2025年6月18日水曜日

世界の救い方

【質問】 30代前半・女性 ペンネーム:Tipoo 
     職業:ピアノ・絵画講師 、アーティスト、フリースクールスタッフ
             アヤワスカチャレンジャー

真也さん、こんにちは。

エゴによる悩み苦しみはかなり訂正されてきたんですが、今1つだけ願いがあります。それは、悟り(一瞥体験でも)を広げる事で人の認識を変え、助けたいのです。(誤解を恐れずに言えば、地球が愛の星になればと思っています)

私は元々、大いなるものなんて信じてなかったのですが、アヤワスカで認識が変わりました。他人の言葉や、神秘的な絵などを見て信じられる人は良いのですが、この身で決定的な体験をしないと分からない私のようなタイプも多くいると思います。

特に、エゴで苦しんで、世界が嫌になってしまった人に選択肢として提示できたらと思っています。例えば年に数ヶ月、儀式のお手伝いとして関わるのもいいし(国外になりますが)YouTubeかSNSでアヤワスカやその後の考えを広めるのもありかな?と思っています。

さて、この願い、大丈夫でしょうか?これさえも自分の無明から来ていないかと、たまに思います。日本で今やっている仕事をそのまま続けるだけでも周りを一時、笑顔に出来ますが、果たしてこれで良いのだろうかと、よぎります。悟りだけが根本的な救いなのではと、思ってしまいます。

何かアドバイスあればお願いいたします⋯! 

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【回答】
ご質問どうもありがとうございます。素晴らしいご質問で感動しています。回答が遅くなって申し訳ございません。あなたがエゴによる無明から愛に目覚め、心から世界を救いたいと思うようになって下さったこと、同志としてとても嬉しく思います。

毎回、説教臭くならずにアドバイスを送るっていうのはとても難しいことなのですが、質問箱は常に自分自身に言い聞かせるようにして書いています。あなたなら誤解なく受け取って下さると信じて回答させていただきますね。メシアとして目覚めてかけている同志たちのためにも。 

僕も目覚めてしばらくはとても焦っていました。考え方を変えるだけでこんなにも幸せになれるのに、この考えが世界中に広がればきっとみんなが救われるはずなのに、なぜこんなにも伝わらないものなのか?と。

しかし焦りは禁物です。時間(人生)というものは我々に成長を楽しませるために創造主が与えてくれているものであり、焦るとせっかく与えられた時間(人生)の楽しみ・幸せを目減りさせてしまうことになってしまいますので。世界救済というのは「今生で完全達成できなければ意味がない」というものではなく、あくまでそれを目指すベクトルで生きる我々の人生経験(物語・芸術)に価値があるのです。


<信心(愛)の大切さ>
僕らには創造主からそれぞれに与えられた役割とシナリオがあって、それぞれに役割・シナリオを全うすることによって、いずれはみんなが救われる全体シナリオになっているということが、この人生というRPGが創られた時点で決まっているのです。

それなのに「焦る」ということはその創造主を信用せず「結局、この人生(この世界)は救われないのでは?」「この人生(世界)を意地悪で創ったのでは?」と疑っている(与えられたものに感謝していない)ということになり、それは己のカルマを悪化させることになってしまうのです。

世界を救うために一番大事なことは、己の信心を強くすることです。この世界は何もかも創造主が創ったものであり、その意思と掛け違いがあっては世界を救うことなどできません。「感応道交」という仏教用語があるのですが、己の意思と天と意思が通じ合い、己が天の意思に合った生き方をすることが、ひいてはみんながご利益を受け取り(哀愍納受)、みんなが救われることになるのです。

他人(世界)を救おうと思うこと自体はとても尊いことですが、それ以前に大事なことは、まず与えられているものの価値に気づいて心から感謝し、与えられているものをみんなと分かち合い、そして何より創造主を信頼することなのです。聖書のヨブ記のように、どれだけ自分や他人に困難が与えられていても、です。それは信心(愛)を試されているのだと思って下さい。我々は創造主の愛なしには一秒たりとも存在できないのです。

<2つの救い方> 
人生というのはまさにRPGであり、多くの人がまだプレイヤー(主人公)として目覚めていませんが、プレイヤー(主人公)には「世界を救うという使命」があるのです。ただしその使命の果たし方(世界の救い方)には2種類あるんですね。

