2025年6月18日水曜日

世界の救い方

【質問】 30代前半・女性 ペンネーム:Tipoo 
     職業:ピアノ・絵画講師 、アーティスト、フリースクールスタッフ
             アヤワスカチャレンジャー

真也さん、こんにちは。

エゴによる悩み苦しみはかなり訂正されてきたんですが、今1つだけ願いがあります。それは、悟り(一瞥体験でも)を広げる事で人の認識を変え、助けたいのです。(誤解を恐れずに言えば、地球が愛の星になればと思っています)

私は元々、大いなるものなんて信じてなかったのですが、アヤワスカで認識が変わりました。他人の言葉や、神秘的な絵などを見て信じられる人は良いのですが、この身で決定的な体験をしないと分からない私のようなタイプも多くいると思います。

特に、エゴで苦しんで、世界が嫌になってしまった人に選択肢として提示できたらと思っています。例えば年に数ヶ月、儀式のお手伝いとして関わるのもいいし(国外になりますが)YouTubeかSNSでアヤワスカやその後の考えを広めるのもありかな?と思っています。

さて、この願い、大丈夫でしょうか?これさえも自分の無明から来ていないかと、たまに思います。日本で今やっている仕事をそのまま続けるだけでも周りを一時、笑顔に出来ますが、果たしてこれで良いのだろうかと、よぎります。悟りだけが根本的な救いなのではと、思ってしまいます。

何かアドバイスあればお願いいたします⋯! 

小説投稿サイトで人気を博した転生・転移小説四作品 「戦国統一オフライン」「時限式平成転生~馬事津々~」  「月降る世界の救いかた」「転生魔王渡世録」の電子書籍について、 Amazonでの無料キャンペーンが開催 | アイオリア株式会社 

【回答】
ご質問どうもありがとうございます。素晴らしいご質問で感動しています。回答が遅くなって申し訳ございません。あなたがエゴによる無明から愛に目覚め、心から世界を救いたいと思うようになって下さったこと、同志としてとても嬉しく思います。

毎回、説教臭くならずにアドバイスを送るっていうのはとても難しいことなのですが、質問箱は常に自分自身に言い聞かせるようにして書いています。あなたなら誤解なく受け取って下さると信じて回答させていただきますね。メシアとして目覚めてかけている同志たちのためにも。 

僕も目覚めてしばらくはとても焦っていました。考え方を変えるだけでこんなにも幸せになれるのに、この考えが世界中に広がればきっとみんなが救われるはずなのに、なぜこんなにも伝わらないものなのか?と。

しかし焦りは禁物です。時間(人生)というものは我々に成長を楽しませるために創造主が与えてくれているものであり、焦るとせっかく与えられた時間(人生)の楽しみ・幸せを目減りさせてしまうことになってしまいますので。世界救済というのは「今生で完全達成できなければ意味がない」というものではなく、あくまでそれを目指すベクトルで生きる我々の人生経験(物語・芸術)に価値があるのです。


<信心(愛)の大切さ>
僕らには創造主からそれぞれに与えられた役割とシナリオがあって、それぞれに役割・シナリオを全うすることによって、いずれはみんなが救われる全体シナリオになっているということが、この人生というRPGが創られた時点で決まっているのです。

それなのに「焦る」ということはその創造主を信用せず「結局、この人生(この世界)は救われないのでは?」「この人生(世界)を意地悪で創ったのでは?」と疑っている(与えられたものに感謝していない)ということになり、それは己のカルマを悪化させることになってしまうのです。

世界を救うために一番大事なことは、己の信心を強くすることです。この世界は何もかも創造主が創ったものであり、その意思と掛け違いがあっては世界を救うことなどできません。「感応道交」という仏教用語があるのですが、己の意思と天と意思が通じ合い、己が天の意思に合った生き方をすることが、ひいてはみんながご利益を受け取り(哀愍納受)、みんなが救われることになるのです。

他人(世界)を救おうと思うこと自体はとても尊いことですが、それ以前に大事なことは、まず与えられているものの価値に気づいて心から感謝し、与えられているものをみんなと分かち合い、そして何より創造主を信頼することなのです。聖書のヨブ記のように、どれだけ自分や他人に困難が与えられていても、です。それは信心(愛)を試されているのだと思って下さい。我々は創造主の愛なしには一秒たりとも存在できないのです。

<2つの救い方> 
人生というのはまさにRPGであり、多くの人がまだプレイヤー(主人公)として目覚めていませんが、プレイヤー(主人公)には「世界を救うという使命」があるのです。ただしその使命の果たし方(世界の救い方)には2種類あるんですね。

①自分の個性・才能を生かした救い方(自分ならでは)
②日々の愛の実践による救い方(普遍的・万人に共通)

もちろん両方が大切なんですけど、もし②だけしかなければ、自分という存在が個性・才能を与えられて生まれて来た意味がありません。だから基本的には①の救い方のほうを優先しなければならないのです。あなたは類稀な芸術の才能を与えられているのですから、基本的にはそれを活かした救い方を優先すべきであるように僕は思うわけです。※実際には常にケースバイケースで、緊急で家族や最愛の人を救わなければならない時などは②を優先すべきかと思いますが。

アヤワスカによって友人を救おうとすることも素晴らしいことかと思いますが、それは②の救い方になります。アヤワスカというのはあなたや誰かの個性・才能ではないのですからね。あなたほどの芸術の才能が与えられている人が、①の救い方を年に数か月も犠牲にして②の救い方をするというのは、僕的にはちょっと違う気がします。もちろん世界の救い方は究極は主人公であるあなた自身が決めることですが。 

<あなたの才能の尊さと、創造主の意図>
>日本で今やっている仕事をそのまま続けるだけでも周りを一時、笑顔に出来ますが、果たしてこれで良いのだろうかと、よぎります。

そのお気持ち、とてもよくわかります。

「周りの人を一時笑顔にできる」ということだけでもとても尊いことです。ただもしあなたが自分の才能の価値をその程度だとものだと認識しているのなら、それはとんでもない過小評価だと思います。 

あなたが空(概念世界)の存在たち(神仏など)をこの次元に降ろし(具現化し)、それぞれの存在意義(使命)を存分に果たさせてあげることこそが、この世界の物語を豊かにしつつ、最終的にはみんなを救いに導くのです。そんなことができる素敵で偉大な才能が、あなたには与えられているのです。 

世界救済というのは、(神仏を含めて)みんながそれぞれに使命を果たし、自分の存在意義を実感する形でなければ、果たすことができないように世界は創られているのです。どうか日々信心を強くして、たくさんの神話・宗教を学び、その姿をこの次元に降ろして彼らにもある「世界を救う」という使命(存在意義)を果たさせて下さい。それは友人をアヤワスカに導くこと(あなたでなくてもできること)よりもずっと偉大で大切なことなのです。

人生は映画のようでもあり、僕ら主人公は自由に演じることが許されているのですが、それでも監督(創造主)にはきちんと意図があって用意しているシナリオがあるのです。それを汲み取りながら生きた方が、監督(創造主)の愛をより多く受け取ることができ、より素敵な物語にしていけくことができるのです。

もちろん僕も創造主の意図が完全にわかるわけではなく、そっちゅう取り違えをして失敗します(だから面白いのです)。創造主の意図は直接的に創造主から教えられるものではなく、主人公である自分にはそれを汲み取る自由が与えられているのであり、自分で解釈する以外にないのです。
 
ただ創造主の意図を推測するのに重要なヒントがあります。創造主というのは全知全能であるがゆえに直接的には経験をすることができない(失敗・過ちを犯すことができない)存在なのです。だからこそ創造主は我々人間や神仏などとして経験を積んでいるのです。そうすることでそれぞれの立場から個性ある存在として「存在意義」を感じようとしているのです。そして創造主本体は全知全能ゆえに想像=創造を広げられないからこそ、我々に無明と想像力とを与えてくれているのです。それを存分に発揮させるために創造主は我々に対して決して常に答えを一つに限定せず、自由にしてくれているのです。

ならば我々は人生という「経験」と「想像=創造」の機会を大事にすべきですよね?そして自分が本当の意味で「存在意義」を実感するためには、自分個人に与えられたシナリオを全うするだけでなく、自分に関わるみんなも与えられた「シナリオ・使命」を全うして「存在意義」を実感できるように導かなければならないのです。それはつまり出会った人のカルマを他人事だと思わずに、愛をもって一緒に乗り越えて行くってことです。

わかりますか?この人生というRPGの世界というのは、あなた個人だけではなく、それぞれの存在がみんなそれぞれに個性・才能が与えられていて、その存在意義を果たす(シナリオ・使命を全うする)ことによってみんなが救われる仕組みになっているのです。カルマの良化法に書いた通り、カルマ(シナリオ)は自分を中心として一筆書きのようにひとつながりだということを忘れないで下さい。全てが一つ(ワンネス)なんですから、カルマ(シナリオ)もとことん辿ればひとつながりになっていることは自明なのです。

あなたは世界の主人公です。しかしみんなにもそれぞれが主人公として与えられている世界があり、みんなに「世界を救う」という使命があるのです(殆どの人がそれを自覚せずNPCやってますが)。自分も他人もみんなそういう創造主の代理の主人公なのですから、あなたが前述の①より②を重んじることは、他人の「存在意義」を奪うことにつながり、それは創造主の意図(シナリオ)に反すること(越権行為)になってしまうのです。そしてそれは創造主視点で見た場合、せっかく与えられた①の使命・存在意義・存在価値をあなた自身が軽くみているということになってしまうのです。
 
あなたはアヤワスカで見た世界が、あなたの想像力で作ったものだと思いますか?違いますね?ではあなたの作品のアイデア・イメージというのは果たしてあなたがゼロから生み出したものでしょうか?違いますね。全ては創造主から概念次元(アカシックレコード)を通じてインスピレーションという形で与えられているものなのです。しかしそれをこの世界に具現化できる能力というのは、みんなに与えられているわけではありません。
 
もし僕があなたなら、世界の宗教・神話についてより広く深く学び、イマジネーションを広げて作品にしていくと思います。それが救いにつながるということを、あなたはまだ理解していないのでしょう。神仏というのは我々に知られず、その使命を果たせないのなら、存在意義はないのです。あなたが神仏を知り、信じ、祈り、イメージとしてこの世界に顕現させ使命を果たせられるということは、創造主とその分身である神仏に存在意義を与える尊い才能(使命)なのです。
 
いつも言っているように、「与えられたものの価値に気づいて感謝していない人にもっとあたえたいと思う人はいない」という原理でこの世界は創られていて、価値がわからない・感謝しない人間は、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値に気づかされるような悲しい人生になってしまうのが定めなのです。どうか自分の才能・使命を当たり前のものだと思わずに、その価値に気づき、感謝し、フルに生かして活躍して下さいね。
 
 
<救いへの導き方>
>さて、この願い、大丈夫でしょうか?これさえも自分の無明から来ていないかと、たまに思います。
あなたがそのような観点で自分を見ることができるというのは、とても尊いことだと思います。 
 
僕もみんながアヤワスカを飲んだら世界は救われるのではないかと考えていた時期がありましたが、アヤワスカを飲めば誰でも良い方向に導かれるというわけではありません。だからこそガイドが大切なのですが(それで僕はやっているわけですが)あなたにそれをする使命があるかどうかは僕にはわかりません。

ただあなたが友人を(本人が望んでいないのに)無理にアヤワスカに導くという救い方で頑張らなくても、アヤワスカが必要な人には必要な時にアヤワスカの神が導いてくれるのです。そしてそれを信じることが信心なのです(だから僕も無理に他人に勧めたりはしません)。

