【質問】30代・男性
瞑想を学びたいところ、テーラワーダ仏教に出会いました。初期仏教やテーラワーダ仏教、禅のような、ゲームを止める方面のアプローチ(四諦、ヴィパッサナー瞑想、欲を離れた安楽な幸福、苦からの自由、得た智慧や慈悲喜捨で実社会の自他を幸せにする)はどう思いますか?ゲームを愛する話をよく聞くので気になりました。個人的にはゲームを「止める」と「愛する」のバランスを取ってます。
テーラワーダは途中までは全然問題無いんですが、最終的には、苦楽の自我ゲームを愛するのではなく完全に止めてしまって、「輪廻から解脱しよう」というテーマが、私にはどうするべきか答えを出せずに居ます。創造主が「ゲーム好き」であれば「解脱が最高」である思想と対立するかも。
創造主は涅槃や解脱はしないのでしょうか?永遠に苦楽のゲームを作って愛するのでしょうか?誰も居なくて孤独、という感情も全知全能であれば、作らない訳には行かないのでしょうか?
正義=悪(悪が必要だから)的な正義に否定的な話を聞きました。(”正義”の危険性は伝わりましたけど)しかし光は闇があって初めて存在出来るし、愛や成長や価値の物語も、苦しみや負の面があって初めて価値として存在出来るなら、愛や成長の物語=悪や苦しみという事にもなって、であれば解脱するのも一興と言う事になりませんか?正義との違いはどうでしょう?
【回答】6月9日更新
ご質問ありがとうございます。
まず、僕は人生そのもの、世界そのものをRPGだと表現しています。それは永遠のものであり、死んだり解脱(クリア)したからといって止められるものではありません。クリアしたとしてもまだまだその先があるのです。
それはとてもありがたいことで、5億年スイッチの世界のように思念・概念しかなく存在だけし続ける世界というのは地獄でしかありません。仏教ではそれを無間地獄(むげんじごく)と言います。
それに対しあなたはエゴ(欲求充足)を楽しむことを「ゲームを愛すること」だと考え、エゴ(欲求充足)をなくすことを「ゲームをやめること」だと考えていらっしゃるようで、それを僕の考えと同じだと思われているのでしたら、僕の伝えたいことをかなり誤解されているように感じます。
そしてもし初期仏教などの考えを「エゴ(欲求充足)を完全になくすこと=解脱」を目指すことのように思われているのでしたら、それも少し誤解しているように感じます。(あなたがというより教えている側が)
僕も初期仏教は勉強したのですが、確かにあまりにも禁欲主義的過ぎてついていけませんでした。僕は法華経を仏教における信仰のメインとしており(仏教以外も同時に信仰しています)、そこで説かれているように、初期仏教の教えというのは間違っているのではなく大乗の教えに導く(一切衆生を成仏に導く)ための仮の教えであったというのを信じています。
エゴというのはこの人生というRPGの基本課題であり、それがなくなったらゲームが成立しません。ゲームのバイオハザードで、ゾンビを倒していかないとクリアできませんが、ゾンビを全部倒して一切出て来なくなったらゲームが成立しません。それと同じことです。
エゴは乗り越えるべき課題であって、それが魂の成長につながるのです。もしエゴを完全になくしてしまったら完全にワンネス(自分=他人)になって成長課題がなくなり人生の意味が消失してしまいます。ですから、それは決してできないように人生はプログラムされているのです。だからこそ我々は全力でワンネス(創造主意識)に向けてゲーム(成長)を続けることができるのです。
