【質問】50代・女性 ペンネーム:aisha.ykato
はじめまして、noteの記事を大変興味深く読ませていただきました。
数年前にネットで確かスピリチュアル系の検索をしていたときに、こちらにたどり着いたのですが、そのときは難し過ぎて正直なところ読む気が起きず、ただなぜかページを保存だけしていました。それがつい先月に再度気になって読んだところ、まさに自分が必要としていた内容ばかりでした。本当に不思議です。今まで読んだどの本よりも気づきと共感と感銘を覚えました。そして質問や相談を無料で受け付けられていることもお金のない社会を実践されていることを尊敬します。(バシャールなど今まで色々な方々の考え方にも深く共感しましたが、結局はあまりの高額な料金に、やっぱりお金なんだ…と違和感を感じてしまいます)
貴重な智慧を共有してくださり、本当にありがとうございます。お蔭で人生観が変わりました。(インスタのフォローバックもありがとうございます!)
宇宙の仕組み(仮想現実と創造主)をはじめとし、全ての記事を読ませていただきました。まだ私には理解に難しい部分があり、何度も読み返しているところです。近い将来出版されることを心から願っています。
私も縁あって出会った全ての人を例外なく愛し大切にし、損得 (give and take)ではなく、見返りを求めず奉仕する人でありたいです。そして、周りの苦しんでいる人たちをポジティブな方向へサポートできるよう、真理を学び続けたいです。
さて、いくつか質問させていただきたいことがあります。
もしお返事いただけますと大変ありがたいです。
1. 霊障と許しについて
-人は複数の霊の集合体で、ネガティブな霊に支配されないよう、愛と勇気を持って突き進む(感謝し成長する)ことが大切だと理解しましたが、主人格の霊=自己意識とそれ以外の複数の霊たちとの違いとは何なのでしょうか?自分の意識=主人格は一つでたとえ死を迎えて肉体を持たなくても、自分の意識は消えることなく永遠に存在し続けると思っていましたが、複数の霊から成り立っているとなると、どれが自分の本当の意識なのでしょうか?(私は肉体は主人格の霊のみで成り立っており、あくまで外部の霊によってネガティブ/ポジティブな影響を受けているのかと思っていました)
-霊障によってネガティブな行いをしてしまったのかもしれませんが、自分の過ちを許すことは、責任転嫁や自分を甘やかすことのように感じて逆に罪悪感が増しますし、きっと相手からもさらに恨まれてしまうと思います。相手への誠意も持ちながら(怒らせずに)自分を許すことはできるのでしょうか。
離婚相手に対し、ずっと被害者意識と怒りを持っていましたが、なぜか少し前から、あの死にそうにつらいことがあったお蔭で、自分が成長して逞しくなって、周囲にも優しくなり、子どもたちとも一緒にいられることも当たり前ではなく、有難い気持ちで心から喜びを感じられたり、女性一人で子ども二人連れて中東に行き、切磋琢磨して何とかやっていける逞しい自分になれたことを、逆に感謝しないといけないと思えるようになったのです。
それに輪をかけて、Shinyaさんの記事を読んで、私が主人公のRPGで私を成長させてくれるために、自ら悪役を買って出てくれたことに、本当にありがとうと思えるようになりました。(思えなくなるときもまだありますが…)一方で、どんな理由があるにしても、結果的に私が子ども二人を連れて彼の元を去ってしまったことで、今もつらい思いをさせていることへの申し訳ない気持ちと罪悪感は変わらないのですが…
2. 捨てることについて
ブッダの教えで、覚るには、とにかく捨てることが大切だと知りました。最後は自分の存在の実感すらも。自分という気持ちも。モノに価値はなく捨てるに値すると頭では理解していますが、どうしてもまだ好きな洋服を買ったりと、物欲が強く、自分を飾ったりすることがやめられません。常に何かを得ようとしてしまいます。また、仕事でも、もっと自分が向上したい、貢献したいという気持ちが強く、これらも捨てるべきなのでしょうか。
リクエストしたい記事
-執着の手放しかた
お金や地位、物への執着が、心の平穏を失い、しあわせから遠ざかることだと頭では理解していますが、それらを欲する気持ちをどのようにコントロールし手放すか具体的な方法があれば教えていただきたいです。
-夢について
なぜ人は眠っている間に夢を見るのでしょうか?その真意は何なのでしょうか?
