※回答した時点では質問者さんの年齢を知りませんでした。10代の女性には厳し過ぎる&早過ぎる内容になっていてすみませんでした。これからはちゃんと年齢等をしっかり確認してから回答させていただきます。
【質問】19歳・女性 ペンネーム:シロ
noteを何度も読んでいます。読む度に感動して、心がけて生活しても、数日後には卑屈な自分に戻っているので、何度も何度も読んでいます。
質問ですが、真也さんに嫌いな人はいますか?「いい加減にしろよ!」と痺れを切らして怒る事はありますか?もしないなら、なぜないんですか?
悪役に好かれても全然嬉しくないですし不愉快です。悪役には「キモ!」「お前クズだな!」と思いっきり怒鳴りつけたいです。こうやって自分の気持ちに正直になるのはいけないことですか?ひたすら我慢しています。無条件で愛せば、どんどん相手が図に乗ってくる様な気がして腹が立ちます。
難しい質問ですみません。どうしたらいいでしょうか?
【回答】
noteを愛読していただき、ありがとうございます。とても嬉しいです。
>難しい質問ですみません。
いえ。ご質問ありがとうございます。
もし一般的な「嫌いな人」への対処法の話であれば、「誰でも自信満々になれる方法」等々、noteや質問箱で何度もご説明させていただいていて、説明の重複での長文化は極力避けたいので、今回は誠に勝手ながら「生理的に気持ちが悪い人との接し方」ということでトピックを限定してお話しさせていただきますね。そこについては確かに難しく、まだnoteや質問箱でも詳しくは書いていなかったので。
ただあなたが「キモい人」というのは、相手側の性質ではなくあなた側の感情なので、具体的にどんな人なのかわかりません。客観的な基準はない話であり、人それぞれに「キモい人」がいるわけで、対策を語るのには仮にでも定義しないとキリがありません。
なので今回は「意図的・積極的に嫌がらせをして来る人」と「大多数の女性から見て不快に感じるぐらいに下品で、相手の気持ちを全く気遣わず、いくら女性側から拒絶されても下心丸出しでしつこくグイグイくる感じの男性」に限定し、なおかつ「こちら側から拒絶しにくい状況」を想定します。
もし同じ「気持ちが悪い人」でも例えば「ビクビクオドオドしていて気持ちが悪い」といった感じで「こちら側から容易に拒絶できるような関係性・状況」なのなら、そんなに悩むほどの問題にはならないと思いますし、実際女性からの相談で「気持ちの悪い男性からつけまとわれて困っている」というのは非常に多いので、今回はその回答としても答えていきたいと思います。
まず、僕が言っている「無条件の愛」というのは「慈愛の愛」であって「恋愛の愛」のようなものではありません。「慈愛の愛」は出会う人に無条件で拡大していくことに価値があるものであり、「恋愛の愛」は出会う人の中から限定することに価値があるものです。
この違いはみんなわかっているようで、明確に「真逆である」とまで認識している人は少なく、X上でも「出会った人を無条件で愛さなきゃならないのなら、自分を求めてくる男性全員とSEXしなければならないんですか?」みたいなイチャモンをつけられ、いくら説明しても理解する気がなくラチがあかないのでブロックしたことがあります(苦笑)
そこまで極端ではなくても、「自分と他人の愛し方」に書いた通り、多くの人は愛というのを好きの強意の「大好き」ぐらいの意味で使っています。しかしそういう愛はエゴの愛であって、出会うみんなを「大好き」という感じで愛そうと思っても無理があるのは当然なのです。人間には対象を好き嫌いで二分することで、それをしている自分の個性・存在を確認しようとする本能があるのですから。
無条件の愛(慈愛)というのは「心の奥底でお互いを許し(和解し)、存在を肯定し、慈愛(思いやり)を持ち、幸せ(魂的成長)を心から願うこと」ができて、それが自分の考え方や態度や行動(生き方)に反映されるようになれば良いのであり、今現在生理的に苦手な人まで無理に大好きになろうとする必要はないのです。
