2024年7月20日土曜日

罪と恥は自責?

【質問】20代・男性
noteやx、何度も読ませて頂いております。真也さんの記事に触れてから、前はあまり解らなかった音楽の詩や文学、絵画、宗教などを心で感じることができるようになってきました。とても感謝しております。ありがとうございます。

質問があります。私は自分が過去にしてしまった行いの「罪と恥」、特に「恥」を強く感じることが多いのですが、それを感じることと『自責』は同じことだと捉えて良いのでしょうか?

ご回答頂けると嬉しいです。宜しくお願い致します。


【回答】
noteやXの投稿を読んでいただいてどうもありがとうございます。それはとても嬉しいことで、励みになります。

さて、ご質問の内容なんですが・・・
>私は自分が過去にしてしまった行いの「罪と恥」、特に「恥」を強く感じることが多いのですが、それを感じることと『自責』は同じことだと捉えて良いのでしょうか?

僕もかつて罪や恥を感じやすく苦しんで来た人間なので、あなたのお気持ちはよくわかります。

罪悪感も羞恥心も本人が感じる感情であり、感情というのは他人が「あなたはこう感じなさい」と強制できるものではありません。それができたら感情に存在意義はありません。僕らは経験し、感情を感じるために生まれてきたのです。

ですからいくら他人から「あなたが悪い」「あなたは恥ずべきだ」と責められ、法律などの裁きを受けたとしても(他責)、本人が「自分が悪い」「自分は恥ずかしい」と自責しなければ、本人は罪や恥を感じることはありません。他人は相手を何か罠に嵌めるようにして強制的に罪を犯させたり恥をかかせたりすることはできますが、それを相手に対して罪や恥だと感じるように強制はできません。ですから罪も恥も感情としては自責であるということになると思います。

しかしそのように説明されてあなたは満足できますか?できませんよね?だってあなたが本当に知りたいのはきっと「自らが犯した罪や恥に対する自責の念の解決方法=自尊心の上げ方=自分自身の愛し方」なのでしょうから。なので、これからそれをご説明させていきたいと思います。それは人生にとって超重要な話かと思います。自分を責めて自尊心を下げながら生きる人生というのは確実に地獄ですからね。誰でも自信満々になれる方法に書いた通り、幸せになるためには自尊心が上がる考え方・生き方をすることが必要不可欠なのです。

この世界は創造主によって意図して創られたものであり、存在意義のないものというのは存在しないのです。もちろん罪(罪悪感)と恥(羞恥心)にも存在意義があります。実はそれについては既に罪と恥の存在意義に詳しく書いてしまっているのですが、せっかくわざわざご質問下さったのですから、その内容と重複しつつも、あなたと読者の方々のために更に掘り下げてご説明させていただきたいと思います。

聖書にもある通り「罪と恥」は人間にだけ与えられたものです。ライオンがシマウマを食い殺しても全く罪悪感は感じないでしょうし(ライオンは群れのボスとして君臨するために他のオスを殺してその子供も全部食い殺したりしますし、子供の母親は我が子を食い殺したボスとつがいになってまた子供を作りますからね)、他のみんなが見ているところで排せつや交尾をしても全く恥ずかしいとは感じないでしょう。

人間はそれを罪・恥だと感じる心が与えられているがゆえに、それを隠避することでより美しくあろうとする「美意識」が働くのです。そのように「美」が罪と恥の表面的な存在意義なのですが、その裏にもっと大切な存在意義があります。それは我々がお互いの罪や恥を同情し合い許し合うことでより深く愛し合うことができるということです。僕らが認識できる全ては創造主からその愛によって与えられているものなのです。

罪や恥の意識が人間を美しくあらしめ、愛を価値ならしめているのですから、それは決して失くしてはいけないものですし、まともな魂を与えられた人間であれば、失くそうと思ったからといって失くせるものではないのです。どうやっても消せない罪と恥があるからこそ、我々はそれを同情し合い・許し合い・愛し合うことができるのです。

許しとは愛そのものであり、他人の悲しみ・欠点や過ち(罪や恥)への同情と許しを伴わない愛など愛とは呼べないほど軽薄なものにしかなりません。想像してみて下さい。「この人のこういうところが許せない」と内心責めて我慢しながら愛しているとか、「こんなことがバレたら自分はもう終わりだ」と思いつつそこから目を背けながら自分を愛しているとか、そういうのは本当の愛ではなく、単に「自分に都合の良い見方をしている」っていうだけのエゴなのであり、罪や恥が露見する度に揺らいでしまうような愛が本物の愛であるわけがないのです。 

あなたはどんなものごとに罪や恥を感じますか?何かの失敗や過ち・排泄や生殖器や性行為・己の欠点や欲望の醜さなどを他人に見られた時などでしょう?つまり我々は誰でもやっていること(持っているもの)でしか罪や恥を感じることはできないように創られているのです。

それなのに我々はお互いに隠し合い、露見する度にお互いに責め合いバカに合ったりして自尊心を下げ合い、孤独に陥り、自分の罪や恥がまるで自分だけの特別なものであるかのように考えて思い悩み、他人から責められることに怯えながら必死で隠し、心の奥底では自分を責めて己の自尊心を下げているのです。


しかしそれこそが人間に与えられた無明(愚かさ)であり、成長課題なのです。それがなければ人生は成長の物語として成立しません。我々は本当は合わせ鏡に映ったように同一の存在(ワンネス・創造主)なのですが、そのままでは物語が生まれないので、鏡映しの存在である我々にはそれぞれに個性と共に自意識・分離意識が与えられています。それによって我々は他人に対してあらゆる理由を探し出して「自分は相手とは違う」と思い込むように設定されているのです。それがなければ人生という愛憎劇(芸術)は存在し得ないのです。

罪や恥の意識というのは、我々の分離意識の核であり、我々は他人の罪や恥を責めたりバカにしたりして、自分の罪や恥を相対的に軽くしようとし、自尊心を保とうとするのが初期設定なのです。

その初期設定通りに人は容易に他人を責めてしまいますが、誰でも自分の中に「人を裁く基準」というものを持っているのであり、表面意識においていかに自分に都合よく他人ばかり責めている人でも、無意識化では自分自身を他人に対するのと同じ基準で裁いて自責の念に駆られ、自己嫌悪に陥っているものなのです。我々人間はみんな鏡映しの存在なのですから、他人に対して思ったこと・したことが全部自分に返って来るのは当然のことなのです。

自分自身の罪悪感・自尊心の低さ・自己嫌悪を解消する唯一の方法は、自分と他人を責めるのを同時にやめて同情し、許し、愛することです。

どんな罪や恥も、その人なりにやむにやまれぬ事情(歴史・因果・カルマ)があってやってしまったことなのですから、己の持つあらゆる想像力を駆使してその人をまるで自分のことのように(自分の過去世や未来世のように)考え、完全に同じ目線に立って考えて同情し許すことができれば、自分自身に対しても同情し許すことができるようになるのです。