①自分の個性・才能を生かした救い方(自分ならでは)
②日々の愛の実践による救い方(普遍的・万人に共通)

もちろん両方が大切なんですけど、もし②だけしかなければ、自分という存在が個性・才能を与えられて生まれて来た意味がありません。だから基本的には①の救い方のほうを優先しなければならないのです。あなたは類稀な芸術の才能を与えられているのですから、基本的にはそれを活かした救い方を優先すべきであるように僕は思うわけです。※実際には常にケースバイケースで、緊急で家族や最愛の人を救わなければならない時などは②を優先すべきかと思いますが。

アヤワスカによって友人を救おうとすることも素晴らしいことかと思いますが、それは②の救い方になります。アヤワスカというのはあなたや誰かの個性・才能ではないのですからね。あなたほどの芸術の才能が与えられている人が、①の救い方を年に数か月も犠牲にして②の救い方をするというのは、僕的にはちょっと違う気がします。もちろん世界の救い方は究極は主人公であるあなた自身が決めることですが。 

<あなたの才能の尊さと、創造主の意図>
>日本で今やっている仕事をそのまま続けるだけでも周りを一時、笑顔に出来ますが、果たしてこれで良いのだろうかと、よぎります。

そのお気持ち、とてもよくわかります。

「周りの人を一時笑顔にできる」ということだけでもとても尊いことです。ただもしあなたが自分の才能の価値をその程度だとものだと認識しているのなら、それはとんでもない過小評価だと思います。 

あなたが空(概念世界)の存在たち(神仏など)をこの次元に降ろし(具現化し)、それぞれの存在意義(使命)を存分に果たさせてあげることこそが、この世界の物語を豊かにしつつ、最終的にはみんなを救いに導くのです。そんなことができる素敵で偉大な才能が、あなたには与えられているのです。 

世界救済というのは、(神仏を含めて)みんながそれぞれに使命を果たし、自分の存在意義を実感する形でなければ、果たすことができないように世界は創られているのです。どうか日々信心を強くして、たくさんの神話・宗教を学び、その姿をこの次元に降ろして彼らにもある「世界を救う」という使命(存在意義)を果たさせて下さい。それは友人をアヤワスカに導くこと(あなたでなくてもできること)よりもずっと偉大で大切なことなのです。

人生は映画のようでもあり、僕ら主人公は自由に演じることが許されているのですが、それでも監督(創造主)にはきちんと意図があって用意しているシナリオがあるのです。それを汲み取りながら生きた方が、監督(創造主)の愛をより多く受け取ることができ、より素敵な物語にしていけくことができるのです。

もちろん僕も創造主の意図が完全にわかるわけではなく、そっちゅう取り違えをして失敗します(だから面白いのです)。創造主の意図は直接的に創造主から教えられるものではなく、主人公である自分にはそれを汲み取る自由が与えられているのであり、自分で解釈する以外にないのです。
 
ただ創造主の意図を推測するのに重要なヒントがあります。創造主というのは全知全能であるがゆえに直接的には経験をすることができない(失敗・過ちを犯すことができない)存在なのです。だからこそ創造主は我々人間や神仏などとして経験を積んでいるのです。そうすることでそれぞれの立場から個性ある存在として「存在意義」を感じようとしているのです。そして創造主本体は全知全能ゆえに想像=創造を広げられないからこそ、我々に無明と想像力とを与えてくれているのです。それを存分に発揮させるために創造主は我々に対して決して常に答えを一つに限定せず、自由にしてくれているのです。

ならば我々は人生という「経験」と「想像=創造」の機会を大事にすべきですよね?そして自分が本当の意味で「存在意義」を実感するためには、自分個人に与えられたシナリオを全うするだけでなく、自分に関わるみんなも与えられた「シナリオ・使命」を全うして「存在意義」を実感できるように導かなければならないのです。それはつまり出会った人のカルマを他人事だと思わずに、愛をもって一緒に乗り越えて行くってことです。

わかりますか?この人生というRPGの世界というのは、あなた個人だけではなく、それぞれの存在がみんなそれぞれに個性・才能が与えられていて、その存在意義を果たす(シナリオ・使命を全うする)ことによってみんなが救われる仕組みになっているのです。カルマの良化法に書いた通り、カルマ(シナリオ)は自分を中心として一筆書きのようにひとつながりだということを忘れないで下さい。全てが一つ(ワンネス)なんですから、カルマ(シナリオ)もとことん辿ればひとつながりになっていることは自明なのです。

