【質問】年齢不詳・男性 ペンネーム:Tuki
僕の一家は幼少期からお酒の問題があり、酒に溺れて中毒になっている人がたくさんいます。何とか救えないものかと日々頭を悩ませていましたが、全ての問題は鏡であり、自身の成長のためにあると捉えるようになってからは、それもまた己の成長課題だと考えられるようになりました。
そもそも酒を悪として断定しているから酒を悪く思うような世界に追い込まれているのではないか?と。そしてもし全てを成長の課題として感謝できるかを問われてるのであれば、世の物事はポジティブで取るかネガティブで取るかが大事で、そこが問われているのではないかと。結局、菩提心が『核』であり、そこが確立していればならないのではないかと思うようになりました。
酒=『それによって家庭が壊れるから酒は悪』ではなく、酒によって学ばなければいけないものが浮き彫りにされたと捉えた時、そもそも酒は菩提心や信心の欠如を浮き彫りにするためではないかと僕は感じました。菩提心や信心が根底にあれば、酒を無理に辞めさせなければならないようなこの世界線は存在しないのではないかと。
今の僕のレベルではアル中を救うことは出来ていません。勿論諦めず日々悟り実践あるのみと考えていますが、依存を辞めさせることの難しさを痛感しています。
【回答】
ご質問ありがとうございます。つまり「どうすれば身内のアル中の人たちを救えるか?」「どうすればカルマを解決できるのか?」というご質問だと解釈してお答えさせていただきますね。
これは質問者様と同じようにカルマ(人生の成長課題)に翻弄されてどうすべきかわからず、行き詰まって苦しんでいる多くの「魂の同志たち」のために書いています。これを決して他人事のように思わず、主人公であるあなた個人に話していると思って読んで下さいね。
>もし全てを成長の課題として感謝できるかを問われてるのであれば、世の物事はポジティブで取るかネガティブで取るかが大事で、そこが問われているのではないかと。
>そもそも酒を悪として断定しているから酒を悪く思うような世界に追い込まれているのではないか?と。
「自由意志の仕組みと存在意義」でご説明させていただいている通り、行動の選択より先んじて良い解釈(考え方・世界観・哲学)の選択が大事なのは確かです。ただしカルマ(因果)というのは人生というRPGのシナリオ・設定であり、いくら主人公次第でシナリオ(ルート)を選ぶことができるといっても、大枠での伏線や基本設定まで変えられるわけではないのです。そこを変えられたらカオスになって物語が成立しなくなります。そこを誤解されないようこれからはカルマの「解決・解消」ではなく「良化・選善」などと書くようにします。
「悪いカルマの解消法」に書いた通り、人生は魂の成長プログラムなのです。カルマというのは自分という主人公個人だけにアレンジされて与えられた成長課題なのであり、難しい課題はよりレベルの高い魂に与えられるのです。ですからあなたの人生のカルマが重い(苦難が多い)のであれば、それだけあなたの魂のレベルが高いということであり、まずそこに誇りと感謝の気持ちを持つべきなのです。生徒が絶対に乗り越えられない課題を出しても成長するわけがないですから、あなたに乗り越えられない課題というのは与えられていないのです。逆に簡単過ぎても成長するわけがないですから、課題は難しいのが当たり前なのです。
自分に与えられた課題が難しいからといって、自分を他人と比較し、まるでラクをして楽しく幸せに生きている人がいるかのように羨んで(幻想・罠)被害者意識に陥るのは創造主の愛に反することであり、それはカルマを悪化させる最たるものです。本当の幸せというのは苦労を乗り越えずには得られないものなのです。
あなたのおっしゃる通り、菩提心は悟りの本当の意味でのスタートであり、それが核であるのは間違いないですし、ポジティブな解釈・感謝も大切です。しかしだからと言ってただそれだけで人生のカルマ(課題)が全てが解決するわけではありません。そんなに簡単だったら物語がすぐに終わってしまいます。
