2025年7月4日金曜日

宗教を学ぶ理由

【質問】20代前半男性 ペンネーム:そら

お久しぶりです。

真也さんにとって、宗教団体の人と関わったり、儀式に参加したりする理由って何ですか?

僕はオーストラリアに来てから色んな人と会ってそれぞれの出会いに理由があると信じていて、実際に学べたこともたくさんあります(新しい人との出会いや、その人の視点を知ることはシンプルに楽しいです)。オーストラリアに来てから出会う人で無宗教の人はほぼいなく、どの宗教かに関わらず僕はその人に目覚めてもらう役割にあると思っています。実際に宗教を盲信して、うまく愛を受け取れずに苦しんでいる人、自分を受け入れられずに自分も他人も傷つけてしまっている人など様々ですが、順風満帆な人とは深い縁にはなっていません。

僕は真也さんのノートの考え方で幸せになれたので、その考え方をあわよくばシェアしたい(相手に気づかせる形で)のですが、なかなかうまくいきません。相手には僕の信念はある程度定まっているんだけど、まだまだ色々な宗教から学べると思っているよって伝えています。

例えばキリスト教だと創造主(キリスト)を裁判官のように捉えていて、恐怖からくる愛だったり、敬虔なクリスチャンだと罪の意識が強過ぎて自分を愛せなかったりがあります。最近だとモルモン教(キリスト教から派生したもので死後はみんな天国に行けると説かれているけれど、そこには階層があってそこにいくには厳しいルールを守り、教会を拡大することに貢献しなければならない。結果構造自体はわかりやすいピラミッド型)を学んでいます。

そこでミッショナリーの人(若い世代で一定の期間積極的に宗教を広める役割を担う人)たちと何回か話すのですが、英語で色々考えて、相手がハッとするような質問をしたと思っても、いい質問ありがとう!これはこうこうかこういうことだよと、ロボットのようにモルモンの教えから抜粋してきて、説明してきます。この人たちとは日常での関わり合いがなく、僕が誘われた時に集まりに行ったり、形式的な話し合いの場に行くような感じで、少し特殊な関係性です。正直言って、それだけキリストを尊敬していて、キリストについて学んでいるのに、何故キリストのように生きないで、キリストと契約を結ぶ形になるのかよくわかりません。色々な宗教を学んでいく中で、様々な発見があってそれは楽しいのですが、たまに自分の考え方が伝わらな過ぎて、あれなんで学んでるんだっけ?とか、フリをしながら質問を続けることで自分で何してるかわからなくなります。真理を知った上で宗教を学ぶ理由はなんですか?また、メシアの三原則として相手に気づかせてあげるというのがあると思いますが、どこまで伝えていいのですか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。オーストラリアでとても貴重な経験をされているようですね。あなたの御質問は僕もいつか話したいと思っていたことで、とてもありがたいことです。

ただ、「宗教を学ぶ意味」の話以前に、あなたにはもの凄く云いづらい厳しいことを言わなければならなりません。それで回答がずっと遅くなってしまっていました。ごめんなさいね。もちろん僕はいつも100%の愛で回答しているのですが、今回はどう言葉を取り繕おうにもあなたを傷つけて反感を買うのは不可避な内容なので。

まずあなたにはお伝えしたいことは、「もっと本質を見抜く目を持って欲しい」ということです。そのために、とても難しいことなのですが、「己に都合の良く現実を捻じ曲げて解釈してしまっている自分のエゴを見つめる」ということを心がける必要があると思います。

僕は宗教を悪用した詐欺・カルトを「学ぶべき宗教」とは考えていません(反面教師として以外に)。そこをゆめゆめ勘違いしないで下さい。詐欺・カルト集団で宗教は学べません。だいたいそういうところは他の宗教を同時に信仰するということを認めるわけがありませんので、そこ以外で学ぶということができなくなります。あなたが学んだ通り、自由意志を放棄したAI(NPC)みたいにされて利用されるだけです。

はっきり言いますが、モルモン教というのはモロにカルト詐欺集団なのであり、それをキリスト教の一派などと考えるのはキリスト教に対する侮辱でしかありません。そしてキリストについても聖書についてもモルモン教で正しく学ぶことなどできるわけがありません。論外です。

