【質問】29歳・男性 ペンネーム:カリファ
「自由意志は存在するか?」の記事を読んで、同じ修行者として聞きたいことがあります。記事内では般若心経が出てきましたが、つまり空の事を説いてると思うのですが、空はつまり無我ですよね?真也さんのブログを深く読んでいないので誤解していたら申し訳ないのですが、「人を救う」とか「より多くに良い影響を与える」と言うフレーズを見る気がするのですが、それは自我ではないのですか?
私は寺で修行をしましたが、常々和尚達に言われました。「人を救いたいと言うのは自我である」と。「自我を捨てて無我になる、それが悟りである」と。確かに木の様になって人生何になる?と思っていたのですが、キリストなど「人を救う!」と言う自己犠牲は大変素晴らしいのですが、確かに自分が救われていませんよね?ならばダルマの様にDMTを放出した状態で壁に9年向かうのが正しいと言う事になりますが、慧可が腕を切り落としてまで世界にその極意を伝えたから禅が今も存在している。自分の中だけで完結しては世界は広がらない。仏教聖典を読んでも中道、中道と何回も出てきますが、私はこの自我と無我の中道が修行を終えた今でもあまり分からないのです。
兎に角、聞きたい事は「愛を与えようとするのも自我ではないか?」
その行為は尊いが、無我(悟り)とは違うのではないか?
それとも愛のあるままに存在するから他者に良い影響を与えようとしなくても良い影響が出て世界はゆっくりと変革していくと言う事ですか?やはり大木になれ、と。
ちなみにお寺は臨済宗と真言宗ですが、その言葉はどちらの和尚も言っていました。しかし駆け込み寺の様な物作って実際人助けをその人達はしていたので、それは違うのか?と問うた所、私は人を助けようとして助けているのではない、仏に導かれ、そういう場所を作っただけで、多くを救おうとか社会を変革してやるとか、そういう類の自我は一切ない、と。そこで人を救う願望がある者は、自分が救われたい場合が多いと言う事を説かれました。「まずは自分を助けてみなさい」という話で「利己的になれ」とか「資本主義的な金第一の思想になれ」とかそういう話ではなかったです。ですので聞いてみました。
般若心経に関しては禅宗に居るので、朝課で毎朝読経していましたし、勉強もしましたが解釈がまるで私とは違う様です。しかしあなたのブログは面白かったです。
【回答】
ご質問有難うございます。僕は真剣な質問・悩み相談に対しては常に100%の愛で答えていますが、質問を装った「質問風批判(皮肉・誹謗中傷)」に対してはかなり手厳しいので予めご容赦下さい。
質問箱の「自由意志は存在するか?」については、つい先日noteで「自由意志の仕組みと存在意義」で大幅に加筆修正して載せましたので、そちらをご覧下さい。あなたの先のご質問に対する答えという意味ではそちらで100%回答になっているかと思います。
>「人を救う」とか「より多くに良い影響を与える」と言うフレーズを見る気がするのですが、それは自我ではないのですか?
>人を救う願望がある者は、自分が救われたい場合が多いと言う事を説かれました。
>「愛を与えようとするのも自我ではないか?」その行為は尊いが、無我(悟り)とは違うのではないか?
だったらどうだと言うのでしょうか?人を救おうとしちゃいけませんか?あなたはもし釈迦に会ったら同じことを言うのでしょうか?いったい仏教の何を学んでいるのでしょう?
まず菩提心を持つことが悟りの本当のスタートなのであり、菩提心というのは「衆生を救う覚悟=菩薩・メシアを目指す覚悟」で、僕に言わせればそれは「人生という世界を救うRPGの主人公を張る覚悟」なのです。そしてそれは「悟りを求め続ける(魂を成長させ続ける)不退転の覚悟」なのです。般若心経はその覚悟に目覚めさせるための尊い祈りなのであり、そこに目覚める気が全くないのなら何百万回唱えようと無意味です。
もし僕が人を(積極的に)救おうとするのをあなたが「それはエゴであり、悟りとは逆行している」とか「傲慢だから止めとけ」「偉そうにするな」とか言いたいのなら、それは「大きなお世話」であり、まさに「仏(ほっとけ)」って感じです。
僕は人を救う手段として「悟り」を求めているのであり、自分が悟りの境地に至ることが主目的ではありません。そして僕の活動は無料でやってますし、あなたにも誰にも迷惑はかけていませんので、あなたからそのように諫められる筋合いはありません。「謙虚さ」というものは自ら嗜むべきもので、他人に押し付けたらそれは「傲慢」であり、エゴそのものなのです。
あなたは人(自分自身も含め)を救えていますか?僕は日々「あなたに救われました」という嬉しいメッセージをいただいていますが、もしあなたがいくら修行しても人(自分自身も含め)を救えていないのに、僕に対して「人を救おうとするのはエゴ・傲慢では?」「自分も救えていないからでは?」と言わずにいられないのであれば、それは自分自身も誰も救えてないあなたの自己正当化であり、嫉妬ではないでしょうか?
