2025年4月10日木曜日

極度の人見知り(大麻・LSD)

【質問】20歳・男性 ダイビングインストラクター

初めまして!真也さんの質問箱を見て、あ、僕も完全に思考のループに入ってると思ったので是非真也さんのご意見を聞かせて頂きたいです🙇🏻

最初に基本情報をかかせて下さい🙇‍♀️
LSD使用:娯楽程度
大麻使用:ないと寝れないレベル

最初にループに入った経緯なのですが、18の時に初めて北海道という田舎から飛び立ち一人暮らしを始めました。北海道で元々ガンジャは友達といる時に吸うレベルでした。ですが、一人暮らしを初めてから中々大学に馴染めず「極度の人見知り」、その時大麻友達しか探してなかったため当然友達もできませんでした!

ですが、その退屈を紛らわすために1人で大麻やLSDを使用するようになったのがきっかけです!そこから自分の心の中に漠然と「なぜ自分は生きているのだろう」や「人生に意味はあるのか」などループから抜け出せず、気持ちを変えるために1回帰省しました。

その後、友達とLSDを食べた時に、今も続くことに関係する大BADに入りました。自分がLSDを食べた時に人との喋り方を忘れてしまいました。元々人に気使いすぎて気楽に人と話すのは中々時間がかかる人でした。

その時にその思考が加速したのか自分が発言する前に「今自分が喋ろうとしたこと」を言葉に出す前に「相手がどう思うかや、「どう伝えたらわかりやすいか」「相手の反応」「相手に嫌われたくないけどめんどくさいと思われたくない」などを考えてしまって言葉を出す事ができなくなりました。

簡単に言うと常に最善策を探してるのですが、脳内で最善策が見つからず言葉がでてこない感じです。それからLSDはほぼ使ってないのですが、そのループが抜け出せません。

以前は人や友達と普通に話せてたのですがそれからというもの友人、家族、職場の人間すべての関わる人に対して距離を置いてしまい中々前のように話すことができないのです。普通に話せるようになりたいです。

真也さんの質問箱を読んで思ったのですが、この感覚をここまで言語化できる人に出会ったことがありません。

ここまで長文失礼しました。まだまだ描きたいことはあるのですが、それすらも思考に入ってる感覚に陥ってるので、一旦ここまでにしときます(笑)ぜひ真也さんのご意見を聞かせて頂けたら幸いです🙇🏻

【回答】
ご質問ありがとうございます。お気持ち心より同情申し上げます。

アヤワスカとLSDの違い」「LSDの後遺症についての両記事を読んでいただいた上でのご質問ということで話を進めさせていただきます。

僕も大学に入ってしばらくは馴染めず鬱状態でした。当時の僕は世の中で「麻薬」と言われているものに対する抵抗感が強く、まだネットも普及してなくて、誘惑されたり手に入れたりする伝手がなかったので手を出すことはありませんでしたが、もし今の時代に大学生だったらあなたと同じようになっていたかも知れません。辛い時にそれをごまかせる手段が身近にあれば、それに依存してしまうようになるのは無理もないことだと思います。実際多くの人が麻薬ではなくとも酒や精神薬に依存しています(精神薬も麻薬の一種です)。

だから決してあなたを責めるつもりはありません。僕は魂の兄弟であるあなたを自分自身のように考え、心から同情し、ただただ幸せに導きたいだけで、決してあなたを偉そうに責めて説教して傷つけたいのではないということをどうか最初にわかって下さいね。ただ課題を正しく認識していただかなければ、課題を乗り越えられるように導くことはできないので、冷静に読んでいただけるようお願いします。

それで、人間関係から逃げたくなるあなたの気持ちはよくわかるのですが、それでも逃避手段として薬(大麻や幻覚剤、酒や精神薬も含めて)を使用することは、とてもとてもリスクが高く、人生を破滅させる恐れがあるのです。

恐らく大麻は急には止められないのでしょうけども、止める方向性で考えてみて下さいね。そしてLSDには絶対に手を出さないで下さい。それだけバッドに入ったのならそうそうやらないでしょうけども。

