【質問】40代・男性 ペンネーム:Void
アヤワスカとLSDの違いについて真也さんのご意見を聞かせて下さい。
【回答】
ご質問ありがとうございます。
回答させていただく前に、何点かご了承いただきたいことがあります。
1.アヤワスカもLSDも日本では違法であり、そして幻覚剤の使用には法的リスク以外にも様々なリスクがあるので、僕は幻覚剤を薦める目的でこの記事を書いていません。特に統合失調症や双極性障害・多重人格症など自我を制御できていない状態にある人は絶対やってはいけませんし、そういう人にやらせてはいけません。
2.この記事の内容は全て僕の個人的な感想・解釈に過ぎません。「幻覚剤とは何か?」の前に「意識とは何か?」がまだ科学では全く解明されてないわけですし、また幻覚剤は様々な条件によって影響が変わるものなので「飲めば必ずこういう経験ができる」と保証するものではありません。アヤワスカもLSDもネガティヴな経験をするリスクが多々あります。僕の経験も解釈も絶対的なものではないので「アヤワスカ/LSDとはこういうものだ」と決めつけて他人様に押し付けるつもりは毛頭ありません(ハゲなだけに)。
3.僕はアヤワスカについては約5年で700回近くやっているので、アヤワスカがどういうものかのは界隈の中でも大半の人よりはよく理解できていると思うのですが、LSDに関してはそこまでの回数は経験していません。それとアヤワスカの主成分はDMTでもDMT単体で摂取するのとは全然違います。本題ではないのでその違いはここでは説明しません。
4.「幻覚剤=違法=悪」だと経験もないのに決めつけるような人にはまるで内容が伝わらないと思います。アヤワスカとLSDのいずれか、または両方を経験したことがある人で、スピリチュアルなことにある程度の知識と理解がある人向けであり、そういう人がより理解を深め、考えるきっかけにしていただくことを目的として書きました。
以上
アヤワスカは数千年続いている文化であり、土着の宗教・信仰と不可分のものです。ノウハウの蓄積がしっかりあって様々な決まり事があり、伝統的にそれが守られています。「アヤワスカとは何か?」ということが、伝統的・文化的に知られているのです。
もっともブーム以降は金などのエゴ目的でやっているエセシャーマン詐欺師が急増しているので注意が必要です。彼らは「フリ」をして稼いでいるだけの「なんちゃって」であり、心からの信心・霊的研鑽はなく、アヤワスカの伝統など本当は表面的にしか知らないのです。現地では「本当の伝統は既に途絶えている」という人も多くいます。シャーマンを自称して生業にしているような人間はほぼ確実に詐欺師であり、本物のシャーマンが自らシャーマンと名乗ってネットで宣伝して高額な儀式に参加させて金儲けをするわけがありません。まして信心も宗教的な知識・研鑽もなく、ただアヤワスカのアナログ(疑似物)を用いる自称シャーマンは確実に詐欺師であり、他人を精神的配下に置いて自分を崇拝させながら金儲けをする手段に幻覚剤を使っていて、狂って自殺する人などが何人も出ているそうなので、絶対に騙されないようにして下さい。失うのはお金だけではなく人生全体なのですから、ただの詐欺師よりもずっと危険です。
LSDはアヤワスカと比較すると近年に偶然発見されたものであり、自然由来とはいっても化学薬品の部類であって、宗教・信仰とは結びついていません。そして「LSDとは何か?」ということが実際誰もよくわからないまま、主に幻覚遊びのために使われ、ヒッピーやレイヴなどの退廃的なカルチャーと結びつき、またオウムのような悪質な新興宗教に悪用されたりもして事故・事件が多発し、研究も進まないままにただただ悪者扱いされて厳しく取り締まられてきた経緯があり、まだまだ文化と呼べるレベルには全然達しておらず、今後も達することはないと思います(理由は後述します)。
ごく最近は幻覚剤が精神病の治療に有効であることが注目され、一部ではサイケデリック医療の研究も進められていますが、それは精神医療のメインストリームからはまだ程遠い感じがします。またその研究における科学的なアプローチ自体がスピリチュアルな文化・信仰とは相容れないものであり、僕は個人的にサイケデリック医療の進展には全く期待はしていません。特にLSDはそれが何であるかがわかった今となっては、LSDを精神医療に使うなどというのは狂気に感じます。心の病というのは成長課題として天より与えられているものであり、基本的には対話によって本人が乗り越えて行けるように導くべきものだと思います。「精神病・精神医学について」
そしてサイケデリクスが精神薬の一種として=医療・製薬業界のお金儲けの手段として資本主義の内側に取り込まれて矮小なものになり、またそれが神意に反することによって悪い影響が出てしまうことを僕はとても危惧しています。スピリチュアルを自己利益的に使うことが、いかにカルマを積んで後からどれだけ凄惨な清算が待っていることになるかは、僕がこの約5年間アヤワスカ・スピリチュアリズムに関わって日々見聞きして思い知らされていることですからね。
ただ幻覚剤が覚醒剤やコカインなどと同じように扱われることには憤りを感じます。アヤワスカもLSDもそれらのドラッグとは違って快感があるわけではないですから、身体的に依存症になるような心配は全くありません(精神的に依存する人はいるかも知れませんが)。使用中は性欲もなくなるのでSEXドラッグみたいにして悪用されることもまずないと思います。
そしてアヤワスカ茶はとにかく不味いので、何度飲んでも全く慣れず、飲む前はいつも躊躇します。その強烈な味・吐き気・不快感が障壁となるので、依存症にはなりようがないと思います。
アヤワスカは事前に食事制限があって様々な禁忌があるのですが、その制限内なら摂取前に食事しても大丈夫です。むしろ何も食べてないと吐くものがなくて浄化できず苦しくなります(嘔吐&下痢は浄化であり、必要なプロセスです)。