また、夢が自分の意識が作り出す連続性のあるもう一つの世界に感じて仕方がありません。見える景色、場所、状況や感触があまりにリアルで、ただの自分の作り話とは思えないからです。夢から気付きをもらうこともあります、夢の意味についてもっと知りたいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。最初からこのような長文でご質問やリクエストをさせていただき恐縮ですが、可能な範囲でお答えいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
【回答】
ご質問ありがとうございます。noteを読んでいただいてとても嬉しいです。僕も文章が長い方ですし、質問文も長い方が事情が良くわかって助かります。
>バシャールなど今まで色々な方々の考え方にも深く共感しましたが、結局はあまりの高額な料金に、やっぱりお金なんだ…と違和感を感じてしまいます。
ホントですね。もちろん金を欲しがっているのはバシャール自身ではなく、それを自己利益のために利用しようとしている人たちなのでしょうけども。その点については他の宗教・スピに関しても同じですね。我々と別次元にいる神仏がこの次元のお金を欲しがるわけがありません。例えどんなに良い事を言っていたとしても、大金を要求したり何かを強要してくるような人には近づかないことです。
>全ての記事を読ませていただきました。まだ私には理解に難しい部分があり、何度も読み返しているところです。
何度も読んでいただけているとのことで、大変光栄です。
僕の書いていることの多くは、理解が難しいというよりも、受け入れるのが難しいんだと思います。人間に初期設定されている常識(思い込み)に反する内容ですから。人はそれぞれ「自分の考えは正しい」と思って生きていて、それに反する内容を受け入れようとするとプライドが傷ついてしまうので、心が拒否してしまうのは自然なことなのです。ましてあなたには50年以上にも渡って強固に築き上げてきたあなたの常識(思い込み)があるわけですから、難しいのは当然です。
みんな人生というRPGのプレイヤーですから、他人から答えを教えられると、心が反発するように人間は創られているのです。みんな自分なりに失敗と試行錯誤を繰り返して自分なりに納得しながら前に進まないと、人生を生きる意味がないのです。
>周りの苦しんでいる人たちをポジティブな方向へサポートできるよう、真理を学び続けたいです。
その思いこそが菩提心なのであり、それはとても尊いもので、心からそう思うきっかけに僕がなれたとしたらとても嬉しいです。ただ僕らは経験して理解するために生まれてきていて、真理というのは経験を通じないと深くは理解できないものなのです。もし真理が経験もなく文章を読むだけで理解できるものであったら、人生に意味はなくなります。
だから僕が伝えようとしている真理も、現段階でまだよく理解できていなくても、あなたなりに実践し経験を積む中で腑に落ちて理解して幸せになって欲しいのです。僕の記事の内容を信じて実践したからといって、僕からお金を請求されたりどこかの団体に勧誘されたりするわけじゃありませんし、得るものはあっても失うものは何もありませんから、まだ半信半疑であっても実践していただけると幸いです。きっと真理を覚って幸せな人生に導かれると思います。
「信じる信じないの基準」に書いた通り、真理というのは「それによって自分もみんなも幸せになるかどうか」でわかります。しかしそれは実践してみなければわからないものなのです。僕の記事の内容を「書いてあることは素晴らしいけど、自分にはまだ難しくてできない」と考えて実践しないのでは何にもなりませんし、それではいつまでも本当の意味で理解できるようにはならないのです。僕は記事の内容を読者から褒められたいのではなく、読者に内容を実践して幸せになって欲しいのです。
真理は実践しなければ本当の意味では理解できないものであり、またそれは100%完璧にできるものではないからこそ、我々は実践することで成長し続けることができるのです。もちろん僕自身も成長を目指している過程であって、他人様に言うだけのことはやってますが、完璧にできているわけでは全然ありません。あくまでベクトルを真理の方向に向けながら実践し成長し続けることが大事なのです。