「自分は正義だ」「自分はこの人よりマシだ」などと考える理由を探しつつ(分離意識)、安全圏から相手を許そうとしても、本当の意味で許しというのは成立しないのです。それは単に嫌な感情を無理やり押さえつけて我慢しているだけで、許しは成立していないのです。許しとは心の底で相手と完全に和解が成立していることです。

創造主というのは存在の全てであり、あなたも相手も創造主の一部です。相手を許し和解することができなければ、創造主と和解することはできず、あなた自身も許されないのです。

人間は本来「愛のために生きる生き物」であり、それこそが存在意義なのですが、人生は愛の存在意義・存在価値を経験的に知るために創られたものなので、基本設定ではその真逆のエゴを目的に生きてしまうようにできています。そして世界・人生というのは芸術であり、下地がネガティブでなければポジティブを表現できません。白地に白、黒地に黒では絵は描けないのです。ですから僕らが愛というポジティブを表現する下地として、この世界・人生はエゴというネガティブに満ち満ちているのは必要悪なのです。

それゆえに今の世の中では殆どの人にとって自尊心を高めるというエゴが人生の目的化しています。能力を高めるのもお金を稼ぐのも異性と付き合うのも、基本的に純粋な愛ではなく己の自尊心を高めるというエゴが動機になっているのです。自尊心を上げるために、他人よりも能力や実績を上げて金と他者評価を得ようとしているのです。また他人の欠点や過ち・罪や恥を責め立て、自分は誰かよりもマシな存在であると考えようとするのです。

エゴというのは自己保存欲求であり、それゆえ自分が生き延びるため(自尊心を上げるため)に他人を蹴落とそう(自尊心を下げよう)としまうのですね。もし地獄があるなら落ちるのはあいつの方が先だと。まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のカンダタのように。そうして自ら地獄へと落ちて行くのです。

今はもう殆どの人にとって生き延びるための衣食住は十分でありながら、人々は争い合い、傷つけ合い、奪い合い、いくらあっても足りない世の中になっています。しかしこのディストピアは僕らが自分の愛を表現するための下地であり、舞台設定なのです。

元々すべては一つ(ワンネス)なのですから、他人の自尊心を下げて自分の自尊心が上がるなどということはありえません。自分を尊敬する心と他人を尊敬する心は同時にしか上がらないのです。なのに我々は往々にして自分の自尊心を上げようとして他人の自尊心を下げてしまいます。それが全ての争い事の核であり、我々に与えられた乗り越えるべき課題(無明・愚かさ・分離意識)なのです。

能力や実績に自信のない人は、自分が正義だということで自尊心を保とうとします。正しさに能力も実績も要らないからです。しかし自分が正義だと思うためには、常に間違っている相手を探して責めなければならなくなります。だから声高に正義を叫ぶ人の顔というのは病的なのです。心に許し=愛がないんです。特に能力を自信の根拠として生きてきて、能力に自信のなくなってきたお年寄りはそのようになりがちで、どんどん周囲に嫌われて愛を失い、結局は自尊心を失いながら孤独に死んでいくことになってしまいます。そのようにならないように、我々は常に正義より愛(思いやり)を優先していかなければならないのです。それが魂の成長なのですから。

出会った人一人ひとりの気持ちを理解して同情し、許し、愛すること。それによって僕らは自分自身に同情し、許し、愛することができるようになるのです。そしてそれが唯一にして最大の自尊心を上げる方法なのです。そして世界はワンネスなのですから、その自尊心を上げる方法と相手の自尊心を上げる方法は全く同じなのです。

僕はあなたに関する情報はこの短い質問文とツイッターのプロフぐらいしかありませんから、どんな方か全く存じ上げません。ただあなたは自分の罪や恥を責める気持ちの強いとおっしゃるのですから、例え無自覚だったとしても、きっと他人の罪や恥を責める気持ちも強く、それがオーラとなって人を遠ざけ、誰もあなたに心を許して自らの罪や恥を晒すことができず、あなたは誰にでもあるような自分の罪や恥をまるで自分だけに特別のもののように思って思い悩んで自分を責めているのではないかと思います。そして立場的に相手からは責められず一方的に相手側だけを責めれるような環境を選び(地頭が良く能力が高いだけにそれができてしまい)他人に対しても自分に対しても愛を失って孤独に苦しんでいるのではないかと思います。僕がかつてそうだったからそう思うだけかも知れませんけどね。

でも忘れないで下さい。あなたがどれだけ自分の能力を上げて実績を積んで他者評価を得たところで、それを自信の根拠にしようとする限り、本当の自信が手に入ることはありません。そして人を許し愛する気持ちがないならば、結局自分を許し愛することもできず、自尊心が下がって自己嫌悪に陥いり、人に避けられ孤独に陥って不幸になるのです。誰でも自信満々になれる方法はぜひ何度でも読んで実践してみて下さいね。「嫌いな人ゼロ作戦」にあなたも参加してみて下さい。きっと幸せになりますから。

人付き合いというのは、どうやったら相手の自尊心を上げられるか以外考えなくて良いのです。それは変におべっかを使って思ってもいないお世辞を言うことではなく、相手を心からの笑顔で承認し、話を一切否定せずに気持ちを共有することを目的として自分自身の過去世や未来世の話のように目線を同じくして聞くことです。これについては前の質問罪悪感との向き合い方に詳しく書いているのでそちらをご参照下さい。

僕が誰かに「許しこそが愛である」と言うと、だいたい「でもあいつだけは許せん」みたいな反応が返ってきます。そしてニュースなどに出てくるような悪い人・許せない人をあげつらっては「世の中にはこんな悪い人もいるのだから」と、許せない人がいる自分を正当化するんですね。しかし実際に会った事もない人のことを考える必要はありません。出会った人というのはすべて運命ですから、その罪と恥を一つ一つ許していって下さい。そうすれば自分の罪と恥を少しずつ許せるようになっていきます。そうやって出会った一人ひとりに無条件で同情し、許し、愛し、「自分大好き」というパズルを完成させていって下さい。そうすれば必ず幸せになります。

結局自分や他人を「許さない」という選択肢があると思うから、許すか許さないかで迷い、結局安易に「許さない」という選択をしてしまうのです。そちらの選択の方が簡単ですからね。でもそれは魂の成長プログラムである人生において成長に反するベクトルであり、不幸に導かれるのが道理なのです。

