2025年3月25日火曜日

筋トレ(モチベ維持)について

【質問】30代前半・男性 ペンネーム:ユユ蔵

こんにちは。

以前、ネドじゅんさんについての質問にご回答下さりありがとうございました!あれからまた真也さんのノートと質問箱を日々読み漁り、自己の探求と無条件に周りを愛し続ける事を実践しております。なかなか思うようにはいきませんが清々しい気分で毎日過ごせています!ありがとうございます😌

今回は質問というか、雑談というか…困っている訳ではないのでお手暇の際に、よければご回答頂ければと思います。

筋トレについてなのですが…僕は7年ほど前から自宅トレーニングを開始し、今ではたまに初対面の方に「何かスポーツされてます?」と聞かれる程度には身体が大きくなっているようです。

ですが去年鎖骨を骨折し、約1年(現在も)トレーニングが出来ない状態で、たまに風呂上がりなどで身体を見ると確実に細くなっており少しがっかりしてしまいます。それに反して身体は軽く、自分の思い通りに動くというか…重い荷物を下ろした時の様な身軽さを感じております。

また、メンタル面でも筋トレを続けている時は日常的に短気とまではいきませんが、常に何かに追われる様な感覚でせかせかしていて何かとイラッとくることが多かった気がします。

現在はそういった感覚になることは無く、基本的に気分や感情の起伏もそれほどなく安定していますが、なんとなくネガティブな感情というか、未来や過去の出来事を考え思い悩む時間が増えました。

真也さんが柔術をされている様に、僕は幼少期から高校まで少林寺拳法を習っていてそこで「心技体」を習いました。今思えば「三位一体」に通ずるモノがありそうな気もします。

ネットで調べてみると筋トレはメンタルに良いとか、思考もポジティブで行動的になる等の効果はあるらしく、実際それは僕の体験として確実に実感しましたが、お釈迦様や神仏に仕える僧侶さん達で筋肉ムキムキだったという話はあまり聞かない様に感じます。織田信長の時代の僧侶達は自分達や村の皆を守る為に鍛え上げていた話はあるようですが…

スピリチュアルや霊性の観点から見た「筋トレ」という行動についての真也さんのお考えを聞きたくご連絡させて頂きました。よろしくお願いします😌

【回答】
ご質問有難うございます。そしてnoteや質問箱をご愛読いただいて、実践に繋げていただいていてありがとうございます。

さて、「トレーニングをする意味(理由・目的)は?(心身の健康や悟りに必須のものなのか?)」というご質問だと思いますが、あなたが本当に聞きたいことは「運動するモチベーションを維持する方法」であって、それが維持できなくなってるからこそ、やる意味(理由・目的)を探しているのでしょう。そのお気持ちはとてもよくわかります。

ただ僕は純粋にトレーニングが好きだから続けているのであって、健康のためとか悟りのためとかムキムキになるためとか目的を考えてやっているわけではありません。副次的に健康や悟りに繋がっていて筋肉質にもなっている面はあるかと思いますが、それらが目的ではありません。


でももしあなたがそう聞いて、僕が「トレーニングが大好きで、意図せずともモチベーションが体の底から湧き上がって来て、毎日やる気満々でガンガン鍛えている」などと思っているのなら、それは大きな誤解です。僕らの魂が同源・同一であるということを忘れないで下さいね。基本は同じなのです。毎日がモチベーション維持の戦いです。もし誰かがそれを余裕でやってるなどと思うのなら、それは他人の気持ちに対して想像力が欠如していると思います。

僕の若い頃は自尊心に飢えていて、試合で勝って自分の強さを示し、他者評価を得て自尊心を満たす、みたいな単純な(明確で強い)動機で鍛えていました。子供の頃からバカにされたりいじめられりしてきた怨念みたいなものもあったと思います。当時から精神を病んでいたので練習に身が入らなくなることも多くて何度もブランクがあったのですが、その割には大会で何度も優勝し、その(狭い)界隈では有名になるほど強くなることができました。

ただ僕は教えるより教わる方が好きなので、今はその自分の得意な競技ではなく、30歳から始めた柔術を続けています(目覚めるまで鬱で32~44歳の間は殆ど運動すらしていませんでしたが)。年齢と共にどんどん疲労が抜けにくくなって、練習前は「ああ、今日は行きたくないな」って思う日の方が多いです。健康などころか毎日筋肉痛で、ケガで痛い所も常にあります。そしていくら「他人との比較は気にしない」と思っていても、自分は年齢的に目に見えて伸びるなどということはなく、強い選手からはボコボコにされ、伸び盛りの若い選手たちからはどんどん抜かれたりして「こんなことしてて何になるんだろう?」って自問してしまうことも多々ありますよ。

でも練習が終った後は「やっぱり来て良かった」と毎回思います。そしてそういう「苦しみを能動的に乗り越えて心身共に成長して行く」っていう部分も含めて好きなんですね。外で同年代の人と会ったりすると、心身共に若さ・強さに大きな違いが感じられるので、「続けてて良かったな」と思わされます。

苦労というのは放っておいても与えられるものなので、どっちみち苦労するなら受動的に受けるより能動的に(自分で選択して)受ける方が、自分で楽しみながら成長できますし、かえってラクなんですね。

僕は強くなるためではなく、弱くなりたくなくて鍛えているって感じですね。歳をとるほど成長よりも衰えのスピードの方が早くなってきますし、疲労やケガの回復もどんどん遅くなって蓄積していってしまいます。だから体のケアの重要性が増しますし、練習量も若い時よりずっと少ない中で、その割合も体のケアや技術練習に充てる時間が多く、実践練習は少なめですし、ケガしないよう・疲れ過ぎないよう・加減して練習しています。そうしないと続けられなくなるので。

例えば今が全盛期のプロスポーツ選手は、元々その競技が本当に好きで、才能があって、一緒に戦う仲間と素晴らしい練習環境があり、競い合うライバルがいて、たくさん応援してくれる人がいて、実力がアップすればその分成績が上がって人気とお金が稼げて応援してくれる人達も喜んでくれるという環境にいて、それでモチベーションを維持して努力できているわけです。

だから「モチベーションの維持」に限定して言えば、たいした才能がないアマチュアで、年齢もとっくに全盛期を過ぎていて、体を鍛えたところでほとんど誰からも注目も応援もされず、異性にモテて良い思いができるってわけでもなく、例え競技に出たとしてもなかなか勝てるわけでもなく、勝ったとしてもたくさんの人から喜ばれてチヤホヤされてお金が稼げる舞台でもなく、年齢でどんどん体が衰えていく中で、仕事など他の事と両立しながら時間を捻出して、楽しみながら黙々とトレーニングを続けている人の方が凄いのです。それは神の視座から見れば、ある意味で人気のプロスポーツ選手の努力より尊いことをしているのです。かつてトッププロだった偉大なスポーツ選手たちでも引退したら運動すらしなくなってマラドーナみたいにブクブク太るような人が多いですしね。それだけ我々は難易度が高いことにチャレンジしているってことです。誰から評価されなくても自分で自分を評価しながら努力できるってとても尊いことなんですよ。


>去年鎖骨を骨折し、約1年(現在も)トレーニングが出来ない状態で
>メンタル面でも筋トレを続けている時は日常的に短気とまではいきませんが、常に何かに追われる様な感覚でせかせかしていて何かとイラッとくることが多かった気がします。

それはきっとあなたが己の自尊心を求めて焦燥感に駆られながら筋トレをしていたからであって、筋トレそのものが好きなわけではないからでしょう。筋トレを続けたくなくなったがために、自身の精神的な問題を筋トレのせいにしてしまっていませんか?