LSDは紙でもリキッドでもごく微量で作用しますし、ほぼ無味無臭で吐き気もありません。だからアヤワスカと違って味や臭いや吐き気が摂取の障壁とはならず、アヤワスカより遥かにカジュアルに使用されていると思います。ただしLSDは摂取前に空腹で挑む必要があり、胃に食事が残っていると全く効きません。そしてLSDもハイドーズすると吐き気があります。事前に食べてないので胃酸しか吐けず内臓が結構苦しいです。吐いても浄化されているという感じはあまりありません。そしてハイドーズだと他では経験したことのない頭や内臓の不快感もあります。
アヤワスカは効き始めに寒気が生じて、口がカタカタ鳴ったりします。体内の精霊が仕事をする時はそうなるらしいです。そして顔の半分が口になるぐらい大きなあくびが出ます。この仮想現実から目覚めようとしている感じで、僕はそのあくびが好きです。LSDもハイドーズすると独特の寒気があり体が震えますが(震えというより痙攣)、それが精霊の仕事かどうかはわかりません。LSDではあくびは出ません。アヤワスカは血中に溶けてから吸収されて作用するのですが、LSDはよりケミカルで胃や血管を介さずに脳神経へダイレクトに作用している感じがします。
ブラジルのアヤワスカ界隈では、妊婦や小さい子供も普通にアヤワスカを飲んでいます。日本のYouTuberでアヤワスカを「一種の毒である」と説明している人がいましたが、アヤワスカに毒性は皆無です。恐らくアヤワスカと一緒にやることが多いカンボ(蛙の毒による浄化)の情報と混同しているのだと思います。LSDにも毒性はないと思いますが、とてもリスク(後述します)が高いので、妊婦や子供が使って良いものではないと思います。
アヤワスカは毎日やっても大丈夫なものですが、LSDは一時的に耐性がつくので、1~2週間は間を空ける必要があります。空けないといくら摂っても全く効きません(だからやはり依存症にはなりようがないです)。そしてLSDは脳の受容体が吸収できる量に上限があり、一回1200ドーズぐらいが限界で、それ以上摂っても作用は変わりません。マイクロドーズについてはやったことがないのでわかりません。DMTの吸収上限についてはわかりませんが、アヤワスカを大量に飲んでDMTを過剰に摂取するというのはまず無理です(大量には飲めませんし、例え飲んでもすぐ吐いちゃいますからね)。だから健常者であればアヤワスカでもLSDでも過剰摂取による死亡事故というのは(静脈注射などをしない限り)まず起こらないと思われます。ただ錯乱などによる二次的な事故は話が別ですし、他の薬物との相互作用があれば少量でも大変危険です。
正直、LSDは絶対やらない方が良いと思います。僕は何事も自分で試してみなければ気が済まない性分で(覚せい剤のように依存性が強くて人生に良い影響が何もないと最初からわかっているものを試すほどバカではありませんが)LSDを試しました。僕はそれまでにアヤワスカを約700回も経験して意識変性・自我喪失状態に慣れ、また意識・世界・脳・幻覚剤の仕組みの理解が既にかなり進んでいたので、意識変性中に何が起きても恐れ慄いたりするようなことはなかったのですが、それでもLSDの使用中は気が狂いそうになりました(いわゆるバッドトリップではなしにです)。だからこの記事の内容をほとんど理解できないというような人は絶対にLSDは使用すべきではないと思います。それは自分のパソコンの知識・技術が一般人レベルなのに、自分の脳というパソコンのシステムをアドミニストレーター権限で弄り回すようなものです。ヘタすればもう二度と正常に起動しなくなり、自分にも他人にも手に負えなくなって、人生が壊滅的になる恐れがあります。
幻覚剤全般が誰にでもおすすめできるものでないのは冒頭に書いた通りですが、特にLSDについては本当におすすめしません。精神分裂のリスクが高過ぎます。やりたい人は他人から何を言われてもやるでしょうから止める方法はありませんし、止める意味はありませんが、まだ迷っている状態なのなら絶対やめるべきです。それは経験した上で確信しています。
効き始めるまでの時間はアヤワスカもLSDも30分ぐらいですが、効果の持続時間は大きく違います。アヤワスカの効果はせいぜい2時間程度と短いのですが、悪い霊に憑依されたりなど良くない反応があった人を途中で醒めさせるのは難しいです。基本、効き目が切れるまで待つしかありません。一方LSDは効果が5~6時間以上と長く続く半面、醒めたい時には食事を摂ればすぐにストンと落ちるので、その点はアヤワスカよりもラクではあります。
アヤワスカとLSDの共通のメリットを一言で表現するなら、どちらも仮経験的に人を自我から解放することで真理に気づかせる(覚らせる)ヒントを与えてくれるものだということです。そして共通のデメリットは、精神を分裂させる(霊障に自我を乗っ取られる)リスクがあるということです。
幻覚剤を経験したことのない人にとって幻覚剤のイメージというのは「一時的に頭が狂っておかしくなる」「夢のように荒唐無稽でおかしな幻覚を見る」という感じだと思いますが、幻覚剤で経験する世界というのは各個人の脳が狂って勝手に産み出している荒唐無稽なものではなく、実際に存在する別次元の世界のチャネルと松果体というアンテナを通して繋がっているのです。そこにはこの世界と同じようにきちんと設定とシナリオがあり、一つ一つの事象に意味があり、共通性・法則性があるのです。僕らにとってそれが理解し難いというだけで、決して荒唐無稽なわけではないのです。そして僕らの認識しているこの世界も無数にある共通チャネルの中の一つに過ぎないのです。統一された設定(時空・物理規格)をみんなで共有し、多くの人と世界線(チャネル)がつながっていてヴァーチャルに出会えているために、お互いにそれを現実だと思って疑わないだけで、いわば幻覚(仮想現実)なのです。
アヤワスカとLSDの両方を経験した上でまず僕が感じたことは、アヤワスカとLSDは全く次元の違うものであり、一口に同じ「幻覚剤」だからということで一括りには語れないものであるということです。その次元の違いを説明しますね。