友人がかつての自分と同じようにエゴに苦しんでいるのを見て、もどかしい気持ちは僕も同じなのでよくよくわかるのですが、あなたの友人にも創造主から用意された人生のシナリオがあり、「己のエゴで苦しむプロセス」も必要だから与えられているのです。

人間はみんなが人生というゲームのプレイヤー(主人公)で、みんな自分なりに失敗もして試行錯誤して納得しながら前に進みたい生き物なのであり、脇から答えを教えられると無意識に反発してしまうようにできているのですね。 

2022年小学生の人気ゲームが満載!学年別おすすめゲーム機やソフト、ボードゲーム・カードゲームまで | HugKum(はぐくむ)

ピアノの指導などはまさにそうかと思いますが、相手に答えを教えることよりも楽しさに気づかせることの方がもっと大事なのです。やる気にさえなれば、本人が自分で練習して勝手にうまくなっていくのですから。悟りもそれと同じなのです。まずは自分が心から楽しみながら日々悟りを実践しているのでなければ、他人にその楽しさを覚らせてやる気にさせることなどできないのです。

だからあまり焦って無理に他人を覚らせようとせず、自分がまず覚りを進め、それを実践し、夢を持って生き生きと幸せに生きている背中を見せることで「どうやったらあなたみたいに幸せになれるのか」と相手側から自発的に教えを求められるぐらいになることが大切です。逆に聞く気になっていない人にいくら伝えようとしてもそれは無理なのです。あくまでも主人公は自分なのであって、そういう自分の覚りの過程を飛ばして「相手側をアヤワスカで悟らせよう」とすることは(善意であっても)創造主視点から見れば怠慢なのです。相手を変えようとしても変わりませんが、主人公である自分が変わればすべてが変わるように世界は創られているのです。

「メシア救世三原則」
1.指摘せず気づかせる
 (傷つけない)
2.教えず覚らせる
 (例え話などでヒントを与える・背中で示す)
3.自らの学びとする
 (相手のカルマは自分のカルマの鏡・相手を変えようとせず自分を変える)

あまり無理に相手を救おう(相手のコントローラーを奪おう)とするのではなく、相手の存在を心から承認することで、自ら課題(カルマ)に立ち向かって行く心の元気を与えることが救いの本質です。そのやり方は基本的に二つだけです。


⭐相手の自尊心を高め、自ら前に進む勇気と元気を与える方法

①心からの笑顔で挨拶する

②話を否定せず(ジャッジせず)に同情・共感的に聞く

この点については長くなるのでカルマの良化法などをご参考下さい。

 

>YouTubeかSNSでアヤワスカやその後の考えを広めるのもありかな?と思っています。

インターネットを使って「自分がどうして幸せになれているのか」を伝えるのはとても良いことだと思います。きっとあなたの才能も活かされることでしょう。

ただ忘れてはならないことは、あなたは絵画と音楽(非言語)のアーティストであって、思いを言葉で器用に説明できるようになることよりも、芸術を通じて伝えることの方がより大事なんじゃないかと僕は思います。どうかその「言葉ではうまく伝わらないもどかしさ」をエネルギーに変えて作品にぶつけて下さいね。それは僕や他の多くの人にはできないことなのですから。


<愛の無条件化=世界救済>
世界を救うためには己の愛を無条件化していくベクトルで成長していかなければなりません。
それこそが我々がいつかワンネスへと還る道だからです。そして世界の問題は究極「愛の不足」が原因であり、逆に言えば全ての問題の解決策は愛なのです。

 愛」とは何か?恋との違いや愛を育む6つの考え方、名言特集を紹介

しかし人には好き嫌いで世界を二分することで「それをする主体者としての自分(自我)を確認したい(輪郭を保ちたい)」という隠れた強い欲求が与えられているのです。それを意識せずその本能のままに生きてしまうと、不快なものを嫌悪し遠ざけて意識から排除し、興味を持たず・理解しようとせず、好きな人・モノにだけ囲まれて生活しようとしてしまいます。そして自分に都合の良い人・モノだけ愛し、都合の悪い人・モノを愛さないという「愛の条件化」をしてしまうようになるのです。そのような条件付きの愛はエゴなのであり、愛(融和・ワンネス)に反する要素であって、己の人生も世界もネガティブな方向に導いてしまうのです。

普通の人は好きなものに囲まれて好きなことだけして生きるなんてことはできないので、仕事もプライベートも人間関係全体が厳しい修行の場になるのですが、あなたの場合は才能があって、恐らく好きな人・モノにだけ囲まれて生活するということがほとんど実現できてしまっているのが、逆にちょっと厄介なんですね。

自分に都合の良い人・モノだけ愛しても、人生は魂の成長修行にならない(成長しない)のです。この世界に偶然はなく、全ての出会い(人・出来事)が自分にとって必要だから与えられているのであり、創造主が与えてくれた出会いの中で、許し難きを許し、愛し難きを愛することが魂修業なのです。それなのに人間側の意思で意図的に嫌なものを避けようとし過ぎると、大きな弊害(落とし穴)が2つ出てくるのです。

①愛情が条件化(エゴであり、魂の成長とは逆行)の方向に進む(世界救済が遠ざかる)
②好きな人・モノがあまり好きではなくなる(飽きる・嫌いになる・無感動になる)

①については前述の通りなので、②について。 

嫌な人(興味のない人)との出会いも、自分の魂の成長にとって必要だから創造主が与えてくれている出会いなのであり、 それを意図的に排除するということは、人生という映画の監督たる創造主の意図(シナリオ)を無視しているということになるのです。どうか出会った人一人ひとりにもっと関心を持って下さいね。それが愛情を無条件化していくことに繋がるのです。出会った人ひとりひとりに無条件に愛することができるようになれば、それは(まだ出会っていないというだけで)世界中の人を愛していることになるのです。興味がない人・嫌いな人は表面的にテキトーに扱っておけば良いという考えでは、世界に愛が連鎖するわけがありません=救えるわけがありません。全ての出会いは運命であり、相手がどんなに悪役・端役に見えても、それは創造主が「あなたが主人公の物語」にシナリオ上の意味があって、何か大切なことに気づかせるために遣わした尊い共演者なのです。

嫌な人(興味のない人)を避ければ、その役割(悪役・端役)を好きな人が負わなければならなくなり、結果的に好きな人も嫌いになって孤独に陥ることになってしまいます。 

そして好きなものに囲まれ、好きなことだけしていると、段々好きなことでも楽しさを感じられなくなってしまい(感性の鈍化)その価値を感じられなくなり、心から感謝もできなくなってしまうのです。これが最大の弊害(落とし穴)かも知れません。 好きなモノだけで人生を構成しようとすることは、メジャーコードだけで曲を作ろうとするようなもので、そのうち飽きて退屈になっていくことは自明なのです。

悟りというのはワンネスへの融和(愛)のベクトルであり、分離(エゴ)とは逆のベクトルなのです。嫌いなものを分離し排除していくというのは磁石の片極だけを切り落していくようなものであり、どんどん己(世界)を小さくし、好きだったものまで心から楽しめなくなっていくんですね。

そして瞑想などを通じて心を鎮めることを悟りの道だと勘違いしている人が多いですが、それも違います。例えば己の愛が不足しているがゆえに人間関係をうまくやれていない人が、瞑想などで心を鎮めたところで、魂が成長するわけがなく、幸せになれるわけもないのです。それは単に心の針の動きを鈍化させているだけですからね。


実態を伴わない努力に効果はあるか?に書いたように、嫌な事があっても創造主から自分の成長のために与えられた課題なのだとポジティブに解釈して、悪い感情(不協和音)を起こさずに(自分自身とも他人ともぶつからずに)乗り越えていけるようになることが魂成長のための修行なのです。己の心の調律と演奏が上達し、心の針を出来事に合わせて指揮者のタクトのように上手に振れるようになれば、人生をオーケストラのように楽しめるようになります。嫌な人やモノ(都合の悪い・興味のない人やモノ)との出会いも大事にして、まず興味を持ち、許し難きを許し、愛し難きを愛するというベクトルで考えてみて下さい。

人は誰しも臆病に創られていて、傷つかないように人それぞれ様々な形で予防線を築いてしまっているものです。それで愛することより傷つかないことを優先してしまうのですね。それでも出会った相手にもっと興味を持ってみて下さい。興味を持つことが愛の入り口であり、興味がないのに愛している、ということは有り得ません。この世界に偶然はなく、全ての出会い(人・出来事)は意味があって与えられている贈り物(運命)なのですから、出会い(人・出来事)を無条件で愛せるようになっていくことが悟りの道なのです。

そして生まれの格差について(陰謀論)未来に絶望したくなるなどに書いているように、その愛(悟り)の連鎖が、ひいては世界救済に繋がるのです。だからお互い焦らず日々愛を実践して行きましょうね。まず自分自身も目の前の人も許し愛し幸せにできる人間になれるように一歩一歩成長して行きましょう。連鎖反応は倍々ゲームであり、自分と目の前の人を幸せにできるようになれば、あとは勝手にものすごいスピードで広がっていくのです。しかしその連鎖反応の起点である主人公の自分がブレていたら、それは決して広がらないのです。

人生はエゴを乗り越えて愛を発揮する修行なのであり、もちろんそれは僕にとっても同じで、日々戦いです。世界の本質はワンネス(愛)であって、分離意識を乗り越えないことには、世界は救われるわけがないのです。全ては愛によって創造されているのであり、好き嫌いを乗り越えて存在そのものに感謝し、尊敬し、許す(心で和解する)ことです。それが愛するということです。愛は相手を自由にするものであり、離れていく人を無理に追う必要はありません。ただ悟り(世界救済)というのは愛を無条件化する方向にベクトルが向いていなければならないのです。誰でも自信満々になれる方法に書いた通り、自分があくまでも愛し抜く覚悟さえ持てれば、相手から嫌われ傷つけられることなど恐れる必要はないのです。

それでは、長くなりましたが、あなたの素敵な覚りと幸せを心からお祈り致しております。


2025年6月11日水曜日

この世界に意味はあるのか?