<絶対に避けるべき宗教(カルト・詐欺)の特徴>
■考え方や行動を強制・強要される(寄付・奉仕・勧誘活動)
■信者を脅したり不安にさせて精神的に支配しようとする
■霊感商法をやっている(心霊現象などをトリックで見せる)
■囲い込みが強く、他の宗教を同時に信じる事を禁止される
■外部に悪い実情(犯罪など)がバレないよう口止めをしている
■集めたお金の大部分が何に使われているか一般信者に知らされていない
■聖典を勝手に都合よく捻じ曲げて解釈し、大手宗教の権威を悪用する
■天啓などと言って教祖や幹部が教義を都合よく変えている
もちろんモルモン教はこの基準でも真っ黒です。

何よりあなたがそのコミュニティーに入り込んで真理を説いて目を覚まさせようとするなどというのはあまりにも無謀だと思います。そして更に無謀に思われるのは、あなたがモルモン教徒の女性を彼女にして洗脳を解いて自分の考えに染めようなどと考えていることです。それはまるで渋谷の駅前でラッセンの絵とかを法外な値段で売るエウリアンのお姉さんのギャラリーに行って仕事を辞めさせて彼女にしようとするようなもので、あまりにも無謀過ぎます。

モルモン教徒は結婚するまで性行為はご法度であり、あなたがモルモン教徒の彼女とそういう関係になりたいとしたら、あなたがモルモン教徒になって彼女と結婚して一生モルモン教徒としてやっていく以外にありません。そしてたくさんの理不尽な規制を受けながら、一生搾取され続けることになるのです。あなたの未来の子供もです。それでいいのですか?あなたの魂は「他人からルールと考え方を強制されるロボット人間になること」を受け入れるのですか?恋は盲目と言いますが、あなたのソレは愛ではなく完全にエゴだと思います。一度自分をゆっくり見つめ直して、価値の優先順位をはっきりしましょうね。

ただでさえ僕がいつも「メシア救世三原則」と言っている通り、相手を変えようとしないのが大原則なのであって、まして相手がカルト組織の人間では変えられるわけがありません。それを変えられるなどと思うのは(厳しいですが)傲慢であり、それは「自分のエゴで都合よく現実を捻じ曲げて解釈している」ということなのです。

とにかくあなたは一刻も早くモルモン教から離れるべきです。普段僕はこんな押し付けるようなことは言いません。それでも言ってるんですから、相当なことなのだと認識して下さい。


>正直言って、それだけキリストを尊敬していて、キリストについて学んでいるのに、何故キリストのように生きないで、キリストと契約を結ぶ形になるのかよくわかりません。

「それを言っちゃあおしめぇよ」って感じです。それはエウリアンの女性に「ラッセンの絵がそんなに素晴らしいなら、なぜラッセンみたいな絵を描かないで、ラッセンと契約を結ぶ形になるのでしょうか?」って言っているようなもので、ナンセンスです。


英語がまだ上達しないうちに、積極的に会話に付き合ってくれる彼らの存在はあなたにとってとてもありがたいことなのはとてもよくわかります。でもあなたがそれに依存するのは得策ではありません。彼らは誰彼構わず勧誘していて、別にあなた個人に興味を持っているわけではありません。ただ単に一人でも多く勧誘しなきゃいけないから、まだ語学ができないあなたにも積極的に絡んでいるだけです。そういう人たちとばかり関わっていたら、コミュニケーションの感覚がおかしくなりますし、あなたに入信する気がないのなら関係性が続くわけもないのです。そんな人たちのために時間を浪費し、本物の人間関係を築く機会を目減りさせるのはひどく無駄なことだと思いませんか?


>たまに自分の考え方が伝わらな過ぎて、あれなんで学んでるんだっけ?とか、フリをしながら質問を続けることで自分で何してるかわからなくなります。

彼らにとってあなたは勧誘の獲物(カモ)なのであり、あなたを教化するつもりはあっても、あなたから何かを学ぼうとするつもりなどあるわけがありません。あなたが何かに気づかせよう・目覚めさせようなんてどんなに頭をひねったところで土台無理な話であり、相手側があなたを勧誘するのが無理だとわかったら捨てられるだけです。


>真理を知った上で宗教を学ぶ理由はなんですか?