まず「宇宙の仕組み」に書いた通り、我々が普段「現実」として認識しているこの世界は「我々みんなの意識=創造主」がその意識の内側に「経験の場として」創り出している仮想現実です。そして我々の意識が今ログインして滞在しているこの宇宙には2種類の次元の違う起源があるのです。それはゲーム内起源(内部宇宙)とゲーム外起源(外部宇宙)です。
例えば僕はかつて「カルドセプト」というゲームが好きだったのですが、そのゲーム内において世界は「カルドラ」という神様が創造したことになっています。それがそのゲーム内における宇宙の起源なのです(ゲーム内起源)。我々のこの仮想現実世界もそのように内部宇宙における異次元の世界(実在します)で起きた神話を元にして(設定として)創られているのです。ビッグバンなどもその設定の一つであり、実際に起こったことではなく、起きたという共通設定で我々の世界が創られているのです。とても受け入れがたいと思いますが、この世界の全てはクリエイター(創造主)によって意図して作られた創作物なのです。このあたりの話は「ピラミッドの仕組みと存在意義」に詳しいです。
アヤワスカは前者の「ゲーム内起源・内部宇宙」の次元、LSDは後者の「ゲーム外起源・外部宇宙」の次元と繋がって仮経験させてくれる感じです。ゲーム内起源の内部宇宙は「愛」に価値が置かれた(善悪などに優劣のある二元的・道徳的・勧善懲悪的な)神話がベースの物語の世界であり、ゲーム外起源の外部宇宙は「経験」に価値が置かれた(善悪などに優劣のない非二元的な)世界であり、クリエイターの根源的な製作意図(ポジティヴ・ネガティヴ両方の経験を積ませること)がダイレクトにわかる世界なのです。そのどちらと繋がるかがアヤワスカとLSDの根本的な違いかと思います。
生命の樹で表現すると、アッシャー(肉体)からイエツィラー(魂)の階層までがゲーム内起源・内部宇宙であり、ブリアー(霊)からアツィルト(神)の階層がゲーム外起源・外部宇宙という感じです。ただ一口に「上位次元」といっても様々な階層があり、その境目というのはそんなにキッチリ分かれているのではなく、重なっている部分があってモヤっとしていて、それぞれの階層にいる様々な存在が行き来したり交信したりしているのです。そして我々の魂は人間界で「どれだけ成長したか?」「どんな存在であったか?」によって、どの階層に行くか・そこでどんな存在になるかが決まるのです(魂の概念化)。
そしてマルクト(人間界)からケテル(真理・創造主意識)に至る三本の柱がありますが、アヤワスカは慈悲の柱を上り下りする感じであり、LSDは峻厳の柱を上り下りする感じです(文字通りめちゃくちゃ厳しいです)。そしてこのマルクト(人間界)における修行を通して登る道が均衡の柱、という感じです。本来的には均衡の柱を上るのが王道であり、この人間界での修行を放棄して幻覚剤に頼るだけで覚った気になるのは非常に危険ですし、それは魂的な成長には繋がらないと思います。
真言密教の曼荼羅で表現するなら、アヤワスカは胎蔵界を、LSDは金剛界を上り下りする感じです。
ただし幻覚剤の体験というのはあくまでも仮経験であり、本質ではありません。僕は直接的にアヤワスカやLSDで覚らされたわけでなく、5年程前に突如としてプログラムを脳に直接インストールされるようにして覚りが与えられたのです。僕の鬱もその覚りによって寛解したのであり、サイケデリクスは関係ないのです(だからサイケデリクスによる精神医療には反対の立場です)。アヤワスカとはその覚醒の数か月後に出会って、既に与えられていた覚りを実感を通して再確認させられ(補助的)、更に現実世界での実践を通じてより覚りを進めさせてもらっているという感じです(だから幻覚剤による経験を論理的に理解し説明できるのです)。
僕は目覚める前にかなり年齢を重ねてしまったので、より上位に進むために幻覚剤の補助は必要悪だと考えていました(今は懐疑的です)。普通に宗教修行していたらとてもケテル(真理・創造主意識)には至れないと思っていたので。僕はあくまでもこの人間界における修行(宗教修行・肉体修業・人間関係修行など)に価値を置いているのですが、そっちの話をしてもなかなか多くの人に興味を持って貰うのは難しく、どうしても幻覚剤のことばかりが注目されて「幻覚剤で悟った気になってるイタい人」みたいなレッテルが貼られ、僕が一番伝えたい「自分もみんなも共に幸せにする・魂を成長させる覚り」がなかなか伝わらないのがもどかしいところです。
幻覚剤を遊び目的で使い、神秘体験をしているのに信仰心を持とうとせず、物質主義的・無神論的な考え方をしていて、平気で道徳に反したことをする人が多いみたいですが、その物質主義的・無神論的な考え方こそが人間に与えられた無明であり、それはまさにクリフォトの樹のような仕組みになっていて(ヴィジョンでそれを見ました)、それを乗り越えて信心を持つところに価値があるのだと思います。神秘体験を与えられていながら信心に生きようとしない人は、神秘体験を与えられていないがゆえに信仰心を持てていない大勢の人と比べて、きっと壮大なカルマを積んで後から清算させられることになると思います。
アヤワスカで意識変性に至るには、その不快感と、己と向き合い許すという苦しみを乗り越えなければなりませんが、それを乗り越えるととても神聖な感覚があり、自分も儀式参加者もみんな神様のように感じたりします(実際みんなが神の使いであり、神そのものでもあるのですが)。真理を知れば知るほどこの世界・人生がいかに壮大な愛・慈悲によって創られているかを実感し、終った後に胸から溢れるような幸福感があり、全てが愛しいと感じます。アヤワスカのヴィジョン(目を閉じて見える世界)はスモークに映し出した3Dホログラムのように朧気で(とてもクッキリ見える時もありますが)全てをネオンで描いたように美しく、それによって神話の世界を見させられている感じです。実際に神仏や曼荼羅が見えることもあり「ああ、本当にいるんだな」って実感します。見える模様は幾何学的であり、世界の創造というのが幾何学を尽くした概念の具現化であることが感覚的にわかります。