【質問】20代・男性 ペンネーム:ラガー
お久しぶりです。

この世界に意味はあるのでしょうか?幸せや快感、悲しい気持ちも全て脳内の情報が変わるだけで僕が死んでも何も変わらないし、この世界が無くなっても何も変わらない。まさにこの世界って虚なんだと思うんですけど。生きる意味ってあるのでしょうか?僕が死ぬと悲しむ友達、家族がいて80億人の中の100人程度の脳内の情報が変わるだけ。仏教の勉強をしていても全ては虚であると書いてありますし、辛いことがあったわけでは無いですが生きる意味を見失っています。友達と飲みに行って楽しいと思うし、運動をして気分が良くなるのも全ては本能で脳内のホルモンの変化に過ぎなくて、やはり人に価値なんてないと思ってしまいます。でも本能には抗えず、死のうと思えずに苦しいです。

【回答】 
先日の継父との関係に引き続き、ご質問ありがとうございます。

「この世界(人生)に意味はあるか?」 それは本当に究極の問いですね。そしてそのように考えてしまうお気持ちはとてもよくわかります。僕は小学校2年生ぐらいからずっとそのようなことを考えて、虚無感に浸っているような青春時代を過ごしました。だから僕はあなたに偉そうに説教がしたいわけではなくて、その苦しみがわかるからこそ、そしてその苦しみを乗り越えたからこそ、魂の兄弟であるあなたを一刻も早くその苦しみから救いに導きたいのです。

あなたは「辛いことがあったわけでは無いですが」と書いていますが、「世界(人生)に意味などない」などと考えている時点でそれは鬱状態であり不幸なのです。真理というのは自他共に幸せにするものであり、今のあなたはかつての僕と同じように真理から大きく外れていて誰も幸せにしない不幸な考え方(無明)をしているということです。

あなたに初めて彼女が出来た時とか幸せな時に「人生・世界に意味はない」などと考たりはしていなかったでしょう?筋トレ(モチベ維持)についての話と同じで、僕らは今できることをただ感謝し愛しながらやるべきであって、その意味を考えてしまうのは目的化であり害悪なのです。

あなたは不幸な考え方をしているがゆえに自己効力感が感じられず「何も面白くない・意味がない」と心がグレて虚無感に浸ってしまっているのでしょう(僕はそうでした)。だからあなたはきっと本気でこの人生・世界の意味を知りたいのではなく、要するに愚痴なんだと思います(僕もそうでした)。ただそういう不幸というのも人生に必要な経験であり、プロセスなんですね。

しかしながら大概の人は「傷つきたくない」と自己防衛するプライドのために、自分が不幸である=間違っているとは認められないものなのです。それは同じ過ちを繰り返してしまうに書いた通りです。それでも己の不幸=間違いを認められない限り、人は成長できずに同じレベルの不幸に苦しみ続けることになるのです。だからまず己の不幸=間違いを認めて、どうか謙虚かつ素直な気持ちで「真理=幸せな考え方」を受け入れて下さいね。あなたが信じようと信じまいと、僕の言葉は創造主の代弁なのです。偉いのは僕ではなく教えをくれる創造主であり、全ての存在は彼の分身なのですから、全てが尊いのです。

それで「この世界(人生)に意味はあるか?」ということですが、もちろんあります。世界(人生)というのは「概念=意味=創造主(思念体)」によって創造されているのであり、意味(意義・理由)のないものというのは存在し得ないのです。そして創造主というのは愛そのもののような存在であり、すべてはその愛によって創造されているのです。

じゃあなぜ創造主は、人生・世界を創造した意味(意義・理由)を我々に教えてくれないのでしょうか?それは創造主が我々という経験主体者(主人公)一人ひとりに対して、全ての「存在意義(価値)」を経験を通じて実感を伴いながら覚らせ、更にそれを自分で創造していく自由を与えてくれているからです。そしてそれこそが創造主の愛の形なのです。もし我々が創造主から限定された意義(答え)を先に教えられていれば、人生という物語を通じて自らの意思で経験して意義(答え)付けし、創造していくという喜びが失われ、我々は自由ではなくなってしまうのです。わかりますか?あなたには自分に関わるすべてに対してその意義づけ(解釈)をして、それによって人生を創造していく自由を与えられているのです。人生(時間・世界)はあなたが自他の「存在意義」を覚り、自らそれを創造して表現するためのマテリアルとして与えられているってことです。

あなたはプレイヤー(主人公・経験主体者)としてこの人生という「全てが自分(の解釈・意義付け)次第」という素晴らしいRPG(芸術のマテリアル)が与えらえれているにも拘らず、ネガティブな解釈によって「全ては無意味である」と勝手に結論付け、その創造主からの素敵なプレゼントを無価値であるかのように言い貶し、自分の人生を自ら台無しにしているのです。あなたは人生を無意味なクソゲーのように貶めていますが(それも意義付けです)、クソゲーにしているのはあなた自身だということです。もちろん、そういう経験もあなたの人生に必要なプロセスだから与えられているのでしょうけども。

>仏教の勉強をしていても全ては虚であると書いてありますし、
これについては般若心経の究極解説を読んでみて下さい。「虚」というのは意味がなく虚しいという意味ではありません。多くの人もそのように誤解していますが、それこそが人間に与えられた無明だと思います。

仏教の真髄というのは菩提心(衆生を救う存在としての決意)に目覚めさせることであり、己という存在の真の価値に目覚めさせること(天上天下唯我独尊)なのです。自分の価値がわからない人間に他人の価値も世界の価値もわかるわけがありません。あなたは全知全能ゆえに何も経験できない創造主本体に代わって経験機会を与えられている偉大な存在なのであり、あなたという存在にもその経験にも途方もない価値があるのです。「虚」というのは今生(物質世界)が仮象のものであり、「実」である我々の魂は永遠の存在なのだから、 何も恐れずただ菩提心を起こして悟り(真理)を進めましょうということなのです。

全知全能である創造主は、敢えて意義(答え)を一つに限定しないという原理によって、豊かに世界の創造を続けているのです。我々に無明を与え、敢えて愚かに創った上で経験を与え、想像力という創造主本体にはない素晴らしい力を与えているのです。全知全能のままでは何も経験できず、想像=創造は広げようがないのです。

例えばコップというものはペン立てにしたり灰皿にしたり色んなことに使えますが「飲み物を飲むため」という一義的な存在理由があります。同じように人生・世界にも一義的な存在意義(答え)というものはちゃんとあるのです。しかし今のあなたがそれを知ったところで、ただ単に答えが限定されて自由がなくなるだけで、恐らく幸せにはならないでしょう。だから僕は既に人生・世界が創造された理由・経緯をきちんと思い出しているのですが、それを語るのはまだ先になると思います。

我々に人生・世界を与えている創造主の思いを代弁するために、こんな例え話をしましょう。あるガラス職人さんが訪れた子供たちにガラス細工の体験を無償でさせてあげていました。そのガラス職人さんは特にテーマも決めず、子供たちに何を作るか・何に使うか(それが何であるかの意義付け)も自由にしてくれました。そして子供たちは楽しそうにそれぞれ思い思いのデザインでグラスを作ったり、花瓶を作ったり、オブジェを作ったりしました。子供たちは帰った後もその作品を大事にして、思い思いの使い方で愛しました。ガラス職人さんはとても幸せでした。

ガラス職人さんにとって子供たちがどんな作品を作るか・どんな使い方(意義付け)をするかは重要ではないのです。子供たちにただただ喜んで欲しくてその機会を提供しただけで、感謝されることが目的でもないのです。

ところがこのガラス職人さんがせっかく与えてくれた経験機会の価値がわからず、感謝せず、「芸術の才能がない自分にはうまく作れるわけがないし、何の影響力もなくて面白くない。無意味なことをさせないで欲しい」と反発し、テキトー・投げやりに作品を作って素材を台無しにした挙句「こんなもの要らない!」と投げ捨ててしまう子供がいました。さて、ガラス職人さんはどんな気持ちになったでしょうか?

あなたは創造主からせっかく与えられた世界・人生という経験機会(芸術の素材)が気に入らず、無意味だと嘆き、人生という作品を自分でつまらないものにしておいて、勝手に運命を呪っているのです。それが悪いカルマとなって鏡のように自分に跳ね返ってきて鬱状態になるのは当たり前ではありませんか?

いつも言っていることですが、与えられたものの価値に気づいて感謝できない人間に、より良いものを与えたいと思う人はいないでしょう。創造主もそこは同じであり、そういう原理でもってこの世界は創られているのです。与えられたものに感謝できない人間というのは、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値に気づかされるような悲惨な人生になるのが定めなのです。

わかりますか?あなたは与えられているものは「当たり前」と思い(当たり前は有難いの対義語です)、他人と比べて与えられていないものを嘆き、与えてくれている相手に対して不満点があれば恨みに思って感謝できていないから、その「当たり前」と思って意識さえしていなかった「生きる意欲」さえも剥ぎ取られ続けているのでしょう。

誰もが喜ぶものを与えられなければ感謝できない人の感謝に価値などないのです。どんな苦難も自分の成長の為に与えられていると感謝しながら受け取れる人の感謝にこそ価値があるのであり、その苦難を乗り越えて行く中で人は魂的に成長できるのです。


<カルマ的原因と解決法>
人生の一義的な存在理由は、魂の成長にあります。あなたが不幸なのは人生・世界に意味がないからではなく、あなたが魂の成長課題(カルマ)に立ち向かっていないから(己の心に愛を育てられていないから)であり、それゆえに成長課題(カルマ)がどんどん雪だるま式に膨れ上がり、ストーリーが前に進まず、人生が「嫌な仕事を我慢して駄賃を稼いで生きのびるだけのクソゲー」みたいになり、嫌なことばかりで自己効力感を失い、虚しくなって何も楽しめなくなっているのでしょう。愛で世界を救う主人公として目覚めずエゴを目的に生きる限り、この人生というRPGにおいては脇役NPCでしかなく、NPCの物語が面白くなるわけがないのです。

魂の成長(カルマの克服)こそが人生のテーマを構成するのであり、あなたのカルマ(人生のテーマ)が何であるかはあなたが自分で経験を通して悟るべきことです。他人である僕があなたのカルマ(人生のテーマ)が何であるかを決めるというのはナンセンスですし、そもそもあなたに直接お会いした事さえないので知りようがありません。

ただカルマというのは本質的に人によって大差はなく、本人が一番目を向けたくないところにあるものなのです。カルマの良化法はよくよく読んでおいて下さいね。そしてあなたのカルマは前回の質問継父との関係から察するに、継父との関係性が大きく関わっていることは容易に推察ができます。前回あれだけ言葉を尽くしても伝わっていない(カルマが良化していない)みたいですが、恐らくあなたは結局あの質問の後も継父との関係を改善させられていないのではないでしょうか?

厳しい言い方にならざるを得ないのですが、あなたの被害者意識は成長拒否であり、不幸に導かれるのが必然なのです。自分の幸せの責任を親に求めていいのは中学生までです。大人になるということは、自分の幸せについて全責任を負うことです。全ての原因が自分の考え方にあるのですから、自分が考え方を変えれば全てが変わるのです。

好きではない親の世話になるのが辛い・早く自立したいというお気持ちは僕も同じだったのでよくわかります。しかし社会に出てみて実際どうでした?仕事はつまらない。嫌なこと・我慢しなければいけないことが常にいっぱいある。競争社会の中で常に他人と比較され、責められたりバカにされたりして自尊心をズタボロにされる。酒を飲んだりスポーツをしたりしても虚しく、何のために生きているんだかわからない。

あなたの父親もきっと同じだったのではないかと思いやりを持つことはできませんか?そしてあなたの父親はそんな中でも、家族を支えるために必死で色んなことに耐えて頑張ってきたのに、連れ子は自分に懐かず尊敬せず感謝せず反発ばかりしてくる。それでも途中で投げ出すことなく、経済的に不自由なく社会人になるまで育て上げたのでしょう。あなたに同じ事ができますか?エゴに埋没して虚無感に陥って生きる気力さえ失くしているような今のあなたにそれができるとは到底思えません。別にそれはできなくても良いんですけど(僕もできないです)、社会の厳しさを知ったあなたは父親に対する恨みを捨て、父親の欠点や過ち(依怙贔屓や理不尽な折檻)を心の底で許し、心から感謝・尊敬の念を持って、それを素直に伝えてはいかがでしょうか?それこそが人に存在意義(価値)を与えるということです。もしあなたにそれができたらきっと大きなカルマが解消され、人生が音を立てるようにして変わっていくと思いますよ。


<鬱の本質的な原因と乗り越え方>
これもいつも言っている事ですが、世の中のすべての問題は究極「愛の不足」が原因であり、逆に言えばすべての問題の解決策は究極「愛」なのです。これは例外がありません。

愛の対極にあるのはエゴです。僕もあなたの年齢の頃は思いっきりエゴに埋没して生きてきました。今それが自分で認められるのはエゴを乗り越えられるようになったからであり、その当時は自分がエゴに埋没しているなどという自覚さえ全くなく、それゆえに苦しんでいました。あなたもまだ実年齢的にも魂的にも若く、エゴに埋没していて己の中にある愛(思いやり・慈愛)を全く育てられていないという自覚がないのでしょう。

