【質問】19歳・男性 ペンネーム:内山
突然質問失礼します🙇
紙を食べた時の体験が妄想か本当なのかわからなくなってしまったので質問させて下さい。
クラブで紙を食べてるのが周りから分かるような状態になった時に、気分が落ちて休んでいたところある客のグループが意識に入り込んできて軽く思考を読まれた後、コントロールされて遊ばれたのですが、これは本当にそういうことができる人たちがいるのか、私の妄想なのかがわからなくて苦しいです。
もう一つ質問したいことがあって、ハイドーズをした時に自分の中の生命のレイヤーを一通り巻き切った後に個としてのレイヤーが現れてきたのですが、そのレイヤーがとにかく不気味かつ不穏で体の先端がレイヤーの中心でした。これを巻き切ると容姿は美しくなるものの爬虫類のような形相になり、他者への加害性が増してしまうことに気づきました。これは私の妄想の中の出来事に過ぎないのですかね?
長々と失礼しました。🙇お答えくださると嬉しいです。
【回答】
ご質問ありがとうございます。
幻覚剤に興味があるのは普通のことで、遊び目的で使っている人はたくさんいますし、決してあなた個人を責めているのではなく、心底お救いしたいと思っています。ただ「アヤワスカとLSDの違い」に書いた通り、幻覚剤の多くは日本では違法ですし、僕は特に遊び目的・現実逃避目的での幻覚剤の使用を推奨していません。実際とても危険だからです。もちろん逮捕される危険もありますが、事故や精神異常になる危険の方が恐ろしいです。
僕が止めたところでやりたい人はやりますから、止めることは無意味ですので、僕は「推奨しません」としか書いていませんが、本心では止めたいのです。あなたの症状は端的に言って統合失調症的であり、本当にそうなってしまう可能性もあるので、少なくともまだ今は使用すべきではないと感じます。主人格(一霊四魂の直霊)で自我をコントロールできなくなってしまうと本当に大変ですから。
>>私の妄想なのかがわからなくて苦しいです。
お気持ちはとてもわかるのですが、自分が見た幻覚を「妄想かそうでないか」という問いを他人にするのは、夢の中で出会った人に「これは夢ですか?」と尋ねるが如くであり、本質的に無意味であって、それを決めて結果責任を負うのは主体者であるあなた自身なのです(だから勇気が要るのです)。
幻覚剤による幻覚というのは象徴的であって、真実(概念・思念次元での実在)が含まれているのであり、本当は「それは妄想です」と言って安心させてあげたいのところではあるのですが、僕の側からそれが全くの妄想だとは言い切れませんし、言い切る意味もありません。
意識変性中に心に現れるものは、自分の心の反映なのです(本当はこの仮想現実世界自体もそうなのですが)。それゆえ「解釈」が大事なのであり、うまく読み解けない人がやってはいけないのです。「アヤワスカとLSDの違い」に書いた通り、それはパソコンの知識がないのに自分の脳というパソコンのシステムをアドミニストレーター権限で弄り回すようなものであって、とても危険なのです。
幻覚剤により別次元を経験し、それも実在であると認め、この現実世界も仮想現実であり幻想のようなものであると認めることはとても勇気の要ることです。だからその勇気がないのなら、つまり覚りが進んでいないのであれば、LSDのような強い幻覚剤に手を出すべきではないのです。もしあなたがやるならマジックマッシュルームとかにしておいた方がいいと思います。
まだ己の愛・倫理観をしっかり育てられておらず、信心によって神に守られているという確信・勇気がない人がLSDをやれば、たちまちエゴによって飲み込まれてしまい、また恐怖によって気が狂ってしまうことになるでしょう。LSDっていうのは究極に愛・勇気・信心を試される修行なのです。
若い時は心がエゴに満ちているのは誰でも(程度の差こそあれ)同じで当たり前のことです。しかし人の深層心理というのはその己のエゴを醜いから隠したいと思っているのです。その「エゴにまみれた己の本心を他人に見られたくない」という思いが統合失調症的な「自分の思考が他人に漏れているかも知れない」などという恐怖を引き起こすのです。