確かに真理というのは悟るほどに幸せになりますし、過去のレベルの問題は問題にならなくなるのですが、同時により難易度が高い問題への挑戦権も得ることになるのですから、「悟るほど幸せになる」というは「ラクができるようになる」ということではないのです。苦労を乗り越えて成長し悟っていく過程に本物の幸せがあるのですからね。
人生は魂成長のプログラムなのですから、ラクをしたり逃げたりして幸せになれるように作られているわけがないのです。逃げ道はすべてトラップであり、先は必ず行き止まりになっているのですから、早めに「逃げ道など最初からないのだ」気づいて早めに腹を括って立ち向かった方が、早く幸せな人生になります。逃げると学校の追試験・補講のように雪だるま式に大きくなりながらどこまでも追いかけて、楽しいはずの人生という夏休みをどんどん目減りさせてしまいます。
ただそういう「逃げることで逆に苦労する」という経験も人生には必要なもので、決してムダにはなりませんから、あまり「絶対に逃げてはいけない」と自分を追い詰めて考えないで下さいね。RPGで自分のレベルに相応しくない相手と出会った時や本当に弱っている時は逃げが賢明なのと同じです。もちろんそれは「今はダメでもレベルアップしていつかは必ず乗り越えてやろう」と成長方向にベクトルを向け続ける覚悟がなければ永遠にクリアできないという点でも同じなのですが。
ゲームは真剣になるからこそ楽しめるものなのですが、さりとて深刻になってしまっては楽しめません。人生というゲームもあくまで楽しむために与えられているのですから、深刻に悲壮感を漂わせながらやるべきものではなく、真剣に取り組みながらもどこかで「しょせんはゲームなんだから」という突き放した感覚を持っておくこともまた大事なのです。それはエゴ(我欲・保身・虚栄)による執着によって人・世の中を救おうとせず、悟りから遠ざかって愛を失わないためでもあります。ただそれはあくまでも最後まで真剣にやり切ろうという覚悟(菩提心)ありきの話で(般若心経もそこを伝えようとしていたのです)、投げやり(魂の成長放棄)はダメですからね。
そして僕らが「永久に苦労し続ける宿命」とはいっても、僕らの肉体も魂も金属製品のように疲労し続けるわけではなく、毎日栄養を補給し休憩し睡眠をとって元気を養いつつ、何かの節々には達成感も味わいながら幸せに成長して行けるのですから、「この苦しみはいつまで続くのか」みたいに考えて絶望しないで下さいね。「苦労(成長)そのものを愛そう」と腹を決めれば腹が据わります。スポーツのトレーニングと同じで、苦労は受動的ではなく能動的・積極的にすることで楽しくなれるものなのです。
僕らは永久に成長を続けることが宿命づけられた存在であり、永久に成長課題(苦労)が与えられ続けて永久にラクはできませんし、将来ラクをしようという動機で努力しても絶対に報われないのです。それは宿命ですから受け入れる以外にありません。「若い時の苦労は勝手でもしろ」と言われますが、「若い時の」という一言で全て台無しになっているのです。「永久に」苦労は買ってでも(能動的に)しましょう。
僕らの魂にとって、この人生という「愛と成長の物語」の経験機会が与えられず、永遠に存在だけが続くことの方が地獄です。もしあなたがその「魂の地獄時代」を思い出せれば、今人生を与えられていることに心から感謝の気持ちが湧くことでしょう。逆にその感謝の気持ちがなく被害者意識で自殺に逃げるような人の魂は、何も経験できずに存在だけが続く無間地獄のような状態に戻されるのが必然なのです。それは「自殺するとどうなるか?」に書いた通りで、僕らはそちらの世界を選ばなかったからこそ今の人生を生かせてもらっているのです。
「悟りとは何か?」に書いた通り、究極の真理・悟りのゴール(彼岸)はワンネス(すべての存在は一つ・私=あなた)ですが、それは航海における北極星のようなもので、僕らが生きている間にそこに辿り着けるわけではありません。そこを目印として人生という航海を渡る過程(経験)に意義があるのであり、人それぞれに与えられる経験(ルート・シナリオ)が違っていて、お互いにその物語をシェアし合えるからこそ生きる意味があるのです。