人生は愛と勇気を試して成長を促すためのRPGであり、もし逃げることで幸せになれるように創られていたら、それは成立しないのです。だから当然逃げ道というのは一見安全でラクそうに見えて全てトラップなのです。そちらを選択するとかえって難易度が上がり、その先は必ず行き止まり(バッドエンド)に創られているということです。実際、違法薬物がなければ眠れない・人と話せないというのでは働けず、まともな社会生活を送れませんし、いつか逮捕されてもしまうでしょう。行き詰まって孤独に心を病んでどうしようもなくなる未来が目に見えているでしょう。「逃避」を選択することは、バッドエンドを選択をすることなのです。

人生は成長のためにあるのですから、死ぬまで成長課題を乗り越える苦労が続くのが定めであり、幸せはその中にあるのです。それなのに逃げ道があると思うから恐ろしくなって逃げたくなるのであって、逃げ道なんて最初からないのだと腹を決めれば腹が据わります。この点についてはカルマの良化法をぜひ読んでみて下さいね。

>一人暮らしを初めてから中々大学に馴染めず「極度の人見知り」

僕も元々は人見知りでした。あなたはきっと自分を誰か(世間一般のイメージ)と比べて自分が「極度の人見知りである」というのを「生まれつきの変えられない性質」だと思い込み、「乗り越えられない・ごまかして逃げるしかない」と思い込んでいるのだと思いますが、決してそうではないのです。

人生というのは魂成長のために与えられている機会なのであり、「人見知り」というのはあなた個人に与えられている課題であって、それはあなたが乗り越えていかなければならないシナリオ・伏線なのです。最初から「人見知り」というのを盾(言い訳)にして逃げ腰になっていたら、人付き合いをしても上手くいくわけがないのです。ちょっとでも嫌なことがあればすぐ逃げ出すようになるのが必然ですからね。

自分の課題はどれだけ逃げてごまかしても、いつかは乗り越えなければ結局はどんどん辛くなるだけです。逆に乗り越えれば楽しくなるのですから、乗り越える以外にないんです。あなたはただそれが辛く恐ろしく絶対に乗り越えられないものだという世界観で生きているからその通りになっているだけで。

コミュニケーションというのは、小学校の鼓笛隊みたいなもので、みんなと一緒に毎日練習していれば、どれだけ才能がなかろうと誰でも否応なく上手になるのです。そして自分が全体のハーモニー(調和)の一部となって、みんなと楽しくやれるのです。それなのに「自分は生まれつき才能がないのでできません」と練習を拒否して逃避してしまっていては、いつまでたっても上達するわけがなく、楽しくなれるわけもないのです。

>その時にその思考が加速したのか自分が発言する前に「今自分が喋ろうとしたこと」を言葉に出す前に「相手がどう思うかや、「どう伝えたらわかりやすいか」「相手の反応」「相手に嫌われたくないけどめんどくさいと思われたくない」などを考えてしまって言葉を出す事ができなくなりました。

それはコミュニケーションのイップスみたいなものですね。薬物によってそれがブーストされてしまったのでしょう。そうなると当たり前にできていたはずのコミュニケーションが、とても難しく感じられてしまうのですね。楽器の演奏でも「自分は音痴だ」とコンプレックスを持って、ミスしないよう一音一音考えながら演奏するようになったら、まともに演奏できなくなってしまうでしょう。その状態の時に普通にできている(ように見える)みんなと舞台に上がるのは恐怖でしかなく、過度に緊張して実力が発揮できず、逃げたくなるのは当然ですよね。それと同じことです。

楽器と同じで続けてさえいれば自然と身に付いたものが発揮されるのに、一つ一つ頭で考えようとすると頭の処理が追い付かなくなってしまいます。プロのミュージシャンが一音一音考えながら演奏していると思いますか?コミュニケーションも同じで、一つ一つ考え過ぎたらうまく行かなくなるのは当然なのです。理屈ではなく感覚(流れ・調和)でやるものなのですから。

