2023年9月13日水曜日

愛の条件を外すには?

【質問】30代・男性
自分を愛するとはどういうことですか?色々調べたのですが腑に落ちません。自分に対しての条件付けをするから、他人に対しても条件付けをしてしまう。自分を愛せないから、他人を愛せない。こういう条件を外せる方法はありますか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。僕の悪い癖で、後回しにしている間に回答がとても遅くなって申し訳ありません。

まず多くの人が「愛とは何か」についてぼんやりとしか考えておらず、ほぼ確実に誤解しています(それも初期設定通りで当たり前のことなのですが)。「愛」を「すごく好き」ぐらいの意味に捉えていて、「すごく嫌い」の対義語のように考えているのです。それで愛=性愛・家族愛のようにイメージしてしまっているのですね。

しかしそのような「二元的で条件付きの愛」というのは「エゴ」であり、それを「愛」だと勘違いしてしまっているところが、人間に初期設定された苦悩の元凶であり課題(無明=愚かさ)なのです。エゴというものは満たそうとするほどに肥大し、ますます渇いて永遠に満たされることはなく、とても苦しいものです。

人間は誰しも例外なく幸せになりたいように創られているのに、己のエゴを愛と勘違いし、エゴの充足を求めてばかりで永遠に満たされないという餓鬼道に陥り、魂(心のコンパス)が本当に地獄に向かってしまっているのです。


あなたの認識世界にいるNPCたちは、常識通り周囲の人達と同じようにエゴ(自己保存=我欲と保身)を満たそうとするために生き、死ぬまで決して満たされず、自ら愛より遠ざかり続けてしまっています。そこで主人公(勇者・メシア)たるあなたが本物の愛に目覚め、それを目の前から世界の隅々まで指数関数的に連鎖させてすべての魂を救うところが、人生というRPGのシナリオの骨子なのです。

最初からみんなが愛に満ちていたら物語は生まれず愛に価値は生じないのです。経験というのはすべてが二元的に創られたこの世界の両極を経験して感じることができるものであり、「存在」の意味(意義)・価値が生じるのです。

世界の真の姿は一つ(ワンネス)であり、自分や他人というのは幻の如きもので、本当はその境界線などは存在していないのです。僕らに与えられた自意識・分離意識・自己同一意識と個性が自分と他人とを別な存在だと認識させられているだけです。それがなければ人生という物語は生まれようがないのです。

そしてエゴの歯車の回転(我欲と保身→欲望充足と安心の確保)のために日々好きでもないのにやらねばならないことに追い立てられるようにして生きて人生を空費し、何のために生きているかさえわからなくなり、まるで幸せを諦めたかのような人生を送ってしまうのです。もちろん僕もかつてはそうして鬱になって死ぬことばかり考えていた脇役NPCの一人でした。

僕らは世界を好き嫌いで二分することにより、その主体者としての「自分(自らの存在は他の存在と分かれたものであるという分離意識)」というものを実感しようという、とても強固な本能が与えられています。それがエゴの本質の一つです。

僕はよく「存在」をトランプに例えます。どんなカードも裏返せば同じ柄であるように、すべての存在は個性を与えられているだけで同一なのです。ゲームに必要だからこそそれぞれのカードに個性が与えらえれているのであって、カードに個性がなくすべてがジョーカー(オールマイティーカード)だったらトランプは成立しません。そしてゲームの中でカードの価値の上下や好き嫌いはあっても、存在としての価値は同一(等価)であり、どのカードが一枚なくなってもトランプは成立しません。それは人間やその他の存在であっても同じ事なのです。

トランプを愛するということはその存在全体を愛するということです。そして自分を愛するということは、存在のすべてを愛するということとイコールなのです。

しかし人生というのは成長の物語であり、愚かで無力なところからスタートしなければ成長は経験することができません。それゆえ人間には光(智慧)の如き魂に、無明の闇(愚かさ)が初期設定として与えられているのです。