人生が愛と成長の物語なく、個性の確立なく、いきなりワンネスに還ってしまっては我々が生まれて来た意味がありません。「自分はどんな存在か?(個性)」というのを、人生経験を通じて(主に人間関係と自己表現から)悟り、試行錯誤しながら更新して確立していくことが大事なのです。それがお互いのカルマを乗り越える(シナリオを更新していく)ということであり、自分も他人も許し・尊敬し・感謝し・愛せるようになっていくことであり、己の使命を果たすことなのです。僕らは死ぬと魂が純粋な概念・思念へと還るのであり、その次元において僕らは「自分とはどんな存在か?」を更新できません。僕らはそれを更新するためにこの現象世界に生まれて来ているのです。それができることにまず感謝の気持ちを持たなくてはいけません。
「エゴ(欲)とは何か?」に書いた通り、僕らの次元において愛とエゴは表裏一体のものであり、決してエゴを失くすことはできません。エゴを失くそうとするのではなく、それを課題として乗り越えること、つまり己の執着を捨てて節度を知り、周囲の人のエゴを自分より少しだけ優先して慈愛によって満たそうとすることです。それが連鎖すればこの世界のエゴの連鎖・肥大・暴走が止められてみんなが救われるのです。それがいわば中道であって、決して単純な自己犠牲(自分への愛の不足)やエゴを滅することが悟りの道ではないのです。
究極の目標は、我々の魂が全ての存在との許し・和解を成立させて愛せるようになることであり、この全てが陰陽二元的に創られた世界を愛一元(創造主意識)に還していくその過程に悟りの道があるのです。
あなたが既に悟られている通り、カルマは愛によって成長(悟り・幸せ)を願って与えられているシナリオ・設定ですから、それを感謝して受け取って乗り越えていくべきで、カルマの存在を被害者意識・不平不満・恨みなどで返してはいけません。自分という主人公だけに与えられているオリジナルのカルマ(シナリオ・設定)があるのですから、それを他人(NPC・他のログインプレイヤー)と比べて「何で自分だけこんな・・・」みたいに不平不満を持つことは、必然的に自分自身のカルマを悪化させるのです。
それでも本当は同一の存在なのであり、自分も相手も同じように愛することこそが魂の成長に繋がるのです。これはとてもレベルの高い話ではあり、特に若い頃というのはみんな分離意識が強く、受け入れられないのは仕方のないことなんですけどね。僕自身もいまだにすぐに忘れて失敗を重ねていますし。
人が往々にして他人の話を聞いても「自分だったら絶対そうしない」などと考え、相手に同情できずに責めたりしてしまうのは、単なる想像力の不足であり、それは人間に与えられた無明(愚かさ・成長課題)であって、僕らはそれを乗り越えて相手に心から同情し愛せるように成長して行かなければならないのです。
あなたが出会う人の正体は、全員が創造主の分身なのであり、最初から答えを知っていながらわざと忘れて愚か(無明)になっていて、人生経験(失敗・試行錯誤・成長)を楽しみつつ、無自覚ながらあなたに何か大事なことを覚らせようとしてくれているのです。例えあなたにとってどんなに嫌な人・愚かな人で、アル中などであっても、それはあなたの愛と成長の物語を紡がせるために無償で与えられた共演者であり、尊い存在なのです。人生というRPGにおける縁というのは偶然ではなく、楽しませるために偶然だと思わされているだけで、ちゃんと一つ一つの出会いに理由(クリエイターの意図・愛)があり、すべてが伏線上の必然なのです。だから目の前の人を無条件かつ全力で愛するというのはとても大事なことなのです。
カルマというのは人生というRPGのシナリオ・設定であり、それは一筆書きのようなものであって、どこかに独立して存在している「他人のカルマ」というのは存在しないのです。我々の魂は本来同一の存在なのであり、すべての存在がお互いに補完関係にあるのですから(諸法無我)当然です。そして自分の人生においては、出会った人(登場人物)全員のカルマが、主人公たる自分を中心として繋がっているのであり、それが自分の人生という物語を形成しているのです。