だから「許す」という結論先にありきで、理由を考えることです。僕はアヤワスカを日常的に摂っているので、過去に犯した罪や恥がフラッシュバックして追体験させられ、今でも思わず叫んでしまったりすることさえあります。でも許す以外に選択肢はないと思っているので、儀式が終わる頃には自分を許せるようになっていて、いつも幸せな気持ちになります。

ただ「許す」というのは現在進行形で人から何をされても(自分が何をしても)許す、ということではありませんからね。自分が本気で嫌だと思うことはちゃんと主張し、それを防ぐのも自分自身に対する愛です。世界はワンネスですから、自分への愛が欠けた自己犠牲の愛というのはダメです。そして自分がどんな悪いことをしても「後で許すからOK」というのでは成長がありません。ただ自分がされた(自分がした)過去の嫌な事をいつまでも許さない、というのでは、いつまでも自分がその思いに縛られて苦しむことになるだけです。

人は欠点や過ち(罪や恥)を隠されると疑心暗鬼になって身構えてしまうものです。どうか自分の罪や恥を自分で笑いとばして、人に笑い話として話せるようになって下さい。それが心の余裕(自尊心の糧)となり、人を安心させて愛されます。

だからと言って、いきなり露悪的になってみんなに己の罪や恥を全部晒そうとする必要はありませんからね。同じような罪や恥で苦しんでいる人がいたら「あなたただけじゃないよ」と自分の罪や恥を晒して安心させてあげられるように心の中で準備ができていればいいのです。そして許す理由探しの達人になって、相手の罪や恥に対して「あなたが悪いんじゃないよ」と言って許してあげて下さい。それが愛です。

それでも自分の心に引っかかる罪悪感があるのなら、心の余裕ができてからでも良いので、その相手に誠心誠意謝って下さい。人は自分が悪いと思うと自己防衛反応で「相手にも非があるのに」などと考えて素直に謝れないのです。全ては運命であり、創造主が望んだからそうなったのですから、「誰も悪くない」と心の中で許しながら、会社を代表して何も悪い事をしていない社員がお客さんに謝罪をするように、創造主の代理として謝って下さい。それができる人は創造主(運命)から愛されます。相手から直接許されるかどうかは重要ではありません。自分で自分を許せるかどうかです。相手がこちらを許せなくても、その気持ちに同情して許して下さい。

そうして己の罪悪感による心の引っ掛かりが軽くなれば、その分ものすごい勢いで前に進めるようになると思います。

最後に、自責の念が強く自尊心の低さに苦しむあなたと読者の方に伝えたいことは、自罪や恥を感じやすい心というのは、レベルの高い魂に与えられているのであり、それが苦しい分だけたくさんの罪や恥を許し人を救う使命がある主人公であるということです。

僕らは完全な存在なのです。それは計算式のようにつまらない完全性ではなく、お互いに欠点を補い合い、お互いに悲しみや痛み苦しみに同情し合い、お互いの過ち(罪や恥)を許し合い、そうしてお互いに思いやりあって愛し合い、カルマ(課題)を乗り越え成長していける存在として完璧なのです。

それでは、あなたの幸せを心から祈っています。


※関連質問:自分と他人の愛し方

2024年7月16日火曜日

罪悪感との向き合い方(失恋・鬱)

【質問】20代・男性 ペンネーム:ハイロ
人の心を、魂を踏みつけにして見捨てた罪はどう向き合えばいいでしょうか?

私には以前とある縁で出会い、付き合っていた女性がいました。その子は家庭環境が悪く、いわゆる父親が酒乱気味で母親はそんな父に依存して言いなりになり実の子より父の肩を持つというような毒家庭出身で、心に深い傷を抱え愛や承認に飢えていて薄ら希死念慮を感じているようなタイプの女性でした。

そして、周りの友人たちも、そのような境遇を経験してないことからその子の辛さを本当の意味で分かってくれる人がおらず、孤独感を常に感じていたそうです。それゆえに悲観的思考の持ち主で、自他に対して否定的な言動が多く、世間一般の物差しでは決して魅力的とは言えないような女性でした。

ただ、私自身も家庭環境には問題はありませんが、自身の考えや気持ちが他人に理解されずに否定されて辛さや疎外感を感じたことが過去にたくさんあったので彼女の心情や苦しみを多少は理解していました。そして彼女自身も生い立ちとそこから形成された考え方こそネガティブであれど、自分が多く傷ついてきた分、繊細で他人の痛みに共感できる心根が優しいという一面もありそこが自分にとって魅力的に映りました。何より、自分と良くも悪くも考え方が似ている部分が多く、強烈にシンパシーを感じていました。もしかして、自分と価値観や着想が似ているこの子の傷ついた心を塗り替えて、自尊心を育てて幸せに導くことが自分の試練でありカルマなのではないか?と直感的に考えて若干の使命感も感じつつ交際を始めました。

ただ、交際はお世辞にも上手くは行きませんでした。彼女は根っこは優しくも重度のネガティブ思考の持ち主なので話す内容も行動も基本的には後ろ向きでこちらの気力を削ぐものでした。初めこそ、自分も痛みがわかるゆえに寄り添い共感に努めました。しかし、自分の場を和ませる発言や、前向きになれそうな提案はほとんど否定されるような状態で「生きてる意味がわからない」「産まれたくなかった」「誰も分かってくれない」というようなことも何度も言われて会話の内容は8割は愚痴や言い合いといった形です。

自分が愛する女性から、自己の存在を否定することを言われ続けて真剣に向き合えば向き合うほど自分の精神も侵されていくのを感じていました。最初は純粋に幸せになってほしいと思っていたものの、どんどん彼女に対しての気持ちも揺らいでいきました。

さらに、当時は仕事でもプレッシャーやストレスを感じていて仕事のことと彼女のこと、さらに自分自身少しだけ鬱傾向にあることが災いして精神崩壊の一歩手前まで一時は追い詰められました。これ以上まともに彼女と付き合っていたら自分が壊れてしまうと直感的に感じた私はその子と別れました。彼女は号泣しつつも了承してくれました。

別れたその時は、正直申し訳なさ云々よりも解放されて肩の荷が降りて良かったとすら思いました。しかし、別れた後しばらくして冷静になった後、私は彼女にものすごく深い傷を負わせてしまったことを自覚しました。家庭環境が悪く、親兄弟や友人からも理解されずに常に孤独感に苦しみ欠乏感を感じていた彼女にとっておそらく自分は数少ない拠り所だったのでしょう。それなのに、自分はその子を振って間接的にその子の居場所を奪いました。