その初期設定の愚かさゆえに、人間は他人の個性(欠点や過ち)を責めて見下し価値の低い存在だと思うことで、自分はそれよりは価値のある存在であると思い込もうとします。それゆえに人生というゲームの中で価値が高いように見える人たちを羨んで嫉妬し、他人から価値の低い存在であると見下されることに傷つき、劣等感に苦しみ、自分も他人も愛せなくなるのです。このワンネスの世界において自尊心と他尊心(僕の造語であり、そういう言葉はないと思いますが)は連動し、同時にしか上がらないものなのです。

劣等感をバネにして己の能力を伸ばそうとすることも、若い時は大事なことです。しかしその能力を自己利益のためだけに使っても幸せにはなりません。すべての存在は同一なのですから当然です。本当に成長するということは、己の能力を全体利益のために使うことであり、自分も他人も無条件で愛せるようになることなのです。

完全無欠な存在は他の存在を必要としませんから、愛は生まれようがありません。愛というのは、自分や他人という存在に不完全性(欠けたもの)があり、それゆえに他者の必要性が生じ、それを補いあうことで生まれるものです。それは古事記のイザナギ・イザナミの神話にお互いの余った部分と足りない部分をつなぎ合わせて国土を生み出したという記述に象徴されています。

だから人間の不完全性には本来価値があり、人間の価値に上下などないのです。不完全性こそが愛という最も価値あるものを生み出すからです。しかし愛の価値を経験して知るためには、愛とは真逆の経験をする必要があります。それゆえ人間社会は、他人から何かを補ってもらうのにお金がかかり、より能力が高くてより他人の要望を満たせる人間がよりお金を稼ぎ、他人から何かをしてもらう権利(強制力=愛とは真逆のもの)を得ます。能力の低い人はお金を稼げず、エゴ(欲求)を満たして貰えません。そして人間としての価値まで低い存在だとみなされます。だから欠点や過ちがそのまま価値の低さとされ、みんな己の欠点や過ちを隠して他人の欠点や過ちを責め合って見下し合い、自分も他人も愛せなくなっています。また他人の不完全性・劣等感につけこみ、それを満たせるかのように装ってお金を稼ごうとします。

我々の人生というPRGはそのようなディストピアが初期設定なのであり、それは乗り越えるべき課題なのです。最初から愛に満ちた社会では、愛の価値を経験的に実感することはできません。

そのような初期設定の無明(愚かさ・課題)を乗り越えさせるものが、無条件の愛であり、「愛の無条件化」こそが「魂の成長」なのです。ではどうすれば愛を無条件化できるのでしょうか?

愛とは許しです。自分も他人も許せていないのにいきなり愛そうとするから無理が生じるのでしょう。だからまずは許すことです。ただ「許し」は「我慢」することとは違います。我慢というのは文字通り心を我(エゴ)で満々にすることであり、心の奥底で和解が成立していないのです。そして我慢はマグマのように蓄積するものであり、いつか暴発することが自明なのです。

どんな過ちも、その人なりの宿命(カルマ)があって、やむにやまれずやってしまっていることなのであり、本当はすべての魂が同一なのですから、あなたもその相手として生まれていたら絶対に同じ事をしているのです。それに対する許しがなくては、自分も他人も本当の意味で愛することなどできるわけがないのです。

例えばある人が自分の不幸を親のせいだと考えて許さなかったとします。しかしもしその親のせいでその子供が不幸になったのなら、そういう親に育ったのはそのまた親(祖父母)のせいでしょう。そしてその親(祖父母)がそういう風に育ったのは、そのまた親(曾祖父母)のせいでしょう。その原因追及の連鎖は創造主の天地創造・人間創造まで続くのであり、自分の不幸を親のせいにするということは創造主のせいにしているのと同じ事なのです。そしてそれは自分の親だけでなく、すべての不幸に当てはまり、誰を責めても創造主を責めているのと同じなのです。それでは創造主からの愛を受け取れなくて当然です。そして自分の不幸を他人のせいにして責める被害者意識は成長と真逆のベクトルであり、不幸に導かれるのが必然です。