あなたは自分を主人公とする主観的世界(モナド)の主であり、その中(心の中・認識世界)に存在する住民は本人のコピーAIのようなものであり、その全員(僕も含めて)があなたのために存在していて、無自覚にその伏線通りに動かされているNPCなのです。
だから相手(伏線通りに動いているだけのNPC)側を直接変えようとすることは、自分という主人公に与えられている物語の伏線の無視であり、それは絶対にうまく行かないようにできているのです。人生はあくまでも自分という主人公の成長の物語であり、そのカルマ(課題)をクリアするには、直接相手側を変えようとするのではなく、常に自分側が成長して自分の物語を進めなければならないということです。僕自身もそれを知っていながら、実際に人と接するとすぐ忘れてしまうんですけどね。答えはいつでも「誰も何も悪くないけど、自分が何とかしなければ(成長しなければ)どうにもならない」です。
あなたの「身内にアル中が多い」というそのカルマ(課題・シナリオ)を良化できず行き詰まっているのは、その人たちが悪いからではなく、だからといってあなたが悪いからでもなく、あなたが主人公として回収していない伏線があるからであり、もし改善するどころか悪化しているように感じられるのであれば、それは人生という映画の監督(創造主)から「早く伏線を回収しなさい」とケツを叩かれているということなのです。
あなたは「身内のアル中問題」という他人側に現れている一つの現象だけに着目し、それを「解決すべきカルマ」と捉えているようですが、主人公であるあなたにはもっと直接的に自分に起因するカルマ(課題)があるはずで、またそれを乗り越えていないことによってあなた自身の身に起きている負の現象があるはずです。なのに「身内のアル中問題」以外をまるっと無視して書いていないのは、あなた自身が自分の人生の問題を全部親とか身内のせいにして、自分自身を起因とするカルマ(課題・欠点や過ち)から目を背けているからではないでしょうか?
人生というRPGは、大枠のシナリオや基本設定を動かせないというだけで、基本的に全てが主人公である自分の選択次第に創られています。だから本物の主人公意識というのは、過去・現在・未来のすべてが主人公である自分の選択に起因していることを受け入れる覚悟なのであり、それを全て親や世間など自分以外のせい(=設定側のせい)にしては、せっかく主人公として自由意志(選択権)を与えられた意味がなくなり、そのような被害者意識が自分自身を「ただ設定通りに動かされるだけのNPC」にし、自ら人生を自己効力感のない「クソゲー」にしてしまうのです。
もちろんあなたはきっとその身内の問題によってたくさん辛い思い・嫌な思いをされたのだと思いますし、それを「許そう」とする努力自体はとても尊いものだと思います。しかし「この人たちのせいで自分は・・・」と自分の人生の問題を全部他人のせいにする被害者意識がベースにあると、いくら相手を許そうとしてもそれは本当の許しにはならないのです。本当の許しというのは、相手と目線を完全に同じにした上での(自分と相手を同一人物として考えた上での)心からの同情がベースになっていなければ成立しないからです。
カルマというのはその解決に順番(シナリオ・伏線)があるのです。己の問題(欠点・過ち)と真剣に向き合い、受け入れ、許し、乗り越え、愛し、成長していく過程を飛ばして逃げたままで、自分を「無辜(むこ=イノセント)の被害者」の立場に置いて「こんなアル中の人より、それを許そうとしている自分の方が立派な人間である」というような上から人を許そう・救おうとしても、それは本物の慈愛ではなく逃げなのであり、自分と同じように問題(欠点・過ち)を抱えて苦しんでいる人たちを心から許し、尊敬し、感謝し、愛することによって救うことはできません。菩提心(主人公意識)というのは、被害者意識(NPC意識)を持ったままでは本物になりようがないのです。
「鏡の法則」という本では、「自分と親との関係を見つめ直し、生み育てて貰ったことへの感謝を伝えたら、自分の子供が学校で受けていたイジメがパッタリとなくなった」「それからどんどん自分と家族の人生が好転していった」という例が紹介されていますが、本当にカルマというのは人(プレイヤー)の目線ではどこでどうつながっているのかわからないものなのです。
