の放棄なのです。そのように成長を拒否する人というのは創造主の愛に反していますから、例え生まれつき容姿に恵まれていても顔に夜叉の如く剣が出てどんどん醜くなり、愛を失って孤独で不幸になっていきます。

だいたい不幸な人というのは、許すことを努力とは認識せず、感情を無理やり抑え込んで我慢することを努力だと勘違いし、そればっかりやっているのだと思います。それは「自分が相手のことを我慢してやっていれば(傲慢)相手はいつか自分にとって都合の良い存在になってくれるだろう(ならなかったら相手が悪いのだから見放せば良い)」という、自分に都合の良い結果(見返り)を求めた努力(エゴ)なのですから、ワンネス(愛)が本質の世界で報われないのは当然のことなのです。

「許し」というのは「自分は正しい(善)」「相手は間違っている(悪)」という感じの上から目線では成立しません。それこそ心の底では許さずにただ我慢しているだけということなのです。すべての魂は同源であり、出会う人はあなたと同一人物のようなものですから、相手のことを自分自身の過去世や未来世のように考えて、完全に同じ目線に立って相手を許すことです。自分の過ちにやむにやまれぬ事情があるように、相手の過ちにもやむにやまれぬ事情というものがあるのですから、許す以外にないのです。答えはいつでも「誰も何も悪くない(許す)」であり、「でも自分が何とかしないとどうにもならない」です。バイオハザードで自分やゾンビやアンブレラ社やカプコンを責めてもゲームが進まないのと同じです。

「人を例外なく許し愛する」と言っても、実際に出会ってもない凶悪な犯罪者や価値観の違う時代の歴史上の人物などを許せるかどうかを考える必要はありません。あなたとは別の宇宙の住民でカルマが遠いのですから。そういう実際に出会ってもいない「悪い人」が世の中にいる(らしい)ことを、自分が人を許せないことの言い訳に使わないで下さいね。どんどん世の中が嫌になって自分が不幸になるだけですから。あくまでも実際に出会った人ひとりひとりを許し愛せるようになっていけば良いのです。

慈愛というのは我々の心に最初は見えないほど小さなからし種のように与えられているものであり、人生を通じて自分で苦労しながら大事に育てないなら決して育つことはないのです。「許す」のが苦しいからといって「許す」という成長努力を放棄し、その場しのぎの我慢ばかりして内心はいつでも「許さない」という選択肢を常に保留したまま、己のエゴによってすべてを「めっちゃ好き」という意味で愛そうとしても、世の中が許せない存在ばかりで苦しくなり、自分も他人もみんな嫌いになってしまうのは当然のことです。人生は「許し=愛」を経験的に知るために存在しているのですから。

ただ「許し」というのは他人から何をされてもOKという意味ではありません。自分がされて本当に嫌なことを我慢するのは自分への愛の欠如であり、本当に嫌なことはきちんと嫌だと伝えてそれを未然に防ぎ、それでも嫌なことをされたら注意するのは自分への愛です(もちろんその際には相手を傷つけないように気を配る愛が大切ですが)。

それでも自分が過去にされた嫌なことについていつまでもその相手を許さないのでは、自分の人生が恨みに満たされて自分が不幸になってしまいます。だから過去については「許さない」という選択肢はないと思って下さい。その場では怒ってしまってすぐには許せない自分も許しつつ、常に「許そう」というベクトルで考えるということです。

被害者意識(=許さない意識)というのは恐ろしいもので「自分は被害者であり、相手のせいで自分は不幸である」と、自分が「不幸な存在」であることを自ら認めてクリエイターに宣言しているようなものであり、クリエイターは「自分とはどんな存在か」に合わせて物語を展開しますから、どんどん許せないようなことが起きて、自分がどんどん不幸な存在になってしまいます。相手がどれだけ悪く、自分がいかに善良であっても、被害者意識を持ったら不幸になるのは自分なのです。

運命への呪いにも書いていますが、被害者意識というのは成長拒否なので、成長のために与えられた人生において不幸に導かれるのが必然なのです。幽霊というのは被害者意識の成れの果てだからこそ「恨めしや~」と出て来るわけで、もしあなたが幸せになりたいのなら、人を許さないこと(=被害者意識)で、そんな幽霊みたいな存在になってはいけないのです。※鬱や統合失調症になると被害妄想が強くなるのは、そういう霊障の仕業なのです。