世界の本質はワンネスであり、エゴというのは分離意識・自己保存欲なのです。エゴによって自分という個体にだけ都合のいいように考え行動すると、深い部分で自分を嫌いになってしまうのです。そして自分が嫌いなのに他者(他人・世界)を愛せるわけがなく、厭世観に陥り、すべてがイヤになって鬱状態になってしまうのですね。鬱というのはエゴへの埋没を原因としており、また結果ともしている悪循環構造なのです。ただただエゴのために生きるって虚しいでしょう?だからあなたは鬱状態になっているのだと思います。そしてそれも含めて何事も経験から実感を通して知るっていうことはとても大切なことであり、あなたがその機会を与えられているということ自体が途方もない価値(存在意義)なのです。それは「当たり前」なんかじゃないんですよ。

あなたは仏教を勉強しているそうですが、理屈を頭だけで理解しようとするのではなく、六波羅蜜(&新六波羅蜜)を本気で行じてみて下さい。そうして実践によって己の中にある愛(思いやり・慈愛)の心を育てていって下さいね。そうすれば必ず実感を通して大切な事に気づかされますから。世界が関係性の中で成り立っているということ、自分はそれを愛・融和・調和のベクトルに向かわせる使命がある主人公だということ、など。自分の存在意義も世界の存在意義も関係性の中にこそあるのですが、それは説明されて理解できることではないのです。

一日一善で良いので、一切見返りを求めず、他者の為に尽くしてみて下さい。利他的な行動というのはエゴとは真逆で、やればやるほど深い部分で自分を好きになるという目に見えない素晴らしい価値が即与えられるのです。


>僕が死ぬと悲しむ友達、家族がいて80億人の中の100人程度の脳内の情報が変わるだけ。
今は無理でもいつかは自分が主人公(経験主体者)の地位が与えられているということの価値に気づいて、世界を救うという使命を果たして下さいね。それは生まれの格差について(陰謀論)未来に絶望したくなるに書いた通りです。別に有名人になる必要はなく、自分が世界に救いが連鎖する核になれれば、誰が評価しなくとも創造主はすべてを見ていてすべてをきちんと評価してくれます。連鎖反応=指数関数にとって、80億なんて大した数ではないのです。逆に目の前の人も自分自身も救えない人間に影響力があってもロクなことになりません。だから今現在の自分に影響力がないことより、目の前の人も自分自身もまだ幸せにできていないことに問題意識を持って下さいね。もしあなたが目の前の人を愛によって救える存在になり、揺るがない連鎖反応の核になれさえすれば、世界は必ず救われるのです。世界に何十億人いようと、それはあなたの鏡のような存在なのですからね。己のエゴに埋没せず、スケールの大きい・愛に溢れた人間になって下さいね。


<創造主直伝 さとり4カ条>
1.偉くなろうとするな、(自他全てが)尊いと知れ。
2.特別になろうとするな、特別(主人公)であると知れ。
3.日々愛を実践し、特別ではなくなること(差取り・ワンネス)を目指せ。
4.幸せになろうとするな、幸せであると知れ。


それでは、あなたの覚り=幸せを心よりお祈り申し上げております。

2025年5月23日金曜日

毒親との接し方

【質問】10代・男性 高校生 ペンネーム:エビクリーム

真也さん、お疲れ様です。いつもタメになる投稿を見せて貰って、若いながらも学ばせて貰っています。

僕には両親がいるのですが、父親は自分の怒りのコントロールが効かない人で暴力こそは無いももの、僕が小さい時(小学校中学年〜高学年)から喧嘩になると大きな声で罵声を浴びせたり顔を近づけて(やんのかコラ?)などとが多くありました。軽く数えても1000回程度です。母親は責任感が強く、僕を守ろうとして沢山動いたりしてくれていたのですが、パニック障害などを発症してしまった時の発言等に僕の心に刺さるものがありました。

現在は喧嘩をしてしまって、もうバラバラという感じです。母親とは直接的な喧嘩はその時しなかったので、少し話したのですが(幼少期の事など)、私もお前の前の非行にはとても心を痛められた。私たちは旅行も連れて行ったりできるだけ甘やかしたのに、そんなに辛い風には見えないよ?と言葉が帰ってきてしまい落ち込んでしまっています。

要は何が言いたいかと言いますと、人生には偶然等は無くそれ自身も僕の成長に必要なものであり、意味の無いプロセス等は無いと分かっているのですが、彼等とどのように接すればいいのかが分かりません。僕とは考え方がやはり違うので衝突などが多く、上手くいく自信がありません。

そして父親の母親に対しての八つ当たりや、その原因が僕だと言うのを言われてしまうなら関わらない方がいいのかな?と思っていたり。

何と言うか正解が見つからないような感覚でそれを自分自身で見つけるからこそ人生なのですが、また今回の喧嘩が起きてしまい、家を出ていけと言われてしまったり・母親の対応にやられてしまい。相談させて頂きました。長文失礼いたしました🙇

【回答】
ご質問ありがとうございます。そしていつも発信を受け取っていただき、ありがとうございます。基本的に僕はエゴが収縮し始める30~40代の人をイメージして発信しているのですが、あなたのように若い方にメッセージが届いているということは、とても嬉しいことです。

さて、ご質問内容についてですが、幼い頃からあなたが受けて来た深い傷と怒りに心から同情します。僕もあなたほどでは全然ありませんが、親との関係では相当苦しみました。親から逃げたくても年齢的に自立が難しく親の庇護にすがるしかない・誰にも相談できない・逃げられない状況というのは本当に酷だと思います。僕がお金の要らない・愛の時代を実現したいのは、そういう状況を失くしたいからでもあります。

それだけの困難に直面しても、あなたは「人生には偶然等は無く、それ自身も僕の成長に必要なものであり、意味の無いプロセス等は無い」と理解しようとしているのですから、それはとても立派で尊いことです。

ただ、そんなに焦って大人になろう・悟ろうとしなくて大丈夫ですからね。僕も高校生の頃はかなり荒れていて、悟りなどとは程遠い暗い青春を送っていましたから。そしてそれが必要な経験だったと気づいたのは、そのずっと後のことでしたから。

僕らの魂は同源同一であり、例外がありません。そしてその魂というのは純粋な子供の如くであって、とても繊細にできているものなのです。実に多くの人が、頭では大人になったつもりで、傷つかないように必死に自己防衛し、その子供のような純粋な魂(インナーチャイルド)の声を封じ込め、傷ついている自分を認めることさえできず、その成長のギャップが心の歪みとなって様々な形で悪影響が起きてしまっているのです。

成長というのは魂(インナーチャイルド)の成長と足並みを揃えなければいけません。だから今はただ自分の中の傷ついている魂の声をしっかりと受け止め、我が子のように労わり、癒してあげて下さい。自分の傷ついた心を認めることは、決して負けることではありません。

自分の癒し方は人それぞれですが、動物や自然と触れ合うなり、好きな音楽や読書やスポーツなどの趣味に没頭するなり、自分に合ったやり方をしてみて下さい。僕的にはぜひ信仰心を持って寺社などに通うなりして神仏に頼って欲しいところなのですが。

本当に辛い時は逃げても良いのですよ。人生はRPGであり、本当に弱っている状態の時に手に負えない困難と遭遇したら、一旦は逃げて体制を立て直す以外にないのです。そして素直に人を頼って下さいね。プライド・意地で人を頼ることを恥じないで下さい。親せきなどを頼って状況が改善するまでかくまって貰って親との間に入って貰うことはできませんか?(もしかしたらあなたの親も実家と関係が悪くて難しいのかも知れませんが)学校の先生などにも相談はできませんか?もしできないのであれば、以下の連絡先に相談してみて下さい。軽く調べただけなので、実際どういう対応をしてくれるかなどは全然わかりませんが、相談先はたくさんあるのだという例として挙げておきます。

📞【24時間対応】チャイルドライン(18歳まで)電話:0120-99-7777
受付:毎日16時~21時(無料・匿名)
チャットも可(16時~21時) → https://childline.or.jp
子どもの気持ちに寄り添って話を聞いてくれる窓口。「どんなことでも話していい」が基本スタンスです。

💬【LINEで相談】生きづらびっと(10代~20代対象)
LINEで気軽に相談可能(完全無料・匿名)
こころのモヤモヤ、不安、家族のこと、自傷・希死念慮などにも対応。
公式サイトはこちら

🌱【全国の児童相談所】
全国共通ダイヤル:189(いちはやく)最寄りの児童相談所につながります。
「親からの精神的な暴力」「家庭で安心できない」などは、虐待の一種として扱われる可能性もあります。話を聞いてくれて、必要ならシェルターや保護の手段も検討してくれます。

📱【その他:若者支援の窓口】
こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556
各地の精神保健福祉センターにつながります。親の精神疾患・家庭のことなども相談可能。
法テラス:0570-078374
もし今後、家を出たい・住むところを探したいといった法的なことが出てきた場合にも無料で相談できます。

そして奨学金を貰って進学して寮暮らしするとか、住み込みをさせて貰えるバイトを探すとか、とにかく今は親と距離を取ることを優先して下さいね。もし今すぐにそれができないとしても、そういう希望を持つだけでも全然違いますから。

根本的な解決にはなりませんが、もし時間があれば格闘技などを習って心身を鍛えるというのも良いと思います。強くなれば自身もつきますし、それは仮初めの自信ではあるのですが、少なくとも身体的な暴力は受け難くなりますからね(決して力に任せて暴力を奮い返したりしないで下さいね)。




_______________________________________

<未来のあなたと読者の方々へ>
さて、これから書くことは今すぐには読まず、まず親と距離を取れるようになって落ち着いて、自分の傷を自分で認めて受け入れ愛し労える状態になってから考えてみて下さいね。先にも書いた通り、あなたはまだそんなに焦って大人になろう・悟ろうとなくて良いのです。今は問題から距離を取って自分自身を守り、癒すことに集中して下さい。

ただ僕は預言者としての使命上、未来のあなたのため、そして同じように毒親に苦しめられている多くの人のため、ただ逃げ方を伝えるだけで話を終わらせるわけにはどうしてもいかないのです。どうぞご容赦下さい。
_______________________________________

人格的に問題の多い(いわゆる毒親)に育てられるというのは、とても重いカルマです。ただ我々の魂というのは同源同一のものであり、主人公というのは基本的にそのような困難な生い立ちを抱えているものなのです。

悪いカルマの解消法に書いた通り、カルマというのは決して意地悪で与えられるものではなく、成長のために愛で与えられている課題であり、生徒に乗り越えられない課題というのは成長につながらないので与えられないのです。重いカルマはより高いレベルの魂に与えられるのであり、乗り越えればより大きな幸せが待っているのです。僕を信じて下さるのであれば、どうぞそれを信じて下さいね。

魂の年齢というのは、今生での実年齢とは関係がありません。あなたの父親がどんな人生を送られてきた方なのかは存じ上げませんが、きっとカルマを正面から乗り越えようとしてこなかったままのために雪だるま式にそれを膨れ上がらせ、まだ魂的にも幼いままで、自分の中の魂(インナーチャイルド)を常に抑圧してきた人なのでしょう。そしてそれがきっとあなたという(自分に似ている)実の子供に対して攻撃するという歪んだ形で表れてしまっているのだと思います。他人と上手くやれない人というのは、まず自分自身と上手くやれていないのです。