>それに反して身体は軽く、自分の思い通りに動くというか…重い荷物を下ろした時の様な身軽さを感じております。

トレーニング期間中は疲れが蓄積しているので、トレーニングの効果を感じるのがトレーニングを休んでいる間になるのは当たり前です。そしてしばらくトレーニングを止めていればその効果がどんどん薄れていくのも当たり前です。

ただ単に筋トレするだけなんてつまらなくないですか?あなたはきっと深層心理でそれを止めたかったからこそ、ケガをしたのではないかと思います。そしてほぼ素人の方が、ほぼ何となくイメージ(思い込み・我流)だけで、誰にも習わず独りぼっちで鍛えていれば、ケガをしやすくなるのも当たり前の事ではないかと思います。まして焦燥感に駆られるようにしてハードにやっていたのであれば。


「運動を全くしない」というのが心身にとって不健康なのはほぼ確実でしょう。しかし「運動さえすれば必ず心身共に健康になる」かというと、そういうわけでは全くありません。やり方次第です。当たり前です。なので「筋トレ(運動)することの良し悪し」など一括りには語れません。そのやり方というのも人によって個性があって合う合わないががめちゃくちゃあるのですしね。そして自分に合わないやり方をすればかえって不健康になってしまうでしょう。そして「別に運動は体に良いわけではない」などと考えて運動を全くしなければ確実に不健康になります。


だいたい何事も、それをする意味(理由)を「好き(楽しい)」以外に求めてしまうと、それが「目的化」してしまい、それが満たされないと「何でこんなことしてるんだろう?」みたいに考えて必然的にやる気を失うことになってしまうんですね。やる意味(理由)などは、人生を満足いくまでやり切った後で見えて来るものなのではないでしょうか?

僕は日々の練習で、「今日はこの技を覚えよう」とか、「この黒帯の人を極めてやろう」とか、「大会にチャレンジしてみよう」とか、ごく短期的には「目標」を持ちますが、それはあくまでその日一日を楽しむためであって、「目的化」はしないようにしています。


多くの人が気づいていませんが、この「目的化」というのはものすごい害悪なんですね。それは結果を求めることにつながり、結果が得られないと不満を抱いたりやる気を失ったりすることになるのですから。

「結果を求める」ということは、自分の努力(嫌なことを我慢する)に対して「見返りを求める」ことなんです。それは全てを与えてくれている創造主に対して「あれをするからこれを下さい」と交換条件を出しているということであり、それはとても不遜なことなのです。

「努力できること」自体が、とてもありがたいことなのだと理解し、心から感謝して愛し「やらせていただいている」と考えながらやることが大事です。そうすればどんな結果も「今の自分にとってこれがベストだから与えられたのだ」と理解して心から感謝しながら受け取って愛することができるはずです。


だから「何のために(意味・理由・目的)」なんて考えず、「ただ自分のできることに感謝し愛しながらやる」ことが大事なんだと思います。これはトレーニングに限らず、全てにおいてです。

考えてみて下さい。見返りを求めて人間関係を築く人は、見返りがないと人間関係が続けられませんし、そもそもそういう人は嫌われますし、実利で築いた人間関係は実利がなくなれば縁が切れるのは当然です。恋愛だって例えば将来の安定とか世間体などという目的を持ってしまうと、純粋に好きな気持ちを維持できず、目的が満たされないと「なんで付き合ってんだろ?」別れることになりますから。仕事も好きじゃないのにお金のためにやるのは苦しいことですし、お金にならなくなったらどんどん嫌になって辞めたくくなるでしょう。みんな資本主義に心まで毒されて損得勘定で考えるのが当たり前になっていますが、何の見返りも求めず「人のために何かできる」ってこと自体を愛することが大事なのです。

僕がいつも言っていることですが、与えられたものに感謝できない人間にもっと良いものを与えたいとは思わないのは創造主も同じであり、人生・世界はそのような原理で創られているのです。


与えられているものの価値に気づかず感謝していない人間は、既に与えられているものまではぎ取られ続け、失うことでその価値を知らされる悲惨な人生になってしまうのが必然なのです。努力できること・人のために何かできることも、創造主からの贈り物ですからね。


>今ではたまに初対面の方に「何かスポーツされてます?」と聞かれる程度には身体が大きくなっているようです。

もちろん僕も人間の男なので、鍛えた体を人から褒められたりして嬉しいと感じる気持ちはよくわかります。しかし他者評価を得ることで自尊心を満たすのが目的のようになってしまえば(それは他者評価依存症です)、ケガをして休んで急に細くなっただけで虚しく感じられてしまうのは必然だと思います。


もし本当に筋トレが好きだったらケガをしててもできる筋トレはあります。そしてマッスルメモリーという言葉がある通り、ブランクがあっても鍛えればちゃんとすぐに戻るのです。それなのにあなたがケガを理由に筋トレをパッタリと止めてしまっているのは、やはり筋トレそのものは好きではなかったからではないでしょうか?


>ネットで調べてみると筋トレはメンタルに良いとか、思考もポジティブで行動的になる等の効果はあるらしく、実際それは僕の体験として確実に実感しましたが、お釈迦様や神仏に仕える僧侶さん達で筋肉ムキムキだったという話はあまり聞かない様に感じます。

あなたは自分が体験を通して覚ったことより、釈迦やその他の僧侶たちがどうだったか?(伝聞情報)の方を信じるのでしょうか?それでは生まれて来た意味がなくなるのではありませんか?あなたはただ単に運動習慣がケガで途切れてしまって、怠けるのが習慣化してしまい、また筋トレ生活に戻るのが辛くて、やらない言い訳を探しているだけではないでしょうか?

