【質問】
霊気や浄霊の効力を上げるアドバイスとかあったりしますか?
ちなみに真也氏の浄霊って、ペンダントを付けて行うJhoreiとは別でしょうか。
【回答】※10月7日更新
ご質問ありがとうございます。
いつも通り全力でご説明差し上げたいのですが、それを正しく理解していただこうとすると「霊とは何か?」ってところから全部説明しなきゃいけなくなり、本題に入る前に長くなり過ぎて誰にも読んでいただけなくなると思うので、エッセンスだけ伝わるようにご説明させていただこうと思います。
まず「霊」というのはまだ現代科学で証明されていないだけで極めて科学的(システマティックで原因と結果を予測し得るという意味で)なものなのですが、「霊」という言葉はとどうしても幽霊のようなおどろおどろしい・胡散臭いイメージにとらえられがちなので、「スピリット」と言った方が意味としては伝わりやすくなる気がします。でもそれも文章として長くなるので敢えて「霊」としたまま話を続けます。
「宇宙の仕組み」においてご説明させていただいていますが、世界は素粒子でできており、それは究極は超弦波動でできていて、それは霊的意思(創造主の意思・宇宙意思)の乗り物なのです。
物質世界は我々がその波動をコードとして共通のルールに従って見ているネットゲームの世界のような幻であり、世界の実態はクリエイターの霊的意思のみなのです。上位次元から見ればその世界はコンピュータープログラムのような文字列(コード・データ)であり、それは究極は01のデジタル信号でできているのです。まさに映画のマトリックスですね。
デジタルにおける01とは、ある特定の次元においての存在・不存在を表したものであり、その0は本当の不存在ではありません。創造主の中には次元が無限に存在しており、その中において純粋な不存在は存在しえず、0というのは十字グラフの中心点の0のようにある特定の次元においてのゼロを表しているに過ぎません。僕らの次元においては1が物質で0が霊=霊的意思なのです。それが陰陽でもありますね。我々の時間と交錯する虚数時間ではこの陰陽が逆転しており、霊は完全に実在なのです。
僕らの魂は光であり、その物質&霊を構成する超弦データを読み書きするためのリーダー&ライターなわけです。魂とは全知全能の創造主の分け御霊であり、本来は創造主と同じく全知全能で、そのままでは成長することもなければ、物語を紡ぐこともないのです。
この世界は創造主が自身の分け御霊である我々を通じて、真理・愛に至る成長の物語を経験するために創られたのです。そしてこの世界を創るためには魂(光)を無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い)によって分けてバラバラにして個性を与える必要があったのです。愛は自分(主体)と他人(客体)が共通ルールの世界の中に存在し、それぞれに自意識(エゴ)と個性(欠点や過ち)があってそれを許し合い補い合う事でしか生じ得ないからです。夜空の星々を眺めれば、光を分けるのにどれだけ圧倒的な闇が必要かは想像できるでしょう。そもそも愛は引力ですから、エゴにより分離されていてお互いに反発し合わなかったら存在し得ません。
全知全能である自分が作ったRPGは、自分でプログラムしたことをすべてを忘れ、制約だらけの不幸なディストピア世界において、愚かで能力の低いレベル1から始めなければ成長を楽しめません。僕らは成長の物語を楽しむために、わざと全てを忘れて愚かで能力が低く生まれてくるのです。そして制約だらけの世界で、失敗し・迷い・試行錯誤を続けて成長しながら人生という物語を紡いでいるわけです。自分や他人が愚かで能力が低いから価値が低いなどとは絶対に思ってはならないのです。僕らは人生経験を通じて、全ての存在・出来事に感謝できるようになり、みんなと愛し合えるようになることで創造主に存在意義を与えている尊い存在なのです。