僕はまだ会ったこともない他人のカルマ(課題)まで見えるような三昧は得ていませんので、あなたが目を背けているカルマ(課題)が何なのかは全くわかりません。そもそも「自分のカルマ(課題=人生のテーマ)は何か?」を見つけること自体が本人に与えられた課題なのです。カルマがどこでどうつながっているかはなかなか見えないものだからこそ「自分のカルマは何か?」を自分で考えながら一つ一つ試行錯誤して乗り越えていくところに魂の成長があるのであって、それを直接的に他者(NPC)から教えられては魂の成長には繋がらないのです。
ただ己のカルマというのは、自分にとって一番痛くて向き合いたくないところにあるだけで、本当は自分自身が一番よくわかっているものなのです。それと向き合いたくないがゆえに「自分のカルマがわからない」と思い込み、「自分は目を背けている」と認識することからも目を背け、何か悪いことがあっても偶然のせい・他人のせいにして自己防衛・自己正当化しながら逃げてしまっているだけで。
しかし僕らは同一人物のようなものですから、自分が一番痛くて向き合いたくないカルマ(課題)というのはだいたいパターンが決まっているのです。
■自分が本当にやりたいこと・使命(夢)から逃げ、保身のために惰性で生きている
怠惰・臆病によって転機(チャンス)を逃し、せっかく創造主から用意されている
未来の素晴らしいシナリオを自ら拒否してしまっている
■誰かを恨み、憎み、許せていない・愛せていない 見下したり責めたりしている
■恩を仇で返したり、自分が害してしまった相手に謝罪・贖罪できていない
■他者評価依存で自己嫌悪が強く、自分イジメをしている(自分自身への愛の欠如)
■被害者意識を持ち、厭世観が強く、信心と感謝報恩に生きていない 慈愛が足りない
■自分の欠点や過ちを乗り越えようとせず、運命・偶然や他人のせいにして呪っている
■身内にべったりで、優れた人・苦手な人・新しい人との出会いを避けている
■何かに依存している 引きこもっている(傷つくことから逃げている)
などです。
まぁ他にも結構あるのですが、すべて「魂の成長拒否=伏線の回収拒否」なのであり、分けて書くのが難しいほど全部繋がっているのです。
で、あなたに心当たりは・・・ないはずがないですね?僕らは同一人物のようなものなんですから、当然僕にもあります(だからお互い励まし合って乗り越えて行きましょう)。
こうやって回答をしている僕自身もまだまだ成長過程にあり、常に己のカルマを乗り越えようとしているのです。くれぐれも「自分は完全に悟っている」などと上から目線で何かを偉そうに教えようとしているかのようには誤解しないで下さいね。僕も他人様に言うだけのことはやっていますが、もちろん完璧にできているワケではありません。もし完璧にできたら成長要素がなくなって幸せを感じることができず、話が終わってしまいますからね。
魂成長プログラムである人生において「魂の成長拒否=伏線の回収拒否」が不幸に導かれるのは当然(因果応報)であり、それは決して創造主の意地悪ではなく、自発的に気づいて成長するように導いてくれているのです。この世界に偶然は一つもなく、すべてが必然であり、カルマ(課題)を他人と比べて不平不満を言ったり、偶然のせいにして逃げたり、自分以外のせいにして被害者意識に陥っていては、その解決には導かれないのです。
<アル中の人との接し方=人との接し方・生き方>
ここまでを全て踏まえた上で、具体的な「アル中の人との接し方」を書いておきますね。
真理というのは万能であり、これから書くことはアル中の人だけでなくあらゆる人との付き合い方・生き方に共通する真理なので、「人との接し方」「人としての生き方」と一般化していただいても全く差し支えのないものです。もしあなたがここに書かれていることをあらゆる人間関係に応用して実践し、生きる指針として下さるのであれば、みるみる人生のカルマが良化していくことでしょう。