僕は好きでトレーニングをやっているので、釈迦やその他の僧侶たちがトレーニングしてたかどうかなんてどうでも良い話です。人には個性があり、それぞれの悟りの道があるのですし、まして時代背景も全然違う人たちがどうだったかを気にして、僕が自分が好き・良いと思っていることを止めることはありません。止める時があるとしたら、自分で好き・良いと思えなくなった時です。

僕は柔術をみんなに薦めるつもりはありません。前述した通り人には個性があるのですからね。柔術は他の格闘技よりはケガのリスクが少ないのですが、そうは言っても格闘技ですからケガはつきもので、大ケガをしてトレーニングを続けられなくなり、仕事や私生活にも多大な負の影響を及ぼしてしまう人もいます。だからそういう意味でも無責任に他人には薦められないんですね。

それでも柔術の素晴らしいと思うのは、実際に体を合わせて戦うので、自然とコミュニケーションが密になって精神的に安定することです。そういう練習仲間が常にいて、教え合ったり競い合ったり励まし合うことができて、そういう友達に会いたくなりますから、モチベーションを維持しやすいんです。そしてスパー中は常に集中していないとすぐヤラれてしまうので、脳が余計な事を考えず、リフレッシュになるんですね。だから反芻思考傾向の強い人には特に良いのではないかと思います。そして柔術は技術は途方もないほど開発されていてこれからも開発され続けるので、自分の個性に合った技術を見つけて自分で考えながら向上させ続け、色んな個性を持った人たちと競い合う面白さもあります。大会も体重や帯や年齢で細かく分かれてるので同じレベルの者同士で競い合いやすいですし。

僕はただ筋トレするとか、ただ走るとかは、あまりにも退屈過ぎてモチベーションが維持できないんです。そして本当は好きじゃない運動を心身の健康を目的にすると、ある程度心身が健康になったらあとは維持するだけになって何も面白くなくなってしまいます。僕の性格上、発展性がないと維持もできないんです。やはり技術など、何か「年齢で衰えても、歴と共に向上して面白くなっていく要素」がないと、続けるのは難しいと思うんですね。

柔術に限らず「一緒にやる仲間がいる環境に身を置くこと」がモチベーションを上げる最適な方法だと思います。そしてそこでコミュニケーションを大事にすることです。他人の努力を認めてあげると同時に、存在そのものに価値があるのだと「尊敬ある態度」で示すことです。つまり心からの笑顔で存在を承認し、話を否定せずに同情・共感的に聞くこと、です。己の愛のなさゆえに周囲に嫌われ、自分の成長・健康を人から喜ばれないようでは、どんな素晴らしい大会結果を残そうと虚しいだけです。


一人でトレーニングしても、色々教えてくれたりケアしてくれる人がいませんし、どうしてもデタラメな鍛え方をして成長が遅く、ケガもしやすくなります。ただ一人で黙々とトレーニングしていても何のコミュニケーションも生まれませんし、面白くなくてモチベーションが維持できないのはごく当たり前のことだと思います。

あなたには何か運動の習い事ができないような、何か時間的・経済的な理由があるのでしょうか?もしそうでないなら、やはり何か運動の習い事をするのが良いと思います。そうすれば先生や練習仲間からできるだけケガをせずに効率的に鍛えられる方法も教えて貰えるでしょう。「家族との時間を大事にしたい」などの理由で一人で筋トレするにしても、週一ぐらいパーソナル・トレーナーにお願いしてみるのはいかがでしょうか?

決して他者比較・他者評価などをモチベーションにせず、仲間とのコミュニケーションを大事にして、自他の体を十分にケアしながら続けてみて下さいね。

それでは、あなたが何か好きな運動を見つけて、周囲のみんなと楽しく健康的に心身を鍛えながら幸せに導かれることを心よりお祈り申し上げています。

















2025年3月20日木曜日

LSDの後遺症について

【質問】30代・男性 ペンネーム:ビタミンD
こんにちは。突然ですが真也さんに相談したいことがあります。

過去の人間関係(元彼女)のことが、ずっと頭から離れなくて苦しんでいます。

僕は過去に、強い不安やパニックに襲われることがありました。そういうとき、助けを求めても「なんでそうなるの?」「子供みたい」「もう嫌いになった」「帰って」と突き放されました。

でも、相手(元彼女)がパニックになったときは「ちゃんとケアしてほしい」「見捨てないでほしい」と求められました。僕が同じようにしんどくなったときは冷たくされるのに、相手がしんどいときは支えることを求められる――その理不尽さが受け入れられなくて、今でもずっと頭から離れません。

最後には「好きだった気持ちが壊れた」と言われて終わったのですが、僕の中では納得できなくて、何度もその出来事を繰り返し考えてしまいます。そのせいで「僕はクズだ」「何の価値もない」「消えたい」と思うことが増えました。でも、本当は「みんなに優しくしたい」と思っています。振り返ると、自分も防御しすぎて、相手とちゃんと向き合えなかった部分がありました。だから、これからは少しずつでも変わりたいと思っているのですが、どうすればこの苦しさを乗り越えて、人とちゃんと向き合えるようになれるのか分かりません。

現在、この相談について考え続けてしまい、仕事が手につかず、実家で引きこもっている状態です。外出や入浴もできず、毎日朝起きた瞬間から思考のループが始まり、寝るまで止まりません。睡眠中も夢の中でこのことを考えてしまい、心が休まる時間がまったくありません。

今の僕の気持ちを、誰かに聞いてほしくて送らせてもらいました。もし何か思うことがあれば、教えてもらえると嬉しいです。

※後から僕とのメッセージのやりとりで、質問者様は
・元々躁鬱病を患っていること(今は通院しておらず)
・LSDの使用歴があること(躁鬱と憂さを晴らすため・遊び)
・LSD使用のきっかけはシャーマンRという有名詐欺師であること
・元彼女にも勧めて、一緒にLSDを使っていたこと
などを正直に告白してくれました。


【回答】
ご質問ありがとうございます。お気持ち、心よりお察し申し上げます。

この件に限らず、僕は僕に救いを求めて相談してくれる質問者の方を責めることは決してありません。欠点も過ちもない人は存在しませんので「何か落ち度がある人は自業自得だから救わなくて良い」みたいに考えたら、誰のことも救えませんからね。僕に救う使命のある人だけが、僕の元に訪れるのだと信じています。だからどんな悩みでも気軽にご相談下さい。

さて、あなたのその症状は典型的なLSDの後遺症であり、ほぼ統合失調症状態になっているのだと思います。あなたの元々の性格は直接的には関係ありません。そしてそれは元彼女の理不尽さが直接的な原因でもありません。もしあなたの元々の性格がどうだったとしても、もしその元彼女と出会っていなかったとしても、あなたはきっと何かをぐるぐる考え続けて苦しんでいたことでしょう。もう二度とLSDには手を出さないで下さいね。他の幻覚剤にも。


LSDの後遺症である「思考のループ」というのは、まさに目が覚めているはずなのに悪夢の中に閉じ込められるようなものです。その辛さは僕も何度も経験しているのでよくわかります。それは程度の差こそあれ誰にでもあるような「反芻思考(嫌な過去を選択的に何度も思い出して追体験して自分を責めてクヨクヨしたり他人を恨んで怒りを増幅する)」とはレベルの違うものなのです。あれがずっと続いている状態というのはさぞかし辛いことでしょう。

あなたはまず冷静になって、それがLSDの後遺症(悪夢)なのだということを認識して下さい。「これは元々の自分の性格が原因だ」とか「元彼女の理不尽さが原因だ」などと考えないで下さい。

そしてそのように「今の自分の考えは正しい」と考えるのを止めて「今は病んでいてまともな思考能力は無くしている」ということを自分で認めることです。それは夢の中でそれが夢だと気づくぐらい・酔っぱらっている人が酔っぱらっていると自覚するぐらい難しいことです。そして例えそれを自覚してさえも、醒めるまでは普段の思考回路には戻らないのです。