もし心が愛(善意・思いやり)に満ちていれば、考えなくてもそういう言動・行動になるわけで、いちいち考えなければならないのは、心がエゴに満ちていてそれをいちいちごまかさなければうまくやれないからなのです。だから本質的な対策は己の心の愛を実践から育てていくことなのです。

ただそのあなたの今の考え過ぎ(&エゴへの埋没)というのは典型的なLSDの後遺症であって、あなたの本来(主人格)の性質ではないのです。あなたは元々普通に友人とコミュニケーションが取れていて、特別いじめられたり仲間外れにされたりはしていなかったのでしょう?誰でも奥底には内向的な人格を持っていますし、エゴのない人というのもいません。従って元々の人格のせいとは言えません。しかしLSDは精神を分裂させて、主人格を差し置いて隠れた人格の方を自我のメインにしてしまうのです。あなたは自分が小中学校の頃、どうやって友人とコミュニケーションをとっていたか、どのぐらい人に思いやりがあったか、今はよく思い出せないのでしょう?あなたは夢の中にいるのと同じで、普段の自分がどのようだったか思い出せなくなっていて、今の病んでいる自分を本当の自分だと思い、今認識している世界を本当の現実だと思い込んでいるのでしょう。

コミュニケーション・イップスというのは、他人を鏡にした思考のハウリング(無限反射増幅)現象なのです。他者に対してすぐに「嫌だ・つまらない・面倒臭い・許せない」などというネガティブなレッテル貼りをして傷つかないよう自己防衛で身構えるために、相手からも警戒されて身構えられ、お互いに同じように思われるのを恐れて嫌い合うというループ(思考の無限増幅)が起きてしまうのですね。

誰でも自信満々になれる方法をぜひ読んでみて下さい。どれだけ嫌われようとあくまでも自分を愛し抜こうとする人を嫌い抜ける人などいないのです。つまり出会った人を愛し抜く覚悟さえ自分が持てば、人から嫌われることを恐れる必要などないのです。人を恐れるのは鏡に映る自分を恐れるが如くです。

>そこから自分の心の中に漠然と「なぜ自分は生きているのだろう」や「人生に意味はあるのか」などループから抜け出せず、気持ちを変えるために1回帰省しました。

実を言うと「存在意義」を求めるというのは「全存在(=創造主)」の本質なのです。「存在意義」を求めるという原理によって全ての創造は成されているのであり、本当は全ての存在が存在意義を求めるのがデフォルトなのです。人生は存在意義を生むための(愛と成長の)物語だとも言えます。僕らは人生という物語の中で、自分という主人公の経験の中から「存在意義」の答えを自分で創造させて貰えているのです。そこで自分に与えられている課題を拒否していたら物語が前に進みませんし、物語が進んでないまま自分の存在意義を突き詰めて考えたところで答えなど出るわけがありません。ただただ堂々巡りを繰り返すだけになるのは必然です。

そのように人生という物語がまだ途中なのに自分の存在意義を厳しく突き詰めて考えると、ただただ苦しくなって物語が前に進みませんから、人には心を保護するためのプロテクトがかかっていて、あまり存在意義を厳しく突き詰めて考えないようにされているのです。そのお陰で人は存在意義がわからないままでも精神が安定し、人生という物語を経験する中でその答えを見つけさせて貰えているのです。しかしLSDを使用すればそのプロテクトが外れることになり、人生という物語がまだ途中で存在意義の答えが自分で出せていないうちに、己に存在意義を厳しく問い詰めてしまう思考ループにハマってしまうのです。

世の中というのは全て関係性の中で存在しているのであり(諸法無我)、もちろんあなた自身も関係性の中で存在しているのです。だからこそあなたの存在意義はその関係性の中にある(与えられている)のです。一人ぼっちで「存在意義」をグルグル考えていても決して「存在意義」などわかるわけがありません。あなたは関係性の中で存在しているのですから、関係性を知る(築く)ことが己の存在意義を知ることなのです。他者を理解することによって自分を(存在意義・存在価値を)理解できるようになるのです。そして自分を成立させている全ての存在に心から感謝し、愛を発揮することが大事なのです。「人見知り」を言い訳にその貴重な経験機会を拒否し、そのペナルティーである孤独や退屈をごまかすために薬に依存すれば、更にペナルティーを重ねることになるのは当たり前です。