今の世の中では、みんな「エゴの愛(条件付きの愛)」しか知らないのが普通です。親というのは子供が生まれた時には無条件で愛しているものですが、子供の物心がつく頃には教育期間が始まっていて、特に日本の親は将来子供が困らないようにという愛情を建前に、子供が間違ったこと(親が気に入らないこと)をすれば叱り、正しいこと(親が気に入ること)をすれば褒めます。しかし子供は無条件に愛されていた頃の記憶がなく、家族の愛ですら条件付きのものだと本能レベルで学習してしまうのです。

そうして自分に都合の良いものだけ愛し、自分に都合の悪いものは愛さないという「エゴの愛(条件付きの愛)」が当たり前だと思ってしまい、また相手に気に入られなければ愛されないと思って、本当の自分を隠したり偽ったりしてでも人に気に入られようとすることを生きる術として身に着けてしまうんですね。そしてそれを大人になっても続けてしまい「ありのままの自分」が何なのかさえわからなくなってしまうのです。そしてただ職場や家庭での役割をこなすだけで「自分らしさ」を深く考えることからも逃げ、自信がないために個性が邪魔になるような仕事を選んで嫌なことの我慢代で駄賃を稼ぐ奴隷のようになり、自分も他人も世の中もみんな嫌になってしまうのです。そして許す=愛するという努力を放棄して慈愛の心を育てていないために、自分も他人もありのままに愛するということができなくなっているのです。それが今の世の中では普通(舞台設定)なのであり、そのカルマを断ち切るのが主人公であるあなたの使命です。

多くの人は周囲に気遣って嫌われないように(社会から排除されないように)自分のエゴを無理くり押さえつけて我慢しているので、「自分らしく生きよう」と考えると、突然自分のエゴを解放しようとするのですね。そしてアドラーの「嫌われる勇気」みたいな感じで、嫌われても平気なフリをして心に愛を失くし、本当に嫌われて不幸になっていくのです。人に嫌われる幸せなんてありはしないのに。「自分に正直に生きる」というのは「自分の中の愛に正直になる」ということであり、普段から愛を育てずエゴを抑圧しているだけだけだから、「自分の愛に正直になる」と言われても多くの人はどうしていいかイメージすらできないのでしょう。ただ自分もみんなも愛して(許し、尊敬し、感謝し)幸せになるように生きればいいだけなんですけどね。

また愛というのを自己犠牲的なものだと勘違いして、自分自身に対して愛がなく、相手の愛を見返りとして請い願うような卑屈な「エゴの愛」になっている人もまた多いです。全てを創造した創造主から見れば、人間が自分をいじめるのも他人をいじめるのも、右手が左手をいじめるようなもので同じことなんですけどね。

愛の対義語は憎悪ではなくエゴなのだということをあなた(人類)は知らなければなりません。本物の愛というのは本質的に無条件のものであり、もし何か条件があるのならそれは愛ではなくエゴなのです。そして本当の愛というのは相手を最も自由にするものであり、何かを強制・強要・束縛したりするのは愛ではなくエゴなのです。もしあなたの愛が相手の反発を受けるなら、それは愛ではなくエゴであるということの証明なのです。

自分のエゴによって愛していると思っていた人も、後になって実は自分にとって色々都合が悪いところがわかってきたり、時が経つうちに相手側がこちらの都合が悪いように変わってしまったりします(それも自分側のエゴによる解釈ですが)。それなのに「めっちゃ好き」という「エゴの愛」を持ち続けようとすれば、必然的に無理が生じるのです。それで相手の欠点や過ちを許して愛さず、我慢ができなくなったらそれを全部相手のせいにして「愛が冷めた」などと考え、創造主より与えられた運命の出会いから逃げ出すようなら、成長はありえず不幸に導かれるのは必然です。(特に今離婚しようとしている方はよくよく考えて下さいね)

与えられたものに感謝しない人に、もっと良いものを与えたいと思う人はいないでしょう。そこは我々の統合意識である創造主も同じなのです。だから欠点や過ちを理由にして相手や自分自身の存在に感謝しない・愛さない人間の人生は、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値に気づかされるような悲惨な人生になるのは必然なのです。

自分だけではなくみんなにも与えらえれていると思うものには少しも感謝せず、誰しもが受け取って喜ぶもの・他人と比べて良いものが与えられないと喜ばない・感謝しないという人の感謝に何の価値があるでしょうか?そのような人間がどれだけ価値を与えられようと、他人に与えられたものと比べて価値が低いと思い不平不満を感じて愛さないでしょうし、与えられているものの価値には気づかず感謝しないことでしょう。そのような人にいくら与えようと際限がなく、ただ成長努力を放棄するようになるだけで逆効果です(だから与えません)。