結局「許せていないのに愛そうとする」から無理が生じて我慢(負の感情の抑圧)が必要になるのでしょう。我慢というのは読んで字の如く「己の心をエゴで漫々にすること」であり、それは動機に愛がなく、心の奥底で和解が成立していないということなのです。それは「自分に都合の悪い相手も、こっちが我慢してやっていればいつか自分に都合良くなるだろう。もしならなければ相手が悪いのだから攻撃・排除してやれ」という感じの、結果(見返り)を期待したエゴの努力であり、ワンネスが本質の世界において報われないのは当然なのです。
我慢(負の感情の抑圧)は自分の中にマグマのように蓄積し、いつか爆発することが必然なのであり、ただ課題を先送りにして蓄積するだけの無駄な努力なのです。なのに多くの人は許すことを努力と考えず、我慢することを努力と考えてそればっかりやってるんですね。人間関係は完全に鏡ですから、当然それは自分自身に対しても許さず我慢してばかりで愛せないという事に繋がるのです。
我々に必要なのは我慢ではなく忍耐です。忍耐とは「お互いを心の底で許し、お互いの幸せ(魂的成長)を祈りながら、与えられた苦難(成長課題)を耐え忍び、乗り越えていくこと」であり、動機が愛なのです。それは我慢とは似ているようで真逆のものなのです。すべては動機次第であり、せっかくの努力も動機が愛かエゴかで真逆のものになり得るということです。
「許し」というのは「自分は正しい・相手が間違っている」という上から目線では成立しません。分離意識を乗り越えて相手のことを自分の前世や未来世のように考え「私自身と同じように、この人の欠点や過ちにもこの人なりの事情があるだから仕方がない」と同じ目線で同情して許すことです。そうすれば人を許すほど自分を許せるようになります。実際、個性・分離意識というのは幻であり、世界の本質はワンネスで、我々は同一人物のようなものなのです。個性・分離意識・エゴを乗り越えて許し愛することが魂の成長であり、その成長経験のために人生というのはあるのです。
「許し=愛」というのを、「他人から何をされてもOK」というように勘違いしないで下さいね。自分がされて本気で嫌なことを相手に何も伝えずにただ無理に我慢するというのは自分への愛の欠如であり、自分が本気で嫌だと思うことはきちんと相手に伝えることも愛なのです。そしてそれでも防げずに本気で嫌なことをされたら、それもきちんと相手に伝えて注意しなければなりません。直に話し合えるだけの「愛と勇気」を持たず、黙って耐えるしかないような関係性・環境に身を置いているのなら、それは完全に自分が蒔いた種です。
そして過去に自分がされてしまった嫌なことは、自分に必要だから起きたこと(引き寄せたこと)であり、創造主がどういう意図(愛)を持ってその人・出来事と出会わせたのかをポジティブに解釈して気づきにつなげなければいけません。
嫌なことをされた時に相手に怒ってしまって許せなくなるのは自然なことです。それでも過去についていつまでも許さず怒り続けていたら、自分の人生が恨みに満たされ、被害者意識に陥って成長できず、自分が不幸に導かれてしまいます。その場では怒ってしまって許せない自分も許しつつ、相手を許すベクトルで考え、自分の成長の糧にしていくことが大事なのです。
「過去のことをいつまでも許さない」というのでは自分が恨みに満たされて被害者意識の塊になってしまいます。被害者意識(=許さない意識)というのは恐ろしいもので「自分は被害者であり、相手のせいで自分は不幸である」と、自分が「不幸な存在」であることを自ら認めてクリエイターに宣言しているようなものであり、クリエイターは「自分とはどんな存在か」に合わせて物語を展開しますから、どんどん許せないようなことが起きて、自分がどんどん不幸な存在になってしまいます。どれだけ相手が悪くてこちらが全くのイノセントでも、被害者意識を持ったら不幸になるのは自分なのです。
