2024年7月20日土曜日

罪と恥は自責?

【質問】20代・男性
noteやx、何度も読ませて頂いております。真也さんの記事に触れてから、前はあまり解らなかった音楽の詩や文学、絵画、宗教などを心で感じることができるようになってきました。とても感謝しております。ありがとうございます。

質問があります。私は自分が過去にしてしまった行いの「罪と恥」、特に「恥」を強く感じることが多いのですが、それを感じることと『自責』は同じことだと捉えて良いのでしょうか?

ご回答頂けると嬉しいです。宜しくお願い致します。


【回答】
noteやXの投稿を読んでいただいてどうもありがとうございます。それはとても嬉しいことで、励みになります。

さて、ご質問の内容なんですが・・・
>私は自分が過去にしてしまった行いの「罪と恥」、特に「恥」を強く感じることが多いのですが、それを感じることと『自責』は同じことだと捉えて良いのでしょうか?

僕もかつて罪や恥を感じやすく苦しんで来た人間なので、あなたのお気持ちはよくわかります。

罪悪感も羞恥心も本人が感じる感情であり、感情というのは他人が「あなたはこう感じなさい」と強制できるものではありません。それができたら感情に存在意義はありません。僕らは経験し、感情を感じるために生まれてきたのです。

ですからいくら他人から「あなたが悪い」「あなたは恥ずべきだ」と責められ、法律などの裁きを受けたとしても(他責)、本人が「自分が悪い」「自分は恥ずかしい」と自責しなければ、本人は罪や恥を感じることはありません。他人は相手を何か罠に嵌めるようにして強制的に罪を犯させたり恥をかかせたりすることはできますが、それを相手に対して罪や恥だと感じるように強制はできません。ですから罪も恥も感情としては自責であるということになると思います。

しかしそのように説明されてあなたは満足できますか?できませんよね?だってあなたが本当に知りたいのはきっと「自らが犯した罪や恥に対する自責の念の解決方法=自尊心の上げ方=自分自身の愛し方」なのでしょうから。なので、これからそれをご説明させていきたいと思います。それは人生にとって超重要な話かと思います。自分を責めて自尊心を下げながら生きる人生というのは確実に地獄ですからね。誰でも自信満々になれる方法に書いた通り、幸せになるためには自尊心が上がる考え方・生き方をすることが必要不可欠なのです。

この世界は創造主によって意図して創られたものであり、存在意義のないものというのは存在しないのです。もちろん罪(罪悪感)と恥(羞恥心)にも存在意義があります。実はそれについては既に罪と恥の存在意義に詳しく書いてしまっているのですが、せっかくわざわざご質問下さったのですから、その内容と重複しつつも、あなたと読者の方々のために更に掘り下げてご説明させていただきたいと思います。

聖書にもある通り「罪と恥」は人間にだけ与えられたものです。ライオンがシマウマを食い殺しても全く罪悪感は感じないでしょうし(ライオンは群れのボスとして君臨するために他のオスを殺してその子供も全部食い殺したりしますし、子供の母親は我が子を食い殺したボスとつがいになってまた子供を作りますからね)、他のみんなが見ているところで排せつや交尾をしても全く恥ずかしいとは感じないでしょう。

人間はそれを罪・恥だと感じる心が与えられているがゆえに、それを隠避することでより美しくあろうとする「美意識」が働くのです。そのように「美」が罪と恥の表面的な存在意義なのですが、その裏にもっと大切な存在意義があります。それは我々がお互いの罪や恥を同情し合い許し合うことでより深く愛し合うことができるということです。僕らが認識できる全ては創造主からその愛によって与えられているものなのです。

罪や恥の意識が人間を美しくあらしめ、愛を価値ならしめているのですから、それは決して失くしてはいけないものですし、まともな魂を与えられた人間であれば、失くそうと思ったからといって失くせるものではないのです。どうやっても消せない罪と恥があるからこそ、我々はそれを同情し合い・許し合い・愛し合うことができるのです。

