【質問】20代・男性 ペンネーム:翔太郎
真也さんのnoteやブログを、いつも拝読して勉強させて頂いています。
日蓮系の題目について質問なのですが、南無妙法蓮華経を唱える時は、本尊に向かってやった方が効果は高いですよね?この「マントラのすすめ」の日蓮文字曼荼羅のpdfファイルを印刷して、それに向かって唱題しても良いのでしょうか?教えて頂けると幸いです。
【回答】
ご質問ありがとうございます。とても光栄です。
※noteのコメント欄でのご質問でしたが、文字数制限が1000字と少ないので、こちらで回答させていただきました。
もし余程お金がないのであれば、最初は入り口として印刷物でも全然良いと思いますが、それで本当に気持ちを込めるというのはなかなか難しいのではないかと思います。ご本尊は日蓮系のお寺で購入してもそんなに高いものではないはずなので(高いものは買う必要がありません)、本当に信心があるのでしたら、通っているお寺で購入された方が良いかと思います。
「マントラのすすめ」の本文中でご説明させていただいている通り、「身口意」の三蜜のうちの「身口(形)」も大事なものではあるのですが、「意(心)」が伴っていなければ、すべてが本末顚倒になってしまいます。だから「形をこのようにすれば効果が高い」みたいなことは、本質からズレるので僕からはあまり言いたくないのです。形を伝える役割は本職のお坊さんたちにあると思いますしね。
この件に限らず、僕がnoteや質問箱でお伝えしようとしていることは、常に「本質」なのであって、それを何かの効果(利益)を得るための「方法論」のように捉えていただきたくないのです。その本質というのは、人生というかけがえのない成長機会を与えられていることへの心からの感謝報恩であり、衆生みんなを救いたいという愛(菩提心)を実践することであって、「もっと利益を得る方法」ではないのです。
お題目にしても般若心経にしても、この「人を救おうとするのはエゴでは?」の質問者さんのように、本質がわかっていなければ、何百万回唱えようと無意味なのです。
日蓮が「南無妙法蓮華経さえ唱えれば救われる」かのように言ったのは、識字率の低い時代に衆生を救いに導くためであって、今の時代に教育を受けて育っている我々がそれを鵜呑みにしてただお題目口唱だけするのは「NPC意識」であり「主人公意識の放棄」なのです。
「南無妙法蓮華経(偉大なる法である法華経に帰依します)」という祈りに本気で「意」を込めようと思ったら、当然法華経を読んでその偉大さを理解し、本気で帰依する気持ちを持つべきなのは自明であり、本当に心からそのような気持ちを持っているのであれば、それは日々の行動(生き方)になって現れるはずなのです。その法華経から導かれる生き方というのは「カルマの良化法」に書いたようなことです。お題目口唱の最大のご利益はカルマの良化ですが、法華経の教えに基づく生き方をしていれば(誤読していなければ)カルマが良化されないわけがないのです。
法華経の神仏たちは偉大なので、お題目口唱という「形」だけでも、きっと素晴らしい現世利益がもたらされることがあるでしょう。ただそれは神仏がその力の顕現により本物の信心へと導いてくれているのであり、それを「ただお題目を唱えていれば現世利益が得られるのだ」と勘違いしてしまうと、いくら祈ったとしても相当長い間も何もご利益が得られない(ように思えてしまう)時期が続き、逆に不運に思えることが続いたりして、信心を試されることになるでしょう。そして多くの人はそこで挫折してしまい、自分の信心が自己利益を求めたエゴに過ぎないものであったことを自ら証明してしまうのです。何かの効果・利益(結果)を望んで祈るということは、すべてを与えてくれている存在に対して現状に不満を言っているようなものであり、「あれをするからこれを下さい」と交換条件を求めているようなもので、ナンセンスなのです。
祈りはあくまでも感謝報恩の心と菩提心(真理を求め、衆生を救おうという覚悟=主人公意識)がベースになければ本質からズレてしまいます。「ただ形(本尊に向かってお題目口唱する)だけ行って効果を期待しよう」というのではエゴの祈りにしかならず、「引き寄せの法則」と同じで、ご利益があるほど後で反動が来てしまうのです。
「法華経要約・解説」は読んでいただけていますでしょうか?どうかお題目口唱という「身口(形)」に「意(心)」を伴わせ、菩提心を起こし、「どんな結果も感謝して受け入れる」という覚悟で、ご利益など何も期待せずにただただ感謝報恩と衆生救済のために祈り、その思いを行動に表してみて下さい。それができる人が報われないなどということは真理に反することであり、有り得ないことなのです。「存在全体」に対して無償で貢献する人間に、「存在全体」からご利益がないわけがありませんからね。だから「こんなことをしても報われないのではないか?」などという心配(疑い)は要らないのです。そのような心配(疑い)は愛・信仰とは相反するものであり、せっかくの祈りがエゴ由来ということになって、神仏からの愛をうまく受け取れなくなってしまいます。お互いエゴより愛を優先し、ただただ愛を動機として日々祈り、全体利益に無償で貢献していきましょう。
お答え頂きありがとうございます。ご本尊は日蓮宗のお寺で購入して、勤行の作法もお坊さんに指導して貰おうと思います。信心があれば、自ずと正しい作法を学んで祈ろうとするのは当然ですよね。「法華経の要約・解説」は読みました。今はそれ以外にも法華経の現代語訳や解説書を読んで勉強中です。御利益など求めずに、至心に祈ることを心がけます。
返信削除>見崎翔太郎さん
返信削除素敵な感想をありがとうございます。伝わるとめちゃくちゃ嬉しいです。
お互い精進して行きましょうね。