人は誰でも「自己防衛のプライド」があって、どうしても自分で自分を正当化してしまうので、「今の自分の考えは(LSDのせいで)おかしくなっている」などとは認められないものなのですね。しかしLSD以外の原因を探し、その今の自分の考えを「まともである」と正当化しようとすればするほど思考ループの深みにハマってしまうので、まずそれをやめることが肝心なのです。今の思考パターンを続けることでその回路が脳で固定化されるのは非常に良くありません。

人の価値とは?に書いた通り、あなたの価値は存在そのものにあるのであって、あなたの考えが正しいかどうかにあるわけではないのだと知って下さい。そして過去について考えることは止めてください。とにかく思考よりも感覚・感情を大切にすることです。自然や動物に触れたり、散歩程度から運動を始めたり、音楽や工作などの集中力が要るような・気が紛れるような趣味に没頭してみて下さい。

僕も自分で試さないと気が済まない性分のため、1年程LSDを修行目的で使用していましたが、もう既に必要な経験は得られて「LSDとは何か?」ということもよくわかりましたし、あなたのようになっている人たちからもう何件も相談を受けていて、今は完全に反対派です。

かつてLSD使用者を救い・悟りに導く目的でアヤワスカとLSDの違い(※加筆修正中)」という記事を書いたのですが、思ったより反響が大きく、またそれによって使用を抑制するどころか余計に興味を引いてしまった部分があり、余計に「後遺症に苦しむ人たちを救わなければいけない」という因縁を自分で生じさせてしまった責任を強く感じています。だからこの記事が本当にLSD使用者の救い・悟りに繋がるように心から願っています。

あなたの過去の出来事はすべてあなたの悟りの過程として必要だから起きた必然なのであり、あなたなりのベストを尽くした結果なのですから、自分の過去について「何が悪かったのか?どうするべきだったのか?」などと自分一人で思い悩みながら、原因や解決策を探さないで下さい。特に病んでいる状態の時には、決していい考えにはつながりませんから。問題というのは別に解決などしなくても、自分も他人も許す事で乗り越えることができるのです。

だから決して自分を責めてはいけません。同じように元彼女のこと誰も責めてはいけません。まして自分の運命や創造主を責めて恨んでもいけません。誰を責めてもただ自分自身が苦しくなるだけです。あなたが自分や誰を否定しようと、それはそれを創った創造主の否定になるのであり、全部自分自身に返ってくるだけなのです。

あなたの人生RPGに起きることは全て必然であり、クリエイターがあなたの魂の成長のために必要だから与えている経験なのですから、誰のことも責めず、決してネガティブに解釈しないで下さいね。「問題の原因(犯人)探しをして誰かを責めることで思考と感情の整理をつけようとするのを止める(自分の経験を物語として愛する)」ということです。これはLSDとは関係なく、真理です。

そして以下の文章を読むのは、もう少し落ち着いて「思考ループ」が止んでからにして下さい。必ずです。







さて、前述したように、あなたは自分も誰も責めてはいけないのですが、しかしそれと同時に、あなたの人生の主人公はあなたなのですから、結局はあなたが変わらなければ何も変わらないということをあなたは知らなければいけません。「すべての因縁は今の自分を(超時空的に)起点としている」のです。そうでなければ自由意志を与えられた意味がありません。悪い因縁を断ち切ることができるのは主人公たるあなただけなのです。

人生というのは魂の成長プログラムなのであり、あなたが自分の因縁(カルマ・成長課題)を悪化させている理由は、究極的に言うと「自他に対する愛(慈愛・思いやり)の欠如」であり、「存在に対する(創造主への)感謝の欠如」です。

逆に言えば自他の存在に対して慈愛と感謝の心を持ち、生き方を通じてそれを示せるようになれば、あなたの悪夢は終わります。それが魂の成長(人生の目的)なのですから。

僕らはこの仮想現実世界において「自分は孤独ではない」という夢のように素晴らしい経験をさせて貰っているのです。「自分」が存在し、それと同等の「他者」が存在し、愛を経験させて貰っています。そしてまるで「孤独ではない」というのがデフォルトのように錯覚させられて貰っています。基本的にはみんな両親の愛によって生まれ、血縁という強い絆が存在し、周囲に愛されて育つのですからね。もし誰からも愛されていなければ、子供というのは育たないのです。あなたが育っているということ自体が、みんなに愛されてきたという証なのです。

ただそれは「愛」というものを僕らに経験させるため・実感を通じてその価値を知るために「創られた幻想」でもあるのです。本当は僕らは唯一の存在である創造主自身なのであり、絶対的に孤独な存在なのです。つまり本当は「孤独である」方がデフォルトなのです。

我々は創造主意識の分離意識なのであり、本当は絶対的に孤独な存在であることを敢えて忘れさせられ、人生の中で愛を経験させて貰いつつ、それとは相対にある孤独感を創造主と共有し、また「孤独ではない」という経験をさせて貰っていることへのありがたみを理解し、その感謝を通じて、創造主と繋がっているのです。

僕らは「孤独ではない」ということの方を「デフォルト(当たり前)である」と錯覚させられていて、自分がみんなに生かされているということを「当然である」と考えて意識さえできないものなのですが、その傲慢さを乗り越え、感謝できるようになることが魂の成長なのです。

人がLSDによって強い不安・パニックに陥る根源的な理由は「他人というのは全員が自分の鏡のような存在であり、本当は自分が唯一の存在である」という事実に、人間としての心が耐え切れなくなってショートするからなのです。

あなたは「自分と他者が存在することの本当の意義・価値」が全然わかっていないから、創造主がそれを悟らせるために、そのような経験を与えたのでしょう。全ての出会いは自分自身の反映なのであり、自分自身を覚らせるため、そして愛を経験させるために、創造主が派遣している存在なのだと知って、まずはそこに心から感謝することが大事です。

僕ら意識にとって人生を与えられるということは非常に稀なことなのであり、人生を与えられていない意識(霊)たちは常に人生(肉体)を欲しがり、人を被害者意識から自己嫌悪・厭世観に陥れて「そんなに要らないなら貰ってやる」と常に乗っ取りを狙っているのです。だから自他が存在することに感謝のない人間が「自我を手放させる幻覚剤」を使うことはその乗っ取り行為を助長することになり、非常に危険なのです。それは憑依現象(霊障)についてに書いた通りです。

孤独に苦しむ人はみんな「誰も自分を理解してくれない」などと言いますが、当たり前です。何かを言葉で説明をしたぐらいで、自分という存在とその経験・感情とそこから築いた自分の考え方について本当に他人から理解されるぐらいなら、「自分」という「経験主体者」に存在意義はありません。それを本当の意味で理解できるのはあなたと一緒に人生を経験している創造主だけだからこそ、創造主には存在意義があるのです。

孤独との向き合い方に書いた通り、人は孤独感に苛まれていると、まるで「こんなに孤独を感じているのはこの星で自分だけなんじゃないか」みたいな感じに思ってしまうものですが、孤独感というのは人間に平等に与えられているものなのです。もし人間に孤独感が与えられずに、独りぼっちでも幸せになれるように創られていたならば、無理して人付き合いをする必要はなくなり、人間関係から逃げてしまう人ばかりになって、愛も成長も経験できないでしょう。「孤独感」こそが人生という愛と成長の物語を成り立たせているマテリアルなのであり、僕らをつないでいる接着剤なのです。