「運命への呪い」にも書いていますが、被害者意識というのは成長拒否なので、成長のために与えられた人生において不幸に導かれるのが必然なのです。幽霊というのは被害者意識の成れの果てだからこそ「恨めしや~」と出て来るわけで、もしあなたが幸せになりたいのなら、人を許さないこと(=被害者意識)で、そんな幽霊みたいな存在になってはいけないのです。※鬱や統合失調症になると被害妄想が強くなるのは霊障の仕業なのです。
「意図的・積極的に嫌がらせをする人」は幸せでないからこそ、そうせずにはいられないのでしょう。まして「多くの異性から生理的に嫌われる人」が幸せなわけはありません。それは可哀そうな人たちなのであり、みんなの幸せを願う主人公(あなた)にとって「より救いが必要な人たち」なのです。もしあなたが分離意識(エゴ)を乗り越えてワンネス(私=あなた)に目覚めはじめ、嫌な人たちもあなたという存在を構成する一部なのだと気づけば、せめて心の中で憐れみ・許し・幸せを願うだけでもできるはずです。
どうか、どんなに嫌な人・出来事との出会いも「創造主は自分にどんなことに気づかせどんな成長を願ってこの人・この出来事と出会わせたのか」とポジティブに愛で解釈してみて下さい。その方向性(ベクトル)で努力できるのであれば、ちゃんと無条件の愛に向かっているということであり、今すぐには無理でも時間差だけでいつかはそこに辿り着けるのです。
>質問ですが、真也さんに嫌いな人はいますか?「いい加減にしろよ!」と痺れを切らして怒る事はありますか?もしないなら、なぜないんですか?
ないわけないでしょう(笑)僕も人間なんですから。その質問は「あなたの人生には成長課題がないのでしょうか?」と聞いているのと同じです。
僕のXを見ていただけたらわかると思いますが、スピ系の詐欺師・アヤワスカの自称シャーマンに対してとか、いつも「いい加減にしろよ!」って感じでキレまくってますよ。悪影響が大きすぎるので甘い顔はできません。それでも実際僕は彼らのことも心の中で「彼らなりの事情がある」と憐れみ、いつか覚り・幸せに導かれることを祈っています。
僕の乞食修業時代なんて周囲はジャンキーとか気持ち悪く感じる浮浪者だらけでしたが、心の底で同情して許し、思いやりの気持ちを持って笑顔で挨拶し、話を聞き、親切にし、お金がなくても常にお布施していました(今もしています)。
その後に成り行きでバイトをすることになって乞食修業を一時終了したら、今度は「積極的・意図的に嫌がらせをしてくる人たち」と共同生活をすることになり、立場上注意する事も拒絶する事も難しく、大変な思いをしました。僕の言語力の関係でうまく気持ちを伝えることもできず、何を言っても曲解されて余計に攻撃されてしまうような状態でした。それでも許し、奉仕していたら徐々に関係が改善し、そのうち人がほぼ全員入れ替わって、今はもう状況がすこぶる改善されています。
また僕は最近までアヤワスカ界隈にドップリだったのですが、この界隈は同性愛者が多いために必然的に僕の友人も同性愛者が多くなり、もちろん僕に彼らを差別する気など全くないのですが、僕が異性愛者であることを尊重せずにめちゃくちゃ気持ち悪い感じでグイグイ来る人と出会ってしまい、拒絶して逃げたことがあります。しかもそれをそれまで仲の良かった他の同性愛者の友人から「差別だ」とか「普段『愛の無条件化』とか言ってるくせに」とか批判されて距離を置かれ、界隈での立場も悪くなり、更に気分が悪くなりました。そうしたことも最近は全然ないですけどね。
界隈では魔にとり憑かれつかれておかしくなっているような人とたまに会いますし、やっぱり愛は常に試され鍛えられるものなんだなと感心します。
「誰でも自信満々になれる方法」に書いた通り、僕は「嫌いな人ゼロ作戦」を5年続けていますが、それは「常に意識していなければ、誰かを許さず・怒り・嫌ってしまう方向へ容易に流される」というのが前提の話であり、絶対に完璧にはできない死ぬまで未達のテーマだからこそ死ぬまで成長を続けられるのです。そしてその成長過程にこそ幸せがあるのです。