僕は自分が救われたいから人を救おうとしているのではなく、既に創造主によって救われたので、その感謝報恩のために、僕を救ってくれたその愛と智慧でもって、かつての自分と同じように苦しんでいる人を救いたいと考えているだけです。そうしたら創造主からどんどん愛と智慧を与えられ、それを伝えることを使命として自覚し、それが連鎖的に遍く伝われば結果的に世界が救われるシナリオになっていると覚らされているだけです。
僕の持論は「変わるならまず自分から」であり、「自分が日々愛(悟り)を実践してその連鎖反応の起点となること」であり、「社会システムを力によって変えようとしても逆効果にしかならず、逆に自分から価値観を変えていけば社会システムは自動的に変わる」ということです。社会変革自体が僕の目的ではなく、それは副次的なもので「必然的にそうなるであろう」ということです。目的はあくまで人の魂の救済であり、悟りはその手段なのです。人も救えない悟りに何の価値があるのかわからないので全く興味がありませんし、人を救おうとするのを動機から否定しようとして来られる方が語る悟りとかホント意味不明で、全く求めていません。
一時期、浄土真宗の方々もあなたと同じように「人を救おうなんて偉そうだ」という論調でよく僕を批判してきました。やはりあなたと同様にこちらが説明してもハナから話を聞く気がないのでブロックする以外にありませんでしたが。彼らは親鸞や法然などが誤解していた通りに誤解しているのです。阿弥陀仏(法蔵菩薩)は衆生みんなが救われるまで成仏しないと誓うような人間だったからこそ成仏できたのであり、僕らはその「主人公意識」を見習って「みんなを救おう」という菩提心・大慈悲心を起こすべきであって、阿弥陀仏にすがって念仏を唱えてさえいれば自分もみんなもあの世で救われるなどと考えるのは「NPC思考」であり、ナンセンスだと僕は思います。まして「人を救おうとするのはエゴであり、そのように思うこと自体が傲慢だ」と積極的に人を救おうとするのを批判して止めさせようとし、主人公として本気で衆生を救おうという菩提心を起こす気などまるでないお坊さんや信者さんたちには正直呆れた気持ちを持っています。
もしRPGで「世界を救ってゲームクリアした先人を見習って自分もクリアを目指す」のではなく「ゲームクリアした先人を崇め奉れば世界は救われて自分もクリアできる」とか「自分が世界を救ってゲームクリアしようなんて考える奴は傲慢だ・中二病だ」とか考える人がいたらどう思いますか?僕の気持ちもそれと同じです。
それと僕は禅宗について文化(型)としては美しいと思っていますし、それを伝えた聖師たちにも祀られている神仏やお経にも心から尊敬の念を持って学ばせていただいていますが、現代の禅宗(だけじゃないですけど)は形骸化して本質から大きくズレていると思っています。菩提心を出発点とせずに、ただ上に教えられた通りに自分を型に押し込めるような修行をしても悟れるわけがなく、逆に悟りから遠ざかっていると思うので。ちなみに個人的に座禅・シラフでの瞑想は苦手ですし(笑)禅によって悟ろうなどとは全く考えていません。日常の人間関係での修行の方をより重視しています。
あなたはそのお坊さんたちの教えによって何も悟れていないから誰も救えてないのでしょう。正直言うと、そのお坊さんたちも本当は何も悟れず救われてなくて、教えによって人を救うことができないのに、立場上(職業上・商売上)「自分は悟っていて既に救われている」というフリをしていなければならないために、相手を煙に巻く禅問答のような話しかできず、困ったら「ただ座れ」とか「ただ○○を唱えよ」とか言って逃げてるんじゃないかと僕は疑ってます。きっと己の出世や保身、寺の運営維持拡大の方が人を救おうという愛より優先なのが当たり前になっているからそのように仏道が形骸化して空虚なものになっているのでしょう。
永平寺の修行風景などを見ても、いかに仏教が形骸化した虚しいものになっているかが良くわかります。恐らくは「期間限定で我慢し、形式だけ学んで資格さえ得られれば、後は実家の寺を継いで安泰だ」とでも考えながら修行しているのでしょう。それでは菩提心など起こしようがなく、何も悟れるわけがありません。
>キリストなど「人を救う!」と言う自己犠牲は大変素晴らしいのですが、確かに自分が救われていませんよね?