実際、僕が質問箱・電話相談をやっていても孤独に関する質問・相談はとても多いです。そしてみんな一様にそれをまるで自分だけのことのように思い込んでいます。しかしそれこそが孤独に陥っている根本的な原因なのではないかと思うんですね。

実に多くの人が「誰も私のことを理解してくれない」などと考えて、人付き合いをしていても心を開けずに精神的に引きこもっていて、他人の気持ちを全然理解しようとしないために傷つきやすいくせに平気で他人を傷つけ、他人からも自分の気持ちを理解されず、理解したいとも思われないのでしょう。他人の孤独を心から思いやれるような思いやりに満ちた人から、孤独に関する相談を受けた例がありません。

そういう人たちはきっと他人の孤独など全く眼中になく、孤独そうな人を見ても「この人は嫌な人で自業自得だから仕方がない」とか「この人はきっと孤独に強い人で、自ら孤独を求めているのだろう」などと考えて、自分がその孤独を救おうなどという考えは完全に思考の枠外なのでしょうね。まるで自分だけが救われようとして自ら地獄に落ちる「蜘蛛の糸」のカンダタの如くに。なぜ自分の孤独とばかり向き合って、周囲の人たちの孤独とは向き合おうとしないのでしょうか?

そのように自分の孤独に埋没している人というのは、エゴの卵の殻に閉じこもってそこから出られず、その卵の殻が割れないように自己防衛に必死で、些細なことも悪く受け取っていちいち傷つき、人目ばかり気にして疲れ果て、自尊心を保つ為に誰かを見下したり責めたりして嫌われ、内心自分を責めて罪悪感と劣等感に苛まれ、どんどん独りぼっちになって心を病んでしまうのですね。鬱というのは自分のエゴに埋没することを原因としており、同時にそれを症状(結果)ともしている悪循環構造なのです。かつての僕もまさにそのようでした。

わかりますか?「他人から理解されたい」というのもエゴなのです。「エゴ(欲)とは何か?に書いた通り、エゴはそれ自体が悪いものではないのですから、なくすべきではなく、なくそうと思ってなくせるものでもないのです。エゴを乗り越え続けるその過程にこそ成長があり、愛は生まれるものだからです。

自分が他人から理解されないことを嘆くより、ただただ他人を理解することに努めて下さい。それが愛なのです。そうすることであなたはより自分自身を深く理解し、自分も他人も愛することができるようになるのです。そういう人間こそが他人から理解され、愛されるのです。

愛は無償でなければ意味がありません。創造主は僕らに何も強制・強要せず、完全に自由にして(自主性に任せ)、ただありのままを愛しくれています。何の見返りも求めず、ただ与え続けてくれています。僕らも創造主の子供として、その「愛し方」を「自発的に」見習っていかなければなりません。

「私があなたを理解するので、そのかわりに私を理解して下さい」というのは「私が愛する代わりにあなたも私を愛して下さい」というのと同じであり、相手からの愛を交換条件のようにして強要していることになり、心は何かを強制・強要されると反発するようにできているのですから、反発は必至なのです。

「こいつは俺が辛い時に助けてくれようとしなかったクセに、自分が辛い時ばっかり助けを求めやがって。絶対に助けてなんかやるもんか」などと考えるのはあまりにも愛が欠如していると思います。それで相手からの愛を失って別れに至るのは理不尽ではなく至極当然のことかと思います。どうかあなたが辛い思いをした分だけ、あなたに助けを求めて当たるしかなかった元彼女の辛さをわかってあげて許してあげて下さいね。元彼女があなたを支えられなかったのは、その時は経験がなくてわからなかったのですから仕方がないですし、あなたもその時既に正常な状態ではなかったのですから、そのような愛に欠けた考え方をしてしまったのは致し方のないことなのです。

あなたの症状は本当に典型的であり(同じような状態で苦しんでいる人がたくさんいます)明らかにLSDのせいでおかしくなっているのです。「今の自分はおかしくなっている」と自分で認めることがどれだけ勇気の要ることなのかはよくわかります。きっとあなたは優しい人だからこそ、自分の思考ループや不安やパニックの直接的な原因がLSDだと認めると、元彼女のことを引きずり込んでしまったことへの罪悪感に耐え切れなくなるために、自分の元々の性格がダメだからこうなっているのだと考えたり、罪悪感を元彼女の理不尽さへの怒りに転嫁してたりしているのでしょう。

しかしLSDというのは厳しいもので、その「自己正当化」を許さず、思考ループに陥れて深みにハマらせるのです。だからその「自己正当化」を止めない限り(自他共に許さない限り)その悪夢から出ることができず、良くなりようがないのです。

全ての創造は、創造主が内なる己を知る(内観する)ため・愛を経験するために創造したものであり、「自己正当化」というのは深い内観・許し(愛)に反する意識であって、それに対してLSDはとても厳しいのです。だから深く内観し、自他を許す以外にないのです。

鬱状態の時にあなたがLSDという気分を変えれるものと出会い、そのデメリットを良く知らずに良いものだと思って彼女にも勧めてしまったことは、カルマであり仕方のないことだと僕は思います。全ては運命であり、実際あなたも誰も何も悪くありません。もし僕があなたと同じように鬱まっ盛りだった頃にLSDに出会っていたら、きっと同じ事をしていると思います。欠点も過ちもない人はいませんし、罪を犯さない人間もいません。だからまず自分を許し、元彼女のことも許すことです。許すことが愛です。

あなたは自分を責めて落ち込んでいる場合ではありません。ただ自分が主人公としてその経験から学んで、他人の苦しみに心から同情して許し愛せるように成長し、その悪い因果のループを(愛を悟り・実践することにより)断ち切らなくてはならないのです。強くなって下さいね。

もう他人が自分に何かしてくれる(理解してくれる・辛い時に支えてくれる)などという期待は一切しないことです(もし相手が気持ちを一部でも理解してくれたり、自分に対して何か自発的に良いことをしてくれたら、心から感謝することです)。

そしてただひたすら「自他が存在すること」「人生という経験機会・世界という経験舞台が与えられていること」への感謝を、「出会うすべてをありのままに愛すること(相手が欲するものを与え続けること)」で示し続けることです。それは自分が理解されなくても相手を理解しようと努めることであり、どんな話にも共感・同情を素直に示せるようになることです。

そして何より、信心を持って下さいね。何の宗教でも良いので。何の神様であれ、それは創造主の分身であり、あなたが神仏とその教えに対して尊敬と感謝を示すなら、その存在を通じてあなたをきっと救いに導いてくれますから。

あなたに今まで信心がなかったとしても、それはあなたが悪いからではありませんから、それを神仏や誰かから咎められて救われないなどということはありません。むしろカルマに負けずに改心して信心を持ってくれたことをきっと喜んで迎えてくれて、救いに導いてくれることだと思います。それは聖書の「放蕩息子の譬え」や法華経の「長者窮子の譬え」が証明してくれています。どうか改心して「自発的に」信心を起こして下さい。誰かに強制されたりして信心を起こしても意味がないのです。