エゴを乗り越える(覚りを目指す)ということは、ゲーム(人生)をやめることではありません。覚りは人生の課題であり、ゲームの一部なのですから、ゲーム(人生・世界)を愛することと、エゴを乗り越える(覚りを目指す)ということは少しも矛盾しないのです。そしてゲーム(人生)をトータルに愛するということが大事なのです。
解脱というのは航海における北極星のようなもので、進むベクトルを定めるために目印にすべきものであり、肉体を持ったまま今生で解脱を達成するということは、この次元において本当に北極星を目指してロケットを開発するぐらい無理があります。
初期仏教などで目指している無我の境地はあくまでも仮経験であって、この肉体がある限りは本当の解脱は達成できないようになっているのです。解脱・涅槃はRPGのエンドロールのようなもので、本当に達成してしまったらゲームが終了してしまいます。我々は生きている間には決して解脱を達成できないからこそ、我々は全力で解脱を目指す成長のゲームを楽しませてもらえるのです。
エゴは乗り越えるべき課題であり、「欲望は悪いものですか?」に書いた通り、我々に必要悪なものであって悪そのものではないのです。愛を経験するためには、その対極にあるエゴも我々は経験した上で、それを乗り越えて成長していかなければならないのです。
我々人間はエゴ(欲望)なく生きることはできません。食欲も睡眠欲も完全になくなったら生きていけませんし、欲望とは広義では「何かを望むこと」であって、解脱を目指すというのも一つの欲望と言えなくはないのです。
ですから欲求を満たすということ自体は別に悪いことではありませんし、それを楽しみ愛することは決して神仏の意に反したものではなく、本来仏教は欲望を否定するものではないのです。
なくすべきは欲望ではなく執着の方であり、この世の物質や権利・権力・権威や名声などに捉われず、自分の欲求より他人の欲求を少しだけ優先して満たしてあげることが大事なのです。そこに愛があるのですから。
人間というのは人を幸せにする(愛する)ことでしか幸せになれないように作られています。もし人間に欲望がない(何も望まない)のであれば、人間は他人を幸せにはできませんし、幸せにもなれません。それでは愛が生じ得ませんからね。
ペットの猫だって、ご飯を欲しがってくれて美味しく食べてくれて懐いてくれるから愛し合えるのであり、食欲がゼロの猫では愛は生じ得ません。人間も同じで、何も望まない人は他者を必要としませんから、愛は生じ得ないのです。
だから人の欲求を満たして相手に喜んでもらうことで自分が幸せを感じ、人に欲求を満たしてもらったら心から喜んで相手を幸せにすれば良いのです。それが愛なのですから。
仏教ではよく「人は1mほどの長い箸を持っていて、天国ではお互いにその長い箸で食べ物を食べさせあってみんなが幸せで、地獄ではお互いその長い箸で自分の口に入れようとして食べれずみんなが飢えて不幸になっている」というような例えが使われるのですが、我々の世界はまさにそのようになっているのです。
この世のすべての存在はフラクタルに作られており、六道輪廻は我々の心の中にもあるのです。それは心のコンパスのようなもので、その針がどの世界を向いているかで、自分がその後どの道を進むのかが決まるのです。
>創造主は涅槃や解脱はしないのでしょうか?永遠に苦楽のゲームを作って愛するのでしょうか?誰も居なくて孤独、という感情も全知全能であれば、作らない訳には行かないのでしょうか?