僕はもう一度死んでいるので自分の命やこの世の富や名声に執着がないだけで、別に自分を犠牲にしているつもりはないです。ワンネスへの目覚めが進むと自分=他人という感覚になり、自分への愛と他人への愛がイコールに近づき、無償で人を助けるのは当たり前になって、自分を犠牲にしている感覚はないのです。そして僕が人を救おうとするのは全ての存在の源である創造主へ愛と感謝報恩であり、そこはキリストもきっと同じだったと思います。もしあなたが「キリスト自身は救われていない」と考えているのなら、単にあなたが悟りが進んでいなくてこの世の価値観(損得勘定=エゴ)に縛られているだけだと思います。
>自分の中だけで完結しては世界は広がらない。
あなたは「自己完結型の悟りは悟りではない」ということを既に悟っているのに、誰かが本気で人を救おうとすると茶化して否定せずにはいられないのは、自己矛盾ではないでしょうか?
>空はつまり無我ですよね?
あなたは「空とは何か?」の以前に「エゴとは何か?愛とは何か?」がわかっていないようです。「エゴ(欲)とは何か?」をよくよく読んで考えていただきたいです。
あなたは自我(エゴ)の対義語を無我(無心に近いイメージ)だと考え、それが悟りだと考えているから空や中道の理解を誤るのでしょう。エゴの対義語は愛なのです。ただ単に自我を無くすだけの「無我」なら幻覚剤でも仮経験できますが、もしずっと自我がないままならただの障碍者であり、世界を救うどころかまともに生活できません。
エゴと愛というのは表裏一体のものであり、この次元においてはどちらか一方だけでは存在し得ないのです。人間である限りエゴは無くせないものですし、失くす必要もありません。エゴを乗り越えて愛を発揮するところに魂の成長があるのであり、それがいわば中道なのです。そうやって全てが二元的に創られたこの世界を愛一元に近づけていくことが魂の修行なのです。
無心っていう意味での無我を目指しても、自分も他人も救われないのです。人間が生きている限りエゴによる苦しみから完全に離れることができないのは、親鸞も覚った通りですから。
僕はこの世においてあなたが考えるような無我の境地など目指していません。我(個性)の確立が無我(愛一元・ワンネス)を価値ならしめるのであり、「自分とはどういう存在であるか?」という個性を確立し、自分でその存在を許し、尊敬し、感謝し、愛せるようになり、同時に他人の存在・個性も許し、尊敬し、感謝し、愛せるようになっていくところが、今生での目指すべきところです。もちろん完璧にはできるようになりませんが、だからこそ成長を目指し続けるられるのです。
「悟りとは何か?」に書きましたが、悟りというのは、今生においてどれだけ開こうと究極に達することはなく、それが故に全力で目指し続けることができるのです。どんなに悟ろうと、それは更に大きな悟りの中の構成要素なのであり、それはロシアのマトリーショカ人形の如くです。「それでも不退転の覚悟で悟りを求め続けるのだ」というのが般若心経の最後のマントラの本来の意味です。
あなたはそのお坊さんたちの考え方に対して心から納得していないと言いつつも、あなた自身の考えが非常に曖昧で何がおっしゃりたいのかサッパリわかりません。ハッキリ言うと「誰々がこう言ってました」ということで他人を盾にして自分に直接反撃が来ないようにして批判するという幼稚な手口にしか思えません。自分の悟りを自分の言葉で語れず自分の背中で語れない人間が、誰かに対して他人の言葉で「悟りとはこうあるべきでは?」などと批判する時点で失笑ものです。よくよく考え直して下さい。
>確かに木の様になって人生何になる?