混乱が収まるまで「南無妙法蓮華経」を唱えてみて下さい。そして混乱が収まったら般若心経の究極解説をぜひ読んでみて、日々般若心経を唱えてみて下さい。きっとあなたを悪いカルマに引きずり込んでいる霊障が祓われますから。

それでは、あなたがそのようにしてLSDの後遺症である「思考ループ」の地獄から抜け出し、愛(慈愛・尊敬・感謝)に満ちた自分に目覚め、幸せ・悟りに導かれることを、心よりお祈り致しております。

※祈りが伝わりますように、ぜひ僕の読経動画も見てみて下さいね。

2025年3月7日金曜日

孤独との向き合い方

【質問】40代後半 女性 独身
私はもう40代も半ばを過ぎていますが、恋愛経験も乏しく、いまだに独身です。鬱で何もする気が起きず、人付き合いが億劫で仕方がありません。このままずっと死ぬまで独りぼっちなんじゃないかと不安になります。一人で眠る時、呼吸が苦しくなるほどの孤独を感じます。この孤独とどのように向き合って行ったら良いのでしょうか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。お気持ち心よりお察し申し上げます。

孤独感に苛まれている時、まるで「こんなに孤独を感じているのはこの星で自分だけなんじゃないか」みたいな感じに思ってしまうものですが、孤独感というのは人間に平等に与えられているものなのです。もし人間に孤独感が与えられずに、独りぼっちでも幸せになれるように創られていたならば、無理して人付き合いをする必要はなくなり、人間関係から逃げてしまう人ばかりになって、愛も成長も経験できないでしょう。「孤独感」こそが人生という愛と成長の物語を成り立たせているマテリアルなのであり、僕らをつないでいる接着剤なのです。

実際、僕が質問箱・電話相談をやっていても孤独に関する質問・相談はとても多いです。そしてみんな一様にそれをまるで自分だけのことのように思い込んでいます。しかしそれこそが孤独に陥っている根本的な原因なのではないかと思うんですね。

実に多くの人が「誰も私のことを理解してくれない」などと考えて、人付き合いをしていても心を開けずに精神的に引きこもっていて、他人の気持ちを全然理解しようとしないために傷つきやすいくせに平気で他人を傷つけ、他人からも自分の気持ちを理解されず、理解したいとも思われないのでしょう。他人の孤独を心から思いやれるような思いやりに満ちた人から、孤独に関する相談を受けた例がありません。きっと他人の孤独など全く眼中になく、孤独そうな人を見ても「この人は嫌な人で自業自得だから仕方がない」とか「この人はきっと孤独に強い人で、自ら孤独を求めているのだろう」などと考えて、自分がその孤独を救おうなどという考えは完全に思考の枠外なのでしょうね。まるで自分だけが救われようとして自ら地獄に落ちる「蜘蛛の糸」のカンダタの如くに。なぜ自分の孤独とばかリ向き合って、周囲の人たちの孤独とは向き合おうとしないのでしょうか?

そのように自分の孤独に埋没している人というのは、エゴの卵の殻に閉じこもってそこから出られず、その卵の殻が割れないように自己防衛に必死で、些細なことも悪く受け取っていちいち傷つき、人目ばかり気にして疲れ果て、自尊心を保つ為に誰かを見下したり責めたりして嫌われ、内心自分を責めて罪悪感と劣等感に苛まれ、どんどん独りぼっちになって心を病んでしまうのですね。鬱というのは自分のエゴに埋没することを原因としており、同時にそれを症状(結果)ともしている悪循環構造なのです。かつての僕もまさにそのようでした。

孤独感というのは、愛によって癒されるようにはできているものなのですが、食欲と同じようにそれが完全になくなるということはないのです。結婚して子供ができて家庭円満だろうと、仕事の人間関係や友人関係がどんなに良好だろうと、死ぬ時は一人であの世に行くわけですしね。そして他人から完全に自分を理解されるなどということはありえませんし、他人を完全に理解できることもありえませんから。

僕らはこの仮想現実世界において「自分は孤独ではない」という夢のように素晴らしい経験をさせてもらっているのです。「自分」が存在し、それと同等の「他者」が存在し、愛を経験することができます。そしてまるで「孤独ではない」というのがデフォルトのように錯覚させられています。とてもありがたいことに。基本的にはみんな両親の愛によって生まれ、血縁という強い絆が存在し、周囲に愛されて育つのですからね。もし誰からも愛されていなければ、子供というのは育ちません。

しかしそれは「愛」というものを経験させるため・実感を通じてその価値を知るために「創られた幻想」なのです。本当は僕らは唯一の存在である創造主自身なのであり、絶対的に孤独な存在なのです。つまり「孤独である」方がデフォルトなのです。我々は創造主意識の分離意識なのであり、本当は絶対的に孤独な存在であることを敢えて忘れさせられ、人生の中で愛を経験させて貰いつつ、それとは相対にある孤独感を創造主と共有し、また「孤独ではない」という経験をさせて貰っていることへの感謝を通じて、創造主と繋がっているのです。

創造主は我々分離意識の人生経験を通じて愛を実感しようとしているのです。しかし愛を実感するためには、その相対的な概念である孤独を経験的に知る必要があるのです。ただしそれは必要悪のものであって、主目的はあくまで我々と共に経験を通じて愛を実感することにあるのです。

あなたは人類というものが確かに存在し、自分をその社会の中のつまらない脇役の一人だと思っているのでしょう。でもそれは幻想なのです。あなたは創造主の一人娘(息子)なのであり、経験主体者(プレイヤー・主人公)なのであり、他者はみんなあなた自身の反映(NPC)なのです。我々は分離意識と個性を与えられているために「私と他者とは別な存在である」と思わせられているだけなのです。そしてそれは愛を経験的に知るために必要な仕組みなのです。

「見えないものに向かう時 人は誰も孤独」
創造主との関係は誰しも一対一なのです。世界中に何十億人いようと、誰の背中にも隠れることはできないのです。そして人の孤独を思いやることこそが愛です。

自分が本当は究極に孤独な存在なのだとわかると、他者の存在というのは実にありがたいものだとわかって心からの感謝の気持ちが湧きます。人生はRPGであり、クリエイターからのメッセージは常に他者・出来事との出会いとインスピレーション・感情・経験を通じて伝えられるのです。偶然の出会いというのは存在せず、すべての出会いはあなたの人生のシナリオ上必要だから与えられているのです。

孤独に陥る人というのは、他者の存在のありがたみ・人生のありがたみというのを真に理解しておらず、個性というのは欠点や過ちと不可分なものなのにそれを許し合い補い合うことで愛し合おうとせず、出会いをないがしろにして平気で他人を嫌って避けて感謝せず、何か良くないことがあれば思いっきり自分が原因なのに誰かのせいにして恨みで返して運命を呪い、気に入らないこと・傷つけられることがあればすぐに人間関係を切り捨ててしまっているために、孤独・不幸に誘われてしまうものなのです。