罪と恥の存在意義に書いた通り、罪や恥というのは許し合うことでより深く愛し合えるよう創造主から愛によって人間にだけ与えられた課題であり、罪や恥・欠点や過ちを理由に人を許さず嫌うのなら、自分のことも他人のことも愛せなくなるのは当然でしょう。

簡単に許せる人を許し、簡単に愛せる人を愛しても成長などありません。許し難きを許し、愛し難きを愛するところに魂の成長があるのです。

会ったこともない他人の悪事をあげつらって人を許さない自分を正当化する人が多いですが、会ったこともない人は完全なNPCであり舞台設定の一部のようなものです。あくまでも実際に会った人を一人ひとり許し愛することです。出会う人はみんな自分の反映なのですから、それを許し愛することで自分を許し愛せるようになるのです。

宇宙の仕組みに書いた通り、あなたはあなたを主人公とする物語の世界の中を生きているのであり、客観的世界は存在しません。偶然は存在せず、あなたが出会うすべての人・出来事は創造主が何か大切なことに気づかせるために送られた愛のメッセージなのです。

どんなに嫌な人・嫌な出来事との出会いもネガティブに解釈せず、「もしこれが創造主からの愛によって送られたメッセージなのだとしたら、どういう意味があるのだろう?」と考えてみて下さい。

誰でも自信満々になれる方法は必ず何度も読み返してみて下さい。「どうすれば愛情を無条件化できるか?」僕の答えはほとんどここに書かれています。

人生は自分を主人公とする映画であり、出会う人はみんな監督たる創造主から派遣された共演者です。その物語に悪役はいても悪人はいないのです。あなたが嫌いな人も、人から愛されたいに違いないのに、あなたに何か大切な事を気づかせるために、敢えて悪役を無自覚に演じさせられているのです。映画には悪役も絶対必要なのです。それを嫌ったり避けたりしていては良い物語になるわけがありません。嫌な人だと思っていた人も実は良い人(仏)でした、というシナリオを成就させて下さい。今まで「嫌い」だった人も「苦手」から「攻略難易度の高い悪役」「レベルの高い悪役」のように言葉を心の中で置き換えてみて下さい。

相手を嫌っていれば、必ず態度に出て相手を疑心暗鬼に陥れ、確実に敵に回し、それは自分に返ってきます。自分自身が鏡のように相手を敵にしているのです。ですから最初はぎこちなくても、あなたが主役の物語に共演してくれている共演者の「存在」そのものに尊敬と感謝の気持ちを持って下さい。本気でそういう気持ちを持つことができるようになってくれば、ぎこちない笑顔も本物の笑顔になっていきます。

例え口論になっても、それはストーリー上(役柄上)のことであり、次に会った時は舞台の楽屋で共演者に会った感じで笑顔で挨拶して下さい。相手は最初面食らうかも知れませんが、気まずい思いをしなくて良くなって内心ホッとするはずです。愛の大切さに比べれば「どちらが正しいか」なんて議論は巨人阪神戦の結果ぐらいどうでも良い事です。酒の肴にはしても、それによって関係性を壊すなんてことはバカバカしいことです。

そして「六波羅蜜」を調べて行じてみて下さい。これはエゴを乗り越える上で大事な人生の修行法です。欲は悪いものですか?に書いた通り、欲(エゴ)は愛のマテリアルですから、自分のエゴより相手のエゴを少しだけ優先できる人間になって下さい。そうすればすべてがうまく行くようになりますから。

楽器の演奏と同じで、最初からうまくはいきませんが、「自分には無理だ」とベクトルを諦める方に向けないで下さいね。反省してはいけないに書いた通り、自分も相手も責めず、最初から完璧にはできない自分も愛しながら、毎日ほんの少しずつでも良いので続けて、日々成長を楽しんで下さい。

出会う人はみんな時間差のある拡大鏡です。あなたが心を開けば世界があなたに開かれます。無条件で出会った人を次々に尊敬し感謝し許し愛せるようになれば、「自分大好き」というパズルがどんどん完成されていきます。どうかあなたも「嫌いな人ゼロ作戦」を決行して、きっと幸せになって下さい。

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