確かにその子と付き合うのは苦楽で言えば苦の方が明らかに多かったし結婚前の男女の関係なので継続するもしないも選択は自由なので自分にだけ非があるとは思いません。ただ、その子が苦しんでいて、自分のことを拠り所にしていたのを自覚しつつも突き放すことになってしまったのもまた事実です。大きな居場所を失くした彼女は悲しみ、絶望したかもしれません。元々希死念慮があったので、取り返しがつかないことにならないとも言い切れません。当然そんなことを望んではいませんが、不安になってしまうこともあります。共通の知り合いがいないので今は連絡が取れませんが、自分のやったことに後悔と責任を感じざるを得ません。客観的に見れば、自分のやったことは世間的には間違ったことはしていないし罪悪感を感じる必要はないかもしれませんがそれでもやはり感じてしまう部分はあります。

思い返せば、自分にも至らないところがあり、愛すと決めたはずなのに自分のエゴで彼女に寄り添いきれていなかった部分もありました。もしかしたら、自分はあの子の心を壊してしまったのでは?カルマから自分が楽になりたいからと逃げて償いきれない罪を犯してしまったのでは?情けないですがそう感じてしまうこともあります。間接的ではあれ人の心、魂を踏み躙るような下手な犯罪よりも罪深いことをしてしまったのかもしれません。

この罪にどう向き合えば良いでしょうかご教示いただきたいです。個人的にはよりを戻したいとは思いませんしそんな都合いい話はないとは思いますので、今後はより自分のエゴと弱さへの理解を深めて出会った人たちをもっともっと大切にしていきたいとは考えています。ただ、それだけで私のやったことのケジメがつけれるのでしょうか。彼女につけた傷の分、罪悪感を持ち続けて私も苦しむべきなのでしょうか?

Shinyaさんは反省も罪悪感も感じる必要はないと仰っていましたが、本当にいいのでしょうか?厳しい意見でも構いませんので、助言をお願いします。


【回答】
ご質問ありがとうございます。僕も長年鬱を患ってましたし、恋愛に関しても似たような経験があるので、お気持ちお察しします。

現在とても苦しんでいるあなたにこう言うのは良くないかも知れませんが「交際相手がメンヘラで耐え切れなくなって別れた」っていうのはめちゃくちゃよくある話で、ゆえに同じように苦しんでいる人も多いかと思いますので、そういう方々のために電話相談ではなく質問箱で回答させていただきます(もし解決しないようなら電話相談下さい)。

>Shinyaさんは反省も罪悪感も感じる必要はないと仰っていましたが、本当にいいのでしょうか?
僕が反省してはいけないで書いたことは、問題の原因を究明して反省し、罪悪感に浸ったり自分や他人を責めたりすることよりも、より良い選択をすることを優先すべきだという意味です。それは「真っ当な人間ならどうやったって心の中で反省し罪悪感を感じてしまうものである」ということが前提なのであり、実際あなたは僕に「罪悪感を感じなくてもいいです」と言われて「そうですか」と罪悪感を感じるのをやめることはできないでしょう。

失敗も過ちも犯さない人間はおらず、それに対する罪悪感というのはどうやっても消えないように設定されているからこそ、我々人間はそれを許し合うことでより深く愛し合うことができるのです。そこは「罪と恥の存在意義」に書いた通りです。あなたが罪悪感を感じているのなら、今はそれを逃げることなく感じきって胸に刻み、いつか同じように罪悪感に苦しむ人を許し救える存在になって下さい。そして「あなたが悪いんじゃないよ」と言ってあげて下さい。それが愛です。

>精神崩壊の一歩手前まで一時は追い詰められました。
元彼女の話の前に、あなた自身の今の考え方は非常にネガティブで鬱傾向が顕著であり、峠は越えていたとしても鬱状態にあるのです。それはあなたの質問文を読めば(僕自身の経験上)如実にわかります。まずはそこを自覚することからかと思います。それは夢の中でそれが夢だと気づくぐらい難しいことかとは思いますが。

鬱というのは社会病理であって、今の世の中では程度の差こそあれ基本的に鬱じゃない人はほぼいません。そして鬱は覚りに必須の過程・経験であって、現在自分が鬱状態にあるということに劣等感や罪悪感などを感じる必要はありません。誰しもが通る道ですし、必要じゃない経験は与えられないのですから。

そして鬱というのは基本的に自尊心の病なのです。特に日本人は幼い頃から「他者から評価されないと価値がない」という感じで、自分で自分を評価することが独りよがりで意味がないかのように刷り込まれ、他者評価に依存させられているのです。

でも全てを見ていない他人の評価なんていい加減なもので、評価基準も人それぞれですから、当然評価する人もいれば、評価しない人もいますし、評価してくれる人も何かをきっかけに掌を返すこともよくあります。そんな他者評価に依存したら、自尊心など保ちようがありません。そのようにして自信のない人ほど権力・常識に対して従順になるので、権力側がそれを意図的にやっているかどうかはさておき、そのような「他者評価に依存させて自信を失わせる」ベクトルで今の世の中は動いているのです。

しかし人生というRPGにおいて、プレイヤー(主人公)が自尊心を病んで自分も世界も価値がないと考えてしまう状態から、自分の価値・全ての存在の価値を覚って(目覚めて)いくことがシナリオ上必須の過程だからそのような舞台設定になっているのであり、決して陰謀論で被害妄想に陥らないで下さい。人生というRPGはあなたが世界を救う物語なのです。

あなたは全知全能ゆえに何も経験できず何も感じることができない創造主本体の代理であり、物語を経験し感情を感じる機会を与えられている偉大な主人公なのです。自意識(主人公資格)というのが他の人みんなにも与えられている価値のないものだと思わないで下さい。他人というのは夢の中で出会った人と同じで、本当に自意識があるかどうかあなたには永遠に確認できません。「男はつらいよ」の寅さんと同じで、あなたは人生という映画の中で庶民役をやってるだけで、その外の世界ではスターなのです(世代的に伝わらなかったらすみません)。


どんなシナリオの人生も尊い物語なのであり、学び・成長・愛を経験する機会を与えられたことにもっと感謝の気持ちを持って、主人公として自尊心高くポジティブに生きて下さい。そしてこの世界において誰にも理解されず、誰にも評価されなくても、自分自身だけは最後まで自分のファンでいて下さい。他人に理解され評価されなければ自分を愛せないのなら、いつまでたっても自分を愛せませんし、自分を愛せない人間は他人も愛せないのです。

創造主はあなたを通じて(あなたと一緒に)人生を体験しているのであり、当然あなたが生まれてからずっと心の中まで全て見て全てを理解しています。表面的にしか見えていない他人の評価を求めて右往左往するのではなく、全てを見ている創造主が自分をどう評価するかを考えて下さい。


そして「他人に理解されずに疎外感を感じる」などというのはみんなに共通して与えられている課題であり、ごく普通のことです。他人に全てを理解されている人なんていません。また他人に簡単に理解されるようなら生きる意味がありません。あなたが誰かを理解できていると思っているのは、その人のごく一部を見て理解しているつもりになっているだけです。愛されるためにキャラを演じて自分を単純化して見せている人もたくさんいますしね。