>主人格の霊=自己意識とそれ以外の複数の霊たちとの違いとは何なのでしょうか?自分の意識=主人格は一つでたとえ死を迎えて肉体を持たなくても、自分の意識は消えることなく永遠に存在し続けると思っていましたが、複数の霊から成り立っているとなると、どれが自分の本当の意識なのでしょうか?(私は肉体は主人格の霊のみで成り立っており、あくまで外部の霊によってネガティブ/ポジティブな影響を受けているのかと思っていました)
いきなり高度な話をすると面食らうかと思いますが、本来的に世界はワンネスなのであり、本当は「自分」と「他者(外)」という境界線は存在しないのです。我々は初期設定で与えられている「分離意識」によって「自分」と「他者(外)」が別なものだと思わされているだけで、本来的には全てが一つなのです。
あなたが認識できるすべての存在があなた自身の反映なのであり、本当のあなた(統合意識・創造主意識)の内側のものだということです。だから霊障というのも人間からすれば「外」から貰ってくるように思えても、単にそれは創造主が物語上そう見せているだけで、本当はそうではないということです。人生という「自分をプレイヤー(主人公)とするRPG」は、ゲーム全体が自分自身なのであり、そのゲームの外側から貰って来る存在など有り得ません。ゲームの中の全ての存在・事象にはきちんとシナリオ上の意味があって、それはクリエイターからの愛によって自分に与えられているのです。
「一霊四魂」という言葉があるように、主人格(直霊なおひ)と他の人格(四魂・それぞれに役割がある)は不即不離であり、いわば同一のものなのです。
そして低我(エゴ)・霊障による邪念の揺さぶりに負けないように、自分の愛を実践し哲学を積み上げていくことが魂の成長なのです。人生が与えられているということは、そのようにして「自分はどういう存在か?」というのを更新(成長)できる機会を与えられているということなのです。
本来我々(本当の自分)は光(智慧)そのもののような存在であり、思念・概念的な存在なのです。ただそのままでは何も経験できず、成長もできず、「自分とはどういう存在か?」を更新できません。それが肉体と共に無明の闇(愚かさ、霊的・魂的穢れ)を与えられることで経験・成長機会が与えられ、自分という存在を更新する機会を与えられているのです。
それ自体がとてもありがたいことなのであり、我々はそれを心から願って生まれて来たのですけども、それも無明の闇に隠されているがゆえに思い出すのは困難なのです。そうして人は往々にして他人と比べて自分に与えられていないものを嘆き、人生が自分次第に創られていることにも気づかず、容易に被害者意識に飲み込まれて魂の成長を怠り、霊障を成仏させることができずに振り回され、不幸に導かれてしまうのです(だから難易度が高いのです)。
我々に与えられた無明(愚かさ・成長課題・カルマ)の最たるものが霊障であり、それが我々に愚かさ、霊的・魂的穢れとしてネガティブな方向に導く役割があって、それを乗り越えていくところに魂の成長があるということです。そしてそれが人生というRPGの設定の核なのです。このあたりの話は概ね「憑依現象(霊障)について」「浄霊の効果の高めるには?」などでご説明させていただいています。
霊障(霊的・魂的穢れ)は人生におけるカルマ(課題・シナリオ)を構成しているものであり、いわば映画フィルムのカラーのようなもので'す。そして魂というのは映写機の光のようなものであり、映すフィルムにカラー(カルマ)がなければ人生という物語は成立しないのです。しかしもし霊障をただ放ったらかしにしてカルマに振り回されてばかりいたら、人生は無明の闇に飲み込まれ、魂が成長せず、物語が悲劇にしかなりません。我々は魂を磨き続ける(無明・霊障を浄化し続ける・カルマを乗り越え続ける・愛に生きる)ことで、人生という「自分が主人公の映画」を色鮮やかで素敵な物語にしていくことができるのです。
