【質問】アラサー男性 ペンネーム:ユウ
初めまして。いつも気づきを与えていただき感謝します。シンヤさんのnote及び質問箱を読ませていただくにあたり、疑問が湧いたので質問いたします。シンヤさんの説明、記述の意図を汲み取れ切れずに誤解をしている可能性もありますがご容赦いただきたいです。
私には趣味がいくつかありまして、仕事をしつつそれらの趣味に勤しみながらそこそこ人生を楽しんでいるというような状態です。上記の趣味を行うにあたり、自分が楽しいから、面白いと思うからやるという動機があると自認しておりますが、やはり魂の成長や愛の発揮という観点で考えるとこういう自分本位な思考や言動は悪手ですか?
人生の存在意義は自他へ愛を発揮して、魂を成長させていくことであるならば「自分が楽しいから〜」とか、「自分が〜したいから」という自分本位かつ他者視点が欠けている行為は良くないのでしょうか。
基本的に私の行うもの以外でも趣味は自己完結であり、自分がそれをすることによって自分は良くても誰かの心を救うことには繋がらないのであまり良くないのか…?と考えてしまいました。
一応ギリ若者に当てはまる年齢ではあるので自分の感情起点でまだ人生を楽しみたいと思ってしまいますが、やはりこれは精神性や魂のレベルが低い故のエゴでしょうか。
本気で魂を成長させるなら、趣味に使う時間とお金を断捨離して自分の能力や特性を分析して、人への奉仕貢献につながる活動に専念すべきなのかと感じました。それともこういう義務感的発想は主体性を伴わないから逆効果なのか…?
シンヤさんの記事の意図を曲解していたら申し訳ありませんが、ご教示下さい。
【回答】
ご質問ありがとうございます。
>シンヤさんの記事の意図を曲解していたら申し訳ありませんが、ご教示下さい。
う~ん、ご質問内容から察するに、確かに僕が伝えたいことが全然伝わっていないようですね。それは決してあなたが悪いからではなく、あなたはまだ僕の伝えたいことが伝わるプロセスにはいないのでしょう。
「カッコいい車が欲しい」に書いた通り、僕が伝えたいことの基本は
「ご自分の好きなように生きて下さい」ってことです。僕らは経験したいことを経験するために生まれてきたのですから。ただもし今の考え方で幸せではないのなら「(幸せになっている)僕の考え方を参考にしてみては?」という感じであって、僕は何一つ他人様に向けて自分の考え方を押し付けたりするつもりは毛頭ありません(ハゲなだけに)。
あなたはまだ実年齢的にも魂的にも若いのであり、僕もあなたの年代の頃は思いっきりエゴに埋没しながら生きていました。悟りを焦る必要はないのです。あなたの人生の主人公はあなたであって、あなただけに用意されたオリジナルの人生のシナリオがあるのですから、他人と何かを比べる必要などないのです。
そして人生というのは答え(真理)に価値があるのではなく、過程(経験)が答え(真理)を価値ならしめるのです。だからどうか
経験する前に答え(真理)を頭だけで理解しようとして、心から納得してもいないことを「この人がこう言ってるから」みたいな感じで自分に無理やり押し付けないで下さいね。それが不幸の元凶なんですから。そのあたりの話は
「実態が伴わない努力に意味はあるか?」に書きました。「意識高い系」みたいに意識の高さを演じようとしないで下さいね。やっても絶対に息切れしますから。
悟り(真理)というのは、自分もみんなも幸せにするものです。だから悟りの道というのは幸せになる道であり、焦ったり、心から納得できていないことを無理やり自分に強いたりしたら、ただ苦しいだけで全然楽しくない(幸せじゃない)でしょう。それは悟りの道からズレているということなのです。悟りの道は「常楽我浄」なのです。
「悟りとは何か?」に書いた通り、人生という試験においてはどれだけ他人の答えを参考にしても構わないのですが、他人の出した答えを自分に強制しようとするのは、その試験をカンニングで済ませるようなものです。そんなことをすれば人生に意味がなくなってしまいます。経験し、失敗し、試行錯誤を続けて自分なりに納得しながら前に進まなければ意味がないのです。
>上記の趣味を行うにあたり、自分が楽しいから、面白いと思うからやるという動機があると自認しておりますが、やはり魂の成長や愛の発揮という観点で考えるとこういう自分本位な思考や言動は悪手ですか?
自分のやってることが楽しくて面白いなら最高じゃないですか?なぜそれが悪手だと考えるのでしょう?自分に対する愛なくして、他人に愛など発揮できるでしょうか?