あなたが欲しいと思うものは、何も言わなくても全知全能たる創造主はみんな知っています。それなのに創造主がそれを敢えて与えないのは、
1.まだシナリオの伏線の回収(課題の克服・カルマの解消)ができていないから
2.信心がなく、既に与えらえれているものへの感謝がないから
3.願望がエゴでしかなく、愛がないから
です。

創造主からあなたに与えられた最大価値はあなた自身なのであり、創造主の価値(存在意義)というのはあなたが自分(人生)に価値(存在意義)を感じられるかどうかに依存しているのです。与えられた自分(人生)というものの価値に気づかず、本当は借り物である自分をまるで自分のものだからいくらぞんざいに構わないかのように考えて大事に扱わず、自分の欠点や過ちを責めてイジメるのが趣味みたいになって「どうせ自分なんて」と成長を拒否していたら、鬱(不幸)に導かれるのは当然のことです。それでそこから成長する気がないまま人生を終えたら、文字通り人生は地獄だったということになり、せっかく創造主から成長を期待されて授けられた自分を自分で台無しにしてしまったことになります。

あなたがもし著名な演奏家で、ストラディバリウスのような何億円もする高価な楽器を貸与されていたら、それはそれは大事に扱うことでしょう。しかし「そのストラディバリウスをタダであげるから、明日臓器提供のために死んで欲しい」と言われてもきっと死なないでしょう。つまりあなたは今まで何億円もする楽器よりも遥かに価値がある「自分」を創造主から貸与されていながらその価値がわからず、まるで自分のものだからどのように扱っても構わないかのように考えて少しも大事に扱わず、また同じように他人の価値もわからないために大切に扱わずに平気で傷つけ、お互いに傷つけ合ってきたのではないでしょうか?わかっていると思いますが、これは体よりもむしろ心の話ですからね。

人生が与えられているということは「自分とはどんな存在か?」を知り、更新(成長)していける機会を与えられているということです。その人生において「自己受容」というのは最大かつ最難易度の課題であり、そこには死よりも辛い苦しみがあるのです。だから人が自殺する原因のほぼすべてがいわば「自己受容の拒絶」だとも言えるでしょう。

しかしその「ありのままの自分を受け入れる=許し愛する」という苦しみから逃れるために「理想の自分になろう」などと考えても、それは自己否定が動機なので成長することは難しいのです。人は愛してもいない自分自身のために成長努力をする意欲は湧かないものだからです。自分をイジメてばかりの人というのは、自分(人生)という創造主からの最高の贈り物を感謝で受け取っていないのですから、成長意欲が湧かず不幸に導かれるのは当然と言えるでしょう。

だから例えば「今の自分は太っていて醜い」などという自己否定から痩せて美しくなろうと努力する女性は、例えその努力によって痩せて多くの人から美しいと言われるようになったとしても、今太っている人を「努力不足だ」と否定し見下してイジめて優越感を味わうようになって人から嫌われ、また表面的な部分ばかり見て体を目的とした男しか寄って来ず、そのうち自らが加齢で美しさが損なわれることも受け入れられずに不幸になっていきます。そのように愛ではなく自己否定から始まる努力(表面的な価値に捉われた努力)というのは魂の成長とは逆行したものなので、せっかく頑張っても不幸に導かれるのが必然なのです。

これは富や権力なども同じことで、貧しく権力のない自分を否定し嫌うことを出発点としてお金持ち・権力者になりたいと努力するような人は、それを手に入れたらこれ見よがしに力を行使し見せびらかして羨ましがらせ、貧しく権力のない人を「努力不足だ」と否定して見下し、服従させて優越感を味わうこと(エゴの充足)を喜びとし、表面的には尊敬され慕われて羨ましがられているようでも、内心では嫌われ、深い部分では自分でも自分を嫌いになっていきます。それでは自分を自己利益のために利用しようと考えている人間しか寄って来ず、内心は嫌われていて愛されてはいないので、お金や権力を失ったら本当に誰もいなくなってしまいます。そしてそうなることを恐れて富や権力に執着し、孤独でみじめで不幸な人生を歩むことになってしまいます。

「自己成長」というは「魂の成長」であって、決して「能力を高めてよりお金を稼ぎ、より他人から評価されるようになること」だと誤解しないで下さいね。エゴのためにいくらお金を稼いで他者評価を得ようと、深い部分で自分を嫌いになり、周囲の人間からも嫌われて愛を失うだけです。