あなたは世界の主人公です。しかしみんなにもそれぞれが主人公として与えられている世界があり、みんなに「世界を救う」という使命があるのです(殆どの人がそれを自覚せずNPCやってますが)。自分も他人もみんなそういう創造主の代理の主人公なのですから、あなたが前述の①より②を重んじることは、他人の「存在意義」を奪うことにつながり、それは創造主の意図(シナリオ)に反すること(越権行為)になってしまうのです。そしてそれは創造主視点で見た場合、せっかく与えられた①の使命・存在意義・存在価値をあなた自身が軽くみているということになってしまうのです。
 
あなたはアヤワスカで見た世界が、あなたの想像力で作ったものだと思いますか?違いますね?ではあなたの作品のアイデア・イメージというのは果たしてあなたがゼロから生み出したものでしょうか?違いますね。全ては創造主から概念次元(アカシックレコード)を通じてインスピレーションという形で与えられているものなのです。しかしそれをこの世界に具現化できる能力というのは、みんなに与えられているわけではありません。
 
もし僕があなたなら、世界の宗教・神話についてより広く深く学び、イマジネーションを広げて作品にしていくと思います。それが救いにつながるということを、あなたはまだ理解していないのでしょう。神仏というのは我々に知られず、その使命を果たせないのなら、存在意義はないのです。あなたが神仏を知り、信じ、祈り、イメージとしてこの世界に顕現させ使命を果たせられるということは、創造主とその分身である神仏に存在意義を与える尊い才能(使命)なのです。
 
いつも言っているように、「与えられたものの価値に気づいて感謝していない人にもっとあたえたいと思う人はいない」という原理でこの世界は創られていて、価値がわからない・感謝しない人間は、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値に気づかされるような悲しい人生になってしまうのが定めなのです。どうか自分の才能・使命を当たり前のものだと思わずに、その価値に気づき、感謝し、フルに生かして活躍して下さいね。
 
 
<救いへの導き方>
>さて、この願い、大丈夫でしょうか?これさえも自分の無明から来ていないかと、たまに思います。
あなたがそのような観点で自分を見ることができるというのは、とても尊いことだと思います。 
 
僕もみんながアヤワスカを飲んだら世界は救われるのではないかと考えていた時期がありましたが、アヤワスカを飲めば誰でも良い方向に導かれるというわけではありません。だからこそガイドが大切なのですが(それで僕はやっているわけですが)あなたにそれをする使命があるかどうかは僕にはわかりません。

ただあなたが友人を(本人が望んでいないのに)無理にアヤワスカに導くという救い方で頑張らなくても、アヤワスカが必要な人には必要な時にアヤワスカの神が導いてくれるのです。そしてそれを信じることが信心なのです(だから僕も無理に他人に勧めたりはしません)。

友人がかつての自分と同じようにエゴに苦しんでいるのを見て、もどかしい気持ちは僕も同じなのでよくよくわかるのですが、あなたの友人にも創造主から用意された人生のシナリオがあり、「己のエゴで苦しむプロセス」も必要だから与えられているのです。

人間はみんなが人生というゲームのプレイヤー(主人公)で、みんな自分なりに失敗もして試行錯誤して納得しながら前に進みたい生き物なのであり、脇から答えを教えられると無意識に反発してしまうようにできているのですね。 

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ピアノの指導などはまさにそうかと思いますが、相手に答えを教えることよりも楽しさに気づかせることの方がもっと大事なのです。やる気にさえなれば、本人が自分で練習して勝手にうまくなっていくのですから。悟りもそれと同じなのです。まずは自分が心から楽しみながら日々悟りを実践しているのでなければ、他人にその楽しさを覚らせてやる気にさせることなどできないのです。

だからあまり焦って無理に他人を覚らせようとせず、自分がまず覚りを進め、それを実践し、夢を持って生き生きと幸せに生きている背中を見せることで「どうやったらあなたみたいに幸せになれるのか」と相手側から自発的に教えを求められるぐらいになることが大切です。逆に聞く気になっていない人にいくら伝えようとしてもそれは無理なのです。あくまでも主人公は自分なのであって、そういう自分の覚りの過程を飛ばして「相手側をアヤワスカで悟らせよう」とすることは(善意であっても)創造主視点から見れば怠慢なのです。相手を変えようとしても変わりませんが、主人公である自分が変わればすべてが変わるように世界は創られているのです。