あなたの側からすれば「こっちはいい迷惑だ」と被害者意識に陥ってしまう気持ちもよくわかります。しかしあなたの認識している世界というのは、すべてがあなたという主人公個人のために与えられているものなのです。あなたが実際に関わっている人のカルマ(課題)というのは、あなた自身のカルマ(課題)を鏡(拡大鏡)のように映し出したものだということです。PRGで他人(NPC側・設定側)を変えようとしても変わりません。あなたという主人公が変われば全てが変わります。そのようにあなただけのために用意されたオリジナルのシナリオがあるのです。あなたが既に理解して下さっている通り、この世に偶然は存在せず、すべての出来事・出会いに意味(意図)があるのです。被害者意識というのはカルマ(課題)を他人のものと考える成長拒否であり、不幸に導かれるのが必然なのです。

いつも使っている例えですが、ゲームのバイオハザードでゾンビが出てくるのは主人公が悪いからではありません(自分のせいだと思う必要はありません)。かといって相手側(ゾンビやアンブレラ社)を責めたり、制作側(クリエイター・ゲーム会社)を恨んだりして被害者意識に陥ってもゲームは進みません。自分も相手も運命も責めず恨まず、ただ自分に与えられた成長課題だと信じ、楽しみながらその課題を目の前から一つ一つクリアしていくことが大事なのであり、それは人生も同じだということです。

人生は愛を経験的に知るため・表現するために与えられたものなのです。だからこの世の全ての問題は愛の不足が原因であり、逆に言えば全ての問題の解決策は愛なのです。これは例外がありません。

そして「許し」こそが愛なのです。威圧的な父親になつけなかった自分も、不幸な生い立ちから威圧的な親にならざるを得なかった父親も同時に許して下さい。答えはいつでも「自分も誰も悪くないけど、自分が何とか(成長)するしかない」です。

どうかどんな困難も(愛と勇気を試し、魂の成長を促す)愛によって与えられているということを忘れないで下さいね。聖書の「ヨブ記」はぜひ読んでみて下さい。誰しもが喜ぶようなものを与えられてする感謝に価値はありません。どんな苦難も愛によって与えられていると信じて感謝と共に受け取れる人の感謝にこそ価値があるのであり、そこにこそ魂の成長があるのです。

与えられたものに感謝できない人に、もっと良いものを与えたいと思う人はいないでしょう。それは創造主も同じであり、そういう原理でこの世界は創られているのです。与えられたものへの感謝がない人間は、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値に気づかされるような悲しい人生になってしまうのが定めなのです。

カルマというのは連鎖するのが原理であり、あなたがそのカルマの負の連鎖を断ち切るシナリオになっているのは、あなたが主人公のRPGなのですから当然のことなのです。だからどんなに理不尽に思えたとしても、時には逃げることが必要だったとしても、いつまでも自分を被害者の立場に置いてカルマ(課題)を乗り越えようとしないのでは、RPG(愛・勇気・成長)の物語にはならないのです。だから自分が負のカルマの連鎖を終わらせ、良いカルマに転換する終端装置になることです。エゴを愛に昇華し、悲しみ・不幸を喜び・幸せに転換することです。入力(過去)が不幸だからといって、それを理由に出力(未来)を不幸にするなら、主人公に存在意義はありません。

どうか「こんなに不幸な生い立ちで、こういう風に生きれば不幸になる」というネガティブな教訓をアカシックレコードに捧げるために貴重な人生を使わないで下さいね。それはMisson Faildなのです。最終的には「こんなに困難な状況にも負けず、こういう風に生きることで幸せになった」というポジティブな教訓をみんなに提供して励ませるような存在になって下さい。

そうしていつかあなたが創造主の愛によって存在し、神仏の加護を受けて生きているのだということをぜひ実感して欲しいです。それだけの困難が与えられても自分自身と他者と人生(世界)の存在に心から感謝するというのはとても酷なことだと思いますが、因果というのは時空を超えて連鎖するものであり、今現在のあなた自身の信心・感謝のなさが、時空を超えて今までの不幸をもたらしているのです。だから苦難に満ちた人生でも先回りして信心を持ち、感謝することが大事なのです。自分の人生を決して他人(NPC)と比べないで下さいね。僕らは魂の成長のために生まれてきているのですから、カルマ(課題)が簡単でラクな人生ほど幸せなのだと考えるのは大間違いです。

<霊的(カルマ的)解決>
さて、まだ幼い実の子に向かって日常的に「やんのかコラ」などとスゴむというのは、あまりにも常軌を逸していると思います。それは一種の憑依現象(霊障)で、自我が霊障に乗っ取られているのでしょう。その構造は憑依現象(霊障)についてに書いた通りです。

実際あなたの父親はいつも威圧的なわけではなく、優しい時もあるのではないですか?あなたのことも旅行に連れて行ってくれたりしていて、決して育児放棄をしていたわけではないのでしょう。まさか虐待しようと思ってあなたを生んだわけではなく、愛そうとしていたのにそれがうまく表現できず・伝わらず、仕事で嫌な思いも我慢しながら稼いで一生懸命育てているのに、懐かず・感謝されず・愛されず、反発された結果、あなたは父親にとって自身と世の中に対する不平不満をぶつける対象にされてしまっているのでしょう。でも本当はあなたに愛されたいに違いありません。

だからいつかはそんな風にしか生きれらない父親の心の傷に同情と許し(慈愛)の気持ちを持って下さいね。恐らくは社会で自尊心をズタボロにされて(その痛みはあなたも社会に出ればわかります)、家族に威圧的に接することで実質的に尊敬を強要することでしか自尊心を保てない状態にあって、自尊心というものが自他への愛によってしか満たせないものであるということは考えもつかないのでしょう。

あなたの父親はよっぽど大きな傷を抱えていて、深い部分で自分自身も他人も世の中も許せず、尊敬できず、愛せず、嫌って、自己嫌悪と厭世観に陥ってしまっているのでしょう。それは実に多くの人が抱えている自尊心の病気(社会病理)なのです。あなたの父親はそれゆえにネガティブな霊に(何かをきっかけにして、突発的かつ常習的に)自我を乗っ取られてしまっていて、突発的に攻撃的な人格が現れてしまうのでしょう。しかしあなたの父親が攻撃しているのは彼自身なのであり、俯瞰して見ればとても可哀そうな人なのです。そしてそれは主人公であるあなたが救いに導くシナリオになっているのです。

相手の攻撃に対して攻撃し返せば負のループは終わりません。カルマは増幅連鎖するのが原則なのですから、あなたもそのままいけば同じ霊障に憑りつかれて、きっと父親と同じようになってしまうでしょう。

愛というのは無条件化していく方向が成長方向なのです。相手に瑕疵(欠点や過ち)があれば愛せなくて(感謝できなくて)当然という考え方(愛の条件化)はそれとは逆のベクトルなのであり、世の中に瑕疵(欠点や過ち)のない人間はいませんから、それでは究極誰も愛せず、感謝できなくなっていくことになります。

あなたからすれば理不尽極まりないでしょうけども、あなたの母親の言うことも一理あるということです。瑕疵(欠点や過ち)があるからといって与えられているものに全然感謝せず反発して恨みで返すのみというのでは、お互いのカルマが増幅するだけになってしまうでしょう。

あなたの親は一応はあなたを養って学校にもちゃんと行かせて、旅行などにも連れて行ってくれていたところを見ると、きっといつもいつもそんなに威圧的なわけではないのでしょう。あなたが父親に従わず、感謝せず、反発することをきっかけとして色々人生で溜めてきたもの(全くあなたのせいではない傷・怒り・不平不満・恨みなども全部含めて)が爆発してしまうんだと思います。それはもう自我を霊障に乗っ取られているということなのです。

分離意識の強い若い時にはとても理解できないことかと思いますが、世界の本質はワンネスであり、すべては一つなのです。それはつまり我々全員が同一人物のようなものだということです。愛憎劇と魂の成長を経験できるように、分離意識・異なる個性(配役)・異なる環境(視点)が与えられているだけで。

本質的に他者というのは存在しないのであり、カルマ(シナリオ)は基本的に両方の立場を経験するようになっているのです。それは超時空的なもので、そこに時間・実年齢は関係ないのです。つまりあなたの親は過去世か未来世でのあなた自身なのであり、あなたの親であると同時にあなたの子供でもあるのです。とても信じられないと思いますが、例えそうでなかったとしても、そう考えながら接するのが正解なのです。

それは若いあなたにはまず無理なことであって、できるようになるのはずっと先で大丈夫なのですが、成長のベクトルはその方向にあるのだと知っておいて下さい。そしていつか自分の親を自分の子供のような視点で温かく成長を促しながら見守れるようになって下さいね。それにはまず相手よりも先に自分から愛情を示すことです。

カルマというのは超時空的なものですから、現在のあなたが変われば、過去も未来もすべてが超時空的に変わるのです。

早くから親元を離れ、働いて社会に出る大変さ・自他の自尊心を保つ大変さを知り・家庭を持って奥さんや子供とうまくやる大変さを知り、親に心から感謝できるようになって下さいね。心に逆らって無理に感謝をすることが本質ではありません。心からの感謝が自然と態度に表れるぐらいに苦労を乗り越えてみて下さい。

親だから大人だからという理由で他の家庭と比べて自分の親に愛情を期待・強要せず、存在そのものに有り難みを感じて下さいね。そして結果(見返り)を求めず自分から愛情を示すことで、あなたのカルマはきっと解消されていくと思います。

そして霊的解決のために、縁を感じる宗教に通ってみて下さい。信者になる必要はありませんし、無理に勧誘されたりお金や奉仕を強要されそうになったら一目散に逃げて下さい。お勧めは南無妙法蓮華経のお題目を唱えること(できれば本門仏立宗など日蓮系のお寺に通うこと)と、世界救世教や崇教真光などで無料で浄霊を受けることです。縁がある宗教と巡り合えば、きっと奇跡を経験することになると思います。

僕自身どこの宗教にも属しておらず、特定の宗教に勧誘するつもりはありませんが、霊的な問題の解決というのは一人では難しいと思うので、ぜひ参考にしてみて下さい。人生の問題の全ては神仏への愛(信心)へと導かれているのです。

それでは、あなたが悪いカルマを解消し、心からの感謝と幸せに至ることを心から祈っております。

2025年5月2日金曜日

スピ詐欺に騙されないようにするには

 【質問】20代 女性 小売店勤務・作曲家(兼業)ペンネーム:L

「正しいスピリチュアルと怪しいスピリチュアルの違いと判断基準(自称シャーマンや霊感商法等明らかにおかしいものを除く)」、「どのようにすれば怪しいスピリチュアルに騙されずに済むか」についての質問です。

私は、「この世は仮想現実である」というマトリックス的な世界観に強く惹かれています。元々不安を感じやすく、深く考え込む性格のため、「生きていくためのライフハック」のような思想や考え方を探求し、心の拠り所とすることが好きです。

しかし、世間一般で語られる「怪しいスピリチュアル」には抵抗感があります。例えば、「子宮系」「宇宙銀行」「パワーストーン」「レムリア信仰」といった思想は、私には非現実的で胡散臭いものに感じられます。また、必要以上に金銭を要求するようなスピリチュアルイベントにも不信感を抱いています。

私は、スピリチュアルには仏教や神道、東洋思想、ヨガ修行、南米の伝統的なセレモニーといった正統なものと、ニューエイジ的な流行に乗った、信頼性に欠ける霊感商法のようなものがあるのではないかと考えています。