だから相手に理解されることよりも、出会った相手を理解することに努めて下さい。相手を本気で理解しようとしていない人が相手から理解されないのは当然なのです。相手を理解することに努めている人はそういう自分を愛することができますし、人からも愛されます。

我々は長年鬱を患うとそれを本人の本来の性質のように考えてしまいますが、世の中に暗くネガティブな赤ん坊なんていませんから、ネガティブな性格はすべて後天的に蓄積したものであり、鬱を克服すればみんな明るくポジティブな性格を取り戻すのです。

きっとあなたの元彼女もいわゆる鬱で、世の大多数の人と同じように自尊心をどう保って良いかわからない人だったのでしょう。しかしあなた自身も自尊心を病んで鬱な状態だったのですから、元彼女のことを救えなかったことは致し方のないことです。溺れている人が目の前で同じく溺れている人を救えるわけありませんから、あなたが元彼女を救えなかったことに何の罪もありません。ただ本当に誰かを救える存在になりたいと思うのなら、まだ誰も救えないその悔しさを胸に刻んで、強くなっていかなければならないのです。

失敗や過ちは誰でも犯すものであり、その経験にこそ価値があるのです。最初から謎解きの答えが全部わかっていて全ての課題を初見でクリアできるようなゲームなんて面白いわけがありません。試行錯誤&成長要素がゼロなわけですからね。ですから自身の失敗や過ちで罪悪感にかられて落ち込んで自己嫌悪に陥らず、自分を愛して自尊心を高く保って下さい。欠点や過ちを理由に愛さないと言うなら誰も愛せません。この経験をきっと今後に生かして下さい。


さて、あなたが元彼女について書いていることですが、
>家庭環境が悪く
⇒元彼女の解釈であり鬱特有の被害妄想の可能性。
 もし本当でも虐待というレベルではなく、普通。
親兄弟や友人からも理解されずに常に孤独感に苦しみ欠乏感を感じ
⇒普通
>心に深い傷を抱え愛や承認に飢えていて
⇒普通(そうじゃない人いるの?というレベル)
>薄ら希死念慮を感じているようなタイプ
⇒鬱ならそう見えるのが普通。
 そして実際に本格的な自殺未遂を起こしてないのなら、
 あなたが自分の鬱により元彼女をそのように思い込んでいるだけの可能性。

あなたの元彼女は全く特殊なタイプではなく、石を投げたら当たるレベルで今の世の中に溢れた鬱型思考の人の典型例だと思いますし、自殺する可能性に関してはむしろあなたより低いと思われます。あなたと付き合っていつも対等に口論できるだけの気力があったわけですし、むしろ鬱病の人の中でもたくましい部類でしょう。別れが原因で自殺するような人は未練がある相手に対して自分の方から連絡先は変えないはずで、恐らくすぐ次の依存相手を見つけてあなたの存在が邪魔になったのではないかと思います。万が一その元彼女が自殺していたとしても、全くあなたのせいではありませんし、それを自分のせいだと考えるのは自意識過剰です。

ちなみにうちの姉もまさにあなたの元彼女ような感じで心を病んでいて被害妄想が強く、男とすぐ共依存関係になってはケンカばかりして、僕から見れば全く魅力的ではなく超メンヘラなのに絶対男が途切れないタイプの女性でした。その男たちも変な使命感に燃えていて、姉に逃げられてもうちの実家まで追いかけて来たりしましたし、姉の虚言(親による虐待など)を真に受けてうちの親に立ち向かってくる男までいました。当時の僕には異様に映りましたが、あなたの質問文を読んで今頃腑に落ちた感があります。

>自分と価値観や着想が似ているこの子の傷ついた心を塗り替えて、自尊心を育てて幸せに導くことが自分の試練でありカルマなのではないか?と直感的に考えて若干の使命感も感じつつ交際を始めました。
そもそも恋愛というのは、純粋に好きになった人とするべきもので、「魅力に欠ける」なんて失礼なことをわざわざここで言うほどハナから見下していて本気で好きではない・尊敬できない人とするべきものではないと思います(特に20代の若者なら)。失礼な言い方で大変申し訳ないですが、あなたは鬱状態で自分に自信がないために恋に積極的になれず、自分と同じように鬱で自信がなくてすぐにこちらを頼って依存してくれるような「魅力に欠ける」女性と成り行きで付き合うことになっただけなのに、それを自分に都合よく「カルマの解消のためと直感したから」と後付けで解釈しているように見えてしまいます。まぁ実際それも含めてカルマなのでしょうけども。出会いというのは自分の魂の成長にとって常にベストな相手が与えられるようになっているのですからね。

あなたが「自分よりもっと自尊心の低い女性の自尊心を上げることで、自分の自尊心の低さも解消できるかも知れない」などと考えるのは、泳げない人がもっと泳げない人を指導して泳げるようにできて、それによって自分も泳ぎが上手になると考えるようなもので、無理があり過ぎます。実際お互いを沈め合うように自尊心を下げ合うだけの結果になったのは必然としか思えません。

ただ、人生は実際に失敗や過ちを経験して試行錯誤して自分で真実を覚っていくことに意義があるので、この経験で得た貴重な学びに感謝しつつ、次はもっと自分に自信を持って、純粋に好きでお互いに自尊心を高め合えるような人と付き合えるように頑張って下さい。

あなたが向き合うべきは罪悪感などではなく、己のエゴ(自尊心の保ち方の歪み)だと思います。あなたは恋愛の問題にフォーカスしていますが、あなたの問題はエゴに埋没していて己の愛を育てられていないがゆえに自尊心が下がっていて、人間関係全般がうまく行かず、交際相手を見下しつつそれを救おうとしている自分の方が上の存在であると優越感を感じることによって何とか自尊心を満たそうとしていることが問題なのだと思います。

鬱というのはエゴに埋没する病気なのですが、鬱の人はだいたいその「自分はエゴに埋没している」という自覚もないのです。エゴは欲だけではなく「いつも自分の殻に閉じこもって自分のことばかり考え、他人を心から思いやる慈愛がない」というのもエゴであり、鬱の人というのはそれを自覚してないのです。そしてその自分の歪んだエゴに都合よく物事を捻じ曲げて解釈する癖が強く、当然それも自覚していません。それで他人を無自覚・無神経に傷つけて傷つけ返され、人間関係がうまくいかなくなって鬱を悪化させる悪循環にハマるのです。もちろん僕もかつて鬱の頃はそうでした。