霊的な穢れというのはあなた自身のシャドウであり、それはがん細胞のようなもので、外からやって来た異物ではなく、自分自身の一部なのです。霊障の因が自分自身にあると認めて許さず・愛さず・自己成長しようとせず、「これは外からもらったものであって自分ではない」と否定し、無理やり排除しようとすることで霊障は人格化し、「否定されたくない」と余計に猛威を奮うのです。このあたりの話は「同じ過ちを繰り返してしまう」をご参照下さい。
悪いことの因が自分自身にあると認めるということは、自分を責めるということではありません。それは成長課題なのであり、ネガティブな霊障がさせたことも自分の一部であると認め・許し・愛し、一緒に成仏することが大事なのです。
>霊障によってネガティブな行いをしてしまったのかもしれませんが、自分の過ちを許すことは、責任転嫁や自分を甘やかすことのように感じて逆に罪悪感が増しますし、きっと相手からもさらに恨まれてしまうと思います。
分離意識によって、他人に責任を転嫁して自分だけが許されよう・罪悪感から逃れよう・救われようとすれば、当然うまくいきません。それは「蜘蛛の糸」のカンダタそのものです。世界の本質はワンネスなのであり、自分と他人は同時に許さなければ許せないものなのです。答えはいつでも「誰も何も悪くないけど、自分が何とか(成長)しなければどうにもならない」です。
どうか罪悪感によって自分自身を嫌悪しながら罰して不幸になることで相手の懲罰感情を満たそうなどと考えないで下さい。自他を許し・愛し・幸せにできる人間に成長していくことで贖罪をして下さい。
「反省してはいけない」は読者からかなりの割合で誤読されているのですが、罪悪感を感じる相手には創造主の代理として誠心誠意謝って下さい。人は自分を責める気持ちが強いからこそ、責められたくなくて素直に謝れないものなのです。そしてただ単に自己正当化するばかりで、誰かに責任転嫁するような考え方が前面に出ていれば、相手の心も自分の心も反発するのは当然です。エゴ同士というのは反発するのが必然なのですからね。例え相手に許されなかったとしても、罪悪感・贖罪意識があることを相手に伝えられれば、何の謝罪もしないよりはずっと良いのです。こちらが謝罪・贖罪した上で相手がこちらを許せるかどうかは相手側の課題ですしね。そして「罪と恥の存在意義」に書いたように、どうか自分が背負った罪悪感の分だけ心から人を許し愛せるようになって下さいね。
そのように自分も罪を抱えているのにも関わらず、自分を害した相手に対して自分を「無辜の被害者」のような立場に置き、上から目線で相手を「しょうがないから許してやろう」などと考えても、それは本当の意味での「許し」にはならず、心の中では自分の罪の相対化のために相手を責め、それをただ表面上我慢しているだけなので、その我慢はマグマのように蓄積していつか爆発するのが自明なのです。
我々の魂は同源・同一のもの(ワンネス)であり、相手と全く同じ条件で生まれていたら相手と完全に同じ人間になっているのです。だから本当の意味で「許す」というのは、相手を自分自身(の過去世・未来世)のように考え、目線を完全に同じにし、「相手も自分と同じように止むに止まれぬ事情があってこうなっているのだから仕方がない」と相手も自分自身も許して愛することが大事なのです。とても「忍耐」の要ることですが、それはただ「我慢」するということとは次元が違うのです。
相手の非に思えることも、あくまでクリエイターがあなたの魂の成長に必要だから、その相手との出会いを通じてもたらされているものであり、それは常に愛によって与えられているのですから、愛によって解釈し、感謝しながら成長につなげていくことが大事なのです。もちろんそれはとても高度なことであり、僕自身も実際の人間関係の中では容易に忘れてしまいます。それは死ぬまで続く戦いなのです。
>離婚相手に対し、ずっと被害者意識と怒りを持っていましたが、
あなたのご離婚については詳細が書かれていないので何があったのか知る由もありませんが、「離婚について」もご参照いただけると幸いです。相手のせいだと考えているうちは、許そうと思っても本当の許しにはなりませんし、自分の成長にはつながらないのです。
>モノに価値はなく捨てるに値すると頭では理解していますが、どうしてもまだ好きな洋服を買ったりと、物欲が強く、自分を飾ったりすることがやめられません。常に何かを得ようとしてしまいます。また、仕事でも、もっと自分が向上したい、貢献したいという気持ちが強く、これらも捨てるべきなのでしょうか。