2年前、YouTubeを通じてAさん(仮名)というスピリチュアルリーダーを知りました。Aさんは南米在住で、何回もアヤワスカの儀式を経験しており、日本人と南米のアヤワスカを繋ぐ活動をしています。彼女が南米での生活を通じて得た叡智に学びたいと思い、今月末から始まる1ヶ月間のオンラインプログラムの参加を決めました。今回が2回目の参加となりますが、昨年参加した際は、まだ「この世はマトリックスである」という気づきにすら至っておらず、活動期間中もエゴに固執してしまい、深い学びや実感を得られないま終わってしまいました。

今年に入り、リベラルの過激化やカリフォルニアの火災、財務省や増税の闇、芸能ニュースの裏で重要な法案が通されるといった出来事を知り、陰謀論や都市伝説が真実である可能性に気づきました。これにより、「この世界はバグっており、洗脳装置(人々の煩悩を量産する仕組み)で溢れている」「この世界は仮想現実であり、仮想現実であると気づかせないために洗脳装置が人々を惑わせている」という結論に至りました。

この気づきから、再びスピリチュアルへの関心が湧き、Aさんのオンラインプログラムに再参加することを決意しました。しかし、スピリチュアルを学んでいく中でAさんへの不信感も感じるようになりました。

まず、オンラインプログラムの参加費が7万円と高額であることです。期間は1ヶ月間で、その間に数回のオンラインヒーリングセッション(その中の1~2回はAさんと親交のある現地のシャーマンの方もゲスト参加)とオフ会を開催するのですが、ゲストの方がいらっしゃるとはいえ大部分がオンラインで7万円は少し高額なのではないかと感じました。またオンラインプログラムだけでなく、Aさんが案内するアヤワスカリトリートも数日間で40万~60万円と相場より高いです。

次に、コミュニティが不幸な人の溜まり場になりつあることです。参加者の中に人生における苦難や不幸の真っ只中である方々が多いことに疑問を感じています。振り返ると、前回参加した際も、仕事の過労で睡眠障害になった方、引きこもりの方など困難な状況にある方々が多かった印象があります。

今回、私の他にもう1人、2回目以上の参加の方がいらっしゃるのですが、前回参加した時から全く状況が良くなっておらず、Aさんのコミュニティに依存してしまっているのではないかと思いました。

この経験から、高額な参加費を支払ってAさんのコミュニティに参加することで、私自身もスピリチュアルジプシーになってしまっているのではないかと不安を感じています。

また、不幸な人だけでなく、「子宮系スピ信者」「宇宙銀行信者」「レムリア信者」など如何わしい思想の参加者も多いと感じました。

さらに、Aさんへの信頼に最も影響を与えたのは、日本人の自称シャーマンのBさん(仮名)とAさんの親しい関係です。男女の関係など如何わしいものではありませんが、過去に共同でイベントを開催するなど、親密な繋がりがあるようです。私は、Bさんが大学で文化人類学を専攻し、南米の土着の信仰や風習を専門的に研究したことや、アヤワスカでの気づきを創作活動で表現している点は尊敬しています。しかし、彼がまだ完全な覚醒に至っていないと感じるため、シャーマンを名乗る資格やセレモニーを主催する資格はないと考えています。また、最近Bさんがタントラやクンダリニーを誤って解釈したような性エネルギーのイベントを開催していることにも違和感を覚え、こうした活動は控えてほしいと感じています。

正しいスピリチュアルと怪しいスピリチュアルの見分け方と判断基準は何か(自称シャーマンや霊感商法、パワーストーン販売等明らかにおかしいものを除く)、今まで私が関わってきたAさんは信頼に値する人物なのか、どうすればスピリチュアルジプシーにならずに済むか、ご指導いただけますと幸いです。

何卒宜しくお願い致します。

【回答】
ご質問ありがとうございます。あなたのその問いはとても尊いものであり、僕というフィルターを通すことによって、より多くの魂の兄弟姉妹たちの尊い気づきに繋がると思います。

まずお伝えしたいのは、あなたのように「怪しいものには流されず、本質を見極めたい」と真剣に問い続ける姿勢そのものが、既に正しいスピリチュアルの入り口に立っている証だということです。あなたが探しているのは単なる癒しや快楽ではなく「真に魂が成長し、愛を実践していくための智慧」でしょう。それこそが本物のスピリチュアルが目指すものであり、僕らがこの世界に生まれてきた目的でもあります。

どうか僕が偉そうに誰かを責めて否定して説教しようとしているのと誤解しないで下さいね。僕は出会った誰に対しても、人生の苦難に立ち向かう魂の兄弟姉妹として尊敬の念を持ちながら、その幸せを願って天からいただいた真理(悟り)を共有しようとしているのです。

真理というのはみんなを幸せにするものです。だからそれが真理かどうかはそれによってみんなが幸せになるかどうかでわかります。しかし同時に、真理というのは理解し受け入れるのに痛み・苦しみ(成長痛)を伴うものなのです。それがもし簡単に受け入れられて世間で常識化するようなものであれば、人生は成長の物語にはならないのです。

全ての問題の原因は究極「愛の不足」であり、逆に言えば全ての問題の解決策は「愛」なのです。それはこの問題も例外ではなく、例外は存在しません。僕らは「愛とは何か?」を経験を通じて知るため(表現するため)に生まれて来るのであり、全ての課題はそのためのマテリアルなのです。

スピ詐欺師に対して怒りを感じるのはもちろん僕も同じです。しかしスピ詐欺師になる人たちというのは憐れむべき存在なのです。きっと社会ではまともに生きて行けず、自尊心がズタボロになり(愛の不足が原因)、何かのスピにすがって社会からドロップアウトし、スピ以外に稼ぐ手段がなく、自尊心の回復と将来の不安の解消のために無理に金や権威を得ようとしてエゴの権化と化し、詐欺的な手法にならざるを得なくなっているのでしょう。

そういう人たちに騙される人たちというのもかつての彼らと同じように社会でうまくやれずに自尊心がズタボロになり(愛の不足が原因)、スピで何か特別な人間になることで自尊心を高めたい・現実(カルマ=自分の人生の課題)から逃げ出したい・依存したいという気持ちがあるから、スピ詐欺師に依存・逃避し、騙されてカモにされてしまうという連鎖構造があるのでしょう。

騙す側には騙すようになるだけの原因を積み上げた結果騙しているのであり、騙される側は騙されるようになるだけの原因を積み上げた結果騙されているということです。その原因を無視して「こういう人は詐欺師で、こういう人は本物」などという判断基準を伝えたところで、騙される直接的な原因である自尊心の低さ(愛の不足)と依存・逃避願望がある限り、結局は騙されるので意味がありません。騙される人というのは何でも自分の都合の良いように現実をねじ曲げて解釈して自己正当化することが得意だからこそ騙されるのであり、直感で相手を「怪しい」と思っても(他人から警告されても)、簡単にそれをねじ伏せてしまうのです。そういう人はきっと騙されて覚る経験がしたくて生まれて来ているのでしょうから、基本的には本人が自分で覚る以外にないのです。

<創造主直々にいただいた、さとり四カ条>
①偉くなろうとするな。(自他全ての存在が)尊いと知れ。
②特別になろうとするな。特別(主人公)であると知れ。
③日々愛を実践し、特別ではなくなること(差取り・ワンネス)を目指せ。
④幸せになろうとするな、幸せであると知れ(感謝報恩に生きよ)。

わかりますか?スピによって偉い人間・特別な人間になろうとするのではなく、創造主の愛によって存在している尊い特別な存在なのだと悟り、まだ成長過程で愚かで罪深い自分を許して愛し、自分と同じように愚かで罪深い他者も許し愛することです。そして常に今の自分にとってベストなものが与えられていると感謝し、不平不満や恨みを捨て、自分を活かしてくれている全ての存在(創造主)への報恩に生きることです。それが悟りの道なのです。


スピ詐欺に騙される人間というのは、自尊心自体を対象に依存しているのでしょう。依存対象が間違っているということを認めることはその人を信じている自分が間違っていると認めることですから自尊心が傷つきますし、何を信じて良いのかわからなくなり、誰にも理解されていない・認められていない・愛されていないと感じるのが怖いので認められないのでしょう。そして今まで貢いできたお金と労力が大きいほど、依存対象が「詐欺であって欲しくない・本物であって欲しい・自分は騙されているのではない・ここまでしたのに無駄になるのは嫌だ」という思いも強くなるので損切りが難しく、意地になって自らの疑念に抵抗してどんどん深みにハマってしまうのでしょう。それはホスト・ホステスなどにズルズルとハマるのと同じ構造なのです(僕はホスト・ホステスも詐欺だと思います)。己の心がエゴにまみれていて愛(無条件の慈愛)がないから人からも運命からも愛されていないのに、自分が惚れた人の愛だけを金を払って買おうとするからカモにされるのであり、それは己のエゴの毒による自滅なのです。

そして例え騙されていたと確信したとしても、依存・逃避願望がある限り、新たな依存先を探すだけで何も変わりません。根源的な原因は自他への愛の不足であり、神への愛(信心・感謝・信頼)の不足であり、更にそれを原因とする自尊心の低さ・先行きの不安なのです。それゆえにスピで特別な人間になりたい・ラクに生きたい・依存したい・逃げたいという気持ちが生じるのであり、そこを解決しない限り、スピ詐欺に騙される人が騙されないようにはならないんですね。

人生というのは自分をプレイヤー(主人公)とする成長の物語(RPG)であり、誰かに依存することは主人公の放棄であり成長拒否なのです。だから依存(逃避)というのは必ず不幸に導かれるように世界は創られているのです。

問題は依存(逃避)心なのですから、依存対象が詐欺師でも本物でも問題は本質的に変わりません。なので僕がスピ詐欺師を批判して晒し、「こういう人は信用できる・できない」と判断基準を伝えたところで、それは「正しい依存対象の探し方」みたいな感じになってしまい、結局は誰も救えず、単にスピ詐欺界隈で敵を増やすだけで根本的な解決にはならないでしょう。根本的な解決は己の愛(自他に対する無条件の慈愛)を自分で育てて依存心を断つこと以外にないのです。

ゴキブリというものが忌み嫌われることで人に不衛生を悟らせ自発的に衛生を心がけさせるという役割があるように、詐欺師という存在も精神的な不衛生(エゴによる穢れ・蓄積したカルマからの逃げ)を悟らせ、自発的に精神的な衛生を心がけさせる(成長させる)という役割があるのです。「ゴキブリなんて絶滅すれば良いのに」なんて言ったところで設定側(NPC側)は変えられません。同じように詐欺師も今の社会の価値観・システムがある限りいなくなりません。変わるべきは自分であり、自分(主人公)が変われば全てが変わるのです。


>私は、「この世は仮想現実である」というマトリックス的な世界観に強く惹かれています。

この世が仮想現実であることは個人的な世界観ではなくガッチガチの真実であり、それこそが般若心経が伝えているところであって、それは科学(量子力学)によってもほぼ実証されていることでもあるのです。

ただしそれはまだ世間には受け入れられていないのですから、日常生活においていきなりその感覚を前面に出してはいけません。世間とうまくやれず、NPC(エージェント・スミス)たちに叩き潰されますからね。常識的な感覚というのも大事にしなければならないのです。そしてお金の時代の終らせ方に書いた通り、主人公に目覚めた者はNPCたちに気づかれないよう己の精神の間で成長を目指さなくてはならないのです。