この無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い)を構成しているものがカルマであり、カルマを構成しているものが霊障(霊的穢れ)なのです。これがなくては愛・真理には価値が生じないのです。最初からみんなが愛に満ちていたり、全知全能だったりしたら成長しようがありませんし、愛・真理に何の価値も生じないのです。
この無明の闇(カルマ・霊障)が光である魂を包み込んでいるために「包み穢れ」と言われるのであり、つつみは「堤」でもあって、元々は果てしなく高い我々の波動を防波堤のように打ち消すものなのです。そしてそれはまた「気枯れ」と言われるように「気」を枯らしているのです。この穢れを日々祓い清め続けることこそが霊的成長であり、その過程に魂の成長の物語があるのです。
霊的穢れ(霊障)はこの世界に満ち満ちており、それが悪さをする細胞・ウイルスとして結晶化して現れていて、それが我々に悪い思考・行動・病気・不幸をもたらし、人をより悪いシナリオへと導いていますから、我々は幸せになりたいのならそれを祓い続けて魂的に成長し続けてより良いシナリオを掴まなければならないのです。そのための一つの手法が浄霊(霊気・お清め)なわけです。
ちなみに幽霊・悪霊のようなものは、霊障が更に大きな塊となり、宿主の生前の記憶と意思を持っています。そういう悪霊に自我を乗っ取られるとかなり厄介です。元々の宿主と同じ不幸に導かれて強制的に同情するように仕向けられますから。このあたりの話は「憑依体質の存在意義」に書きました。
人間が人間である限り無明の闇が完全に晴れることはありません。腸内を完璧に洗浄したところですぐ腸内が大便まみれになるようなものです。しかしその魂を包む穢れを祓い清め続けることで、包み穢れがどんどん浄化されて映画のフィルムのようになり、より明るく色鮮やかな美しい物語となるのです。(成長に課題は必要であり、悲しみや苦しみや痛みなどが全くなくなるわけではありません)
さて、もし我々がクリエイターだとして、自分を愛するようにプログラムしたAIから愛されても何も嬉しくないですし、そもそもそれは愛ですらないでしょう。自由意志というのは愛・感情を価値ならしめるためにあるのであり、クリエイターが愛・感情を強制しては存在意義がなくなってしまうのです。同様に魂の成長もクリエイターが強制しては何の意味もないので、クリエイターは人間に自由意志を与えた上で常に自発的成長を促しているのです。僕らの人生で起きるすべては(歴史も神話もニュースも実体験も全て)そのための伏線と言っても良いでしょう。
信心も、クリエイターが自分を信じるように人間をプログラムしたら存在意義がありません。だからクリエイターはあえて基本的には神を信じないように人間をプログラムした上で、科学的に神の存在が証明されないように世界を運営し、神を恨みたくなるような試練をたくさん与え、宗教を堕落させて過ちや詐欺を横行させ、神を信じるものは気違いだとすら思わせた上で、神を信じるものに利益を与えて自発的信仰を促し、信心を価値ならしめているのです。神の存在が科学的に証明されるようなら信心には何の価値もなくなりますからね。
霊的な穢れが人間に自発的な信心と魂の成長を促し導くためのものだとわかれば、それを祓う「浄霊」の力を上げようと思ったら、信心を強くして魂を成長させるしかないとわかるでしょう。
「浄霊」をテクニックのようなものと勘違いしないで下さいね。もちろんテクニック(形式)も大事なものではあり、言霊や印や道具などの使用によって神々と自分の意思を同期しやすくなって浄霊力が高まるというのはあるのですけども、浄霊の本質は「信心」と「魂の成長」であって、それよりもテクニックの方に本質があるように考えるのは、手品師が「アブラカダブラ」や「チチンプイプイ」などのおまじないによって奇跡を起こしていると考えるようなものです。