「エゴ(欲)とは何か?」に書いた通り、悟りの道というのはエゴ(我欲)を無理に失くそうとすることではなく、エゴ(我欲)より愛(思いやり)を優先しようと常に努力し続けることなのです。
僕は「仕事での向上心や社会に貢献したいという気持ちを捨てるべき」なんてことは全然言ってませんし、そのように思われているのなら全くの誤解です。問題はあなた自身がそれを「捨てなければ」と思ってしまうほどに、己のエゴ(競争心・他者評価依存・執着)によって心が「苦しい」と感じていることです。
あなたの質問文全体を通じて感じられることは、まだ分離意識がとても強固なことです(人間の基本設定ですから当たり前ですが)。それによって競争心と他者評価依存が強いままで、とても勝ち気で負けず嫌いな感じがします。そして魂の成長というのは収入・社会的成功・他者評価とは無関係のものなのに、それさえも「誰か他人から評価されること」を価値としていて、すべてを見ている創造主ではなく他人からの評価を求めてアピールしている段階にあるような感じがします。だから苦しいのでしょう。
世の殆どの人にとっては分離意識を外して考えてみるということが全く思考の外にあって、この世界が仮想現実(魂成長のプログラム)だということも、自分自身が主人公なのだということも、まだ本当の意味では受け入れられないのでしょう。もちろん人間それが普通なんですけど、その普通(常識・思い込み・NPC意識)を乗り越えないと物語の主人公にはなれないのです。「別に主人公になどなれなくていい」と思うのかも知れませんが、そのようなNPC意識のままでは成長できず、悟り(本当の幸せ)には辿り着きようがないのです。
世間では多くの人が自分を他人と比べて「他人から評価されなければ価値はない」と深い部分で確信的に思い込んでいて、それが社会的に常識化し、それを外側から「異常である」と認識することさえできなくなっているのであり、それは社会病理なのです。そしてそれが「金・モノ・評価」への執着を生んで、愛よりエゴを優先するのが当たり前になっているのです。そして富や権力を他人にアピールして振りかざしたり、またそれができないからと卑屈になって「(誰かと比べて)自分は恵まれていない」と被害者意識を持ってしまうようになるのです。他者評価依存・被害者意識というのは人を不幸に導く(乗り越えるべき)人生のトラップなのであって、その意識を乗り越えて心から感謝できるようになっていかなければならないのです。感謝=幸せなのですから。
ほんの一部しか見ていない他人からの評価なんて本当にいい加減なものですし、人それぞれの考え方・性格や気分などによって左右される儚いものです。全ての面において他人より優れていて、他人から一生評価され続けるなんてことはありえませんし、そもそも世の中は自分を評価しない人・関心さえ持たない人・直接知り合うことさえない人がほとんどなのであり、外見や能力もいずれ衰え損なわれていくものですから、他者評価に依存する限り、人は絶対に幸せにはなりようがないのです。
分離意識・競争心・他者評価依存で生きると苦しいのは当たり前のことです。実に多くの人が自尊心を維持しようとするために能力や実績や主張の正しさによって自分がいかに周囲より優れているかを示そうとして周囲から嫌われ、孤独で幸せではないのに見栄のために幸せを装い、自分の間違いを自分で認めることを傷つくことだと捉えているがゆえに成長から遠ざかっているのです。そしてそれこそが不幸の原因(成長拒否)なのです。そもそも成長の目標というのを富と名声(他者評価)に置いていて、魂の成長には置いていないのでしょう。魂の成長プログラムである人生において、魂の成長と逆行する要素というのは不幸に導かれるのが必然なのです。
せっかくの仕事における向上心や貢献したいという気持ちも、動機にモノや実績や権力など何かを得ることによって自尊心を満たそうとするエゴが強くあると、そこに見栄・執着が生まれ、また過ちや欠点を自分で認められずに隠すようになって魂的な成長が難しくなりますし、結局手に入らないもの・失うものばかりで焦燥感が生まれて自尊心が下がり、心に愛を失って他人とうまくいかくなり、幸せから遠ざかってしまうものなのです。