許しとは愛そのものであり、他人の悲しみ・欠点や過ち(罪や恥)への同情と許しを伴わない愛など愛とは呼べないほど軽薄なものにしかなりません。想像してみて下さい。「この人のこういうところが許せない」と内心責めて我慢しながら愛しているとか、「こんなことがバレたら自分はもう終わりだ」と思いつつそこから目を背けながら自分を愛しているとか、そういうのは本当の愛ではなく、単に「自分に都合の良い見方をしている」っていうだけのエゴなのであり、罪や恥が露見する度に揺らいでしまうような愛が本物の愛であるわけがないのです。 

あなたはどんなものごとに罪や恥を感じますか?何かの失敗や過ち・排泄や生殖器や性行為・己の欠点や欲望の醜さなどを他人に見られた時などでしょう?つまり我々は誰でもやっていること(持っているもの)でしか罪や恥を感じることはできないように創られているのです。

それなのに我々はお互いに隠し合い、露見する度にお互いに責め合いバカに合ったりして自尊心を下げ合い、孤独に陥り、自分の罪や恥がまるで自分だけの特別なものであるかのように考えて思い悩み、他人から責められることに怯えながら必死で隠し、心の奥底では自分を責めて己の自尊心を下げているのです。


しかしそれこそが人間に与えられた無明(愚かさ)であり、成長課題なのです。それがなければ人生は成長の物語として成立しません。我々は本当は合わせ鏡に映ったように同一の存在(ワンネス・創造主)なのですが、そのままでは物語が生まれないので、鏡映しの存在である我々にはそれぞれに個性と共に自意識・分離意識が与えられています。それによって我々は他人に対してあらゆる理由を探し出して「自分は相手とは違う」と思い込むように設定されているのです。それがなければ人生という愛憎劇(芸術)は存在し得ないのです。

罪や恥の意識というのは、我々の分離意識の核であり、我々は他人の罪や恥を責めたりバカにしたりして、自分の罪や恥を相対的に軽くしようとし、自尊心を保とうとするのが初期設定なのです。

その初期設定通りに人は容易に他人を責めてしまいますが、誰でも自分の中に「人を裁く基準」というものを持っているのであり、表面意識においていかに自分に都合よく他人ばかり責めている人でも、無意識化では自分自身を他人に対するのと同じ基準で裁いて自責の念に駆られ、自己嫌悪に陥っているものなのです。我々人間はみんな鏡映しの存在なのですから、他人に対して思ったこと・したことが全部自分に返って来るのは当然のことなのです。

自分自身の罪悪感・自尊心の低さ・自己嫌悪を解消する唯一の方法は、自分と他人を責めるのを同時にやめて同情し、許し、愛することです。

どんな罪や恥も、その人なりにやむにやまれぬ事情(歴史・因果・カルマ)があってやってしまったことなのですから、己の持つあらゆる想像力を駆使してその人をまるで自分のことのように(自分の過去世や未来世のように)考え、完全に同じ目線に立って考えて同情し許すことができれば、自分自身に対しても同情し許すことができるようになるのです。

「自分は正義だ」「自分はこの人よりマシだ」などと考える理由を探しつつ(分離意識)、安全圏から相手を許そうとしても、本当の意味で許しというのは成立しないのです。それは単に嫌な感情を無理やり押さえつけて我慢しているだけで、許しは成立していないのです。許しとは心の底で相手と完全に和解が成立していることです。

創造主というのは存在の全てであり、あなたも相手も創造主の一部です。相手を許し和解することができなければ、創造主と和解することはできず、あなた自身も許されないのです。

人間は本来「愛のために生きる生き物」であり、それこそが存在意義なのですが、人生は愛の存在意義・存在価値を経験的に知るために創られたものなので、基本設定ではその真逆のエゴを目的に生きてしまうようにできています。そして世界・人生というのは芸術であり、下地がネガティブでなければポジティブを表現できません。白地に白、黒地に黒では絵は描けないのです。ですから僕らが愛というポジティブを表現する下地として、この世界・人生はエゴというネガティブに満ち満ちているのは必要悪なのです。

それゆえに今の世の中では殆どの人にとって自尊心を高めるというエゴが人生の目的化しています。能力を高めるのもお金を稼ぐのも異性と付き合うのも、基本的に純粋な愛ではなく己の自尊心を高めるというエゴが動機になっているのです。自尊心を上げるために、他人よりも能力や実績を上げて金と他者評価を得ようとしているのです。また他人の欠点や過ち・罪や恥を責め立て、自分は誰かよりもマシな存在であると考えようとするのです。