しかしそれはこの宇宙が因果応報という大原則によって創られているからであり、決して意地悪で与えられている罰ではないのです。創造主の本心はあなたに己の過ちから自発的に真理に気づいて学んで成長して感謝して欲しいのです。それを創造主が直接的に教えてしまっては自由意志を与えた意味がなくなり、人生経験に意味がなくなってしまうのです。このあたりの話は自由意志の仕組みと存在意義をご参照下さい。

<LSD後遺症の本質>
なぜ多くの人はLSDによってコミュニケーション・イップスと「存在意義」思考ループの状態になってしまうのでしょうか?それは自他が存在するということ(創造主の創造)に対して、そして人生という経験機会が(自らが強く望んだが故に)与えられているということに対して、その価値がわからず、心から感謝していないからなんですね。そして心が不平不満と被害者意識に満ちていて、現実逃避のためにLSDを使用しているからなのです。冒頭に書いた通り「逃避」を目的に幻覚剤を使用する事はとてもとてもリスクが高いのです。逃避は成長プログラムである人生における成長拒否なのですから、そこにペナルティーがないのならそれは成立しないのです。

いつも言っていることですが、与えられたものの価値がわからず感謝しない人にもっと与えたいと思う人はいないでしょう。そこは創造主も同じであり、世界はそのような原理で創られているのです。だから与えられたものの価値がわからず感謝しない人は、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値を思い知らされるような悲しい人生になってしまうのが必然なのです。あなたは他人とお互いを理解し合い、許し合い、問題を乗り越え、愛し合うためのコミュニケーション能力を「そんなに要らないのなら」と剥ぎ取られかけているということに気づいて下さい。

そして全ての全てを創りし創造主の存在意義というのは、自由意志を与えられた僕らが人生の中で存在意義(存在価値)を感じられるかどうかに依存していると知って下さい。僕らは偉大な創造主に存在意義を与えられる偉大な存在なのです。

本当は僕らこそが全てを創った創造主自身なのであり、その(仮想的な)分離なのです。本当は唯一の存在であり究極に孤独な存在なのに(あなたはLSDでそれを経験したはずです)人間として自分と同等の他者がたくさんいて愛し合えるという夢のように素晴らしい仮想現実を経験させて貰えているのです。「自分が存在し、他者が存在し、人生経験の中でその価値を創造し実感できる」という機会を与えられていることを決して当たり前だと思わないで下さいね。

他者というのは、合わせ鏡に写った無数の自分のようなものであり、創造主がその無数の自分に個性・分離意識・自由意志を与えて、自分と同等でありながら別な存在だと思わせて、それによって人生という物語を成立させてくれているのです。人間は自分自身が見えないようになっていて、他人を理解し愛することで、自分自身を理解し愛することができ、他人からも理解され愛さされるようになる仕組みになっているのです。そうでなければ人生に存在意義はありません。

世界は創造主によって、自分の解釈次第に創られているのです。ですから意地悪で与えられている罰ゲーム(クソゲー)のように解釈すれば、本当にそうなってしまいます。クソゲーにしているのは自分自身なのだと気づいて下さい。それで人生に不平不満を持って被害者意識に陥るのはお角違いなのです。

自分の解釈(世界観)次第のこの世界で、自ら心を閉ざして逃避することで孤独で不幸になるのは、閉じたままの電動チューリップにパチンコの球が入らないのと同じぐらい当たり前のことなのです。

今のあなたは、鏡の存在である他者を「自分の自尊心を下げて傷つける恐怖の存在」と認識してしまっていて、その世界観通りに自分の認識世界が創られているのでしょう。

自分が心を閉ざせば世界が自分に対して閉じられ、自分が心を開けば全ての扉が自分に対して開かれます。これを僕は経験から実感しています。あなたにもそれを経験から実感して欲しいのです。これを経験なく頭で理解しようと思っても無理です。