世界の本質はワンネスですから、人間は損をしても得をしても脳がダメージを受け、自分を嫌いになって鬱になるように創られているのです(科学的に証明されています)。ですから損得勘定で生きること自体がもう既に不幸なことなのです。しかし同時に人は得をすると快楽物質が出るように創られているために無自覚なエゴジャンキーと化してエゴに埋没し、その損得勘定・エゴを基軸とした思考と行動が自分も周囲も傷つけていることに気づけないのです。
殆どの日本人は「他者評価依存」の傾向が強く、それが執着を生み、ほぼすべての行動の動機を愛ではなくエゴにしてしまい、それを当たり前だと思って意識さえせず、心の奥底では自分も他人も嫌いになって鬱状態に陥っているのです。そしてそれこそがNPC意識(不幸の元凶)なのです。
本来的には、本当に腑に落ちて魂レベルで考え方が変われば、その魂を主として行動が変わります。しかし人間にとって執着から離れる(エゴによる情動に振り回されなくなる)というのはとても難しいことなので、行動(実践経験)によって自分自身を魂レベルで変えていく(エゴによる情動を愛に変えていく)という荒治療(修行)が必要なのです。だからこそ仏陀は「六波羅蜜」の実践を重んじたのです。
「お金の時代の終わらせ方(新六波羅蜜)」は是非繰り返し読んで実践していただけると幸いです。僕は決して仕事や財産を全部放り出すべきだとか無茶を言っているわけでは全然ありませんので、誤解しないで下さいね。執着を手放すには、エゴより愛を優先することであり、僕に言わせればそれは「新六波羅蜜」を実践することなのです。あなたがまだ執着が強いのだとしたら、それはまだエゴより愛を優先することの実践が足りないからなのだと思います。きっと僕が実践して欲しいと言っていることも「執着が強い今の自分には無理だ」「(頭で)悟れてから実践しよう」などと考え、後回しにして(拒否して)いるのでしょう。
この世で何かを物理的・権利的に手に入れようとしてばかりいても、手に入らないもの・失うモノばかりで悲しく虚しくなり、愛を失って周囲とぶつかってばかりになり、どんどん心が貧しくなってしまいます。物質的・権利的なものはすべて幻であり、次の人生に持ち越せるものは魂だけなのです。その魂を豊かにするためには、お金やモノや権利や他者評価を得ることではなく、己の心を愛で満たし、全てをありのままに愛し、それを行動に表すことです。それができれば全てがあなたの魂(仏国土)と一体化し、それは全てがあなたのものになったようなものなのです。そしてその真理に実践経験から気づいて心から納得して幸せになっていただきたいのです。
それと女性がより美しくあろうと努力すること自体は素晴らしいことなのですが、美(外見)や恋愛的・性的なことを生きる活力みたいにすることには年齢的な限界があり、あまりそこに執着が強いと歳をとるのがよりいっそう苦しくなり、不自然に老化に逆らうようになって無理が生じてストレスになり、他人にもストレスを与えて避けられ、自分を虐めて卑屈で孤独になり、諸々諦めることで活力を失くし、心身共により早く老けることになってしまうと思います。それこそエゴ(魂の成長拒否)による自滅なのです。
執着を乗り越えるのに必要不可欠なものは「信心」だと僕は思います。あなたから信心について全く言及がないのは、恐らく多くの日本人が陥って常識化している「宗教嫌悪症」になっているからであり、宗教=怪しいもの・詐欺だと決めつけているからではないかと思います。そして信心を「どこかの宗教団体に所属すること=己の心の弱さから洗脳され、金を騙し取られること=負け」と勘違いしているのでしょう。そして創造主・神仏を心から信じていないからこそ、他者評価を価値として執着してしまっているのでしょう。
①偉くなろうとするな。(自他全ての存在が)尊いと知れ。
②特別になろうとするな。特別(主人公)であると知れ。
③日々愛を実践し、特別ではなくなること(差取り・ワンネス)を目指せ。
+幸せになろうとするな。幸せであると知れ(感謝報恩に生きよ)。
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