あなたはきっと「許さない・愛さない」という選択を安易にしてしまって成長を拒否してしまう自分」を「真也さんでもできてないのだから」ということで正当化したいのでしょう。しかし人生はあなたがプレイヤー(主人公)のRPGなんですから、僕やその他のログインプレイヤーのゲームの進捗は関係ありません。進捗を比較するべきは昨日までの自分です。
「慈愛の愛」というのは無条件化(拡大)していく方向(成長のベクトル)で努力すべきものであり、最初から完璧にできないからといって条件化(限定)する方向(退化のベクトル)で生きてはいけないのです。
時間というのは幻ですから、今現在完璧にできていないことでも、最後までやりきろうという覚悟が強固なのなら、それは未来においてできるようになっていることであり、それは既にそれができる「存在」になっているも同然なのです。逆に「今現在完璧にできないからやらない」と決断することは「難しいことは何もやらない存在に既になっている」ということであり、それは自分が「成長を拒否する存在=不幸な存在である」と自認しているに等しいのです。そしてクリエイターはその人が「どんな存在か?」に応じて物語を展開しますので、どんどん不幸な出来事が訪れるようになってしまいます。
たった一人でも「この人は本当に嫌な人だから、許し愛するのは絶対に無理だ」などと考えて諦める例外を作ってしまうと「自分は愛(許し・思いやり)を条件化する存在である」と自ら認めたことになってしまうのです。そうすれば一つのヒビが拡大してダムが決壊するようにどんどん嫌いな人が増えていってしまうでしょう。
そして「理由さえあれば人を嫌っても仕方がない」と考える人が、誰よりも欠点や過ちを知っている自分自身を許し愛せなくなるのは必然なのです。まさに人間関係は鏡ということです。そしてそれこそあなたが「卑屈な自分に戻される」ことの主要因かと思います。「自分に都合の良いものだけを愛する」「都合の悪いものは嫌って愛さない」という「エゴの愛」は成長を必要としないものであり、成長経験を目的に作られている人生というRPGにおいて・ワンネスが本質の世界において、不幸に導かれるのは当たり前のことなのです。
>無条件で愛せば、どんどん相手が図に乗ってくる様な気がして腹が立ちます。
僕が「愛の無条件化」というのは八方美人になって「誰に対しても無理して大好きなフリをしてご機嫌取りをする」ということではありません。それは相手一人ひとりを本当に尊重(愛)しているのではなく、自分が深く考えることを放棄して、一つの手法だけでラクに全ての人間関係を乗り切ろうとしているだけのエゴ(怠惰・成長拒否)でしょう。
そのように心が全く伴っていない八方美人みたいな安易な手法を「愛の無条件化」だと誤解しないで下さいね。八方美人というのはみんなにも自分自身にも嘘をついて心の声を抑圧しながら、他者評価・自己利益のためにみんなにおもねっているだけです。それは自分の心を偽っているので自分が苦しくなり、他人に振り回された挙句、矛盾が生じ嘘を見抜かれて嫌われ、また気持ちの悪い人から勘違いされ調子に乗られたりもして、行き詰まるか事故るかになるのは必然なのです。ただ八方美人なだけでは誰も幸せになどなれないということです。
人との接し方(慈愛の発揮し方)というのは自分と相手との関係性に応じて自然かつ柔軟に変えていくべきであり、お互いにとって一番心地良い接し方・関係性を模索していくべきなのです。そしてそれが本当の意味でお互いを尊重する(愛する)ということなのです。
だから「積極的・意図的に嫌がらせをしてくる人」や「下心のある気持ち悪い男性」に対してあなたが無理に「大好き」みたいな接し方をする必要はありませんし、そんなものは無条件の愛ではありません。本気で嫌な事をされたらその場では怒って拒絶して距離を取るのは当然のことであり、それによって「自分は人を無条件で愛せていない」などと落ち込む必要は全くありません。
