【質問】30代前半・男性 ペンネーム:ユユ蔵
こんにちは。
以前、ネドじゅんさんについての質問にご回答下さりありがとうございました!あれからまた真也さんのノートと質問箱を日々読み漁り、自己の探求と無条件に周りを愛し続ける事を実践しております。なかなか思うようにはいきませんが清々しい気分で毎日過ごせています!ありがとうございます😌
今回は質問というか、雑談というか…困っている訳ではないのでお手暇の際に、よければご回答頂ければと思います。
筋トレについてなのですが…僕は7年ほど前から自宅トレーニングを開始し、今ではたまに初対面の方に「何かスポーツされてます?」と聞かれる程度には身体が大きくなっているようです。
ですが去年鎖骨を骨折し、約1年(現在も)トレーニングが出来ない状態で、たまに風呂上がりなどで身体を見ると確実に細くなっており少しがっかりしてしまいます。それに反して身体は軽く、自分の思い通りに動くというか…重い荷物を下ろした時の様な身軽さを感じております。
また、メンタル面でも筋トレを続けている時は日常的に短気とまではいきませんが、常に何かに追われる様な感覚でせかせかしていて何かとイラッとくることが多かった気がします。
現在はそういった感覚になることは無く、基本的に気分や感情の起伏もそれほどなく安定していますが、なんとなくネガティブな感情というか、未来や過去の出来事を考え思い悩む時間が増えました。
真也さんが柔術をされている様に、僕は幼少期から高校まで少林寺拳法を習っていてそこで「心技体」を習いました。今思えば「三位一体」に通ずるモノがありそうな気もします。
ネットで調べてみると筋トレはメンタルに良いとか、思考もポジティブで行動的になる等の効果はあるらしく、実際それは僕の体験として確実に実感しましたが、お釈迦様や神仏に仕える僧侶さん達で筋肉ムキムキだったという話はあまり聞かない様に感じます。織田信長の時代の僧侶達は自分達や村の皆を守る為に鍛え上げていた話はあるようですが…
スピリチュアルや霊性の観点から見た「筋トレ」という行動についての真也さんのお考えを聞きたくご連絡させて頂きました。よろしくお願いします😌
【回答】
ご質問有難うございます。そしてnoteや質問箱をご愛読いただいて、実践に繋げていただいていてありがとうございます。
さて、「トレーニングをする意味(理由・目的)は?(心身の健康や悟りに必須のものなのか?)」というご質問だと思いますが、あなたが本当に聞きたいことは「運動するモチベーションを維持する方法」であって、それが維持できなくなってるからこそ、やる意味(理由・目的)を探しているのでしょう。そのお気持ちはとてもよくわかります。
ただ僕は純粋にトレーニングが好きだから続けているのであって、健康のためとか悟りのためとかムキムキになるためとか目的を考えてやっているわけではありません。副次的に健康や悟りに繋がっていて筋肉質にもなっている面はあるかと思いますが、それらが目的ではありません。
でももしあなたがそう聞いて、僕が「トレーニングが大好きで、意図せずともモチベーションが体の底から湧き上がって来て、毎日やる気満々でガンガン鍛えている」などと思っているのなら、それは大きな誤解です。僕らの魂が同源・同一であるということを忘れないで下さいね。基本は同じなのです。毎日がモチベーション維持の戦いです。もし誰かがそれを余裕でやってるなどと思うのなら、それは他人の気持ちに対して想像力が欠如していると思います。
僕の若い頃は自尊心に飢えていて、試合で勝って自分の強さを示し、他者評価を得て自尊心を満たす、みたいな単純な(明確で強い)動機で鍛えていました。子供の頃からバカにされたりいじめられりしてきた怨念みたいなものもあったと思います。当時から精神を病んでいたので練習に身が入らなくなることも多くて何度もブランクがあったのですが、その割には大会で何度も優勝し、その(狭い)界隈では有名になるほど強くなることができました。
ただ僕は教えるより教わる方が好きなので、今はその自分の得意な競技ではなく、30歳から始めた柔術を続けています(目覚めるまで鬱で32~44歳の間は殆ど運動すらしていませんでしたが)。年齢と共にどんどん疲労が抜けにくくなって、練習前は「ああ、今日は行きたくないな」って思う日の方が多いです。健康などころか毎日筋肉痛で、ケガで痛い所も常にあります。そしていくら「他人との比較は気にしない」と思っていても、自分は年齢的に目に見えて伸びるなどということはなく、強い選手からはボコボコにされ、伸び盛りの若い選手たちからはどんどん抜かれたりして「こんなことしてて何になるんだろう?」って自問してしまうことも多々ありますよ。