一方LSDの意識変性の方は、神聖さ・愛がほとんど感じられず、ヴィジョン(目を閉じて見える世界)はいわゆるサイケデリックの世界で、VRゴーグルで3D映像を見る感じでクッキリ見えます。創造主の想像=創造領域(ゲーム制作のアイデアの世界)なので、人間の僕には意味があまり理解できずにカオスのように感じられます。その世界は美しくも無機質で、デザインが天使と悪魔の混合のようで神々しくはなく、色づかいも原色と蛍光色がベースになっていて毒々しく禍々しい感じがします。そしてLSDにより覚らされる真理というのは善悪を超えていてあまり救いが感じられず、知れば知るほど今までリアルだと信じて疑わなかったもの(自分・他人・世界)が全て創作物だったのだと実感を通じて覚らされる感じで、幸福感は全くなく寂寥感のようなものを感じます。3Dゲームの世界を本当の世界のように思って没入している最中に、ゲームの開発者(本当は自分自身)からその制作過程をゲームの中でプレゼンされるみたいな感じで、身も蓋もないような真実を無慈悲に突きつけられるような感じです。そして現実世界での経験を伴わずに、幻覚剤によって答えだけ求めることの虚しさを痛感させられる感じです。
アヤワスカでゾーンに入ると、視界のすべて(ヴィジョンではなく実際の視界)がイデア化(理想化)される感じで、すべてが光で描いたように色鮮やかになって普段よりずっと神々しく美しくなり、特に花が別物のように美しく見えます。何度か視界全体がインド神話のようになったこともあります。欠点がすべて見えなくなりパーフェクトになる感じです。祀っている神仏などの置物や絵が動いたりもしますし、曼荼羅から仏が飛び出てきたりもします。服や壁などの柄も変わります。この世ならざるものの姿や、実在しない建物などが見えたりもします。地面や空間に丸い光の紋章が無数に見えることもあります。そこには文字も書いてあるのですが、まったく解読不能です。法華経の地涌菩薩のように無数の仏が見えたこともあります。それでも視覚が歪んで狂っているわけではないので、何かものを掴み損ねたりとか歩行が困難になったりとかするようなことはなく、意識変性中も刃物や火を使って料理したりなど、普通に生活できます。
LSDでもゾーンに入ると花などが美しく見えたりはするのですが、イデア化しているというほどの感じではありません。そして視界が歪み、クラゲのようにフワフワ・グニャグニャ踊っている感じになります。神仏の像や絵なども生きてるみたいに表情や色が移り変わって見えるのですが、やはりアヤワスカの時ほど神聖な印象は受けないです。そしてハイドーズだと意識変性中は歩行すら困難なほどになり、視界が歪んでしまって何か物に対して自分が意図した通りに正確に触れることもできず、思考も混乱するので、その間は普通に生活することができません。だから特にハイドーズは一人でするべきではないですし、外では絶対にハイドーズしてはいけません(アヤワスカも外でやるのはダメですが)。
アヤワスカは自己の人生を振り返り、自分や他人を許すことを通じて己の愛を育て、魂的に成長するように促されている感じがします(道徳的・指導的)。自問自答のループがすさまじく、自らへの問いと同時に自分の深層心理・神我・ハイヤーセルフから答えが返って来る感じがします。
自分の意識が肉体から離れると、自分が他人のように感じて「もう戻って来れないかも知れない」というような恐怖を感じます。そこで自分の名前を思い出し、自分自身に対して「この人を愛している。何があっても絶対に最後まで見放さない」という覚悟を持ち「自分の魂は他の存在(世界)に良い影響を与えられる存在である」と確信することによって、魂(意識体の自分)が肉体に戻って来れる感じがします。
だから覚りが進んでおらず、信心がなく、「自他が存在する」ということに感謝がなく、エゴに埋没していて自己嫌悪心・被害者意識・厭世観が強くて逃避願望があり、自我を保って己を制御する力が弱いような人・霊障に乗っ取られているような人は本当にLSDは絶対にやっちゃいけないと思います。本当に戻って来れなくなる可能性がありますから。
自分の主人格(一霊四魂の直霊)が肉体から消えたままになるというのは実質死んだも同じだと思いますし、自分の意識がないまま勝手に自分の名前と肉体を霊障に使われ、愛すべき人たちを傷つけて憎まれ、重大な犯罪や事故を起こして歴史に悪名を残されるかも知れないというのは本当に恐ろしいことだと思います。そしてアルコールや大麻など、無自覚に自我を霊障に明け渡してしまうものと一緒にLSDをやると、突発的に霊障が大暴れして衝動的に自殺したりすることもあり(飛び降り・車両への飛び込み・首つり・オーバードーズ・服毒など)、最近日本でそういった事故が多数報告され、ますますLSDへの規制が厳しくなってきています。
幻覚剤にはそうしたリスクがあるので、僕は遊び半分で幻覚剤を使える人の気が知れません。勝手な推測でファンの人を傷つけたら大変申し訳ありませんが、僕はhideの首つり自殺や窪塚洋介の飛び降り事故などもそれが原因なんじゃないかと思っています。それ以外でもミュージシャンなどの著名芸能人の前触れのない突発的な自殺は、アルコール・大麻・精神薬などと幻覚剤の組み合わせによる薬物相互作用と錯乱が原因であるケースがきっと多いと思います。そうしたケースでも社会的影響や故人の名誉のために本当の原因は報告されないのでしょう。状況的に事件性がなさそうであれば、遺族も死体解剖を拒否するでしょうし、幻覚剤が検出されることもないでしょうからね。
幻覚剤によるインスピレーションを芸術・技術に生かすことで富と名声を得ていながら、それを十分に社会に還元できていなければ、カルマを積んで早死にすることになるのかも知れません。特に悪魔的な存在からのインスピレーションを好んで使うアーティストにはその傾向がある気がします。
hideは素晴らしい作品をたくさん残し、多くの人を励ましてとても社会に貢献した人だと思いますが(僕はファンです)、神に愛されるということは悪魔に愛されることでもあるのです。