さて、お酒は大抵みんなが飲んでいるものなのに、アル中になる人とならない人がいます。違いは何だと思いますか?・・・それはアル中になる人たちが、人生の問題(カルマ)への対応策として「問題そのものから逃避しよう」という意識が強いことであり、たまたま身近にあって手軽な逃避手段がお酒だっただけで、もし身近にドラッグがあって手軽に手に入っていたらきっとドラッグ中毒になっているのです。そしてそのような逃避(成長拒否)がカルマを悪化させることは、ここまで再三述べて来た通りです。
人は分離意識(魂の光を分ける無明の闇・愚かさ)によって、相手の問題を「アル中」のように恣意的に具体化することで「自分は違う」「相手の問題であって自分の問題ではない」と考えてしまいますが、自分が出会う人の問題というのは(抽象度さえ上げれば)必ず自分にも当てはまるものなのです。
だから抽象度を上げて「鏡の法則」に当てはめてみれば、やはりあなた自身もカルマから逃げているために、そういう逃避(依存)傾向が強い人との出会いを通じて、拡大鏡のようにあなた自身の姿を見せられているのではないかと思います。
酒にしろドラッグにしろ「自分が自分であること」に耐え難くなって「自分」というものの経営権を悪しきスピリットたちに明け渡すものですから、依存症になっている人たちはもう主人格による自我のコントロールを失っているのです。このあたりの話は「憑依現象(霊障)について」に詳しいです。
その人の主人格は酒やドラッグが悪いことぐらい十分わかっていてやめられないのですから、「やめた方がいい」などと言ってもやめるわけがなく、心が反発して逆効果にしかなりません。その人の主人格が本気で心の底から「やめたい」と自発的に思うように導けなければ、例え一時的にはやめさせられたとしても、ただやりたいのを我慢しているだけでしかなく、我慢というのはマグマのように蓄積するものですから、いずれ爆発するのが必然なのです。
人生は自分をプレイヤー(主人公)とするRPGであり、それは自分なりの考えに従って過ち・失敗を繰り返し、試行錯誤して納得しながら前に進むのでなければ楽しくないですし、魂の成長にも繋がらないのです。
だから人間(プレイヤー=主人公)の心は、自分がプレイしている最中に脇からああだこうだと聞いてもないのに答えを言われれば、無意識に反発してしまうように創られているのです。(自分で考えることを放棄して他人の考え・常識に依存すればNPCになってしまいます)
人の「感情」の重要な存在意義の一つは「自由意志」を価値ならしめることにあり、それゆえ誰かに選択を強制・強要されて自由意志が犯されそうになると、必ず反発するようにできているのです。人は他人から正しいことを言われれば言われるほど傷ついてその人を嫌いになり、嫌いな人の言うことには逆らいたくなるのが人のサガなのですから、こちらの言うことが正しければ正しいほど相手をより間違った方向に進めてしまうのです。
だから己の劣等感解消のために「自分は正義である=価値がある」と考えるような「独善的で愛のない正論吐き」というのは害悪でしかなく、また「間違っている人はいくら傷ついても構わない」と考えるような無慈悲な正義感(エゴ)の連鎖が世の不幸の元凶なのです。
もし正解(真理)に価値があるのなら、最初から全ての答えを知る全知全能の創造主が僕らに人生を与える意味がありません。経験(失敗⇒試行錯誤⇒成長の過程)とそれに伴う感情が、答え(真理)を価値ならしめるのです。そして自分の経験・感情をみんなと共有し、同情・共感し合いながら(慈愛)、一緒に物語を紡いでいけることこそが人生の価値なのです。だからこそ僕らには人生が与えられ、わざと無明(愚かさ・分離意識)が与えられているのです。
それを踏まえ、以下の三カ条が創造主直伝の人の導き方を伝えておきます。これはとても大事なことなので、目に付くところに書き写しておいて下さい。
<主人公救世三カ条>
①指摘せず気づかせる
正しさより思いやりを優先し、相手を傷つけない
②教えず覚らせる
自分の愛の実践・成長を通じて背中で語り、相手に覚らせる
例え話でヒントを出し、答えを相手に言わせる
③自らの学びとする
相手の問題(愚かさ)は、創造主から主人公である自分へのメッセージ