そもそもにおいて信仰というのは純粋な愛によるべきものであって、理由を求めることは目的化・見返りを求めることにつながり、純粋な愛ではなくなってしまうと思います。一言でいえば理由は愛であり、あなたが純粋な気持ちで神仏を愛せないのであれば、他人に理由を聞いて無理に愛そうと思っても愛せるようにはならないと思います。

そして人を目覚めさせられる存在になるには、当然人より目覚めていなければなりません。あなたは何かあなたや僕がもう真理に到達しているかのような書き方をしているように見えてしまうのですが、僕らが生きている限り真の悟りというものは遥か先であり、だからこそ僕らは永遠に成長を目指すことができるのです。(悟りの完成とは、世界救済の完遂・地上天国の建設の完遂なのです)。

僕にしても「自分はまだまだだ」と心から思っているからこそ、謙虚な気持ちで様々な宗教を意欲的に学び、儀式などにも参加したりしているわけです。それが僕の「様々な宗教を学び続ける理由」の根源です。

創造主は我々が人間のままでは決して真の悟りには辿り着けないよう無限に悟りのステージを用意してくれているお陰で、我々は何度も輪廻転生を繰り返して人生を楽しませて貰えているのであり、それによって我々は真の悟りを求めて知識欲・経験欲を維持することができるのです。

あなたがもし「既に自分は真理を悟っている」と思っているのであれば、それは法華経における仮城宝処を本当のゴールだと勘違いしているということです。僕はまだまだ知りたいこと・経験したいことが尽きなくあります。まだまだ真の悟りからは遠いからこそ、まだまだ経験し学ぶ意欲を得る事ができるのです。もう既に究極の悟りに至ったと思ったらそれ以上の成長は楽しめません。

あなたは僕のnoteや質問箱をヒントに自分の経験を通じて悟りを進めて下さっていることと思いますが、僕がnoteや質問箱に書いている内容は、僕が既に悟らされていることの中でも1%にも満たないのです(エッセンスではありますが)。

そしてあなたは僕がそれぞれの宗教で教えを説いたり、洗脳されている人たちを目覚ませようとしたりしているなどと思っているのだとしたら、それは甚だ見当違いです。僕はひたすら学ばせていただいているだけです。そして僕はいわゆるカルト・宗教詐欺団体には近寄りません。僕が直接的に教えを説いているのはこの質問箱とnoteのみであり、日常において他人様に向かって直接的に「教えを説こう・目覚めさせよう」などということは全くしていないのです。

悟りというのは、知識として真理(正解)知るだけでは意味がなく、経験と実感を通じて(間違いと試行錯誤を繰り返して)悟ることに意味があるのです。創造主は全知全能ゆえにそのままでは何も経験できないので、無明である僕らを通じて経験をし、それによって想像=創造を豊かに広げているのです。

あなたはまだまだ若く、経験が足りず、真の悟りは程遠いのだ(みんなから学ばせていただこう)という謙虚な自覚を持たなくては成長しようがありません。そして「自分と考え方の違う他人を言葉で説得して自分と同じ考えに目覚めさせよう」などと考えるのは本来的に傲慢なことですし、もしやろうと思ってもきっとうまくはいかないでしょう。まず他人をどうこうしようとする前に、自分の覚りを前に進めることを考えて下さい。そして日々愛を実践するのみです。

人はみんな、経験したいことを経験するために生まれてきています。一人ひとりみんな自分がプレイヤー(主人公)なのです。人間は誰でも自分なりに失敗・過ちも犯して試行錯誤しながら納得しつつ前に進みたい生き物なのであり、頼んでもないのに横から答えなど教えられたくないのです。それを無理に教えようとするのは越権行為であり、相手がしたい経験(シナリオ)を妨害する行為なので、基本的にはやるべきでないのです。正解を教えることが正解ではないということです。創造主とその分身である相手を信じ、辛抱強く待ち、耐え忍ぶことも愛です。

僕らは情報(正解・真理)を集めるために生まれてきたのではありません。経験をするために生まれてきたのです。正解・真理に価値があるのではなく、それを求めて生きる我々の経験が正解・真理を価値ならしめるのです。

創造主は全知全能であり、全てを知っています。それゆえにそのままでは何も経験できず、何も想像できず、何も創造できないのです。だから創造主は我々人間として経験を積んでいるのであり、わざと愚かに生まれて想像性(=創造性)を発揮しているのです。知らない事を補う力が想像力なのであり、全知全能のままでは発揮しようがないのです。

そして「存在」というものは元々は真理しか存在せず、全ての答えが一つに限定された状態でした。それは究極に退屈で存在意義のない状態だったのです。創造主はそこで「愚かな者に智慧を求めさせ、創造性=創造性を発揮させるという原理」と「答えを一つに限定しないという原理」によって、つまり愚かな人間の想像を実現することによって、この世の想像=創造を豊かに広げ続けているのです。

どんな愚かな考えや行為(過ち・失敗)であっても、少なくともそれは創造主にとって創造の種になるのであり、正解(真理)よりも価値があるのです。もちろんそれは揺るがない真理というものが元々存在しているからこそですが。