>元々不安を感じやすく、深く考え込む性格のため、「生きていくためのライフハック」のような思想や考え方を探求し、心の拠り所とすることが好きです。

僕も深く考え込む性格であり、かつては不安でいっぱいでしたから、ラクに生きる術を知りたい・何かにすがりたい・逃げたいという気持ちはとてもよくわかります。

それでも人生というのは愛(信心)と勇気を試すことで魂の成長を促す仮想現実RPGなのであり、臆病(不安)というのは成長課題なのです。それを自分の(変えられない)個性・性質のように誤解しないで下さいね。その点については極度の人見知りともほぼ同じです。この質問者さんは自分の人見知りを自分の(変えられない)個性・性質のように考え、誤魔化し・逃げるしかないと考えて、人間関係から逃げて孤独に陥り、それを大麻やLSDでごまかし、依存することで不幸に導かれてしまっているのです。

あなたはきっと「私はそんな風にはなっていない」とおっしゃるのでしょうけども、自分の課題を正しく認識せず、乗り越えるのではなく誤魔化そう・逃げよう・何かに依存しようととしているという部分では彼と同じであって(厳しい言い方で申し訳ありません)、もし自分の課題(依存・逃避)を認識することからも逃げるのなら、解決などしようがないのです。だから「詐欺師を見抜く判断基準を身に着け、本物に依存すれば大丈夫」という話ではないのです。自分(主人公)が他人に依存して良いことは何もないのです。

そもそも本物は依存なんてさせませんからね。必ず自分の足で歩かせます。そうしない限り幸せに導くことはできないからです。依存されることを喜ぶのはそれを金に変えようとする詐欺師と、共依存関係になっている相手だけです。

カルマの良化法もぜひご参照下さいね。生きることは苦しみを伴うものですから、ラクに生きる方法を探して拠り所にしたいと考えるのは自然なことです。しかし人生はあくまで成長の物語であって、幸せは苦労を乗り越える過程にあるのです。人生は苦労を乗り越えず成長せずに幸せになれるようには創られておらず、我々は死ぬまで苦労する定めなのです。どっちみち苦労するのなら、能動的・主体的に自分から成長を求めて苦労した方が楽しく幸せなのです。トレーニングだって苦しい思いをしなければ成長できず楽しく幸せにはなれないでしょう。それと同じことです。ラクをしようとすればかえって苦しくなるのであり、だからこそあなたはスピ詐欺師に救いを求めて逆に苦しくなるという遠回りをしてしまっているのでしょう。それは自分の経験から覚らなければいけません。カルマ(=人生の課題)というのは正面から立ち向かうのが最短ルートであり、一番ラクな道なんです。

人生というRPGは愛と勇気が試されているのですから、より愛と勇気が必要な方(苦労する方)が必ず正解なのです。RPGでラクそうな道というのは例外なくトラップであり、必ず遠回りか行き止まりになっていて、最終的にバッドエンドに繋がっているのです。ラクな道(逃げ道)など最初からないのだと腹を括れば腹が据わります。苦労を乗り越えるところ(成長過程)に幸せがあるのですから、ラクをして幸せになるということは絶対になく、ラクをするための努力が報われることも絶対にないのです。

どこかにラクをして幸せになっている人がいると考えて羨むことこそが精神的な不衛生であり、詐欺師という悪役の存在はそれを悟らせてくれているのです。彼らは成功・幸せを偽装し、羨ましがらせて依存させることで稼いでいるのですからね(彼らを羨ましがって依存する人もエゴにまみれているのです)。でも人を騙して金を稼いで幸せになれるわけないんですね。世界の本質はワンネスであり、エゴを動機に行動すると深い部分で自分を嫌いになるように人間はできているのですから。それはエゴ(欲)とは何か?に書いた通りです。


臆病(不安)はあくまでも成長課題であり、その原因は(自他に対する)愛の不足(エゴ)であって、己の愛を育てることによって乗り越えて行かなければならないのです。程度の差こそあれ、人はみんな臆病(不安)に創られているのであり、臆病(不安)なのがデフォルトです。何も恐れない赤ん坊とか見たことありますか?もし初めから何も恐れない人がいたら、その勇気には何の価値もないでしょう。それは単なる無謀であって勇気と呼ぶことさえできません。臆病(不安)な人間が振り絞る一握りの勇気にこそ価値があるのであり、臆病(不安)乗り越える過程に魂の成長があるのです。

それなのに他人と比べて自分は臆病(不安症)だからダメだとか、エゴが強いからダメだとか、そのように言い訳を先に用意して勇気を発揮せず、エゴによって常によりラクな選択ばかりしているのでは成長しようがない=幸せになりようがないのです。人生といRPGにおいて、自分というプレイヤー(主人公)個人のために、臆病(不安)という成長課題・シナリオが与えられているのですから、他人と比べずに乗り越え続けていかなければならないのです。そこにこそ成長・喜び・幸せが用意されているのですから。

あなたはスピ詐欺師たちが悪人で、それに騙される人たちが無辜の被害者であるように認識されている感じがしますが、決してそうではないのだと知って下さい。騙す方も騙される方も自分のカルマ(=人生の課題)を正しく認識せず、ごまかしたり逃げたりすることによってお互いにカルマを増幅しているのです。

人は己のエゴ(による期待)ゆえに自ら騙されるのであり、イノセントで人を疑わないから騙されるのではないのです。だからただ単に疑い深くなることによって騙されなくなるようにはなりません。もしエゴに埋没していて愛のない人間がただ単に疑り深くなっても、人を信じる心を失って余計に周囲に嫌われて孤独になって、信頼し合えるような人間関係が築きにくくなるだけでしょう。そうなればその孤独感につけこまれて余計に騙されやすくなることでしょう。疑うべきは相手よりもまず己の期待が単に自分に都合の良い思い込み(エゴによる願望)ではないかというところです。人は己のエゴ(自分に都合の良い期待・思い込み)ゆえに自ら騙されるものなのですから、詐欺師(NPC)を恨んで被害者意識に陥るのはお門違いということです。

この人生というRPGは、プレイヤー(主人公)が愛(信心)と勇気で世界を救うシナリオになっているのであり、自分に与えられた課題と向き合おうとせず、誤魔化して逃げて何かに依存しようとする者が騙されてより不幸に導かれるのは必然なのです。愛と勇気を試し成長を促すRPGなのですから、逃げようとする・自分だけが救われようとするNPCが幸せになるように世界が創られていたらそれは成立しないのです。カルマ(=人生の課題)からの逃げはバッドエンドを選択するのとイコールだということです。


愛(信心)・勇気・成長がこのRPGの核(存在意義)なのですから、それに反する要素である愛の不足=エゴへの埋没・臆病(不安→保身)には当然「不幸に導かれる」というペナルティーがあるのです。もし真理(愛・ワンネス)に目覚めようとせず、エゴに埋没して臆病で保身しか考えず、そのために平気で他人を傷つけたり何かを奪ったりして害し、魂的に全然成長しないような人が幸せになれるように世界を創ったら、成長の物語として成立しないのです。

実際この世の悪というのは、欲望よりも臆病(不安・保身)を動機としてなされているのであり、臆病(不安)を言い訳にしてエゴに埋没することは悪魔に魂を売ることなのです。臆病(不安)というのはエゴ(執着)由来だと知って下さい。逆に真理(愛・ワンネス)を悟っている人の心というのは平安なのです。自分が全体の一部であり、魂の永遠性を感覚的・経験的に理解できるからです。それは頭だけで理解しようと思っても無理なのです。

エゴ(欲)とは何か?」に書いた通り、エゴは誰にでもあるもので、エゴがあること自体が悪いのではありません。それを愛に昇華しようとせず、己のエゴに埋没すること・暴走させることでエゴは悪魔化するのです。

鬱の人は基本的に無気力で意欲がありませんが、それはエゴがないということではありません。自分の事ばかり考え、自分にとって都合の良いように(被害者意識で)この世界を認識していることがエゴに埋没しているということなのです。鬱というのはエゴの埋没を原因とし、また結果ともしている悪循環構造なのです。しかし鬱の人というのは「自分は欲がないからエゴが弱い」などと考えて己がいかにエゴに埋没しているかに気づけないのです。

世界の本質はワンネスであり、エゴで自分という個体にとって都合の良い選択ばかりしていると、どんどん自分を嫌いになるというペナルティーがあるのであり、逆に人のために無償で尽くすということは、それだけで自分を好きになるという最大のメリットがあるのです。だから損得勘定を捨てて結果(見返り)など何も期待せずに人に尽くすこと(愛)こそが「人が人を騙し騙される」という問題の解決策なのです。

>私は、スピリチュアルには仏教や神道、東洋思想、ヨガ修行、南米の伝統的なセレモニーといった正統なものと、ニューエイジ的な流行に乗った、信頼性に欠ける霊感商法のようなものがあるのではないかと考えています。

宗教や思想だけでなく何事も、本質を見ずに看板(権威)によって良し悪しを判断するのはナンセンスです。刃物を料理に使う人もいれば殺人に使う人もいるわけで、それで刃物そのものの良し悪しを判断しようとするのはナンセンスでしょう。それと同じ事です。善悪があるのはそれを利用する人の目的(動機)・使い方・人間性の方です。あなたが正統だと思っているような宗教や思想なども、今に至るまでどれだけ悪用されて来たか知れません。

看板(権威)によってその良し悪しを判断しようとする「権威主義」の人が多いからこそ、詐欺師というのはまさにその看板(権威)を偽装することによって騙すのが常套手段なのです。オウム真理教なんかも仏教やヨガの権威を巧みに利用して信者をかき集めていましたからね。だいたいスピ詐欺に騙されるというのは本質を見ずに権威(他者評価)によって価値に序列をつけ、信用(依存)できるかどうかなどを決めようとすることが原因でなのです。その考え方自体がエゴなのであり、それは愛(真理)に反するものであって、不幸に導かれるのが必然なのです。

本質(愛)が理解できれば、相手がそれをする目的・動機・人間性(エゴか愛か)を見抜けるようになるので、騙されることはなくなります。その本質を見えなくしているのは、己の心のエゴなのです。騙す側からすれば相手のエゴ(願望か不安か)を刺激し、それを満たしてあげられるフリをするだけで、相手は己の勝手な期待を正当化するために理論構築して勝手に騙されてくれるのです。人は己のエゴゆえに自ら騙されるということです。だからこそ知能が高い人でもエゴが強く自己正当化する意識が強ければ簡単に騙されるのです。知能が高く高学歴・高収入の男性が、知能が高くなく美人でもない結婚詐欺師に簡単に騙されたりするのはそういう理由でしょう。


>「この世界はバグっており、洗脳装置(人々の煩悩を量産する仕組み)で溢れている」「この世界は仮想現実であり、仮想現実であると気づかせないために洗脳装置が人々を惑わせている」という結論に至りました。

この仮想現実は全知全能の存在によって完璧にプログラムされているのであり、バグ(偶然)など存在しません。僕ら人間にとってはその完全性が理解できないだけです。そしてシナリオ上の理由があってバグ(偶然)が存在するかのように思わされているだけです。

自由意志の仕組みと存在意義に書いた通り、偶然性というのはこの世界での経験を我々に楽しませるために(自由意志を成立せるために)創造主が用意している仕掛けであり、全てがガチガチの必然だったらRPGとして成立せず、映画を見ているようで自由意志・経験に存在意義がなくなるのです。そして全てが創造主の仕業だとみんなが簡単にわかってしまうようでは信心に価値がなくなってしまうのです。しかし本当は全てが必然であり、偶然も自然も存在せず、全ては創造主の意図通りであり、全ては創造主の愛によって与えられているものだと知って下さい。