あなたは鬱になる人に共通の考え方をしています。その一つは「①原因を見つければ問題を解決できる」という考え方です。

例えば野球の下手な少年が、自分が下手な原因を分析することで上手くなると思いますか?まだ下手な状態な人が自分が下手である原因を分析したところでわかるわけがないんですね。わからないからこそ下手なのですから。実際、あなたは自分を責めて落ち込みつつも自分の何を改善すべきかを具体的には一つも分析できておらず、自尊心を保つために「自分は世間的には間違ったことは何もしていない」と勝手に世間をバックにして自己正当化し、結局は全部元彼女のせいにしています。それで成長はあり得ません。

どうしてうまくいかないのか(何が原因か)?という仮説を立ててそれを実証するのに手間と時間をかけていればどんどんダメになっていくのは必然なのです。そしてそんなことをしていれば自尊心は下がり続け、ネガティブな気持ち・考え方になってネガティブな経験を引き寄せて何をやってもうまくいかず、結局は自分に才能がないせいにして「どうせ自分はダメだ」と諦め、それでも自尊心を保つ為に他人や環境のせいにして被害妄想に陥って、自己成長を怠るようになるのが目に見えています。

鬱状態のあなたには反省してはいけないの内容が全く伝わってないようなのですが、あなたはまさにそこに書いたように、うまくいかない原因を求める⇒「〇〇が悪い」と結論付けてとりあえず論理的にはスッキリする(誤った問題解決方法)⇒自分や相手の非を心の中で責めて罰を与えるようにイジメる⇒自分と相手の自尊心が下がる⇒「どうせ〇〇なんて」と考えて思考も行動もネガティブになり、益々悪い出来事を引き寄せる、という悪循環を繰り返しているんですね。

だからダメな原因を探そうとすることではなく、どうやったらその課題を乗り越えられるかという仮説をポジティブに考え・実践し・試行錯誤を繰り返していくことが大事なのです。例え自分の立てた仮説が間違っていたとしても、試行錯誤の間に成長し、いつかは必ずうまくいくのです。そうして以前より成長したら、かつて自分がうまくいかなかった原因などは必然的に見えてくるのです。

そしてもう一つの鬱になるの人に共通の考え方は「②自分自身であればいくらイジメても構わない」という考え方です。これは本当に典型的であり、あなたにもその傾向が顕著に見受けられます。しかしそれは存在の全てである創造主の視点で見れば右手が左手をイジメるようなものであり、自分をイジメるのも他人をイジメるのも同じことなのです。自分という存在を自分の所有物のように考え「自分のものだからどのように扱っても構わない」という、本当の所有者である創造主から見ればあまりにも不遜な考えを持つから自分をイジメるのであり、そういう考え方が最終的には自殺という不幸に繋がっていくのでしょう(自殺は殺人です)。

あなたがもし著名な演奏家で数億円するストラディバリウスのような高級な楽器を貸与されて毎日取り扱う立場にあったら、それはそれは傷つけないように大事に扱うでしょう。しかしもし「そのストラディバリウスをタダであげるから明日臓器提供の為に死んで欲しい」と頼まれたらあなたは死にますか?つまりあなたはどんな高級な楽器よりも価値のある「自分」を無償で貸与されながら、少しも感謝せず大事に扱わずに平気で傷つけているということです。そして自分の価値がわからず大切にできない人が、他人の価値を理解して大切にできるわけがありませんから、きっと他人のことも無自覚に傷つけてきたのでしょう。それで恋愛も何も人間関係がうまくいくわけないのです。

そしてもう一つ鬱になる人の考え方の特徴は「③自分が変わろうとせず、相手側を変えようとする」です。まぁこれは鬱の人に限らず人間関係がうまく行かない人のほぼ全員に当てはまるものですが。人生というRPGにおいて、全ての問題は自分という主人公の成長のためにクリエイターから与えられている課題であり、相手を鏡として自分の課題に気づかせるためにクリエイターがその人と出会わせてくれているのに、相手の問題は相手が解決すべき問題と考え、相手側を変えようとするのですね。それでアドバイスしたり説教したり批判したりして反発されて人間関係がうまくいかくなるのです。そのように相手側を変えようとするのはNPC(ノンプレイキャラクター)思考の最たるものです。人生というRPGが「主人公である自分の成長の物語である」ということを全く理解しないんですね。

<メシア(主人公)救世三原則>
1.指摘せず気づかせる(傷つけない)
2.教えず覚らせる(相手に答えを出させるよう誘導する)
3.自らの学びとする(自分が実践して背中で語る)

>前向きになれそうな提案はほとんど否定されるような状態
相手も相手の人生というRPGのプレイヤー(主人公)なのであり、何事も「経験して知るために」このRPG世界にプレイヤーとしてログインして(生まれて)きているのです。それで自分がプレイしている時に、頼んでもないのに横から色々答えを提案されたら心が反発するのは当たり前です。あなたの元彼女はあなたに気持ちを分かって欲しかった・共有したかったのであって、改善策を求めていたのではないと思います。

どんなに鬱でネガティブな人も、そのネガティブな考え方を「正しい」と思っているからこそネガティブなのであり、それに対してあなたがポジティブなことを言えば、それは相手からは「自分(の存在)を否定されている」と受け止められ、傷けて反発され、あなたも否定され傷つけ返されるループにハマるのは当然なのです。それは無意識の自己防衛であり、溺れてる人が助けに来てくれた人を(悪意なく無意識に)沈めてしまうのと同じです。

鬱の人がネガティブなことを言うのは猫が「ニャー」と鳴くぐらい自然なことであり、それに対してポジティブになるような提案をするというのは猫に「ワン」と鳴くように提案するぐらいに無意味であり、それではお互いストレスになって関係性がうまく行くわけがありません。それは今風邪をひいている人に「咳をするな」と言うようなもので、思いやりがなく無慈悲なのです。今溺れている人に泳ぎ方を提案して意味あるでしょうか?