相手のカルマは自分のカルマの鏡
世の問題(カルマ)というのは、突き詰めればすべからく「愛の不足」が原因であり、逆に言えば全ての問題の解決策(カルマの解決法)は「愛」なのです。僕らは「愛とは何か?」を経験的に知るために生まれてきているのですから、当然と言えば当然です。
「反省してはいけない」に書いた通り、依存症など「悪いことがやめられない人」というのは、自尊心が下がって「どうせ自分なんて・・・」と自分イジメをしていて(自分への愛不足)、他人のことも思いやれない(他人への愛不足)から孤独で、それゆえに悪いとわかっていることがやめられず、ますます依存対象に逃げるしかなくなっているのです。だから無理やり止めさせようとしても、ムダどころかますます自尊心を下げて逆効果になるのです。
だから相手(ゲーム仲間・人生の共演者)がプレイヤー(主人公)として自ら間違いに気づいて、人生というゲームを勇気を奮い起こして良い方向に進めるように、己の愛によって導かなければならないということです。
そこで相手に「自分に自信を持ちましょう」などと言って相手側を変えようとしても、相手の自尊心が上がるわけがありません。結局、主人公である自分が愛を実践して自他に与え、相手の自尊心を自然と上げられるように成長して行くしかないのです。
相手は自分自身の鏡なのですから、自分自身がカルマから逃げていたら愛も勇気も与えられるわけがなく、文字通りお話(物語)になりません。あくまでも変わるべき(成長すべき)は主人公たる自分なのです。
だからまずは自分自身が「出会った誰に対しても決して差別したり見下したりすることなく、誰かと比較することなく、欠点や過ち・罪や恥を許し、かけがえのない存在として尊敬し・感謝し・愛する」ということを実践し成長することです。そうすればあなたも自分自身のことを他人と比べずに許し・尊敬し・感謝し・愛せるようになります。
「愛を実践して相手に与える」というのは、恋人でもない人にいきなり「愛してるよ」などと言ったり、あれこれわざとらしく親切にして世話(おせっかい)を焼いたりすることではなく、おべっかを使って相手におもねり褒め倒すことでもありません。そういうのは「嘘」の含まれた「演技・アピール」であり、無理があるのでお互いに気持ちが悪くなるだけです。それは愛の表現として適切ではありません。
愛を表現する(=相手の自尊心を上げる)のに必要なことは、以下のたった2つのことです。
「1⃣ 心からの笑顔で挨拶すること」
まず、誰かに会ったら例外なく相手が笑顔になるまで笑顔をやめないことです。最初はぎこちない作り笑いになったとしても全然構いません。
ただ本当に大切で難易度が高いのはこの「心から」という部分です。もし相手を心から許し尊敬し感謝し愛せていれば、それは否応なく態度に反映されます。逆にもし心の中でほんのちょっとでも「この人嫌だな・会いたくなかったな」とか嫌ったり見下したりするようなネガティブな感情を持っていれば、いくら態度だけを取り繕おうとしても、会った時の一瞬の表情に出て、お互いに「ひょっとして嫌われているのでは」と疑心暗鬼に陥るのです。そして好きな相手から嫌われて傷つかないように、相手の欠点や過ちをあげつらって「こちらの方が相手を嫌っているのだ」と考え、それもお互い態度に出たり共通の知人から伝わったりして関係性が劣悪になるのです。
そのように何事も心が伴っていなければ逆効果なのであり、だいたい人が心を病む原因というのも、そのように「自分が心から思ってもないことを、無理やり自分自身に押し付けて強制すること」にあるのです。
我々はみんな同一人物のようなものであり、我々の統合意識(≒深層心理)というのは一つであって、そこに対して嘘や隠し事やごまかしは一切通用せず、全てがバレバレなのです。そして人生というRPGはその全てを知っている統合意識(創造主意識)によって厳格なルール・設定を元に運営されているのです。だから自分の演技を上達させて態度を取り繕うのではなく、相手を心から許し愛せるように・統合意識(創造主意識)から愛されるように、自分の考え方のほうを変えることが大事なのです。