この世界のありとあらゆる存在が愛(信心・感謝)と勇気を試すために、我々を不安や怒りや被害者意識に陥れようとしてきますが、それは成長課題なのですから、決して屈することなく信心を持ち、感謝し、報恩に生き、愛を発揮して行かなければ成長などしようがないのです。人生というのは成長の物語なのであり、不安・怒り・被害者意識というのは成長と逆行する要素であり、成長課題なのであって、乗り越えなければならない定めなのです。RPGの主人公というのは「勇者」のことですからね。主人公がエゴにまみれ愛がなく、不安・怒り・被害者意識に駆られているようでは、世界を救えるわけがなく、物語が成り立たないのです。

生まれの格差について(陰謀論)は必ず読んで下さい。世の中には実際に陰謀があります。それがないと考えるのも現実逃避です。しかしそれも創造主の創った仮想現実RPGの内側の話であり、シナリオ通りなのです。RPGの世界が悪魔に支配される一歩手前のディストピアからスタートするのは当たり前のことであり、あなたという主人公がそれを救わなくてはいけないのです。それなのに己の世界観を不安と被害者意識と恨みで満たすぐらいなら、陰謀など知らない方がまだマシです。

ロズウェル事件でUFOが墜落したのも、宇宙人からすれば偶発的な事故だったかも知れませんが、完璧に創造主のシナリオ通りです。その宇宙人が「地球は監獄である」と語ったのも、その宇宙人からすれば真実かも知れませんが、創造主からすれば我々を被害者意識に陥れる意図通り(トラップ)であり、本懐としては我々にそれを乗り越えて感謝して愛せるように成長して欲しいのです。

実に多くの人が「もし創造主がいるのなら、この世をこんな悲惨に創るはずがない」などと考えて被害者意識に陥り、運命を呪い、創造主を信じようとしません。しかしそれがNPC思考なのであり、それを乗り越えて全てに感謝して全てを愛し、自分が世の中を愛一元に還していく起点となる覚悟を持たない限り、本物の主人公にはなりえないのです。

いつも言っていることですが、与えらえれたものの価値に気づいて感謝せず不平不満や恨みで返してくるような人に、もっと与えたいと思う人はいないでしょう。この世界はそういう原理で創られているのであり、感謝できない人間は既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値に気づかされるような残念な人生になってしまう定めなのです。聖書のヨブ記が教えてくれている通り、与えられた苦難も創造主の愛によって成長を願って与えられているものだと感謝して受け取ることが大事なのです。

僕らがあらゆる病気や事故で死ぬ確率を合わせたらとっくに死んでいます。純粋に確率で考えれば僕らも僕らの世界も生じておらず、僕らは創造主の愛なしには一秒たりとも存在できないのです。だから生かされているということに感謝し、信頼し、何のために生かされているかを考え、自分の使命を果たすことが大事なのです。恐れ(臆病・不安)というのは、全てが創造主から与えられたものであると感謝し信頼していないことが原因なのです。創造主など存在しないとか、己の苦難を他人と比べてそれが意地悪や嫌がらせで与えられていて自分は不幸になるかも知れないなどと考えるから、恐れ(臆病・不安)が生じ、実際に不幸に招かれるのでしょう。


>まず、オンラインプログラムの参加費が7万円と高額であることです。(中略)Aさんが案内するアヤワスカリトリートも数日間で40万~60万円と相場より高いです。

キチガイじみた料金設定ですね。60万円って、どっかヨソでも見た数字です(笑)詐欺師たちはきっとお互い参考にし合ってボッタクリ料金に「相場感」を出しているのでしょうね。

高い=それでも払う人がたくさんいて成功している=信用できる・価値が高い、などと本質も見ずに信用してしまう「権威主義」が根底にあるからこそ、明らかなボッタクリ料金でも納得して払ってしまうのでしょう。やはり権威主義の利用が詐欺師の常套手段なのです。恐らくサクラや自作自演も効果的に使っているはずです。そうやってコロッと騙される人がどんどんお金を払ってどんどん深みにハマってしまう構造は前述した通りです。

キリストや釈迦は常に無償で真理を教えて人を救っていたのであって、大金を払わなければ何も教えず誰も救わないなんて人が本物であるわけないんですね。愛というのは無償でなければ愛ではないのです。例え恋人同士でもSEXでお金(見返り)を要求したらそれは売春(エゴ)であって愛ではありません。それと同じことです。

この問題の根底には愛を価値とせず、お金を価値とするような「権威主義(エゴ)」があるのです。精神的なもの(愛)の価値を権威(金)で計ろうとするから精神(神の精)から愛されず、騙されて不幸に陥るのでしょう。

お金を払って救われようとすることは、自分だけが救われたいという思いの表れであり、お金が払えない人が救われないのは仕方がないと見捨てていることになります。それは「蜘蛛の糸」のカンダタ的思考であり、いずれ自らエゴの地獄に堕ちていくのが必然なのです。

あなたがその「自己の救いを求めて使っていたお金」をもし何の見返りも求めずに人を救うために使うのなら、きっとあなたに与えられた蜘蛛の糸は切れず、救い・幸せに導かれることでしょう。どうかお金の時代の終らせ方(新六波羅蜜)を読んで、新六波羅蜜を行じ、己の中に宿る愛を育てていって下さいね。


>次に、コミュニティが不幸な人の溜まり場になりつあることです。参加者の中に人生における苦難や不幸の真っ只中である方々が多いことに疑問を感じています。

>また、不幸な人だけでなく、「子宮系スピ信者」「宇宙銀行信者」「レムリア信者」など如何わしい思想の参加者も多いと感じました。

そう感じるのはあなたが本質を見抜く感性を持っているということです。まぁ不幸な人が依存(逃避)先を求めて来ているのであり、詐欺師はそういう人をカモにしているのですから、僕に言わせれば当たり前のことではありますけども。そして外から見ればあなた自身もそういうカモなのカモという視点を持つ事も大事だと思います。あなたが直感している通り、そこにいたら確実にあなたも同じになってしまうことでしょう。


>今回、私の他にもう1人、2回目以上の参加の方がいらっしゃるのですが、前回参加した時から全く状況が良くなっておらず、Aさんのコミュニティに依存してしまっているのではないかと思いました。

それも当たり前だと思います。本物の菩薩でさえ人を救うのは難しいことなのに、詐欺師に救えるわけがありません。そもそも本気で人を救おうなんて思ってすらいないことでしょう。単に自分に依存させて金ヅルにしたいだけ・自尊心の踏み台にしたいだけです。そうやって自分自身の魂でさえ救えていない人に、他人の魂を救えるわけがないんですね。


>この経験から、高額な参加費を支払ってAさんのコミュニティに参加することで、私自身もスピリチュアルジプシーになってしまっているのではないかと不安を感じています。

すみません、スピリチュアルジプシーって表現が面白くてつい笑ってしまいました(笑)
はい、まさにそうなっているかと思います。そう感じているのなら早くそこを離れましょう。自分の感性を大事にして下さい。そしてどうか僕のnoteや質問箱もご参考に、本質を学んで下さいね。僕は依存なんてさせませんし、質問も電話相談も無料で一円もかかりませんから。権威主義によって「お金が高いところほど価値がある」みたいに考えないで下さいね。僕はお金では換算できない価値を与えているからこそ(本気で世界を救おうとしているからこそ)無料にしているのです。


>また、最近Bさんがタントラやクンダリニーを誤って解釈したような性エネルギーのイベントを開催していることにも違和感を覚え、こうした活動は控えてほしいと感じています。

あなたが彼を誤っていると見抜けるのは幸いなことです。ただあなたが「控えて欲しい」と感じたところで相手(NPC)側は変わりません。もうその方は自我を霊障に乗っ取られているのであって、相手にしないのが一番だと思います。タントラとかクンダリニーなど、それそのものの是非はさておき、それを悪用する人がとても多いので注意が必要です。

ちなみに僕は個人的にそういう宗教・スピと性を過剰に絡め、性的快感を追求することが神仏の教えに適うとか、悟りにつながるとかみたいな教えに対して非常に嫌悪感を持っており、興味すら湧きません。釈迦もキリストもそんなことは教えてないでしょうしね(かといって僕は初期仏教みたいに禁欲主義的では全然ありませんが)。例え誰かに「それは本質を理解していない、誤解だ」と言われようと「うるせぇ、バーカ!」って感じです(笑)「恥を知りやがれ!」と。


>正しいスピリチュアルと怪しいスピリチュアルの見分け方と判断基準は何か

ここまで書いてきたように、騙される人というのは他人から「判断基準」なんかを聞いても、目的が愛ではなくエゴ(依存・逃避)なのであれば、結局は騙されるので意味がないと思います。

僕は相手を何かの基準に当てはめて判断しているのではなく、人の本質を見て真理に基づいて判断しているのであり、真理を悟り人の本質を知る過程で「こういう人は信用できない」という実例が蓄積して確信を深めているのです。僕が騙されないのは、常に本質を悟ろうとしていて、他人の考え方を参考にはしても依存しようとはしていないからであり、心を自他への愛で満たすべく日々努力しているからです。創造主の愛を心から信じているので不安がなく、自己利益を考えず全体利益しか考えいないので騙されようがないのです。決して疑い深いから騙されないのではありません。

人間の動機は愛とエゴ(我欲・不安)の2つしかないのです。エゴ(我欲・不安)なのか愛なのか、目的・動機・人間性(本質)を見て下さい。相手が本当に心からの信心を持ち、純粋な愛で純粋に相手の幸せを願ってスピをやっているのか、それともただ愛を偽装しスピをエゴ(金儲け・保身・虚栄)の道具にしているだけなのか。己のエゴから離れて相手を見ることができれば、あなたにもすぐにわかるはずです。そしたら大概の人が宗教・スピをエゴの道具にしていることに気づき、結局は自分が本物になる以外にないのだと悟ることでしょう。他人のことより自分がまずエゴ(不安)より愛を動機していくことが成長の道なのです。

判断基準などというものは日々真理を悟り判断経験を重ねている中で自分の中に事後的にできてくるものであって、自分の経験・感性を信じずに他人から判断基準を聞いて、そこに当てはめて何かを判断しようとするようでは、きっとまた騙されてしまうことでしょう。「何を信じ、何を信じないか?」という判断基準を他人に求めること自体が依存なのであり、それは主人公意識の放棄なのです。

僕ら人間にとって世界はわからないことだらけですから、何かを信じるということと無縁では生きることができません。「何も信じない」という人は、自分の勝手な常識を信じているという自覚すらないだけです。

創造主は我々に主人公として「自分は何者であるか?」を自分で決める経験をさせるために、この仮想現実RPGを与え、あえて何もわからない無明な状態で生んでくれているのです。「何を信じるか?」というその選択をする主体者こそが「自分」なのであり、それが自分自身(人生・世界)を構成しているのであり、その「何を信じるか?」の自分なりの答えこそが「自分は何者であるか?」という問いに対する答え(存在意義)なのです。

それでは、あなたが愛(信心・主人公意識)に目覚め、より本質を見抜く目を持ち、幸せになって下さることを心から祈っております。

【関連質問】
詐欺被害に遭って悔しい
友人がスピ詐欺にハマりそう
スピリチュアル・ビジネスについて
アヤワスカ詐欺&アナログ&性の問題
ヒマラヤ密教の大聖者に入門
自分と他人の愛し方

世界の救い方

【質問】 30代前半・女性 ペンネーム:Tipoo       職業:ピアノ・絵画講師 、アーティスト、フリースクールスタッフ              アヤワスカチャレンジャー 真也さん、こんにちは。 エゴによる悩み苦しみはかなり訂正されてきたんですが、今1つだけ願いがありま...