この次元においては、お互いの思考というのはよく見えません。トランプゲームや麻雀を考えてみていただければわかるかと思いますが、カードや牌が相手に丸見えではゲームは楽しめないので、敢えて見えないように工夫がされていて、切ったカードや牌・表情などから思考を読むところにゲーム(ドラマ)が生じるようになっているのです。人生自体も基本はそれと同じだということです。
しかし創造主というのは我々の統合意識であり、それが個々の意識を通じて経験を集めているのであって、当然我々は常に心の中まで全部見られているのです。だから我々が創造主=統合意識に対して心を隠すというのは不可能であり無意味なのです。
自分と他人のエゴを許し、己の心を愛で満たしたなら、心を相手に見られれば見られるほど愛されますから、隠す必要などなくなるのです。実際僕は創造主と心で会話しているのであり、心が隠せないことを十分に知っていますし、人に対しても相手に真心が伝わらないことの方が辛いことなので、どんどん心を見られたいと思っています。だから「思考が漏れている」などという恐れは全くありません。隠すことがあるとすればそれは相手を傷つけてしまわないようにするためだけです。本来幻覚剤というのはそのようになってから修行・覚りを進める目的で使うべきものなのです。
>>ハイドーズをした時に
今のあなたは少なくともLSDハイドーズだけは絶対にやるべきではないと思います。もう戻って来れない可能性があるからです。もしどうしてもやりたいのであれば300ドーズ以内にして、ハイドーズはもっともっと覚りが進んでからにすべきかと思います。
>>自分の中の生命のレイヤーを一通り巻き切った後に個としてのレイヤーが現れてきたのですが、そのレイヤーがとにかく不気味かつ不穏で体の先端がレイヤーの中心でした。これを巻き切ると容姿は美しくなるものの爬虫類のような形相になり、他者への加害性が増してしまうことに気づきました。
レプティリアン(爬虫類型宇宙人)というのは概念・思念次元におけるエゴの象徴的存在(実在する思念体)であり、それによって自我を奪われてレプティリアン化して無自覚にコントロールされている人間というのは実際この世界にたくさんいるのです。「だらけ」と言ってもいいかも知れません。そして世界が彼らに実質支配されているのは映画「ゼイリブ」の如くです。しかしそれは我々が乗り越えるべき課題なのであり、被害者意識に陥ってはいけません。
「エゴ(欲)とは何か?」に書いた通り、この世界は磁石のように愛とエゴの二極によって成立していて、どちらか一方だけでは存在し得ないのです。エゴは我々の愛・エネルギーのマテリアル(材料・課題)なのであり、なくせば良いというものではなく、それを乗り越えて愛を発揮しなければならないのです。
あなたのその幻覚は、あなたが無自覚な間にレプティリアン意識にコントロールされかかっているということであり、このまま行けば何度生まれ変わっても(美しく生まれ、社会的に成功しても)エゴにまみれて他人を傷つけるレプティリアン人間になってしまうというカルマを垣間見たのであり、警告ではないかと僕は解釈しますが、実際どう解釈するかは主人公であるあなた次第です。
そうならないよう己のエゴを乗り越え、自分の心を愛(思いやり)で満たすこと(心を浄化すること)が覚りの過程であり、それを目指さずにエゴにまみれたまま幻覚剤をやるのは神の意思(愛・善意)に反することであり、当然それを予防するペナルティー的な障壁があるのです。つまりそれは他人の人生の悪役として使い回しにされるということです。
幻覚剤の恐怖を味わったあなたは、現実(感)というのがいかによくできていてありがたいものかが実感としてよくわかったはずです。だからこの現実世界での人生・覚りの道を大事にして下さい。愛(思いやり・許し・尊敬・感謝・奉仕・勇気)を大切にして、己のエゴを乗り越え、信心を持って真心で神と対話し、たくさん勉強し、たくさん経験し、たくさんの気づきを得て悟りを進め、主人公として人生を素晴らしいものにして下さい。
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