己のエゴの殻に閉じこもって自分のことばかり考えている段階にある人が、いきなり自分自身も他人も世界も人生も愛せるようにはなりません。日々己の愛を実践から育てていくことで、段々と全てを愛せるようになり、感謝できるようになっていくのです。それが「存在意義」を経験から理解するということです。

あなたが出会う人はみんなあなたの魂の兄弟であり、孤独を救ってくれるありがたい存在なのです。その存在に心から感謝の気持ちがあれば、「創造主はなぜこの人と出会わせてくれたのだろうか?」と興味(関心)が湧くはずです。興味(関心)は愛の入り口であり、興味がないのに愛しているということはありえません。自分がどう思われるかばかりを気にするのは、関心が自分にしか向かわなくなっているからです。

かといっていきなり世界中の人に興味(関心)を持つのは無理です。あくまで実際に出会った人に例外なく興味(関心)を持ち、無条件で許し愛せるように努力すれば良いのです。出会いさえすれば愛せるようになれたら、それは世界中の人を愛していることに等しいのです。

もし話すのが難しくなっているのなら、今はとにかく相手に興味を持って聞きに徹して相手を理解することに努めて下さいね。

嫌だと思う人でも、人生には悪役も必要なのですから、自分の人生という物語で悪役をやらされているだけで本当は良い人なのだと信じて目覚めさせてあげて下さい。嫌なことを言われても、創造主が自分に何を気づかせたくてその言葉その出来事に出会わせたのか、愛で解釈してみて下さい。それができるようになることが魂の成長なのです。

LSDは決して娯楽で手を出して良いようなものではありません。それは魂成長の努力なくして神に近づくチート行為であり、RPGのプレイヤーでありながら制作側の意識にアクセスするチート行為なのです。その代償こそがあなたが陥っているコミュニケーション・イップスであり、「存在意義」の思考ループなのです。

LSDによる現実逃避は、ドラクエで目の前のスライムを攻略できないのにボスのダンジョンに逃げ込もうとするようなもので、そんなことをすれば全く前に進めず、わけがわからない(因果・シナリオがわからない)まま、再起不能なほどボコボコにされるのが当前です。決してあなたを責めているわけではなく、いかに愚かなこと(逃避)をしたのかに気づいて欲しいのです。そして心から自分自身(人生)の存在と他者の存在に感謝し、興味を持ち、理解し、他者と物語を紡いで欲しいのです。

そして何よりも信心を持って下さい。何の神仏でも構いません。それは創造主の分離であり、創造主は神仏を通じてあなたを救い、それによってあなたにも神仏にも存在意義を与えているのです。信者にならなくてもいいので、できれば一度世界救世教か真光あたりで浄霊(お清め)を受けてみて下さいね。今の状況を神仏の助けなく一人で解決できると思わないで下さい。そもそも今まで神仏の加護なく自分の力で生きて来れたと考えるのは驕りでしかなく、それは愛(信心・感謝・信頼・尊敬)の欠如なのです。創造主は常に我々を信心・真理へと導いてくれているのであり、あなたの辛い経験も信心・真理への導きなのだと知って下さい。

<最後に>
法(真理)というのは、みんなを幸せにするものです。しかし因果応報の大原則は、知っているか知っていないかに関わらず存在して例外なく適用されるものであり、「知らなかったから」という言い訳によって適用されずに済むものではなく、そういう意味ではとても厳しいものなのです。ストーブが熱いと知っていて触る子供より、知らないで触る子供の方がより大きな火傷を負ってしまいます。法(真理)に対する無知(無明)は人間に与えられた罪(原罪)なのであり、人生の中で法(真理)を悟ってその無明の闇を払うことが宿命なのです。そしてそこにこそ幸せがあるのです。

ただその法(真理)を知らないことによる苦しみの経験も人生には必要だから与えられているのであり、20歳の時の僕が今の僕からこういうことを言われて理解できるとは到底思えないのですが(経験してみてわかることです)、いつかは伝わることを願って止みません。

関連質問:「コミュ障を克服したい

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