ましてあなた自身が明らかに鬱でネガティブな段階にあって、その「前向きになれそうな提案」を自分でも実践できていないのは自明なのですから、余計に相手から反発されるのは至極当り前なことで、それは相手の鬱の炎に油を注ぐようなものです。

あなたも相手も本当は全知全能の創造主の分け御霊なのですから、自尊心とやる気さえ取り戻せば、問題の解決方法などは自分でプレイ(試行錯誤)している間に自ら覚るのです。鬱というのは自尊心を病んで心がやさぐれてやる気を失う病気なのですから、どうすれば自分も相手も自尊心が上がってやる気になるか以外考えてはならないのです(それは鬱じゃない人に対しても同じです)。その方法は誰でも自信満々になれる方法と同じですから、ぜひ読んでみて下さい。


まずはあなたが人と会ったら心から嬉しいと感じて、心から笑顔になるように考え方を変えることです。相手は人生の共演者なのですから、悪役だろうと端役だろうと肯定的に受け入れて、物語を一緒に紡いでくれることに感謝することです。その感謝を示すのに心からの笑顔で挨拶するなんていうのはごく当たり前のことです。それによって相手は「この人から私は存在を肯定されている」と心で感じて自尊心とやる気を取り戻すのです。


あなたは自分の元彼女を「魅力的ではない」なんて見下しているぐらいですから、きっと元彼女と会う度に心からの笑顔で嬉しそうにしていたのではないでしょう。それが元彼女の自尊心をたくさん傷つけていたと思います。だから元彼女もきっとあなたと会う時に笑顔ではなかったのだと思います。だからあなたの自尊心は「自分はこんな魅力のない人としか付き合えないのだろうか?(早く次を見つけて別れたい)」という感じで下がったのではないでしょうか?人間関係は本当に鏡なのです。元彼女にとってあなたは自尊心を下げる原因になっていたのですから、別れたら「もう会いたくない」と思われて当然です。

そしてもう一つ大切なことは、相手の話を一切否定せず肯定的に聞いて同情・共感できるようになることです。

あなたは男性ですから当然「問題解決型」の脳をしていて、「どうやったら問題を解決できるか?」という姿勢でしか人の話を聞けないのでしょう。だから「気持ちを理解して欲しい」という女性に対して余計な提案なんてして、相手を否定し傷つけることになってしまうのですね。

相手の話を聞く時には「相手に心から同情・共感する(同じ気持ちを味わう)」ということに主眼を置いて下さい。相手の話を一切否定せず、余計な提案やアドバイスなどもせず、ただただその気持ちに寄り添うのです。そうやって相手と経験・感情を共有して下さい。問題は解決しなくていいに書いた通り、そこにこそ魂の成長があるのであり、それが人生の価値なのです。そうして気持ちがわかってもらえた相手はきっと人生のやる気を取り戻し、きっと自分で問題を乗り越えて行くでしょう。


男性は特に「相手の話を肯定的に聞く」というのを「相手の意見に自分が従うこと」みたいに考えるから、ただ相手の意見が気に入らないってだけでケンカになり、嫌い合い避け合うようになったりして、お互いに存在そのものまで否定し合うようになってしまうのでしょう。日常会話というのは裁判(どちらが正しいかを争う戦い)ではないのです。「同情・共感する」というのは相手と同じ目線に立って同じ感情を味わうということであり、「あなたはそのような経験をしてそのような気持ちになったのですね。私は同じ経験をしていないのであなたの意見には同意しかねますが(ここは言わなくて良いです)、あなたのその気持ちは良くわかります」という感じで心から同情・共感を示すいうことです。

相手と目線を同じにするには、あらゆる想像力を駆使し、相手ことを自分自身の過去世や未来世であるかのように考えることです。実際僕らの魂は同源であり、全く同じ条件で同じ経験をすれば当然同じ感情・同じ考え方・同じ行動になるのです。「自分だったら絶対そうしない」などと考えるのは単に想像力の不足であり、同じ目線には立てていないということなのです。


鬱の人はネガティブですから当然こちらを否定するようなことを言ってくるわけですが、それに対していちいち傷つき腹を立てて自己正当化のために相手を否定していたら、戦争ループ状態になるのは必然です。そしてネガティブの波動共鳴が起きてどんどん関係性が破滅に向かっていき、例えその場の議論に勝っても愛を失うだけなのです(勝者なき虚しい戦いです)。そのように自分や相手に対する愛(思いやり)よりも正義(何が正しいか・何が悪いかの判断)を優先して、自分も相手も責めていることが人間の不幸の元凶(カルマ・課題)なのです。

だから常に正義よりも愛を優先して下さい。どっちが正しいかよりも思いやりを優先して下さい。ネガティブなことを言ってこちらを否定してくる相手もやんわりと受け止めてあげて、その「ネガティブな気持ち」「他人を否定したくなる気持ち」に同情するのです。それは特に問題解決型の脳をしている男性にはかなり忍耐の要る修行なのですが、人生は修行なのですから正面から立ち向かう以外にありません。相手にもそのようなネガティブな考え方・性格になるだけのやむにやまれぬ事情(歴史、傷⇒自己防衛)があるのですから、そこに対する同情なしに相手を救うことはできないのです。

>愛すと決めたはずなのに自分のエゴで彼女に寄り添いきれていなかった
それを悔いているのなら、自分を責めて落ち込んで罪悪感と感傷に浸るのではなく(それもエゴです)、今回の学びを生かして、これからはちゃんと相手の存在に感謝して心からの笑顔で接し、相手の話(存在)を否定せずに同情的・共感的に聞ける人になって下さいね。そしてそれを最初からうまくできないからといってすぐ「自分はダメだ」と勝手に結論づけて諦めないで下さいね。カルマ(課題)というのは逃げれば逃げるほど雪だるま式に大きくなりながら追いかけて来ますから。うまくできない今の自分も許しながら少しずつ上達していけばいいのです。

>人の心を、魂を踏みつけにして見捨てた罪
自分イジメは鬱の時なら誰でもやりがちで、もちろん僕にも経験があるのでよくわかります。ただあなたは別に何の悪気もなく「彼女と関係がどうしてもうまくいかなくなって別れた」というだけなのに、そこまで大げさに自分を責めて見せるのは、いくらあなたが鬱状態だとしてもかなり不自然です。そしてあなたは自分を責める割には具体的に自分の何が悪かったのかは一切わかっておらず、「元彼女がこんなにも理不尽だった」ということばかりを詳細に書いて、自分は被害者であるかのように主張して自己正当化しています。

それはあなたが悲劇に酔いつつ「自分は善良な人間だからこそ、悪いのは相手なのにこんなにも自責の念で苦しんでいるのだ」ということで自尊心を守り、また先回りして自分を責めることで相手の慰めを期待しているように見えてしまいます。そういう自分イジメも「歪んだナルシシズム」であり、エゴなのではないかと僕は思うのです。そしてそのエゴこそがあなたが最も立ち向かうべきものでしょう。


>結婚前の男女の関係なので継続するもしないも選択は自由なので
もちろんあなたや僕が言うまでもなく、恋愛関係というのは家族・保護者の立場ではありませんから、最後まで面倒を見るような責任などありません。男女の仲は常に50%&50%です。

それゆえ恋愛における別れというのは「愛し合う=心配し合い・助け合う」という権利の放棄であり、それは縁の糸(世界線)を断ち切ったということです。坂本冬美の「夜桜お七」じゃないですが、基本的に恋愛の別れは死別と同じかと思います。あなたにはもうその元彼女を心配する権利はなく、例え自殺していたとしてもそれを自分のせいだと考える権利もありません。恋愛の別れとはそういうものなのです。だから完全に気持ちが切れるまで手を放してはいけませんし、手を放したらもうその人の現状を心配するのはキッパリやめるべきです。