「メシア救世三原則」
1.指摘せず気づかせる
 (傷つけない)
2.教えず覚らせる
 (例え話などでヒントを与える・背中で示す)
3.自らの学びとする
 (相手のカルマは自分のカルマの鏡・相手を変えようとせず自分を変える)

あまり無理に相手を救おう(相手のコントローラーを奪おう)とするのではなく、相手の存在を心から承認することで、自ら課題(カルマ)に立ち向かって行く心の元気を与えることが救いの本質です。そのやり方は基本的に二つだけです。


⭐相手の自尊心を高め、自ら前に進む勇気と元気を与える方法

①心からの笑顔で挨拶する

②話を否定せず(ジャッジせず)に同情・共感的に聞く

この点については長くなるのでカルマの良化法などをご参考下さい。

 

>YouTubeかSNSでアヤワスカやその後の考えを広めるのもありかな?と思っています。

インターネットを使って「自分がどうして幸せになれているのか」を伝えるのはとても良いことだと思います。きっとあなたの才能も活かされることでしょう。

ただ忘れてはならないことは、あなたは絵画と音楽(非言語)のアーティストであって、思いを言葉で器用に説明できるようになることよりも、芸術を通じて伝えることの方がより大事なんじゃないかと僕は思います。どうかその「言葉ではうまく伝わらないもどかしさ」をエネルギーに変えて作品にぶつけて下さいね。それは僕や他の多くの人にはできないことなのですから。


<愛の無条件化=世界救済>
世界を救うためには己の愛を無条件化していくベクトルで成長していかなければなりません。
それこそが我々がいつかワンネスへと還る道だからです。そして世界の問題は究極「愛の不足」が原因であり、逆に言えば全ての問題の解決策は愛なのです。

 愛」とは何か?恋との違いや愛を育む6つの考え方、名言特集を紹介

しかし人には好き嫌いで世界を二分することで「それをする主体者としての自分(自我)を確認したい(輪郭を保ちたい)」という隠れた強い欲求が与えられているのです。それを意識せずその本能のままに生きてしまうと、不快なものを嫌悪し遠ざけて意識から排除し、興味を持たず・理解しようとせず、好きな人・モノにだけ囲まれて生活しようとしてしまいます。そして自分に都合の良い人・モノだけ愛し、都合の悪い人・モノを愛さないという「愛の条件化」をしてしまうようになるのです。そのような条件付きの愛はエゴなのであり、愛(融和・ワンネス)に反する要素であって、己の人生も世界もネガティブな方向に導いてしまうのです。

普通の人は好きなものに囲まれて好きなことだけして生きるなんてことはできないので、仕事もプライベートも人間関係全体が厳しい修行の場になるのですが、あなたの場合は才能があって、恐らく好きな人・モノにだけ囲まれて生活するということがほとんど実現できてしまっているのが、逆にちょっと厄介なんですね。

自分に都合の良い人・モノだけ愛しても、人生は魂の成長修行にならない(成長しない)のです。この世界に偶然はなく、全ての出会い(人・出来事)が自分にとって必要だから与えられているのであり、創造主が与えてくれた出会いの中で、許し難きを許し、愛し難きを愛することが魂修業なのです。それなのに人間側の意思で意図的に嫌なものを避けようとし過ぎると、大きな弊害(落とし穴)が2つ出てくるのです。

①愛情が条件化(エゴであり、魂の成長とは逆行)の方向に進む(世界救済が遠ざかる)
②好きな人・モノがあまり好きではなくなる(飽きる・嫌いになる・無感動になる)

①については前述の通りなので、②について。 

嫌な人(興味のない人)との出会いも、自分の魂の成長にとって必要だから創造主が与えてくれている出会いなのであり、 それを意図的に排除するということは、人生という映画の監督たる創造主の意図(シナリオ)を無視しているということになるのです。どうか出会った人一人ひとりにもっと関心を持って下さいね。それが愛情を無条件化していくことに繋がるのです。出会った人ひとりひとりに無条件に愛することができるようになれば、それは(まだ出会っていないというだけで)世界中の人を愛していることになるのです。興味がない人・嫌いな人は表面的にテキトーに扱っておけば良いという考えでは、世界に愛が連鎖するわけがありません=救えるわけがありません。全ての出会いは運命であり、相手がどんなに悪役・端役に見えても、それは創造主が「あなたが主人公の物語」にシナリオ上の意味があって、何か大切なことに気づかせるために遣わした尊い共演者なのです。