アヤワスカが「許し=愛を経験するためのもの」であれば、LSDは全てが一つであるという感覚を通じて「許していないのは自分自身の方なのだな」と覚らされるものだと感じます。そして「個性というのは幻であり、本当は全てが一つであると同時に全てが全体の一部であり、全てが関係性の中で存在していて、僕ら全員が同一人物のようなものである」ということ(諸法無我)を実感として教えてくれている感じがします。きっと「自分も他人も同じ存在で、みんなが欠点と過ちのある存在なのだから、許す以外にない」ということを自ら「論理的に」覚らせてくれているのでしょう。そして「本当は他者など存在せず、害したのも害されたのも全部自分自身なのだから、許す以外にないんだよ」と。
でも僕はLSDによるこの「全てが一つである」という感覚に安堵感のようなものは感じず、むしろ酷なことのように感じます。それは「この世界の事象全てが最初からプログラム済みであり、人間はすべてNPCの如き存在で、自由意志など存在しない」という理由で「あなた(人間)に罪はない」と言われているように感じられるからです。創造主より贈られた「自由意志」という宝物は、自分の犯してきた罪や恥を「自分の意思が原因である」と認めることで受け取れるものなのでしょう。
この「全てが一つである」という感覚は、エゴが強い人が使えばエゴに振りきれてしまい、自殺願望がある人は衝動的に自殺してしまい、犯罪的ないし変態的な衝動を抱えた人・霊障に犯されている人が使えば狂気につながってしまいかねないのではないかという恐怖を感じます。だからそういう人には絶対に幻覚剤を使って欲しくないのです。「人生の試練(カルマ)というのは全て創造主の愛により我々を成長に導くためのものである」とポジティブに愛で解釈し「創造主の分身であるみんなに良い影響を与えるために生きていこう」と考えられる人だけに幻覚剤を使って欲しいのです。
アヤワスカの覚醒は脳の覚醒というより霊性の覚醒であり、自分自身(神我・ハイヤーセルフ)との対話という感じが強いです。この現実世界で己がエゴによって積み上げてきた罪・恥・劣等感などのゆえに、己と向き合うのはとても苦しいことなのですが、自分も他人もイコールの存在として許して乗り越えられると、しみじみと幸福感を感じます。終わった後は疲れて眠くなることが多いです(なかなか寝付けないこともあります)。逆に言うと自分自身と向き合うことを拒否している段階にある人は、アヤワスカをやるべきではありません。気持ち悪くなるだけで何も起こらないか、あるいはネガティヴな影響が起きてネガティヴな方向に導かれてしまうことになるリスクが高いからです。
LSDの覚醒は純粋に脳の覚醒であり、ハイドーズすると脳細胞が一旦「量子もつれ状態・ニュートラルな状態」になって量子波動化する感じがします。それは脳が一旦サナギ状態になるようなもので、一時的に思考がひどく混乱して普段通りにモノを認識して思考することが全くできなくなります(確かに現実世界にいるのに夢の中に閉じ込められているような感じになります)。
LSDの覚醒では思考のループが起こり、論理的に考えようとすれば考えようとするほど論理がひっくり返って深みにハマる感じで混乱がひどくなり、自分は狂人になってしまったんじゃないかと恐怖します。それでも「今の自分はまともである」という自己正当化意識があり、夢の中と同じで今の自分がまともでないということを自覚はできません。それはシラフの時でも自分がおかしくなっているのを自覚できないということですから、それがひどく苦しく恐ろしく感じ、考えるのをやめたくなります。「統合失調症というのはきっとこういう感じなんだな」と覚らされます。そしていかなる時でも自分が他の存在に対して良い影響を与えられるように気を付けなければならないのだと覚らされます。無自覚に人を害してはならない、と。
恐らくこれは生命の樹の峻厳の柱の「ゲプラー(意思)」と「ホド(思考)」を繋ぐパスである「吊るされた男」を通るプロセスであり、今までの自分の信念が全部自分で信じられなくなるような感じがします。まるで全人生・全人格を自分自身から否定されるような感覚です。それは「創造」というものが「答えを一つに限定しない」という原理で広げられているものであり、そのためにそれまでの答えを否定させるプロセスが必要なのでしょう。全ての創造は、創造主が内なる己を知るため・愛を経験するために創造したものであり、「自己正当化」というのは深い内観・許し(愛)に反する意識であって、それに対してLSDはとても厳しいのです。だから深く内観し、自他を許す以外にないのです。このプロセスでは何もかもが信じられなくなり、狂気と恐怖を感じます。本当に神にすがりながら薬効が切れるのを待つだけになります。「人の価値とは?」に書いた通り、人の価値というのが、その人の考えが正しいか間違っているかではなく、存在そのものにあるのだと心から思っているのでなければ、このプロセスによって自尊心は壊滅的になってしまうでしょう。
LSDの覚醒は知能が覚醒するというよりは意識の拡張によってアカシックレコードとのつながりが覚醒する感じで、混乱を超えた先には「一時的に」この人生というゲームのクリエイター側の感覚になって、何もかもを当たり前のように知っている感じになります。しかしその「当たり前」という感覚ゆえに、せっかくその時に覚らされた宇宙の仕組みや未来のシナリオなども、その時は「当たり前」だと感じているがゆえに何かを「覚った」という自覚がなく、現実世界に戻った時にはほとんど忘れていて持って帰れません。どれだけ持って帰れるかは、この現実世界でどれだけ悟れているかに依ると思います。
それでもゲームソフトがゲームの全ての情報・可能性を網羅し内包しているように、脳は本当はアカシックレコードと直結していて、答えを全部最初から知っているのであり、
・魂が人生で失敗と試行錯誤を通じて成長を楽しめるように
・魂が想像=創造性を発揮して人生を芸術として楽しめるように