若いうちは思いっきり自分の心を我が子のように思って楽しませて育てて下さい。その経験なく、愛・感謝報恩の気持ちなど生まれようがありませんから。例えば、親が幼児に「物欲を捨てて愛に生きろ」などといって何も買い与えずに禁欲と奉仕を強いるようでは子供の心(愛)が育まれないでしょうし、そんな親ではどうしようもないでしょう。それと同じことです。
「エゴ(欲)とは何か?」に書いた通り、エゴそのものが悪いのではありません。エゴを無くすことはできませんし、なくす必要もないのです。少しずつでも損得勘定・執着から離れ、愛情の条件を一つ一つ外していき、エゴを乗り越えて愛を発揮できるようになっていくところに成長があるのです。
人生を「エゴのために生きるか・愛のために生きるか」の二者択一しかないかのように考えるのは極端であり、それによって「やっぱりエゴを捨てるのは無理だ」「愛でメシは食えない」「将来が不安だ」「他人から見下されたくない」などと考えて、エゴ(我欲・保身・虚栄)に埋没する短絡的な人ばかりだから今の世の中は荒んでいるのでしょう(人生はそういう舞台設定のRPGです)。
そして魂の成長(愛)というのは、自発的だからこそ価値があるのであって、他人に言われてしょうがなくするとか、神様や誰かに評価されようしてするとか、責められて罰せられるのを恐れてするとか、何かの結果を求めてするものではありません。不安(エゴ)を動機にしては、愛にはならず、楽しくもならず、成長にも繋がらず、意味がないのです。
僕はエゴによる楽しみは十分経験しましたし、自己嫌悪・自尊心の低さに苦しみ精神を病みながら人生を彷徨ったからこそ、同じような人を救いたいというモチベーションがあって、それゆえに自発的に愛を発揮して人を救おうとしているのであり、別に自分の魂の成長を目指して人を救っているわけではありません。望まずとも必然的にそうなっている(導かれている)という感じです。
人の心というのはそうなるようにできているのですし(できていない人もいるかも知れませんが)僕のnoteや質問箱を読んで人生の参考にしようとするような人の心がそのようにできていないわけがないので、安心して下さい。
世界はワンネスですから、人間の心というのは損をしても得をしてもダメージを受けて自分を嫌いになるようにできているのです。だから損得勘定で生きること自体が不幸なのです。でも人間というのは得をした時に快楽物質が出てそのダメージに気づけないようにできているのです。
あなたは「そこそこ人生を楽しんでいる」と書いていますが、わざわざ「そこそこ」と書く時点で、そんなには楽しくはなく特に幸せでもないのでしょう。本当に楽しく幸せだったらこんな相談はしていないはずですからね。だからあなたももうじきエゴのために生きることに飽きて、今の生き方があんまり楽しくなく・虚しくなってくる日が来るはずです。そうしていつか無条件で人に愛を発揮して無償で貢献することを心から嬉しいと感じ、そんな自分を心から好きになれる日が来るはずです。だからその日が来るまでは、自分を楽しませることがメインで良いのだと思います。
>人生の存在意義は自他へ愛を発揮して、魂を成長させていくこと
それは人生の存在意義そのものではななく、僕は「愛を発揮するベクトルが魂の成長につながる」という話をしているのです。人生の存在意義は経験すること・感情を味わうこと自体であり、人生という物語の中で、自他を愛しつつ、「自分とは何者であるか?」を自分の好きなように更新していくことです。
人生という映画を俳優目線からクリエイター目線で見るようにしてみて下さい。あなたは自分という愛すべき主人公に、どんな物語の中で、どんな経験をさせてげたいですか?そしてどんな存在にしてあげたいですか?そう考えれば、あなたにとっての最適解がわかるはずです。
「お金の時代の終らせ方」に書いた通り、僕は心の愛を育てて欲しい・魂を成長させて欲しいという願いを込めて活動しているのであって、僕は他人様に向けていきなり資本主義と正面から戦うような無茶は言っていませんからね。もし自発的に愛を育てたい・魂を成長させたいと思うのであれば、ここに書かれている
「新六波羅蜜」をどうか日々実践してみて下さい。今の仕事や趣味を辞めなくてもできることばかりです。もちろんいきなり完璧になんてできるわけないですし、僕も完璧にはできていません。他人と比べることなく、本当に少しずつでも自分の成長を楽しめればそれで良いのです。
それでは、あなたの人生の幸せを心から祈っています。
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