でも練習が終った後は「やっぱり来て良かった」と毎回思います。そしてそういう「苦しみを能動的に乗り越えて心身共に成長して行く」っていう部分も含めて好きなんですね。外で同年代の人と会ったりすると、心身共に若さ・強さに大きな違いが感じられるので、「続けてて良かったな」と思わされます。
苦労というのは放っておいても与えられるものなので、どっちみち苦労するなら受動的に受けるより能動的に(自分で選択して)受ける方が、自分で楽しみながら成長できますし、かえってラクなんですね。
僕は強くなるためではなく、弱くなりたくなくて鍛えているって感じですね。歳をとるほど成長よりも衰えのスピードの方が早くなってきますし、疲労やケガの回復もどんどん遅くなって蓄積していってしまいます。だから体のケアの重要性が増しますし、練習量も若い時よりずっと少ない中で、その割合も体のケアや技術練習に充てる時間が多く、実践練習は少なめですし、ケガしないよう・疲れ過ぎないよう・加減して練習しています。そうしないと続けられなくなるので。
例えば今が全盛期のプロスポーツ選手は、元々その競技が本当に好きで、才能があって、一緒に戦う仲間と素晴らしい練習環境があり、競い合うライバルがいて、たくさん応援してくれる人がいて、実力がアップすればその分成績が上がって人気とお金が稼げて応援してくれる人達も喜んでくれるという環境にいて、それでモチベーションを維持して努力できているわけです。
だから「モチベーションの維持」に限定して言えば、たいした才能がないアマチュアで、年齢もとっくに全盛期を過ぎていて、体を鍛えたところでほとんど誰からも注目も応援もされず、異性にモテて良い思いができるってわけでもなく、例え競技に出たとしてもなかなか勝てるわけでもなく、勝ったとしてもたくさんの人から喜ばれてチヤホヤされてお金が稼げる舞台でもなく、年齢でどんどん体が衰えていく中で、仕事など他の事と両立しながら時間を捻出して、楽しみながら黙々とトレーニングを続けている人の方が凄いのです。それは神の視座から見れば、ある意味で人気のプロスポーツ選手の努力より尊いことをしているのです。かつてトッププロだった偉大なスポーツ選手たちでも引退したら運動すらしなくなってマラドーナみたいにブクブク太るような人が多いですしね。それだけ我々は難易度が高いことにチャレンジしているってことです。誰から評価されなくても自分で自分を評価しながら努力できるってとても尊いことなんですよ。
>去年鎖骨を骨折し、約1年(現在も)トレーニングが出来ない状態で
>メンタル面でも筋トレを続けている時は日常的に短気とまではいきませんが、常に何かに追われる様な感覚でせかせかしていて何かとイラッとくることが多かった気がします。
それはきっとあなたが己の自尊心を求めて焦燥感に駆られながら筋トレをしていたからであって、筋トレそのものが好きなわけではないからでしょう。筋トレを続けたくなくなったがために、自身の精神的な問題を筋トレのせいにしてしまっていませんか?
>それに反して身体は軽く、自分の思い通りに動くというか…重い荷物を下ろした時の様な身軽さを感じております。
トレーニング期間中は疲れが蓄積しているので、トレーニングの効果を感じるのがトレーニングを休んでいる間になるのは当たり前です。そしてしばらくトレーニングを止めていればその効果がどんどん薄れていくのも当たり前です。
ただ単に筋トレするだけなんてつまらなくないですか?あなたはきっと深層心理でそれを止めたかったからこそ、ケガをしたのではないかと思います。そしてほぼ素人の方が、ほぼ何となくイメージ(思い込み・我流)だけで、誰にも習わず独りぼっちで鍛えていれば、ケガをしやすくなるのも当たり前の事ではないかと思います。まして焦燥感に駆られるようにしてハードにやっていたのであれば。
「運動を全くしない」というのが心身にとって不健康なのはほぼ確実でしょう。しかし「運動さえすれば必ず心身共に健康になる」かというと、そういうわけでは全くありません。やり方次第です。当たり前です。なので「筋トレ(運動)することの良し悪し」など一括りには語れません。そのやり方というのも人によって個性があって合う合わないががめちゃくちゃあるのですしね。そして自分に合わないやり方をすればかえって不健康になってしまうでしょう。そして「別に運動は体に良いわけではない」などと考えて運動を全くしなければ確実に不健康になります。
だいたい何事も、それをする意味(理由)を「好き(楽しい)」以外に求めてしまうと、それが「目的化」してしまい、それが満たされないと「何でこんなことしてるんだろう?」みたいに考えて必然的にやる気を失うことになってしまうんですね。やる意味(理由)などは、人生を満足いくまでやり切った後で見えて来るものなのではないでしょうか?