創造主というのは意味そのものであって、その創造の全てには意味があり、意味のないものは存在し得ないのです。悪魔や、邪教・カルト・宗教&スピ詐欺などでさえも、ちゃんと存在意義があって、創造主より善悪を超えて創造されて存在しているのです。

そして全ての存在には個性があるのであり、それは欠点や過ちと不可分です。それは神仏や宗教であっても例外ではありません。完璧な宗教などがあれば、みんながそれを信じ、試練も何もなく、信心に意味も価値もなくなります。だから良い所を学び、悪い所は反面教師としなければなりません。

人間の存在意義というのは物語の中で生じるものであり、この世に善しか存在しなければ物語など生まれようがありません。だからこの世のあらゆる存在は陰陽二元的に創られているのです。

人間に存在意義を生じさせているものこそが宗教・神話(物語)であり、そこに登場する神仏たちキャラクターなのです。我々はそれらを謙虚に学び・讃え・奉仕し、彼らに救いを発動して貰ってそれらに存在意義を与えることで、我々も存在意義を得ることができるのです。そして自分とはどんな役割(キャラクター)なのか、人生(現在進行形の物語)の中で他者と関わる中で悟り、それを更新・具現化して行く中で、主人公として自らの存在意義を能動的に掴み取ることができるのです。それが僕が日々様々な宗教・神話を学び、神仏を讃え・奉仕し、儀式などにも参加する理由の核です。

ただそれだけが理由ではありませんので、一つに限定しようとしないで下さいね。こうやって信心の理由を考えてみても、やはり後付け感しかありません。僕はそういう理由ありきで信心を持っているわけではありませんからね。

もし一つの宗教を妄信し、または宗教・神話自体を嫌悪して学ばないなら、ただ無自覚に流されて生きるだけのNPCになってしまい、主人公にはなり得ません。日本人の多くは自分を無宗教だと考えていますが、それは常識教・唯物主義・資本主義教・悪魔教に無自覚なまま堕しているだけなのです。厳密な意味で無宗教を選択するということは不可能だということです。我々は人生というRPGの物語の中で生きているのですからね。人間にとって世界はわからないことだらけであり、何も信じないで生きるということはできないのです。自分の勝手な常識・思い込みを信じているということにも無自覚な人ばかりですが。

「自分は既に真理を悟っている」などと考え、宗教・神話について知る必要はないなどと考えることは、ナンセンス極まりないことなのです。世界・人生は物語(芸術)であり、どんな宗教・神話も、物語(芸術)としての尊さがあり、我々は尊重しながら学ぶべきなのです。それが己自身の存在・人生・世界に存在意義を与えるのですから。

それでは、あなたがカルト(邪教)・宗教&スピ詐欺から一刻も早く離れ、多くの宗教・神話を学び・讃え・奉仕し、他者との健全な関わり合いの中で日々愛を発揮し、人生を素敵な物語にして、己の存在意義を確たるものとし、存在として幸せになることを、自らも実践しつつ心から祈っています。


<関連質問>
なぜ創造主教を創らないのか?
創造主というのは存在のすべてであり、神仏(宗教・神話)も人間も森羅万象が創造主の偉大な創造物(物語・芸術)であり、創造主自身でもあるのです。神仏(宗教・神話)も人間も、自他全てに価値があるのであり、それを否定することは創造主を否定することになります。彼の創造した物語の中を思いっきり楽しませていただきましょう。

5 件のコメント:

  1. お忙しい中回答して下さってありがとうございます。
    誤解されているようなので訂正させてください。

    あなたがモルモン教徒の女性を彼女にして洗脳を解いて結婚しようなどと考えていることです。
    このように考えたことはありません。おそらく僕のツイートを遡って確認してくださったのだと思うのですが、関係があったのはキリスト教の人であり、ミッショナリーの人とは全く別の人です。
    実際にモルモン教の教会に一度行ってみて、内容がモルモン書がなぜ正しいのかと、教会を拡大することがなぜいいことなのか。という本質から逸れたものだったので、それ以降は行くのをやめました。


    >まず他人をどうこうしようとする前に、自分の覚りを前に進めることを考えて下さい。そして日々愛を実践するのみです。

    はい、引き続き頑張りますありがとうございます。

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    1. ツイートを遡ったりはしてないです。スペースで「失恋して、またモルモン教徒の女性を好きになってしまった」という話を受けてのことです。そしてモルモン教について「もう関わっていない」という話はしていなかったので、老婆心ながら忠告させていただいた次第です。キリスト教にも色々宗派があるわけで、あなたはモルモン教については明言していましたが、キリスト教の宗派については言及していなかったので、当然モルモン教徒なのだろうと思っていました。