あくまでも愛を無条件化するベクトルで生きている人間にとって、自分と相手との関係性によって接し方を変えるということは、分け隔てをするということではないのです。分け隔てというのは「こういう人は愛せるけど、こういう人は愛せない」と愛を条件化して、自分に都合の良いものだけを愛し自分に都合の悪いものには愛(思いやり)を持たず、嫌って排除するような態度のことであり、それは成長拒否・退化のベクトルですから不幸に導かれるのが必然なのです。自分に都合の良いものだけを愛する条件付きの愛(エゴ)は、どんな悪人でも赤ん坊の頃から持っているものであり、成長は必要ないのです。
そして関係性・接し方というのは決して不変ではなく、改善していく(愛を無条件化していく)ベクトルで努力すべきものであり、関係性が改善されてくればそれはお互いに成長しているということですから、必然的にだんだん嫌なことはされなくなっていきますし、だんだん心の底で許せるようになってくれば、嫌なことをされてもあまり嫌には感じなくなっていきます。
>「キモ!」「お前クズだな!」と思いっきり怒鳴りつけたいです。こうやって自分の気持ちに正直になるのはいけないことですか?ひたすら我慢しています。
あなたが許しと慈愛の心を己の中に育てられていたら、いくら苦手な人だからといってもそんなに思いやりのないひどい言い方にはならないはずです。あなたが相手からどれだけ嫌な事をされたのかわかりませんが、もしそれが犯罪レベルではなくあなたが個人的に不快に感じるだけなのなら、明らかに過剰反応です。そしてそのようにひどい言い方で注意(というより侮辱)された方は確実に心が傷ついてあなたに反発し、過ちを改めようとか欠点を乗り越えようなんて絶対に考えず、ますます嫌なことをしてくるでしょう。例え一時的には言いたいことを言って自分がスッキリしたとしても、完全に逆効果です。
そのように過剰反応してしまうのは、恐らくあなたがまだ自分に自信が持てないために「自分は正しい」というのをプライドの根拠とし、意見に過ぎないものを自分と思い込み、常に批判し嫌悪する対象を引き寄せ、傷つけられないよう己を守る卵の殻の如きプライドのバリアがその人たちから割られそうになるからではないでしょうか?もしそうなら「同じ過ちを繰り返してしまう」に書いた通り、プライドの根拠を「成長していける自分への愛」に置いて下さい。
もし注意するならお笑いのツッコミ的に、言われた相手が苦笑いして周囲がそれを笑ってくれるぐらいの感じで伝えるべきでしょう。お笑いのツッコミというのは相手への嫌悪が動機ではなく、みんなを笑顔にするための愛が動機なのであり、批判もお笑いに昇華できるようになれば人生は格段に明るく楽しくなります。常にどうやったら笑いに変えられるかを考え、嫌なことがある度にシリアスにならず、オイしいネタができたと考えて下さい。
そしてもしあなたが内心怒りっぽい人なのなら、心の中に長州小力を住ませておくといいですよ(笑)そしてキレそうになったら「長州さん、キレてますよね?」と自問し、脳内モノマネで「・・・キレてないですよ」と自答します。更に「俺キレさしたら大したもんスよ」と被せ、相手の悪役っぷりを讃えます。そうやってまだまだ痩せ我慢しているレベルにある自分を自分で笑うのです。そうしたら自分を客観視できて、心に余裕が出てくることでしょう。
僕が「自分の心に正直になる」というのは、「魂の声を抑圧せずに耳を傾ける」ということであり、それはつまり自分の中の愛(思いやり)に正直になるということです。エゴに正直になって湧き上がる負の感情をそのまま表に出し、相手にぶつけたり誰かに八つ当たりすることではありません。負の感情というのは大小便と同じで溜め込まずに一人でこっそり処理するものです。そしてできればその負のエネルギーを何かポジティブなことに使って昇華して下さい。
「実態の伴わない努力に効果はあるか?」もぜひ読んでみて下さいね。多くの人が魂の声を無視し、ポジティブな考え方(認識方法・世界観)が魂レベルで腑に落ちていないのにポジティブを演じ、湧き上がる負の感情を無理やり押さえつけことばかりやっているから諸々うまく行かず心を病んでしまっているのだと思います。