キリストは弟子たちがそれぞれの訪問先で奇跡を行えず布教に失敗して帰って来たのを見て「やれやれ、何と信心の足りない弟子たちだろう」と呆れたそうです。キリストが起こした奇跡は基本的に浄霊によって(創造主によって)成されたものですが、それはテクニックではありませんし、弟子たちにも浄霊のテクニックを教えたわけではないのです。キリストはその場の土と唾と混ぜ合わせてこねて泉の水で洗わせて盲人の目を開かせたりしましたが、そんな手法を使わずとも何度も盲人の目を開かせているわけで、それは必要不可欠なテクニックではなかったのです。ですからもし弟子がそれを習って同じことをしたところで盲人の目を開かせることはできなかったでしょう。
決して浄霊をテクニックのように考えて効力を上げようなどと考えないで下さい。信心をよりいっそう強くし、魂的・霊的に成長し、創造主の意思(みんなを等しく愛し、救おうとしている)と自分の意思を同期させること(感応道交・哀愍納受)こそが浄霊の本質なのです。
浄霊能力は人間なら誰でも持つものであり、それをまるで特殊な能力のように考えて「他人から尊敬されたい」とか「お金を儲けたい」とか、そういう自尊心の低さの解消を目指すエゴによって上達したいと考えても決してうまくはいかないでしょうし、きっと逆にカルマを深めて道を誤ることでしょう。
だいたい宗教詐欺なんていうのは、そういう「自分なんて…」と思っている自尊心の低い人を騙して「あなたには霊的な才能があります」などとおだててセミナーなどでお金を騙し取るのです。霊能力は人間の力ではなく、創造主がその人を通じて力を発揮しているだけであり、創造主の力の媒体になるというのは本来誰しもが持つ才能であって、個人の特殊能力でも何でもないのです。それなのに劣等感から「特別な人間になりたい」という目的で霊能力を得たいなどと考えるのは愚かな事なのです。創造主曰く「偉くなろうとするな、尊いと知れ。特別な人間になろうとするな、特別(主人公)であると知れ。そして特別じゃなくなること(ワンネス)を目指して世界に救いを連鎖させよ」とのことです。
キリストは奇跡を起こして人を救う度に「私が救ったのではない、あなたの信心があなたを救ったのだ」と言いましたが、浄霊の本質はここにあります。相手に自発的信心を起こさせそれを連鎖させるためにあるのです。みんな信心・浄霊の大切さを知らずに苦しんでいる訳ですから、浄霊を実経験させることでそれをわからせるのです。トイレ掃除の大切さをわからせるために一度他人のトイレ掃除をやってあげるようなものです。一度も浄霊したことのない人の体というのは、一度も掃除したことのないトイレのようなものであり、結局本人が掃除(浄霊)する習慣を身につけて信心を強くしていかなければ意味がないのです。みんなが自分と他人を霊的に清めるような連鎖が世界の隅々まで行き渡れば、世界は必然的に(霊的に)救われるのです。
浄霊力を高めたいのであれば、何よりもまず信心をより強く持つ事であり、創造主を信じ、その分身である神々とその教えについて学び、尊敬し、その名と偉業を讃える作法(供養方法)を学び、その神々の加護を受けることです。
また、同じく創造主の分身である他人に尽くし、心の波動を高く保ち、自他共に自尊心を上げ続けることです。そして日々エゴ・霊障による穢れを祓い続けることです。
人に尽くすということは、慈愛の精神を持ってそれを実践するためにどんどん無償で奉仕することです(浄霊も奉仕の一つであり、やればやるほどその力は強くなります)そして人に無償で奉仕してもらい、心からそれを喜んで感謝して助けてくれた人を笑顔にして「もっと無償で奉仕したい」と思われるぐらい愛される人間になることです。
出会う人は本当はみんなあなた自身なのですから、他人(霊障)の痛み苦しみ悲しみに心から同情できる優しい人になって下さいね。