エゴというのは自己保存欲求であり、それゆえ自分が生き延びるため(自尊心を上げるため)に他人を蹴落とそう(自尊心を下げよう)としまうのですね。もし地獄があるなら落ちるのはあいつの方が先だと。まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のカンダタのように。そうして自ら地獄へと落ちて行くのです。

今はもう殆どの人にとって生き延びるための衣食住は十分でありながら、人々は争い合い、傷つけ合い、奪い合い、いくらあっても足りない世の中になっています。しかしこのディストピアは僕らが自分の愛を表現するための下地であり、舞台設定なのです。

元々すべては一つ(ワンネス)なのですから、他人の自尊心を下げて自分の自尊心が上がるなどということはありえません。自分を尊敬する心と他人を尊敬する心は同時にしか上がらないのです。なのに我々は往々にして自分の自尊心を上げようとして他人の自尊心を下げてしまいます。それが全ての争い事の核であり、我々に与えられた乗り越えるべき課題(無明・愚かさ・分離意識)なのです。

能力や実績に自信のない人は、自分が正義だということで自尊心を保とうとします。正しさに能力も実績も要らないからです。しかし自分が正義だと思うためには、常に間違っている相手を探して責めなければならなくなります。だから声高に正義を叫ぶ人の顔というのは病的なのです。心に許し=愛がないんです。特に能力を自信の根拠として生きてきて、能力に自信のなくなってきたお年寄りはそのようになりがちで、どんどん周囲に嫌われて愛を失い、結局は自尊心を失いながら孤独に死んでいくことになってしまいます。そのようにならないように、我々は常に正義より愛(思いやり)を優先していかなければならないのです。それが魂の成長なのですから。

出会った人一人ひとりの気持ちを理解して同情し、許し、愛すること。それによって僕らは自分自身に同情し、許し、愛することができるようになるのです。そしてそれが唯一にして最大の自尊心を上げる方法なのです。そして世界はワンネスなのですから、その自尊心を上げる方法と相手の自尊心を上げる方法は全く同じなのです。

僕はあなたに関する情報はこの短い質問文とツイッターのプロフぐらいしかありませんから、どんな方か全く存じ上げません。ただあなたは自分の罪や恥を責める気持ちの強いとおっしゃるのですから、例え無自覚だったとしても、きっと他人の罪や恥を責める気持ちも強く、それがオーラとなって人を遠ざけ、誰もあなたに心を許して自らの罪や恥を晒すことができず、あなたは誰にでもあるような自分の罪や恥をまるで自分だけに特別のもののように思って思い悩んで自分を責めているのではないかと思います。そして立場的に相手からは責められず一方的に相手側だけを責めれるような環境を選び(地頭が良く能力が高いだけにそれができてしまい)他人に対しても自分に対しても愛を失って孤独に苦しんでいるのではないかと思います。僕がかつてそうだったからそう思うだけかも知れませんけどね。

でも忘れないで下さい。あなたがどれだけ自分の能力を上げて実績を積んで他者評価を得たところで、それを自信の根拠にしようとする限り、本当の自信が手に入ることはありません。そして人を許し愛する気持ちがないならば、結局自分を許し愛することもできず、自尊心が下がって自己嫌悪に陥いり、人に避けられ孤独に陥って不幸になるのです。誰でも自信満々になれる方法はぜひ何度でも読んで実践してみて下さいね。「嫌いな人ゼロ作戦」にあなたも参加してみて下さい。きっと幸せになりますから。

人付き合いというのは、どうやったら相手の自尊心を上げられるか以外考えなくて良いのです。それは変におべっかを使って思ってもいないお世辞を言うことではなく、相手を心からの笑顔で承認し、話を一切否定せずに気持ちを共有することを目的として自分自身の過去世や未来世の話のように目線を同じくして聞くことです。これについては前の質問罪悪感との向き合い方に詳しく書いているのでそちらをご参照下さい。