嫌な人(興味のない人)を避ければ、その役割(悪役・端役)を好きな人が負わなければならなくなり、結果的に好きな人も嫌いになって孤独に陥ることになってしまいます。 

そして好きなものに囲まれ、好きなことだけしていると、段々好きなことでも楽しさを感じられなくなってしまい(感性の鈍化)その価値を感じられなくなり、心から感謝もできなくなってしまうのです。これが最大の弊害(落とし穴)かも知れません。 好きなモノだけで人生を構成しようとすることは、メジャーコードだけで曲を作ろうとするようなもので、そのうち飽きて退屈になっていくことは自明なのです。

悟りというのはワンネスへの融和(愛)のベクトルであり、分離(エゴ)とは逆のベクトルなのです。嫌いなものを分離し排除していくというのは磁石の片極だけを切り落していくようなものであり、どんどん己(世界)を小さくし、好きだったものまで心から楽しめなくなっていくんですね。

そして瞑想などを通じて心を鎮めることを悟りの道だと勘違いしている人が多いですが、それも違います。例えば己の愛が不足しているがゆえに人間関係をうまくやれていない人が、瞑想などで心を鎮めたところで、魂が成長するわけがなく、幸せになれるわけもないのです。それは単に心の針の動きを鈍化させているだけですからね。


実態を伴わない努力に効果はあるか?に書いたように、嫌な事があっても創造主から自分の成長のために与えられた課題なのだとポジティブに解釈して、悪い感情(不協和音)を起こさずに(自分自身とも他人ともぶつからずに)乗り越えていけるようになることが魂成長のための修行なのです。己の心の調律と演奏が上達し、心の針を出来事に合わせて指揮者のタクトのように上手に振れるようになれば、人生をオーケストラのように楽しめるようになります。嫌な人やモノ(都合の悪い・興味のない人やモノ)との出会いも大事にして、まず興味を持ち、許し難きを許し、愛し難きを愛するというベクトルで考えてみて下さい。

人は誰しも臆病に創られていて、傷つかないように人それぞれ様々な形で予防線を築いてしまっているものです。それで愛することより傷つかないことを優先してしまうのですね。それでも出会った相手にもっと興味を持ってみて下さい。興味を持つことが愛の入り口であり、興味がないのに愛している、ということは有り得ません。この世界に偶然はなく、全ての出会い(人・出来事)は意味があって与えられている贈り物(運命)なのですから、出会い(人・出来事)を無条件で愛せるようになっていくことが悟りの道なのです。

そして生まれの格差について(陰謀論)未来に絶望したくなるなどに書いているように、その愛(悟り)の連鎖が、ひいては世界救済に繋がるのです。だからお互い焦らず日々愛を実践して行きましょうね。まず自分自身も目の前の人も許し愛し幸せにできる人間になれるように一歩一歩成長して行きましょう。連鎖反応は倍々ゲームであり、自分と目の前の人を幸せにできるようになれば、あとは勝手にものすごいスピードで広がっていくのです。しかしその連鎖反応の起点である主人公の自分がブレていたら、それは決して広がらないのです。

人生はエゴを乗り越えて愛を発揮する修行なのであり、もちろんそれは僕にとっても同じで、日々戦いです。世界の本質はワンネス(愛)であって、分離意識を乗り越えないことには、世界は救われるわけがないのです。全ては愛によって創造されているのであり、好き嫌いを乗り越えて存在そのものに感謝し、尊敬し、許す(心で和解する)ことです。それが愛するということです。愛は相手を自由にするものであり、離れていく人を無理に追う必要はありません。ただ悟り(世界救済)というのは愛を無条件化する方向にベクトルが向いていなければならないのです。誰でも自信満々になれる方法に書いた通り、自分があくまでも愛し抜く覚悟さえ持てれば、相手から嫌われ傷つけられることなど恐れる必要はないのです。

それでは、長くなりましたが、あなたの素敵な覚りと幸せを心からお祈り致しております。


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