そして何より自分が主人公(メシア)としての自覚を持ち、自分の仏国土(世界・出会った人全員)の御霊御魂を救う決意を持つ事です。そして真理を求めて覚りを進め、真理=愛を日々実践し、人にも霊にも行動・言葉・思念・波動で真理=愛を伝える事です。それが浄霊の本質なのです。
>ちなみに真也氏の浄霊って、ペンダントを付けて行うJhoreiとは別でしょうか。
ここまで書けば伝わっていると思うのですが、浄霊は全て本質的に同じものであり、もしその浄霊が本質から違っているものであれば、プラシーボ効果以上の効果があるわけがありません。それでお金を取ろうとしているのなら確実に詐欺でしょう。
大本教やその信者が作った神道系・手かざし浄霊系(真光や世界救世教など)の宗教の浄霊はだいたい基本的に同じものだと思って差し支えないかと思います。僕も全部見たわけでは全然ないので保証はしかねますけども、作法や信仰対象の違いぐらいしかないと思います。細かい違いはあるでしょうが、実際は単に独立したかったから無理にでも違いを作り出したという部分の方が大きいのではないかなという印象です。
僕も真光や世界救世教にはほぼ毎日通って浄霊を受けながら勉強させてもらっています。(他にも色んな宗教に通ってます。ただ大本教は場所が遠いですし、コロナの際に嫌な断られ方をしたので通ってません)僕は霊障が目に見えるので、幹部や信者さんたちが概ね高い浄霊力をお持ちなのはよくわかります。(まぁ浄霊そのものは特殊能力でも何でもないのですけどね)
ただ僕自身はどこの信者にもなっていないので、信者がもらえるペンダントのようなものは受け取っておらず、それにどのぐらいの効果があるのかはわかりませんし、それがどのように作られているかも知りません。
が、ペンダントなどに浄霊の本質があるわけはないということは当記事を読んでいただければおわかりいただけると思います。実際、僕は浄霊の仕方を誰にも習っておらず、ただ創造主の導きに従って浄霊力を高めていて、ペンダントなんかなくても全然浄霊できています。そして色んな宗教に顔を出していても、僕より浄霊の力が強い人にはまだ会ったことがありません。(ぜひ出会って教えを請いたいです)
ああいうペンダントみたいなもののお陰で浄霊力が高まるのだと(製造過程すら明らかにせずに)信者に信じ込ませるのは、自分の力を過信して独立したりさせないようにする「囲い込み」の意味が大きいのではないかと個人的には思ったりしています。特に手かざし浄霊は誰にでもできるものですし、今までも何度も独立されて信者と収入をごっそり持っていかれているわけですからね。
どの宗教も共通して信者さんたちから(強制ではなくても)大金を集め、奉仕を半強制的に求め、大きな施設を作って大きなイベントを行って権勢を見せつけ、自分の宗教の信者をより多く獲得しようとするような「拡大路線」を正義だと考えている節があります。創設者がどんなに純粋な思いで作った宗教でもほぼ例外なくそうなります。どこの宗教の教祖もみんなと富を分かち合って清貧な暮らしをしているようには見えませんし、権力争いと分裂を繰り返しているのは何だか残念な気持ちになります。(こういうことを書くと出禁とかになるかも知れませんが)だから僕は宗教団体って作りたくないんです。
たくさんの人を浄霊をするのもされるのも、こういった宗教に通わないと難しいでしょうけども、あまり僕がどこかの宗教を手放しで称賛して、それであなたがどこかの信者になって内部の問題に巻き込まれたりしても責任は追いかねるので、一応注意喚起はさせていただきました。該当の宗教の関係者様がもし読まれましたら気分を害されるかも知れませんが、どうか出禁だけはご勘弁を。
あちこち通って比べてみて、自分が心から良いと思う所を選んで下さい。人間と同じようにどこの宗教にも欠点や過ちはあり、それを理由に愛さないなら愛せる宗教は見つかりません。ただ高額な寄付や過酷な奉仕を強要してくるような団体は宗教を悪用した単なる詐欺なので、なりふり構わずすぐに逃げて下さい。
0 件のコメント:
コメントを投稿