嫌な人を避けたら物語というのは成立しません。のび太はどれだけバカにされてイジメられても友達をやめませんし、学校に行かなくなったりもしません。だから物語が成立しているのです。

人を避けるのは他者の存在に対する感謝のなさと被害者意識が原因であり、それは物語の拒否・成長の拒否なのですから、この人生という「魂成長のプログラム」において、どんどん自分を不幸な方に追いやってしまうのが必然なのです。与えられらたものに感謝できず、成長しようとせず、ラクをしよう・逃げようとしているような人間により良いものを与えて幸せにしたら「魂成長のプログラム」は成立しませんからね。

すべてが創作であるこの世界に偶然などというものは存在せず、全ての出会いが創造主からの贈り物なのです。それを偶然だなどと考えて心から感謝していなければ、目の前の人を全力で愛さなくなるでしょうし、欠点や過ちを理由に嫌って避けてばかりいるようでは、他人からも愛されずに孤独・不幸に陥るのが必然なのです。

あなたは今鬱なのでしたら、あまり無理をせずちょっとずつでいいので、どうか自分も他人も許して愛せるよう、愛情を無条件化していく方向で努力してみて下さいね。もし働くのが無理なら、診断書を書いて貰って堂々と生活保護を受け、できるだけ利害関係が発生しない趣味やボランティアから人付き合いを始めてみて下さい。

あなたが愛した人はどんどんあなたの心の仏国土に写し取られ、どんどんあなたの心が豊かになっていきます。次の世に持ち越せるのは、その住民たちだけなのです。欠点や過ちは誰にでもあるもので、それを理由に嫌ったら誰も愛せません。人の価値に序列をつけず、優越感や劣等感を感じようとせず、ただただフラットに愛して下さい。

そして鬱の人は自分を責めることで気持ちの整理をつけがちですが、そのようなことはもうやめて下さいね。全ての存在である創造主からすれば、あなたが自分をイジメるのも他人をイジメるのも、右手が左手をイジメるようなもので、同じ事なのです。自分ならいくらイジメても構わないという考え方は、創造主からすれば不遜な考え方なのです。どうか創造主より与えられし「自分」というかけがえのない宝物を最後の最後まで見放さずに大事にして下さいね。

あなたがご結婚されるかどうかはもちろん僕にはわかりませんが、結婚・出産などを幸せの条件のように考えないで下さいね。幸せというのは自分の考え方(世界観)によってしかもたらされないものなのです。幸せというものを条件化して考えることこそが不幸の元凶なのです。結婚できない=不幸のように考えないで下さいね。そういう自分以外のものに幸せを依存する考え方では、自分以外のものに振り回され、また相手の負担になって避けられて良縁も益々逃してしまうようになってしまいます。どうか結婚しようがしまいが幸せになれる考え方(世界観)を手に入れて下さい。そしてどんな相手にもどんな結果にも振り回されず揺るぎなく感謝し幸せになれる強い人になって下さい。あなたを幸せにできるのはあなただけなのです。

ちなみに日本の生涯未婚率(50歳時未婚率)は2020年の調査で、男性が約28.3%・女性が約17.8%であり、上昇傾向にあって、2030年までに男性の3人に1人・女性の4人に1人が生涯未婚者になると推測されています。一方離婚率は2022年の統計で婚姻件数504,930件に対し、離婚件数179,099件で約35%となっています。そして生涯未婚者と離婚後再婚しない人を合わせた「生涯独身率」は、男性で約50%、女性で約40%と推定されています。そして死別して再婚しない人や、離婚まではしていなくても精神的には断絶していて別居状態のまま生涯を終える人はかなりいるでしょうから、日本人の過半数が「実質的に独身」で生涯を終えるのです。仲間だらけですね(苦笑)。

少なくとも結婚すれば孤独じゃなくなる・幸せになれるというものでは全然ないのです。幸せというのをステータスか何かと勘違いして、見下されないように見栄を張って幸せを装い、多くの人に慕われ愛されているかのようにアピールする人は多いですが、本当に幸せかどうかは本人以外にはわからないものです。

まだ孤独なのは自分だけだと思いますか?お互い思いやり合える人間になって幸せに行きましょうねね。実際に僕はアラフィフの独身ですが、考え方(世界観)・生き方によって幸せに生きています。これは強がりではなく心からそう思っているので、かつての自分と同じように不幸に陥っている人みんなを心から(無償で)救いたくてたまらないのです。全人類をみんな兄弟姉妹のように思って助けることしか考えていませんが、これは正直結婚していたらどうなっているかわかりません。あなたももし結婚できないようであれば、僕と同じような使命・シナリオにあるのかも知れませんよ。どうか僕のnote&質問箱を参考に、幸せになれる考え方・生き方を手に入れて下さいね。

それでは、あなたの幸せを心からお祈りしております。

■本日の処方箋
誰でも自信満々になれる方法
自分と他人の愛し方

2025年3月6日木曜日

奉仕活動に専念すべきか?

【質問】アラサー男性 ペンネーム:ユウ 

初めまして。いつも気づきを与えていただき感謝します。シンヤさんのnote及び質問箱を読ませていただくにあたり、疑問が湧いたので質問いたします。シンヤさんの説明、記述の意図を汲み取れ切れずに誤解をしている可能性もありますがご容赦いただきたいです。

私には趣味がいくつかありまして、仕事をしつつそれらの趣味に勤しみながらそこそこ人生を楽しんでいるというような状態です。上記の趣味を行うにあたり、自分が楽しいから、面白いと思うからやるという動機があると自認しておりますが、やはり魂の成長や愛の発揮という観点で考えるとこういう自分本位な思考や言動は悪手ですか?

人生の存在意義は自他へ愛を発揮して、魂を成長させていくことであるならば「自分が楽しいから〜」とか、「自分が〜したいから」という自分本位かつ他者視点が欠けている行為は良くないのでしょうか。

基本的に私の行うもの以外でも趣味は自己完結であり、自分がそれをすることによって自分は良くても誰かの心を救うことには繋がらないのであまり良くないのか…?と考えてしまいました。

一応ギリ若者に当てはまる年齢ではあるので自分の感情起点でまだ人生を楽しみたいと思ってしまいますが、やはりこれは精神性や魂のレベルが低い故のエゴでしょうか。

本気で魂を成長させるなら、趣味に使う時間とお金を断捨離して自分の能力や特性を分析して、人への奉仕貢献につながる活動に専念すべきなのかと感じました。それともこういう義務感的発想は主体性を伴わないから逆効果なのか…?