男性の下心というのはエゴそのものであり、大抵は女性から拒絶され傷つけられるのが宿命なのですが(苦笑)、さりとて女性が「気持ちが悪い」という自分の感情のままに無慈悲に男性を傷つけてしまってばかりいては、あなたが引き寄せたい男性も遠ざけることになるでしょうし、周囲の人間まで巻き込んで雰囲気を悪くし、仕事もプライベートも人間関係全般がうまくいかなくなるでしょう。逆上されでもしたら事件になりかねませんし、結局一番損をするのは自分です。
そのように「嫌いな人(間違っている人)がどれだけ傷つこうと自業自得だから構わない」というような残酷で無慈悲な考えこそが世の不幸の元凶なのであり、戦争なども究極はその連鎖で起きていることなのです。
ホステスみたいに男性の下心を積極的に自己利益のために利用するのもどうかと思いますが、さりとてあまりに無慈悲に拒絶していたら仕事(営利活動)は成り立ちません。
僕の経験を話すと、かつてフリーランスで働いていた頃、とても良くしてくれる年上の女性が何人かいたのですが、明らかに恋愛感情もあって過剰に親切にされている感があり、こちらが不快に感じるほどグイグイ来られたりもして、さりとてこちらも生活があるので(エゴですが)無碍にもできず困ったことがあります。今は基本的に営利活動はしていないのでそのような状況にはなっておらず「やっぱり資本主義は覆さなければいけないものなんだな」と思っているわけですが。余談でした。
自分が本気で嫌なことをされたとしても、相手に対する最低限の慈愛の気持ちは忘れてはいけませんし、傷つけないように伝え方はよくよく考えるべきでしょう。人間とは愛されたい生き物なのであり、嫌われる人もその人なりに事情があってそうなっているのですから、憐れみの心は最低限持つべきです。
そして自分も相手がされて嫌なことを積極的に学んでそれをしないよう努力していないのであれば、自分がされて嫌なことを人に伝えることがただのわがままになってしまいます。
嫌な人間というのはゴキブリの如くどこにでも現れます。それは成長課題としてカルマ(シナリオ)があって出会っているのです。すべての存在・すべての出会いにはちゃんと役割があり、ゴキブリという悪役は人間に嫌がられることで、人間に自発的に衛生を心がけるようにさせる(成長させる)という役割があるわけです。嫌いな人をゴキブリに例えるのはひど過ぎますけども(笑)
もちろんゴキブリも生類なのですから慈愛の心を持つべきですが、だからといって台所にゴキブリが繁殖しているのに、生理的嫌悪感を抑え込んで我慢して無理やり好きになろうとして、退治もせずにそのままにしておくことは自分自身への愛の欠如です。かといって退治するのに不必要に苦痛を与えたり、また絶滅させようと無理に追い詰めるのも生類に対する慈愛の欠如です。役割があって存在しているのに無理に絶滅させようとしたら、必ず人間にも悪い影響があります。蚊などはまさにそうなっていますし、ゴキブリもきっとそうです。
みんなゴキブリを嫌がりますが、ゴキブリが繁殖する要因というのは必ず人間側が作っているのです。もちろんどれだけ衛生的にしようと人間が住める環境である限り全くゴキブリに出会わないようにはできないのですが、衛生を常に心がけることで格段に出会いにくくなるのです。
同じように、嫌な人と多く出会うのならそれは自分が引き寄せているのであり、まず要因が自分側にあるのだと認識しなければ、根本的な対策はできないのです。嫌な人間と出会う度にどう対応するかを考えるのは後手の対策であり、根本的な対策にはならないということです。
問題を相手のせいにして文句を言うのはRPGの設定に文句を言うのと同じであり、それは成長拒否であって不幸に導かれるのが必然なのです。ゴキブリに「キモい!」「出て来るな!」などと文句を言っても仕方がありませんし、出くわす度に後手で対応していてもキリがありません。
同じように、嫌な人間とできるだけ出会わないようにするには、良い環境(道)を選択し、常に精神的衛生を心がけること=自分と周囲の心の波動を上げることが必要であり、それが魂的成長につながるのです(嫌な人間との出会いは成長を促しているのです)。