僕が誰かに「許しこそが愛である」と言うと、だいたい「でもあいつだけは許せん」みたいな反応が返ってきます。そしてニュースなどに出てくるような悪い人・許せない人をあげつらっては「世の中にはこんな悪い人もいるのだから」と、許せない人がいる自分を正当化するんですね。しかし実際に会った事もない人のことを考える必要はありません。出会った人というのはすべて運命ですから、その罪と恥を一つ一つ許していって下さい。そうすれば自分の罪と恥を少しずつ許せるようになっていきます。そうやって出会った一人ひとりに無条件で同情し、許し、愛し、「自分大好き」というパズルを完成させていって下さい。そうすれば必ず幸せになります。

結局自分や他人を「許さない」という選択肢があると思うから、許すか許さないかで迷い、結局安易に「許さない」という選択をしてしまうのです。そちらの選択の方が簡単ですからね。でもそれは魂の成長プログラムである人生において成長に反するベクトルであり、不幸に導かれるのが道理なのです。

だから「許す」という結論先にありきで、理由を考えることです。僕はアヤワスカを日常的に摂っているので、過去に犯した罪や恥がフラッシュバックして追体験させられ、今でも思わず叫んでしまったりすることさえあります。でも許す以外に選択肢はないと思っているので、儀式が終わる頃には自分を許せるようになっていて、いつも幸せな気持ちになります。

ただ「許す」というのは現在進行形で人から何をされても(自分が何をしても)許す、ということではありませんからね。自分が本気で嫌だと思うことはちゃんと主張し、それを防ぐのも自分自身に対する愛です。世界はワンネスですから、自分への愛が欠けた自己犠牲の愛というのはダメです。そして自分がどんな悪いことをしても「後で許すからOK」というのでは成長がありません。ただ自分がされた(自分がした)過去の嫌な事をいつまでも許さない、というのでは、いつまでも自分がその思いに縛られて苦しむことになるだけです。

人は欠点や過ち(罪や恥)を隠されると疑心暗鬼になって身構えてしまうものです。どうか自分の罪や恥を自分で笑いとばして、人に笑い話として話せるようになって下さい。それが心の余裕(自尊心の糧)となり、人を安心させて愛されます。

だからと言って、いきなり露悪的になってみんなに己の罪や恥を全部晒そうとする必要はありませんからね。同じような罪や恥で苦しんでいる人がいたら「あなたただけじゃないよ」と自分の罪や恥を晒して安心させてあげられるように心の中で準備ができていればいいのです。そして許す理由探しの達人になって、相手の罪や恥に対して「あなたが悪いんじゃないよ」と言って許してあげて下さい。それが愛です。

それでも自分の心に引っかかる罪悪感があるのなら、心の余裕ができてからでも良いので、その相手に誠心誠意謝って下さい。人は自分が悪いと思うと自己防衛反応で「相手にも非があるのに」などと考えて素直に謝れないのです。全ては運命であり、創造主が望んだからそうなったのですから、「誰も悪くない」と心の中で許しながら、会社を代表して何も悪い事をしていない社員がお客さんに謝罪をするように、創造主の代理として謝って下さい。それができる人は創造主(運命)から愛されます。相手から直接許されるかどうかは重要ではありません。自分で自分を許せるかどうかです。相手がこちらを許せなくても、その気持ちに同情して許して下さい。

そうして己の罪悪感による心の引っ掛かりが軽くなれば、その分ものすごい勢いで前に進めるようになると思います。

最後に、自責の念が強く自尊心の低さに苦しむあなたと読者の方に伝えたいことは、自罪や恥を感じやすい心というのは、レベルの高い魂に与えられているのであり、それが苦しい分だけたくさんの罪や恥を許し人を救う使命がある主人公であるということです。

僕らは完全な存在なのです。それは計算式のようにつまらない完全性ではなく、お互いに欠点を補い合い、お互いに悲しみや痛み苦しみに同情し合い、お互いの過ち(罪や恥)を許し合い、そうしてお互いに思いやりあって愛し合い、カルマ(課題)を乗り越え成長していける存在として完璧なのです。

それでは、あなたの幸せを心から祈っています。


※関連質問:自分と他人の愛し方

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