自己成長(魂の成長)というのは「自分も他人も許し、全てをありのままに愛せるようになること」であり、「自分も含めてみんなに対して愛を実践して示せるようになっていくこと」です。真理というのはワンネスであり、それは自分も他人もみんなを幸せにするものであって、ネガティブな覚りは全部間違いなのです。

「生まれつき能力が低くて何の才能もなく、容姿にも恵まれてないから自分を愛せない」などと考えるような人は、己の境遇を憐れんでそれを言い訳に怠惰に陥ってるだけです。それはRPGで「最初からレベル99で装備も揃ってないとゲームしたくない」というようなもので、すこぶるナンセンスなのです。どうか誰しもがそれぞれ自分の魂の成長にとってベストな人生が与えられてるのだと知って下さい。それはガチャのように偶然与えられるものではなく、難易度が高い人生というのはレベルの高い魂に与えられるのです。それは優秀な生徒にはより難しい課題が与えられるのと同じです。そして今現在の未熟で愚かな自分も愛しながら次々と与えられる困難を乗り越え、より素晴らしい自分へとレベルアップしていくことがこの人生というRPGのシナリオの要であり楽しみなのです。

問題を先延ばしにせず、成長を目指して今日一日を精一杯生きれば気持ちよく眠れて、次の日にはきっと昨日より成長した自分に出会えます。そうやって「成長していく存在としての自分」を愛するのです。そうすれば、過去の自分の欠点や過ちも「自分が成長を経験するために必要だった」と許し愛せるようになります。

自分がどんな存在かを知るには、他者と関わる必要があります。他人と紡ぐ物語がなければ、自分(主人公)がどんな存在かはわかりません。だからこそ人生という他人と関わる機会が与えられているのです。一人で家に引きこもっているようでは「自分とはどんな存在か?」などわかりようがありません。

ただ人と関わる上で、自分が主人公であるということだけは決して忘れないで下さい。自分をNPCである他人(他プレイヤー)と比較するのは意味がありません。舞台設定が近いというだけで、シナリオが違う別なゲームをしているんですから。ゲームの価値は自分がどれだけ楽しめたかであり、どれだけ他人よりレアアイテムをゲットしてハイスコアを出して先にクリアできたかではありません。

誰にとっても「一生の間全ての要素で誰が見ても世界一であり続ける」などということは不可能ですから、他者比較・他者評価に依存していれば劣等感に苛まれるようになるのは必然です。特に日本では他者比較・他者評価依存が当たり前になっていて、自分がそうなっている自覚さえない人が多いです。そして自分で自分を評価し愛する人を「独りよがりでいけ好かないナルシストのバカ」としか考えられず、無意識に嫉妬して攻撃してしまうんですね。そしてこのSNS全盛の時代、他人と自分を比較して劣等感と嫉妬に苛まれながら、一生懸命に他者評価を求めている人だらけなのです。

エヴェレット解釈の通り、世界は一人一宇宙なのであり、自分の認識世界は自分という主人公次第に創られているのです。ただそれは「行動の選択」ではなく「解釈の選択」が人生を作るということです。前述した通り、自分に起きる出来事は「自分はどんな存在か?」に対応して与えられているものです。自分自身と世界をネガティブに解釈している人は、何かを選ぶことで人生を良くしようと思っても、その選択肢は自分のネガティブな解釈で作り出した世界の中にあるのであり、何を選んでも悲惨な結果しか訪れません。そして自己効力感のなさに苦しみ、「どうせ自分なんて何をしても結局ダメな人間だ」などと落ち込んで、またそれを言い訳にして努力を怠るようになり、成長を拒否することでどんどん不幸に導かれてしまうのです。だからポジティブな自分観・世界観がとても重要なのです。

本当に価値があるものは、最終的にその価値を最もよく知り最も大切にする者の元に必ず辿り着くものなのです。優れた人物が必ず優れた師の元に辿り着くように。富や名声や権力など、この仮想現実における幻の如き価値に目を奪われて執着し、他人とそれらを奪い合い、自分と他人を比較して他者評価に依存し劣等感に苛まれ、手に入らないものを嘆き、それでも自分の自尊心を保つために誰かを責めて見下して人とぶつかり合ってばかりいるような人間の元に、愛という目には見えない本物の価値は辿り着かないということです。