もし元彼女の方から連絡先を変えてあなたに連絡がない状態なのなら、その時点で元彼女側はもう既に切り替えが済んでいるということであり、あなたの物語からはもう卒業したということなのでしょう。まだ自分の人生のシナリオ上必要な相手なら必ず何かしらの絡みが生じますからね。

もしそれが辛いと感じてあなたがいつまでもその過去にこだわっているのなら、鬱で相手に依存していたのはむしろあなたの方だったということでしょう。そして恐らく鬱状態のあなたは自信がなくて新しい彼女ができないために、元彼女(初めてできた彼女?)を別れた後もまだ自尊心の糧にしようとしていて、「元彼女にはまだ自分への未練・依存心があるに違いない・あって欲しい」と思っているのに、元彼女の方から連絡先を変えられてキッパリと連絡を取られなくなったことに傷つき、その傷を罪悪感に転嫁するために、そんなにも大げさな表現で「自分はこんなに罪悪感に苦しんでいるのだ」と主張して自らそう思い込もうとしているのではないかと思います。そして元彼女がいなくなれば自分の問題は解決されてラクになれると思ったのに、全く解決されていなくて苦しいから、その苦しみを元彼女への罪悪感ということにしているのでしょう。もしそうならそれはとても自然なことだと思いますし、僕にも似た経験がありますのでお気持ちはとても良くわかります。

感情というのは論理では割り切れないように創られているのであり、だからこそ感情には存在意義があるのです。苦しみは時間が解決してくれますが、逆にまだ時間が経たないうちに苦しみから逃れる術はないのです。僕らは感情を経験するために生まれてきているのですから、今の段階で何か論理的に結論を出して無理に気持ちを整理しようとしたり変に胡麻化そうとするのではなく、今の苦しい気持ちをしっかり胸に刻んで、他人の苦しみに同情できる優しい人になって下さい。

人間関係はすべからく鏡であり、己のカルマの時間差付き拡大鏡なのです。その時間差と拡大率の高さゆえに「相手は自分とは別の存在である」という分離意識が成立しているのです。あなたは「元彼女と違って家庭環境に問題はない」とか「自分は彼女のせいで精神的に追い詰められたが元々病んではいない」みたいに元彼女と違いを強調していますが、本質的には変わりません。そのように相手と自分は違うと考える分離意識こそが、人間に与えられた無明(愚かさ)なのです。

自分を責める人というのは必ず他人も責めます。それも無自覚に。実際あなたは「自分が悪い事をした」と自分を責めるのと同時に「相手も悪かったのだから仕方なかった」と相手も責めることで罪悪感から逃れて自分を納得させようとしているわけですからね。

自分を責めることと相手を責めることがイコールなのですから、本来は自分を許すことと相手を許すこともイコールなのです。ただ人間にはエゴ(分離意識・自己保存欲求)が与えられているがゆえに、自分が許されるために自分より悪い人を探して蹴落とそうとしてしまうのです。カンダタのように。そして自分の自尊心を保つために相手の自尊心を下げようとしてしまうんです。それこそが人間同士がぶつかりあう理由の根源であり、それは人間に与えられた無明(愚かさ・課題)の最たるものなのです。

自覚がないようですが、あなたは自分のネガティブさ、魅力のなさにコンプレックスがあって、そこから目を伏せるために元彼女に対して「ネガティブで魅力に欠ける」などと考え、常に自分を元彼女より優位において自尊心の糧にし、元彼女と対等に向き合っていなかったのでしょう。別れた後まで「別れを切り出したのは自分」ということで優位を示そうとしていますからね。そういう意識が知らず知らず元彼女の自尊心を下げ、ぶつかりあう原因になっていたんだと思います。人は対等に向き合うことなしに、本当の意味で愛し合うことなどできないのです。

あなたは別れた理由を「元彼女がものすごく理不尽だったせいだ」と考えているようですが、僕に言わせれば理不尽でも何でもなく全てが必然に思えますし、実際この仮想現実世界において必然以外は起こりません。この人生というRPGの世界は一見理不尽に見えることの中に巧妙に真理が隠されているのであり、世の中が最初っから全てが誰でも理解できるような理屈通り・常識通りだったら「真理を見つけて(覚って)成長していく」というゲームは成立しないのです。

あなたは勝手に「世間」という言葉を持ち出し、それをバックにして自分のネガティブな考え方を常識だと思っていますが、それは真理ではなく乗り越えるべき課題なのです。そして本当の真理というのは常にポジティブなもので、自分と他人を同時に幸せにするものであり、誰も幸せにせず誰かを不幸にするようなネガティブな解釈というのはすべからく間違いなのです。

運命への呪いに書いた通り、この世界は魂の成長プログラムであり、成長に反する要素はすべからく不幸に導かれるのが必然なのです。あなたは主に元彼女との関係だけで悩んでいるように解釈しているようですが、恋愛も人間関係の一部であり、その一部に全体が現れているのです。あなたは職場でもプライベートでも人間関係が上手くいってないはずです。共通の友人がいないっていうのはつまり二人とも他に親しい友人がいなかったということでしょう。そして自分の問題を元彼女のせいにしていたのに、元彼女がいなくなっても自分の問題は少しも変わらず追試験のように追いかけてきていて、余計に孤独で退屈になり、元彼女との問題を引き延ばすことで恋愛している気分だけでも延長しようと懸命になっているのでしょう。しかしそれを逆に言えば、元彼女との関係で自分がどう成長すべきかをあなたがしっかりと理解し、改善案を実践し、試行錯誤を繰り返していくのなら、きっと全ての人間関係が上手くようになり、きっと幸せに導かれることでしょう。

バイオハザードでゾンビが出てくるのを自分のせいだと考えて原因分析して自分を責めて落ち込む人はいないでしょう。そしてゾンビになった人やウイルスを開発したアンブレラ社やゲームそのものを作ったカプコンを責めてもゲームは進みません。そこは人生というRPGも同じであり、自分も他人も責めることなく、ただ己の目の前の課題に正面から立ち向かうのみです。


今回あなたのご希望された通りに大分厳しくなってしまい、鬱で落ち込んでいる今のあなたにはキツ過ぎたかも知れませんが、どうぞご容赦下さい。あなたの幸せを心から祈っています。

世界の救い方

【質問】 30代前半・女性 ペンネーム:Tipoo       職業:ピアノ・絵画講師 、アーティスト、フリースクールスタッフ              アヤワスカチャレンジャー 真也さん、こんにちは。 エゴによる悩み苦しみはかなり訂正されてきたんですが、今1つだけ願いがありま...