・魂が物語の中で「愛とは何か?」を経験的に覚れるように
敢えて我々の魂(意識)に対して答えを隠しているのだということには気づかされます。
LSDの覚醒が終わった後には、脳が量子コンピューターのように欲しかった答えを出してくれている感じがするのですが、そこに至るまでの混乱がひどいですし、LSDが覚らせる真理というのは善悪を越えた次元のものなので、覚らされることに幸福感が全くなく、寂寥感のようなものがあり、苦難を乗り越えてその混乱の汚泥の中から真理を手にしたという充実感もありません。それゆえ「違法だから」という理由ではなく「明らかに道徳的に良くないことをしている」「チート行為である」という罪悪感があります(アヤワスカでそれはありません)。そしてLSDもアヤワスカ同様ひどく疲れますが、LSDは脳自体の覚醒なので、終わった後は疲れているのにかなり長時間眠れなくなるのがキツいです。
アヤワスカもLSDも共に意識が虚数時間の次元と繋がるものなので、時間感覚がおかしくなり、時間が全然進まなくなることが多く、時々は逆に急激に進んでいたりします(雲があり得ないスピードで流れるのを見たりしました)。またどちらも夢のように醒めた後で記憶が残りにくく、無作為に残された動画の切り抜き画像のように断片的にしか思い出せないのですが、次の意識変性中にはまた思い出したりします。
アヤワスカの意識覚醒状態では外界の対象に対して五感(六感)が鋭敏になり、直接触れていないものの温度まで感じたりします。視覚が美しくなるのは前述した通りですが、音楽もいつもよりとても美しく聞こえます(アヤワスカでかける曲は普段聞いても素晴らしいです)。アヤワスカの意識変性中は音楽を耳で聞いているというよりは脳内に直接響き渡っているという感じで、音楽がどこから聞こえているかがわからなくなったりします。だから儀式で嫌いな曲・うるさい曲がかかるとツラいです。時々は同じ曲でも普段とは全く別な曲に聞こえたりします。一人で儀式をしている時に僕が好きな激しい音楽(BABYMETALやB’zなどの神曲)を聞くと脳内物質がギュルギュル脳内を巡っているのを感じます(痛快です)。そして幻聴もあり、別次元の存在の声が聞こえたりもします。臭いにも敏感になるので、儀式で自分に合わないインセンスやアロマが使われているとキツいです。また、毛布の中でする自分のオナラで鼻が曲がりそうになったりします(笑)
そしてアヤワスカでは「共感覚」が強く出ることがあります。数字・文字や音楽・思い出に色感や触感や温度感や味覚があったり、概念上の存在の形や名前が視覚的に見えたり、色々です。これはLSDでは今のところあまり感じられていないです。
LSDの時に僕はいわゆるサイケデリックな音楽と映像を使うことが多いのですが、意識変性中はそのサイケな音楽や画像・映像がとても素晴らしく心に響く感じがします。僕は個人的にそれらをシラフで視聴してもあまり素晴らしいとは感じません。そしてアヤワスカの時にLSDの時と同じサイケデリックな音楽や映像を流すと不快にすら感じます。
LSDのハイドーズ中は一時的に分離意識がほぼ失われ、意識(主体)が対象(客体)と一体化してしまって意識的な距離が取れなくなります。それで例えば僕が環境セッティングに使っているプロジェクターの映像も直接心へ滝のようにズドドドと流れ込んで来る感じがします。これは恐怖を伴うものであり、勇気を試されている感じがします。
アヤワスカの場合は同じようにプロジェクターの映像を見る時でもまだ「自分」と「映像」が別の存在であるという分離意識が確実に残っているのですが、LSDのハイドーズ時にはその分離意識、つまり自分と他の存在との境界線がほぼ消失し、「自分」が「映像」を見ているのではなく、自分がその映像の一部になっているという感じになります。現実感(普段の思考)が完全に失われているので、臆病な人がやったらきっと気が触れるほどの恐怖を感じるだろうなと思います。それと同時に、普段は心が傷つかないように無意識に対象との距離を取っているものなのだなと覚らされます。
意識変性(拡張)中というのは思考が即視覚化される感じで、怖いと思ったら怖いという意識がどんどん拡張されて恐ろしい経験をします。だから臆病な人がやったら本当に気が触れる可能性があるので絶対やるべきじゃないと思います。僕は一度もバッドに入ったことがないですが(厳密に言うと一度だけネガティヴな経験をしていますが)、バッドに入る人は基本的に「あなたはやるべきではない」という警告だと思って下さい。「LSDを友達に勧められてやってみたら楽しかったから量を増やしてみよう」などと安易に考えるのは非常に危険です。LSDハイドーズでの混乱と恐怖は想像を絶するものであり、一度経験したら「経験前に戻る」ということは絶対にできません。マトリックスのレッドピルのように「不可逆のものである」と事前に強く認識すべきです。この記事をアップしてから、LSDの経験後に「後遺症で幻覚と妄想に苛まれ、鬱・統合失調症・コミュニケーション障害状態になっている人」や、サイファーのように「こんなことなら目覚めなければ良かった(摂取前に戻りたい)と後悔する人」からの相談を連日のように受けています。LSDは絶対に興味本位などの安易な気持ちでは手を出してはいけないものだと思いますし、もし迷っている人がいるなら絶対やめるべきだと思います。
あくまで僕個人の経験・感想ですが、LSDはゲーム外起源の次元とつながるものなので、この物質世界というのが創造主の意識の内側にプログラム構築されたものであることがよくわかります。僕ら各分離意識(分け御霊)はそれぞれ別な宇宙を与えられていながら(一人一宇宙)、時空の座標と物理規格が世界線を共有する者の宇宙同士で統一されているために、僕らはネットゲームで他のログインプレイヤーに出会うようにして一緒の世界にいるような感覚になれているのです。だから認識者の認識によって事象が結実し、それが各認識者の世界で連動するという量子の仕組みは必然のものであり、各分離意識(分け御霊)をそれぞれ主人公として同時に成立させるためのものだとわかります。そして「本当は他者など存在しない(すべてが自分自身である)」と覚らされるのです。