      結婚を考えていたかは知りませんが、モルモン教徒と関係性を進めるのは結婚以外にないので、そういう表現になりました。その女性がキリスト教徒で婚前交渉OKだったのかどうかは言及がなく知りようがなかったので、もしちゃんと付き合われていたのでしたらすみません。

      ただモルモン教徒であれキリスト教徒であれ「宗教ロボットみたいな女性を好きになる」のは単純に外見だけで相手を選んでいるからではないでしょうか?そして問題の本質は「自分が変わろうとせずに、相手側を自分の都合の良いように変えようとすること」であって、それは相手が誰であっても同じことで、相手の宗派が何かは関係ないと思います。

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  2. >人間に存在意義を生じさせているものこそが宗教・神話(物語)であり、そこに登場する神仏たちキャラクターなのです。我々はそれらを謙虚に学び・讃え・奉仕し、彼らに救いを発動して貰ってそれらに存在意義を与えることで、我々も存在意義を得ることができるのです。そして自分とはどんな役割(キャラクター)なのか、人生(現在進行形の物語)の中で他者と関わる中で悟り、それを更新・具現化して行く中で、主人公として自らの存在意義を能動的に掴み取ることができるのです。それが僕が日々様々な宗教・神話を学び、神仏を讃え・奉仕し、儀式などにも参加する理由の核です(それだけが理由ではありません)。

    宗教を通じて人の救い方だったりを学ぶということでしょうか?

    また神仏を通じた救いというのがいまいちピンときません。
    僕がオーストラリアに来たのは創造主からの導きがあったからで、こちらに来てからも導き(奇跡)の連続です。
    自分がどのようなストーリーを生きていく(生きていきたいか)をメタ的に宗教で学ぶということでしょうか?

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    1. 「人の救い方(=自他全ての救い方)を学ぶ」という理解はという理解は間違っていないと思いますが、そもそも信心というのは愛の形であって、信心=愛に理由(目的・見返り)を求めること自体僕はナンセンスだと思っています。信心=愛が純粋なものではなくなるからです。

      例えば音楽を愛するのに理由(目的・見返り)が必要でしょうか?あなたが理由(目的・見返り)がなければ神仏を愛せないという段階にあるのなら、まだ愛さなくていいのです。でもそれがどれだけ人生を損しているかにいつか気づいて欲しいです。

      「筋トレ(モチベ維持)について」に書いた通り、「目的化」というのは害悪なのです。例えば性交渉に何かの目的(性欲解消・自尊心回復・お金・結婚・世間体など)を持ってしまうと、純粋な愛ではなく醜くなるとわかりますよね?愛というのはそういうものなのです。バガヴァット・ギーターが教えてくれている通り、人間の生きるべき指針というのは「与えられたものに感謝し、自分ができること(役割・シナリオ)をただ愛しながらやること」なのです。

      それと「なぜ創造主教を創らないのか?」はよくよく読んでいただきたいです。創造主というのは存在の全てなのです。あなた自身も、あなたが出会う人も、神仏も、森羅万象が創造主なのです。創造主が救いを発動する時には、神仏であれ人間であれ必ず何かの存在の形を取るのです。それが物語を生み、それぞれの存在に存在意義を生んでいるのです。

      「自分は創造主に直接救われ導かれているのだから」と、神仏を創造主の下位の存在であるかのように考え、神仏について学ぶ気が起きないというのなら、それは神話の舞台において役者が神仏を信じず劇作家を信じるようなもので、ナンセンスだと思います。

      自分が出会う全ての神仏・人間・物語にもっと興味を持ってみて下さいね。全ては諸法無我であり、関係性の中で存在しているのであって、自分に関わる全ての存在意義を知ることが、自分自身の存在意義を知ることになり、関係性を築いていくことが、自分の存在意義を創造していくことになるのです。その関係性の中・物語の中で「自分はどんな存在になりたいのか?」を実践から具現化していくのが人生だということです。自分で自分を愛せるような考え方・行動を積み重ねていくということです。

      人間には例外なく無明(愚かさ)が与えられています。「まだ自分が無明の霧の中にいるのだ」という自覚を持って「もっと学びたい・悟りたい」という思いを持たなければ、人間は成長しようがないのです。

      あなたは他人を目覚めさせようにも、まだ他人が惹きつけられるような世界観(価値観・人生観)を構築できていない過程にあると思います。神仏について学び、信じ、愛し、奉仕し、人生を通じて素敵な世界観(価値観・人生観)を魂レベルで手に入れて下さいね。

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