【質問】
仮想現実は、この地球だけなのでしょうか?
それとも死後の世界や、他の星に生まれた所も全て仮想現実なのでしょうか?
ご質問ありがとうございます。
仮想現実が何かという定義にもよりますが、「存在」の本当の姿は全て思念体である創造主のみであり、そこは僕らが目を閉じた時に垣間見れるような、思念・概念しか存在しない世界です。僕らはその創造主の思念・意識を分離された分け御霊です。それが人間というアバターを与えられて仮想現実を経験させてもらっているのであり、我々分け御霊の分離意識(自分というものが存在し、他の存在とは違うものだという意識)・自意識自体が仮想のものですから、その僕らが経験しうる全ては(僕の定義上)他の銀河でもあの世でも丸ごと仮想現実ということになります。
我々の分離意識がなくなれば我々は創造主そのもの(完全なワンネス)に戻ってしまいます。その創造主の思念・概念のみの世界こそが本物の現実と言えるでしょうが、全ての存在が完全に一つに戻ることはありえないことなので、本当の現実がどういう世界かを考えることにあまり意味はありません。創造主は唯一の存在で全知全能であることが究極に退屈で孤独で存在意義がないからこそ我々(分離意識)とこの物質世界を創ったのであり、また完全なワンネスに戻るようなことをわざわざすることはありえないのです。
分離意識はそれぞれ個性を与えられ、欠点があり過ちを犯す存在だからこそ、それを補い合うことで愛は生まれます。創造主の思念しかない状態では愛は生じ得ません。元々の姿は創造主の魂であり光そのもののような存在です。それは完全な智慧の光です。それは細かく砕かれ、磁石のように極性と波動を持ち、お互い引かれたり反発したりします。その引力こそが愛であり、それは反発力があることにより存在意義が生まれているのです。だから通常人は反発するのがデフォルトなのです。
分離された我々にはちょうど一つの小麦粉の塊を製麺してから粉をまぶして簡単には一つにならないようにする感じで無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い・霊障・不完全性)が与えられています。簡単に一つに戻ったら分離した意味がなくなるのです。
我々が砕かれた磁石のように個性を保ちながら数珠つなぎにまた一つ(ワンネス)に戻っていく過程が物語であり芸術であり我々の存在意義なのです。完全なワンネスには戻れませんし戻る意味もありません。与えられた自分と他人の個性を尊重し、許し合い補い合い愛し合うことが我々の存在意義です。そしてそれは流れる砂絵の如く永遠に繰り返されるのです。
我々がまた一つになるためには無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い・霊障・不完全性)を乗り越えることです。エゴが完全になくなったら分離意識がなくなり完全なワンネスになってしまいますから、それはありえません。エゴなくして愛は生じ得ないということです。だから完全にエゴがなくなることはありません。だからこそ我々は全力でエゴとは反対方向に向かうことができます。それが愛なのです。己のエゴを極力下げて他人のエゴを満たしてあげることです。その連鎖が我々を数珠つなぎにまた一つにするのであり、その過程に生まれる物語こそが、存在意義なく生まれた創造主に存在意義を与えられているのです。我々は創造主に存在意義を与えている偉大な存在なのです。
だから我々はこの世界に自分として生まれたことに感謝しながら、成長の物語・愛の物語を楽しむことです。感謝するほど、成長するほど、愛し合うほど、創造主により存在意義を与えてより愛されて、自分自身も出会ったみんなもより幸せになるのです。全ての存在は一つであり創造主なのに好き嫌いを言えば創造主の愛から離れることになります。それで人生がうまくいくわけがないのです。あなたが出会い認識し思考・想像できるすべてが(あなた自身も含めて)その正体は創造主なのであり、例外なく愛することです。
あなたが嫌だと思うものもあなたの成長のために与えられている課題であり、それを経験させてもらえていることに感謝しながら愛することです。全ては創造主の愛によりあなたにベストなものが与えられているのです。それを不平不満で返すと創造主の愛が受け取りにくくなるのです。創造主は僕ら自身でもあり、与えられたものに感謝できないような人間に、もっと与えたいとは思わないのです。今あるものに感謝できないなら、既に与えられたものまではぎ取られてその価値を思い知らされるような悲しい人生になってしまうでしょう。
いつも言っている事ですが、自分に都合の良いものは赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも愛せるように成長していくことなのです。
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