僕は日々の練習で、「今日はこの技を覚えよう」とか、「この黒帯の人を極めてやろう」とか、「大会にチャレンジしてみよう」とか、ごく短期的には「目標」を持ちますが、それはあくまでその日一日を楽しむためであって、「目的化」はしないようにしています。
多くの人が気づいていませんが、この「目的化」というのはものすごい害悪なんですね。それは結果を求めることにつながり、結果が得られないと不満を抱いたりやる気を失ったりすることになるのですから。
「結果を求める」ということは、自分の努力(嫌なことを我慢する)に対して「見返りを求める」ことなんです。それは全てを与えてくれている創造主に対して「あれをするからこれを下さい」と交換条件を出しているということであり、それはとても不遜なことなのです。
「努力できること」自体が、とてもありがたいことなのだと理解し、心から感謝して愛し「やらせていただいている」と考えながらやることが大事です。そうすればどんな結果も「今の自分にとってこれがベストだから与えられたのだ」と理解して心から感謝しながら受け取って愛することができるはずです。
だから「何のために(意味・理由・目的)」なんて考えず、「ただ自分のできることに感謝し愛しながらやる」ことが大事なんだと思います。これはトレーニングに限らず、全てにおいてです。
考えてみて下さい。見返りを求めて人間関係を築く人は、見返りがないと人間関係が続けられませんし、そもそもそういう人は嫌われますし、実利で築いた人間関係は実利がなくなれば縁が切れるのは当然です。恋愛だって例えば将来の安定とか世間体などという目的を持ってしまうと、純粋に好きな気持ちを維持できず、目的が満たされないと「なんで付き合ってんだろ?」別れることになりますから。仕事も好きじゃないのにお金のためにやるのは苦しいことですし、お金にならなくなったらどんどん嫌になって辞めたくくなるでしょう。みんな資本主義に心まで毒されて損得勘定で考えるのが当たり前になっていますが、何の見返りも求めず「人のために何かできる」ってこと自体を愛することが大事なのです。
僕がいつも言っていることですが、与えられたものに感謝できない人間にもっと良いものを与えたいとは思わないのは創造主も同じであり、人生・世界はそのような原理で創られているのです。
与えられているものの価値に気づかず感謝していない人間は、既に与えられているものまではぎ取られ続け、失うことでその価値を知らされる悲惨な人生になってしまうのが必然なのです。努力できること・人のために何かできることも、創造主からの贈り物ですからね。
>今ではたまに初対面の方に「何かスポーツされてます?」と聞かれる程度には身体が大きくなっているようです。
もちろん僕も人間の男なので、鍛えた体を人から褒められたりして嬉しいと感じる気持ちはよくわかります。しかし他者評価を得ることで自尊心を満たすのが目的のようになってしまえば(それは他者評価依存症です)、ケガをして休んで急に細くなっただけで虚しく感じられてしまうのは必然だと思います。
もし本当に筋トレが好きだったらケガをしててもできる筋トレはあります。そしてマッスルメモリーという言葉がある通り、ブランクがあっても鍛えればちゃんとすぐに戻るのです。それなのにあなたがケガを理由に筋トレをパッタリと止めてしまっているのは、やはり筋トレそのものは好きではなかったからではないでしょうか?