あなたはまだ若いから仕方がないことではあるのですが、己の心がいかにエゴにまみれていていかに愛がないかに気づいていただきたいです。今の僕から見れば現在のあなたは「仏の慈悲に気づかず、他人を蹴落としてでも自分が救われたいカンダタ」です。
あなたは本気で衆生を救おうなどとは考えていないわけで、結局自分が救われたいというだけで修業をしているから神仏の愛も智慧も受け取れないのでしょう。あなたがどれだけ寺で修業されたのかわかりませんが、そのようにまだ何もわかってないのに、俗世の人間関係や仕事から逃避し、それでも「自分は真理を求める修行者である」とプライドだけ肥大させるぐらいなら、やらない方がまだマシかと思います。あなたは自分の愚かさ・誤りを認めて乗り越える勇気を持たないから成長できない(悟りが進まない)ままなのでしょう。
人生の修行の場はあくまでも俗世での人間関係にあるのです。俗世の人間関係での修行の大変さに比べたら、山や寺に籠ってする修行など、どれだけ身体的・精神的にしんどかろうと逃げに等しいと僕は思います。
創造主は言いました。「樹が鳥を愛するように人を愛せよ」と。大地と空から愛を受け取り、感謝の花を咲かせ、悟り(愛)を豊かに実らせ、何も結果(見返り)を求めず、鳥達が集い喜びに歌うのを我が喜びとするのです。去る者追わず・来る者拒まずで、何ものにも執着せずに。果実を差し出すのにお金とか愛情(尊敬・感謝)という見返り(自己利益)を強要したり、嫌いな鳥を拒絶したり、エゴで執着して鳥達を追いかけまわす樹では愛されません。Giving Treeのように相手の欲しいものを与えられることに喜び感謝して、相手が求めるものを与えてあげて、相手の喜びにも悲しみにもそっと寄り添って下さい。愛という果実を無償で提供すれば、愛(悟り・幸せ)の種は鳥たちがきっとどこまでも運んでくれるでしょう。
それが愛(悟り・幸せ)なのであり、あなたの「木の様になって人生何になる?」という問いに対する答えです。もしそれが虚しいと思うのなら仏教修業など本当に意味がないんでやめた方が良いかと思います。
真理とは「人を(自分もみんなも)幸せにするもの」であり、逆に言えば人を(自分もみんなも)幸せにする考えを誰かが「それは真理ではない」と否定しようとどうでも良いことであって興味もありません。人生は魂成長プログラムであって、もし真理が人を幸せにしないものならば、誰もそれを本気で悟って成長しようとはしないでしょう。
それとあなたは僕とは「(空・般若心経の)解釈が全く違う」とおっしゃいますが、僕はまだ「空」や「般若心経」についてまだちゃんとnoteや質問箱では解説していません。僕がちょっと空や般若心経について言及したのを見ただけで、あなたが僕の空や般若心経に対する解釈をわかったつもりになっているのなら、あなたの悟りの進捗&理解力から察するに絶対に誤解してると思います。
もしあなたが本気で「空とは何か?」「般若心経の真意は何か?」を知りたいのであればいくらでもご説明差し上げますが、あなたは「解釈が違う」と言いつつも、僕の話を「面白い」の一言で片づけて切り捨てているわけですから、単に僕を質問風で皮肉りたかっただけで、最初から僕の話を聞くつもりはサラサラなかったのでしょう。あなたは明らかに「寺で修業している自分の解釈の方が正しい」という前提で話していますが、己の解釈によって自分も他人も救えるほど腑に落ちた理解はできておらず、また自分の言葉で語って相手と議論して己の理解を深めようなどという気もなく、職業坊主の方々と同様に「立場上」わかったフリをしたまま「深入りしたら自分が何もわかってない事がバレてマズそうだ」と逃げているのでしょう。
①存在の成り立ち(概念次元について)
②創造主とはどういう存在か?(生まれた経緯・意図)
③なぜ、どのように我々の意識と世界が作られたか?
この三点について深く理解していただかなければならないのですが、これを詳しくわかりやすく説明するのはかなりの長文になるため、記事にするのはまだ少し先になります。
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