対策として最悪なのは、人を避けて引きこもることです。実際世の中が嫌な人だらけに思えるようになって人間関係そのものが嫌になり、鬱になって引きこもりになる人は多いです。またそこまではいかなくても、精神的にひきこもって誰にも心を開かなくなる人もたくさんいます。人間関係こそが創造主から与えられた修行の場ですから、人を避けては成長のしようがなく、人生というRPGが最悪につまらないものになり、不幸に導かれるのは当然のことなのです。
創造主は人生というRPGをすべて主人公である自分次第に創ってくれています。自分が変わればすべてが変わるということです。しかしそれを「問題の原因が自分にある」と責められているように誤解しないで下さいね。答えはいつでも「誰も何も悪くない」「でも自分が変わらなければ何にもらない」です。あなたの過去は全てシナリオ通りであり、ゲームの設定のようなもの(必然)なのです。だからその良し悪しを判断して自分や誰かを責めたりせず、それを自分に与えられた課題なのだと解釈して乗り越え、未来に用意されたより良いシナリオを選択していって下さい。
いつも使っている例えですが、ゲームのバイオハザードでゾンビが出てくるのは主人公が悪いからではありません。ゾンビになった人やゾンビウイルスを作ったアンブレラ社やゲームそのものを作ったカプコンを責めてもゲームは進みません。ただ目の前の課題をクリアすることで自分が主人公のゲームを前に進めて下さい。他のプレイヤーと自分を比べる意味はなく、ゲームにおける自分の成長を楽しめればそれで良いのです。人生もそれと同じです。
だいたい嫌な人に多く出会う人というのは、嫌なことを誰かのせいにして被害者意識に陥って成長を拒否しているから、更に心の波動が下がってネガティブな人や出来事をこれでもかと引き寄せ、更に心の波動が下がる悪循環を起こしているのでしょう。そして人を嫌って孤独に陥るのですね。僕も目覚める前は完全にそうでした。
悪循環と言うのは様々な要因(カルマ)が複雑に絡み合い、原因と結果が循環して起きているわけで、何か一つの要素だけを改善してもホメオスタシス(恒常性)が働いて元に引き戻されるので、なかなか簡単には良くはなりません。問題は人それぞれの部分も大きく、それを解決する方法というのも一口に語ることはできません。
そもそも僕のnoteも質問箱もいわば全て「人が幸せになるためのメソッド」を書いたものであって、言い換えればそれは「心の波動を下げる要因分析と対策」を書いたものなのです。もしそれを読ん下さっている方々がまだ幸せに導かれているのを実感できず、心の波動が低いままで嫌な人をたくさん引き寄せているのだとしたら、まだ僕の伝えたいことが伝わってないということになります。とても厳しい言い方になってしまいますが、きっと自分に都合の悪い部分・自分にはできそうにないと諦めている部分は飛ばして読んで、ちゃんと実践する中で理解しようとはせず、自分に都合の良いように曲解し、頭で理解した気になっているだけだからうまく行かないのでしょう。
「誰でも自信満々になれる方法」
「悪いカルマの解消法」
「罪と恥の存在意義」
「自分と他人の愛し方」
「同じ過ちを繰り返してしまう」
「実態の伴わない努力に効果はあるか?」
等々、あらためて「魂レベルで腑に落ちるまで」読み直して実践に繋げていただけると幸いです。
そして
「嫌な人とできるだけ出会わないようにするには?」
「女性が気持ちの悪い男性を引き寄せないようにするには?」
については、また機会を改めてもっと深堀してご説明差し上げたいと思います。
あまりに長文化すると誰にも読んでいただけなくなるので、今回は申し訳ありません。
既にだいたい頭の中で言語化できてはいるので、近日中にアップします。
それでは、あなたの幸せを心から祈っています。
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