どうかこの世界が創造主の100%の愛で創られていることを信じ、どんなに嫌な事・苦しい事・痛い事・辛い事・悲しい事も、成長のために(同情し合い・許し合い・補い合い・愛し合えるように)愛で与えられているものだと信じて下さい。そのようにポジティブに世界を解釈し、創造主の分身である自分にも他人にも愛を与えることができれば、どんな選択をしようと必ず幸せに導かれるのです。

誰でも自信満々になれる方法の冒頭に書いた通り、自分が嫌いなのに幸せという人もいなければ、自分が好きなのに不幸という人もいません。自分を好きでいられることが幸せであり、それが人生最大の価値なのです。

すべての魂は同源で、自分と他人は本来はイコールの存在であり、ありのままの自分を許し愛せなければ他人もありのままに許し愛せません。エゴ(分離意識・自己保存欲求・我利)を乗り越え、自分と他人の欠点や過ちを許して愛せるよう成長して行くなら、それは態度と行動に反映され、きっとみんなに愛されて幸せになることでしょう。あなたが人生を通じてエゴを乗り越えて愛を発揮するエピソードを積み重ね続けるなら、あなたはきっと自分も他人も揺るぎなく愛することができるようになるに違いありません。

自分を許し愛せるようになる最善の方法は、出会った人を一人ひとり許し愛していくことです。そうやって「自分(人生)大好き」というパズルを1ピース1ピース完成させていって下さい。決してエゴによって「この人がこうなれば(自分に都合よくなれば)愛せるのに」などと条件付きで人を愛さないで下さいね。相手を変えようとせず、ありのままに愛することが大事です。

あなたは人生というRPGの主人公であり、あなたが出会う人は全員、創造主があなたに何か大切なことに気づかせるためにあなたの元に派遣しているNPCなのです。それなのに「許せない」などと言って、NPCである相手の側を変えようとしても絶対に上手く行きません。その人・その言葉・その出来事との出会いによって、創造主があなたに何を覚らせようとしているかを愛で考えて下さい。

そして出会った人から何か嫌なことをされる度に「他にもっと愛せる人が現れるだろうし、別にこの人じゃなくてもいいや」などと考えないで下さい。それは目の前の人を全力で愛さないことに繋がり、結局は自分も全力で愛さることなく、必ず人生が不幸になります。すべての出会いを運命と信じ、人生という自分が主役の物語において常にベストなキャストが与えられていると信じて、常に目の前の人を全力で(自然に)愛を示して下さい。前述した通り、相手に反発されるようなものはエゴであって愛ではありませんからね。ただありのままを愛して下さい。お金で所有欲を満たそうとすれば限界がありますが、ただ相手をありのままに愛することができれば、その人はあなたの心の世界(仏国土)に写し取られ、全てあなたのものになったも同然なのです。

あなたも他人もみんな創造主とその分身たる神々のアバターなのであり、あなたは魂という「存在」を与えらえれ、そして肉体というアバターと共に人生という自分が主人公の貴重な経験機会を与えられている偉大な存在なのです。そしてあなたというアバターは自分の偉大さに目覚めたあなたの魂からの愛を一番に待っているのです。どこかの有名人や金持ちや権力者に価値があって自分には価値がないなどと考えないで下さいね。あなたというアバターは、あなたが価値がないと思って全力で愛さないから全力で働いていないだけなのに、あなたはそれを自分の実力だと思ってしまっているのです。

ただそのようにあなたが他者評価に依存し、自分と他人とを比較して劣等感と自己嫌悪に苛まれて自分を愛せないという経験も、成長の喜びを感じられるように愛で与えられた課題なのだと知って感謝して下さいね。そして自分に自信を持って、自分も他人も愛して幸せに生きて下さい。

創造主は言いました。「樹が鳥を愛するように人を愛しなさい」と。自分というものが存在して今を生きられていることに感謝し、天・地・人の恵みを感謝と共に受け取って豊かに成長して果実(愛・覚り)を実らせ、その実りをみんなに無償で分け与え、自分の元に集まる者たちが喜びに歌うのを我が喜びとし、決して己の自己正当化のために他人を批判・説教して傷つけたりせず、来る者拒まず・去る者追わずで、ただただ「存在」をありのままに愛することです。そして結果(見返り)を求めて被害者意識に陥らず、どんな運命も感謝と共に受け入れることです。そうすればあなたの愛(覚り)の種を鳥たちが運んで世界中に広がっていくことでしょう。そんなことができる自分をあなたが愛せないわけがなく、また愛されないわけもないのです。

それでは、あなたが自分も他人もありのままに愛せるようになって幸せになることを心から祈っています。

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