シンヤさんの記事の意図を曲解していたら申し訳ありませんが、ご教示下さい。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

>シンヤさんの記事の意図を曲解していたら申し訳ありませんが、ご教示下さい。

う~ん、ご質問内容から察するに、確かに僕が伝えたいことが全然伝わっていないようですね。それは決してあなたが悪いからではなく、あなたはまだ僕の伝えたいことが伝わるプロセスにはいないのでしょう。

カッコいい車が欲しいに書いた通り、僕が伝えたいことの基本は「ご自分の好きなように生きて下さい」ってことです。僕らは経験したいことを経験するために生まれてきたのですから。ただもし今の考え方で幸せではないのなら「(幸せになっている)僕の考え方を参考にしてみては?」という感じであって、僕は何一つ他人様に向けて自分の考え方を押し付けたりするつもりは毛頭ありません(ハゲなだけに)。


あなたはまだ実年齢的にも魂的にも若いのであり、僕もあなたの年代の頃は思いっきりエゴに埋没しながら生きていました。悟りを焦る必要はないのです。あなたの人生の主人公はあなたであって、あなただけに用意されたオリジナルの人生のシナリオがあるのですから、他人と何かを比べる必要などないのです。

そして人生というのは答え(真理)に価値があるのではなく、過程(経験)が答え(真理)を価値ならしめるのです。だからどうか経験する前に答え(真理)を頭だけで理解しようとして、心から納得してもいないことを「この人がこう言ってるから」みたいな感じで自分に無理やり押し付けないで下さいね。それが不幸の元凶なんですから。そのあたりの話は実態が伴わない努力に意味はあるか?に書きました。「意識高い系」みたいに意識の高さを演じようとしないで下さいね。やっても絶対に息切れしますから。

悟り(真理)というのは、自分もみんなも幸せにするものです。だから悟りの道というのは幸せになる道であり、焦ったり、心から納得できていないことを無理やり自分に強いたりしたら、ただ苦しいだけで全然楽しくない(幸せじゃない)でしょう。それは悟りの道からズレているということなのです。悟りの道は「常楽我浄」なのです。

悟りとは何か?に書いた通り、人生という試験においてはどれだけ他人の答えを参考にしても構わないのですが、他人の出した答えを自分に強制しようとするのは、その試験をカンニングで済ませるようなものです。そんなことをすれば人生に意味がなくなってしまいます。経験し、失敗し、試行錯誤を続けて自分なりに納得しながら前に進まなければ意味がないのです。


>上記の趣味を行うにあたり、自分が楽しいから、面白いと思うからやるという動機があると自認しておりますが、やはり魂の成長や愛の発揮という観点で考えるとこういう自分本位な思考や言動は悪手ですか?

自分のやってることが楽しくて面白いなら最高じゃないですか?なぜそれが悪手だと考えるのでしょう?自分に対する愛なくして、他人に愛など発揮できるでしょうか?

若いうちは思いっきり自分の心を我が子のように思って楽しませて育てて下さい。その経験なく、愛・感謝報恩の気持ちなど生まれようがありませんから。例えば、親が幼児に「物欲を捨てて愛に生きろ」などといって何も買い与えずに禁欲と奉仕を強いるようでは子供の心(愛)が育まれないでしょうし、そんな親ではどうしようもないでしょう。それと同じことです。


エゴ(欲)とは何か?
に書いた通り、エゴそのものが悪いのではありません。エゴを無くすことはできませんし、なくす必要もないのです。少しずつでも損得勘定・執着から離れ、愛情の条件を一つ一つ外していき、エゴを乗り越えて愛を発揮できるようになっていくところに成長があるのです。


人生を「エゴのために生きるか・愛のために生きるか」の二者択一しかないかのように考えるのは極端であり、それによって「やっぱりエゴを捨てるのは無理だ」「愛でメシは食えない」「将来が不安だ」「他人から見下されたくない」などと考えて、エゴ(我欲・保身・虚栄)に埋没する短絡的な人ばかりだから今の世の中は荒んでいるのでしょう(人生はそういう舞台設定のRPGです)。

そして魂の成長(愛)というのは、自発的だからこそ価値があるのであって、他人に言われてしょうがなくするとか、神様や誰かに評価されようしてするとか、責められて罰せられるのを恐れてするとか、何かの結果を求めてするものではありません。不安(エゴ)を動機にしては、愛にはならず、楽しくもならず、成長にも繋がらず、意味がないのです。

僕はエゴによる楽しみは十分経験しましたし、自己嫌悪・自尊心の低さに苦しみ精神を病みながら人生を彷徨ったからこそ、同じような人を救いたいというモチベーションがあって、それゆえに自発的に愛を発揮して人を救おうとしているのであり、別に自分の魂の成長を目指して人を救っているわけではありません。望まずとも必然的にそうなっている(導かれている)という感じです。

人の心というのはそうなるようにできているのですし(できていない人もいるかも知れませんが)僕のnoteや質問箱を読んで人生の参考にしようとするような人の心がそのようにできていないわけがないので、安心して下さい。


世界はワンネスですから、人間の心というのは損をしても得をしてもダメージを受けて自分を嫌いになるようにできているのです。だから損得勘定で生きること自体が不幸なのです。でも人間というのは得をした時に快楽物質が出てそのダメージに気づけないようにできているのです。

あなたは「そこそこ人生を楽しんでいる」と書いていますが、わざわざ「そこそこ」と書く時点で、そんなには楽しくはなく特に幸せでもないのでしょう。本当に楽しく幸せだったらこんな相談はしていないはずですからね。だからあなたももうじきエゴのために生きることに飽きて、今の生き方があんまり楽しくなく・虚しくなってくる日が来るはずです。そうしていつか無条件で人に愛を発揮して無償で貢献することを心から嬉しいと感じ、そんな自分を心から好きになれる日が来るはずです。だからその日が来るまでは、自分を楽しませることがメインで良いのだと思います。


>人生の存在意義は自他へ愛を発揮して、魂を成長させていくこと

それは人生の存在意義そのものではななく、僕は「愛を発揮するベクトルが魂の成長につながる」という話をしているのです。人生の存在意義は経験すること・感情を味わうこと自体であり、人生という物語の中で、自他を愛しつつ、「自分とは何者であるか?」を自分の好きなように更新していくことです。

人生という映画を俳優目線からクリエイター目線で見るようにしてみて下さい。あなたは自分という愛すべき主人公に、どんな物語の中で、どんな経験をさせてげたいですか?そしてどんな存在にしてあげたいですか?そう考えれば、あなたにとっての最適解がわかるはずです。


お金の時代の終らせ方に書いた通り、僕は心の愛を育てて欲しい・魂を成長させて欲しいという願いを込めて活動しているのであって、僕は他人様に向けていきなり資本主義と正面から戦うような無茶は言っていませんからね。もし自発的に愛を育てたい・魂を成長させたいと思うのであれば、ここに書かれている「新六波羅蜜」をどうか日々実践してみて下さい。今の仕事や趣味を辞めなくてもできることばかりです。もちろんいきなり完璧になんてできるわけないですし、僕も完璧にはできていません。他人と比べることなく、本当に少しずつでも自分の成長を楽しめればそれで良いのです。


それでは、あなたの人生の幸せを心から祈っています。

世界の救い方

【質問】 30代前半・女性 ペンネーム:Tipoo       職業:ピアノ・絵画講師 、アーティスト、フリースクールスタッフ              アヤワスカチャレンジャー 真也さん、こんにちは。 エゴによる悩み苦しみはかなり訂正されてきたんですが、今1つだけ願いがありま...