最初は無理のある作り笑顔だったとしても、心が伴ってくるうちに段々と本物の笑顔になっていきます。そうして自分が無条件に人を愛せるようになり、出会いそのものが嬉しくなってくれば、誰と会っても自然と笑顔になるのです。
その心からの笑顔よって相手は「自分は存在を肯定されている」「愛されている」という無言のメッセージを受け取るのであり、それが相手の自尊心を上げ、自ら悪癖(依存症)を断って前に進む勇気を与えるのです。
「この人を大切にしたい・裏切りたくない」という本人の思いが依存対象より強くならなければ、依存というのは断ち切れないものなのです。「どうせ自分なんて(誰にも愛されない)」と思っていたら、退廃的な行動に歯止めが効かず、依存を断ち切れるわけがありません。
人は自尊心を上げてくれる人を愛し、下げる人を避けるようにできているものなのです。例えどれだけ相手がこちらのことを悪く思い、例えどんな悪い態度を取ろうとひるむことなく、ただただ愛すること(許し・尊敬し・感謝すること)が大切です。どんなに嫌って意地悪をしてもあくまでも自分を愛し抜こうとする人間を嫌い切れる人などいないのですから、こちらが人を愛し抜く覚悟さえ持てば、人から嫌われることを恐れ相手の顔色を伺ってビクビクする必要などないのです。そうすればいつでも自信満々で堂々としていられます。そして相手は自尊心の高いこちらに愛されることで、相手側の自尊心も自然と上がるのです。相手は自分の鏡ですから、それ以外にうまくいく方法などないと思って下さい。
このあたりの話は「誰でも自信満々になれる方法」に詳しく書いています。
あなたが出会う人はみんな、天から派遣されて無償であなたが主役の人生に出演してくれている共演者であり、創造主の分身であり、あなたの愛と勇気が試されているのだということを忘れないで下さいね。
「2⃣ 相手の話を一切否定せず、肯定的・同情的・共感的に聞くこと」
特に男性は「問題解決型」の脳をしていて、「どうやったら問題を解決できるか?」という姿勢でしか人の話を聞けない傾向があります。だから「気持ちを理解し欲しい」相手に対して余計なアドバイスなんかして、相手を否定し傷つけることになってしまうのですね(僕もいまだによくやります)。
相手と目線を同じにするには、あらゆる想像力を駆使し、相手ことを自分と同一人物(自分自身の過去世や未来世)であるかのように考えることです。このあたりの話は「自分と他人の愛し方」などに詳しく書いていますが、とても大切なことです。
だから鬱の人を相手にする時は本当にただ聞きに徹して、できるだけ自分からは発言しない方が良いです。決して相手を変えようとせず、自分が誰に対しても同情し愛せるように成長していくことです。そのために与えられている試練なのですから。
この人生というRPGは愛と勇気を試すためのものですから、創造主がシナリオを通してあなたを怒らせたり不安にさせたりしてくるのは当然なのです。だから常に正義(どっちが正しいか)よりも慈愛(思いやり)を優先して下さいね。ネガティブにこちらを否定してくる相手もやんわりと受け止めてあげて、その「ネガティブな気持ち」「他人を否定したくなる気持ち」に同情するのです。
それは特に問題解決型の脳をしている男性にはかなり忍耐の要ることなのですが、人生は修行なのですから、正面から立ち向かう以外にありません。相手にもそのようなネガティブな考え方・性格になるだけのやむにやまれぬ事情(歴史、傷⇒自己防衛)があるのですから、そこに対する同情・慈愛なしに相手を救うことはできないのです。
<さとり三カ条>
①偉くなろうとするな。(自他全ての存在が)尊いと知れ。
②特別になろうとするな。特別(主人公)であると知れ。
③日々愛を実践し、特別ではなくなること(差取り・ワンネス)を目指せ。
+幸せになろうとするな、幸せでああると知れ(感謝報恩に生きよ)。
それでは、お互い己のカルマと正面から向き合って乗り越えながら、幸せに生きていきましょう。あなたの幸せを心から祈っています。
※本文中に参照として載せなかった「継父との関係」「罪悪感との向き合い方」「運命への呪い」もぜひご覧いただけると幸いです。