創造主についてここで説明しても読んでいただける文量に収まりようがないので誤解されるであろうことを承知で簡潔に説明しますが、創造主は全知全能であり、それがとてつもなく退屈だからこそこの世界を創り、創造主としての記憶をわざと失い人間として経験を積んでいるのです。そしていわば創造主としての意識を取り戻すこと(ワンネスに目覚める事)が解脱なのです。
しかし冒頭に書いた通り、我々は生きている間に課題であるエゴを完全になくすことはできません。分離意識の核はエゴ(自己保存本能)であり、愛によってそれを乗り越えるところに愛・物語・存在意義が生じるのであり、それが完全になくなって完全にワンネス(創造主)に戻ったら、他人が存在しなくなって愛・物語・存在意義などすべてが生じなくなってしまいます。だから生きている間に完全な解脱(創造主意識の回復・ワンネスの達成)はできないようになっていて、だからこそ我々は全力で解脱を目指して成長を続けることができるのです。
バラバラになった磁石のような我々が愛(引力)によってエゴ(反発力)を乗り越え、個性を保ちながらまた数珠つなぎに一つになることを目指すのがこの人生というRPG(ラブストーリー)のシナリオの核なのです。そしてそれは流れる砂絵の如く永遠に繰り返されるのです。(冒頭でゲームを止めることはできないと書いたのはそういう意味です)
「誰もいなくて孤独」という感情も、創造主が分け御霊としてこの世界を経験する事で生み出された感情であり、本当は創造主以外の存在というのは存在していないのです。それを創造主は元々孤独だなどとは感じていませんでしたが、分け御霊という存在・経験のおかげでそれを感じられるようになったのです。創造主はあらゆる感情を経験するために分け御霊としてこの世に生まれてきているのであり、それが我々という存在なのです。
>正義=悪(悪が必要だから)的な正義に否定的な話を聞きました。(”正義”の危険性は伝わりましたけど)しかし光は闇があって初めて存在出来るし、愛や成長や価値の物語も、苦しみや負の面があって初めて価値として存在出来るなら、愛や成長の物語=悪や苦しみという事にもなって、であれば解脱するのも一興と言う事になりませんか、正義との違いはどうでしょう。
やはり僕の伝えたいことの主旨が全く伝わってないみたいですが、あなたの言う通り基本的に全ては陰陽二元的に作られており、愛を経験的に知るためには、愛ではないもの(エゴ・正義=悪)も経験する必要があるのです。成長を知るためには怠惰・堕落を、価値(愛)を知るためには価値のないもの(物質主義)を経験する必要があり、本当に価値があるのは「経験を通して知ること」なのです。
「愛」を始め、どんなに素晴らしい概念も経験なしには言葉に過ぎません。真理に価値があるのではなく、経験が真理を価値ならしめるのです。いきなり答えを教えられるクイズ番組には何の価値もありません。我々はネガティブな経験も含めて、人生という経験の物語をトータルに愛し、それを与えてくれている創造主に感謝すべきなのです。
本当は「創造主=存在のすべて」自体が愛一元であり愛そのものなのですが、愛の価値を知るためには愛ではない存在を仮想的に作り出して経験する必要があったのです。そして僕らはこのすべてが二元的に存在する世界を愛一元にしていくところに経験(物語)があり、物語が生まれ、価値が生じるのです。
正義とはエゴであり、愛とは対極にある概念です。自分が正義であると思うためには悪という概念を必要とし、必然的に悪を批判し攻撃しなくてはなりません。しかし人間は自分を正しいと正当化する本能があり、相手にも相手の正義があるので、必ず正義は衝突を生みます。だから我々は常に正義より愛を優先させなければならないのです。そしてそれがワンネス(愛一元)への道なのです。
もし答え(真理・愛・幸せ)を目指さず、何でも価値を相対化して「答えなどなくていい・幸せにならなくていい・成長努力をせず怠惰に陥ってもいい・欲望に溺れ堕落してもいい・保身に走り臆病になってその不安を伝染してもいい・正義心(エゴ)で誰かを悪者にして叩いてもいい」などという感じで何でもありのニヒリズムに陥るなら、人生というクイズ番組・RPGが面白くなるはずがないのです。あくまで答え(真理・愛・幸せ)を目指すところに意味(存在意義・成長・価値)が生じるのです。
というわけで、あなたがテーラワーダ仏教・瞑想などを通じて無我の境地を経験されることはとても素晴らしいことだと思いますが、自分や他人のエゴを否定するのではなく、執着を捨てて出会った人を無条件で愛し、自分の欲求より相手の欲求を少しだけ優先できるような、愛のある優しい人になって下さい。そして人生という与えられた経験の機会をトータルに愛して下さい。僕もそうあるように日々努力しています。
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