あなたは恐らく「モナド」などという最小単位の存在に宇宙の全情報があるなんて信じられないと思いますが、概念の次元に物理的な大きさは関係ないのです。※モナドが何かわからない方はネットで調べて下さい。
LSDハイドーズで自分と他の存在との境界線がほぼ完全になくなって一体化すると、壊れたテレビのチャンネルが勝手にグルグル回るように世界がループします。世界の認識自体をグルグル繰り返しひっくり返される感じになり、例えば現在自分が部屋の中にいるのか、自分が脳内に創り出した部屋という幻想の中に自分がいるのかわからなくなります。そういう感じの世界認識がひっくり返されるループが繰り返し繰り返しグルグル起こるのです。それは意識が次元(事象)の交差点であるブラックホールを通るからなのでしょう。一つの素粒子が一つの宇宙であり、一つの宇宙が一つの素粒子であるという感じで、物理的な大きさが意味を失ってイラストレーターの画像のように主体者である自分の任意の状態になり、その任意の主体者たる自分の自我が抜けているために、宇宙認識の基準点・位置感覚が失われて無限ループが起こるわけです。それは「モナドとは何か?」を体験的に教えられている感じがします。ただこれは本当に精神的にキツくて気が狂いそうになります。
LSD体験というのは、僕らのいる仮想現実世界の制作会社にアクセスするようなものなので、その仕組みがよくわかります(当人の元々の理解の進捗度に依りますが)。そしてそれはまさに仏教の大千三千世界そのものだとわかります。仏教の宇宙観はこの仮想現実世界の仕組みを如実に表したものなのです。下の画像の風輪がゲーム機のモーターであり、金輪が束ねられたデータディスクであり、その表面がディスクのデータを光のリーダー&ライターで読み込んで3Dホログラムのように映し出したこの現象世界であり、鉄囲山が地球の重力圏(高さ=重力で視覚化されている)であり、須弥山がブラックホールであり、それがデータ宇宙を束ねていると同時に次元の交差点でもあるのです。世界は意識の数だけフラクタルに存在しているのであり、時空の座標・物理規格が共通設定として各意識(各モナド)で世界線として共有されているために、僕らはネットゲームにおけるログインプレイヤー同士のようにして、お互いの認識世界でヴァーチャルに出会うことができているのです。
アヤワスカでもLSDでも、この現実・人生にはシナリオがあり、すべてが必然で偶然は存在せず、設定としてすべてが完璧な法則性の元に成り立っているのが感じられます。ただアヤワスカはゲーム内のシナリオ(ファンタジー)を見させられる感じで、LSDはゲームの外の次元におけるこの世界の制作過程を見せられる感じでやはり次元が違います。アヤワスカは竜宮城のようなゲーム内の神話の世界ですから、それはとても楽しく幸せや愛を感じる体験で、醒めた後は「もっとあそこにいたかった」と毎回思わされます。ところがLSDでは自我を喪失する恐怖と混乱が強く、「全知全能・完全無欠・唯一無二にして無始無終で永遠の存在である創造主の孤独・退屈・存在意義のなさ・絶望(5億年ボタンの様な状態)」の記憶を思い出させられる感じで、醒めた後には「戻って来れて良かった・現実世界って完璧に良くできていてありがたい」と毎回思わされました(僕はそのためにやっていた感じでした)。
LSDはそのように「クリエイター側の意識」を仮経験させられることで、この現実世界において僕らが当たり前のように感じている「自分がいて、他人がいて、世界がある」「自分はこの世界における庶民の一人である」「みんなとコミュニケートすることができ、共感・同情し合い、許し合い、助け合い、愛し合うことができる」という感覚と、それを支える仕組みの存在が全然当たり前のものではなく、創造主からのかけがえのない贈り物(Present:現在&Gift:才能)であり、途方もなく素晴らしく有難いものだと覚らされる感じです。そうすると本当にこのリアルの人生においてどんな苦難や不幸があろうとも、「自分」という存在と「人生」という経験機会を創造主からいただいていること自体に根源的な感謝と幸福を感じられるようになります。
上位次元をこの次元より素晴らしい世界だと思い込み、それを経験することで優越感を感じようとしている人が多いみたいですが、次元の上位下位というのは価値の上位下位ではなく、上位次元を仮経験することでわかるのは「全てが全ての構成要素である」ということです。そして上位次元というのはこの次元をより素晴らしくするために存在しているようなものであり、この次元の価値がわからず・感謝せず、自尊心の低さ・厭世観ゆえにこの次元を嫌って逃避したいと考えているような人が幻覚剤を使うとロクなことにならないと思います。
世界は決して誰の意思も介在せずに勝手に生じ、物質⇒生命・意識が誕生して進化しているのではなく、元々完全である概念⇒創造主意識が経験の場としてこの現象世界を構築しているのであり、全知全能である創造主が世界をより完全な(より成長性・ゲーム性・芸術性・創造性があって面白い)ものに進化させ続けているのです。そして無数にある次元・世界の中でも、この我々の世界(人生)が最も素晴らしい体験機会であり、もっと良い世界などどこにも存在していないのです。我々の父たる創造主は一人息子である我々分離意識たちに常に最新版で一番面白いゲームをさせてくれているのです。我々の多くはそこに全く感謝しておらず、ゲームの困難さ・苦しさゆえに怨みで返していますが、我々は最高の経験機会を与えられているのであり、それはとてもありがたいことなのです。