>ネットで調べてみると筋トレはメンタルに良いとか、思考もポジティブで行動的になる等の効果はあるらしく、実際それは僕の体験として確実に実感しましたが、お釈迦様や神仏に仕える僧侶さん達で筋肉ムキムキだったという話はあまり聞かない様に感じます。
あなたは自分が体験を通して覚ったことより、釈迦やその他の僧侶たちがどうだったか?(伝聞情報)の方を信じるのでしょうか?それでは生まれて来た意味がなくなるのではありませんか?あなたはただ単に運動習慣がケガで途切れてしまって、怠けるのが習慣化してしまい、また筋トレ生活に戻るのが辛くて、やらない言い訳を探しているだけではないでしょうか?
僕は好きでトレーニングをやっているので、釈迦やその他の僧侶たちがトレーニングしてたかどうかなんてどうでも良い話です。人には個性があり、それぞれの悟りの道があるのですし、まして時代背景も全然違う人たちがどうだったかを気にして、僕が自分が好き・良いと思っていることを止めることはありません。止める時があるとしたら、自分で好き・良いと思えなくなった時です。
僕は柔術をみんなに薦めるつもりはありません。前述した通り人には個性があるのですからね。柔術は他の格闘技よりはケガのリスクが少ないのですが、そうは言っても格闘技ですからケガはつきもので、大ケガをしてトレーニングを続けられなくなり、仕事や私生活にも多大な負の影響を及ぼしてしまう人もいます。だからそういう意味でも無責任に他人には薦められないんですね。
それでも柔術の素晴らしいと思うのは、実際に体を合わせて戦うので、自然とコミュニケーションが密になって精神的に安定することです。そういう練習仲間が常にいて、教え合ったり競い合ったり励まし合うことができて、そういう友達に会いたくなりますから、モチベーションを維持しやすいんです。そしてスパー中は常に集中していないとすぐヤラれてしまうので、脳が余計な事を考えず、リフレッシュになるんですね。だから反芻思考傾向の強い人には特に良いのではないかと思います。そして柔術は技術は途方もないほど開発されていてこれからも開発され続けるので、自分の個性に合った技術を見つけて自分で考えながら向上させ続け、色んな個性を持った人たちと競い合う面白さもあります。大会も体重や帯や年齢で細かく分かれてるので同じレベルの者同士で競い合いやすいですし。
僕はただ筋トレするとか、ただ走るとかは、あまりにも退屈過ぎてモチベーションが維持できないんです。そして本当は好きじゃない運動を心身の健康を目的にすると、ある程度心身が健康になったらあとは維持するだけになって何も面白くなくなってしまいます。僕の性格上、発展性がないと維持もできないんです。やはり技術など、何か「年齢で衰えても、歴と共に向上して面白くなっていく要素」がないと、続けるのは難しいと思うんですね。
柔術に限らず「一緒にやる仲間がいる環境に身を置くこと」がモチベーションを上げる最適な方法だと思います。そしてそこでコミュニケーションを大事にすることです。他人の努力を認めてあげると同時に、存在そのものに価値があるのだと「尊敬ある態度」で示すことです。つまり心からの笑顔で存在を承認し、話を否定せずに同情・共感的に聞くこと、です。己の愛のなさゆえに周囲に嫌われ、自分の成長・健康を人から喜ばれないようでは、どんな素晴らしい大会結果を残そうと虚しいだけです。
一人でトレーニングしても、色々教えてくれたりケアしてくれる人がいませんし、どうしてもデタラメな鍛え方をして成長が遅く、ケガもしやすくなります。ただ一人で黙々とトレーニングしていても何のコミュニケーションも生まれませんし、面白くなくてモチベーションが維持できないのはごく当たり前のことだと思います。
あなたには何か運動の習い事ができないような、何か時間的・経済的な理由があるのでしょうか?もしそうでないなら、やはり何か運動の習い事をするのが良いと思います。そうすれば先生や練習仲間からできるだけケガをせずに効率的に鍛えられる方法も教えて貰えるでしょう。「家族との時間を大事にしたい」などの理由で一人で筋トレするにしても、週一ぐらいパーソナル・トレーナーにお願いしてみるのはいかがでしょうか?
決して他者比較・他者評価などをモチベーションにせず、仲間とのコミュニケーションを大事にして、自他の体を十分にケアしながら続けてみて下さいね。
それでは、あなたが何か好きな運動を見つけて、周囲のみんなと楽しく健康的に心身を鍛えながら幸せに導かれることを心よりお祈り申し上げています。
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