僕はそこに心から感謝しつつも、同時にある意味でどこか絶望に近い感覚も持っています。それはやっぱりまだどこかで「この世界が自然発生したものであり、偶然が存在する」「自分と他人は別の存在である」「死は存在の終焉であり安らぎである(魂は永遠ではない)」というところに逃げたい自分がいることと、「この世界よりもっと素晴らしい天国みたいな世界があるのではないか」と期待してしまっていることが原因かと思います。そういう天国みたいな世界はこのゲームクリアのご褒美として用意されてはいるのですが、それはただ幸せなだけで何の成長要素・ゲーム要素もないエンドロールのような世界であり、達成感を感じた後はすぐつまらなくなって、我々はわざわざこの困難多きゲーム世界にまた自分の意思で来ているのです。忘れているだけで。
僕らには「孤独で退屈で存在意義のなく絶望的な状態が永遠に続く」のと「この人生(魂の成長経験)という最高に面白いゲームを永遠にプレイし続ける(創造し続ける)」のと二つしか選択肢がなく、前者を選ぶ理由はありませんから、実質後者を選ぶ以外になく、後者を選んだからこそ我々は今こうして存在しているのです。だからやはり僕は感謝と絶望の両方を感じてしまいます。どのみち終わりはないのですから。
アヤワスカは「己の存在意義を自ら覚らせてくれる」感じがしますが、LSDは逆に創造主から「己の存在意義を問われている」感じがします。hideのeyes love youの歌詞にある通り「存在の意味を教えてくれと すがり叫ぶ 鏡の中の己」という感じです。そしてこの「己」というのはこの物理世界で肉体を持つ「自分」だけでなく「自分の意識・認識世界全体」のことであり、ひいては全存在のことであって、それが存在する意義は何なのか?と創造主(=全存在)から問われている感じです。世界はその答えを得るために永遠に創造され続けるのだということがわかります。そしてその答えは創造主の分け御霊である自分が主人公として人生を通じて自分の言葉で語れなければならないのであり、「他の分け御霊さん、お願いします」と他人にマイクを譲ろうとしては主人公として成立せず(笑)存在意義がありません。創造主と我々の関係は常に一対一であり、誰かの背中に隠れることはできないのです。
僕らは「自分」というかけがえのない存在を与えられた代わりに、「存在意義」を卒業論文のように創造主に提出しなければならないのです。ただそれは創造主から提出を強制されているのではなく、本当は僕ら自身が創造主なのであり、僕らは自らが創った「自分」と「自分の世界」が存在することの意義を自ら明確にする以外に選択肢はないのです。僕らは忘れているだけで、僕らの魂はそこに同意して生まれて来ているのであり、「自分とは(世界とは)どういう存在なのか?」を更新するために生まれて来ているのです。
「意識拡張(宇宙との一体化)の最果てには何があるか?」というと、もちろんそれはケテル(創造主意識)があるのです。創造主は僕らを通じて経験を集めているわけですから僕らの心の奥底まで全部が見えている(=一緒に経験している)のですが、僕らの側から創造主は見えません(不可逆視)。もし見えたら我々は創造主の分け御霊・経験主体者として存在し得ません。そもそも創造主というのは意識体であって姿かたちがあるわけではないので視覚的に見ることは不可能ですし、我々も含めて全ての存在が創造主意識の現れなのであり、主体者である創造主以外は何も存在しないのですから、創造主の一部である我々が創造主を客体として認識すること自体が(定義上)不可能なのです。それは「ピラミッドの存在意義と仕組み」に書いた通り、トランプに様々な数字(個性)があっても裏返せばみんな同じ柄であるが如くであり、個性を与えられている存在の我々には、自分の背中にいる創造主(すべての個性の集合体)が見えないのです。
ケテルの前には鏡(八咫鏡)があり、波動を上げ切れていない(覚りきれていない)現在の僕らの意識では創造主意識とは一体化できないようになっています。現世での人生修行・魂の成長を終えて覚りを完成させずに(ゲームクリアせずに)そこに至ろうとするのはチート行為であり、それはRPGでまだレベルが十分でなくシナリオをちゃんと回収していないのにいきなりラスボスのダンジョンに乗り込むようなもので、ものすごく恐ろしく感じられる上に全然先には進めずボコボコにされるのは必然だとわかることでしょう。当然それを防止するための柵があり、それを超えようとした時にはペナルティーがあるのです(意地悪ではなく、それも愛です)。
だからもしあなたが幻覚剤や瞑想などでケテルの手前まで意識を拡大できたとしたら、例えそれがどれだけ心地よく感じたとしても、それ以上意識を拡大しようとしてはいけません。魂(一霊四魂の直霊)が肉体に戻って来れず、統合失調症みたいになる可能性があります(まぁその前に「帰れ」って言われて現実に戻されるでしょうけども)。
もしあなたの意識がその鏡(八咫鏡)の前まで至ったなら、自分が創造主自身であり、全てを創造したクリエイターであるということに気づかされるでしょう。あなたは自分で創ったRPGを楽しむために分離意識となって自分が創造主であることを忘れ、人間というアバターを使ってこのゲーム世界にログインし、自分がプレイヤー(主人公)としてログインしていることさえ忘れてしまっているのです。どうかこのRPG世界におけるプレイヤー(主人公)として目覚め、あなたが描いたシナリオの行く末に全責任を負い、世界を救いに導いて下さいね。そしてこのRPGの物語・創造を楽しみ、己と世界の存在意義を覚り、いつかクリア(悟り・世界救世の完成)して創造主の元に笑顔で帰ってあげて下さい。
もし幻覚剤の経験で混乱している(意味がわからなくて困っている・後遺症に悩んでいる)という人や、誰にも理解されそうになくて孤独を感じているという人は、是非僕に相談して下さいね。宿命だと思っているので、いつでもお待ちしています。
「創造主(=全存在)の起源・仕組み・存在意義」については、現在記事を書いているのですが、途方もなさ過ぎて終わりが見えません。みんなに理解してもらえるようにはとても書ける気がしないのですが、いつかは書籍化したいと思っています。
【関連質問】
「LSDの後遺症について」
「幻覚剤による妄想か真実か」
「極度の人見知り(大麻・LSD)」